シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
冷たい飲み物
(うーん…)
ちょっぴり熱い、と小さなブルーが顰めた顔。学校から帰って、おやつの時間に。
熱いと感じたものは紅茶で、本当は「ちょっぴり」どころではない。カップからホカホカと立ち昇る湯気は、まだ衰えてはいないから。
(これじゃ飲めない…)
珍しく喉が渇いているから、ゴクゴク飲みたい気分なのに。水みたいに飲んでしまいたいのに、熱すぎる紅茶。母が淹れてくれたカップの中身は、さっき注がれたばかりだから。
(冷ましながらだと…)
息を吹きかけて飲んでゆくなら、少しずつ。一口分ずつ時間をかけて。
それでは乾きが癒えてくれないし、飲み終えて次を飲もうとしたら、また熱い紅茶なのだろう。おかわり用のポットの中身も、同じに熱い筈だから。
指で触れてみたら、やっぱり熱い陶器のポット。「中身も熱いですよ」と知らせるように。
(蓋を取っても、あんまり効果ないよね?)
きっとそうだ、と眺めるポット。蓋の部分は小さいのだから、そうそう冷めないポットの中身。まだ熱いカップの中の紅茶をやっとの思いで飲んだ後にも、熱いままだろう母が淹れた紅茶。
(これじゃゴクゴク飲めないよ…)
冷やさなくちゃ、とキッチンに行くことにした。
ポットの中身の方はともかく、カップに注がれた紅茶だけでも冷やしたい。今ある一杯、これを一息に飲んでしまえたら、乾きが少し癒えそうだから。
(飲んじゃっても喉が渇いていたら…)
その時はまた冷やせばいい。おかわり用に注いだ分を。
カップの紅茶を冷やすくらいは、自分でも出来る簡単なこと。キッチンに行けば氷があるから、それをポチャンと落とすだけ。熱い紅茶に。
冷凍庫の氷を、母は切らしはしないから。
(お料理で、急いで冷やさなきゃ駄目なものもあるしね?)
そういった時に困らないよう、夏でなくても氷は沢山。熱い紅茶に幾つか入れたら、飲みやすい温度に冷める筈。「冷たい」と思うくらいにだって。
よし、と出掛けて行ったキッチン。カップを手にして、それに氷を入れようと。
キッチンには母がいたのだけれども、気にせずに開けた冷凍庫。「氷は此処」と。そうしたら、音で振り向いた母。
「あら、ブルー? どうしたの、冷凍庫を開けて」
アイスクリームの季節じゃないわよ、と軽くたしなめられた。冷凍庫の中にはアイスクリームの器も入っているものだから。アップルパイなどに添えたりもするし、そのためのものが。
「アイスじゃなくって、普通の氷…」
紅茶、熱くて飲めないんだよ。だから氷が欲しくって…。
入れに来ただけ、と指差したカップ。冷凍庫からの冷気を浴びても、消えない湯気。
「そのくらい、直ぐに冷めるでしょ。夏じゃないんだから」
今の季節はそれでいいの、と母に言われたけれども、自然に冷めるのを待てないから来た。喉は今でも乾いたままだし、中身を一気に飲みたいのだから。
「…喉が渇いてて、待てないんだもの…」
少しずつ飲んでも、飲んだ気分がしないから…。いっぺんに飲んでしまわないと。
だから氷、と強請ったものの、冷凍庫の扉は仕方なく閉めた。中の氷などが溶けないように。
「紅茶だったら、ミルクを入れれば冷えるわよ」
冷蔵庫の方に入っているでしょ、いつものミルク。そっちを入れておきなさいな。
カップに少し入れるだけでも違うわよ、という母の意見も分かるのだけれど。冷蔵庫のミルクは冷たいのだから、紅茶も冷えてくれそうだけれど…。
「…今日は普通の紅茶がいいよ」
ミルクティーじゃなくって、このままがいい、と少し我儘。本当にそのままで飲みたかったし、ミルクティーはまたの機会でいい。
(…ミルクを飲むと背が伸びるって言うけれど…)
毎朝、「早く大きくなれますように」と祈りをこめて飲んでいるけれど、それとこれとは問題が別。今の気分はミルクティーより、普通の紅茶。
いくらミルクが背を伸ばすための魔法でも。頼もしい力を持つ飲み物でも、今の所は見られない効果。チビの自分の背は伸びないから、紅茶に少し入れたくらいでは、きっと効かない。
効くのだったらミルクティーでもいいのだけれども、効果が無いなら普通の紅茶。
背を伸ばしたい祈りのことは、母は知らない。背丈が伸びて前の自分と同じになったら、恋人にキスして貰えることも。その恋人がハーレイなことも。
(早く大きくなりたいよ、って所までしか…)
母は全く知らないのだから、「ミルクティーの気分じゃない」と言っても、「仕方ないわね」と困ったような顔をしただけ。「今日はミルクじゃ駄目なのね」と。
「ミルクが嫌なら氷ってことね、分かったわ」
じゃあ、これだけ、と冷凍庫を開けて、母がポチャンと入れてくれた氷。たったの一個。それも大きくないものを。自分で入れようと開けた時には、幾つも入れたかったのに。
「…これだけなの?」
一個しか入れてくれないの、とカップの中を覗いたけれども、もう閉められた冷凍庫。氷の数は増えてくれない。カップの中では氷が溶けてゆく所。紅茶の方が熱いから。
「冷たすぎるのは良くないの。…お腹も身体も冷やしちゃうのよ」
丈夫だったら冷えてもいいけど、ブルーは身体が弱いでしょう?
だから氷は一個でいいのよ、それ以上は駄目。…そうそう、ポットの紅茶も熱すぎるのね?
今日のブルーの気分だと、と母が訊くから、ここぞとばかりに頼んでみた。
「そうなんだけど…。氷、入れてもいい?」
ポットの分の氷もくれるんだったら、持って行って自分で入れるから。
氷、何かに入れてちょうだい、と指差した食器たちの棚。紅茶のカップは片手で持てるし、もう片方の手で氷を運んでゆけばいいから。適当な器に入れて貰って。
そのつもりなのに、「駄目よ」と返した母。
「氷を持って行くのは駄目。ポットを此処に持って来て」
紅茶のポットよ、そのままでね。…熱い紅茶は困るんでしょう?
「ポット…?」
ママが氷を入れてくれるの、ぼくだと沢山入れすぎちゃうから…?
これだけ、って渡して貰った氷を、全部ポットに入れそうだから…?
「それもあるけど、紅茶の方が問題なのよ」
冷めるとお砂糖、溶けにくいでしょ。
ブルーは甘い紅茶が好きだし、お砂糖を入れずに飲んだりしていないものね。
ポットごと持って来なさいな、と母が言うから運んで行った。氷を入れて貰ったカップを、元のテーブルに戻してから。…ダイニングにある大きなテーブル。
それから母にポットを渡して、また戻って来て飲んでみた紅茶。椅子に座って。
(氷、一個しか貰えないなんて…)
もう溶けちゃった、と溜息を零していたのだけれども、舌に熱くはない感じ。火傷しそうだった熱は取れてしまって、ぬるくなったと思える温度。
(さっきほど熱くないかな、これ)
冷ましながらでなくても飲めそう、とコクコクと飲んで、乾きが癒えてくれた喉。良かった、とホッと息をついたら、おかわり用もやって来た。母が運んで来てくれたポット。
それは嬉しいことなのだけれど、ポットがさっきのとは違う。「氷、お願い」とキッチンの母に届けた、熱すぎた紅茶のポットとは。…大きさはともかく、模様も形も。
「ママ、ポットは?」
持って行ったポットはどうなっちゃったの、このポット、違うポットだよ…?
冷たい紅茶にしてくれたの、と尋ねてみたら、「少しだけね」と微笑んだ母。
「ほんの少しよ、冷たいっていうほどじゃないわね」
ポットごと中身を冷やして来たのよ、冷たいお水で。…その前にちゃんとお砂糖も入れて。
今はアイスティーの季節じゃないでしょ、カップの紅茶にシロップはちょっと…。
似合わないから、最初から甘くしてみたの。
ブルーが入れたいお砂糖の量は、ママだって知っているものね。このくらい、って。
熱い間にお砂糖を溶かして、溶けたらポットごと冷やすんだけど…。
さっきのポットは熱くなってたから、早く冷えるように入れ替えたのよ。冷たいポットに。
最初から冷えたポットだったら、冷えてくれるのも早くなるでしょ、と母は説明してくれた。
「お砂糖を入れなくても甘い筈よ」と、置いて行ってくれたポットの中身は…。
(ホントだ、熱くなくって、甘い…)
カップに注いで一口飲んだら、直ぐに分かった。
アイスティーの冷たさとは違った、ぬるめの紅茶。氷を一個落として貰ったカップと、似ている温度。母が「身体にいい」と思う温度がこれなのだろう。
それに甘さも丁度いいもの、自分の好み。甘すぎもしなくて、甘さが足りないほどでもなくて。
流石はママ、とゴクゴクと飲んだカップの中身。喉の渇きは消えていたけれど、せっかくだから一息に、と。これでカップに二杯も飲んだし、充分、満足。
次はケーキ、と母が焼いてくれた美味しいケーキを頬張った。喉が渇いていた間には、ケーキな気分ではなかったから。
ケーキをフォークで口に運んで、眺める新しいポット。母が入れ替えて来てくれたもの。
(アイスティー、こうやって淹れていたっけ…)
夏の間に見た光景。
熱い季節は紅茶もアイスティーだったけれど、淹れた時には当然、熱い。紅茶を美味しく淹れるためには欠かせないのが熱いお湯。いくら夏でも、うだるような暑さが続いていても。
夏の室温では、熱い紅茶はなかなか冷めない。冷房を入れてある部屋でも。
(だから、ポットごと…)
母は急いで冷やしていた。茶葉が開きすぎてしまわない間に、冷たい水にポットごと浸けて。
ポットを浸けた水がぬるくなる前に、捨てては注いだ冷たい水。時には氷も加えたりして。
きちんと冷えたら、紅茶を移したガラスのポット。とても涼しげに見えるから。
(ガラスのポットでも、紅茶は淹れられるんだけど…)
フルーツティーを作る時なら、母はガラスのポットを使う。茶葉と、色々なフルーツを入れて。中の果物がよく見えるようにガラスのポット。熱いお湯でも割れないガラス。
夏に何度も飲んだアイスティーは、そういうポットに入っていた。冷えているから、沢山の露を纏ったガラスのポットに。
あの時はシロップ入りの小さな器が、ポットに添えられていたけれど…。
(お砂糖を先に入れておく方法、あったんだ…)
熱い間に溶かしてしまえば、充分に甘くなる紅茶。シロップ無しでも。
考えてみれば、そう難しくはないのだろう。出来上がりの甘さが分かっているなら、必要な量の砂糖を溶かして冷やすだけ。
(ママ、お砂糖の量、ちゃんと分かってくれているしね?)
