シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
温室とガラス
(んーと…)
温室だよね、とブルーが眺めた小さな建物。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中で。
いつも見ている家だけれども、今日はたまたま目に付いた。庭の奥の方、ひっそりと建っているガラス張りの建物。物置ではなくて、きっと温室。
(何を育てているのかな?)
温室だったら、中身は植物。物置みたいに何かを仕舞っておくのではなくて。
この地域の気候が合わない植物、もっと暖かい地域で育つ植物を育てるために作る温室。高めの温度を保ってやって、寒い季節も凍えないように。
温室で育てる植物は色々、個人の家なら趣味で集めていそう。サボテンばかり並んでいるとか、華やかな花が咲くものだとか。
(…サボテンだって種類が一杯あるものね?)
綺麗な花が咲くサボテンもあるし、そういう温室かもしれない。サボテンだからトゲだらけ、と入ってみたら鮮やかな花たちに迎えられるとか。
(なんだろ、あそこに入っているの…)
気になるけれども、サイオンで覗くことは出来ない。自分のように不器用でなくても、覗いたり出来ない家の中。今の時代は誰もがミュウだし、そういう仕組みになっている筈。
(思念波を飛ばしても、弾かれちゃうって…)
プライバシーは大切だからと、個人の家を保護する仕掛け。透視されたりしないようにと。
温室だって家と同じで、道から覗けはしないだろう。どんなに中が気になったって。
(気が付いちゃうと、気になっちゃうよ…)
あそこに温室、と目に付けば。見慣れた家でも、温室の存在に気が付いたなら。
けれども、覗けない中身。ガラス張りの建物は外の光を弾くだけ。中には鉢が並んでいるのか、地面に直接、植えているのかも分からない。
(ひょっとしたら、熱帯睡蓮とかかも…)
池を作って、カラフルな花が咲く睡蓮。この地域に咲く睡蓮は白や淡いピンクの花だけれども、暑い熱帯に咲く睡蓮は違う。青や黄色や、鮮やかなピンク。植物園で見たことがある。
睡蓮の池があるのかもね、と興味は更に増すけれど。温室の中を覗きたいけれど…。
道からは何も見えない温室。建物を覆うガラスだけ。いくら御主人と顔馴染みでも、留守の間に勝手に入って行けはしないし…、と生垣の側に突っ立っていたら。
「ブルー君、今、帰りかい?」
何か気になるものがあるかな、と家の中から出て来た御主人。留守だったわけではないらしい。何処かの窓から見ていただろうか、自分が此処に立っているのを。
それなら話は早いから、と庭の奥の建物を指差した。気になってたまらない温室。
「あそこの建物…。ガラス張りだから、温室だよね?」
何を育てている温室なの、おじさんの趣味の植物なんだと思うけど…。サボテンとか?
それとも池で熱帯睡蓮を植えているとか…、と興味津々。答えはいったい何だろう、と。
「なるほど、中身が知りたいんだね? 変わった物は育てていないんだけどね…」
気になるんなら見て行くかい、と誘われたから頷いた。見せて貰えるならそれが一番、願ってもないことだから。温室の中に入れるなんて。
御主人の案内で庭を横切り、扉を開けて貰えた温室。側に立ったら、思ったよりも大きい建物。頭を低くしなくても扉をくぐってゆけるし、御主人の頭も天井には届かないのだから。
そうは言っても、植物園の温室ほどではないけれど。個人の家だし、趣味の温室。
中に入って見回してみたら、サボテンだらけではなかった中身。熱帯睡蓮の池も無かった。鉢に植わったランなどが主で、ちょっぴり花屋さんのよう。今が盛りの鉢もあるから。
「綺麗だね…。花が咲く鉢が一杯あるよ」
花屋さんに来たみたいな感じ。向こうの鉢のも、あと何日かしたら咲きそう。
全部おじさんの趣味の花でしょ、凄いね、プロの人みたい…。
こんなに沢山育ててるなんて、と瞳を輝かせたら、「ありがとう」と嬉しそうな御主人。
「褒めて貰えて光栄だよ。下手の横好きなんだけれどね」
花のプロなら、もっと上手に育てる筈だよ。同じように温室を持っていたって、腕が違うから。
プロにはとても敵わないけれど、素人ならではの楽しみもあってね。
この温室は、冬にはもっと面白くなるんだ。なにしろ、趣味の温室だから。
「え…?」
面白くなるって、冬になったら何が起こるの、この温室で…?
花が溢れるくらいに咲くとか、そういう意味なの…?
冬の寒さが苦手な花を育てるためにある温室。御主人が並べている鉢は様々、正体が分からない鉢も幾つも。それが一度に咲くのだろうか、と冬の温室の光景を想像したのだけれど。
「違うよ、それじゃ普通の温室と変わらないだろう?」
咲いて当然の花が咲くんじゃ、花屋さんのと同じだよ。趣味でやってる意味がない。
もっとも、花屋さんの方でも、似たようなことをやるんだけどね。…花を売るのが仕事だから。
正解は季節外れの花だよ、この暖かさを生かすんだ。早めに花を咲かせてやるのさ、温室用とは違う花たちを此処に入れてね。
この辺りにも、冬の間は咲かない花が色々あるだろう?
そういった花を温室に入れれば、外よりも早く花が咲く。桜だって咲くよ、鉢植えのがね。
今はまだ入れてないけれど、と御主人が手で示してくれた鉢の大きさ。「このくらいだよ」と。抱えて運んでくるそうだから、桜の木だってチビの自分の背丈の半分ほどもあるという。
「…桜、いっぱい花が咲きそう…。小さい木でも」
盆栽はよく分からないけど、小さくても花が沢山咲くように育てられるんでしょ?
