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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

シャングリラ学園番外編最新作は、こちらv

ハレブル別館
←ハレブル作品へは、こちらからどうぞ。
 2014年より、転生ネタ、連載中ですv


ぶるぅのお部屋
←悪戯っ子な本家ぶるぅのお話へは、こちらから。
 最新のお話は一番下になりますv                  





シャン学アーカイブへようこそ!

こちらではアルト様のサイトにありますシャングリラ学園番外編の続きを連載中です。
最新作へは上のバナーからどうぞ。
基本は 「毎月第3月曜」 更新、 「第1月曜」 にオマケ更新することも…。
オマケ更新は前月に予告いたしますので、お話の最後の御挨拶をチェックなさって下さいv
バックナンバーはこちらの 「タイトル一覧」 から全て見られます。

※上記の 「タイトル一覧」 も含めて、青文字の個所は全てにリンク先有りです




そして、ここはシャングリラ学園シリーズのアーカイブでもあります。
アルト様の特設掲示板で連載しました本編と、只今連載中の番外編、及び「そるじゃぁ・ぶるぅ」誕生秘話とも言うべき『シャングリラのし上がり日記』が置いてあります。

こちらの閲覧方法ですが、下記に「タイトル一覧」への御案内がございます。
シリーズごとに設置してありますので、アーカイブへはそちらからお出かけ下さい。
「とりあえずサクッと解説を!」な方はこちらへどうぞ→シャングリラ学園・解説編

また、アルト様が書いて下さった「ぶるぅのお話」及びシャングリラ学園番外編とのコラボ作品が幾つかございます。
そちらは「アルト様からの頂き物」として収録させて頂きましたv
クリックでタイトル一覧に飛びますので、そこから御覧下さいませ。
 


各シリーズの中のお話については「タイトル一覧」で簡単な解説をつけてあります。
タイトルをクリックで本文に飛べますから、御自由に散策なさって下さいv
ただ、ブログの構造上、「全3話分などを一括表示」が出来ません。
お手数をおかけしますが、一番下までスクロールして2話目、3話目と移動をお願いします~。


重要なオリキャラ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」を御存知ない、と仰る方は→こちらをクリック 


シャングリラのし上がり日記』←クリックで「タイトル一覧」に飛べます。


アルト様の2007年クリスマス企画掲示板での連載作品。
成人検査に脱落し、シャングリラに拾われ…な日記であります。
ひたすらバカなお気楽コメディ。

なお、完結後の番外編としてブルー生存EDがあります。
赤い瞳 青い星」がそれですv

 


シャングリラ学園・本編』←クリックで「タイトル一覧」に飛べます。


普通の学生としてシャングリラ学園で3年間を過ごす…筈だったのですが。
入学早々、大変なことになってしまいます。
サイオンに目覚め、一度卒業して特別生になるまでの間に起こるドタバタ。
こればっかりは「順番に読んでみて下さい」としか言えません、というほど実は伏線だらけのお話だったり…。
そこで「細かいことはどうでもいいから外せないポイントを!」な方へのオススメをば。


入学式」と「クラス発表」。シャン学の仲間たちが集結です。
夏休み」第1話。キース君の家はお寺だった! しかも生徒会長が実は高僧?
二学期始業式」。教頭先生の紅白縞トランクスの由来が此処に…。
二学期終業式」第2話&第3話。生徒会長の過去が語られます。
冬休み」第1話。シャン学のみんながサイオン持ちな事実が明らかに。
三学期始業式」第3話。ドクター・ノルディが初登場です。
卒業旅行」第3話。グレイブ先生とミシェル先生の結婚式。
就職活動」全3話。シャングリラ号に乗り込み、特別生として再入学!

 


シャングリラ学園・番外編』←クリックで「タイトル一覧」に飛べます。


本編終了後、特別生として再びシャングリラ学園に入学を果たしたジョミー君たち。
出席義務すら無いと言われる特別生のお気楽な学園ライフです。
そこへ別の世界のシャングリラ号から生徒会長のそっくりさんが乱入してきて…。
登場人物が増えた分、本編以上にカオスと化した番外編。
完結しておりますが、その後も何故か現在進行形で連載中ですv



シャングリラ学園・場外編

こちらはブログ『シャングリラ学園生徒会室』にて毎日更新で連載中です。
シャングリラ学園の本編と番外編でお馴染みのメンバーのお気楽、極楽、学園ライフ。
番外編との繋がりは無く、季節ネタをメインに勝手気ままに綴っております。
「もはや文章とも言えない」形式での連載ですが、「1日1分で読める」が売りです。



シャングリラ学園シリーズ豆知識
御存知なくても全く問題ございません。
書き出してみれば大部分がお寺と坊主ネタでした。文字通り『寺へ…』という世界です。
そもそもブルー生徒会長の正体が「ソルジャーで高僧」な段階からして間違っています(笑)








 

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(大人用の滑り台…)
 そんなのあるんだ、とブルーが眺めた新聞。学校から帰って、おやつの時間に目に付いた。
 滑り台は子供たちのための遊具の定番、公園には置いてあるものだけれど。大勢の子供が順番を待つ日もあるほどだけれど、大人の姿は滅多に見掛けない。
 もしも大人がいたとしたなら、小さな子供を膝の上に乗せて滑るため。幼い子供は、落っこちることもあるものだから。滑る途中で外に落ちたり、滑り降りた所で放り出されたり。
 そうならないよう、大人が一緒に滑ってやる。子供をしっかり抱えてやって。
 けれど新聞に載っているのは、大人用に出来た滑り台。公園にあるような遊具とは違う。
(ホントに本物…)
 大人用だ、と頷かざるを得ないもの。写真付きで幾つも紹介されている滑り台。一番上のは山の斜面を利用したもの。殆ど直線、真っ直ぐに滑り降りる山。自分の足で下りる代わりに。
 他にも色々な滑り台の写真、「子供時代に戻れそうですね」という紹介文。滑り台で遊んだ頃の幼い自分に戻れる遊具。それが大人用の滑り台。
(ぼくはまだ、子供なんだけど…)
 公園の滑り台では遊ばなくても、十四歳なら子供の内。大人よりはずっと小さい身体。その気になったら子供用の滑り台でも充分、遊べる。子連れの大人も滑るのだから。
 それに新聞に載せられた写真。山を一気に滑り降りるのも、他のタイプも、子供用のより遥かに長い滑る距離。角度も急なものが多いし、何度も曲がりくねっている滑り台も。
 こんな滑り台、怖くて滑れそうにない、と思いながらも説明文を興味津々で読み進めたら…。
(二人乗り禁止…)
 そう書かれていた、チューブ型をした滑り台。強化ガラスで出来ているのか、透明なチューブ。滑ってゆくのはチューブの中で、七階建ての高さがあるという。チューブの一番上の所は。
 其処から下の地面に向かって、螺旋状になっているチューブ。くるくると何度も回って滑って、地面に着くまでチューブの中。
(どんどんスピードがついちゃうんだから…)
 透明なガラスの外の景色を楽しむ余裕は無いらしい。くるくる回ってゆくだけで。下へ下へと、ぐんぐん滑ってゆくだけで。
 その滑り台は二人乗り禁止。チューブ型になっているからだろうか。他のと違って。



 わざわざ書かれた「二人乗り禁止」の注意書き。チューブ型をした滑り台の説明文だけに。
(禁止って書いてあるんだから…)
 きっと他のは二人乗りをしてもいいのだろう。山の斜面を真っ直ぐ滑ってゆく滑り台も、何度も急なカーブを曲がって長い距離を滑ってゆくものも。
 公園にある滑り台で見かける二人乗り。幼い子供を膝に乗っけた大人もそうだし、子供が二人で滑るのもある。友達の膝に乗った形で、二人一緒に。
(小さかった頃に…)
 友達がやっているのを見ていた。公園でも、幼稚園にあった滑り台でも。二人同時に滑り始めて歓声を上げていた友達。それは楽しそうに。
 幼かった自分は、怖くてやらなかったのだけれど。一人なら上手に滑れるけれども、二人乗りの方は自信が無かった。下に着いたら放り出されそうで、転んで泣き出してしまいそうで。
 その二人乗りが出来るらしいのが、大人用だという滑り台。チューブ型だと禁止だけれど。
(…ハーレイと二人で滑るんだったら、平気かな?)
 幼かった頃の友達よりも、ずっと頼りになるのがハーレイ。あの強い腕で抱えてくれるし、下に着いても放り出されはしないだろう。ハーレイが両足で踏ん張ってくれて、きちんと着地。
(うんとスピードがついていたって、ハーレイだったら大丈夫だよね?)
 二人揃って放り出されても、ハーレイが守ってくれると思う。地面に転がらないように。落ちて痛い目に遭わないように。
 そういえば、子供時代に両親と出掛けたプールで見ていた。お父さんの膝の上に座って、颯爽とプールに滑ってゆく子供たち。プールに繋がる滑り台の上を、楽しそうな声を上げながら。
 滑り降りたらプールが待っているから、派手に上がった水飛沫。お父さんと子供の二人分。
(パパに「滑るか?」って誘われたけど…)
 やっぱり怖くて遠慮した。公園のよりもずっと大きな滑り台。おまけに下はプールだから。
 でも、大人用の滑り台を知った今だったら…。
(ハーレイと滑ってみたいかも…)
 そんな気持ちになってきた。ハーレイと二人乗りで滑ってゆきたい気分。人生初の二人乗り。
 いつかデートに行けるようになったら、滑ってみるのも悪くない。ハーレイだったら安心できる二人乗り。放り出されてしまいはしなくて、痛い思いもしないだろうから。



 ちょっといいよね、と思う大人用の滑り台。子供用のよりも長い距離を滑る、なんだか怖そうな滑り台ではあるけれど…。
(もしかしたら、デートに人気なのかもね?)
 大人が二人乗りをするなら、デートの時にも使えそう。女性だけなら「怖くて無理!」と悲鳴を上げる所を、エスコートする男性たち。「一緒に滑れば怖くないから」と。
 そうして二人で滑り降りたら、女性の目には頼もしく映る自分の恋人。しっかり支えて、下まで守ってくれたのだから。凄いスピードで滑る間も、ゴールで地面に着いた時にも。
 きっとそうだ、と考えながら戻った二階の自分の部屋。新聞を閉じて、空のカップやお皿を母の所に返した後で。
(デート用に作ったヤツじゃなくても…)
 恋人同士で二人乗りをすれば素敵だよね、と夢が膨らむ滑り台。子供用ではなくて、大人用。
 勉強机の前に座って、さっきの記事を思い出す。チューブ型は二人乗り禁止だけれども、他のはどれも出来そうだから。ハーレイと一緒に出掛けて行ったら、人生初の二人乗りが。
(ハーレイが来たら、頼んじゃおうっと!)
 いつか大人用の滑り台を二人で滑ること。ハーレイの膝に乗せて貰って二人乗り。どんなに急な角度だろうが、曲がりくねって降りてゆこうが、ハーレイと一緒なら大丈夫。
(怖くなっても、ハーレイと一緒…)
 ハーレイの腕が支えてくれていたなら、直ぐに消えるだろう怖さ。「一人じゃないよ」と、強い腕をキュッと掴んだりして。「ハーレイと一緒」と、腕の温もりを確かめて。
 それにハーレイの膝の上なら、背中にもきっと確かな温もり。包み込んでくれているハーレイの身体。膝の上の恋人を離さないよう、けして落としてしまわないよう。
(子供同士の二人乗りとは違うものね?)
 とても頼りになるハーレイ。そのハーレイと滑らない手はないだろう。大人用に出来ている滑り台。仕事の帰りに寄ってくれたら、早速、注文しなくては。「行ってみたいよ」と。
 今日は訪ねて来てくれなければ、「滑り台」とメモに書いておく。それだけだったら、母が目にしても掴めない意味。「滑り台って、何のことかしら?」と思うだけ。
 まさかデートだと気付きはしないし、ハーレイに頼める日がやって来るまでメモを一枚。とても素敵なデートの計画、それをリクエストしないなんて考えられないから。



 二人で滑り台に行くんだものね、と大きく夢を描いていたら、聞こえたチャイム。大人用の滑り台に行こうと頼みたい恋人、ハーレイが仕事の帰りに来てくれたから、高鳴った胸。
 早くハーレイに頼まなくちゃ、とテーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。滑り台のこと。
「あのね、ハーレイ…。ぼくを滑り台に連れてってくれる?」
 今じゃなくって、もっと大きくなってから。…ハーレイと出掛けられるようになったら。
「はあ? 滑り台だって…?」
 公園のか、と訊き返された。何処の公園にも滑り台はあるし、公園に行ってみたいのかと。
「そうじゃなくって、もっと大きな滑り台だよ。公園にあるのとは比べられないくらいにね」
 大人用の滑り台が幾つもあるんだって。今日の新聞に記事が載ってて、山の斜面を真っ直ぐ滑り降りるヤツとか、くねくね曲がって降りてゆくのとか…。ホントに色々。
 二人乗りは禁止っていうのも載っていたから、それ以外のはきっと二人乗りでも大丈夫。
 だから、二人乗りが出来る滑り台に行ってみたいんだけど…。
 連れて行ってよ、と頼んだデート。大人用に出来ている滑り台を、ハーレイの膝に座って滑ってみたいから。後ろからしっかり抱えて貰って、ぐんぐんスピードがついてゆく中を。
「大人用の滑り台で二人乗りなあ…。要するに、滑り台でデートってか?」
 出掛けるカップルも多いからな、と微笑むハーレイ。「新聞に書いてあったのか?」と。
「デートのことは載っていなかったけれど…。あれってやっぱり、デート用だったの?」
 二人乗りをするためにあるの、と確かめてみた。子供の心に戻って楽しむ人より、デートに行く人が多いのだろうか、と。…二人乗りは禁止の場所はともかく。
「そういうわけでもないんだが…。少ないってこともない筈だぞ」
 お前が記事で読んだ通りに、二人乗り禁止のヤツもあるから、純粋に楽しむ人だって多い。子供時代に帰ったみたいに、上から下まで滑ってな。
 しかし、デートに使うヤツらも多いんだ。それを狙って、途中で合流できるタイプもあるから。
 別々の場所から滑り始めて、タイミングが合えばちゃんと出会える。滑り台の途中で。
 運試しだな、と教えて貰った滑り台。恋人同士が其処で出会えば、続きは二人乗りで降りたり。
「合流できるヤツもあるんだ…」
 その滑り台なら、本当にデートにピッタリだよね。
 上手く出会えて二人一緒に滑って行けたら、とても息の合うカップルってことになるんだもの。



 色々なのがあるらしい、と思った大人用の滑り台。新聞に載っていた滑り台の他にも。その上、デートに使うカップルも多いのだったら、是非ハーレイと出掛けなければ。
「滑り台…。デート用なら、ホントにハーレイと行ってみたいな」
 今は無理だけど、前のぼくと同じ背丈になるまで育ったら。ハーレイと一緒に滑り台でデート。
 連れて行ってよ、と強請ってみた。ハーレイと二人で行ってみたくて、メモまで書こうと思ったくらいなのだから。ウッカリ忘れてしまわないように。
「大人用に出来てる滑り台なあ…。あれもなかなか凄そうではある。俺は経験してないが」
 男ばかりでワイワイ出掛けて、滑ってるヤツも多いんだ。なにしろ大人用だしな?
 度胸試しと呼ぶのが丁度いいような、とんでもない滑り台も幾つもあるもんだから。山の上から下までにしても、急な角度で一気に滑り降りるヤツだと、スリリングだろうが。
 途中で何度も止まりながら降りてゆくなら別だが、と挙げられた例。自分でブレーキをかけない限りは、ぐんぐん上がってゆく速度。終点が近付いて、傾斜が緩やかになるまでは。
「そうみたいだけど…。怖そうなのも多かったんだけど…」
 ハーレイと一緒に行くんだったら、そういうヤツでも平気かな、って。…二人乗りなら。
 膝の上に乗せて貰って滑るんだったら、ハーレイ、支えてくれるでしょ。ぼくがブルブル震えていたって、ギュッと抱き締めてくれたりして。…ぼくを背中から。
 ぼく、一回も二人乗りをしたことがなくって…。滑り台は何度も滑ったのにね。
 ホントに一度もやっていないよ、と白状した。「怖そうだったから、見ていただけ」と。
「そうなのか? 友達同士でやるんだったら、それも分かるが…」
 子供同士の二人乗りだと、相棒はアテにならんしな。滑り降りた途端に団子になって、二人ともコロコロ転がっちまうのはよくあることだ。お前も多分、それを何度も見たんだろう。
 だからだ、子供同士でやっていないというのは分かるんだが…。お父さんともやってないのか?
 本当にただの一度も無いのか、と尋ねられたから頷いた。
「覚えてないほど小さい頃なら、やっていたかもしれないけれど…。ママとだって。でも…」
 小さい頃にね、プールに行ったら滑り台があって…。滑って行ったらプールに落ちるヤツ。
 「滑らないか?」ってパパに誘われたけれど、怖そうだから逃げちゃった…。
 だってプールに落っこちるんだよ、滑った後は。凄い水飛沫が上がるんだから。



 凄い速さで水の中に落ちてゆくなんて…、と怖かった幼かった頃。楽しそうに滑る他の子たちが英雄に見えた。プールにザブンと突っ込んだって、誰もが笑顔だったのだから。
「今のお前なら、そうなるのかもしれないなあ…。お父さんが側についていたって」
 滑るのも怖くて、滑り降りた後に突っ込むプールも怖かった、と。
 ごくごく普通の滑り台でも、二人乗りが駄目な子供だったんだし…。プールのはもっと恐ろしく見えても仕方ないよな、大きくてスピードも出るヤツだから。
 お前、前のお前よりもずっと弱虫になっちまってるし、滑り台でも怖いんだなあ…。
 二人乗りだの、プールについてる滑り台だのが…、とハーレイは可笑しそうな顔。ソルジャーと呼ばれていた筈なのにと、「ソルジャー・ブルーは、今でも英雄なんだがな?」と。
「うん…。前のぼくなら、滑り台は怖くなかったよ、きっと」
 子供時代の記憶は失くしてしまっていたから、小さかった頃のことまでは分からないけれど…。
 今のぼくとそっくりだった頃でも、滑り台くらいはホントに平気。どんなヤツでも。
 ハーレイに頼んで二人乗りをしなくても、一人で滑って行けたと思うよ。度胸試しをするような凄い角度の滑り台でも。うんと高くから、凄い速さで滑るヤツでも。
 前のぼくなら、スピードも高さも気にしないもの。空を飛んでたくらいだから。
 ジョミーを追い掛けて衛星軌道まで昇っていたって怖くなかった、と今も鮮やかに思い出せる。足の下には何も無くても、恐ろしさを感じはしなかった。落ちたら死ぬような高さでも。其処まで空を駆けてゆく時、凄い速さで飛んでいたって。
「前のお前か…。チビの頃から凄かったんだが、つくづく弱くなったな、お前」
 俺と初めて出会った時には、今と変わらん姿だったが…。チビの子供だと思い込んだくらいに。
 それでも強くて、メギドの炎で燃えてる中でも走ってたくせに…。今のお前とは大違いだ。
 今のお前が怖がってるのは、たかだか滑り台だろうが…、って、また滑り台か。
 滑り台なあ…、とハーレイは顎に手を当てた。「滑り台とも縁が深いようだ」と。
「え? 滑り台って…?」
 縁が深いってどういうことなの、ぼく、滑り台の話をしたっけ…?
 大人用の滑り台じゃなくって、公園とかにある滑り台。ハーレイと何か話をしてた…?
 いつかデートで滑りに行こう、って約束したとか、そういうので…?