だからこういう作り方だって出来るんだ、と思った紅茶の冷やし方。
シロップは無しで、初めからつけておく甘み。冷めた紅茶だと砂糖は溶けてくれないのだから、考えてくれた優しい母。自分が勝手にやっていたなら、氷を放り込んだだろうに。
母のお蔭で美味しく飲めた、甘くしてあったポットの紅茶。ケーキも食べ終えて、戻った二階の自分の部屋。勉強机の前に座って、考えてみた紅茶のこと。
(さっきの紅茶はぬるかったけれど、アイスティーだって…)
きっと母なら同じように手早く作るのだろう。最初から甘くしてあるものを。シロップ無しでも充分に甘い、自分の舌にピッタリなのを。
(アイスティーがいいな、って急に言っても…)
淹れて貰えるだろうと思う。自分の身体が弱くなければ、それこそ冬の最中でも。家まで走って帰って来たから暑かった、と注文すれば。「冷たい紅茶がいいんだけれど」と言ったなら。
弱い身体に毒でさえなければ、アイスティーもホットも注文出来る。その日の気分で。
(もうちょっと丈夫だったらね…)
今日だってもっと冷たい紅茶、と思ったら不意に掠めた記憶。
冷たいのがいい、と強請った自分。幼かった頃の記憶ではなくて、遠く遥かな時の彼方で。
(前のぼく…?)
いったい誰に言ったのだろう、と首を傾げてしまった記憶。誰に強請っていたのだろう、と。
今日の自分がやっていたように、「冷たいのがいい」と強請ったソルジャー・ブルー。それともチビの頃だったろうか、まだソルジャーではなかった頃の。
シャングリラにも紅茶はあったけれども、その紅茶。あの船で淹れていた紅茶なら…。
(食堂だったら、アイスかホット…)
白い鯨になった船なら、好みの方を選べた筈。誰でも、それを注文すれば。
紅茶も、それにコーヒーだって、アイスかホットか、好きに選んで飲めた食堂。シャングリラで栽培された紅茶は、香り高くはなかったけれど。コーヒーは代用品だったけれど。
(…紅茶は本物のお茶の葉っぱで、コーヒーはキャロブ…)
今の時代はヘルシー食品になっているキャロブ、イナゴ豆とも呼ばれる豆。元はチョコレートの代用品で、コーヒーやココアも作れるからと栽培していた。合成よりは代用品の方がいい、と。
贅沢を言いさえしなかったなら、紅茶もコーヒーもあった船。
アイスクリームまで作っていた船なのだし、食堂には常に氷が沢山。皆が気軽に注文していた、氷が入った冷たい飲み物。
白い鯨なら、強請る必要など無かっただろう。「冷たいのがいい」と、船の誰かに。
食堂に出掛けて「アイスで」と言えばいいのだから。強請るのではなくて、注文するだけ。
前の自分はソルジャーだったけれど、食事は青の間で食べていたけれど。
食堂に行ったこともあったし、注文したって誰も困りはしない。頼んだ物が出て来るだけ。
(改造前の船だって…)
飲み物を冷たくするかどうかは、充分に選べたと思う。氷を作って入れる程度ならば、それほど手間はかからないから。
船での暮らしに馴染んで来たなら、誰でも自由に頼めただろう。食堂に出掛けて、好きな温度の飲み物を。その日の気分で、ホットでも、氷をたっぷりと入れた冷たいアイスでも。
(休憩室にも…)
飲み物を淹れられる設備はあったし、氷も備えられていた。あの時代ならば、コーヒーは本物のコーヒー豆から出来たコーヒー。紅茶もコーヒーも、全て略奪品だったから。
前の自分が人類の船から奪った物資で、皆の暮らしを維持していた船。自給自足の白い鯨とは、まるで違っていた生き方。
それでも自由に頼めた飲み物、アイスもホットも。休憩室で淹れるのだったら、自分たちの手で好きに作れた。熱い紅茶も、氷で冷たくしたものも。
(前のぼくでも、冷たいの…)
作ろうと思えば作れた筈で、作っていたという覚えもある。青の間でだって。
青の間で食べた三度の食事は、食堂の者たちが作りに来ていた。小さなキッチンで出来る料理は其処で作って、時間がかかる料理だったらキッチンでは最後の仕上げだけ。
だから常駐していなかった料理人。食事の時だけ、当番の者がやって来た。
部屋付きの係も掃除などが済んだら帰ってゆくから、大抵は一人で過ごしていた部屋。
(何か飲みたくなったから、って…)
わざわざ係を呼びはしないし、自分で淹れていた紅茶。冷たい紅茶が飲みたくなったら、冷凍庫から出した氷を入れた。シロップも多分、あったのだろう。
(前のぼく、ママとは違うから…)
先に砂糖を加えることなど、思い付きさえしなかった筈。熱い紅茶を氷で冷やして、シロップを入れて、それで満足。「甘くなった」と、「今日は冷たい紅茶の気分」と。
前の自分でも、好きに選べただろう飲み物。熱いホットか、冷たいアイスか。
白い鯨になる前の船でも、青の間の住人になった後でも。
その筈なのに、誰に強請っていたのだろうか。「冷たいのがいい」と、あの船で。
誰に向かって言っていたのか、自分でもちゃんと作れたのに。注文することも出来たのに。
(前のハーレイくらいしか…)
思い付かない、強請った相手。
燃えるアルタミラで出会った時から、ハーレイは一番の友達だった。恋人同士になる前から。
他の仲間には遠慮したって、ハーレイには甘えていた自分。頼み事でも、相談でも。
ハーレイをキャプテンに推した時でも、ハーレイだから遠慮しなかった。他の誰よりも、自分と息が合うハーレイ。そのハーレイにキャプテンになって欲しかったから…。
(なってくれるといいな、って…)
頼んでみよう、とハーレイの部屋に行ったほど。
厨房を居場所にしていたハーレイ、キャプテンとはまるで無縁な持ち場。フライパンを扱うのと船の操舵は違いすぎるのに、「似たようなものだと思うけどね?」とまで言った自分。
あれがハーレイでなかったならば、そんな無茶はしていないだろう。厨房からブリッジに移ってくれと、とんでもない転身を頼むことなど。
(…ハーレイだから、無理を言えたんだけど…)
そんな調子で色々なことを頼んだけれども、今、気になるのは冷たい飲み物。前の自分が誰かに強請った、「冷たいのがいい」という言葉。
たかが冷たい飲み物なのだし、わざわざハーレイに頼まなくても…。
(飲めるよね?)
冷えた飲み物くらいだったら、食堂で、それに休憩室で。白い鯨になる前の船でも、ハーレイの手を煩わせないで飲めた筈。
青の間が出来た後の時代も、自分で好きに淹れられた。思い立った時に、氷を入れて。
そう思うけれど、強請っていた記憶。
かなり我儘に「冷たいのがいい」と、子供が駄々をこねるみたいに。
そこまでのことをやっていたなら、相手はハーレイしか有り得ない。いくら親しくても、ゼルやブラウたちを相手に言うとは思えないから。
けれど、問題はそれを強請った理由。冷たい飲み物は自由に飲めたし、食堂に行けば係が作ってくれたのだから。
白い鯨でも、改造前の船でも、いつでも飲めた冷たい飲み物。欲しいと思いさえすれば。
簡単に飲むことが出来たというのに、何故、ハーレイに強請ったのか。
(チビだった頃かな…?)