その桜の木もおんなじだよね、ちょっぴりしか花をつけない木とは違って…?
ちゃんと桜に見える木なんでしょ、と確かめてみたら「その通りだよ」と笑顔の御主人。
「小さいけれども、立派な桜さ。花が咲いたら、今度は家に運んだりもするよ」
お客さんが来るなら、自慢しないと。…とっくに桜が咲いてますよ、と飾ってね。
桜の他にも、温室で育てて早めに咲かせるのが冬だ。花が少ない季節なんだし、一足お先に春の気分で。此処に入ればもう春なんだ、という感じかな。
せっかく温室を作ったからには楽しまないとね、あれこれ育てて遊んだりもして。
温室育ちの花だけじゃつまらないだろう、というのが御主人の意見。温室でしか育たないのが、此処よりも暖かい地域で生まれた花たち。温室からは出られないから、温室育ち。
温室育ちの花もいいんだけどね、と御主人は鉢の花たちを説明してくれた。
「このランは外では難しいかな」だとか、「こっちなら夏の間は外でも大丈夫」とか。
一年中、温室から出られない花もあるらしい。夏の盛りなら大丈夫そうでも、この地域の気候が合わないらしくて、弱る花。気温は同じでも、湿度が違えば条件が変わるものだから。
温室で育つ花は色々、其処でしか生きてゆけない花なら温室育ち。冬の間だけ中に入って、一足お先に花を咲かせる逞しい花も幾つもあるようだけれど。
温室を見せて貰った後には家に帰って、おやつの時間。制服を脱いで、ダイニングに行って。
ダイニングから庭が見えるけれども、この家の庭には温室は無い。簡易式の小さなものさえも。
(ぼくに手がかかりすぎたから…?)
それで温室は無いのだろうか、と眺める庭。母は庭仕事が好きで、花が沢山植えてある。花壇の他にも薔薇の木などが。花壇の花は季節に合わせて植え替えもするし、楽しんでいる庭仕事。
(花を飾るのも好きだしね…)
玄関先や客間や食卓、花を絶やさないようにしている母。庭で咲いた花たちも、もちろん飾る。花を沢山つけない時でも、一輪挿しに生けたりして。
そのくらい花と庭仕事が好きなら、温室も持っていそうなもの。テント風の簡易式とは違って、さっき入って見て来たようなガラス張りのを。
(熱帯睡蓮とか、サボテンじゃなくても…)
温室で育てたい花は幾つもあるだろう。花が大好きな母なら、きっと。
けれども、母の所に生まれて来たのは弱すぎた息子。温室育ちの花と同じで、身体が弱くて手がかかる子供。寒い季節はすぐ風邪を引くし、夏の暑さも身体に毒。少し疲れただけで出す熱。
そんな自分が生まれて来たから、温室の花まで手が回らなかったのかもしれない。父と結婚して此処に住む時は、温室を作る予定があったとしても。
(ごめんね、ママ…)
弱く生まれた自分のせいで、温室を作るのを諦めたなら。「とても無理だわ」と、温室で育てる花たちの苗を諦めたなら。
苗を買おうと店に行ったら、目に入るだろう温室の花。「如何ですか?」と苗を並べて、世話のし方もきちんと書いて。
もしかしたら今も、母は見ているかもしれない。「こういう花も育てたかったわ」と。苗の前に立って暫く眺めて、違う苗を買いにゆくのだろう。家に温室は無いのだから。
(今、温室を作っても…)
やっぱり何かと手がかかる息子。丈夫な子ならば今の時間はクラブ活動、まだまだ家には帰って来ない。母はのんびり庭仕事が出来て、温室の世話も出来た筈。
弱い息子がいなければ。…もっと丈夫に生まれていたなら、母は温室を持てただろう。この庭の何処かにガラス張りのを、色々な花を育てられるのを。
きっとあったよ、と思う温室。弱い息子が生まれなければ、母の好みの花が一杯。ガラス張りの小さな建物の中に、温室で育つ花たちが。
(…ママだって、温室、欲しかったよね…)
今だって欲しいかもしれない。「うちでは無理よね」と、色々な苗を見ては心で溜息をついて。
母は少しもそんなそぶりは見せないけれども、温室で花を育てることも好きそうだから。自分が丈夫な子供だったら、温室を持っていそうだから…。
(ぼくがお嫁に行った後には、温室の花を楽しんでね)
弱い息子を世話する代わりに、うんと素敵な花たちを。温室でしか育てられない花から、寒さを避けて冬は温室に入れる花まで、様々なのを。
温室の中でしか生きられない花たちの世話は難しそうでも、母ならばきっと大丈夫。温室育ちの花たちよりも厄介なものを、ちゃんと育てているのだから。
(ぼくって、人間だけれど、温室育ち…)
温室育ちって言うんだよね、と自覚はしている。弱い身体に生まれて来たから、両親に守られて育った自分。危ないものやら、危険な場所から遠ざけられて。
(公園に行っても、そっちは駄目よ、って…)
怪我をしそうな遊具の方へ行かないようにと、母がいつでも目を配っていた。ブランコだって、幼い頃には母に見守られて乗っていたほど。転げ落ちたら大変だから。
他所の子たちは好きに遊んで、大泣きしていた子もよく見掛けたのに。ブランコから落っこちて泣いた子供や、ジャングルジムから落っこちた子供。
(怪我をしちゃって、血が出てたって…)
「そんな怪我くらいで泣かないの」と叱られている子も多かった。また公園で遊びたいのなら、泣かずに我慢するように、と。
けれど、弱かった自分は別。転んだだけでも母は大慌てで、直ぐに出て来た絆創膏や傷薬。