 あったかな、と探ってみる記憶。ブランコだったら誘ったけれども、滑り台の方はどうだろう?
 公園にある滑り台では、滅多に見掛けない大人。いたとしたなら子供の付き添い、二人乗りして滑ってゆくだけ。滑り台と言えばそういうものだし、ハーレイと行きたいと思うだろうか…?
 誘うとは思えないけれど…、と自分でもまるで分からない。どうして縁が深いというのか、また滑り台だと言われるのか。
 そうしたら…。
「滑り台の話を俺にしたのは、お前だ、お前。間違いなくお前なんだがな…」
 お前ではなくて、前のお前の方だった。滑り台だ、と言い出したんだ。前の俺にな。
 覚えてないか、と訊かれた滑り台のこと。白いシャングリラでの話だというから、ますます謎が深まった。今ならともかく、前の自分が生きた頃。おまけに白い鯨だなんて、と。
「あのシャングリラで滑り台って…。そんなの、何処にあったっけ?」
 色々な設備があった船だけど、大人用の滑り台なんかは覚えてないよ。無かったんじゃないの?
 それとも、ぼくが忘れてるだけで、船の何処かにあったのかな…?
 誰かが作った滑り台、とハーレイに疑問をぶつけてみた。ハーレイは覚えている滑り台。何処にあったか、誰が作った滑り台のことを言っているのかと。
「勘違いするなよ、俺は滑り台としか言っていないぞ。大人用だとは言わなかったが…?」
 シャングリラにそんな粋な遊具は無かったな。大人用の滑り台なんかは誰も作っちゃいない。
 大人用のがあるわけがないが、子供用ならあっただろうが。ごくごく普通の滑り台がな。今でも幼稚園とかに置いてる、屋内用の小さなヤツ。
 養育部門にあった筈だぞ、とハーレイが挙げた滑り台。それなら自分の記憶にもある。鮮やかな色で塗られた、小さな子たちに人気の遊具。いつも順番待ちだったっけ、と。
「小さいの…。それなら覚えているけれど…」
 あれと前のぼくがどう繋がるわけ、ぼくは滑り台で遊んでいないよ?
 子供たちが並んで順番を待っているのに、ソルジャーが一緒に並んじゃったら可哀想じゃない。
 順番が回るのが遅くなるよ、と前の自分の記憶を辿る。滑り台で遊んではいない、と。
「それはそうだが、お前、子供たちとよく遊んでいたから…」
 ソルジャーの仕事は多くないしな、養育部門で子供たちと遊ぶのを仕事代わりにしてただろう?
 そいつが問題だったんだ。毎日のように通っていたなら、色々な遊びを覚えちまうから…。



 二人乗りもその一つなんだ、とハーレイが口にした言葉。さっき頼んでいた二人乗り。大人用の滑り台でしたいと、今のハーレイに今の自分が。
「前のお前も、二人乗りってヤツを見ちまったわけだ。養育部門にあった滑り台で」
 船に来た子たちは、外の世界で遊んでいたのと同じように遊ぶわけだから…。船で新しく出来た友達と、昔から一緒だった友達みたいに。
 そうやって誰かが持ち込んだんだな、滑り台でやる二人乗りを。一人で滑るより楽しいから、と船に前からいた誰かを誘って。「一緒に滑ろう」と声を掛けて。
 そんな具合に始まったんだ、と聞かされた二人乗りのこと。養育部門にいた子供たちが、ある日始めた滑り台を二人で滑り降りる遊び。
「思い出した…! 最初にやったの、誰だったのかは覚えてないけど…」
 ぼくが遊びに行った時には、すっかり人気になってたんだよ。二人一緒に滑り降りるのが。
 ヒルマンが「怪我をしないように気を付けなさい」って注意してたけど、みんな知らんぷり。
 二人で滑るのはとても楽しいから、注意なんか聞きもしなくって…。下まで滑って、止まれない子もいたけれど…。コロンと転がったりもしていたけれども、それでも誰もやめないんだよ。
 よっぽど楽しかったんだね、と子供たちの笑顔が蘇る。大はしゃぎだった子供たち。二人乗りで滑って床にコロコロ転がっていても、懲りずに滑り台の列に並んで、また二人乗り。
 幼かった自分も何処かで滑っていただろうか、と考えたのが始まりだった。滑り台で二人乗りをするということ。一人で滑ってゆくのではなくて、二人で一組。
 養父母の家で暮らした頃には、自分も友達とあんな風に滑っていたのかも、と。
 滑り台を一緒に滑った友達。二人で列にきちんと並んで、順番が来たら二人乗り。一緒に滑って下に着いたら転がったりして、滑り台を楽しんでいただろうか、と。
(でも、友達の記憶は無くって…)
 何も覚えていなかった自分。子供時代の記憶は消されて、何一つ残っていなかった。
 成人検査と、その後に続いた過酷な人体実験と。それらが奪い去った過去。育ててくれた養父母たちも、育った家も、一緒に遊んだ友達も、全部。
 それでは覚えているわけがない。滑り台で遊んだ時の思い出も、誰が一緒にいたのかも。二人で滑って遊ぶ友達、仲のいい子がいたのかさえも。
 二人乗りをしてはしゃぐ子たちは、楽しそうなのに。自分もしたかもしれないのに。



 どうしても思い出せない友達。子供時代に滑り台で遊んでいた記憶。二人乗りをして滑ったかもしれない滑り台。目の前ではしゃぐ子供たちのように。
 けれど記憶は残っていなくて、一番古い友達と言えばハーレイ。燃えるアルタミラの地獄の中を二人で走って、大勢の仲間を助けた時から。…初めて出会ったミュウの仲間で、一番の友達。
 シャングリラで長く一緒に暮らして、今では恋人同士になった。誰よりも愛おしい人に。いつも一緒にいたいくらいに、大切に想う恋人に。
(ハーレイと滑ってみたいよね、って…)
 二人乗りで滑る子供たちの姿を見ている間に、そういう夢が浮かんで来た。何度も何度も二人で滑る子供たち。列に並んでは、二人一緒に。それは楽しそうに、歓声を上げて。
 子供時代の記憶は失くしてしまったけれども、ハーレイと二人で滑れたらいい。恋人同士の二人だったら、友達同士で滑るよりもずっと素敵だろう。息がピタリと合う筈だから。
(それに一番古い友達…)
 長い年月を共に生きたし、最高の友達でもあったハーレイ。恋人同士になった後にも、恋をしたことは誰にも言えない。ソルジャーとキャプテンだったから。皆の前では、あくまで友達。
 そのハーレイと滑ってみたい滑り台。子供たちがやっているのと同じに、二人乗りで。
 ハーレイの膝に乗せて貰って、滑り降りたらきっと楽しい筈。子供時代に帰ったみたいに、心が弾んで。もう覚えてはいない昔に、心だけが飛んで戻ったようで。
(…ハーレイと滑ってみたかったのに…)
 恋人同士で滑りたいのに、子供用の滑り台しか無かった船。滑り台で遊ぶのは子供たちだけ。
 その滑り台では小さすぎるから、ハーレイと一緒に滑るのは無理。細くて華奢な自分だけなら、滑れないこともないけれど。幅が狭くても、直ぐに下まで着いてしまっても。
 自分一人なら滑れるけれども、肝心のハーレイには小さすぎるのが滑り台。船で一番体格のいいハーレイの身体は、滑り台の幅より大きいだろう。どう考えても。
(それに体重も、うんと重くて…)
 子供たちなら何人分になるのだろうか。ハーレイが一人いるだけで。
 そんなハーレイが乗ろうものなら、滑り台はきっと壊れてしまう。まだ滑ろうともしない内に。上に登ろうと階段に足を乗せた途端に、壊れる音が響きそう。何かが割れる鈍い音とか、砕け散る音がするだとか。



 これは駄目だ、と諦めざるを得なかった滑り台。「ハーレイはとても滑れない」と。二人乗りで滑って遊びたいのに、ハーレイが乗ったら壊れてしまう滑り台。階段に足を掛けただけでも。
 子供たちのための滑り台では、ハーレイの体重に耐えられない。子供たちが遊ぶためには、充分頑丈なのだけど。華奢な自分の体重だったら、きっと支えてくれるのだけれど。
(だけど、ハーレイは無理だから…)
 ガッカリしながら部屋に帰った。子供たちと別れて、青の間へと。
 夜になったらハーレイが訪ねて来るのだけれども、その時間にはまだ早い。キャプテンの仕事は多忙なのだし、夕食もとうに終わった頃しか来てはくれない。この時間なら、ブリッジだろう。
 まだまだ来てはくれやしない、と一人、ハーレイを待っている間に眺めたスロープ。ゆったりと優美な弧を描きながら、入口まで続いている通路。ベッドが置かれたスペースから。
 スロープと言っても緩やかな傾斜で、滑り台のように滑ってゆけはしないけれども…。
(此処に滑り台…)
 ついていたなら良かったのに、と思ったのだった。同じスロープを設けるのならば、そのための傾斜を利用して。入口とベッド周りのスペース、その高さの差を活用して。
(滑り落ちたりしたら駄目だし、わざわざカーブをつけてあるわけで…)
 最短距離で入口とベッドの所を結ぶのならば、滑り台のようなものになるのだろう。上るのには不向きで、不評でも。横に階段を設けなければ、歩いて上れはしなくても。
(下りるだけなら、滑って行くのが早い筈だよ)
 アッと言う間に入口に着くし、スロープを下りるより遥かに早い。もっとも、誰も使いたがりはしないだろうけれど。ソルジャーの私室から滑り台を使って退出するなど、失礼だから。
 けれども、子供たちは別。滑り台を使って遊んでいたって、子供たちなら許される。ソルジャー自ら招待したなら、「遊んでいいよ」と許したならば。
 もしも滑り台が此処にあったら、ハーレイと二人で滑って遊べて、最高の気分。二人乗りで。
(どうせ、こけおどしの部屋なんだから…)
 滑り台をつけておいても良かった筈。入口まで真っ直ぐ滑れるものを。
 やたら口うるさいエラやゼルたちにも、子供たちを遊ばせてやるためのものだ、と言えば意見も通っただろう。いつか来るだろう、子供たち。
 子供は希望の光だから。来てくれる日などはまるで見えなくても、子供は未来なのだから。



 そう考えたら、あれば良かったと思う青の間の滑り台。ハーレイと二人乗りで滑れて、幾らでも遊べる頑丈なもの。ソルジャーの私室に作るのだったら、本格的なものになる筈だから。
 強度も素材も検討を重ねた、それは立派な滑り台。青の間でも見劣りしないようにと、見た目も美しいものを。透き通ったガラスで出来ているとか、ぼんやりと青く発光するとか。
(絶対、凄いのを作ってた筈で…)
 不可能ではなかった技術力。白い鯨を作れるのだから、滑り台くらいは容易いこと。たった一言頼みさえすれば、滑り台はきっと出来ていた。青の間の中に。
 その筈なのだ、と思い始めたら、もう止まらない滑り台への夢。入口まで滑ってゆける、それ。
 だからハーレイが来るのを待って、自分の夢を口にした。キャプテンの報告が終わった後で。
 青の間の入口の方を指差し、「あそこに滑り台が欲しかった」と。
「滑り台…ですか?」
 子供たちが遊んでいる遊具でしょうか、と怪訝そうな顔で返したハーレイ。その滑り台を此処に作ると仰るのですか、と。
「そう思ったんだけどね? 滑り台は君も見ているだろう。養育部門で」
 今の流行りは二人乗りだよ、二人一緒に滑って行くのが人気なんだ。二人一組で滑り台をね。
 此処に滑り台がありさえしたなら、君と二人で滑ってゆける。君の膝の上に、ぼくが座って。
 そうやって君と二人で滑れば、きっと楽しいだろうから…。
 養育部門の滑り台だと、壊れてしまって無理なんだよ。君の体重が乗っかったなら。それに滑り台の幅も狭いし、君の身体じゃ滑れない。…ぼくはなんとか滑れそうだけれど。
 君も無理だと思うだろう、と問い掛けた。「あそこの小さな滑り台では」と。
「ええ、壊れると思います。…こういう身体ですからね」
 あなたの仰る二人乗りなら、私も先日、見掛けました。楽しそうな遊びがあるものだ、と。
 ですが、あなたと二人で滑ろうという考えまでは…。素敵だろうとは思いますが。
 ああいう遊びが出来たなら、とハーレイも心を惹かれたらしい二人乗り。滑り台を二人で滑ってゆくこと。膝の上に恋人を座らせておいて、一緒に滑る滑り台。
「ほらね、滑り台が此処にあったら良かったんだよ」
 青の間に作ることになったら、きっと頑丈だろうから…。幅もゆったりしたもので。
 でないと見劣りしてしまうからね、この部屋では。やたら大きくて、無駄に立派な造りだから。



 此処に作った滑り台なら、大人も充分遊べたんだ、とハーレイに向かって語った夢。二人乗りで何度も滑って遊べて、素敵な気分になれただろうと。
「君と二人で過ごす時には、ぼくたち専用になるんだけれど…。二人きりの滑り台だけど…」
 昼の間は、子供たちのために開放してね。「好きに滑って遊べばいいから」と。
 いくら青の間がソルジャーの部屋でも、子供たちなら遊びに来たっていいだろう?
 堅苦しい礼儀作法は抜きで、と微笑んだ。子供たちとは、普段から遊んでいたのだから。
「お気持ちはよく分かるのですが…。今から整備は出来かねます」
 シャングリラの改造はとうに終わっていますし、この青の間も完成してから長いですから…。
 工事用につけてあった照明も全て撤去してしまった後です。なのに大規模な改修などは…。
 それが必要な時期になったら、皆も考えはするのでしょうが…。今の所は、メンテナンスだけで充分です。この状態で、数百年は軽く持つかと思われますので…。そのように作りましたから。
 それを改修するとなったら、ゼルたちもきっとうるさいでしょう。どう不都合があったのかと。
 まして遊びの道具など…。滑り台を此処に作りたいからと、皆に提案するなどは…。
 子供たちがどんなに喜びそうでも、難しいかと、と答えたハーレイ。恋人ではなくて、この船を預かるキャプテンの貌で。「私は賛成いたしかねます」と。
「分かっているよ。君の答えがそうなることも、ぼくには最初から分かっていたんだ」
 賛成するようなキャプテンだったら、誰もついては行かないだろう。ぼくも信頼しはしない。
 「駄目だ」と止める君だからこそ、ぼくの友達で恋人なんだよ。…誰よりも大切で、ぼくの命も心も丸ごと預けておくことが出来る。…君にだったら。
 だから余計に残念なんだよ、君と滑り台を一緒に滑れないこと。二人乗りでは滑れないこと。
 もっと早くに言えば良かった、此処に滑り台を作りたいと。そしたら、君と滑れたのに。
 設計していた段階で言えば、通っただろうと思うんだけどね。…無茶なようでも。
 絵本を残していたのと同じで、いつか来るだろう子供たちのために、と。
 そうすれば良かった、と後悔しきりな滑り台。青の間には作れるスペースがあって、入口までの滑り台を設けられたのに。作ろうと思いさえすれば。最初から提案していれば。
 「子供たちのために」という理由だって、誰も反対しなかった筈。
 子供たちが来るとは思えない船に、絵本が積まれていたのだから。いつか子供が船に来たなら、読んでくれるだろう絵本。未来のために残しておこうと、絵本は廃棄しないようにと。



 子供たちの影さえ見えない頃から、絵本があったシャングリラ。白い鯨ではなかった時代から。
 シャングリラはそういう船だったのだし、滑り台も可能だったろう。青の間の中に、子供たちのための滑り台を作っておくということ。それは大きな滑り台を。
「入口からは、これだけの高さがあるんだから…。きっと凄いのが作れたんだよ」
 子供たちが何度も滑って行っては、また上って来て滑って行ける滑り台。養育部門の小さな滑り台より、ずっと大きくて楽しいのをね。
 ぼくたちだって滑れるような…、と夢の滑り台を描いてみる。心の中で。其処にあったら、どう見えたかと。透明なガラスの滑り台だったか、ほんのりと青く光っていたかと。
「そうですね…。いい遊び場になったことでしょう。船の子供たちの」
 此処に来れば大きな滑り台で遊べる、と子供たちが毎日来たのでしょうね。小さな滑り台なら、少し大きな子たちは見向きもしませんが…。そんな子たちも来ていたでしょう。
 あなたが滑ってみたいとお思いになられたように…、とハーレイが口にする通り。年かさの子はもう滑り台では遊ばないけれど、大きな滑り台なら別。まだまだ遊びたい盛りなのだし、滑り台が充分大きかったら、きっと遊びにやって来た筈。この青の間まで。
「…どうして思い付かなかったんだろう?」
 滑り台を作ればいいということ。…この部屋だったら、とても大きなのが作れたのに。
 今のぼくでもハーレイと一緒に滑りたくなるほど、滑り台は素敵なものなのに…。
 二人乗りで滑りたいんだけどね、と言い添えた。自分一人で滑っていたって、それほど心躍りはしない。楽しくはあっても、「滑り台が欲しい」と思うほどには。
 けれど子供たちが遊ぶ姿は何度も見ていて、いい遊具だと眺めていた。二人乗りという遊び方が登場する前も。一人ずつ順番に滑って行っては、並び直すのを見ていた頃も。
 あの素晴らしい遊具を作れただろう空間。その青の間を設計する時、放っておいたのだけれど。出来上がった図面に目を剥いたけれど、滑り台くらいの意見は挟めた。その気があれば。
 それなのに思い付かずにいたなんて…、と零した溜息。「どうしてだろう?」と。
「記憶をすっかり失くしてしまわれたからですよ。子供時代の記憶を全部」
 滑り台で遊んだ楽しい記憶をお持ちだったら、事情は変わっていたでしょう。…私もですが。
「そうかもしれない…。ぼくも、君もね」
 こういう部屋だと分かっていたって、記憶が無いなら仕方ない。滑り台で遊んだ頃の記憶が。



 まるで覚えていない遊具は、直ぐに浮かびはしないだろう。知識の形で持っていたって、直ぐに使えはしないから。「この部屋だったら作れそうだ」と。
 人は幾つもの経験を重ねて、それを役立てて生きてゆくもの。滑り台も同じだったろう。遊んだ記憶を持っていたなら、「此処に作れる」とピンと来た筈。自分も、それにハーレイだって。
 でも…、と残念でならない滑り台。此処に滑り台がありさえしたなら、ハーレイと二人で滑って遊べた。二人乗りをして何度も滑って、それは幸せに。
「…滑り台、此処に欲しかったよ…。今から作れはしないんだけどね」
 それさえあったら、君と一緒に滑れたんだ。子供たちが始めた、あの二人乗りで。
 君の膝の上に乗せて貰って、真っ直ぐ下まで滑って行って。…また上って来て、また滑って。
 きっと楽しく遊べただろうに、と夢でしかない滑り台を思う。透明なガラスで出来ていたのか、内側から青く光っていたかと。
「それがあなたの夢なのですね。…私と一緒に、二人乗りで滑ってゆくということ」
 では、いつか。…地球に着いたら、二人乗りで滑ってみましょうか?
 あなたが転がって行ってしまわれないよう、私がしっかり抱えますから。下に着くまで。
 ご安心下さい、と笑みを浮かべたハーレイ。「初心者でも、なんとかなりますよ」と。
「滑り台、地球にはあるのかい?」
 ハーレイが乗っても壊れないくらい、頑丈に出来ている滑り台が…?
「育英都市には無いようですが、大人社会には大人用のがあるそうですよ。娯楽のために」
 私もデータしか知りませんから、それが地球にもあるかどうかは分かりませんが…。
 大人たちが暮らす他の星しか、滑り台は無いかもしれないのですが…。ノアのような星ですね。
 地球は人類の聖地ですから、とハーレイは言ったけれども、皆が焦がれる星が地球。住みたいと夢を見ている星。青い地球なら、何処よりも暮らしやすいのだろうから…。
「娯楽のための滑り台なら、きっと地球にもあると思うよ。人類が住んでいるんだから」
 それで滑ろう、地球に着いたら。君と一緒に、二人乗りをしてね。
 何処にあるのか見付け出したら、直ぐに滑りに行かなくちゃ。…君と二人で、船を降りてね。
 もうソルジャーでもキャプテンでもない二人だから、と交わした約束。
 いつの日か地球に辿り着いたら、ソルジャーもキャプテンも役目を終える。ただのミュウでしかなくなるのだから、その日が来たなら出掛けてゆこうと。…滑り台を滑って遊ぶために。



 シャングリラが青い地球に着いたら、ミュウの時代がやって来る。ソルジャーもキャプテンも、必要とされない平和な時代が。
 その時が来たら、二人一緒に滑り台を滑って遊ぶこと。それがハーレイと交わした約束。
「サイオンは抜きでお願いしますよ、私は無茶は御免です」
 とんでもない速さで滑り降りられたら、いくら私でも腕が緩むかもしれません。あなたを抱えている筈の腕が外れてしまって、二人乗りが崩れてしまうとか…。
 お一人で滑ってゆかれたのでは、二人乗りにはならないでしょう、と困った顔をしたハーレイ。お手柔らかにお願いしますと、「どうか普通の速さで」と。
「大丈夫。凄い速さで滑ったりはしないよ、それじゃ滑り台を楽しめないしね」
 せっかく二人で滑っているのに、アッと言う間に終わったのでは…、と前の自分は夢見ていた。いつか地球まで辿り着いたら、滑り台を滑って遊ぼうと。ハーレイと二人乗りをしようと。
 ハーレイが「前のお前だ」と言ったお蔭で、蘇って来た滑り台への夢。前の自分が描いた夢。
「…これって、前のぼくのせいかな? 滑り台に行きたくなっちゃったのは」
 新聞の記事を読んでいる内に、いつかハーレイと一緒に行こうとぼくが思ってしまったのは…。
 デートの約束、今の内からしておかなくちゃ、って。
「どうだかなあ? 俺も其処までは分からんが…。ただの偶然かもしれないが…」
 それでも、前のお前だった頃からの夢の一つには違いない。俺と一緒に滑り台に行く夢。
 前のお前とも約束したから、そういうことなら行くとするかな。…お前が大きく育ったら。
 俺が車を出してやろう、と乗り気になってくれたハーレイ。滑り台へデートに行くことに。
「いいの?」
 ぼくのお願い、聞いてくれるの、うんと弱虫のぼくなんだけど…。二人乗りをしていないほど。
 パパに誘われても逃げたくらいで、ホントに初心者。…一度もやっていないから。
「なあに、そいつは前の俺でも同じだってな」
 初心者だからお手柔らかに、と前のお前に頼んでいたぞ。サイオンは抜きで、と前の俺がな。
 今の俺なら、初心者なんかじゃないんだが…。
 お前も知っての通りの悪ガキ、子供時代は元気一杯に走り回っていたわけだから…。
 もちろん二人乗りもしてるし、もっととんでもない滑り方だって経験済みだ。
 たまにいるだろ、後ろ向けで滑って降りてゆくヤツ。ああいうのとか、他にも色々とな。