今の自分と変わらないチビで、前のハーレイの後ろにくっついていた時代。あの頃ならば、船の仲間たちに遠慮もあったし、食堂の係が忙しくしていたならば…。
(冷たい飲み物、欲しくても…)
頼みにくくて、ハーレイに強請ったかもしれない。「冷たいのが欲しい」と、食堂へ食事をしに行った時に。自分では少し言い辛いから、代わりに頼んで貰おうと。
(…ありそうな話なんだけど…)
そう思うけれど、もっと育っていた気もする。「冷たいのがいい」と強請った自分。
遠い記憶を探る間に、浮かび上がって来たソルジャー・ブルー。しかも青の間、其処で強請っていた記憶。一度ではなくて、何度でも。…きっとハーレイを相手にして。
(なんで青の間で強請るわけ…?)
青の間だったら、それこそ何時でも飲み放題。食事を作る係が来ていなくても、部屋付きの係がいなくても。…自分で紅茶を淹れさえしたなら、後は氷を放り込むだけ。欲しい分だけ。
紅茶は自分で淹れていたのだし、氷は係が切らさないようにしていた筈。食事係は必ずチェックしていたし、部屋付きの係も忘れはしない。それも仕事の内なのだから。
(氷が切れちゃうなんてことは、絶対に無いし…)
思い当たらない、ハーレイに強請っていた理由。
青の間では自由に飲めた飲み物、強請る必要など何処にも無い。紅茶でなくても、冷蔵庫の中にあった飲み物。欲しい時には飲めるようにと、冷やされていたジュースなど。
(ジュースだったら、注ぐだけだよ?)
淹れる手間さえ省けるジュース。これにしよう、と冷蔵庫から出してグラスに注ぎ入れるだけ。あれも係が補充したから、切れることなど無かったと思う。
(いっぺんに全部、飲んじゃったって…)
食事係か部屋付きの係、どちらかが気付いて新しいのを入れるだろう。そうでなくても、減って来たことに気付いたならば、新しいものを追加する。
飲みたい時に足りなかったら、ソルジャーに対して失礼だから。前の自分が咎めなくても、係の方では平謝りになったろうから。
飲み物に関しては何の不自由もなく、青の間で暮らしたソルジャー・ブルー。
冷たい飲み物が欲しくなったら、自分で作るか、冷蔵庫のジュースをグラスに注ぐか。どちらも自分の好み次第で、前のハーレイに強請らなくても、好きなだけ飲んで良かったもの。
(だけど、「冷たいのがいい」って…)
強請った記憶が確かにあるから、それが不思議でたまらない。「なんだか変だ」と。遠い記憶をいくら探っても、出て来ない答え。冷たい飲み物を強請った理由。
(何か勘違いをしてるとか…?)
そうなのかも、と思っていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。前のぼく、ハーレイに注文してた?」
「はあ? …注文だって?」
何を注文するというんだ、とハーレイは怪訝そうな顔。「注文と言っても色々あるが」と。
「えっとね、冷たい飲み物なんだけど…」
前のぼく、ハーレイに注文したかな、冷たい飲み物がいいんだけど、って。
「冷たい飲み物…。それは飲み物の種類じゃなくてだ、温度の方か?」
紅茶よりもジュースがいいとかじゃなくて、アイスかホットか、そういう意味のことなのか?
どうなんだ、と問い返されたから、「そう」と答えた。
「それだよ、冷やしてある飲み物。…ぼく、頼んでた?」
「いつの話だ、俺が厨房にいた頃だったら、作ってやっていたと思うが」
俺は厨房担当なんだし、冷たいのがいいと注文されたら氷だが…。お前のグラスにたっぷりと。
「だよね…。その頃だったら、ぼくも頼んだかもしれないけれど…」
ハーレイが料理を作ってる時に、厨房を覗きに行ったりしたら。
でもね、あの頃よりもっと後だよ、青の間なんだよ。…ハーレイに注文したらしいのは。
厨房だったら分かるんだけど、と話したら、ハーレイが眉間に寄せた皺。ただの癖だし、怒ったわけではないのだけれど。
「青の間だってか? そいつは妙だな…」
あそこだったら、お前、自分で作れただろうが。冷たい飲み物はいくらでも。
冷蔵庫にジュースも入ってたんだし、好きな時に飲めた筈なんだがな…?
なんだって俺に頼むんだ、とハーレイにも分からないらしい。その注文をされた理由が。
「俺に頼むよりも早いと思うぞ、お前が自分で用意した方が」
ジュースだったら注ぐだけでいいし、冷たい紅茶にしてもだな…。
湯から沸かして淹れるにしたって、俺を呼び出すより、断然、早い。
いいか、俺の居場所はブリッジなんだ。「ソルジャーがお呼びだ」と抜けるにしても…。
青の間まで急いで行ったとしたって、それから紅茶を淹れて冷まして、どれだけかかる?
お前が自分で淹れるんだったら、俺が青の間に着いた頃には、冷ます段階に入っているぞ?
間違いなくな、とハーレイも指摘した、冷たい飲み物が出来るまでの時間。ハーレイが来てから作り始めたなら、飲めるまでには余分な時間がかかる筈。ハーレイの到着を待った分だけ。
「ハーレイもそう思うよね? ぼくも変だと思ってて…」
それで訊いたんだよ、前のハーレイに注文してたのか。冷たい飲み物が欲しい、って。
やっぱり何かの勘違いかな、ハーレイに頼む理由が何処にも無いもんね…?
お願い、って強請ってたように思うんだけれど、夢だったのかな…?
そういう夢を何度も見ていたのかな、と捻った首。「それとも、本当にあったのかな?」と。
「本当も何も…。冷たい飲み物を強請ったってか?」
有り得んだろうが、青の間だったら飲み放題だぞ、冷たいのも。
紅茶を冷やす氷は係が切らしやしないし、ジュースも冷えているんだし…。
元から冷えてるジュースの中にも、氷はいくらでも入れられたんだ。好きなだけな。
誰もお前を止めやしないし、お前は好きに飲めるってわけで…。
待て、強請ったと言ってたか…?
お前は俺に強請ったのか、と瞳を覗き込まれた。「強請ったんだな?」と、念を押すように。
「そんな気がして仕方ないんだけれど…。ちっとも思い出せないんだよ」
ハーレイは何か思い出したの、前のぼくはホントに強請っていたの…?
冷たい飲み物が欲しいんだけど、ってハーレイに…?
「…思い出したとも」
嫌というほど思い出しちまった、前のお前がやらかしたこと。
冷たい飲み物が欲しくなったら強請って来たんだ、前の俺にな。…あの青の間で。
実に厄介なソルジャーだった、とハーレイがついた深い溜息。
厄介だなどと言われるだなんて、前の自分はハーレイに何をしたのだろう…?
「えっと…。前のぼく、何処が厄介だったわけ…?」
冷たい飲み物を頼んだだけだよ、それだけだったら厄介じゃないと思うけど…。
ハーレイがブリッジから走って来たなら大変だけれど、そんな無茶な注文、しない筈だよ…?
仕事の邪魔をするわけないよ、と自信を持って言えること。前の自分の立場はソルジャー、前のハーレイは船を預かるキャプテン。
恋人同士になった後にも、お互い、きちんと弁えていた。いくらハーレイに甘えたくても、前の自分は呼び付けはしない。…ハーレイが仕事をしているのならば、どんなに寂しい気分でも。
だから冷たい飲み物くらいで呼ぶわけがない、と考えたのに…。
「厄介も何も、前のお前の我儘ってヤツだ」
あんな我儘なヤツは知らんな、ソルジャーのくせに。…とてもソルジャーとは思えなかった。
他のヤツらには見せられやしない、まるで示しがつかないから。
ソルジャーは皆の手本でないと、と顰められた眉。「あれをやったお前は我儘すぎだ」と。
「我儘って…?」
冷たい飲み物が欲しかっただけで、なんで我儘になっちゃうの?
前のぼく、ハーレイが仕事中の時は、邪魔はしてない筈なんだけど…。
その筈だけど、と揺らぎ始めた自信。ハーレイの邪魔をしたのだろうか、前の自分は…?
「仕事中ではなかったが…。お前に仕事の邪魔をされてはいなかったんだが…」
厄介な注文には違いなかった、前のお前が冷たい飲み物を強請るのは。
普段だったら、俺も困りはしないんだが…。紅茶だろうがジュースだろうが、欲しいと言うなら好きなだけ飲ませてやるんだが…。
覚えていないか、お前が俺に強請っていたのは、ノルディが駄目だと言ってた時だ。
お前が体調を崩しちまって、色々な制限がかかっていた時。
食事はもちろん病人食だが、俺のスープしか飲めないわけではなかったな。
しかし冷たい飲み物は禁止で、「飲まないように」とノルディが釘を刺してたんだが…?
