シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(んーと…)
気持ち良さそう、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
青い海辺で、ヤシの木に架かったハンモック。大きな二本のヤシの木の幹、それの間に。両方の端を幹に結んで、架け渡して。
写真を撮るためだからだろうか、誰も乗ってはいないけれども…。
(乗ってみたいな…)
このハンモックに。此処からは遠い南の地域の、海辺に架かった白いハンモック。
きっと気持ちがいいのだろう。上に寝転んでも、座るようにして乗っかっても。
ゆらゆらと揺れて、まるで青い空に浮いているようで。ハンモックではなくて、見えない空気に支えられて。
前の自分は飛べたけれども、それとは違う感覚だろう。自分の力で浮いているより、こうやって浮ける方がいい。ハンモックの上に乗っかって。青い海と空を眺めながら。
写真に写った広い海も空も、南国の青をしているから。
もう本当に真っ青な空と、目が覚めるように青い海。前の自分が焦がれた青より、地球の青より濃い青色。澄んだ青色、海も空も。
(こういう青空…)
それに海だって、自分は知らない。写真や映像で知っているだけ。
こういった空や海がある場所、南の地域に旅をしたことが一度も無いから。
(前のぼくだって…)
知らない青空、濃い青の海。場所によってはサンゴ礁があって、緑色にも見える海。
白いシャングリラが長く潜んだ、アルテメシアには無かった南国の景色。一面の雲海に覆われた星は、テラフォーミングされた星だったけれど…。
(…ヤシの木が普通にあるような場所は…)
何処にも無かったのだった。
南国の植生が似合う場所には、築かれなかった育英都市。アタラクシアもエネルゲイアも、ごくありふれた気候だったから。人間が暮らすのに丁度いい気温の、標準的な。
前の自分が生きた時代は、それが普通の都市だった筈。
テラフォーミング中の星を除けば、何処の星でも似たり寄ったり。人間が生きてゆければ充分、多彩な気候を作り出すより、標準型の都市がいい。その方が何かと便利だから。
(…育英都市だと、そうなっちゃうよね?)
どの子供たちも同じ環境、それで育てるのが一番いい。教育はもちろん、暮らす場所だって。
生まれ育った環境によって、人は変わってゆくものだから。南国育ちの子供だったら、大らかな子に。寒さが厳しい場所で育てば、辛抱強い頑張り屋。
そういう傾向があると聞くから、あの時代ならば差が出ないようにしていただろう。育英都市を設けるのならば、アルテメシアのような気候の場所にしようと。
(大人が暮らしている星だったら…)
酷寒の星もあったと思う。資源の採掘用などで。
暑すぎる星も、同じ理由で存在していただろうとは思う。
けれど、こういう南国の景色。ヤシの木にハンモックを吊るしたりして、楽しめる場所は…。
(何処かにあった…?)
娯楽のためにと、標準型ではない気候にした都市。南国風に整えられた環境。
あの時代にもあったのだろうか、人間がのんびり生きられる場所。其処に子供の影が無くても、大人たちが人生を満喫してゆける場所。
ヤシの木にハンモックを架けて。青い海と空を眺めて、風に吹かれて。
暖かい星なら出来ただろうか、と考えてみた南国風の都市。
資源の採掘や軍事拠点に使わないなら、育英都市も作らないなら、可能かもしれないヤシの木が育つ暖かな場所。此処なら出来る、と海を作って、整備していって。
余裕が無い星だと出来ないよね、と前の自分が生きた時代の宇宙を思い浮かべていたら…。
(ノア…!)
ふと思い出した、首都惑星ノア。人類の最初の入植地。
地球を思わせる青い星だったけれど、白い輪が「違う」と告げていた。地球には無かった、白い色の輪。あれは氷で出来ていたのか、それとも白い岩だったのか。
肉眼で見たことは無かったけれども、前の自分も知っていた星。あそこには、確か…。
(あったと思う…)
ヤシの木が生えている海辺。そういう記憶。
あった筈だ、と言い切れるけれど、どうして知っているのだろう?