 今度は俺に任せておけ、と頼もしい言葉を貰えた滑り台を二人乗りで滑ること。今のハーレイは二人乗りのプロで、もっと色々な滑り方もしていたようだから。悪戯小僧がやりそうなことを。
「今の俺たちなら、堂々と滑りに行けるからな。お前が大きくなりさえしたら」
 地球に着いたらなんて言っていないで、きちんと結婚できるってわけで…。お前がそういう年になったら、俺がお前にプロポーズして。
 結婚するような二人なんだぞ、滑り台を二人で滑るくらいは普通だ、普通。遠慮しなくても。
 青の間に滑り台があったら良かったのに、なんて考えては溜息をつかなくても。
 何処の滑り台に滑りに行くのも自由だからな、とハーレイがパチンと瞑った片目。何処で二人で滑っていたって、誰からも文句は出はしない。顔を顰める人だって。
「ホントだね…。デートで二人で滑っている人、大人用の滑り台には多いんだものね」
 ぼくたちが二人で滑っていたって、カップルなんだし当たり前…。少しも変じゃないんだもの。
 それに地球だよ、前のぼくたちが約束していた、本物の地球にある滑り台。
 前のぼくたちが生きた頃には、青い地球は何処にも無かったんだけど…。
「まったくだ。今ならではの大きな滑り台だよな、本物の地球の上にあるのは」
 よしきた、いつかお前と一緒に出掛けて行こう。大人用の滑り台、二人乗りして滑るためにな。
 ついでに芝生も滑ってみるか、と不思議なことを訊かれたから。
「芝生って…?」
 なあに、とキョトンと見開いた瞳。芝生を滑るとは、何なのだろう?
「そのまんまの意味になるんだが…。文字通り芝生を滑って行くんだ。滑り台みたいに」
 専用の橇を貸して貰って滑れるのさ。雪じゃなくても、芝生の上を。面白いほど滑るんだぞ?
 俺はガキの頃にレジャーシートで滑ってたがな、とハーレイが教えてくれた芝生の遊び方。雪の上を橇で滑るみたいに、芝生の上を滑ってゆくのだという。もちろん二人乗りだって。
「それ、やりたい…!」
 芝生の上も滑ってみたいよ、ハーレイと橇に二人乗りをして。
 それにね、雪の上で滑る橇にも乗ってみたいんだけど、と強請って約束。
 滑り台を二人乗りで滑って楽しんだ後は、二人で橇に乗るんだから、と。芝生の上を滑ってゆく橇も、真っ白な雪の斜面を滑って走る橇にも。



 約束だからね、と強引に小指を絡めてやった。恋人の無骨な褐色の小指に。
「いいでしょ、地球に来たんだから。うんと欲張って、橇に乗っても」
 二人乗りが出来る滑り台もいいけど、橇だって地球だから乗れるんだし…。芝生のも、雪のも。
 だから乗せてよ、と約束した橇。芝生の上を滑る橇にも、雪の上の橇にも乗るんだから、と。
「それはかまわないが…。風邪を引くなよ、雪の上の方は」
 寒いんだからな、雪が積もるということは。ちゃんと暖かくして、俺にしっかりくっついてろ。
 それから無理をしないことも…、とハーレイは注意を続けるけれど。
「風邪くらい別に引いたっていいよ、ハーレイが看病してくれるもの」
 前のぼくだった頃から大好きだった、野菜スープを作ってくれて。シャングリラ風のを。
 あれをコトコト煮てくれるんでしょ、ぼくが寝込んでしまった時は…?
「こらっ! 何が野菜スープのシャングリラ風だ!」
 まずはきちんと風邪の予防だ、そいつを疎かにするんじゃない。雪の上で橇に乗りたいんなら。
 甘えるなよ、と頭をコツンと小突かれたけれど、きっとハーレイなら大丈夫。
 本当に寝込んでしまった時には、優しく看病してくれる筈。野菜スープも作ってくれて。
 そのハーレイと一緒に地球に来たから、まずは二人で滑り台。
 小さかった頃の今の自分は怖かった滑り台の二人乗り。それに挑戦しなくては。
 ハーレイにしっかり抱えて貰って二人で滑ろう、前の自分の夢だったから。青の間にもあればと思ったくらいに、前の自分はハーレイと一緒に滑り台を滑りたかったのだから。
 大人用の滑り台を二人乗りで滑って、芝生の上も橇で滑って、雪だって橇で滑ってゆく。
 ハーレイと二人なら怖くないから、幸せ一杯に滑ってゆけるから。
 生まれ変わって来た、この地球で。前の自分が焦がれ続けた、青く輝く水の星の上で…。



              滑り台・了


※ブルーがハーレイと二人で滑りたくなった、滑り台。前のブルーも、そうだったのです。
 青の間に滑り台があれば、と悔しい思いをしたようですけど、今は橇遊びも出来るのが地球。
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(落ち込んだ時には、気分転換が一番…)
 そうだよね、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 今は平和な時代だけれども、心が沈むことはある。ちょっと失敗してしまったとか、立てていた予定が直前で駄目になったとか。とても楽しみに準備していた、旅行なんかが中止になって。
 そういった時には気分転換が一番です、と書かれた記事。普段とは違うことをして。
 散歩や軽い運動なども記者のお勧めだけれど、他にも色々あるのだけれど。
(女性の場合は、とっておき…)
 お洒落すること、と綴っている記者。家の外へは出ないにしたって、お気に入りの服に着替えてみる。鏡を覗いて、髪型だって整えてみて。
 そうしてみたなら、鏡の中には「ずっと素敵になった自分」の姿。もうそれだけで、沈んでいた気分が晴れる人だっているくらい。鏡に映った顔もすっかり笑顔になって。
 お洒落して外に出掛けて行ったら、もっと明るくなる笑顔。ご近所の人に挨拶したり、気ままに散歩してみたり。公園のベンチに座っていたって、どんどん晴れてゆく気分。
 お洒落しているから、誰に会っても自信たっぷり、見て貰えたならとても嬉しい。公園を通ってゆく人にだって、道ですれ違った人だって。
(そうなのかもね…)
 何処かへ出掛けてゆくとなったら、小さな女の子もお洒落するもの。可愛らしい服や、その子が好きな模様の服。一人前に小さなバッグも提げたりして。
 弾んだ足取りで歩いてゆくから、きっと心が浮き立つのだろう。両親と一緒に出掛けることも、お洒落して外に出ることも。
 お気に入りの服に、御自慢のバッグ。ぬいぐるみなのかと思うバッグもあるくらい。よく見たら違って、「バッグなんだ…」とビックリするような猫やウサギや。
 ほんの幼い女の子でも、大好きなのが「お洒落すること」。
 小さな子供もはしゃいで出掛けてゆくほどなのだし、お洒落はきっと「とっておき」の気分転換なのだろう。気分が沈んでしまったら。溜息が零れそうになったら。
(お気に入りの服に着替えて、鏡…)
 それで晴れるという、女性たちの気分。人によっては、たったそれだけで笑顔になれる。駄目な人でも外に出掛けたら、笑顔が戻って来るお洒落。近所を散歩してみるだけでも。



 そういえば…、と今の学校でもある心当たり。女の子たちが大好きなお洒落。
(制服よりも、私服の方が好きらしいもんね?)
 今の自分が通う学校の女の子たち。みんな制服を着ているけれども、たまに聞くのが制服の話。制服が嫌いとまでは言いはしなくても、「下の学校の方が楽しかった」と。
 下の学校の頃は、制服が無かったものだから。好きな服を着て通えた学校。通学鞄も、教科書やノートがきちんと入れば自由に選べた。色も形も。
 個性に合わせて選べた鞄。その日の気分で着られた服。女の子だったらスカートの日やら、男の子みたいな格好の日やら。朝、起きた時の気分や天気で決めて。「今日はこの服」と袖を通して。
 それが出来ないのが今の学校。最初から決まっている制服。鞄も学校指定の鞄。
 お洒落の機会を奪われてしまった、女の子たち。どんなに素敵な服があっても、学校に行く時は必ず制服。下の学校なら、好きに選んで着てゆけたのに。服に似合いの鞄を提げて。
 だから「下の学校の方が楽しかった」という言葉が飛び出す。学校がある日は、どう頑張っても出来ないお洒落。家に帰った後ならともかく、学校という場所にいる間は。
(逆だっていう子、女の子には少ないみたい…)
 制服の方が好きだという女の子。制服か私服か、そういう話を聞いていたなら、たまにいるのが今の学校の制服が好きな子。「大人っぽくて素敵じゃないの」と。
 下の学校の子は、今の学校の制服などは着られない。其処に通ってはいないのだから。
 入学しないと着せて貰えない、今の自分が通う学校にある制服。申し込んでも、断られるだけ。採寸さえもして貰えなくて、門前払いになってしまう店。「入学してから来て下さい」と。
(男の子だったら、制服が好きな子、多いんだけどな…)
 下の学校に通う内から、憧れだったという子たち。早く制服を着てみたくて。
 制服を着られるようになったら、ちょっぴり「お兄ちゃん」だから。入学したての一年生でも、卒業間際の四年生と同じ制服を着て通う学校。上の学校が近い、上級生たちと同じ制服で。
(上の学校に行ったら、制服、無いから…)
 今だけの特権なのが制服、男の子ならば下の学校の間に夢見る。「ぼくも着たいな」と、制服の生徒を目にする度に。
 チビの自分も憧れていた。あれを着たなら、自分だって立派な「お兄ちゃん」。下の学校に通う子たちに憧れられる、一人前の「制服の先輩」になれるのだから。



 男の子だったら制服が好きで、出掛ける時にも着ると言う子も多いのに。きちんとした服を着て行くように、と両親などに言われた時には「制服が一番楽だもんな」と話す友達も多いのに。
 その制服が嬉しくないのが女の子。下の学校の頃と違って、自由に服を選べないから。
(どっちも制服なんだけどな…)
 男子も女子も、デザインが違うというだけのこと。なのにどうして、制服の見方か変わるのか。憧れの制服をやっと着られたと喜ぶ男子と、「下の学校の方が楽しかった」と言う女子とに。
(ぼくも制服、好きなんだけどな…)
 女の子って面白いよね、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったお皿やカップを母に返して、「御馳走様」と。
 勉強机に頬杖をついて、思い浮かべた女の子たち。制服よりも私服が好きで、お洒落をしたなら気分転換。お気に入りの服で鏡に向かえば、それだけで笑顔になれる女性も。
(…ぼくが着替えて、鏡を見たって…)
 沈んだ気分が晴れるようには思えない。お気に入りの服で散歩に行っても同じこと。心の中身は重たいままで、それが綺麗に晴れたとしたなら、お洒落ではなくて散歩のお蔭。目についた綺麗な花に見惚れて気が紛れたとか、ご近所さんに挨拶をしたら、楽しい話が聞けたとか。
 お洒落は関係ないものね、と女の子との違いを思った所で心を掠めていったもの。フッと掠めて通り過ぎたもの。
(…制服…)
 今の自分が好きな制服。下の学校に通う頃から、早く着たいと憧れた制服。
 学校がある日は当たり前のように袖を通して、朝からシャキッとした気分。「今日は学校」と。
 友達もみんな着ている制服、上級生たちも、みんなお揃い。体格でサイズが変わるだけ。誰もが同じ制服なのだし、あの制服が大好きな自分。
(憧れだったってこともあるけど、前のぼくの記憶が戻ったら…)
 もっと制服が好きになった。
 ソルジャーだった頃と違って、一人だけ特別な服ではないから。友達も上級生も同じで、何処も少しも変わらない。デザインも色も、ボタンの形も。
 制服を着れば、すっかり溶け込んでしまえる学校。自分だけ目立ってしまいはしないし、とても気に入っている今の制服。「みんなと同じ」と、「ぼくもお揃い」と。



 特別扱いが好きではなかった前の自分。やたら大きすぎた青の間はもちろん、ソルジャーだけが着る制服だって。
 何度思ったことだろう。「みんなと同じ服がいいな」と、「同じ制服を着られたら」と。
 けれど、他の仲間たちが着ていた制服。前の自分が生きた船では…。
(制服だけしか無かったんだよ…)
 何処を見回しても、仲間たちの服は制服だけ。他にあったのは作業服くらい。それが必要な農場だとか、機関部の仲間が着ていた服。いつもの制服では、難しそうな作業の時に。
 白い鯨に改造する前から、シャングリラにあった揃いの制服。ソルジャーとキャプテン、長老の四人を除いた仲間は、誰もが同じ制服を着た。男性用のと女性用のを。
 皆の声で生まれた制服だけれど、無かった私服。誰一人、着てはいなかった。個性的な服やら、可愛らしい服。素敵な模様が入った服も、皆とデザインが違った服も。
(個性的なの、フィシスくらいで…)
 ミュウの女神だと、皆に紹介したフィシス。…本当はミュウではなかったけれど。
 機械が無から作った生命、青い地球を抱いていた少女。フィシスの青い地球が欲しくて、仲間を騙して船に迎えた。「特別なのだ」と大嘘をついて、ミュウの女神に祭り上げて。
 フィシスは特別な存在だからと、皆とは違う服を作らせて着せた。それは優美なデザインのを。姫君のような服だったけれど、フィシス以外の他の女性たちは…。
(気分転換にお洒落したくても…)
 出来なかった、と今頃になって気が付いた。さっきの記事と、今の学校の女の子たちのお蔭で。
 気分が沈んでしまった時の、女性たちのための「とっておき」。
 お洒落して鏡に向かってみること、お気に入りの服を身につけること。それだけで気分が晴れる人がいるのも、きっと本当なのだろう。男の子の自分には分からなくても。
(女の子はみんな、お洒落が大好き…)
 幼い子だって、出掛ける時にはお洒落するほど。素敵な気分になれるのがお洒落。
 今の学校に通う女子たちも、私服の方が好きな子が多い。下の学校の頃は楽しかった、と私服で通えた学校を懐かしむ声が聞こえるほどに。
 気分転換に役立つらしい、お洒落すること。女性の場合は。
 なのに私服が無かった船がシャングリラ。お洒落したいと考えたって、無かった私服。



 シャングリラはそういう船だったっけ、と制服が頭に蘇る。誰も私服は着ていなかった。女性は大勢いたというのに、誰一人として。…船に私服は無かったから。
(だけど、みんなの希望で生まれた制服だったし…)
 前の自分やハーレイたちの提案ではない、あの制服。誰からともなく声が上がって、作りたいと機運が高まったから、デザイン画が描かれて生まれた制服。前の自分のソルジャーの服も。
 それまでの間は、人類の船から奪った服を誰もが着ていた船。サイズが合うのを好きに選んで、靴も好みで選んだりして。…バラバラだった皆の服装。男性も女性も、揃っていなくて。
 だから制服が出来た時には、皆が大喜びだった。やっとシャングリラらしくなったと、ミュウの船にはこの制服が相応しいと。
 そして船から私服は姿を消してしまって、誰もが制服。「この服がいい」と気に入って。だから制服で良かったのだ、と納得しかけた今の自分。仲間たちが望んだのだから、と。
 女性たちも喜んで着ていた制服。「私服の方が良かった」という声は一度も上がらなかったし、前の自分が生きていた船と、今の自分が暮らす世界は価値観が全く違ったのだと思ったけれど。
 シャングリラにいた仲間たちは皆、制服の方が好きだったのだと考えたけれど…。
(…それって、アルタミラからの脱出組だけ…?)
 もしかしたら、と浮かんで来た思い。
 最初から船にいた女性たちだけが、制服を好んで着ていたろうか。私服よりも制服の方を好んだ女性たち。「こっちの方が断然いい」と、自分たちの望みで出来上がった服を。
(これがいい、って決めた制服だったら…)
 今の自分が学校の制服が大好きなように、シャングリラにいた女性たちも制服好きだったろう。皆で揃いの服を着るのが、お揃いの「ミュウの制服」が。
 けれども、船にいた女性たちは二通り。白いシャングリラになった後には。
 アルタミラの惨劇を目にした女性と、見ていない女性。…アルテメシアで船に加わった、新しい世代の若いミュウたち。
 雲海の星で救出されたミュウの子供は、アルタミラの地獄を見て来てはいない。その上、記憶を失くしてもいない。
 成人検査で記憶を消される前に、救い出されて船に来たから。幼い子供も、成人検査でミュウと発覚した子供たちも。



 アルテメシアで救った子たちは、船に来たなら直ぐ制服を身に着けた。子供用のものを。
 最初の間は制服が無くて私服で暮らした子もいたけれども、ほんの短い間だけ。シャングリラで生きる子供に似合いのものをと、服飾部門が頑張った。
 大人たちの制服をベースに描かれた、子供たちのためのデザイン画。それが出来たら、制服用の生地を急いで作って、採寸をして縫い上げた。やって来た子にピッタリの服を。
(トォニィたちの制服だって、直ぐに作ったくらいだしね?)
 赤ん坊や幼児用はともかく、ナスカの子たちが急成長しても、サッと上がった新しいデザイン。間に合わせの服にはしておかないで、みる間に出来上がった服。
(…あんな速さで成長するなんて、誰も思っていなかったのに…)
 ナスカが悲劇に見舞われる中で、もう制服は出来ていた。トォニィの分も、アルテラたちのも。それが必要だと、船の仲間は思ったのだろう。七人ものタイプ・ブルーたちのために。
 直ぐに制服を作るほどだし、「制服を着る」のが普通だった船。誰もが制服を着ているもので、私服は存在しなかった船。
 白いシャングリラはそうだった。古い世代も、新しい世代も、揃いの制服。
(トォニィたちは、ミュウの世界しか知らないけれど…)
 赤いナスカと白いシャングリラと、その二つしか知らずに育った子供だけれど。制服があるのが当たり前の世界で生まれ育った子たちだけれども、そうではない子供たちもいた。その前には。
 アルテメシアで外の世界から来た子供たちは、お洒落を覚えていたかもしれない。女の子なら、小さな子でも、お洒落するのが好きだから。今の時代の子供がそうなら、きっと昔も。
 前の自分は子供時代の記憶をすっかり失くしたけれども、アルテメシアで見ていた育英都市。
 養父母と出掛ける女の子たちは、今と同じにお洒落していた。お気に入りの服で、楽しそうに。
 そういう世界からやって来たのが、新しい世代のミュウの子供たち。処分されそうな所を救って船へと連れて来たけれど、制服も直ぐに与えたけれど…。
(あの女の子たちは、お洒落したくても、服が無かった…?)
 思いもしなかったことだけれども、そうかもしれない。
 船に着いたら、採寸して作られていた子供用の制服。「この船ではこれを着なさい」と。
 ミュウの仲間は皆そうなのだし、誰も疑問に思わなかった。「子供たちに制服を着せる」こと。育英都市で着ていた服の代わりに、子供用の制服を与えることを。



 お洒落が気分転換になるとは全く思わなかった時代に、シャングリラの中で決めた制服。
 アルタミラの地獄を見て来たのだから、生きてゆけるだけで充分、気晴らし。狭い檻で暮らした時代からすれば、部屋と呼べる場所を貰えた上に、仲間たちがいる船での日々は天国のよう。
(お喋り出来たら、一人よりもずっと素敵だし…)
 気分転換するにしたって、船の中の散歩くらいで良かった。白い鯨になった後なら、広い公園もあったのだから。
 古い世代の女性たちには、それだけで足りていただろう。お喋りや散歩、好みの飲み物を飲んでみるとか、お菓子をつまんでみるだとか。…どれも贅沢な時間だから。檻での暮らしに比べたら。
 けれど後からシャングリラに来た、新しい世代の女性たちは…。
(…お洒落な服を着たかったかも…)
 気分転換の件はともかく、それぞれの個性。「こういう服が好き」という好み。
 幼い子供でも、女の子はお洒落が大好きなもの。育英都市で長く暮らせば、制服の世界はまるで縁が無いまま。学校は目覚めの日を迎えるまで私服なのだし、制服に馴染みが無い子供たち。
(今の学校の女の子たちと一緒で…)
 私服を着たいと思う子たちも、本当は多かったのかもしれない。慣れない船にやって来たから、何も言わずにいただけで。…命を救ってくれた船だし、シャングリラに馴染まなければ、と。
(本当はお洒落したくって…)
 もっと色々な服を着たくて、溜息をつく子もいたのだろうか。…制服のせいで。
 個性を発揮できる服装、それを求めていた子供たち。「こんな色より他の色がいいのに」と思う子だとか、「自分らしい服が欲しい」と思った子とか。
 人間の数だけある個性。好みも色々、食べ物に限ったことではなくて。
(お洒落も立派な個性なんだよ…)
 下の学校は楽しかった、と懐かしがっている同級生の女の子たち。私服で学校に行けた時代を。
 子供時代の記憶を失くさず、シャングリラに来た女の子たちも同じだったのかもしれない。制服よりも私服が好きで、それを着たかった子供たち。
 前の自分たちは、彼女たちからお洒落の機会を奪ったろうか。一方的に制服を押し付けて。
 そういうものだと思っていたから、「船ではこれを」と着せた制服。
 良かれと思って、逆に苦痛を与えたろうか。お洒落を知っていた女の子たちに…?