学校に行く年になっても、体育の授業は見学ばかり。最初から見学する時もあれば、途中で手を挙げて見学に回る時だって。…それは今でも変わらない。
今でも手がかかる弱い子が自分、これからもきっと弱いまま。
温室育ちの弱い息子がお嫁に行ったら、母に楽しんで欲しい温室。庭の何処かにガラス張りのを作って、母の好みの花たちを植えた鉢を並べて。
ぼくがお嫁に行っちゃった後は、ママだって、と思う温室のこと。庭仕事も花も大好きな母が、自分の温室を持てますように、と。今は眺めているだけの苗を買って来て、育てられるように。
(今度はハーレイが大変だけどね…)
温室育ちのお嫁さんを貰うわけだし、手がかかるから。それまでは母が世話していたのを、世話する羽目になるのだから。
でもハーレイなら大丈夫、と帰った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
温室育ちの自分がお嫁に行っても、ハーレイには無い園芸の趣味。ハーレイの家にも庭も芝生もあるのだけれども、やっているのは芝生の刈り込みくらいだろう。それと水撒き。
花壇は作っていない筈だし、鉢植えの花たちも育てていない。だからハーレイが面倒を見るのは温室育ちのお嫁さんだけ。花たちに手はかからないから。
(芝生の刈り込みは毎日じゃないし、水撒きはすぐに出来ちゃうし…)
ハーレイの家の庭の手入れは簡単そう。母のようにせっせと世話をしなくても、きちんと綺麗に保てるだろう。たまに芝生を刈り込んでやって、水不足の時には水撒きすれば。
(ぼくが温室を作っちゃうとか…?)
ハーレイが仕事に行っている間は暇なのだから、ガラス張りの小さな温室を一つ。小さくても、ちゃんとハーレイも中に入れるくらいのを。
熱帯睡蓮を植えてみるとか、庭では無理な花たちを色々育てて楽しむ。苗を買って来て。
それも素敵だと思ったけれども、相手は温室の花たちだから…。
(ぼくが風邪とかで寝込んじゃったら、ハーレイが温室の花の世話まで…)
しなくてはいけないことになる。芝生の刈り込みや水撒きだったら、少しくらいは先延ばしでも何も問題ないのだけれども、温室は駄目。きちんと世話をしてやらないと。
寝込んでいる自分の世話に加えて、温室の世話では申し訳ない。ハーレイが作った温室とは違うわけだから。自分が「欲しい」と作って貰って、勝手に始めた趣味なのだから。
それの世話までするとなったら、ハーレイがあまりに気の毒すぎる。「俺はかまわないぞ?」と笑っていたって、手がかかるのは間違いないから。
そう考えたら、母が温室を作らなかったように、自分もやっぱり作らないのがいいのだろう。
ハーレイに迷惑をかけたくなければ、趣味のためだけの温室などは。
駄目だよね、と分かってはいても、魅力的なガラス張りの建物。植物を育てるための温室。
(家にあったら、素敵なんだけど…)
真冬でも温室の中に置いたら、春の花たちが咲いたりもする。今日、聞いて来た桜みたいに。
温度を高めに調節したなら、夏の花だって咲くだろう。雪の季節に太陽を思わせるヒマワリも。
(いいな…)
冬でも夏の花なんて。花屋さんに出掛けたわけでもないのに、自分の家の庭で見られるなんて。その上、外は冬だというのに、温室の中は汗ばむほどの夏の暑さに包まれて輝いているなんて。
本物の夏の暑さは苦手だけれども、温室だったら話は別。冬から夏へとヒョイと旅して、暑さに飽きたら戻って来られる。冬の世界へ。
(植物園の温室だったら、夏よりもずっと…)
暑く感じる場所だってある。この地域の夏より気温が高い、熱帯雨林を再現している温室なら。ああいう気分を家でも味わえそうなのに。庭に温室があったなら。
(雪の日に手入れをしに入っても…)
きっと汗だくになっちゃうよね、と夢を描くガラス張りの小さな建物。庭に作ってある温室。
入る時には上着も手袋も全部外さないと、本当に直ぐに汗だくだろう。夏真っ盛りの暑い気温を作り出すよう、設定してある温室ならば。
中の季節が外とは逆の真夏だったら、冬はガラスが白く曇っているかもしれない。外は寒くて、温度が遥かに低いのだから。
冬の季節に家の窓ガラスが曇ってしまって、指先で絵などを描けるみたいに。
(温室用なら、曇り止めのガラス…)
そういうガラスを使っている可能性もある。すっかり曇ってしまわないよう、寒い季節も外から中がよく見えるように。
家の窓ガラスも曇るのだから、もっと暖かい温室のガラスはきっと曇ってしまう筈。霧みたいに細かい水の雫がびっしり覆って、真っ白くなって。
それでは駄目だし、曇り止めのガラスで建てる温室。中がどんなに暖かくても、外が寒くても、ガラスは透き通っているように。…中に置かれた鉢や花たちを外から覗けるように。
今日、見学した温室だって、そんな仕掛けがあるかもしれない。雪がしんしん降っている日も、曇りはしないで透明なガラス。中の花たちが透けて見える温室。
きっとそうだよ、という気がしてきた。温室には詳しくないけれど。曇り止めのガラスで作ってあるのか、注文しないと曇り止めのガラスは嵌まらないのか。
けれど料金が少し高くても、大抵の人は曇り止めのガラスを選びそう。自分が温室を持つことになったら、もちろん曇らないガラス。一面の雪景色が広がる日でも。
(ガラスの向こうが見えないと、つまらないものね?)