ノアの知識は持っていたものの、南国風の景色まで。海辺に生えていた筈のヤシの木、濃い青の空と海までを。
(…ソルジャーとして必要なの?)
その知識は、と問い掛けた時の彼方にいた自分。ソルジャー・ブルーだった自分。
地球ならともかく、ノアのヤシの木や海辺の景色。
同じノアでも、パルテノンに纏わる情報だったら、まだ分かるけれど。パルテノンがヤシの木に囲まれていたなら、青い海辺にあったのなら。
そう思うけれど、まるで引っ掛からないパルテノンのこと。
ヤシの木があった景色の辺りに、人類の最高機関は無かったらしい。少しも繋がらない記憶。
パルテノンとは別だったと分かる、ノアの海辺に生えたヤシの木。
(なんで…?)
どうしてヤシの木が出て来ちゃうわけ、と戻った二階の自分の部屋。…新聞を閉じて。
あの新聞が始まりだよね、と座った勉強机の前。海辺のヤシの木とハンモック。
(…前のぼく、なんでヤシの木なんか…)
知っていたの、と不思議でたまらない。
首都惑星だったノアの知識は必要だとしても、ヤシの木を知っていた理由。ノアにはヤシの木が生える海辺があるのだ、と。
役に立ちそうもない知識なのに、前の自分は覚えていた。何処かで目にしただけだったならば、直ぐに忘れてしまったろうに。膨大な記憶の海に沈んで、それきりになって。
なのに忘れずに、今でも思い出せるなら…。
(ハンモックに乗りたかったとか…?)
記憶にあるのはヤシの木だけれど、其処に吊るしたハンモック。それに揺られて、青い空と海を見たかったとか。…今の自分が写真を眺めて、「乗ってみたいな」と思ったように。
まさかね、と否定しかけたけれども、可能性としては…。
(ゼロじゃないかな?)
白いシャングリラで生きる間に、色々な夢を描いていたのが自分だから。
焦がれ続けた、青い地球に。
いつか地球まで辿り着いたら、あれもこれもと描いた夢。青い地球でやりたかったこと。
もしかしたら、ヤシの木の記憶も、その中の一つ。ヤシの木と、その幹に吊るすハンモックと。
ノアにはヤシの木があるのだと知って、「いいな」と思って抱いた夢。
きっと地球にもあるだろうから、ヤシの木にハンモックを吊るしたいと。
アルテメシアでは見られない青の海と空とを、ハンモックに揺られながら楽しむ。青い地球まで辿り着けたと、こんな景色も見られるのだと。
前の自分が憧れそうな夢。地球の海辺で、ヤシの木に吊るすハンモック。
寝転んで乗ったり、座って乗ったり、それは素敵に違いないから。南国の青い空と海とを、風に揺られて心ゆくまで。…ハンモックがゆらゆら揺れる間に、ウトウトと眠ったりもして。
(そうなのかも…?)
本当にハンモックだったのかな、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、もう早速に切り出した。テーブルを挟んで向かい合うなり。
「あのね、前のぼく…。ヤシが好きだった?」
好きだったのかな、今でも思い出せるほど。…今のぼくになっても、忘れないほど。
「はあ?」
ヤシってなんだ、と見開かれた瞳。鳶色の瞳が、「何事なんだ」と。
「ヤシの木だってば、暖かい所に行けばあるでしょ」
それにハンモックを吊るしたりもするよね、海の側に生えてるヤシの木だったら。
「あるなあ、ヤシの木も、そいつに吊るすハンモックも」
南の方だと名物ってヤツだ、旅の案内でも定番だ。のんびり過ごしてみませんか、とな。
しかし、どうして前のお前になるんだ?