 そうだったかも、と考えるほどに気になる制服。白いシャングリラに来た子供たちに、大急ぎで作って着せた制服。「新しい仲間が一人増えた」と。
 ミュウの子供が増えてゆく度、誰もが嬉しかったのだけれど。前の自分も、真新しい制服を着た子を眺めて、「助けられて良かった」と笑みを浮かべていたけれど…。
(大失敗…)
 子供たちの心を読んではいないし、制服への不満があったとしても気付かない。「制服は嫌」と思う子供がいたって、「他の服を着たい」と思っている子が混じっていたって。
(女の子は全員、そうだったのかも…)
 養父母の家で着ていたような、他の子のとは似ていない服。たまたま同じ服があっても、それは本当に、ただの偶然。次の日はお互い違う服だし、誰もが同じ服ではない。来る日も来る日も。
(子供の数だけありそうな服…)
 色もデザインもとりどりの世界で育った子たちは、制服に馴染めなかっただろうか。
 古い世代はアルタミラの檻で粗末な服を着せられ、脱出直後は男性も女性も服装は同じ。人類は実験動物に着せる服のために、男女のデザインを変えるようなことはしなかったから。
(あんな世界で生きた後だと、色々な服を着ていた時代があったって…)
 制服の方に魅力を感じたことだろう。「これこそがミュウのシンボルなのだ」と、自由な時代の象徴として。…派手すぎる服を用意されてしまった、前の自分は別だけれども。
(だけど、アルテメシアで育った子たちは…)
 個性豊かに育ったのだし、それぞれに好みがあった筈。
 いくら機械が統治していた時代とはいえ、養父母たちにも個性や好み。それを受け継いだ子供もいれば、「こんなのは嫌!」と自分の好みを押し通していた子供だって。
 ミュウと判断された子供も、そうなるまでは養父母の許で育っていたから、個性は豊か。好きな服だってあったのだろう。お洒落が好きな女の子ならば、なおのこと。
(そんなの、ちっとも気が付かなかった…)
 前のぼくたちの大失敗だ、と痛感させられた制服のこと。
 新しい子供が船にやって来たら、制服を作って着せるものだと思い込んでいた前の自分たち。
 シャングリラの仲間は制服なのだし、子供たちだって同じこと。制服を着れば立派に船の一員、子供ながらも白いシャングリラの仲間入りだと。



 古い世代の目から見たなら、制服は正しかっただろう。子供たちにまで着せておくことも。
 けれど、着せられた子供たちの方。好きな服を着て、お洒落も好きだった女の子ならば、制服はどんなに辛かったことか。他の服を着たいと考えたって、制服しか無い世界だなんて。
(下の学校の頃は楽しかった、って言ってる女の子たちと…)
 同じだったかもしれない、新しい世代のミュウの女の子たち。もっと色々な服が着たい、と船でガッカリした子供たち。「此処にはこれしか無いらしい」と、着せられた制服に溜息をついて。
(エラもブラウも、子供時代の記憶なんかは無かったし…)
 古い世代の女性たちは皆、似たようなもの。お洒落を楽しんだ子供時代は覚えていない。だから制服にも違和感は無いし、喜んでそれを着ていたほど。ミュウのシンボルの服として。
 新しい世代が制服をどう考えるのかは、まるで思いもしなかった。狭すぎる世界で懸命に生きた世代のミュウには、欠けていた配慮。押し付けてしまった形の価値観。
 船に来たからには制服なのだ、と深く考えさえもしないで。それがいいのだと思い込んで。
(若い世代との間に亀裂が出来ちゃう筈だよ…)
 赤いナスカで生まれた対立。古い世代と新しい世代、出来てしまった深い溝。
 ナスカという星に魅せられた世代と、ナスカを嫌った世代の間の対立だとばかり思ったけれど。原因は全てナスカなのだと考えたけれど、もっと根深いものがあったのだろう。実の所は。
(制服がいいと思う世代と、私服を着たいと思う世代じゃ…)
 感覚が違いすぎたんだ、と気付いても遅い。前の自分はとうに死んだし、赤いナスカもとっくに燃えてしまった後。何もかもが既に手遅れだから。…過去に戻れはしないのだから。
(でも、失敗…)
 ホントに失敗、と制服のことを悔やんでいた所へ、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、お洒落をするのは楽しい?」
 お気に入りの服を着て鏡の前に立ってみるとか、それを着てお出掛けするだとか…。
「楽しいかって…。この俺がか?」
 お前、正気で訊いているのか、と丸くなったハーレイの鳶色の瞳。「お洒落だって?」と。
「ハーレイも違うとは思うけど…。そういうタイプじゃなさそうだけど…」
 似合う服は選んでいるんだろうけど、お洒落とは別。動きやすいのとか、仕立てで選びそう。
 でも、女の子ってお洒落が好きなものだよね、うんと小さな子供でも…?



 今日の新聞にこういう記事があったんだよ、と話した中身。気分転換に関する記事だけれども、女性の場合は「とっておき」の手がお洒落らしい、と。
「お洒落するだけで、気分が晴れちゃう人もいるって…。鏡の中を覗いただけで」
 うんと素敵な自分がいるから、沈んだ気分が消えちゃうんだって。お洒落して鏡を覗けばね。
 その格好で散歩に行ったら、ホントに元気になるらしいんだけど…。
 どう思う、と尋ねた女性のお洒落のこと。「学校の女子も制服より私服の方が好きみたい」と。
「そりゃ好きだろうな、何処の学校の女子も似たようなモンだ」
 休みの日に外で出会っちまうと、どの子も生き生きしているぞ。自分好みの服でお洒落して。
 学校に通っているような年の女の子でも、そんな具合になるんだから…。
 立派な大人の女性となったら、気分転換にも有効だろう。鏡の向こうに素敵な自分を発見だ。
 沈んでいた気分も晴れるだろうさ、とハーレイも頷くお洒落の効果。女性なら出来る気分転換、お気に入りの服でお洒落すること。揃いの服より、自分が好きな素敵な服。
「やっぱりね…。女の人はお洒落が好きで、女の子だって、何処の学校でも同じ…」
 制服よりも私服が好きで、ずっと生き生きしてるんだ…。ハーレイが外で会った時には。
 前のぼくたち、失敗しちゃった…。ホントのホントに大失敗だよ。
 とっくに手遅れなんだけど、と肩を落とした。「今頃、気付いても、もう遅いよね」と。
「失敗って…。それに手遅れって、何の話だ?」
 前の俺たちのことだと言ったな、俺にはサッパリ分からんのだが…。お洒落と関係してるのか?
 お前の口ぶりだとそう聞こえるが、とハーレイが訊くから「そう」と答えた。
「制服の話で気が付かない? 女の子はお洒落が好きって所と」
 シャングリラにも制服、あったでしょ。作った時には、まだ白い鯨は出来ていなかったけれど。制服を作ろうって話が出て来て、それでみんなが制服になって…。
 その時の仲間はそれでいいんだよ、欲しかった制服なんだから。みんながバラバラの服を着てる船より、素敵だと思っていたんだものね。
 だけど制服、新しい世代にも押し付けちゃった…。あるのが当たり前だったから。
 アルテメシアでミュウの子供を助け出したら、直ぐに制服をデザインして。…子供用のを。
 制服を着たら船の仲間だ、って思っていたから、もう本当に大急ぎで。
 それで制服、着せていたけど…。女の子もみんな制服だったよ、シャングリラに来た途端にね。



 自分の家で着ていた服は無くなっちゃった、と説明した。養父母の家で暮らした頃には、制服は無い。どの子も私服で、学校に行く時も好きな服。出掛けるとなれば、当然、お洒落。
 船に来た子が幼い子でも、大きな子ときっと変わらない。色々な服を着たかった筈。
「…でもね、船だと制服だから…。これを着なさい、って渡されちゃうから…」
 お洒落したくても絶対に無理で、ずいぶんガッカリしたのかも…。自分の好きな服が無いから。
 欲しいって誰かに言いたくっても、大人もみんな制服だものね。
 だから言えずにいたのかも…、と項垂れた。「前のぼくも気付かなかったんだよ」と。いったい何度遊んだだろうか、あの船に来た子供たちと。養育部門に出掛けて行っては、幼い子たちと。
 けれど気付きはしなかった。子供たちの心にあったかもしれない、制服への不満。
「そういや、そうか…。そういうことになるんだなあ…」
 好きな服を買って貰いに行けやしないし、作って貰えることも無かった。制服があれば充分だと誰もが考えていたし、制服の方がいいと思っていたくらいだし…。
 しかしそいつは、俺たちだけの考え方だ。…シャングリラの中しか知らない世代の。
 アルテメシアで育った子たちは、そうじゃなかったかもしれないのにな。女の子はもっと色々な服が欲しくて、着たいと思ったかもしれん。…制服とは違う服だって。
 なのに俺たちは、訊いてやりさえしなかった。制服を気に入ってくれたかどうかも、尋ねる係はいなかったからな。着て当然だと思っていたから、ジョミーにさえも訊いていないぞ。
 ソルジャー候補の服が出来上がる前の時期に、とハーレイがついた大きな溜息。ジョミーは他のミュウたちと同じ制服を着た時期があったけれども、着心地は確認していないという。ハーレイも四人の長老たちも。…もちろん、前の自分もだけれど。
「…ホントだ、ジョミーにも訊かなかったよ…。ジョミーの服は燃えちゃったから…」
 元の服を着たくても無かったんだけど、それまではあの服にこだわってたのに…。
 ミュウの仲間になったんだから、あれで当然だと思い込んじゃった。前のぼくもね。あんな服、嫌かもしれなかったのに…。着たくなかったかもしれないのに…。
 ぼくの後継者でも、着心地を訊いて貰えなかっただなんて、と制服に凝り固まっていたミュウの酷さを突き付けられてしまったよう。
 シャングリラの仲間になった以上は制服なのだ、と思い込んでいた前の自分たち。新しい世代は制服の無い世界から船にやって来たのに。船に来るまでは、制服を着ていなかったのに…。



 なんという酷い船だったろうと、やりきれない思いに包まれる。子供たちの個性をすっかり無視して、制服を無理やり着せていた船。悪気は無かったにしても。
「…前のぼくたち、酷すぎたよね…。制服のこと」
 女の子からはお洒落を奪ってしまって、男の子たちにも押し付けだよ。男の子の方だと、制服に憧れる子も多いけど…。今のぼくだって、早く制服を着たいと思っていたんだけれど…。
 下の学校に通っていた頃にはね、と白状したら、「そうだろうな」と返った笑み。
「男の子ってのは、そんな所があるもんだ。早く一人前になりたい気持ちが出るんだろうな」
 俺だってお前と同じだったさ、下の学校にいた頃は。あの制服を早く着たいと憧れてたから…。
 シャングリラに来たミュウの子供も、男だった場合はそうかもしれん。子供用の制服を早く卒業して、大人用のを着たいと思っていたかもな。…ジョミーは例外かもしれないが。
 だが、女の子の方となるとだ…。制服とは違う色々な服が欲しかったことも有り得るなあ…。
 俺も全く気付かなかった、とハーレイが指でコツンと叩いた自分の額。「ウッカリ者め」と。
 船を纏めるキャプテンだったら、船全体を見渡してこそ。古い世代も、新しい世代も。
 制服はあって当然だなどと思わずに。新しい世代にはどう見えているか、それを調べて改革することも検討すべきだったのかも、と。
「ハーレイも、そう思うでしょ? 制服のことに気付いたら…」
 ぼくたちは普通だと思っていたのが、新しく来た子供たちには少しも普通じゃなかったかも…。制服なんかは欲しくなくって、お洒落したい子もいたのかも、って。
 前のぼくたち、失敗しちゃった。若い世代とは、感覚が違いすぎることに気付かなくって。
 そんな状態だと喧嘩にもなるよ、ナスカでだって…。ゼルがトマトを投げちゃったんでしょ?
 ゼルの物差しで測るからだよ、と古い世代の頑固さを嘆いた。一事が万事で、制服を押し付けるような古い世代は、若い世代との違いが大きすぎたのだ、と。
「うーむ…。あのナスカでの対立なあ…」
 若いヤツらが苦労知らずだったというだけじゃなくて、制服までが絡むのか…。押し付ける形になってしまった制服。
 本当には絡んでいないとしたって、制服ってヤツも窮屈ではあったかもしれないな。
 制服を決めた古い世代に、身体ごと縛られているようで。この船は何処までもこうなのか、と。
 自分たちの意見は通らない船で、そのいい例が制服みたいに思ってたヤツもいたかもなあ…。



 もっと気を配るべきだった、とハーレイも悔やむ制服のこと。若い世代にはどう見えたのか。
「そうだよね…。古い世代が押し付けちゃった制服だもんね…」
 とても窮屈に思ってたかもね、毎日、それを着るんだから。他に着る服は無かったんだから…。
 ホントに酷いことをしたかも、と気付いても、もう遅すぎる。シャングリラはとうに時の彼方に消えてしまって、制服を着ていた仲間たちも皆、時の流れが連れ去ったから。
「制服じゃない服も着たかったんだ、というのは分かる。…前の俺が証拠を見ているからな」
 人類軍との本格的な戦いが始まった後で、陥落させた幾つもの星。
 其処で買い物の許可を出したら、服を山ほど買って戻った仲間たちもいたもんだから…。
 服や帽子を山のように、とハーレイが語る思い出話。持ち切れないほど服を抱えて戻った仲間。
「その話、ハーレイから聞いたけど…。その時は他の買い物に気を取られていたけど…」
 みんなお洒落をしたかったんだね、ずっと我慢をしていただけで。…船では制服だけだから。
 他に色々な服が欲しくても、頼める所は無いんだから…。服飾部門で作ってくれるのは、新しい制服だけなんだから。…サイズを測って、決まったデザイン通りのヤツを。
 好みの服は作って貰えないしね、と思い描いた船の仲間たちの姿。沢山の服を買った仲間は皆、女性たち。新しい世代の者だったのに違いないのだから。
「さてなあ…? そいつを我慢と言うべきかどうか…」
 俺が思うに、あの制服は必要だった。古い世代の思い込みだろうが、新しい世代が本当は不満を持っていようが。…無くてはならない服だったんだ。
 シャングリラにあった制服は…、とハーレイが言うから驚いた。その制服こそが、新しい世代をあの船に縛り付けたもの。古い世代の頑迷さを表すようなもの。
 いいことは何も無さそうなのに。…女性たちからは、お洒落の機会を奪ったのに。
「…なんで制服が必要なの…?」
 ハーレイも納得してた筈だよ、あの制服は古すぎたかも、って。
 キャプテンだったら若い世代の話だって聞いて、改革すべきだったかも、って言ったじゃない。
 それと全く逆の話だよ、制服が必要だっただなんて。
 新しい世代が不満を持っていたって、制服は無くてはならないだなんて。
 古い世代はかまわないけど、新しい世代は我慢なんだよ…?
 そんな制服、シャングリラにはもう、要らなかったように思うんだけど…。



 廃止しちゃっても良かったくらいなんじゃあ…、と恋人の瞳を見詰めた。着たい者だけが制服を着る船にするとか、ブリッジクルーだけが制服だとか。
「そういう船でも良かったんだよ。何処に行くにも制服だなんて、窮屈だもの…」
 今のぼくだって、家でも制服を着なきゃいけない決まりだったら、嫌いになるよ。小さい頃には憧れてたって、着る羽目になった途端にね。
 だけど家だと脱いでいられるから、制服は好き。…シャングリラだって、いつでも制服っていう決まりでなければ、もっと自由にのびのび出来たと思うから…。
 制服を残しておくんだったら、学校の制服みたいな形、と自分の意見を述べたのだけれど。
「さっきも言ったろ、買い物をしたヤツらがいたと。…服をドッサリ山のようにな」
 着る場所も無いのにどうするんだ、と呆れちまったが、今から思えば、地球に着いたら着ようと思っていたんだろう。…あの戦いが終わったら。
 着るべき時を知ってたんだな、俺たちが規則で縛らなくても。船では制服を着て過ごすように、何度もうるさく怒鳴らなくても。
 現に買い物をして来たヤツらは、その服を着てはいなかったから。…俺が知る限り、一度もな。
 それに、服や帽子を買いに出掛けるようになる前。
 船の中だけが全ての頃にも、リボンやピアスなんかはあったぞ。船で作れるヤツだけだが。
 あれがささやかなお洒落でだな…。若いヤツらも、ちゃんとお洒落をしてたんだ。
 ルリはリボンにピアスだったし、とハーレイが挙げる若いルリの名。幼い頃からブリッジにいた少女の髪にはリボンがあった。長じてからはリボンがカチューシャに変わったルリ。
 それにピアスもしていたっけ、と覚えている。育った彼女に似合いのピアスを。でも…。
「ピアスだったら、エラやブラウもつけてたよ?」
 最初にピアスをつけたのはブラウで、エラはずいぶん怖がってて…。耳たぶに穴を開けるのを。
 それでもピアスをつけてたんだし、他にもピアスをつけてた仲間…。
 制服を決めた古い世代にもいたんだけれど、と反論したピアス。ずっと前からあったのだから。
「おいおい、エラやブラウも女なんだぞ? きっと分かっていたんだな」
 お洒落をすれば気分がいい、と。お前が言ってた新聞にあった記事みたいに。
 そして選んだのがピアスってわけで、新しい世代も素敵だと思ってつけていた、と。
 出来る範囲のお洒落が似合いの船だったんだ。…シャングリラという前の俺たちの船は。



 ピアスとリボンで充分な船だ、とハーレイは言っているけれど。制服をやめることはしないで、自分なりに少しお洒落をするのがピッタリだったと語るのだけれど…。
「でも、ハーレイ…。制服が無ければ、もっとお洒落が出来たのに…」
 同じリボンでも、服に合わせて選べるよ。今日は青とか、今日はピンクにしてみようだとか。
 下の学校、そういう子たちが大勢いたもの。リボンの色も、髪型も変えて通ってくる子が。
 制服の学校じゃなかったからだよ、と今の自分だから分かる。好きな服を着て通える学校、下の学校でお洒落していた子たちを大勢見て来たから。
「お前が言うのも分からないではないんだが…。お洒落したかった仲間もいたんだろうが…」
 シャングリラには他に優先すべきことがあったろ、ミュウの未来だ。ミュウが殺されない世界。
 それを手に入れてから、存分にお洒落をすべきだってな。制服を脱いで。
 みんな分かってくれていたと思うぞ、誰かが改めて言わなくても。
 俺がナスカで一度だけ手を上げたみたいな真似をしなくても、船のヤツらは、きっと全員。
 若い世代も制服のことはきっと分かっていた筈だ、とハーレイは自信たっぷりだけれど。誰もが承知で、古い世代が決めた制服を守っていたと信じているようだけれど…。
「そうなのかな…? ハーレイは本当にそう思う…?」
 シェルターに残るような無茶をしてまで、ナスカにしがみつこうとしたのが若い世代だよ?
 その仲間たちも、制服は着ていたんだけれど…。自分たちで勝手に服を作ってはいないけど…。
 でも、制服の大切さを分かった上で着てくれていたと思うわけ…?
 それしか無いから着たんじゃなくて…、と投げ掛けた問い。他に色々な服が無ければ、制服しか着られないのだから。どんなに嫌でも、それを着るしか無いのだから。
「多分な。…証拠を出せと言われても困るが、ナスカならではの服というのも無かったから…」
 あいつらがその気になっていたなら、新しい服もきっと作れた。ナスカ風とでも銘打ってな。
 しかしヤツらは作っていないし、作ろうという話さえも出てはいなかった筈だ。出たなら、俺の耳にも入って来るからな。…材料の調達の関係なんかで。
 それと同じで、キャプテンには色々な苦情も届くが、制服が嫌だと聞いてはいない。俺の方から訊きに行かなくても、本当に嫌だと思っていたなら、自然と聞こえてくるもんだ。
 お洒落をしたいという声の方も、俺は一度も聞いていないな。
 そういう時はまだ来ていないことを、船の誰もが知っていたんだ。…まだ早すぎると。