別世界のような温室の中。雪が降る日に咲くヒマワリやら、南国の色鮮やかな花たち。外側から見れば夢のようだし、そういう仕掛けをしておきたい。
着ぶくれたままで中に入ったら汗だくになるし、そうしないと花が見えないよりは。花の世話をしに入る時以外でも、通りかかったら中を見られる方がいい。曇っていないガラス越しに。
やっぱり花が見えないと…、と思った所で掠めた記憶。遠く遥かな時の彼方で、前の自分が見ていたもの。温室に少し似ていたもの。
(とても暑かったガラスケース…)
透き通っていたガラスの地獄に入れられたんだ、と蘇って来た前の自分の記憶。
あれはアルタミラで実験動物だった頃。今と同じにチビだったけれど、心も身体も成長を止めて過ごしていたから、本当の年は分からない。子供だったか、子供と呼べない年だったかは。
それでも心は子供だったし、身体も子供。
檻から引っ張り出される度に怯えて、実験室を見たら震え上がった。何が起こるのかと、どんな酷い目に遭わされるのかと。
研究者たちは容赦なく「入れ」と顎で命じたけれど。ガラスケースに押し込めたけれど。
(低温実験をされる時だと、ガラスに氷の花が咲くけど…)
中の温度が下がっていったら、咲き始めたのが氷の花。命を奪おうと咲いてゆく花。
それとは逆に高温の時は、ガラスケースは蒸気で曇った。研究者たちが見守るケースの外より、中が遥かに暑いから。冬に窓ガラスが曇るみたいに、内側の方から真っ白に。
どういう風に曇っていったか、中の自分は観察してなどいないけれども、見えなくなった外側にいた研究者たち。中の温度が上がり始めたら、酷い暑さに襲われたならば、見えない外。
研究者たちが曇り止めの装置を作動させるまで、いつも曇ったままだったガラス。
曇りが消えたら、彼らは外で観察していた。温室の中の花を眺めるみたいに、覗き込んで。中で苦しむ自分を見ながら、記録したり、何かを話していたり。
温室みたい、と今だから思う強化ガラスのケース。前の自分が苦しめられた高温実験。ガラスの外は少しも暑くないのに、内側は凄まじい暑さ。真夏どころではなかった温度。
(前のぼく、温室に入れられちゃってた…)
それも曇り止めのガラスの温室、外から中を覗けるものに。前の自分は花ではないのに、暑さに苦しむ人間なのに。…研究者たちの目から見たなら、単なる実験動物でも。
たとえ温室の花だとしたって、研究者たちは酷い扱いはしなかったろう。美しい花ならば愛でて楽しみ、適切な温度にしてやった筈。少しでも長くその美しさを保てるように。
けれど実験動物は違う。何処まで耐えることが出来るか、それを調べていたのだから。ケースの中で倒れて動かなくなるまで、温度を上げてゆくだけだから。
(見てたのだって、ぼくの変化を調べてただけ…)
どのくらいで肌が赤くなるのか、火ぶくれや火傷はいつ出来るのか。観察するには、白く曇ったガラスではまるで話にならない。向こう側が透けて見えないと。
だから使われた曇り止めの装置。ガラスケースが白く曇れば、スイッチを入れて。
いったい何度まで上がっただろうか、あの時のガラスケースの中は。温度計など内側にはついていなかったのだし、前の自分は何も知らない。どれほどの暑さに包まれたのか。
息も出来ないほどに暑くて、真っ赤になっていった肌。日焼けしたように。
其処を過ぎたら肌は火傷して、幾つも火ぶくれが出来たと思う。熱さと痛みで泣き叫んだのに、研究者たちは何もしなかった。淡々と記録し続けるだけで、けして下げてはくれなかった温度。
(床にバッタリ倒れちゃっても…)
焦げそうに熱い床に倒れ伏しても、まだ上がる温度。喉の奥まで焼け付くようで、息を吸ったら肺の奥まで入り込む熱。身体の中から焼き尽くすように。
それでも温度は上がり続けるから、「これで死ぬんだ」と薄れゆく意識の中で思った。焼かれて此処で死んでしまうと、きっと黒焦げになるのだと。
(死んじゃうんだ、って思ってたのに…)
気が付いたら、また檻の中にいた。自分の他には誰もいなくて、餌と水が突っ込まれる檻に。
身体のあちこちが酷く痛くて、呼吸をするのも辛いほど。治療が終わって檻に戻されても、まだ癒えたとは言えない身体。火傷の痕があったりもした。明らかにそうだと分かるものが。
死んではいなかったのだけど。命は潰えていなかったけれど、その手前までは行ったのだろう。
酷かったよね、と今でも身体が震える。一人きりのタイプ・ブルーでなければ、きっと殺されていたのだと思う。死の一歩手前で止めはしないで、どんどん温度を上げ続けて。
死体になっても、もう動かなくなった身体が真っ黒に焦げてしまうまで。炭化して崩れて、灰になってケースの中に舞うまで。
(今のぼくだと、温室育ちの子供なのに…)
弱い子供だから、過保護なくらいに守られて育って来たというのに、同じに弱かった前の自分は温室で酷い目に遭った。あれを温室と呼ぶのなら。曇り止めの装置が備えられていた、あれも温室だったなら。…アルタミラにあった、強化ガラスのケース。
あの中だって適温だったら、きっと暖かかったのだろうに。心地よい温度に保ち続けることも、使いようによっては出来た筈。研究者たちが、そうしてみようと考えたなら。
春の陽だまりみたいな温度。それを保った、温室のようなガラスのケース。そういうケースに、檻の空調が壊れて寒かった日に入れて貰えたなら、とても幸せだっただろうに。
同じケースでも全く違うと、床で丸くなってまどろみさえもしたのだろうに。
(ホントに上手くいかないよね…)
実験動物だったから仕方ないけど、と思い出しても悲しい気分。温室の中で育つ花なら、寒さで凍えて震えていたなら、暖かい場所へ移されたのに。「花が傷む」と大急ぎで。
とりあえず此処でいいだろうかと、少しでも暖かい部屋へ。花を飾るような場所ではなくても、鍋が置かれたキッチンでも。
(実験動物だっていうだけで、ガラスケースの気持ちいい温室も無し…)
適温だったケースなんかは知らないよ、と前の自分の不幸を嘆いていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、ぼくって温室育ちだよね?」
ぼくみたいなのを、そう言うんでしょ?