ヤシが好きだったか、と俺に訊くなんて、何処からヤシになったと言うんだ。
「えっと…。ヤシの木とハンモックの写真…」
新聞に載ってて、今のぼくでも、こういう景色は見てないよ、て思ったんだけど…。
前のぼくも知ってるわけがないけど、それなのに…。
覚えてたんだよ、前のぼくが。ノアのヤシの木、知ってたんだよ。ノアにあった、って。
だから、ハンモックに憧れたかな、って…。
ヤシの木だけだと、「そういう木だな」で終わりそうだけれど、ハンモックがあれば話は別。
いつか地球まで辿り着いたら、海辺で乗ってみたいよね、って思っていそう。
「なるほどなあ…」
それでヤシだと言い出したのか。ヤシの木と、吊るすハンモックと。
ヤシな、と大きく頷くハーレイ。「確かにお前の夢ではあった」と。
「ついでに、お前が考えた通り、ハンモックもセットになってたな」
前のお前の夢の中では、ヤシの木と言えばハンモックだ。そいつを吊るして楽しもうと。
「やっぱり、そう?」
それでノアのも知ってたのかな、あそこにヤシの木が生えていたこと。
前のぼくは肉眼でノアを見ていないけれど、ちゃんと覚えているんだよ。ノアの景色を。
データベースの情報だろうね、ヤシの木が生えている海辺。
きっと地球にもあるだろうから、早く本物のヤシの木を地球で見たいよね、って…。
「最終的には、そういう夢になっていたんだが…。逆だ、逆」
前のお前が考えた順番、逆だってな。
「逆?」
どういう意味なの、逆だなんて。…考えた順番が逆って、なに?
「そのままの意味だ、文字通りに逆というヤツだ」
地球よりも先に、ノアのヤシの木があったんだ。白い鯨を作る時にな。
「え…?」
ノアが先だなんて、それにシャングリラの改造って…。ヤシの木は何処で出て来るの?
前のぼくの夢、なんでシャングリラに繋がってるの?
「覚えていないか、いろんな公園、作ったろうが」
ミュウの楽園にするんだから、とデカイ公園の他にも幾つも。…居住区の中に。
ヤシの木とハンモックも、その時にあった話だな。
南国風って案が出たんだ、会議の席で。言い出したのはゼルとブラウだ、そいつがいいと。
「そうだっけね…!」
思い出したよ、ノアのヤシの木。あの二人が写真を持って来たっけ…。
シャングリラを改造しようという時、何度も開かれた様々な会議。大人数での会議はもちろん、長老の四人とソルジャーとキャプテンだけの会議も。
南国風の公園の案は、長老たちが集まる席で出て来た。六人だけの小さな会議で。
ブラウとゼルが欲しがったもの。船に作ろうと考えた公園。
ヤシの木を植えて、それにハンモックを吊るす。二本のヤシの間に架け渡してもいいし、一本のヤシの幹に吊るす方法も。
「ノアではこうだ」と、資料の写真を出して来た二人。珍しくヒルマンとエラではなくて。
「楽しそうだと思わないかい、こういうのもさ」
海は無いけど、ヤシを植えることは出来るじゃないか、というのがブラウの提案。
「その海もじゃ、本物は無理でも映像という手があるからのう…」
上手い具合に投影したなら、海辺の気分を出せるじゃろう。波の音も流してやればいいんじゃ。
シャングリラの中に南国風の公園なんじゃぞ、まさに楽園というヤツじゃ。
夢じゃ、ロマンじゃ!