 あくまで制服を貫き通して、お洒落も出来る範囲でだけ。皆が分かってくれていたから、制服は船にあったという。
 ミュウの未来を手に入れるまでは、お洒落をすべきではないと。いつか平和な時代が来るまで、白いシャングリラには制服が一番似合いなのだと。
「それじゃ、トォニィの時代のシャングリラはどうなっていたのかな…?」
 とっくに平和になってたんだし、制服、なくなっちゃったと思う…?
 好きな服でお洒落が出来たのかな、と尋ねたけれども、「さあな?」と首を捻ったハーレイ。
「俺はとっくに死んでいたから、トォニィの時代の船は分からん。しかしだな…」
 船を降りたヤツらもいたほどなんだし、私服で船に乗ってたヤツらもいたんじゃないか?
 仕事が無くて非番の時なら、何を着たってかまわないから。…どんな仕事もそんなものだろ?
 制服は残っていた筈なんだが、強制力はもう無かっただろうな。着ろと命令するヤツも。
 だからだ、船に残ったヤツらにしたって、休みの日には羽を伸ばして…。
 命の洗濯をしたんじゃないか、というのがハーレイの読み。もう箱舟ではないシャングリラで。
「お洒落してた仲間もいたのかな…?」
 気分転換じゃなくても、お洒落。今はこういう服が流行りだとか、この色がいいとか、みんなで騒いだりもして。…女の人も大勢いた船なんだし。
 そういう仲間もきっといたよね、と尋ねてみたら「いただろうな」という答え。
「俺が思うに、あちこちの星で買い込んで来た服を大いに生かすべきだし…」
 喪が明けた後には着てたんじゃないか、ジョミーや前の俺たちの喪だな。地球が燃えた後に。
 そして船を降りて遊びに行ったり、船でお洒落をしてみたり。…非番の時に。
 きっとあの服たちの出番はあったぞ、とハーレイの瞳が見ている彼方。制服しか着られなかった時代に仲間たちが買った、山ほどの服の行方を眺めているのだろう。仲間たちが纏っている姿を。
「…その記録、何処かに残ってるかな?」
 トォニィの時代になったシャングリラで、制服はどうなっていたのか。
 みんなが着てたか、もう着ていない人が多かったか、そういうの、気になるんだけれど…。
「制服か…。探せばデータが残っているとは思うんだがな」
 ただし今でも残ってる写真は、恐らく制服を着ているヤツらのばかりだろう。
 私服のヤツらは一人もいなくて、全員集合の写真となったら、みんな制服を着込んでいて。



 なにしろ私服だと絵にならないから…、とハーレイが見せたキャプテンの貌。まるでブリッジにいるかのように、「俺ならそうする」と。
「写真を撮るぞ、ということになったら、「制服を着ろ」と言うんだろうな」
 普段は制服を着てないヤツにも、「早く着てこい」と。…でないと格好がつかないじゃないか。
 いくらシャングリラが立派な船でも、私服じゃ駄目だ、とハーレイが言うものだから。
「…そんな理由で制服なわけ?」
 私服の仲間が大勢いたって、残ってる写真は制服の仲間ばかりになっちゃうの…?
「平和な時代ならではじゃないか。いわゆる演出というヤツだな。すまし顔の写真」
 シャングリラらしい写真を撮るなら、制服にするのが一番だ。私服じゃ締まらないだろう…?
 ブリッジにしても、天体の間にしても…、と聞いて想像したら分かった。確かにシャングリラは制服の仲間が似合う船。いくら平和な時代になっても、素敵な写真を撮りたいのなら。
「そうだね、トォニィもあのソルジャーの服でないと駄目だよね…」
 違う服だって着てただろうけど、シャングリラで写真を撮るんだったら、絶対、あれだよ。
 きっと写真は残ってなくても、みんなお洒落が出来たよね…。制服を脱いで。
「うむ。時と場所ってヤツは大切なんだ。…今のお前も、学校ではいつも制服だしな」
 女子も制服、着てるだろうが。私服だった下の学校がいいとは言っても、私服で来ないで。
 それと同じだ、シャングリラだって。時と場所とがきちんと揃えば、お洒落も出来たさ。
 時が来たなら制服を脱いで、誰もがお洒落していただろう、とハーレイが言ってくれたから。
 前はキャプテンだった恋人が保証してくれたから。
 白いシャングリラにいた女性たちも、平和になった後の時代は私服だったと思いたい。
 写真は残っていなくても。すまし顔の制服の写真ばかりが残っていても。
 トォニィたちの時代になったら、制服の代わりに、誰もが好みのお洒落な服。
 非番の日などはうんとお洒落して、シャングリラで幸せな時を過ごしていて欲しい。
 今の自分が幸せなように。…青い地球の上で、幸せな今をハーレイと満喫しているように…。



            お洒落と制服・了

※子供たちまで制服だったシャングリラ。養父母の家にいた頃は、服を自由に選べたのに。
 古参以外の仲間たちには、制服は窮屈だったかも。トォニィの時代は、私服になっていそう。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











(羊の毛刈り…)
 そんなのあるんだ、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 ふわふわ、モコモコの毛皮の羊。その毛を刈って使うことは知っていたけれど…。
(一年に一回か、二回…)
 人間が毛を刈ってやる。バリカンや手バサミなどを使って、すっきりと。毛を刈った後の羊は、丸裸のような身体になってしまうから。毛皮を持ってはいないものだから、季節を選んで。
(風邪を引いちゃったら、大変だものね?)
 雪が降るような寒い季節に、丸裸では風邪を引くだろう。だから毛刈りは春や秋のもの。沢山の羊たちの毛を順番に刈ってゆくのが、牧場の人たち。次はこの羊、と。
 それを体験させてくれる牧場があるらしい。予約が必要な所もあれば、その季節に行けば誰でも出来る牧場だって。親子で挑戦して下さい、と大人用と子供用の作業服がある牧場も。
 一人で一頭刈るのだったら、一時間半くらいと書かれているけれど。
(でも、下手くそ…)
 毛刈りをするのは、素人だから。羊の毛なんか刈ったこともない、初心者ばかり。
 慣れた人が刈ったら、繋がった一枚の毛皮が出来上がるのに、そうはいかない挑戦者たち。毛の塊が幾つもフワフワ、転がることになるという。羊が着ていた毛皮の分だけ。
 けれど毛を刈る前と後では、別の生き物のようになる羊。モコモコだった身体がほっそり、顔も尖って見えてしまって。
 なんだか楽しそうではある。羊の毛を刈ってみるということ。
(ハーレイだったら上手かな?)
 身体が大きいから、余裕たっぷりで刈ってゆけそう。手の届く範囲がうんと広いし、羊の方でも大人しくしそう。「こんな相手じゃ、逃げられないよ」と。
(いつか行くのもいいかもね?)
 ハーレイと二人で、羊の毛刈り。親子用の作業服とは違って、大きいサイズと小さめサイズで。
 いつかデートに行ける日が来たら、二人で暮らし始めたら。
 毛刈りをさせて貰える季節に、ハーレイの車で出掛ける牧場。刈った毛をお土産に貰える牧場もあるというから、其処が楽しいかもしれない。毛の使い道を、すぐには思い付かないけれど。



 ちょっといいよね、と思った羊の毛刈り。牧場だったら、美味しい物も食べられそう。
(覚えておこうっと…)
 いつかハーレイと行きたいから、と考えながら戻った二階の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で、キッチンの母に空のカップやお皿を返して。
 勉強机の前に座って、さっきの記事を思い出す。毛刈りの他にも羊のことが書かれていた。
 とても昔から、人間に飼われていた羊。フワフワの毛が沢山採れるし、肉にもなるし、おまけに乳でチーズも作れる。なんとも便利で、役に立つ家畜。
 ただ、人間が飼育している羊は、改良されてしまっているから、毛を刈らないと…。
(生きていけない、って…)
 毛皮が重くなりすぎて。動き辛いし、伸びすぎた毛が原因で病気になることもある。絡み合った毛は、勝手に抜け落ちてくれないから。人間が刈ることを前提に改良されているから。
 牧場にいるのは、そういう羊。其処から勝手に逃げた羊は、とんでもないことになるという。
 誰も毛刈りをしてくれないから、毛の塊のようになってしまって。保護されて毛を刈って貰えることになっても、もう簡単には刈れない毛。プロ中のプロを呼んでこないと。
(毛が採れて、美味しいチーズも作れて…)
 その上、肉にもなる羊。もっとも羊の乳というのは、牛乳のように飲むには向かない味らしい。加工してチーズにするのが一番、そうすればグンと美味しくなる乳。
 フワフワの毛とチーズと、それから肉と。牛よりも素敵に思える羊。牛だと乳と肉だけだから。
(…なんで、シャングリラで飼わなかったわけ?)
 とても便利な動物なのに、と思った羊。
 船の仲間たちの衣服を賄えるだけの数は無理だとしたって、何頭か飼えば良さそうなもの。皆に行き渡る分が無くても、順番待ちにすればいい。希望者を募って、羊の毛から作った手袋とか。
 子供たちの教材にも、きっとピッタリの羊。さっき新聞で読んだみたいに、毛刈りの体験。
(植物の綿を育てていたんだから…)
 綿の実から生まれる、天然の綿。植物が作り出す天然の繊維。それが採れたら、糸紡ぎまで手でしていたほど。遠い昔の紡ぎ車を、ちゃんと再現して作って。
 あれはヒルマンの提案だったし、羊の名前も挙がりそう。「教材にいいと思うんだがね?」と。羊を何頭か飼っていたなら、子供たちだって喜ぶから、と。



 けれどシャングリラにモコモコの羊はいなかった。白い鯨で飼われていたのは、牛や鶏といった動物。毛と肉と乳が役立つ羊は、ただの一頭もいなかった船。
(羊も飼えば良かったのに…)
 どうして飼わなかったのだろう。大人しい羊は、凶暴な動物とは違うのに。子供たちが毛刈りをしに出掛けたって、蹴ったり噛んだりはしないだろうに。
 それなのに船にいなかった羊。白いシャングリラなら充分に飼えた筈だけど、と不思議に思っていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、訊くことにした。
 テーブルを挟んで向かい合わせで、まずは毛刈りの話から。いつか二人で行きたい牧場。
「あのね、ハーレイ…。羊の毛刈りをしたことがある?」
 牧場で飼ってる、モコモコの羊。毛刈りの季節に牧場に行けば、刈らせて貰えるらしいけど…。
 小さな子供も出来るみたい、と持ち出した話題。「ハーレイもやったことがある?」と。
「いや、無いが…。話には聞いてるんだがな」
 生憎と俺は体験してない。牧場で羊を見たことはあるが、それで終わりだ。毛は刈っていない。
 そういう季節じゃなかったかもな、という答え。羊が風邪を引く季節ならば、毛刈りは無理。
「ハーレイ、やっていないんだ…。面白そうだよ、新聞に載っていたんだけれど」
 いつかハーレイと行ってみたいな、羊の毛刈りが出来る牧場。お土産に毛を貰える所がいいよ。毛の使い道は、まだ考えてはいないんだけど…。
「未来のデートの約束か。羊の毛刈りなあ…。確かにユニークではあるが…」
 お前、自分で刈れるのか、と尋ねられた。「羊はデカイぞ?」と。小さく見えても、側に行けば大きいのが羊。人間が背中に乗れるくらいに。
「出来なかったら替わって貰うよ、ハーレイに」
 一頭刈るのに、一時間半くらいなんだって…。疲れちゃった時は、ハーレイ、お願い。
 駄目かな、と強請るように見上げた恋人の顔。「ぼくが途中で疲れちゃったら、替わって」と。
「お前のことだし、そんなトコだとは思ったが…。いいだろう、連れて行ってやる」
 二人で一頭刈ることにするか、俺がお前の分まで刈ることになって一人で二頭分の毛刈りか…。
 俺はどっちでもかまわないがな、お前がやってみたいのならば。
 お安い御用だ、と引き受けてくれた、頼もしいハーレイ。牧場までのドライブだって。



 約束できた未来の計画。ハーレイと羊の毛刈りに行くこと。挑戦できる季節になったら。毛皮を刈られた後の羊が、風邪を引かない季節が来たら。
「ありがとう! いつか行こうね、羊の牧場。うんと楽しみにしてるから」
 でもね…。不思議なんだよ、羊のこと。今じゃなくって、前のぼくたちの頃なんだけど…。
 羊は毛が採れて、肉にもなるでしょ。新聞にはチーズも作れるんだって書いてあったよ、牛乳のようには飲めないけれども、乳からチーズ。
 牛だと、お肉とミルクだけ…。皮も使えるけど、羊みたいに何回も毛は採れないし…。
 羊、とっても役に立つのに、どうしてシャングリラにいなかったのかな…?
 ヒルマンが言い出しそうなのに…。「この船で羊を飼いたいのだがね」って、会議の時に。
 だってそうでしょ、子供たちの教材にピッタリだよ、羊。
 植物の綿を育てたみたいに、羊を飼って毛刈りをしたら、フカフカの毛が採れるから…。それを紡げば糸が出来るもの、綿と同じで。
 紡ぎ車もあったんだから、と今のハーレイにぶつけた疑問。白い鯨にモコモコの羊がいなかった理由は、何故なのか。船で飼ったら、きっと素敵な教材になっていたのだろうに、と。
 そうしたら…。
「お前はいつでもそう言うな。…今も昔も、羊となったら」
「え?」
 どういう意味、とキョトンと見開いた瞳。前にハーレイと羊の話をしたろうか。シャングリラに羊がいなかったことか、あるいは役に立つという方なのか。まるで覚えていないけれども。
(…ハーレイと羊の話なんか、した?)
 毛刈りの記事は今日が初めて、牧場で体験できることすら知らなかった。羊の乳がチーズ作りに向いていたって、飲むには不向きだということも。他にどういう羊の話をしたのだろう…?
「間違えるなよ、今のお前じゃない。前のお前だ、ソルジャー・ブルーだった頃だな」
 前のお前も言い出したんだ。羊がいい、と。…覚えていないか?
 今日と全く同じに羊、と口にされても分からない。前の自分と羊の関係が、欠片さえも。
「羊って…。それって、いつ?」
 前のぼくだよね、羊がいいって言ったわけ…?
 毛刈りをしようとか、教材にいいとか、今とおんなじことを言ったの…?



 白いシャングリラには、いなかったモコモコの毛をした羊。何故いなかったのか、ハーレイなら知っていそうだと思って訊いたのに。キャプテンの記憶をアテにしたのに、貰った返事は予想外。
 前の自分が羊の話をしたと言われても、本当に欠片も思い出せない。
「どうやら忘れちまったようだな、羊を飼い損なったから。…お前が提案した羊なのに」
 悔しさのあまり忘れちまったか、仕方ないからと諦めてそれっきりだったのか…。
 前のお前なら諦めた方だな、悔しがるようなタイプじゃなかったから。物分かりが良すぎて。
 お前が羊だと言い出したのは、牛たちの飼育が軌道に乗ってからだった。新鮮なミルクが充分に採れて、バターもチーズも毎朝、食堂で出るようになって…。
 そんな頃だな、会議の席でこう言ったんだ。「次は羊を飼わないかい?」と。
 俺やヒルマンたちが揃う会議だ、と指摘されたら蘇った記憶。前の自分と、船で羊を飼う話。
「思い出した…!」
 ホントだ、今と全く同じ…。さっきハーレイが言った通りに、今のぼくと同じ考えだったよ。
 前のぼくは新聞を読んでたわけじゃないけど…。自分で調べていたんだけれど…。
 羊はとっても役に立つこと、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せた。前の自分が生きた時代に。
 白いシャングリラのライブラリー。其処で目にした、羊のデータ。
(…羊って、どんな動物だろう、って…)
 元々、聖書で気になっていた。前の自分が生きた頃にも、唯一、残っていた神が書かれた聖書。本を読んでいても出てくるのが聖書、どういうものかと読んでもみた。神の言葉や預言などを。
 その聖書の中に繰り返し出て来た、神様の羊。
 クリスマスに馬小屋で生まれた神様、その神様を子羊に例えているのが聖書の言葉。人間たちを救うためにと、神が遣わした救い主。
 人間の姿になった神様は、育った後に十字架の上で殺された。罪深い人間たちに代わって、その罪を全て贖うために。自らの身体で、自らの血と、かけがえのない命とで。
 神様は後に復活して天に昇ったけれども、人間のために犠牲になった神様だから、生贄の子羊の姿で出てくる。聖書の中に。「屠られたと見える子羊」などという言い回しで。
 つまり、神様は羊の姿。そして人間も「迷える子羊」。
 神様は牧者で、沢山の羊を飼っている。人間という多くの羊たちを。一頭でも迷子になった羊がいるなら、神様は何処までも探しにゆく。姿が見えなくなった羊を、無事に見付け出すまで。



 神様も人間も、羊に例えられるのが聖書。そして神様が馬小屋で生まれたことを、神様の使いが知らせにゆくのは羊飼いの所。夜に羊の番をしていた者たちが出会った、神様を称える天使たち。
 人間たちを代表して知らせを貰う人たちも羊を飼っていたのだし、きっと羊という動物は…。
(とても大切な動物だったんだろう、って…)
 そう思ったから調べたデータ。姿は写真や絵などで知っていたけれど、もっと詳しく、と。
 羊はどういう生き物なのか。人間とどんな具合に関わり、生活にどう役立ったのか。遠い昔から飼われていたのは、もう間違いない生き物だから。聖書の中にも、羊飼いが登場するほどに。
 興味津々で調べてみたら、大いに役立ちそうなのが羊。
 一頭の羊から何度も毛皮が採れる。纏っている毛を刈ってやったら、また次の毛が生えて来て。
 肉にもなるし、雌の羊なら乳も搾れる。飲むには不向きな味らしいけれど、チーズにしたなら、それは美味しいものが出来るとあったから…。
(みんなの服を作るだけの毛は無理だけど…)
 それだけの羊を飼うとなったら大変だけれど、教材用なら何頭かいれば充分だろう。子供たちが毛を刈ることが出来て、その毛で色々なものを作れる羊。きっと素敵だろう生き物。
(フワフワの毛を刈って、加工して…)
 チーズ作りも、子供たちの役目にするのもいい。船の食堂で供するだけの量は無理だし、チーズ作りをした子供たちが分けて食べるのが一番。余るようなら、希望者を募ってクジ引きで配る。
(そんな風にしたら、誰も文句は言わないし…)
 教材用にと飼う羊でも、世話をしてくれる仲間も現れる筈。子供好きの仲間たちも多いし、動物好きの仲間たちだって。
 そう考えたから、会議の席で提案した。次は羊を飼わないか、と。
「羊じゃと?」
 なんでまた、とゼルが最初に声を上げたから、「いいと思うんだけどね?」と微笑んだ。
「ヒルマンが言い出さないのが不思議なくらいに、羊は素晴らしそうだけど…」
 このシャングリラで飼ってみるには、似合いの生き物だと思う。
 自給自足で生きてゆくのが、今のこの船の方針だろう?
 人類の船から物資を奪う時代は終わって、船で全てを賄う時代。牛が飼えるなら、羊も飼える。
 そして羊は、牛よりも素敵な所があるように思うものだから…。



 子供たちの教材に飼ってみるにはピッタリだ、と会議に出ていた皆に話した。前のハーレイと、長老と呼ばれ始めていた四人とに。
 羊がいたなら、毛刈りをしたり、刈った毛で色々なものを作ってみたり。繊維を針などで絡めてやったら、塊になってフェルトが出来る。紡いでやったら毛糸が作れる。
 フェルトも毛糸も、其処から加工してゆけるもの。色々なものを作り出せるし、牛の毛などとは全く違う。鶏たちが纏う羽根とも。
 羊の乳は飲めないけれども、代わりに美味しいチーズが出来る。牛たちのように肉も採れるし、如何にも役に立ちそうな羊。何度も毛皮を刈れるだけでも、もう充分に。
「とても素敵だと思うんだよ。飼ってみれば、きっと」
 毛皮と肉とチーズだからね、と羊の利用方法を説いた。牛よりもずっと幅が広い、と。
「なるほどねえ…。面白いかもね、あたしは賛成だ」
 乗り気になってくれたのがブラウで、ゼルも賛成した。「わしもじゃ」と髭を引っ張りながら。
「なかなか良さそうな生き物じゃて。毛皮に肉にチーズとなれば」
 牛からは毛は採れんからのう、皮だけで。それも一回限りで終わりじゃ、皮は一頭の牛に一枚と決まっておるんじゃから。しかし羊は、毛皮を何回採っても問題ないんじゃし…。
 どうして今まで羊を飼おうと思い付かんのじゃ、とゼルはヒルマンを睨み付けた。船で飼うには丁度いい羊、それを思い付きさえしないとは、それでもお前は「教授」なのかと。
 ヒルマンの渾名は「教授」で通っていたものだから。…博識なせいで、誰からともなく呼ばれた名前。そういう渾名を持っていながら、羊を思い付かないとは、とゼルが責めたのだけれど。
「…羊なら、私も考えてみたよ。とうの昔に、エラと二人で」
 そうだったね、とヒルマンはエラに同意を求めた。「羊の飼育も、何度か検討した筈だ」と。
「ええ。…ソルジャーが仰る通りの理由で、役立ちそうだと思ったのですが…」
 ヒルマンと調べてゆけばゆくほど、この船には向かない動物なのです。羊というのは。
 羊は群れたがる性質があって、群れが大きいほど安心するとか。…小さな群れでいるよりも。
 とてもストレスに弱い生き物で、そのせいで群れを作るのですよ。
 群れていないとパニックに陥ることもあるほど、羊は仲間といたがるそうです。
 一頭や二頭で飼っていたなら、怯えて病気になるくらいに…、というのがエラの説明だった。
 羊の健康を考えるならば、群れを作れるだけの数を集めて飼わねばならない。しかも群れの形で行動するから、充分に広い放牧用のスペースを確保しなければ、とも。