パパとママに守られてぬくぬく育って、うんと過保護に育って来たと思うから…。
ホントの温室では育ってないけど、温室育ち。外の厳しさを知らないから。
「温室育ちなあ…。間違いなくそうだと俺も思うが、どうかしたのか?」
今のお前は正真正銘、温室育ちのチビだよな。前のお前だった頃と違って。
幸せ一杯の温室の花だが、なんでいきなり温室なんだ…?
分からんぞ、と怪訝そうな顔をしているハーレイ。「何処から温室が出て来たんだか」と。
「お前の家には温室は無いだろ、俺の家にも無いんだが…。新聞にでも載ってたか?」
植物園か何かの記事が出てたか、温室の定番は植物園だし。
其処から温室育ちなのか、と尋ねられたから「ううん」と横に振った首。「帰りに見た」と。
「学校の帰りに歩いていたら、温室がある家に気が付いて…。見てたら中にどうぞ、って」
それで温室を見せて貰って、素敵だよね、って家に帰っても思ってて…。
真冬に桜を咲かせたりする、って聞いたから。ちょっといいでしょ、温室があったら雪の季節にヒマワリだって咲くものね。
だけど、うちには温室は無いし…。ぼくが弱すぎる子供だったから、ママは諦めちゃったかも。温室の世話までしていられない、って温室作り。
そんなこととか、いろんなことを考えていたら思い出しちゃった。…前のぼくのことを。
今のぼくは温室育ちだけれども、前のぼくは温室で酷い目に遭わされたんだっけ、って。
「はあ? 温室って…」
シャングリラにあった温室のことか、白い鯨には農作物用の温室もちゃんとあったしな。規模はそんなに大きくないから、嗜好品までは無理だったが…。コーヒー豆とかカカオ豆とかは。
お前、あそこで何かあったか、酷い目に遭ったなんて言うからには…?
そんな記憶は全く無いが、とハーレイが首を捻っているから、「もっと前だよ」と遮った。
「シャングリラだったらいいんだけれど…。閉じ込められても、すぐ出られるから」
瞬間移動で飛び出さなくても、「誰か助けて」って思念で呼んだら、開けに来るでしょ?
ソルジャーのぼくが覗いている間に、扉が勝手に閉まっちゃったとかいう事故ならね。
白い鯨なら、酷い目に遭う前に出られるけれども、アルタミラ…。実験動物だった頃だよ。
温室って言うには暑すぎたけれど、高温実験用のガラスケースのこと。…ガラス張りな所は温室そっくり、曇り止めまでついてたってば。中の様子が見えるようにね。
前のハーレイは入れられていないの、あの暑かったガラスケースには…?
地獄みたいに暑い温室、と尋ねてみたら、「あれなあ…」とハーレイが眉間に寄せた皺。
「温室って言うから何かと思えば、高温実験のガラスケースのことか…」
俺だって一応、経験はあるが、お前ほどではなかったな。
前のお前から聞いた話じゃ、死ぬかと思うほど酷い目に遭っていたそうだから…。
お前がそれなら、俺はせいぜいサウナ止まりってトコだったろうさ、という答え。サウナ程度のガラスケースしか知らないぞ、と。
「こりゃ死ぬな、と考えたことは無かったからな。…俺の場合はサウナだろう」
「…サウナ?」
なにそれ、前のハーレイが受けてた実験、そういうのなの…?