現にノアでは、こうやって実現しておるわい、とゼルが指差したヤシの木の写真。ハンモックが吊るされ、その向こうには青い海と空。
ノアの海は人工とはいえ、本物の海。シャングリラで海は不可能だけれど、映像技術で補うと。
公園を幾つも作るわけだし、一つくらいはこういう公園も、と。
ヤシの木を植えて、ハンモック。遊び心が溢れる公園。映像の海が広がる公園。
南国風に整えるのだし、制服では暑いほどの場所。きっと楽しい公園になる、と二人は言った。
「制服なんかは脱いじまってさ、のんびりするのに良さそうだよ」
あたしたちだって、とてもマントは着てられないね。制服抜きの公園ってのも素敵じゃないか。
それにヤシの実は食べられるって話だよ、とヤシの木の写真をつついたブラウ。写真の中では、実などは実っていなかったけれど。
「ヤシの木にも色々あるそうじゃぞ」
食えるヤツならナツメヤシにココヤシ、他にも美味いのがあるかもしれん。
ヤシもそうじゃし、南国風の気温に調整するなら、他の植物も育てられるでな、とゼルも語ったヤシの木の魅力。実が食べられる所もいいんじゃ、と。
二人はヤシの木を推したけれども…。
「ヤシの実か…。それは全員に行き渡るのかね?」
ナツメヤシにしても、ココヤシにしても、とヒルマンが述べた自分の意見。船の仲間たちに実を配れないなら、私は賛成出来ないが、と。
「そうですよ。でなければ不公平なことになります」
たった一つの公園でしか、ヤシの実が採れないというのなら。…皆に配る分が採れないのなら。
美味しい実ならば、貰えない者から不満が出ます。貰えないとはどういうことか、と。
私も賛成出来ません、とエラもヒルマンと同じ考え。
実をつける木を育てるのならば、皆に等しく行き渡るだけの数を育ててゆくべきだ、と。
農場ほどには大規模でなくても、何処の公園でも実をつける木たち。
南国風の公園でしか育たないヤシは、皆が平等に実を食べられないなら、許可出来ないと。
居住区に作る小さな公園の一つ、植えられるヤシの木は多くはない。一番広くなりそうな場所を選んだとしても、皆に行き渡るだけの実など採れない。どう考えても不可能なこと。
ゼルとブラウは顔を見合わせ、二人で相談し合ってから。
「それなら、眺めるだけのはどうじゃ」
ヤシの実は食えなくてもいいじゃろう。美味い実がなる木しか植えないわけではないし…。
南国風の景色を演出するために、ヤシの木を植えてやればいいんじゃ。
それでどうじゃ、とゼルは方針を切り替えた。公園のヤシの木は観賞用だ、と。
「あたしもそれでいいと思うよ、ヤシの木は充分、使えるからね」
ハンモックを吊るせば、ゆったり海辺の気分ってヤツだ。映像で出来た海でもね。
そういう公園、一つくらいはあったって…、とブラウも諦めなかったけれど。
「映像の海は確かに素敵でしょうが…。ハンモックの方が問題です」
皆が平等に使えるのですか、それを使いたいと思った時に?
順番待ちをしている間に、休憩時間が終わるようではいけませんよ、とエラが顰めた眉。
公園は憩いの場所になるのだし、皆が満足出来ないと…、と。
「難しいだろうと思うがね…。ヤシの木の数には限りがあるから」
ハンモックは幾つも吊るせないよ、とヒルマンも乗り気にならなかった。ヤシの木と映像の海がある公園、それは人気が高くなるに決まっているのだから。ハンモックだって、乗りたがる仲間が列を作って並ぶだろうから。
「どう思うかね?」とヒルマンが意見を尋ねたハーレイ。キャプテンの考え方はどうだ、と。
「…キャプテンとしては、それは賛成出来かねます」
争いの種にはならないでしょうが、やはり不満は燻るかと…。その公園で遊び損ねた者の間で。
いずれは飽きて順番待ちの列が無くなるとしても、それまでの期間が厄介です。
ソルジャーはどう思われますか?