それでも欲しがったのがお前だ、と見据えられたら思い出した。前の自分と冷たい飲み物。
(…冷たいの、欲しかったんだっけ…)
あれだ、と蘇って来た記憶。前の自分が熱を出して寝込んでしまった時。
熱を下げることは大切だけれど、冷えすぎると身体を弱らせるから、冷たい飲み物を飲むことは禁止。熱っぽい喉には心地良さそうな、冷蔵庫や氷でキンと冷やした飲み物は全部。
けれど、欲しくて強請ったのだった。
食事係や部屋付きの係には断られるのが分かっているから、大人しくしていた前の自分。冷たい飲み物がいくら欲しくても、彼らが差し出す温かいスープなどを飲んで我慢して。
そうやって夜まで続けた我慢。「夜になったら、ハーレイが此処に来るんだから」と。
あの我儘を言った頃には、もうハーレイとは恋人同士。夜はハーレイが青の間に泊まるか、前の自分がキャプテンの部屋に泊まりにゆくか。
具合が悪くなった時でも、ハーレイは添い寝してくれた。ソルジャーへの報告は手短に終えて、前の自分を気遣いながら。
だからハーレイがやって来るなり、「欲しい」と駄々をこねた飲み物。ノルディが禁じた冷たい飲み物、それまで我慢していたものを。
「…あれって、ハーレイ、くれないんだよ」
ぼくが欲しがっても、「いけません」って怖い顔をして。…睨んだりもして。
ハーレイが来るまで我慢してた、って言ってみたって、「駄目なものは駄目です」って、絶対に飲ませてくれないんだから。
前のハーレイもケチだったよ、と上目遣いに睨んでやった。今のハーレイはキスをくれないケチだけれども、前のハーレイもケチだったっけ、と。
「今のお前のことはともかく、前のお前の方なら、あれが当然だろうが」
ノルディが駄目だと言った以上は駄目なんだ。お前の身体に悪いんだから。
お前がコッソリ飲まないようにと、食事係や部屋付きの係にも徹底させていただろうが。
上手いことを言って、係を騙して飲みかねないしな、悪知恵の働くソルジャーは。
俺だって、お前が何を言おうが、その手には乗りやしないんだが…。
身体に良くない飲み物は駄目で、飲ませるなんぞは論外ってことになるんだが…。
お前というヤツは知恵をつけやがって…、と肩を竦めているハーレイ。「あれには参った」と。
参ったと口にしているからには、前の自分は冷たい飲み物を飲ませて貰えたのだろうか?
「…知恵って、なあに?」
それでハーレイ、飲ませてくれたの、ノルディは禁止していたけれど…?
ぼくが欲しかった冷たい飲み物、と水を向けたら、「まったく、前のお前ときたら…」と零れた溜息。「あれは反則だと思うがな?」と。
「お前が使ったのは悪知恵ってヤツだ。…もう長くないと言い出すんだ」
俺が「駄目だ」と苦い顔をしたら、途端に言うのが「もうすぐ死んでしまうのに」だった。
まだ充分に寿命があった頃から、「死ぬ前に飲ませてくれ」なんだから。
重病ってわけでもなかったくせに、と今のハーレイも呆れ顔。前のハーレイと全く同じに。
「そうだっけ…。前のぼくのお願い、それだったっけね…」
よくハーレイを困らせていたよ、「じきに死ぬから、ぼくの最後のお願い」だってね。
少しでいいから、冷たい飲み物をぼくに飲ませて欲しいんだけど、って。
それでもハーレイ、くれなかったよ。…ぼくの最後のお願いなのに。
前のハーレイもやっぱりケチだ、と唇を少し尖らせてやった。芝居とはいえ、前の自分の最後の頼みを無視したハーレイ。冷たい飲み物は貰えなかったし、前のハーレイもケチなのだから。
どっちのハーレイもケチはおんなじ、と思ったのだけれど…。
「ケチ呼ばわりをされる覚えはないな。…俺は飲ませてやったんだから」
そうだ、きちんと飲ませたぞ。前のお前の最後の望みだ、それは叶えてやらんとな。
もっとも、あまり思い出して欲しくはないんだが…。
お前が調子に乗るだけだしな、とハーレイが妙なことを言うから、キョトンとした。
「え…?」
最後のお願い、ハーレイは聞いてくれたんだよね?
ぼくが欲しかった冷たい飲み物、ちゃんと飲ませてくれたんでしょ…?
「其処だ、言いたくないのはな。…確かに飲ませてやったんだが…」
冷たい飲み物を飲ませたんだが、冷たくなかったというわけだ。
お前の身体に障らないよう、適温になっていたからな。
早い話が、俺がお前に飲ませた時には、そこそこ温まっていたもんだから。
「冷たかったが、冷たくなかった」というのがハーレイの言葉。
どうやら温まっていたらしい飲み物、それでは欲しがる意味が無い。最後の望みだとまで言って強請っても、冷たい飲み物を貰えないなら。
「なんなの、それ?」
ぼくが強請っても、ハーレイ、違うのを寄越してたわけ…?
温かい飲み物を飲ませてたくせに、「ちゃんと飲ませた」って威張っているの…?
覚えていないと思って酷いんだから、と膨れたけれども、ハーレイはまるで動じない。
「そう思うのはお前の勝手だ、これ以上は言わん」
とにかく俺はお前に飲ませてやったからな、と結ばれた唇。それ以上のことは聞けないらしい。
(んーと…?)
頼れるのは自分の記憶だけなのか、と懸命に探ることにした。前の自分の遠い記憶を。
ハーレイに飲ませて貰えたけれども、
冷たくなかった冷たい飲み物。
ノルディが指示していった通りに温まっていて、今のハーレイは思い出して欲しくはなくて…。
どうやって飲ませたのだろう、と思う飲み物。
冷たい飲み物を欲しがったのだし、温まっていたら、怒りそうなものだと考えたけれど。
差し出されても素直に飲み込むどころか、突き返しそうだと思ったのだけど…。
(…口移し…!)
キスだ、と気付いた冷たい飲み物の飲ませ方。前の自分の「最後のお願い」。
これが最後のお願いだから、と言ってやったら、ハーレイはちゃんと飲ませてくれた。冷蔵庫にあった冷たいジュースや、冷やして冷たくした紅茶を。
グラスやカップに注ぎ入れたら、ハーレイが自分の口に含んでから、ゆっくりと。
そうっと唇を合わせて重ねて、キスをする代わりに流し込んで。
(…強請るわけだよ…)
あんな飲み方をしていたのならば、酷い我儘を言ってまで。
「ぼくはもうすぐ死んでしまうから、これが最後のお願いだよ」と困らせてまで。
死にそうな気分はしていないのに、さほど重病でもなかったのに。
それを口実に強請った飲み物、「冷たいのが欲しい」と。
温かい飲み物は欲しくないからと、「冷えているのを最後に飲みたい」と。
そうだったのか、と合点がいった、前の自分が強請ったもの。冷たい飲み物を欲しがった理由。
「思い出したよ、ハーレイが飲ませてくれてたんだよ」
冷たいのを、ちょっと温めてから。…それなら冷たいままじゃないから。
ジュースも、それに冷たい紅茶も…、と幸せな気分に包まれた。前の自分がそうだったように。
「分かったか、チビ。前の俺はケチじゃなかったとな」
俺はきちんと飲ませていたんだ、前のお前の注文通りに。
「ぼくの最後のお願いだよ」と強請られる度に、ジュースも、冷たい紅茶ってヤツも。
少しもケチではないだろうが、とハーレイが胸を張るものだから。
「…もう冷たくはなかったけどね?」
ジュースも紅茶もぬるくなってて、ちっとも冷たくなかったんだけど…。
ぼくは冷たいのと言ったのに、と苦情を述べたけれども、ハーレイはフンと鼻を鳴らした。
「お前の身体には、あれくらいで丁度だったんだ!」
言われた通りに飲ませていたなら、お前、具合が悪くなったに決まってるだろう…!
「…そうかもだけど…。今のぼくには?」
病気の時にね、お願いしたら飲ませてくれるの、前みたいに…?
冷たい飲み物が駄目な時は、と期待したのに、「まだ早い!」と叱られた。言った途端に。
「お前はチビで子供だろうが、前のお前のようにはいかん!」
「…じゃあ、育ったら飲ませてくれる?」
ぼくが病気になっちゃった時は。…冷たい飲み物、禁止された時は。
今のぼくでも前と同じで飲ませてくれるの、と見詰めた恋人。「ケチじゃないんでしょ?」と。
「…駄目とは言わんが…。そうなった時は飲ませてやるが…」
そうなる前にだ、まずは丈夫になってくれ。
せっかく新しい身体なんだし、「最後のお願い」なんてことは言えない身体にな。
よく言うだろうが、「殺しても死にそうにないようなヤツ」と。
そっちで頼む、とハーレイは半ば本気のようだけれども…。
「無理!」
知っているでしょ、今のぼくも身体が弱いってこと。
そんなに丈夫になれやしないよ、前と同じで弱くて死にそうになるんだってば…!
病気になったら、すぐ死にそうになるんだよ、と返してやった。
本当は其処まで弱くないけれど、今の自分もきっと育っても弱いまま。前と同じに。
だから病気になった時には、ハーレイに強請ってみることにしよう。
「冷たいのがいいよ」と、「ぼくの最後のお願いだから」と、前の自分が何度も言った台詞で。
今度はハーレイと結婚してずっと一緒だけれども、死ぬ時も二人一緒だけれど。
前の自分たちは、一度は死んで離れてしまったのだから…。
(ハーレイだって、きっと前より優しい筈だよ)
それに、本当に寿命の残りが少なかった頃のぼくまで知ってるものね、と浮かべた笑み。
前のハーレイと同じに優しいだろう今のハーレイ、もっと優しい筈のハーレイ。
いつか病気になった時には、そのハーレイに冷たい飲み物を飲ませて貰おう。
きっといつかは、口移し。
結婚した後に病気になったら、冷たい飲み物は駄目だと言われてしまったら…。
冷たい飲み物・了
※前のブルーがハーレイに強請った、冷たい飲み物。ノルディに禁止されても我儘な注文。
ハーレイは、ちゃんと飲ませてくれたのです。口移しで、体温で温めて。強請ったのも当然。
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ちょっぴり熱い、と小さなブルーが顰めた顔。学校から帰って、おやつの時間に。
熱いと感じたものは紅茶で、本当は「ちょっぴり」どころではない。カップからホカホカと立ち昇る湯気は、まだ衰えてはいないから。
(これじゃ飲めない…)
珍しく喉が渇いているから、ゴクゴク飲みたい気分なのに。水みたいに飲んでしまいたいのに、熱すぎる紅茶。母が淹れてくれたカップの中身は、さっき注がれたばかりだから。
(冷ましながらだと…)
息を吹きかけて飲んでゆくなら、少しずつ。一口分ずつ時間をかけて。
それでは乾きが癒えてくれないし、飲み終えて次を飲もうとしたら、また熱い紅茶なのだろう。おかわり用のポットの中身も、同じに熱い筈だから。
指で触れてみたら、やっぱり熱い陶器のポット。「中身も熱いですよ」と知らせるように。
(蓋を取っても、あんまり効果ないよね?)