「ものの例えというヤツなんだが…。お前もサウナは知ってるだろう。言葉くらいは」
シャングリラにサウナの設備は無かったわけだが、今の時代はお馴染みのヤツだ。前の俺たちが生きてた頃にも、人類の世界にはあった筈だぞ。
ただしサウナも、お前には少し暑すぎるがな。…高温実験のケースほどじゃなくても。
今のお前ならゆだりそうだ、とハーレイが言うから頷いた。本当にその通りだから。
「うん、ちょっぴりなら入ってみたよ。小さかった頃に、パパと一緒に」
ホテルのサウナ、と話した幼い頃の体験。両親と出掛けた旅先のホテルで起こった出来事。父がサウナに行くと言うから、「ぼくも行きたい!」とくっついて行った。
どんな場所かも知らないくせに。「暑いんだぞ?」と父に脅かされても、「おっ、サウナか」と顔を輝かせた父を目にした後では効果など無い。「きっと素敵な場所なんだ」と考えるだけで。
それで強請って一緒に出掛けて、母が後ろからついて来た。「ブルーには無理よ」と。
サウナの前でも「本当に入りたいのか、ブルー?」と念を押されたのに、張り切って入ったのが幼かった自分。父と一緒に楽しもうと。
けれど二人で入ったサウナは、もう本当に暑かったから。とんでもなく暑い部屋だったから…。
(クラクラしちゃって、すぐにパパに抱えられて外に出て…)
まだ楽しみたい父から母に引き渡された。「やっぱりブルーには暑すぎたな」と。
父は一人でサウナに戻って、暑さにやられた幼い自分は暫くの間、母にもたれて廊下のソファでぐったりとしていたのだけれど。「目が回りそう」と、目をギュッと瞑っていたけれど…。
身体の熱さが引いていったら、アイスクリームを強請った記憶。「冷たいものが食べたい」と。
サウナはとても暑かったのだし、身体を冷やすのにアイスクリーム。
ホテルだからアイスクリームもあるよね、と母に強請って、アイスクリームどころかパフェ。
とても食べ切れないようなサイズの、大きなパフェを前にして御機嫌だった覚えがある。一人で全部食べていいんだと、「このパフェはぼくのものなんだから」と。
多分、食べ切れなかっただろうパフェ。どう考えても大人サイズで、今の自分でも食べ切れるかどうか怪しいから。
きっと「美味しそう!」とパクパクと食べて、早々に降参したのだろう。「もう入らない」と。残りは母が食べてくれたか、サウナから戻った父が笑って平らげたのか。
「なるほど、サウナで参っちまった後にはパフェを強請った、と…」
本当に今のお前らしいよな、我儘なのも。…サウナに行くと頑張る所も、その後のパフェも。
そういうお前も可愛らしいが、サウナ、けっこう暑かったろうが。お前が参っちまうくらいに。
今の俺はよくジムで入るんだが、前の俺がやられた高温実験だって恐らくサウナ程度だろう。
もっとも、実験の時に温度計なんぞは無かったから…。正確な所は分からないがな。
何度も実験を受ける間に、慣れてしまうってこともあるから。身体の方が。
しかしだ、俺の場合は耐久実験だったわけで、どれくらいの時間を耐えていられるかが、研究者どもの興味の的だった。飲み物も無しでサウナに入っていられる時間。
だから温度はそれほど高くはなかっただろう。…前のお前の場合は温度が高かったんだが。
気を失うまで上げたんだよな、とハーレイが顔を曇らせる。「チビの子供に酷いことを」と。
「そう…。もう死んじゃう、って思っていたよ。いつも、とっても暑かったから」
息も出来ないくらいに暑くて、肌が真っ赤になっちゃって…。
酷い時だと火傷もしてたし、火ぶくれだって幾つも出来ちゃった…。
ホントに酷いよ、いくら実験動物でも…。後で治療をするつもりでも、あんまりだよね。
前のぼく、見た目は子供だったし、中身も子供だったのに…。
ガラスケースの中で「熱い」って泣いていたのに、止めてくれさえしなかったよ。
今のぼくだと、同じぼくでも本物の温室育ちなのに…。
実験用のガラスケースじゃなくって、ガラス張りの温室の方なのに。ちゃんと身体にピッタリの温度で、世話だってきちんとして貰えて。
そういう温室、ちょっぴり憧れるんだけど…。
花を育てるための温室、素敵だよね、って思ったんだけど…。
いつかハーレイと暮らす家に温室が欲しいけれども、難しいよね、と溜息をついた。温室育ちの自分がそれを欲しがったなら、ハーレイの手間が増えそうだから。
具合が悪くて寝込んだ時には、温室の世話までハーレイがすることになるから。
「そうだな、お前の世話をするだけで手一杯かもしれないなあ…」
俺の仕事が多い時だと、そうなることもあるだろう。お前の世話しか出来ないような日。
そうなったら花が可哀想だしな、一日くらいは世話を休んでも大丈夫だとは思うんだが…。
何日か続けば、命が危うくなっちまう。温室育ちの花は弱くて、こまめな世話が必要だから。
お前の夢も分かるんだがなあ、前のお前が温室で酷い目に遭った分だけ、憧れるのも。
同じにガラスで出来たヤツでも、温室の方が遥かに素敵だからな。
家で温室は無理となったら、デートに行くしかないってことか…。植物園の温室まで。
あそこだったらデカイ温室があるぞ、とハーレイも思い付いた場所が植物園。やっぱり其処しか無さそうなのが、ガラスで出来た大きな温室。
「ハーレイも植物園だと思う?」
そんな楽しみ方しか出来そうにないね、ガラス張りの温室…。家じゃ無理なら。
「うむ。せっかくアルタミラの地獄とは違う時代に生まれて来たのになあ…」
本物のサウナを楽しめる時代で、俺はサウナをジムで満喫してるのに…。
今よりもずっとチビだったお前も、サウナに懲りてパフェを食ったりしたのにな…?
温室の方は植物園しか手が無いというのが、なんともはや…。
前のお前の辛い記憶が吹っ飛ぶくらいの素敵な何かが、何処かにあればいいんだが…。
温室と言ったら植物園しか無さそうだよなあ…。
なんたってモノが温室なんだし、植物を育ててやるための部屋で…。
いや、待てよ?
温室ってヤツにこだわらなければ、似たようなヤツでアルタミラ風で…。うん、あれだ!