魅力的ではあるのですが、とハーレイに問われた南国風の公園。ヤシの木とハンモック、それに映像の海が売り物になるという公園。
「…素敵だろうとは思うけれども、不平等な公園というのもね…」
公園の趣旨から外れているような気がするよ。作るからには、やっぱり皆が楽しめないと…。
良くないだろう、と前の自分も退けた。南国風の公園を作るという案を。
他の仲間たちに諮るまでもなく、反対多数で通らなかった、ヤシの木とハンモックがある公園。映像の海を投影しようと、ゼルとブラウが言った公園。
けれど、白い鯨が出来上がった後に…。
(海辺にヤシの木…)
それにハンモック、とデータベースで改めて調べてみた情報。ふと思い付いて。
出て来た写真と映像たち。一気に惹き付けられた風景。
ゼルとブラウがこだわった理由はこれだったのか、と真っ青な海に目を奪われた。青い空にも。
アルテメシアには無い色の青。空も、海の青も。
その青を背にして並ぶヤシの木、其処に架かったハンモック。吹き渡る風が見える気がした。
青く煌めく海を渡って、ヤシの梢の葉を鳴らして。吊るされたハンモックを揺すっていって。
(…乗っかってる人の写真もあって…)
一人で寝転んでいる人もいれば、二人並んで腰掛ける人も。本を読んでいる人だって。
見るからに気持ち良さそうだった、ノアの海辺のハンモック。ヤシの木陰も、白い砂浜も。
(きっと、地球なら…)
地表の七割が海の地球なら、このノアよりも広い海辺があるのだろう。
ヤシの木が並ぶ砂浜を一日歩いたとしても、まだまだ先が続くのだろう。砂浜も海辺も、ヤシの木だって。二日歩いても、三日歩いても、青い海辺も空も砂浜も、その果てがまるで見えなくて。
きっとそうだ、と思った地球。
南国風の公園どころか、歩いても果てが見えない海辺。何処まで行っても続くヤシの木、砂浜も青く透き通る海も。濃い青色が眩しい空も。
それを見たい、と食い入るように眺めた映像。それから写真。ノアの海辺に生えたヤシの木。
まずはノアまで、そして青い地球へ。
白いシャングリラで宇宙を旅して、ミュウの存在を人類に認めさせて。
いつか地球まで辿り着いたら、ヤシの木がある広い海辺で、ハンモックに。濃い青色をした空を見上げて、南国の青に染まった海が奏でる波の音を聴いて。
(あれで行きたくなっちゃって…)
前のハーレイとの夢に追加した。地球に着いたら、やりたいことの一つとして。
ヤシの木がある海辺に出掛けて、ハンモックに揺られて過ごすこと。南国の風を味わうこと。
友達同士だった頃から、地球でやろうと決めていた。恋人同士になった後にも。
ハンモックに乗るなら二人でもいいし、並べて吊られたハンモックに乗って過ごすのもいい。
どちらでも、きっと素敵だから。語らいながら風に揺られて、真っ青な空と海を眺めて。
鮮やかに蘇って来た記憶。前の自分が夢に見たこと。
「そっか、前のぼくの夢だったんだ…」
ヤシの木と、それにハンモック。地球にもあるよね、って思い込んでて…。
あの頃の地球には、青い海なんか無かったのに。…ヤシの木だって、何処にも無かったのに…。
ノアにあったから、とても素敵に見えたから…。
いつかハーレイと地球に着いたら、ハンモックに乗ろうと思っていたんだっけ…。
「元々はゼルとブラウの夢なんだがな」
あいつらが夢を見ていなかったら、前のお前はどうだったんだか…。
公園の案にもアッサリ反対していたからなあ、お前だけでは思い付かなかったかもしれないな。
ゼルとブラウは遊び心の塊だったが、前のお前は違ったし…。
わざわざノアのデータを調べて、ヤシの木とハンモックを見付けたかどうか、怪しいモンだ。
「そうかもね…」
ヤシの木のことは本で知っていたけど、ハンモックは知らなかったかも…。
知っていたって、ヤシの木に吊るすことまでは多分、知らないよ。興味津々で調べないから。
シャングリラの中だと、ハンモックの出番は無いんだもの。
あったとしたなら、何かの理由でベッドが足りなくなっちゃった時。床で寝るのも難しい、ってことになったら、ハンモック、吊るすだろうけれど…。
「シャングリラでやるなら、そいつだろうなあ…」
まるで大昔の船みたいだな、実際、使っていたらしいしな?