 シャングリラの中で羊を飼おうと言うなら、群れを形成できるだけの数で。その上、その群れが草を食めるだけの場所が要る。草は人工飼料にしたって、牛のような飼育方法は無理。ストレスで病気になるのを防ぐためには、群れで暮らせる広大な場所が要るのだから。
「今、エラが言った通りだよ。教材用にと、少しだけ飼うのは難しいのが羊でね…」
 かと言って、本格的に飼うとなったら、今度は飼育が大変だ。群れでしか飼えない動物だから。
 それだけの手間暇をかけてやる価値が、あるかどうかとなったらだね…。
 どうなんだね、とヒルマンに言われなくとも分かる。肉なら牛と鶏がいるし、チーズは牛の乳で充分。バターもチーズも足りているから、羊の乳まで無くてもいい。
 羊の毛側も、船では特に必要ではない。繊維は合成品で間に合っているし、ストレスに弱い羊を育てるメリットはまるで無い状態。毛刈りや紡ぐ手間がかかって、却って負担が増すだけの船。
 ヒルマンの言葉を継ぐような形で、エラまでがこう口にした。
「そういった理由で、羊は飼わないことにしようと決めたのですが…。この船では」
 子供たちの教材にする程度の数の羊では、とても上手くはゆきません。
 遠い昔には、牧場から逃げて暮らす羊もいたようですが…。森の中などで、一頭だけで。
 けれど、そういう強い羊は稀なのです。ペットにしようと一頭飼っても、弱ってしまうのが殆どだったそうですから。…群れを作れる仲間がいなくて、心細くて。
 そんな厄介な羊を飼おうということでしたら、羽根枕用のグースも飼いたいくらいです。
 反対されて諦めましたが…、とエラが持ち出したグースの話。羽根枕などの材料に使う、水鳥の羽毛が採れるのがグース。
(…ソルジャー専用の羽根枕だとか、羽根布団だとか…)
 高級な寝具が欲しかったエラ。そのためにグースを飼いたがったけれど、水鳥の飼育には必要な池や、池から上がった時に休憩するスペースなど。
 鶏とは比べ物にならない手間がかかるのがグースで、飼わないと決まったのだった。
(グースなんかと一緒にされたら…)
 羊を飼うのは夢物語だというのが分かる。役立つようでも、現実的ではない羊。
 どうやらシャングリラには向かない生き物、群れを作るだとか、群れで行動したがるだとか。
 飼えない理由を並べられたら、前の自分も諦めざるを得なかった。羊を飼うということを。
 先に考えていたヒルマンとエラが、「無理だ」と結論付けたのなら。博識な二人が熟慮した末に出した結論、それが「飼わない」ことだったなら。



 遠く遥かな時の彼方で、とても残念に思ったこと。せっかく素敵な羊を見付け出したのに、白いシャングリラでは飼えないなんて、と。
 フカフカの毛皮とチーズと肉を与えてくれる、役に立つ家畜。牛よりもいいと考えたのに。
「…そうだったっけ…。前のぼく、ホントにおんなじことを言ってた…」
 シャングリラで飼うにはピッタリだよ、って会議でみんなに言ったのに…。
 ゼルもブラウも賛成だったのに、ヒルマンとエラに「羊は無理だ」って言われておしまい…。
 前のハーレイだって、何も言ってはいなかったけれど、ヒルマンとエラの味方なんでしょ?
 シャングリラのキャプテンだったんだものね、と視線を向けたら、ハーレイは否定しなかった。
「そんなトコだな、キャプテンである以上はな…?」
 より良い船を作ってゆくのが、キャプテンの仕事なんだから…。羊を飼ったら船がどうなるか、其処が一番大切なことだ。いい船になるのか、その逆なのか。
 前のお前も直ぐに羊を諦めたんだし、どっちだったかは分かるよな。羊がいるといい船なのか、困った船になっちまうのか。…前のお前は、ソルジャー・ブルーだったんだから。
 羊がいる船はどうなんだ、と尋ねられたから、肩を落として返した返事。「困った船だよ」と。
「…羊の群れを飼ってしまったら、専用のスペースを作らなきゃ…」
 船で一番大きな公園、羊にあげてしまうとか…。空きスペースを全部潰して、羊用にするとか。
 それでもきっと足りないだろうね、群れになって移動していくんだから…。
 今日はこっちの公園が良くて、明日はあっちに行きたいよ、って…。
 船が羊に占領されちゃう、とチビの自分でも分かること。仲間たちの憩いの場所だった船で一番広い公園、其処を奪ってしまうのが羊。モコモコと群れて、芝生も端から食べてしまって。
 前の自分も、そう思ったから諦めた。仲間たちのために作った公園、それを羊には譲れない。
「キャプテンの俺も、シャングリラを困った船にはしたくなかったからなあ…」
 羊の件では、ヒルマンとエラから何も聞いてはいなかったんだが…。
 俺に相談するまでもなく、「無理だ」と答えを出したんだろう。あの二人だけで。
 なのに、お前が持ち出しちまった。データベースで羊の話を見付けて、嬉しくなって。
 毛皮にチーズに肉となったら、確かにいいことずくめなんだが…。
 それよりも前に、羊の性質が問題だったというわけだ。少しの数では飼えないってトコが。
 俺は黙っているしかないだろ、ただでもガッカリしているお前に反対したくなければ。



 黙っているのが一番だよな、と今のハーレイが話してくれた昔のこと。白いシャングリラで羊の話を持ち出した時に、前のハーレイが守った沈黙の意味。反対でもなく、賛成でもなく。
 キャプテンの立場では、とても賛成できない「船で羊を飼う」ということ。
 けれども、それを口にしたなら、飼いたがった前の自分の心を傷つける。「ハーレイもだ」と。反対する理由が分かっていたって、キャプテンとしては正しいと直ぐに気が付いたって。
「…ハーレイ、黙っていてくれたんだ…。前のぼくのために」
 羊を飼うのは賛成できません、って言ったりしないで、黙っていただけ…。前のぼくがガッカリしちゃっていたから、もっとガッカリさせないように。
 ありがとう、とペコリと頭を下げた。あの日の前の自分の代わりに。
 もしもハーレイまでが「駄目です」と口を揃えていたなら、本当に悲しかっただろうから。
 羊は無理だと、諦めるのが正しい道だと分かってはいても、会議室から出てゆく時には、悲しい気持ちで胸が一杯だったろうから。
「礼を言われるほどのことじゃないんだが…。俺はお前を守りたかっただけだ」
 お前の肩を持ってやれないなら、俺に出来ることは「何も言わない」ことだけだろうが。
 あそこで俺がヒルマンとエラに賛成したなら、お前の心は傷ついちまう。
 いくらソルジャーでも、中身はお前で、ちゃんと心があるんだから…。素敵な思い付きだと胸を弾ませて、羊を飼おうと言ったんだから。
 まさか駄目だと言われるだなんて、お前、思ってもいなかっただろう…?
 違うのか、と向けられた穏やかな笑み。「羊、飼えると思っていたんだろ?」と。
「うん…。データベースで調べた時には、其処まで見てはいなかったから…」
 ずっと昔から人間が飼ってた家畜の一つで、うんと歴史が長い動物。
 だから簡単に飼えそうだよね、って思い込んでて、どういう風に飼育するかは見てなくて…。
 子供を産ませて増やせる程度の羊がいればいいんだよね、って…。
 そう思ってた、と打ち明けた前の自分の思い違い。羊にまるで詳しくなかった前の自分。
「仕方ないよな、お前は家畜のプロじゃないから」
 家畜飼育部の連中だったら、そっちの方まで調べなければと思うんだろうが…。
 ヒルマンとエラも、飼育を検討していたからこそ、其処まで辿り着いたわけだが…。
 ソルジャーだったお前の仕事は、それじゃない。調べなかったのも無理はないよな、羊の性質。



 素人だったら誰でもそうなる、と慰めてくれた今のハーレイ。「ゼルとブラウもだ」と。
 彼らも羊に賛成だったし、羊の飼育が難しいことを知らなかったら船で飼いたくもなる、と。
「前の俺だって、キャプテンという立場でなければ、あそこで賛成していただろう」
 良さそうじゃないか、と思っていたのは間違いない。試しに少し飼ってみるのも悪くない、と。
 しかし迂闊なことは言えんし、話の流れが定まってから…、と様子を見てたら、ああなった。
 俺も反対するしかないのが羊で、飼う方向へと行きそうだったら止めるしかない流れにな。
 幸い、そうはならなかったし、俺は黙っていることにした。…お前をガッカリさせないために。
 お前は羊をシャングリラで飼いたかったのにな…、と今のハーレイは味方してくれる。あの船で羊を飼おうと思って、生まれ変わっても同じことを思ったソルジャー・ブルーに。
「ハーレイ、最初は賛成だったんだね。羊がどういう生き物なのか、知らずに聞いていた時は」
 だけどシャングリラじゃ無理だったんだよ、羊を飼うっていうことは。
 モコモコの群れで暮らしていないと、羊は生きてゆけないから…。少しだけでは飼えないから。
 でも、本当に羊はストレスに弱い生き物なの…?
 大勢の仲間と群れていないと駄目なくらいに、寂しがり屋で弱虫なの…?
 逃げ出して森の中で暮らした羊もいるんだよね、とエラの言葉を思い出す。それに新聞で読んだことも。人間が毛を刈ってやらないと、大変なことになる羊。毛の塊になってしまって。
 そういう羊が発見されたら、プロの中のプロが毛を刈るしかない。すっかり絡んでしまった毛の塊には、並みの人では歯が立たないから。刈ろうとバリカンを手にしてみても。
 今も話題になるほどなのだし、逃げる羊もいるのだろう。群れを離れて一頭だけで。仲間の所に帰りもしないで、伸び放題になった重い毛を身体に抱えて、逞しく生き抜く強い羊が。
「どうなんだか…。今の俺も前の俺と同じで、羊には詳しくないんだが…」
 しかしだ、羊を飼ってる所じゃ、何処でも群れになってるぞ。バラバラじゃなくて。
 この地域だと、でっかい群れで飼ってる所は少ないが…。
 牧場の柵で囲った範囲で放牧してるし、そんなに大きな群れを作れはしないんだが…。同じ羊を飼うにしたって、昔から羊に馴染んでいた地域の文化を復活させた所だと、事情が違うようだな。
 牧羊犬っていうのを、お前も聞いたことくらいはあるだろう?
 人間の手伝いをする専用の犬を飼うほどなんだし、羊の群れも桁違いだ。人間様の力だけでは、とても面倒を見切れない数。それだけの羊の群れを引き連れて、あちこち移動して行くんだから。



 牧羊犬は名前通りに、羊の群れを纏める手伝いをする犬たち。羊たちが群れをはぐれないよう、好きな方へ行ってしまわないよう、吠えたり走り回ったりして大忙し。
 そんな犬たちを使うような地域に行ったら、それは大きな羊の群れ。この地域の牧場で見られる群れとは、まるで違った羊の数。数え切れないくらいの羊。
 道路をゆくのも羊が優先、彼らが道を渡り始めたら、車は止まって通過を待つ。モコモコの羊が次から次へと渡ってゆくのを、モコモコの群れが通り過ぎるのを。
「そんなに大きな群れなんだ…。ちょっと想像がつかないけれど」
 道路をいつまでも塞いでいるほど、次々に羊が出てくるなんて。きっと目の前、真っ白だよね。
 無理に車で通ろうとしたら、羊の海に捕まっちゃうかな…?
 前も後ろも羊だらけで…、と尋ねてみたら、「そうらしいぞ?」と笑うハーレイ。無理やり車を進めたら最後、本当に羊の海の中。前も後ろも、横も羊で埋まってしまって。
「車なんかは岩くらいにしか見えていないんだろうな。避けて通ればいいだろう、と」
 そして本当に巻き込まれるわけで、身動き出来なくなっちまうのが車と中の人間様だ。出たいと思ってドアを開けようにも、次から次へと羊がやって来るんだから。
 群れているのが好きだからこそ、そうなるんだろうな。邪魔な車が道路にあっても、先に行った仲間と一緒に行きたいもんだから。…ちょっと止まって待とうとは思わないわけだ。
 そういや、マザー牧場の羊か…。まさにそうだな、羊の群れは。
 大きな群れになればなるほど、マザー牧場って感じだよなあ…。上手いことを言う。
 きっと本物の羊の群れなんか知らなかっただろうに、とハーレイが感心している言葉。いったい何を指しているのか、誰が語った言葉なのか。
「なに、それ?」
 マザー牧場の羊っていうのは何なの、何処の牧場?
 ぼくは聞いたこともないけれど…、と首を傾げたマザー牧場という名前。其処の羊は、他の羊と違うのだろうか。群れているなら、その性質は普通の羊と同じに思えるのだけれど。
「知らないか? マザー牧場の羊って言葉」
 シロエさ、前の俺たちと同じ時代に生きてたセキ・レイ・シロエ。
 あのシロエがそう言ったんだ。
 E-1077にいた他の候補生たちのことを、マザー牧場の羊だとな。



 初めて耳にした言葉。「マザー牧場の羊」と口にしたのがシロエだったら、マザーが何かは直ぐ分かる。シロエが嫌ったマザー・イライザのことだろうと。
「…それ、有名な言葉なの?」
 マザー牧場の羊って…。マザーはマザー・イライザなんでしょ、候補生たちが羊なんだ…?
 群れだったの、と訊いてみた。ステーションでは個室で暮らしていた筈なのに、群れを作るのが不思議だから。どうやって群れになっていたのか、謎だから。
「本物の群れってわけじゃない。シロエが皮肉を言っていただけだ」
 羊の群れみたいに、マザー・イライザに飼い慣らされて従ってる、と。大人しく言われた通りにして。群れからはぐれようともせずに。
 …シロエが本物の羊の群れだの、性質だのを知っていたとは思えんが…。
 それにしたって、上手い具合に言い当てたよな、と思わんか?
 羊は群れから離れちまったら、ストレスでパニックになっちまう生き物なんだから。他の仲間と違う生き方は出来やしないのが普通の羊だ。…逃げ出して森で暮らす羊は別にして。
 マザー牧場の羊、シロエを調べりゃ、必ず出会うってほどに有名な言葉になってるんだが…。
 その調子だと、お前は調べちゃいないんだな、と尋ねられたから頷いた。
「だって…。前のぼく、シロエを捕まえ損なったから…」
 シロエの船をキースが撃ち落とした時に、シロエの思念がシャングリラを通り過ぎたんでしょ?
 前のぼく、それに気付いてたのに…。「誰かの声だ」って。
 だけどシロエだと思っていなくて、捕まえようともしなかったから…。シロエが最期に紡いでた思い、ぼくは受け止め損なったんだよ。
 シロエは誰かに思いを届けたかったのに…。受け止めていたら、色々なことが変わったのに。
 だから調べていないんだよ、と俯いた。
 セキ・レイ・シロエという名の少年のことは、未だに調べられないまま。歴史の授業で教わったことと、今のハーレイから聞いたことが全て。
 彼の存在を考えただけで悲しくなるから、調べようという気持ちになれない。
 今のハーレイが教えてくれた、マヌカの蜂蜜を入れたシロエ風のホットミルクを、風邪の予防に何度も飲んでいたって。
 シロエが好んだ母の手作りのブラウニーのことを、新聞で読んだお菓子の記事で知ったって。



 調べていないことは知りようがない。「マザー牧場の羊」という言葉。シロエが皮肉たっぷりに評した、候補生たちの姿は薄々分かるけれども。…前の自分は同じ時代に生きていたから。
「なるほどな…。シロエのことは調べていないから知らない、と」
 チビのお前なら、まだ知らなくてもいいだろう。…歴史の授業にも出てこないから。
 マザー牧場の羊ってトコまで教えていたなら、歴史の時間が幾つあっても足りないからな。
 今のお前は、丁度シロエと同じような年頃になるんだが…。マザー牧場の羊と言ってた頃の。
 キースと出会って直ぐの頃に言ったらしいから、というハーレイの指摘で気が付いた。キースと出会った頃のシロエなら、今の自分と変わらない。十四歳にしかならない子供。
 あの時代なら、十四歳は大人の入口だけれど。…成人検査で、養父母とも別れた後だけれども。
「そういえば、そうだね。…今のぼくって、その時のシロエと同い年だね…」
 ぼくはあんなに強くないけど…。シロエみたいに、独りぼっちで生きられないけど。
 群れから離れた羊なんて…、とシロエが駆け抜けた短い生涯を思うと胸が締め付けられるよう。他の候補生たちを「マザー牧場の羊」と詰ったシロエは、群れを離れた羊だったのだろう。
 羊は仲間と群れていないと、生きてゆくのも難しいのに。パニックに陥るほどなのに。
 けれどシロエは群れを離れて、独りぼっちで生きて死んでいった。まるで牧場から逃げた、森で暮らしている羊のように。誰も毛刈りをしてくれないのに、一頭で強く生き抜く羊。
 そのまま一頭で暮らしていたなら、いつか命の灯が消えるのに。刈って貰えない重たい毛皮が、自分の命を奪い去るのに。
「あの頃とは時代が違うだろ? 前のお前は強かったじゃないか」
 ずいぶんと時が流れた今になっても、ソルジャー・ブルーと言えば大英雄だ。メギドを沈めて、ミュウの未来を拓いた英雄。
 シロエなんかに負けちゃいないさ、前のお前も。…いや、シロエよりも遥かに強かった。お前と同じ時代に生きてた、前の俺がそいつを保証してやる。
 時代が違うのは分かる筈だぞ、今のお前は羊の毛刈りに行きたいと言い出すチビの子供だ。羊に夢を見られる時代と、飼うことも出来なかった船で暮らした時代じゃ、まるで違うというもんだ。
 マザー牧場の羊も今ではいないしな、と言われたけれど。本当に今は一頭もいないけれども。
「そうなんだけど…」
 いいのかな、羊に夢を見ちゃって…。毛刈りに行きたい、なんて思って、はしゃいじゃって…。



 同じ羊でもシロエだと…、と悲しい気持ちに包まれる。シロエはどんな思いでマザー牧場の羊と言ったか、羊の群れをどれほど嫌っていたことか、と。
「こらこら、しょげているんじゃない。マザー牧場の羊なんかは、もういないんだ」
 お前は今を生きているんだから、遠慮しないで羊の夢を追い掛ければいいと思うがな?
 青い地球まで来たんだろうが、とハーレイにポンと叩かれた頭。「此処は地球だぞ?」と。
「でも…。シロエも地球に行きたかったのに…」
 自由になって地球に行くんだ、って思いながら死んだ筈なのに…。独りぼっちで…。
 マザー牧場から逃げ出したせいで殺されちゃった、とシロエの悲しい思念波のことを思い出す。深い眠りの底にいてさえ、感じた切ないまでの憧れと想い。地球に向けての。
「昔のことに捕まるんじゃない。シロエの思念を捉えていたのは、前のお前だ」
 此処にいるのは今のお前で、前のお前とは別のお前で…。俺と一緒に羊の毛刈りに行くんだろ?
 結婚したら、俺の車で羊の毛刈りをさせて貰える牧場へ。刈った毛をお土産に貰える所に。
 それに他の地域にも旅をするなら、デカイ羊の群れにも何処かで出会えそうだぞ。
 まだ通り過ぎてくれないな、と待たなきゃいけない羊の群れ。次から次へと道路に出て来て。
 同じ羊なら、そっちの方の夢を見てくれ。前のお前が生きてた時代の、マザー牧場の羊なんかを気にしていないで。…今の時代の、幸せな羊の夢を沢山。
「…いいのかな、それで…?」
 ぼくだけ地球に来ちゃったのに、と拭えない胸の罪悪感。シロエの地球への強い想いに、確かに触れた前の自分。「ぼくは自由だ」と叫んで、飛び去ったシロエ。…暗い宇宙に。
「気にしちゃ駄目だと言っているだろう。あれからどれだけの時が経ったと思ってるんだ?」
 シロエだって、きっと地球まで来ているさ。前も言ったろ、もう人間に生まれただろうと。
 羊の毛刈りも体験済みかもしれないぞ。俺たちよりも、一足お先に。
 何処かの牧場に出掛けて行って…、とハーレイが話してくれるシロエの姿。憧れていた地球に、人間の姿で生まれたシロエ。もしかしたら、とっくに牧場にも行って。
「そうだといいな、今度は本物の羊。…マザー牧場の羊じゃなくて」
 本物の羊にちゃんと会えたら、シロエも羊を大好きになってくれるよね。嫌わないで。
 モコモコの羊はうんと可愛くて、毛だってフカフカなんだから…。
 ぼくだって毛刈りに行きたくなるほど、羊のいる牧場、うんと素敵な場所なんだから…。