植物園よりも面白い施設があるんだった、とハーレイはポンと手を打った。
「温室じゃないが、地球のあちこちの気候を再現している所なんだ」
焼け付くような砂漠だったり、雪と氷の世界だったり。…そういう部屋が並んでる。
うんと暑い部屋から出て来た途端に、「次はこちら」と氷の世界に続く扉があったりしてな。
扉を開けて入らない限りは、空調の効いた普通の建物なんだが…、という説明。いながらにして地球のあらゆる気候を体験、それが売りの施設。
「砂漠とか、雪と氷とか…。面白いの?」
植物園とは違うみたいだし、木とかは植わってなさそうだけど…。凄く極端な温度なだけで。
「俺たちにとっては楽しい施設じゃないか?」
特にお前だ、高温実験も低温実験もされていたのが前のお前だろうが。…死にそうなほどの。
それが今だと、暑い部屋にも寒い部屋にも、遊びで入って行けるんだからな。
其処の施設に行きさえすれば。
服とかも貸して貰えるんだぞ、防寒用のを。サイオンでシールドしたりしないで、自分の身体で寒さを体験したいなら。…暑い方の部屋なら、暑気あたり防止用のグッズも借りられるから。
入っている時間も自分の好きに決めていいんだ、とハーレイが教えてくれたから。
「それ、行ってみたい…!」
植物園の温室とかより、ずっと幸せな気分になれそう。今は遊びで入れるよ、って。
ガラスケースじゃないけれど…。部屋の中に入って行くみたいだけど。
「なら、行くとするか。いつかお前と一緒にな」
俺の車でドライブがてら、デートに出掛けて行くとしようか。アルタミラの気分を味わいにな。
砂漠の暑さや氷の世界の寒さくらいじゃ、前のお前の体験にはとても及ばんが…。
「ううん、充分、素敵だってば。遊びで行けるアルタミラだね」
こんな実験をされていたよね、って暑い部屋とか寒い部屋に入って行くんでしょ?
「俺たちにとっては、そういう施設になっちまうなあ…。本当の所は体験用の施設なんだが」
地球には豊かな気候があります、と味わうための所なわけで…。
「どんな所でもいいじゃない。入るぼくたちが、実験動物じゃないのなら」
自分で決めて入って行くなら、ガラスケースでも今は温室なんだよ?
今のぼくにはガラスの温室、ちょっぴり憧れなんだから…。
いつか二人で遊びに行こうね、とハーレイと約束の指切りをした。大きくなった時の約束。
温室育ちの今の自分だけれども、今度は遊びで体験できる。
高温実験や低温実験用のガラスケースの代わりに、暑すぎる部屋も、寒すぎる部屋も。
家にガラス張りの温室を作って楽しむ代わりに、ハーレイと二人で遊びにゆく。地球のあらゆる場所の気候を体験できる施設まで。
「地球は素敵な星だけれども、地球の上にも暑すぎる所があるんだね」などと言いながら。
「寒すぎる場所はとても寒いね」と、着ぶくれて笑い合いながら。
今は平和な時代なのだし、そんな所に出掛けて行っても、怖いことなど何もない。
暑すぎる部屋で疲れた時には、大きなパフェを強請ってみよう。「暑かったよ」とハーレイに。
幼かった自分がサウナでクラクラした時みたいに、我儘に。
きっとハーレイは、気前よく許してくれるだろうから。
「食べ切れるのか?」と可笑しそうに笑って、とても大きなパフェを注文してくれるから…。
温室とガラス・了
※温室のガラスで、実験動物だった頃を思い出してしまったブルー。高温に晒される実験。
けれど今では、高温の世界を楽しめる施設があるのです。酷寒の世界も、今の地球ならでは。
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温室だよね、とブルーが眺めた小さな建物。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中で。
いつも見ている家だけれども、今日はたまたま目に付いた。庭の奥の方、ひっそりと建っているガラス張りの建物。物置ではなくて、きっと温室。
(何を育てているのかな?)
温室だったら、中身は植物。物置みたいに何かを仕舞っておくのではなくて。
この地域の気候が合わない植物、もっと暖かい地域で育つ植物を育てるために作る温室。高めの温度を保ってやって、寒い季節も凍えないように。
温室で育てる植物は色々、個人の家なら趣味で集めていそう。サボテンばかり並んでいるとか、華やかな花が咲くものだとか。
(…サボテンだって種類が一杯あるものね?)
綺麗な花が咲くサボテンもあるし、そういう温室かもしれない。サボテンだからトゲだらけ、と入ってみたら鮮やかな花たちに迎えられるとか。
(なんだろ、あそこに入っているの…)
気になるけれども、サイオンで覗くことは出来ない。自分のように不器用でなくても、覗いたり出来ない家の中。今の時代は誰もがミュウだし、そういう仕組みになっている筈。
(思念波を飛ばしても、弾かれちゃうって…)
プライバシーは大切だからと、個人の家を保護する仕掛け。透視されたりしないようにと。
温室だって家と同じで、道から覗けはしないだろう。どんなに中が気になったって。
(気が付いちゃうと、気になっちゃうよ…)
あそこに温室、と目に付けば。見慣れた家でも、温室の存在に気が付いたなら。
けれども、覗けない中身。ガラス張りの建物は外の光を弾くだけ。中には鉢が並んでいるのか、地面に直接、植えているのかも分からない。
(ひょっとしたら、熱帯睡蓮とかかも…)
池を作って、カラフルな花が咲く睡蓮。この地域に咲く睡蓮は白や淡いピンクの花だけれども、暑い熱帯に咲く睡蓮は違う。青や黄色や、鮮やかなピンク。植物園で見たことがある。
睡蓮の池があるのかもね、と興味は更に増すけれど。温室の中を覗きたいけれど…。
道からは何も見えない温室。建物を覆うガラスだけ。いくら御主人と顔馴染みでも、留守の間に勝手に入って行けはしないし…、と生垣の側に突っ立っていたら。
「ブルー君、今、帰りかい?」
何か気になるものがあるかな、と家の中から出て来た御主人。留守だったわけではないらしい。何処かの窓から見ていただろうか、自分が此処に立っているのを。
それなら話は早いから、と庭の奥の建物を指差した。気になってたまらない温室。
「あそこの建物…。ガラス張りだから、温室だよね?」
何を育てている温室なの、おじさんの趣味の植物なんだと思うけど…。サボテンとか?