船室がうんと狭い船だと、人数分のベッドが置けないから。下っ端はコレだ、とハンモック。
偉いヤツらは、もちろんベッドで寝ていたんだが。
船長だったら船長室だ、と教えて貰った遠い昔の船のこと。まだ帆船の時代だった頃。それより後の時代になっても、使われていたハンモック。狭い船では。
シャングリラでは出番が無くて良かった、とホッと安堵の息をついたら…。
「船はともかく、今のお前はどうなんだ?」
ハンモック、と鳶色の瞳に見詰められた。そいつの出番はありそうか、と。
「えっ…?」
出番って…。ぼくの部屋には、ちゃんとベッドが置いてあるから…。
きっと出番は無いと思うよ、この部屋が駄目でも、ゲストルームにベッドがあるしね。
「そうじゃなくてだな…。寝床に使う話とは別だ、前のお前の夢の話だ」
今のお前も、ハンモック、乗ってみたいのか?
新聞で見たと言っていただろ、ヤシの木に吊るしてあるヤツを。
今の地球にはちゃんとあるんだ、前のお前が夢に見た通りのハンモックがな。
お前もそいつに乗ってみたいか、と訊いているんだが…。
「えーっと…。気持ち良さそうだと思うけど…」
乗ってみたいな、って思っていたけれど…。前のぼくの夢を忘れていても。
あれに乗っていたら、青い空に飛んで行けそうだから。
今のぼくは空を飛べないけれども、ハンモックに乗ったら空に浮けるよ。ハンモックに揺られて空を見てたら、きっと本当に飛んでる気分。風だって周りを吹いていくでしょ?
それにね、前のぼくの夢を思い出したから…。
本当にあれに乗ってみたいよ、ぼくだけじゃなくて、ハーレイと。
前のぼくがやりたかったみたいに、ハーレイと二人で、ヤシの木に吊るしたハンモック。
同じハンモックに乗ったっていいし、隣同士で吊るしてあるのに乗るのもいいよね。
今のぼくだって乗りたいみたい、とハーレイに話したハンモック。真っ青な空と海がある場所、ヤシの木が何本も並ぶ海辺で。南国の青が広がる中で。
「前のぼくの夢、今なら叶いそうだから…」
本物の地球のヤシの木もあるし、ハンモックだって吊るしてあるんだから。
「今のお前も乗りたいわけだな、前のお前と全く同じに」
なら、いつか行くか?
今は無理だが、お前が大きく育ったら。…俺と結婚して、旅に行けるようになったなら。
「連れてってくれるの?」
ヤシの木がある所へ、ハンモックに乗りに…?
ハーレイと二人で乗りに行けるの、ヤシの木に吊るしたハンモックに…?
「もちろんだ。前のお前の夢は叶えると約束しただろ、地球でやろうとしていた夢は」
思い出したなら、端から全部。…旅に出るのも、何をするのも。
今のお前の夢でもあるなら、叶えないわけがないってな。お安い御用というヤツだ。
ハンモック、乗りに行こうじゃないか。前のお前の夢を叶えるのに、ピッタリの場所へ。
ああいう場所は山ほどあるしな、お前が好きに選ぶといい。何処へ行くかは。
「…幾つもあるんだ、ヤシの木にハンモックを吊るしてる場所…」
地球は広いものね、海があってヤシの木が生えている場所も、きっと沢山。
何処にしようか迷っちゃうかも、あんまり沢山ありすぎて…。
「そうなるだろうな、前の俺たちが生きた頃とは違うんだから」
あの時代だと、前のお前の夢が叶う場所は、ノアくらいだったことだろう。他の星だと、多分、余裕が無かったろうさ。ヤシの木が自然に育つ海辺を作れるほどには。
しかし今なら、そういう星も少なくないぞ。テラフォーミングの技術が進んでいるからな。
そして地球だと、御覧の通りというわけだ。
前のお前が夢見た通りに、すっかり青い水の星だしな?