きっとそうだ、と眺めるポット。蓋の部分は小さいのだから、そうそう冷めないポットの中身。まだ熱いカップの中の紅茶をやっとの思いで飲んだ後にも、熱いままだろう母が淹れた紅茶。
(これじゃゴクゴク飲めないよ…)
冷やさなくちゃ、とキッチンに行くことにした。
ポットの中身の方はともかく、カップに注がれた紅茶だけでも冷やしたい。今ある一杯、これを一息に飲んでしまえたら、乾きが少し癒えそうだから。
(飲んじゃっても喉が渇いていたら…)
その時はまた冷やせばいい。おかわり用に注いだ分を。
カップの紅茶を冷やすくらいは、自分でも出来る簡単なこと。キッチンに行けば氷があるから、それをポチャンと落とすだけ。熱い紅茶に。
冷凍庫の氷を、母は切らしはしないから。
(お料理で、急いで冷やさなきゃ駄目なものもあるしね?)
そういった時に困らないよう、夏でなくても氷は沢山。熱い紅茶に幾つか入れたら、飲みやすい温度に冷める筈。「冷たい」と思うくらいにだって。
よし、と出掛けて行ったキッチン。カップを手にして、それに氷を入れようと。
キッチンには母がいたのだけれども、気にせずに開けた冷凍庫。「氷は此処」と。そうしたら、音で振り向いた母。
「あら、ブルー? どうしたの、冷凍庫を開けて」
アイスクリームの季節じゃないわよ、と軽くたしなめられた。冷凍庫の中にはアイスクリームの器も入っているものだから。アップルパイなどに添えたりもするし、そのためのものが。
「アイスじゃなくって、普通の氷…」
紅茶、熱くて飲めないんだよ。だから氷が欲しくって…。
入れに来ただけ、と指差したカップ。冷凍庫からの冷気を浴びても、消えない湯気。
「そのくらい、直ぐに冷めるでしょ。夏じゃないんだから」
今の季節はそれでいいの、と母に言われたけれども、自然に冷めるのを待てないから来た。喉は今でも乾いたままだし、中身を一気に飲みたいのだから。
「…喉が渇いてて、待てないんだもの…」
少しずつ飲んでも、飲んだ気分がしないから…。いっぺんに飲んでしまわないと。
だから氷、と強請ったものの、冷凍庫の扉は仕方なく閉めた。中の氷などが溶けないように。
「紅茶だったら、ミルクを入れれば冷えるわよ」
冷蔵庫の方に入っているでしょ、いつものミルク。そっちを入れておきなさいな。
カップに少し入れるだけでも違うわよ、という母の意見も分かるのだけれど。冷蔵庫のミルクは冷たいのだから、紅茶も冷えてくれそうだけれど…。
「…今日は普通の紅茶がいいよ」
ミルクティーじゃなくって、このままがいい、と少し我儘。本当にそのままで飲みたかったし、ミルクティーはまたの機会でいい。
(…ミルクを飲むと背が伸びるって言うけれど…)
毎朝、「早く大きくなれますように」と祈りをこめて飲んでいるけれど、それとこれとは問題が別。今の気分はミルクティーより、普通の紅茶。
いくらミルクが背を伸ばすための魔法でも。頼もしい力を持つ飲み物でも、今の所は見られない効果。チビの自分の背は伸びないから、紅茶に少し入れたくらいでは、きっと効かない。
効くのだったらミルクティーでもいいのだけれども、効果が無いなら普通の紅茶。
背を伸ばしたい祈りのことは、母は知らない。背丈が伸びて前の自分と同じになったら、恋人にキスして貰えることも。その恋人がハーレイなことも。
(早く大きくなりたいよ、って所までしか…)
母は全く知らないのだから、「ミルクティーの気分じゃない」と言っても、「仕方ないわね」と困ったような顔をしただけ。「今日はミルクじゃ駄目なのね」と。
「ミルクが嫌なら氷ってことね、分かったわ」
じゃあ、これだけ、と冷凍庫を開けて、母がポチャンと入れてくれた氷。たったの一個。それも大きくないものを。自分で入れようと開けた時には、幾つも入れたかったのに。
「…これだけなの?」
一個しか入れてくれないの、とカップの中を覗いたけれども、もう閉められた冷凍庫。氷の数は増えてくれない。カップの中では氷が溶けてゆく所。紅茶の方が熱いから。
「冷たすぎるのは良くないの。…お腹も身体も冷やしちゃうのよ」
丈夫だったら冷えてもいいけど、ブルーは身体が弱いでしょう?
だから氷は一個でいいのよ、それ以上は駄目。…そうそう、ポットの紅茶も熱すぎるのね?
今日のブルーの気分だと、と母が訊くから、ここぞとばかりに頼んでみた。
「そうなんだけど…。氷、入れてもいい?」
ポットの分の氷もくれるんだったら、持って行って自分で入れるから。
氷、何かに入れてちょうだい、と指差した食器たちの棚。紅茶のカップは片手で持てるし、もう片方の手で氷を運んでゆけばいいから。適当な器に入れて貰って。
そのつもりなのに、「駄目よ」と返した母。
「氷を持って行くのは駄目。ポットを此処に持って来て」
紅茶のポットよ、そのままでね。…熱い紅茶は困るんでしょう?
「ポット…?」
ママが氷を入れてくれるの、ぼくだと沢山入れすぎちゃうから…?
これだけ、って渡して貰った氷を、全部ポットに入れそうだから…?
「それもあるけど、紅茶の方が問題なのよ」
冷めるとお砂糖、溶けにくいでしょ。
ブルーは甘い紅茶が好きだし、お砂糖を入れずに飲んだりしていないものね。
ポットごと持って来なさいな、と母が言うから運んで行った。氷を入れて貰ったカップを、元のテーブルに戻してから。…ダイニングにある大きなテーブル。
それから母にポットを渡して、また戻って来て飲んでみた紅茶。椅子に座って。
(氷、一個しか貰えないなんて…)
もう溶けちゃった、と溜息を零していたのだけれども、舌に熱くはない感じ。火傷しそうだった熱は取れてしまって、ぬるくなったと思える温度。
(さっきほど熱くないかな、これ)
冷ましながらでなくても飲めそう、とコクコクと飲んで、乾きが癒えてくれた喉。良かった、とホッと息をついたら、おかわり用もやって来た。母が運んで来てくれたポット。
それは嬉しいことなのだけれど、ポットがさっきのとは違う。「氷、お願い」とキッチンの母に届けた、熱すぎた紅茶のポットとは。…大きさはともかく、模様も形も。
「ママ、ポットは?」
持って行ったポットはどうなっちゃったの、このポット、違うポットだよ…?
冷たい紅茶にしてくれたの、と尋ねてみたら、「少しだけね」と微笑んだ母。
「ほんの少しよ、冷たいっていうほどじゃないわね」
ポットごと中身を冷やして来たのよ、冷たいお水で。…その前にちゃんとお砂糖も入れて。
今はアイスティーの季節じゃないでしょ、カップの紅茶にシロップはちょっと…。
似合わないから、最初から甘くしてみたの。
ブルーが入れたいお砂糖の量は、ママだって知っているものね。このくらい、って。
熱い間にお砂糖を溶かして、溶けたらポットごと冷やすんだけど…。
さっきのポットは熱くなってたから、早く冷えるように入れ替えたのよ。冷たいポットに。
最初から冷えたポットだったら、冷えてくれるのも早くなるでしょ、と母は説明してくれた。
「お砂糖を入れなくても甘い筈よ」と、置いて行ってくれたポットの中身は…。
(ホントだ、熱くなくって、甘い…)
カップに注いで一口飲んだら、直ぐに分かった。
アイスティーの冷たさとは違った、ぬるめの紅茶。氷を一個落として貰ったカップと、似ている温度。母が「身体にいい」と思う温度がこれなのだろう。
それに甘さも丁度いいもの、自分の好み。甘すぎもしなくて、甘さが足りないほどでもなくて。
流石はママ、とゴクゴクと飲んだカップの中身。喉の渇きは消えていたけれど、せっかくだから一息に、と。これでカップに二杯も飲んだし、充分、満足。
次はケーキ、と母が焼いてくれた美味しいケーキを頬張った。喉が渇いていた間には、ケーキな気分ではなかったから。
ケーキをフォークで口に運んで、眺める新しいポット。母が入れ替えて来てくれたもの。
(アイスティー、こうやって淹れていたっけ…)
夏の間に見た光景。
熱い季節は紅茶もアイスティーだったけれど、淹れた時には当然、熱い。紅茶を美味しく淹れるためには欠かせないのが熱いお湯。いくら夏でも、うだるような暑さが続いていても。
夏の室温では、熱い紅茶はなかなか冷めない。冷房を入れてある部屋でも。
(だから、ポットごと…)
母は急いで冷やしていた。茶葉が開きすぎてしまわない間に、冷たい水にポットごと浸けて。
ポットを浸けた水がぬるくなる前に、捨てては注いだ冷たい水。時には氷も加えたりして。
きちんと冷えたら、紅茶を移したガラスのポット。とても涼しげに見えるから。
(ガラスのポットでも、紅茶は淹れられるんだけど…)
フルーツティーを作る時なら、母はガラスのポットを使う。茶葉と、色々なフルーツを入れて。中の果物がよく見えるようにガラスのポット。熱いお湯でも割れないガラス。
夏に何度も飲んだアイスティーは、そういうポットに入っていた。冷えているから、沢山の露を纏ったガラスのポットに。
あの時はシロップ入りの小さな器が、ポットに添えられていたけれど…。
(お砂糖を先に入れておく方法、あったんだ…)
熱い間に溶かしてしまえば、充分に甘くなる紅茶。シロップ無しでも。
考えてみれば、そう難しくはないのだろう。出来上がりの甘さが分かっているなら、必要な量の砂糖を溶かして冷やすだけ。
(ママ、お砂糖の量、ちゃんと分かってくれているしね?)