 夢が一杯の牧場なんだよ、と本物の牧場に描いた夢。マザー牧場の羊ではなくて、大きな群れになっているモコモコの羊。この地域のだと、大きいと言っても群れの羊は少なめだけれど。
 シロエも羊を好きになっていてくれるといいな、と勢い込んだら、ハーレイが返して来た言葉。
「それなんだがな…。上手く毛刈りが出来たら、じゃないか?」
 失敗してたら羊が嫌いになるかもしれん、というハーレイの読みに、二人で声を上げて笑った。羊の毛を上手く刈れなくて怒る、シロエの姿を想像して。
 「羊なんか、大っ嫌いだ!」とプンプン怒って当たり散らしている、毛刈りに失敗したシロエ。足元には塊になった毛がコロコロ幾つも転がっていて、あちこちが禿げた羊が一頭。
「ふふっ…。きっとシロエは、まだ子供だね」
 お父さんと一緒に挑戦したけど、上手く刈れずにカンカンだとか。
「そうだな、ジョミーが出会った頃みたいな、小さなシロエなんだろう」
 失敗したことを、いつまでも忘れずに覚えてるんだぞ。成人検査はもう無いから。羊は嫌いだと思い続けて大きくなるのか、いつか復讐を果たそうとするか…。
 シロエのことだし、負けん気だけは強そうだから…。きっと復讐に行くんだろうなあ、羊たちのいる牧場まで。「今度は負けない」と、大きくなったら。
 なんと言っても、あのシロエだから…、と言われれば目に浮かぶよう。羊に敵愾心を燃やして、再挑戦に出掛けてゆくシロエが。歴史の教科書でお馴染みのシロエの姿だけれど。
「それじゃ、育ったら牧場に勤めて毛刈りのプロになるのかな?」
 誰よりも上手く毛を刈れるような名人になって、プロの中のプロ。逃げ出しちゃって、毛の塊になってしまった羊の毛だって、上手に刈ってしまえるような…。
「どうなんだろうなあ、相手はシロエだからなあ…」
 羊を捕まえてはブスブス注射していく獣医かもな、というハーレイの想像も面白い。今の時代は誰もがミュウだし、あの姿のシロエが白衣の獣医になっていたって可笑しくない世界。
 「こらっ!」と、「逃げるな!」と羊に叫んで、端から注射してゆくシロエ。幼かった頃に毛を刈ろうとして失敗したから、その復讐に。
 「ぼくは羊に負けないんだから」と、「全部まとめて注射してやる!」と。
 きっと羊は逃げ回るのだろう、白衣のシロエを目にしたら。注射嫌いの今の自分と同じで、羊も痛い注射は苦手で嫌だろうから。



 もしもシロエが地球に来ていたなら、本物の羊に会ったなら。モコモコの群れに出会ったら。
 今度は好きになっていて欲しい、羊たちが作る大きな群れを。
 マザー牧場の羊ではない、本当に本物の羊たち。毛刈りに出掛けて失敗したって、復讐のために戦って欲しい。毛刈りのプロを目指してもいいし、白衣の獣医になるのもいい。
 今の自分も、今度は羊の夢を追うから。
 白いシャングリラでは飼えなかった羊に会いに出掛けて、ハーレイと毛を刈るのだから。
 平和な時代は、本物の羊のモコモコの群れに出会える時代。
 シロエも自分もフワフワの羊の毛を刈るためにと、ハサミで挑戦できるのだから…。



              羊の夢・了


※シャングリラでは飼えなかった動物が羊。その性質のせいですけど、マザー牧場の羊。
 そう言ったシロエは、羊の性質を知っていたかどうか。そのシロエも、きっと今は幸せな筈。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










(ふかふかでフワフワ…)
 それに真っ白、とブルーが眺めた空の雲。部屋の窓から、ガラス越しに。
 学校から帰って、おやつを食べて戻った二階の自分の部屋。ふと目をやったら見付けた雲たち。青空に幾つも浮かぶ雲。ふんわり白くて、ゆっくりゆっくり流れてゆく。
(柔らかそう…)
 見上げたら、まるで雲の絨毯。こんもりと盛り上がった雲なら、雲の峰になる。天国はきっと、ああいう世界なのだろう。雲間から光が射している時は、天使が顔を覗かせるとも聞いたから。
 天使の梯子と呼ばれる現象、前にハーレイが教えてくれた。天使が昇り降りする梯子なのだと。昇り降りする天使の他にも、雲の縁から下を覗いている天使たち。ヒョイと顔を出して。
 それが天国の光景だったら、天国は雲の上にある。水蒸気で出来た雲だけれども、それとは別にある世界。前の自分が雲の上を飛んでも、天国は見えなかったから。
 生きた人間の目には見えない、魂たちが行く世界。何人もの天使が行き交う天国。もしも天国に行ったなら…。
(雲の上で暮らして、足元はフカフカ…)
 足がちょっぴり沈み込むような、真っ白な雲で出来ている世界。何処まで行っても雲の世界で、聳える山も雲なのだろう。前の自分が見下ろしたような、雲の峰が幾つも並んでいて。
 天国が雲の世界だったら、食べ物だって雲かもしれない。青空にぽっかり浮かんだ雲は、綿菓子みたいに見えるから。細い細い糸の砂糖菓子。甘くて幸せな味の綿菓子。
(毟って食べたら、美味しいとか?)
 甘いだけじゃなくて、と考えた。いくら天国でも、綿菓子ばかりの食事だと飽きてしまいそう。この世界にある綿菓子よりも、ずっと美味しい綿菓子でも。
 そうならないよう、色々な味になってくれる雲。なにしろ天国なのだから。
 甘いお菓子でも、オムレツにでも、どんな味にでもなれる雲。今、食べたいな、と思う味に。
(そうなのかもね?)
 天国だもの、と空に浮かぶ雲に思いを馳せる。水蒸気の塊の雲とは違った、天国の雲。此処から見える雲の上にある、本物の天国にあるだろう雲。
 その雲を千切って口に入れたら、欲しい味。食べたいと思う食べ物の味になるだとか、と。
 見た目は雲の塊でも。ふうわりと白い綿菓子でも。



 味だけ変身するのかもね、と広がる想像。天国の雲は色々な味がするのかも、と。
 雲の絨毯を毟って食べたら、食べたい味が口に広がる。食事の後には、雲のデザートだって。
(その方が神様だって、きっと楽だよ)
 天国には大勢の人が来るから、その人たちの数だけ色々な食べ物を用意するより、雲だけの方が省ける手間。「此処では雲を食べるように」と言いさえしたなら、それで済むから。
 天使たちがせっせと料理するより、誰もが好きに雲を千切って、食べたい料理を楽しめばいい。その日の気分で軽い食事や、うんと沢山の品数が並ぶ豪華なコース料理や。
(天国のレストランもいいけど…)
 あったら素敵だと思うけれども、きっと用意が大変だろう。テーブルや椅子は揃うとしたって、其処で供する料理が問題。大勢のお客の注文に応えて、あれこれと出してゆく料理。
 SD体制の頃ならともかく、今の時代や、SD体制に入るよりも前の豊かな地球の時代なら…。
(お料理、沢山…)
 地球が生み出した文化の数だけある料理。和食だけでも凄い数だし、他の文化の料理も山ほど。その上、料理人たちの工夫もあるから、数え切れないバリエーション。
 お客が「これを」と注文する料理、それを端から作るためにと、てんてこ舞いの天使たち。白い翼を背中に背負って、キッチンの中を右へ左へ。
 天使もエプロンを着けるのだろうか、シェフたちが被る帽子なんかも。料理をするなら、それに相応しい格好でないと、白い衣が汚れそう。輝くような天使の衣が。
(それとも、自分でお料理できるの?)
 天国のレストランで出てくる料理は、広く知られた料理だけかもしれない。SD体制が終わった今でも、効率の方を優先で。天使たちが無理なく作れる範囲で、定番のメニュー。
 他の料理が食べたいのならば、キッチンを借りて、好みの料理を自分で作る。材料などを揃えて貰って、「今日はこれだ」と食べたい料理を。
(それもなんだか大変そう…)
 作るのは天国の住人たちなのだけれど、食材を揃えに行く天使。それぞれの所に必要なものを。
 キッチンを借りる人に合わせて、あちらこちらに届けて回る。「此処にはこれ」と。
 調理器具だって、きっと山ほど要ることだろう。お鍋の種類もいくらでもあるし、混ぜるための道具も実に様々。何処にあるかと訊かれる度に、天使が「どうぞ」と出したりもして。



 なんとも大変、と改めて思った天国の食事。食べたい料理も食べられないなら、それは天国とは呼べないから。「こんな所は嫌だ」と思う人が大勢、出て来そうだから。
 誰もが幸せに暮らせる天国、食事も工夫されていた筈。誰でも満足できるようにと。
 ならば、天国の食事はどういうものだったろう。やって来た人が飽きない料理で、喜ばれる味を出していた筈の天国の食事というものは…?
(うーん…)
 確かに食べた筈なんだけど、と記憶の奥を探ってみる。何か手掛かりは無いだろうか、と。青い地球の上に生まれる前には、天国で食事をしただろうから。
 新しい命と身体を貰って生まれ変わる前には、きっと何度も食事していた筈なのに…。
(…思い出せない…)
 何を食べたか、何処で食事をしていたか。フカフカの雲の絨毯の上で暮らしていた頃。
 レストランに行ったか、雲を千切って食べていたのか、それとも料理をして食べたのか。何度も食べた筈だというのに、記憶の欠片も残っていない。美味しかったとも、不味かったとも。
(好き嫌いが無いのが悪かった…?)
 弱い身体に生まれた割には、何でも食べられる今の自分。好き嫌いなどは言わないで。
 前の自分もそうだった。アルタミラの檻で過ごした頃には、食べ物と言ったら餌と水だけ。檻に突っ込まれたそれを黙々と食べて、命を繋いでいたというだけ。希望の光も見えないままで。
 脱出した後も、贅沢を言えはしなかった食事。出された食事がどんな物でも、食べられなければ無くなる食べ物。パンと水しか。
 そういう暮らしが長かったせいで、好き嫌いなど無かった自分。今の自分にも継がれるほどに。
 前の自分はそうだったから、何が出たって食べただろうし、「これは嫌」とも思わないから…。
(覚えるような食べ物、無かった…?)
 天国という所には。生まれ変わっても覚えているほど、印象に残る食べ物などは。
 我儘を言っていなかったせいで、キッチンも借りずに終わっただとか。日々の食事に満足して。
(そうだったのかも…)
 こうして記憶を探ってみたって、まるで覚えていないなら。欠片さえも思い出せないのなら。
 ハーレイと一緒に、何度も食べていた筈なのに。
 青い地球の上に生まれられる日を待っている間に、何度も何度も食べただろうに…。



 ハーレイと二人で食べていたなら、毎日がデートのようなもの。前の自分たちが青の間で食べた朝食みたいに、ハーレイと二人きりのテーブルではなかったとしても。
 他にお客がいたとしたって、デートはデート。天国のレストランに行くというだけ、今の自分の憧れのデートと変わらない。「ハーレイと食事に行きたいな」と描いている夢。
 二人で雲を食べていたなら、二人きり。キッチンを借りていたのだったら、二人きりであれこれ楽しめた筈。作る時から二人なのだし、出来上がった料理を食べる時にも。
 そうは思っても、ハーレイと食べた食事のこと。天国で何を食べていたのか。
(…ハーレイだって、覚えていないよね?)
 好き嫌いが無いという点については、ハーレイも全く同じだから。前の生でも無かったのだし、今のハーレイも変わらない。二人揃って好き嫌いが無いから、それを探す旅を約束したほど。
(結婚したら、好き嫌い探しの旅に行こう、って…)
 色々な場所へ、其処の名物料理を食べに。沢山の食べ物がある今だったら、「これは駄目だ」と思う何かや、「また食べたい」と気に入る何かが、何処かで見付かりそうだから。
 そんな約束を交わすほどだし、ハーレイだって忘れていそうな天国の食事。好きな料理も苦手な料理も無かったのなら、印象に残らないままで。
 それとも欠片くらいは覚えているのだろうか、雲を食べたとか、レストランだったとか。ほんの微かな記憶だったら、ハーレイの中に今もあるのだろうか…?
 訊いてみたいな、と思っていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。気になって仕方ないことを。
「あのね、ハーレイ…。天国の食事を覚えてる?」
 どんなお料理を食べていたのか、ハーレイだったら分かるかなあ、って…。
「はあ? 天国の食事って…」
 何の話だ、そんなものを何処で食べるというんだ。地獄みたいな食事だったら覚えてるがな。
 アルタミラで食ってた餌と水だ、と眉間に皺を寄せたハーレイ。「あれは地獄の飯だった」と。
「それの後だよ、アルタミラよりもずっと後の話」
 前のぼくたちには違いないけど、死んじゃった後。…ハーレイも、ぼくも。
 此処に来る前の話だってば、今の地球にね。



 生まれ変わる前は天国にいたと思うんだけど、と続けた話。きっといただろう、雲の上の世界。
「ぼくもハーレイも、天国で何か食べた筈だと思うんだけど…」
 何も食べていないとは思えないしね、食事も出来ない世界なんてつまらなさそうだから。
 天国があるのは雲の上でしょ、此処から見える本物の雲の上じゃないけど…。雲の上を飛んでた前のぼくだって、天国を見てはいないから。
 でも天国は雲の上にあるものだから…。いったい何を食べていたのか、気になっちゃって。
 雲を千切って食べていたとか、レストランがあったとか、自分でお料理してたとか。
 ハーレイは何か覚えていないの、天国で食べた食事のことを…?
 ほんのちょっぴりでいいんだけれど、と期待した恋人の返事。何かヒントがありはしないかと。綿菓子を見た覚えがあるとか、雲の欠片を千切っただとか。
 けれど…。
「おいおい、俺が覚えていると思うのか?」
 覚えていたなら、とっくの昔に話しているぞ。「これは天国でも食ってたよな」と、思い出話。
 何かのはずみに思い出したら、そいつを土産に持って来たりして。「懐かしいだろ?」と。
 生まれ変わってくる前のことは、お前と一緒だっただろうっていうことくらいしか分からない。
 それだって記憶は全く無いしな、何処にいたのかも謎だと何度も言っただろうが。
 お前と暮らした思い出さえも無い有様だぞ、食事なんかは覚えていない。何を食ったか、お前と二人で食っていたのかも。
 覚えているかと訊かれても無理だ、とハーレイの方もお手上げだった。天国で何を食べたかは。
「やっぱり無理…?」
 ハーレイも覚えていないんだ…。天国にも食事はあった筈だと思うのに…。
 雲を千切って食べていたとか、天使がやってるレストランに食べに行ったとか。
 綿菓子みたいに見える雲だけど、いろんな味になりそうな気がしてこない?
 これが食べたい、って思って食べたら、思った通りの味になる雲。それが一番良さそうだよ。
 今はお料理、うんと沢山ある時代だから…。
 大勢の人が自分の好みで注文したなら、天使も大忙しだもの。あれを作って、次はこれ、って。
 そうなるよりかは、好きな味になってくれる雲が良さそう。
 でなきゃ自分でキッチンを借りて、好きな料理を作るだとかね。



 どういう仕組みになっていたのか知りたくなるでしょ、と眺めた雲。「ちょっと残念」と。
 あの雲の上で二人で暮らした筈なのに、と。
「いつもハーレイと一緒なんだよ、食事も一緒。…デートみたいに」
 レストランに行くならホントにデートで、二人で雲を食べていたって、やっぱりデート。
 キッチンを借りてお料理するのも、二人なら素敵だったのに…。忘れてしまって覚えてないよ。
 ハーレイと食べた天国の食事、と零れた溜息。二人で食べた筈なのだから。
「そうなんだろうな、きっとお前と一緒に食べていたんだろうが…」
 レストランに出掛けて行くにしたって、雲を千切って頬張ってたって。…俺の隣にはお前だな。
 しかしだ、食事の話をするなら、お前の方が先輩なんだぞ。俺よりも、ずっと。
 天国暮らしというヤツが…、とハーレイに覗き込まれた瞳。「お前の方が馴染み深いんだ」と。覚えているなら、俺よりもお前の方だろう、と。
「なんで?」
 どうしてハーレイの先輩になるわけ、ぼくの方が?
 ちっとも思い出せないぼくが…、と首を捻った天国の食事。それに暮らしも、先輩なんて、と。
「お前なあ…。今じゃお前がチビなわけでだ、俺よりも後に生まれて来たが…」
 天国の方はそうじゃないだろ、俺よりも先に行ってたろうが。…俺を一人で残してな。
 シャングリラに置いて行っちまったぞ、と持ち出された前のハーレイとの別れ。一人でメギドに飛んでしまって、ハーレイを残して行ったのが自分。ジョミーを支えてやってくれ、と告げて。
「そうだっけ…。ぼくの方が先だね、天国へ行ってしまったのは」
 ハーレイよりも早く着いてしまったんなら、ぼくが先輩…。早く天国に着いた分だけ。
「分かったか? お前は俺の大先輩ってことになるんだ、天国では」
 一足お先に着いてるんなら、天国のことにも詳しいだろう。もちろん、天国の食事にだって。
 お前も食事をしただろうしな、俺が後から着くよりも前に。
 雲を千切って食っていたなら、それが美味いと知っているわけで…。
 天使がレストランをやっていたなら、色々な料理を食ってた筈だ。時間は充分あったんだから。
 俺が遅れて着いた時には、お勧めの料理を色々と教えてくれそうだがな?
 これが一番美味い料理だとか、とても人気の高い料理はこれだとか。



 天国の食事に詳しそうだぞ、と言われてみれば、その通り。ハーレイよりも先に着いたなら。
 メギドで命を失くした後には、空に浮かんだ雲の上の世界にいたのなら。
(ぼくが天国に行ってたんなら…)
 天国という世界にいたのだったら、するべきことがあった筈。ハーレイを待っている間に。雲の上の世界で、一人で何度も食事をしたなら、そういう日々を過ごす間に…。
(ハーレイが喜びそうな食べ物…)
 それを探して待ったのだろう。雲の下の世界に置いてきてしまった恋人のために。
 天国に行けば、もう戦いなど無い世界。身体も衰弱してはいないし、何処へでも好きに出掛けてゆける。雲の絨毯の上を歩いて、雲の峰だって自分の足で登って越えて。
(空を飛べるの、天使だけかもしれないものね?)
 背に翼を持つ神の使いが飛ぶ世界では、人間は飛べないかもしれない。生きていた頃には楽々と飛べた、白い雲の上や雲の峰の上を。
 タイプ・ブルーのミュウだとはいえ、天国に行けば「ただの人間」。神様や天使の方が偉いし、翼を持たない人間は歩くだけだとか。
 それが天国でも、ガッカリはしない。戦いが無ければそれで充分、弱っていた身体が元気だった頃と同じになったら、もう最高に素晴らしい気分。「なんて素敵な世界だろう」と。
(…ハーレイにも教えたくなるよ…)
 ぼくはこんなに幸せだから、と手紙を書いて。雲の上から白いシャングリラに向かって投げて。
 けれど手紙は届けられないし、思念波だって届かない。ハーレイがいる世界と雲の上の世界は、全く違うものだから。雲の下に白い鯨が見えても、別の世界を飛んでいる船だから。
(ぼくの幸せ、ハーレイには分けてあげられないし…)
 それが無理なら、いつかハーレイが来た時のために、天国ならではの美味しい食べ物。あれこれ調べて知っておきたい、ハーレイが喜びそうなもの。
(ぼくはお酒もコーヒーも駄目で…)
 ハーレイには付き合えなかったけれども、それも探してみたのだろう。
 雲の絨毯の上をせっせと歩いて、雲の峰を幾つも越えていって。空を飛ぶ力は持たなくても。
 天国で空を自由に飛んでゆけるのは、翼を持った天使に限られていても。



 自分の二本の足で歩くしかない、雲の上の世界。空を飛んではゆけない天国。飛べたらどんなに楽だろうかと思ったとしても、歩いて探し回っただろう。ハーレイが喜ぶ食べ物を。
 まるで飲めないコーヒーやお酒も、頑張って色々と情報集め。コーヒー好きな人を見付けて話を聞いたり、お酒が好きな人たちに質問してみたり。「どれが一番美味しいですか?」と。
 皆の意見が分かれていたなら、苦手だけれども、ちょっぴり味見。
 雲を千切ったお酒だったら、それが大好きな人が千切ったのを分けて貰って。「こんな味か」と舌で覚えて、次は自分で千切れるように。…同じ味になってくれるよう。
(それなら、ちゃんとハーレイに…)
 「美味しいんだよ」と差し出せるだろう。色々な味がする、お酒の雲を。
 ブランデーもラムも、ウイスキーだって。白いシャングリラには無かった本物、合成品ではない様々なお酒。「こういう味のもあるんだって」と雲を千切って、何種類でも。
 お酒を飲ませる店があるなら、やっぱり出掛けて自分で味見。好きな人たちのお勧めを。
 飲んだ次の日は頭が痛くてフラフラだろうが、かまわない。胸やけがして寝込んでしまっても。
 いつか出会えるだろうハーレイ、恋人のための下見だから。頑張って味見をした結果だから。
(コーヒーだって、負けないんだから…)
 今の自分も同じに苦手な、あの苦味。砂糖とミルクをたっぷり入れても、まだ駄目な苦さ。
 それでも負けずに味見しただろう、コーヒー好きな天国の住人たちが勧めるものを。コーヒーの味がする雲だったら、その雲を。喫茶店にあるなら、カップに入ったコーヒーを。
(白い鯨になった後には、本物のコーヒー、無くなっちゃって…)
 代用品のコーヒーだけしか無かった船。チョコレートの代用品が作れるイナゴ豆がそれで、今の時代は健康食品。前にハーレイが持ってきてくれた。「懐かしいだろう?」と。
 白いシャングリラには無かった本物、お酒も、それにコーヒーも。
 どちらもハーレイが好きだったもので、前の自分は苦手な飲み物。「何処が美味しいんだい?」などと何度も苦情を言ったけれども、ハーレイのためなら頑張れた。雲の上での本物探しを。
(うんと美味しい、コーヒーとお酒…)
 それを求めて、広い天国を歩き回ったことだろう。雲の絨毯が何処までも広がる平原も。聳える雲の峰を登って、そのまた向こうに住んでいる人に会いに出掛けることだって。
 空を飛んではゆけなくても。空を飛ぶのは天使たちだけで、歩くより他に道は無くても。