暖かい南の方に行ったら、海辺にヤシの木は珍しくもないという寸法だ。ハンモックを吊るして昼寝も出来れば、のんびり本も読めるってな。
行列を作って並ばなくても、好きな所に吊るして貰って。それこそ朝から晩までだって。
星空の下で乗っているヤツもいるわけで…、とハーレイが話してくれた、ハンモック事情。青い海と空が夜の色に染まって、降るような星が瞬く頃にも、ヤシの木にハンモックはあるらしい。
其処で眠りたい人もいるから、星空を見たい人もいるから。
「ハンモック、夜も乗れるんだ…。昼間だけじゃなくて…」
そんなの、思いもしなかったよ。前のぼくも、今のぼくだって。
星を見るのも素敵だろうね、波の音が良く聞こえそう。…昼間よりも、ずっと。
ハーレイはヤシの木、見たことがある?
植物園の温室とかじゃなくって、本当に海辺に生えているヤシ。
「もちろん、あるぞ。…ハンモックにも乗ってるが?」
船でのベッド代わりじゃなくてだ、ヤシの木に吊るしてあるヤツに。
「…ハーレイ、先に乗っちゃったんだ…」
ぼくと乗ろうね、って約束したのに、先に一人で…。
約束したのは前のぼくだから、今のぼくとは違うんだけど…。
「すまん、あの時はまだ、お前のことを思い出してはいなかったから…」
ヤシの木がある所まで来たら、コレだよな、と何も考えずに乗っちまった。一緒に行ってた連中とな。一人に一つで、そりゃあのんびりと…。
お前との約束、覚えていたなら、「俺は乗らない」と別行動にしたんだが…。
一人で海に泳ぎに行くとか、サイクリングに出掛けるだとか。
「…分かってるけど、ちょっと残念…」
ハーレイと一緒に乗りたかったよ、青い地球でハンモックに乗る時は。
二人一緒にドキドキしながら、どんな感じか、ヤシの木とハンモックを何度も眺めて。
「俺もだな…。なんだって、先に一人で乗っちまったんだか…」
お前と一緒に俺もワクワクしたかった。こいつは初めて乗るモンだが、と。
船なら嫌と言うほど乗ったが、ヤシの木に吊るしたハンモックなぞは前の俺だって知らないし。
初めて乗るなら、お前と乗りたかったのに…。それが最高だったのに…。
とんだ失敗をしちまった。記憶さえ戻っていたならなあ…。
お前とはまだ出会ってなくても、俺にはお前がいたんだってことに気付いていたら…。
これじゃ、お前と出掛けて行っても、感動ってヤツが少なめで…。そうだ!
ハンモックは先に乗っちまったが…、とハーレイが浮かべた楽しそうな笑み。
「ヤシの木の方なら、愉快なヤツが残っているぞ」と。
「とびきりのヤツだ、今の時代の地球ならではだな」
サルにヤシの実を採って貰わないか、という提案。それなら俺も初めてだから、と。
「…サル?」
サルって何なの、ヤシの実を採るなら、動物のサルのことだよね…?