だからこういう作り方だって出来るんだ、と思った紅茶の冷やし方。
シロップは無しで、初めからつけておく甘み。冷めた紅茶だと砂糖は溶けてくれないのだから、考えてくれた優しい母。自分が勝手にやっていたなら、氷を放り込んだだろうに。
母のお蔭で美味しく飲めた、甘くしてあったポットの紅茶。ケーキも食べ終えて、戻った二階の自分の部屋。勉強机の前に座って、考えてみた紅茶のこと。
(さっきの紅茶はぬるかったけれど、アイスティーだって…)
きっと母なら同じように手早く作るのだろう。最初から甘くしてあるものを。シロップ無しでも充分に甘い、自分の舌にピッタリなのを。
(アイスティーがいいな、って急に言っても…)
淹れて貰えるだろうと思う。自分の身体が弱くなければ、それこそ冬の最中でも。家まで走って帰って来たから暑かった、と注文すれば。「冷たい紅茶がいいんだけれど」と言ったなら。
弱い身体に毒でさえなければ、アイスティーもホットも注文出来る。その日の気分で。
(もうちょっと丈夫だったらね…)
今日だってもっと冷たい紅茶、と思ったら不意に掠めた記憶。
冷たいのがいい、と強請った自分。幼かった頃の記憶ではなくて、遠く遥かな時の彼方で。
(前のぼく…?)
いったい誰に言ったのだろう、と首を傾げてしまった記憶。誰に強請っていたのだろう、と。
今日の自分がやっていたように、「冷たいのがいい」と強請ったソルジャー・ブルー。それともチビの頃だったろうか、まだソルジャーではなかった頃の。
シャングリラにも紅茶はあったけれども、その紅茶。あの船で淹れていた紅茶なら…。
(食堂だったら、アイスかホット…)
白い鯨になった船なら、好みの方を選べた筈。誰でも、それを注文すれば。
紅茶も、それにコーヒーだって、アイスかホットか、好きに選んで飲めた食堂。シャングリラで栽培された紅茶は、香り高くはなかったけれど。コーヒーは代用品だったけれど。
(…紅茶は本物のお茶の葉っぱで、コーヒーはキャロブ…)
今の時代はヘルシー食品になっているキャロブ、イナゴ豆とも呼ばれる豆。元はチョコレートの代用品で、コーヒーやココアも作れるからと栽培していた。合成よりは代用品の方がいい、と。
贅沢を言いさえしなかったなら、紅茶もコーヒーもあった船。
アイスクリームまで作っていた船なのだし、食堂には常に氷が沢山。皆が気軽に注文していた、氷が入った冷たい飲み物。
白い鯨なら、強請る必要など無かっただろう。「冷たいのがいい」と、船の誰かに。
食堂に出掛けて「アイスで」と言えばいいのだから。強請るのではなくて、注文するだけ。
前の自分はソルジャーだったけれど、食事は青の間で食べていたけれど。
食堂に行ったこともあったし、注文したって誰も困りはしない。頼んだ物が出て来るだけ。
(改造前の船だって…)
飲み物を冷たくするかどうかは、充分に選べたと思う。氷を作って入れる程度ならば、それほど手間はかからないから。
船での暮らしに馴染んで来たなら、誰でも自由に頼めただろう。食堂に出掛けて、好きな温度の飲み物を。その日の気分で、ホットでも、氷をたっぷりと入れた冷たいアイスでも。
(休憩室にも…)
飲み物を淹れられる設備はあったし、氷も備えられていた。あの時代ならば、コーヒーは本物のコーヒー豆から出来たコーヒー。紅茶もコーヒーも、全て略奪品だったから。
前の自分が人類の船から奪った物資で、皆の暮らしを維持していた船。自給自足の白い鯨とは、まるで違っていた生き方。
それでも自由に頼めた飲み物、アイスもホットも。休憩室で淹れるのだったら、自分たちの手で好きに作れた。熱い紅茶も、氷で冷たくしたものも。
(前のぼくでも、冷たいの…)
作ろうと思えば作れた筈で、作っていたという覚えもある。青の間でだって。
青の間で食べた三度の食事は、食堂の者たちが作りに来ていた。小さなキッチンで出来る料理は其処で作って、時間がかかる料理だったらキッチンでは最後の仕上げだけ。
だから常駐していなかった料理人。食事の時だけ、当番の者がやって来た。
部屋付きの係も掃除などが済んだら帰ってゆくから、大抵は一人で過ごしていた部屋。
(何か飲みたくなったから、って…)
わざわざ係を呼びはしないし、自分で淹れていた紅茶。冷たい紅茶が飲みたくなったら、冷凍庫から出した氷を入れた。シロップも多分、あったのだろう。
(前のぼく、ママとは違うから…)
先に砂糖を加えることなど、思い付きさえしなかった筈。熱い紅茶を氷で冷やして、シロップを入れて、それで満足。「甘くなった」と、「今日は冷たい紅茶の気分」と。
前の自分でも、好きに選べただろう飲み物。熱いホットか、冷たいアイスか。
白い鯨になる前の船でも、青の間の住人になった後でも。
その筈なのに、誰に強請っていたのだろうか。「冷たいのがいい」と、あの船で。
誰に向かって言っていたのか、自分でもちゃんと作れたのに。注文することも出来たのに。
(前のハーレイくらいしか…)
思い付かない、強請った相手。
燃えるアルタミラで出会った時から、ハーレイは一番の友達だった。恋人同士になる前から。
他の仲間には遠慮したって、ハーレイには甘えていた自分。頼み事でも、相談でも。
ハーレイをキャプテンに推した時でも、ハーレイだから遠慮しなかった。他の誰よりも、自分と息が合うハーレイ。そのハーレイにキャプテンになって欲しかったから…。
(なってくれるといいな、って…)
頼んでみよう、とハーレイの部屋に行ったほど。
厨房を居場所にしていたハーレイ、キャプテンとはまるで無縁な持ち場。フライパンを扱うのと船の操舵は違いすぎるのに、「似たようなものだと思うけどね?」とまで言った自分。
あれがハーレイでなかったならば、そんな無茶はしていないだろう。厨房からブリッジに移ってくれと、とんでもない転身を頼むことなど。
(…ハーレイだから、無理を言えたんだけど…)
そんな調子で色々なことを頼んだけれども、今、気になるのは冷たい飲み物。前の自分が誰かに強請った、「冷たいのがいい」という言葉。
たかが冷たい飲み物なのだし、わざわざハーレイに頼まなくても…。
(飲めるよね?)
冷えた飲み物くらいだったら、食堂で、それに休憩室で。白い鯨になる前の船でも、ハーレイの手を煩わせないで飲めた筈。
青の間が出来た後の時代も、自分で好きに淹れられた。思い立った時に、氷を入れて。
そう思うけれど、強請っていた記憶。
かなり我儘に「冷たいのがいい」と、子供が駄々をこねるみたいに。
そこまでのことをやっていたなら、相手はハーレイしか有り得ない。いくら親しくても、ゼルやブラウたちを相手に言うとは思えないから。
けれど、問題はそれを強請った理由。冷たい飲み物は自由に飲めたし、食堂に行けば係が作ってくれたのだから。
白い鯨でも、改造前の船でも、いつでも飲めた冷たい飲み物。欲しいと思いさえすれば。
簡単に飲むことが出来たというのに、何故、ハーレイに強請ったのか。
(チビだった頃かな…?)