 どんなに沢山歩いたとしても、きっと天国なら疲れない。もう衰弱した身体ではないし、誰もが元気でいそうな場所。お酒を飲んだら二日酔いでも、コーヒーが舌に苦くても。
(好きな人たちなら、そんなことにはならないんだから…)
 二日酔いをする自分の身体が不向きなだけで、コーヒーの苦みも好みの問題。それと身体の疲労とは別、何処までだって歩いてゆける。ハーレイの好きなものを探しに。
 コーヒーもお酒も頑張って探すし、もちろん他の食べ物だって。
 美味しいと評判の料理があるなら、必ず食べに出掛けてゆく。自分の舌で確かめに。ハーレイが喜びそうな料理か、目でもきちんと確認して。
 好き嫌いが無いハーレイだけれど、美味しいものは「美味しい」と分かる舌の持ち主。その舌を喜ばせるだろう食べ物、それを幾つも見付けなければ。…ハーレイのために。
(先に天国に行ったんだったら、やらないわけがないもんね?)
 雲の上にある天国から下を覗いたら見える、苦労している前のハーレイ。
 白いシャングリラのキャプテンとして、毅然とブリッジに立っている姿。舵を握っている姿も。
 前の自分がいなくなった後は、独りぼっちで船に残されて。それでも懸命に地球を目指して。
(…前のぼくが頼んじゃったから…)
 ジョミーを支えてやってくれ、とハーレイにだけ伝えた思念。メギドに向かって飛び去る前に。
 それが無ければ、ハーレイは追って来たのだろうに。
 小型艇でメギドまで飛んで来るとか、何度も誓ってくれた通りに薬で命を断っていたとか。
 けれど「駄目だ」とハーレイを縛った、前の自分が遺した言葉。生きてジョミーを支え続けて、地球まで辿り着いてくれと。
(…ハーレイを独りぼっちにしたのは、前のぼくだし…)
 地球までの辛く長い道のり、それを歩ませたのも前の自分の言葉。
 恋人を失くして独りぼっちで、ハーレイは辛いだけなのに。誰にも言えない深い悲しみと辛さ、その淵に沈んでいたというのに。
 天国からは全てが見えるけれども、何も出来ないのが自分。
 「ぼくは幸せだよ」と伝える思念も短い手紙も、雲の上からは届けられない。
 ハーレイがどんなに苦しんでいても、前の自分を想って涙していても。
 白いシャングリラが飛んでいる場所と、天国は違う場所だから。けして重ならない世界だから。



 キャプテンの務めを黙々と果たし続けるハーレイ、独りぼっちで地球までの道を。大勢の仲間が船にいたって、癒えることのない悲しみの中で。
(でも、シャングリラが地球に着いたら…)
 ミュウの未来を手に入れたならば、ハーレイはきっと天国にやって来るだろう。後継者だって、とうの昔に決めていたから。…前の自分の寿命が尽きると知った時から、シドを騙して。
(主任操舵士で、いずれはキャプテン…)
 ハーレイの腕が鈍った時には交代を、という名目で選ばれたシド。船を纏めてゆくキャプテンは大任なのだし、早い内から仕事を覚えた方がいい、と。
 本当は、ハーレイが前の自分を追うために決めた後継者なのに。前の自分の命が尽きたら、後を追って死へと赴くために。
 キャプテンを継ぐシドがいるなら、地球でハーレイの役目は終わる。ミュウの時代をジョミーが掴み取ったなら。側で支える者がいなくても、ジョミーが自分の足で歩んでゆけるなら。
 その時が来たら、ハーレイは追って来てくれる筈。さりげなくシドに引継ぎを済ませて、部屋に隠していた薬を飲んで。…致死量を超える睡眠薬を。
 身体が永遠の眠りに就いたら、ハーレイの魂が天国に来る。雲の絨毯が広がる世界へ。
 長い年月、苦労をかけてしまったハーレイ。前の自分の我儘だけで。独りぼっちで船に残して。
 そのハーレイを労うためにも、きっと準備をしていただろう。前の自分は。
 天国でも評判の美味しいお酒や、コーヒー好きが挙って褒めるコーヒー。それを端から味見してみては、「この味だよね」と舌に覚えさせるとか、味わえる場所を覚えるだとか。
 此処で食事をするのがいいとか、これを是非、食べて欲しいとか。自分の目と舌で確かめて。
 ハーレイが来たらお酒にコーヒー、様々な料理でもてなそうと。
(…前のぼくは、お料理しなかったけど…)
 厨房出身だったハーレイは料理が得意なのだし、天国に来たら料理をするかもしれない。出来る環境があったなら。色々な食材が揃うのならば。
(キッチン、貸して貰えるんなら…)
 下見に行ったことだろう。自分は全く使えなくても、誰かが使っている時に。
 どんな所か、どういう料理を其処で作れる場所なのか。作った料理を食べるテーブル、其処には何人座れるのかと。キッチンを借りる手続きなんかも、天使たちに訊いておいたりして。



 考えるほどに、前の自分がやっていそうな天国の食事についての調査。
 雲を千切って食べる場所でも、レストランがあっても、キッチンを借りて作れる仕組みでも。
「…前のぼく、いっぱい調べていそう…」
 ハーレイが来たら食べて欲しくて、いろんなお料理。それにお酒やコーヒーとかも…。
 自給自足の船になったら、お酒もコーヒーも本物は無くなっちゃったから…。
 「お疲れ様」って御馳走したくて、飲めないお酒も頑張ったかも…。苦いコーヒーも、いろんな人から話を聞いたり、教えて貰って飲んだりして。
 きっと山ほど調べていたよ、と天国での自分の行動を思う。雲の絨毯の上を歩き回って、聳える雲の峰だって越えて行っただろう。空を飛べないなら、自分の足で。
「天国じゃ空を飛べないってか? それはそうかもしれないなあ…」
 翼を持ってる天使がいるなら、人間は歩くだけかもしれん。前のお前でも、飛べはしなくて。
 それでも歩いて下調べをしたと言うんだったら、お前は間違いなく大先輩だ。天国でのな。
 天国の料理がどんな風かは、俺よりもお前が詳しそうだが…。大先輩な上に、下調べだから。
 なのに覚えていないのか、とハーレイにジロジロ見られた顔。「忘れたってか?」と。
「…仕方ないじゃない、本当に覚えていないんだから…。雲を食べたかどうかもね」
 だけど料理はハーレイの方が得意なんだよ、前のぼくよりも。
 天国のキッチンを借りていたなら、その辺のことを覚えていないの…?
 何かを刻んでいた記憶だとか、煮込んでたとか…、と尋ねた料理の手順。下ごしらえからやっていそうだし、ハーレイが思い出さないかと。
「それを言うなら、天国で俺が料理をしたのは、当然、お前のためでだな…」
 俺が食いたくて料理するよりは、お前のための料理だ、うん。これが美味い、と評判を聞いて。
 そうやって作ってやった料理を忘れたとなると、それも薄情な話だよな?
 俺は頑張っていたんだろうに。…美味い料理を食って欲しくて、レシピを集めて。
 何年天国で暮らしていたんだ、俺とお前は。何度料理を作ったんだか、天国の俺は。
 お前のためにとキッチンを借りて…、とハーレイが言う長い歳月。地球に生まれるまでの時間。
「…慣れ過ぎちゃって、忘れちゃったとか?」
 ハーレイが作ってくれる料理が、当たり前のことになってしまって。
 何度も何度も食べていたなら、慣れてしまうと思わない…?



 とても素敵なお料理でもね、と考えたこと。「忘れちゃうかも」と。
 死の星だった地球が青く蘇るくらいに長い時が流れ去ってゆく間、来る日も来る日もハーレイの料理。「二人で食べに出掛けてゆくより、二人きりの食事がいいだろう?」と。
 毎日のようにキッチンを借りて、作って貰える色々な料理。ハーレイが腕を振るい続けて。
 出会って直ぐには感激の涙を流したとしても、厨房時代の姿を思い出したとしても…。
 それが普通になってしまったなら、日常のことになったなら。
「…前のぼく、ハーレイのお料理のことを、忘れちゃうかもしれないよ?」
 ハーレイが朝のパンから焼いてくれてて、色々なお料理をしてくれていても。…同じのは滅多に出ないくらいに、工夫を凝らしていてくれたって。
 だって、それが普通なんだもの。ハーレイがキッチンに立っているのも、お料理するのも。
 珍しかったら、ちゃんと覚えていそうだけれど…、と今の自分の考えを述べた。キッチンに立つ姿を殆ど見なかったならば、「そんなこともあった」と記憶に残るものだけれども。
「うーむ…。俺の料理が普通になってしまっていたってか?」
 そのせいで忘れちまったというわけなんだな、俺が料理をしていたんなら。…天国ってトコで。
 確かにそいつが日常となれば、そうなることもあるかもしれん。
 毎朝、お前を起こしてやっては、飯を食わせていたんなら。「出来てるぞ?」と肩を揺すって。
 お前が眠い目を擦りながら起きたら、二人で朝飯。俺が焼いたパンや、オムレツなんかで。
 もちろん昼飯も俺が作って、晩飯も俺が作っていた、と。キッチンを借りてたにしても。
 それが毎日続いていたなら、忘れちまっても仕方がないか…。お前には普通のことなんだから。
 俺が作った飯を食うのが、とハーレイがフウと零した溜息。「無理もないよな」と。
 どんなに素敵な日々が続いても、幸せ一杯の毎日にしても、日常だったら当たり前のこと。今の平和な時代にすっかり慣れているのと同じ。毎日感激したりはしないし、普通なのだから。
「ね、そうでしょ?」
 前のぼくが薄情だったんじゃなくて、幸せに慣れてしまってたから…。
 考えてみてよ、どれくらいの間、ハーレイが作ってくれた食事を食べていたのか。
 死の星だった地球が今では青い星だよ、前のぼくたちが生きた時代は歴史のずっと向こうで…。
 それだけの間、毎日、毎日、ハーレイが作った食事ばかりを食べてたら…。
 すっかり普通になってしまって、もう特別じゃないんだから。幸せなのが当たり前でね。



 それに天国にいたんだから、と窓の向こうを指差した。夕焼けの色に染まり始めた雲を。
 白くてふわふわだった綿菓子、今は何の味がするだろう。雲を千切って食べたなら。天国にいる人たちは誰でも、雲を千切って美味しく食べているというなら。
「あの雲の上が天国でしょ? 人間の目には見えないけどね」
 前のぼくにも見えなかったけれど、天国はあそこ。雲の上にある、とても素敵な所。前のぼくが天国に行った時にも、戦いなんかは無かった筈だよ。ミュウと人類とが戦っていても。
 前のぼくがハーレイに御馳走したくて、お酒やコーヒーのことを習った人たち。きっと人類で、ミュウじゃないよね。…ミュウは端から殺されてたから、詳しいわけがないんだもの。
 そんな時代でも平和だったのが天国なんだし、SD体制が終わった後には、もっと素敵な場所になったよ。うんと幸せに暮らせる場所に。
 其処でハーレイと二人だったら、それだけで幸せ一杯じゃない。食事のことは抜きにしたって。
 雲を千切って食べていたとしても、毎日、一緒なんだから…。
 もう離れずに済むんだものね、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。「幸せが当たり前なんだよ?」と。
「ただでも幸せ一杯な上に、それが当たり前の食事だってことで、忘れるんだな?」
 俺が作った料理はもちろん、いろんな味に変わる不思議な雲を食べていたって。
 天国に着いて、初めて雲を食った時には驚いていても。…俺の方だって。
 お前に勧められて食ってビックリでもな、とハーレイも目をやった雲。「あれを食うのか」と、天国の食べ物の記憶を探るかのように。
「うん、ハーレイも忘れちゃったんだよ。毎日がとても幸せすぎて」
 それに幸せが当たり前すぎて、毎日の食事は、もっと当たり前で。毎日食べていたんだもの。
 前のぼくが「天国では雲を食べるんだよ」って教えた時には、凄くビックリしててもね。
 お酒の味がする雲を千切って、「美味しいよ」って渡したりしたら。
 食べるまで信じそうにないよね、とクスクス笑った。前の自分が悪酔いしながら、恋人のために舌で覚えたお酒の味。「こういう味の雲なんだよ」と味見だけして、懸命に。
 それをハーレイに渡したとしても、雲のお酒は見た目では分かって貰えそうにない、と。
「ありそうだよなあ…。俺まで忘れちまったってこと」
 極上の雲の酒を幾つも飲んでいたって、それが普通になっちまったら…。
 今日はこいつを飲むとするか、と雲を千切って飲んでいたなら、そいつが俺の日常だよなあ…。



 慣れてしまって忘れちまった可能性ってヤツは大いにあるな、とハーレイも納得の天国の食事。何度も二人で食べた筈なのに忘れてしまって、お互いに思い出せない理由。
 とても幸せだったのに。ハーレイが作っていたにしたって、雲を千切っていたにしたって。
「幸せに慣れて忘れちまうとは、なんとも残念な話だよなあ…」
 俺もお前も、間違いなく食っていたんだろうに。天国で食べられる食事ってヤツを。
 なのに欠片も出て来ないなんて、実にもったいない話だ。料理したにしても、雲を食ってても。
 …前の俺たちが生きてた間に食ってたものなら、いくらでも思い出せるのにな?
 ジャガイモ地獄やらキャベツ地獄やら、苦労続きだった時代の料理も、白い鯨の美味い料理も。
 アルタミラの狭い檻で食ってた、不味い餌まで今でも思い出せるんだが…。
 あのとんでもなく不味いヤツだ、とハーレイが顔を顰める餌。好き嫌いが無いハーレイさえも、アルタミラの餌だけは別だという。生まれ変わった今になっても。
 前にハーレイが出掛けたパン屋のレストラン部門、其処で開催されたイベント。シャングリラで生きた歴代のソルジャー、三人の食事を再現する企画。ソルジャー・ブルーの朝食になったのは、アルタミラで餌として食べたシリアル。そのシリアルは今も変わらず不味かったらしい。
「前のぼくが食べた食事だったら、ぼくだって思い出せるけど…。生きていた時の分ならね」
 美味しかった料理も、不味かった餌も、ちゃんと覚えているんだけれど…。
 きっと天国のは、とっても美味しかったんだよ。頬っぺたが落っこちそうになるほど。
 ハーレイが作ってくれた料理を食べてたにしても、雲を千切って食べてたにしても。
 本当にとても美味しい料理、と笑みを浮かべた。「美味しすぎて忘れちゃったかもね」と。
「おいおいおい…。とびきり美味い食事だったら、忘れそうにはないんだが?」
 いくら普通になっちまっていても、欠片くらいは覚えていそうだ。
 こんなに美味い料理があるのか、と感動したなら俺は忘れはしないと思うぞ。料理の名前や形は忘れてしまったとしても、美味かったことは記憶に残って。
 これでも料理人の端くれなんだ、とハーレイが自分の顔を指す。「俺は厨房出身だぞ?」と。
「普通だったら、そうだろうけど…。ぼくたちがいたのは天国だよ?」
 雲の上にあって、人間の目には見えない天国。…神様と天使がいるような所。
 とても素敵な場所なんだものね、同じくらいに美味しい料理は地球にも無いかもしれないよ?
 天国の食事に負けない料理。この味だよね、ってピンとくる味は。



 きっと地球にも無い味なんだよ、と話した天国の食事の美味しさ。ハーレイがキッチンを借りて作っていたとしたって、雲を千切って食べる不思議な食事にしたって。
 天国で食べた美味しい食事は、青い地球でさえも食べられない。天国だけでしか味わえなくて、もう一度それを食べたいのならば、天国に行くしかない食事。この世界の何処にも無い食事。
「本当にとっても美味しかったから、ハーレイにも思い出せないんだよ」
 前のぼくだって少しも思い出せなくて、お料理だったか雲だったのかも分からなくて。
 だって、最高に美味しいんだから。何処を探しても、生きてる間は出会えないのが天国の食事。天国に行って食べない限りは、その美味しさには会えない料理。
 それで神様が忘れさせちゃったってこともあるでしょ、ぼくとハーレイの記憶を消して。
 せっかく生まれ変わって来たのに、食べに帰りたくならないように。
 あれをもう一度食べてみたいよ、って帰りたい気持ちにならないように。…食事のせいで。
 ぼくたちは生まれ変わりだものね、と前の生からの記憶を思う。其処での食事は忘れないのに、消えてしまった天国で食事をしていた記憶。
 雲の絨毯の上の世界で、ハーレイと食べた筈なのに。まるでデートのようだったろうに。
「そういうことも無いとは言えんな、なにしろ相手は天国だから。…神様の国だ」
 機械がやってた記憶処理とはまるで違って、生きて行くのに困らないように記憶を消した、と。
 天国の美味い食事を恋しがっては、「早く帰りたい」と思わないように。
 この世の何処にも無い美味さならば、そう考えることもありそうだ。また食べたい、と。
 だが、天国の食事がどれほど美味いにしたって、お互い、地球に来たんだからな?
 前のお前の夢だった食事が出来る地球だぞ、ホットケーキの朝飯だって。
 地球の草で育った牛のバターと、本物のメープルシロップをつけて…、とハーレイが覚えていてくれた夢の朝食。前の自分が「いつか地球で」と夢を見ていたホットケーキの朝食。
「そう! それに砂糖カエデの森に出掛けて、キャンディーも作って食べなくちゃ」
 樹液を煮詰めてメープルシロップを作る季節に、雪の上で固めて作るキャンディー。
 それは絶対に食べに行きたいし、今のぼくの夢。砂糖カエデの森に行くこと。
 好き嫌い探しの旅も出来るね、ハーレイと。
 いろんな地域に出掛けて行っては、名物を食べて探すんだよ。好きなものとか、嫌いなものを。
 前のぼくたちが苦労したせいで、今のぼくたちにも、好き嫌いが無いのが残念だから…。



 青い地球まで来られたんだし、うんと沢山食べなくっちゃ、と思ったけれど。
 とても美味しかったから忘れてしまった天国の食事、それの分まで美味しいものを、と未来への夢を描いたけれど…。
「ねえ、ハーレイ…。地球で食べたもの、ちゃんと覚えて帰れるかな?」
 天国まで忘れずに覚えて帰って、天国でまた食べられるかな…?
 雲を千切って食べる場所でも、キッチンを借りてハーレイに作って貰える場所でも。
 お気に入りの味を忘れてしまっていたらどうしよう、と心配になった。天国の食事を今の自分が忘れたみたいに、天国に着いたら地球の食事を忘れるのでは、と。
「気の早いヤツだな、今から考えなくてもだ…」
 そう簡単に忘れやしないさ、天国だったらどんな料理でも揃うんだろう。…天国だから。
 地球で好きだった味はこれじゃない、と思った時には、お前の好みに味が変わると思うがな?
 雲の食事ならそうなるだろうし、俺が作って食べさせるんなら、お前の好みに作ってやる。
 だがな、その前に、これから俺の自慢の料理や、色々な料理を食うんだろうが、と苦笑された。
 「天国の食事は忘れちまっても、美味い料理が山ほどだぞ」と。
 天国に行く前に地球でしっかり食べてくれ、とハーレイが注文をつけるから。
「そうだったっけ…。まだまだこれからだったよね…」
 ハーレイが作ってくれる食事も、あちこちへ食べに出掛ける料理も。…まだこれからだよ、結婚しないと無理なんだから…。デートは出来ても、旅行は無理…。
 それに今だとハーレイが作る料理も無理、と項垂れた。チビの間は家に遊びに行けないから。
「分かったようだな? まずは結婚しないと駄目だ」
 美味い料理を二人で好きなだけ食べられるようになるには、俺と一緒に暮らさないと。
 天国でそうしていたようにな…、とハーレイがパチンと瞑った片目。「まずは其処からだ」と。
 前のハーレイと二人で過ごした天国、地球に生まれて来る前には。長い長い間。
 天国で何を食べていたかは全く思い出せないけれども、きっと幸せだった筈。
 美味しい食事をハーレイに勧めて、キッチンで作って貰ったりもして。
 それを今度は青い地球の上で楽しもう。
 雲の絨毯の上を歩く代わりに、地球の地面を歩いて行って。
 白い雲を千切って食べる代わりに、ハーレイと二人でキッチンに立ってみたりもして。
 今度は二人で生きてゆけるから。いつまでも何処までも、ハーレイと歩いてゆけるのだから…。



             天国の食事・了


※青い地球に生まれ変わって来るまでの長い長い間、天国にいた筈のハーレイとブルー。
 けれど天国で何を食べていたのか、二人とも思い出せないのです。それもまた、きっと幸せ。
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