「そのサルさ。そういう文化を復活させてる地域があるんだ」
人間が地球しか知らなかった時代に、サルを使ってヤシの実を採っていたんだな。木に登るのはサルの得意技だし、人間がやるより早いから。
其処へ出掛けて、「お願いします」と注文をしたら、サルに命令してくれるんだ。ヤシの木から実を採って来い、とな。
すると目の前で、サルがヤシの木に登っていって、だ…。ちゃんと実を抱えて戻って来る。
その実を「どうぞ」と渡して貰って、俺たちが頂戴するわけだ。
ココヤシだからな、中のジュースを美味しく飲む、と。
サルの飼い主が、殻を割ってストローを刺してくれるから。
「面白そう…!」
それは食べられるヤシの実なんだね、ゼルとブラウが公園に植えようと思っていたヤシ。
船のみんなに行き渡らないから、駄目だって言われちゃったヤシ…。
「そうなるな。だが、俺たちが旅で出掛ける先なら、ヤシの実だってドッサリだ」
なにしろ本物の地球だからなあ、ヤシの木も山ほどあるってな。…もちろん、実だって。
俺とお前がおかわりしたって、ヤシの実は減りもしないんだろう。ヤシだらけだから。
「それなら、何度も頼めるね。また見たいから、ってサルにヤシの実」
喉が渇いたよ、って思う度に注文してたって。…他にもお客さんが大勢いたって。
「大丈夫だろうな、其処ならヤシの実は珍しくもないモノなんだから」
この話は俺の教師仲間から聞いたんだ。其処へ行くなら、是非やって来い、と。
俺は話を聞いただけだし、この目で見てはいないから…。
お前とヤシの木を見に行く時には、其処にしよう、と勧めてくれたハーレイ。
その場所も海辺で、見渡す限りにヤシの木が続いているそうだから。白く輝く砂浜だって。
「ハーレイ、其処って、ハンモックもあるよね?」
ヤシの木に吊るしたハンモック。…それに乗るのも大切なんだよ、約束だから。
前のぼくたちだった頃から、地球に着いたら、二人で乗ろうっていう約束…。
「あるに決まっているだろう。でなきゃ、お前を誘わないってな」
ちゃんと聞いたから間違いはない。俺に教えてくれたヤツだって、ハンモックに乗ってのんびり過ごしていたそうだ。それこそ朝から晩までな。
ついでに海辺にコテージがあって、其処に泊まれる。窓の下は直ぐに海なんだ。
泊まった部屋から泳ぎに行けるのが売りらしいから、俺が潜りに出掛けて行ったら、美味い魚も獲れるってな。頼めばそいつを料理してくれると聞いてるが…?
「ホント!?」
なんだか凄いね、ハンモックに乗れるだけじゃないんだ…。
サルがヤシの実を採って来てくれて、中のジュースをストローで飲めて…。
それに魚も獲れちゃうんだね、泊まってる部屋から潜りに出掛けて。
「うむ。なかなかにいいと思わんか? …ハンモックはウッカリ乗っちまったが…」
お前のことを覚えていなくて、俺だけ先に乗って失敗したんだが…。
その分、しっかり埋め合わせってヤツをしないとな。今の俺に出来る限りのことを。
せっかく二人で地球に来たんだ、前の俺は死の星だった地球しか見られなかったが…。
お前はそれすら見られなかったが、今じゃ立派な本物の青い地球だしな?
ハンモックにも乗りに行かなきゃいかんし、他にも約束は山ほどだ。
お前と地球まで来られたからには、どれも端から叶えてやるのが俺の役目というヤツだよな。
今を大いに楽しまないと、とハーレイが約束してくれたから。
青い地球まで二人で来たから、いつかヤシの木を見に出掛けよう。
前の自分が憧れた景色を、真っ青な空と海を従えて、すっくと伸びている本物のヤシを。
南国の海辺でヤシの木を仰いで、夢だったハンモックにも二人で乗ろう。
ハーレイと同じのに揺られてもいいし、隣同士のハンモックだって。
濃い青の空と海を眺めて、星が降る夜に乗るのもいい。風に揺られるハンモックに。
そうやって二人、のんびりと過ごす。
喉が渇いたら、サルが採って来てくれたヤシの実の中のジュースを飲んで。
ハーレイがコテージから海に潜って、「美味そうだぞ」と獲った魚を二人で食べて。
(きっと、幸せ…)
二人で乗ろう、と約束していたハンモック。
先にハーレイが一人で乗ってしまったけれども、そのくらいはきっと小さなこと。
本物の地球に来られた幸せ、その大きさに比べたら。
前の自分が夢に見ていた、青い水の星でハーレイと二人で生きる幸せ。
それを大いに楽しんでゆこう、ハーレイがそう言ってくれたから。
いつかは二人でハンモックに乗って、ヤシの木を見上げられるのだから…。
ヤシの木の夢・了
※前のブルーの夢の一つだった、地球でハンモックに乗るということ。ヤシの木に吊るして。
ハーレイは記憶が戻る前に乗ってしまいましたけど、そのお蔭で増えた、幸せな未来の約束。
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