今の自分と変わらないチビで、前のハーレイの後ろにくっついていた時代。あの頃ならば、船の仲間たちに遠慮もあったし、食堂の係が忙しくしていたならば…。
(冷たい飲み物、欲しくても…)
頼みにくくて、ハーレイに強請ったかもしれない。「冷たいのが欲しい」と、食堂へ食事をしに行った時に。自分では少し言い辛いから、代わりに頼んで貰おうと。
(…ありそうな話なんだけど…)
そう思うけれど、もっと育っていた気もする。「冷たいのがいい」と強請った自分。
遠い記憶を探る間に、浮かび上がって来たソルジャー・ブルー。しかも青の間、其処で強請っていた記憶。一度ではなくて、何度でも。…きっとハーレイを相手にして。
(なんで青の間で強請るわけ…?)
青の間だったら、それこそ何時でも飲み放題。食事を作る係が来ていなくても、部屋付きの係がいなくても。…自分で紅茶を淹れさえしたなら、後は氷を放り込むだけ。欲しい分だけ。
紅茶は自分で淹れていたのだし、氷は係が切らさないようにしていた筈。食事係は必ずチェックしていたし、部屋付きの係も忘れはしない。それも仕事の内なのだから。
(氷が切れちゃうなんてことは、絶対に無いし…)
思い当たらない、ハーレイに強請っていた理由。
青の間では自由に飲めた飲み物、強請る必要など何処にも無い。紅茶でなくても、冷蔵庫の中にあった飲み物。欲しい時には飲めるようにと、冷やされていたジュースなど。
(ジュースだったら、注ぐだけだよ?)
淹れる手間さえ省けるジュース。これにしよう、と冷蔵庫から出してグラスに注ぎ入れるだけ。あれも係が補充したから、切れることなど無かったと思う。
(いっぺんに全部、飲んじゃったって…)
食事係か部屋付きの係、どちらかが気付いて新しいのを入れるだろう。そうでなくても、減って来たことに気付いたならば、新しいものを追加する。
飲みたい時に足りなかったら、ソルジャーに対して失礼だから。前の自分が咎めなくても、係の方では平謝りになったろうから。
飲み物に関しては何の不自由もなく、青の間で暮らしたソルジャー・ブルー。
冷たい飲み物が欲しくなったら、自分で作るか、冷蔵庫のジュースをグラスに注ぐか。どちらも自分の好み次第で、前のハーレイに強請らなくても、好きなだけ飲んで良かったもの。
(だけど、「冷たいのがいい」って…)
強請った記憶が確かにあるから、それが不思議でたまらない。「なんだか変だ」と。遠い記憶をいくら探っても、出て来ない答え。冷たい飲み物を強請った理由。
(何か勘違いをしてるとか…?)
そうなのかも、と思っていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。前のぼく、ハーレイに注文してた?」
「はあ? …注文だって?」
何を注文するというんだ、とハーレイは怪訝そうな顔。「注文と言っても色々あるが」と。
「えっとね、冷たい飲み物なんだけど…」
前のぼく、ハーレイに注文したかな、冷たい飲み物がいいんだけど、って。
「冷たい飲み物…。それは飲み物の種類じゃなくてだ、温度の方か?」
紅茶よりもジュースがいいとかじゃなくて、アイスかホットか、そういう意味のことなのか?
どうなんだ、と問い返されたから、「そう」と答えた。
「それだよ、冷やしてある飲み物。…ぼく、頼んでた?」
「いつの話だ、俺が厨房にいた頃だったら、作ってやっていたと思うが」
俺は厨房担当なんだし、冷たいのがいいと注文されたら氷だが…。お前のグラスにたっぷりと。
「だよね…。その頃だったら、ぼくも頼んだかもしれないけれど…」
ハーレイが料理を作ってる時に、厨房を覗きに行ったりしたら。
でもね、あの頃よりもっと後だよ、青の間なんだよ。…ハーレイに注文したらしいのは。
厨房だったら分かるんだけど、と話したら、ハーレイが眉間に寄せた皺。ただの癖だし、怒ったわけではないのだけれど。
「青の間だってか? そいつは妙だな…」
あそこだったら、お前、自分で作れただろうが。冷たい飲み物はいくらでも。
冷蔵庫にジュースも入ってたんだし、好きな時に飲めた筈なんだがな…?
なんだって俺に頼むんだ、とハーレイにも分からないらしい。その注文をされた理由が。
「俺に頼むよりも早いと思うぞ、お前が自分で用意した方が」
ジュースだったら注ぐだけでいいし、冷たい紅茶にしてもだな…。
湯から沸かして淹れるにしたって、俺を呼び出すより、断然、早い。
いいか、俺の居場所はブリッジなんだ。「ソルジャーがお呼びだ」と抜けるにしても…。
青の間まで急いで行ったとしたって、それから紅茶を淹れて冷まして、どれだけかかる?
お前が自分で淹れるんだったら、俺が青の間に着いた頃には、冷ます段階に入っているぞ?
間違いなくな、とハーレイも指摘した、冷たい飲み物が出来るまでの時間。ハーレイが来てから作り始めたなら、飲めるまでには余分な時間がかかる筈。ハーレイの到着を待った分だけ。
「ハーレイもそう思うよね? ぼくも変だと思ってて…」
それで訊いたんだよ、前のハーレイに注文してたのか。冷たい飲み物が欲しい、って。
やっぱり何かの勘違いかな、ハーレイに頼む理由が何処にも無いもんね…?
お願い、って強請ってたように思うんだけれど、夢だったのかな…?
そういう夢を何度も見ていたのかな、と捻った首。「それとも、本当にあったのかな?」と。
「本当も何も…。冷たい飲み物を強請ったってか?」
有り得んだろうが、青の間だったら飲み放題だぞ、冷たいのも。
紅茶を冷やす氷は係が切らしやしないし、ジュースも冷えているんだし…。
元から冷えてるジュースの中にも、氷はいくらでも入れられたんだ。好きなだけな。
誰もお前を止めやしないし、お前は好きに飲めるってわけで…。
待て、強請ったと言ってたか…?
お前は俺に強請ったのか、と瞳を覗き込まれた。「強請ったんだな?」と、念を押すように。
「そんな気がして仕方ないんだけれど…。ちっとも思い出せないんだよ」
ハーレイは何か思い出したの、前のぼくはホントに強請っていたの…?
冷たい飲み物が欲しいんだけど、ってハーレイに…?
「…思い出したとも」
嫌というほど思い出しちまった、前のお前がやらかしたこと。
冷たい飲み物が欲しくなったら強請って来たんだ、前の俺にな。…あの青の間で。
実に厄介なソルジャーだった、とハーレイがついた深い溜息。
厄介だなどと言われるだなんて、前の自分はハーレイに何をしたのだろう…?
「えっと…。前のぼく、何処が厄介だったわけ…?」
冷たい飲み物を頼んだだけだよ、それだけだったら厄介じゃないと思うけど…。
ハーレイがブリッジから走って来たなら大変だけれど、そんな無茶な注文、しない筈だよ…?
仕事の邪魔をするわけないよ、と自信を持って言えること。前の自分の立場はソルジャー、前のハーレイは船を預かるキャプテン。
恋人同士になった後にも、お互い、きちんと弁えていた。いくらハーレイに甘えたくても、前の自分は呼び付けはしない。…ハーレイが仕事をしているのならば、どんなに寂しい気分でも。
だから冷たい飲み物くらいで呼ぶわけがない、と考えたのに…。
「厄介も何も、前のお前の我儘ってヤツだ」
あんな我儘なヤツは知らんな、ソルジャーのくせに。…とてもソルジャーとは思えなかった。
他のヤツらには見せられやしない、まるで示しがつかないから。
ソルジャーは皆の手本でないと、と顰められた眉。「あれをやったお前は我儘すぎだ」と。
「我儘って…?」
冷たい飲み物が欲しかっただけで、なんで我儘になっちゃうの?
前のぼく、ハーレイが仕事中の時は、邪魔はしてない筈なんだけど…。
その筈だけど、と揺らぎ始めた自信。ハーレイの邪魔をしたのだろうか、前の自分は…?
「仕事中ではなかったが…。お前に仕事の邪魔をされてはいなかったんだが…」
厄介な注文には違いなかった、前のお前が冷たい飲み物を強請るのは。
普段だったら、俺も困りはしないんだが…。紅茶だろうがジュースだろうが、欲しいと言うなら好きなだけ飲ませてやるんだが…。
覚えていないか、お前が俺に強請っていたのは、ノルディが駄目だと言ってた時だ。
お前が体調を崩しちまって、色々な制限がかかっていた時。
食事はもちろん病人食だが、俺のスープしか飲めないわけではなかったな。
しかし冷たい飲み物は禁止で、「飲まないように」とノルディが釘を刺してたんだが…?
それでも欲しがったのがお前だ、と見据えられたら思い出した。前の自分と冷たい飲み物。
(…冷たいの、欲しかったんだっけ…)
あれだ、と蘇って来た記憶。前の自分が熱を出して寝込んでしまった時。
熱を下げることは大切だけれど、冷えすぎると身体を弱らせるから、冷たい飲み物を飲むことは禁止。熱っぽい喉には心地良さそうな、冷蔵庫や氷でキンと冷やした飲み物は全部。
けれど、欲しくて強請ったのだった。
食事係や部屋付きの係には断られるのが分かっているから、大人しくしていた前の自分。冷たい飲み物がいくら欲しくても、彼らが差し出す温かいスープなどを飲んで我慢して。
そうやって夜まで続けた我慢。「夜になったら、ハーレイが此処に来るんだから」と。
あの我儘を言った頃には、もうハーレイとは恋人同士。夜はハーレイが青の間に泊まるか、前の自分がキャプテンの部屋に泊まりにゆくか。
具合が悪くなった時でも、ハーレイは添い寝してくれた。ソルジャーへの報告は手短に終えて、前の自分を気遣いながら。
だからハーレイがやって来るなり、「欲しい」と駄々をこねた飲み物。ノルディが禁じた冷たい飲み物、それまで我慢していたものを。
「…あれって、ハーレイ、くれないんだよ」
ぼくが欲しがっても、「いけません」って怖い顔をして。…睨んだりもして。
ハーレイが来るまで我慢してた、って言ってみたって、「駄目なものは駄目です」って、絶対に飲ませてくれないんだから。
前のハーレイもケチだったよ、と上目遣いに睨んでやった。今のハーレイはキスをくれないケチだけれども、前のハーレイもケチだったっけ、と。
「今のお前のことはともかく、前のお前の方なら、あれが当然だろうが」
ノルディが駄目だと言った以上は駄目なんだ。お前の身体に悪いんだから。
お前がコッソリ飲まないようにと、食事係や部屋付きの係にも徹底させていただろうが。
上手いことを言って、係を騙して飲みかねないしな、悪知恵の働くソルジャーは。
俺だって、お前が何を言おうが、その手には乗りやしないんだが…。
身体に良くない飲み物は駄目で、飲ませるなんぞは論外ってことになるんだが…。
お前というヤツは知恵をつけやがって…、と肩を竦めているハーレイ。「あれには参った」と。
参ったと口にしているからには、前の自分は冷たい飲み物を飲ませて貰えたのだろうか?
「…知恵って、なあに?」
それでハーレイ、飲ませてくれたの、ノルディは禁止していたけれど…?
ぼくが欲しかった冷たい飲み物、と水を向けたら、「まったく、前のお前ときたら…」と零れた溜息。「あれは反則だと思うがな?」と。
「お前が使ったのは悪知恵ってヤツだ。…もう長くないと言い出すんだ」
俺が「駄目だ」と苦い顔をしたら、途端に言うのが「もうすぐ死んでしまうのに」だった。
まだ充分に寿命があった頃から、「死ぬ前に飲ませてくれ」なんだから。
重病ってわけでもなかったくせに、と今のハーレイも呆れ顔。前のハーレイと全く同じに。
「そうだっけ…。前のぼくのお願い、それだったっけね…」
よくハーレイを困らせていたよ、「じきに死ぬから、ぼくの最後のお願い」だってね。
少しでいいから、冷たい飲み物をぼくに飲ませて欲しいんだけど、って。
それでもハーレイ、くれなかったよ。…ぼくの最後のお願いなのに。
前のハーレイもやっぱりケチだ、と唇を少し尖らせてやった。芝居とはいえ、前の自分の最後の頼みを無視したハーレイ。冷たい飲み物は貰えなかったし、前のハーレイもケチなのだから。
どっちのハーレイもケチはおんなじ、と思ったのだけれど…。
「ケチ呼ばわりをされる覚えはないな。…俺は飲ませてやったんだから」
そうだ、きちんと飲ませたぞ。前のお前の最後の望みだ、それは叶えてやらんとな。
もっとも、あまり思い出して欲しくはないんだが…。
お前が調子に乗るだけだしな、とハーレイが妙なことを言うから、キョトンとした。
「え…?」
最後のお願い、ハーレイは聞いてくれたんだよね?
ぼくが欲しかった冷たい飲み物、ちゃんと飲ませてくれたんでしょ…?
「其処だ、言いたくないのはな。…確かに飲ませてやったんだが…」
冷たい飲み物を飲ませたんだが、冷たくなかったというわけだ。
お前の身体に障らないよう、適温になっていたからな。
早い話が、俺がお前に飲ませた時には、そこそこ温まっていたもんだから。
「冷たかったが、冷たくなかった」というのがハーレイの言葉。
どうやら温まっていたらしい飲み物、それでは欲しがる意味が無い。最後の望みだとまで言って強請っても、冷たい飲み物を貰えないなら。
「なんなの、それ?」
ぼくが強請っても、ハーレイ、違うのを寄越してたわけ…?
温かい飲み物を飲ませてたくせに、「ちゃんと飲ませた」って威張っているの…?
覚えていないと思って酷いんだから、と膨れたけれども、ハーレイはまるで動じない。
「そう思うのはお前の勝手だ、これ以上は言わん」
とにかく俺はお前に飲ませてやったからな、と結ばれた唇。それ以上のことは聞けないらしい。
(んーと…?)
頼れるのは自分の記憶だけなのか、と懸命に探ることにした。前の自分の遠い記憶を。
ハーレイに飲ませて貰えたけれども、
冷たくなかった冷たい飲み物。
ノルディが指示していった通りに温まっていて、今のハーレイは思い出して欲しくはなくて…。
どうやって飲ませたのだろう、と思う飲み物。
冷たい飲み物を欲しがったのだし、温まっていたら、怒りそうなものだと考えたけれど。
差し出されても素直に飲み込むどころか、突き返しそうだと思ったのだけど…。
(…口移し…!)
キスだ、と気付いた冷たい飲み物の飲ませ方。前の自分の「最後のお願い」。
これが最後のお願いだから、と言ってやったら、ハーレイはちゃんと飲ませてくれた。冷蔵庫にあった冷たいジュースや、冷やして冷たくした紅茶を。
グラスやカップに注ぎ入れたら、ハーレイが自分の口に含んでから、ゆっくりと。
そうっと唇を合わせて重ねて、キスをする代わりに流し込んで。
(…強請るわけだよ…)
あんな飲み方をしていたのならば、酷い我儘を言ってまで。
「ぼくはもうすぐ死んでしまうから、これが最後のお願いだよ」と困らせてまで。
死にそうな気分はしていないのに、さほど重病でもなかったのに。
それを口実に強請った飲み物、「冷たいのが欲しい」と。
温かい飲み物は欲しくないからと、「冷えているのを最後に飲みたい」と。
そうだったのか、と合点がいった、前の自分が強請ったもの。冷たい飲み物を欲しがった理由。
「思い出したよ、ハーレイが飲ませてくれてたんだよ」
冷たいのを、ちょっと温めてから。…それなら冷たいままじゃないから。
ジュースも、それに冷たい紅茶も…、と幸せな気分に包まれた。前の自分がそうだったように。
「分かったか、チビ。前の俺はケチじゃなかったとな」
俺はきちんと飲ませていたんだ、前のお前の注文通りに。
「ぼくの最後のお願いだよ」と強請られる度に、ジュースも、冷たい紅茶ってヤツも。
少しもケチではないだろうが、とハーレイが胸を張るものだから。
「…もう冷たくはなかったけどね?」
ジュースも紅茶もぬるくなってて、ちっとも冷たくなかったんだけど…。
ぼくは冷たいのと言ったのに、と苦情を述べたけれども、ハーレイはフンと鼻を鳴らした。
「お前の身体には、あれくらいで丁度だったんだ!」
言われた通りに飲ませていたなら、お前、具合が悪くなったに決まってるだろう…!
「…そうかもだけど…。今のぼくには?」
病気の時にね、お願いしたら飲ませてくれるの、前みたいに…?
冷たい飲み物が駄目な時は、と期待したのに、「まだ早い!」と叱られた。言った途端に。
「お前はチビで子供だろうが、前のお前のようにはいかん!」
「…じゃあ、育ったら飲ませてくれる?」
ぼくが病気になっちゃった時は。…冷たい飲み物、禁止された時は。
今のぼくでも前と同じで飲ませてくれるの、と見詰めた恋人。「ケチじゃないんでしょ?」と。
「…駄目とは言わんが…。そうなった時は飲ませてやるが…」
そうなる前にだ、まずは丈夫になってくれ。
せっかく新しい身体なんだし、「最後のお願い」なんてことは言えない身体にな。
よく言うだろうが、「殺しても死にそうにないようなヤツ」と。
そっちで頼む、とハーレイは半ば本気のようだけれども…。
「無理!」
知っているでしょ、今のぼくも身体が弱いってこと。
そんなに丈夫になれやしないよ、前と同じで弱くて死にそうになるんだってば…!
病気になったら、すぐ死にそうになるんだよ、と返してやった。
本当は其処まで弱くないけれど、今の自分もきっと育っても弱いまま。前と同じに。
だから病気になった時には、ハーレイに強請ってみることにしよう。
「冷たいのがいいよ」と、「ぼくの最後のお願いだから」と、前の自分が何度も言った台詞で。
今度はハーレイと結婚してずっと一緒だけれども、死ぬ時も二人一緒だけれど。
前の自分たちは、一度は死んで離れてしまったのだから…。
(ハーレイだって、きっと前より優しい筈だよ)
それに、本当に寿命の残りが少なかった頃のぼくまで知ってるものね、と浮かべた笑み。
前のハーレイと同じに優しいだろう今のハーレイ、もっと優しい筈のハーレイ。
いつか病気になった時には、そのハーレイに冷たい飲み物を飲ませて貰おう。
きっといつかは、口移し。
結婚した後に病気になったら、冷たい飲み物は駄目だと言われてしまったら…。
冷たい飲み物・了
※前のブルーがハーレイに強請った、冷たい飲み物。ノルディに禁止されても我儘な注文。
ハーレイは、ちゃんと飲ませてくれたのです。口移しで、体温で温めて。強請ったのも当然。
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