それとも池で熱帯睡蓮を植えているとか…、と興味津々。答えはいったい何だろう、と。
「なるほど、中身が知りたいんだね? 変わった物は育てていないんだけどね…」
気になるんなら見て行くかい、と誘われたから頷いた。見せて貰えるならそれが一番、願ってもないことだから。温室の中に入れるなんて。
御主人の案内で庭を横切り、扉を開けて貰えた温室。側に立ったら、思ったよりも大きい建物。頭を低くしなくても扉をくぐってゆけるし、御主人の頭も天井には届かないのだから。
そうは言っても、植物園の温室ほどではないけれど。個人の家だし、趣味の温室。
中に入って見回してみたら、サボテンだらけではなかった中身。熱帯睡蓮の池も無かった。鉢に植わったランなどが主で、ちょっぴり花屋さんのよう。今が盛りの鉢もあるから。
「綺麗だね…。花が咲く鉢が一杯あるよ」
花屋さんに来たみたいな感じ。向こうの鉢のも、あと何日かしたら咲きそう。
全部おじさんの趣味の花でしょ、凄いね、プロの人みたい…。
こんなに沢山育ててるなんて、と瞳を輝かせたら、「ありがとう」と嬉しそうな御主人。
「褒めて貰えて光栄だよ。下手の横好きなんだけれどね」
花のプロなら、もっと上手に育てる筈だよ。同じように温室を持っていたって、腕が違うから。
プロにはとても敵わないけれど、素人ならではの楽しみもあってね。
この温室は、冬にはもっと面白くなるんだ。なにしろ、趣味の温室だから。
「え…?」
面白くなるって、冬になったら何が起こるの、この温室で…?
花が溢れるくらいに咲くとか、そういう意味なの…?
冬の寒さが苦手な花を育てるためにある温室。御主人が並べている鉢は様々、正体が分からない鉢も幾つも。それが一度に咲くのだろうか、と冬の温室の光景を想像したのだけれど。
「違うよ、それじゃ普通の温室と変わらないだろう?」
咲いて当然の花が咲くんじゃ、花屋さんのと同じだよ。趣味でやってる意味がない。
もっとも、花屋さんの方でも、似たようなことをやるんだけどね。…花を売るのが仕事だから。
正解は季節外れの花だよ、この暖かさを生かすんだ。早めに花を咲かせてやるのさ、温室用とは違う花たちを此処に入れてね。
この辺りにも、冬の間は咲かない花が色々あるだろう?
そういった花を温室に入れれば、外よりも早く花が咲く。桜だって咲くよ、鉢植えのがね。
今はまだ入れてないけれど、と御主人が手で示してくれた鉢の大きさ。「このくらいだよ」と。抱えて運んでくるそうだから、桜の木だってチビの自分の背丈の半分ほどもあるという。
「…桜、いっぱい花が咲きそう…。小さい木でも」
盆栽はよく分からないけど、小さくても花が沢山咲くように育てられるんでしょ?
その桜の木もおんなじだよね、ちょっぴりしか花をつけない木とは違って…?
ちゃんと桜に見える木なんでしょ、と確かめてみたら「その通りだよ」と笑顔の御主人。
「小さいけれども、立派な桜さ。花が咲いたら、今度は家に運んだりもするよ」
お客さんが来るなら、自慢しないと。…とっくに桜が咲いてますよ、と飾ってね。
桜の他にも、温室で育てて早めに咲かせるのが冬だ。花が少ない季節なんだし、一足お先に春の気分で。此処に入ればもう春なんだ、という感じかな。
せっかく温室を作ったからには楽しまないとね、あれこれ育てて遊んだりもして。
温室育ちの花だけじゃつまらないだろう、というのが御主人の意見。温室でしか育たないのが、此処よりも暖かい地域で生まれた花たち。温室からは出られないから、温室育ち。
温室育ちの花もいいんだけどね、と御主人は鉢の花たちを説明してくれた。
「このランは外では難しいかな」だとか、「こっちなら夏の間は外でも大丈夫」とか。
一年中、温室から出られない花もあるらしい。夏の盛りなら大丈夫そうでも、この地域の気候が合わないらしくて、弱る花。気温は同じでも、湿度が違えば条件が変わるものだから。
温室で育つ花は色々、其処でしか生きてゆけない花なら温室育ち。冬の間だけ中に入って、一足お先に花を咲かせる逞しい花も幾つもあるようだけれど。
温室を見せて貰った後には家に帰って、おやつの時間。制服を脱いで、ダイニングに行って。
ダイニングから庭が見えるけれども、この家の庭には温室は無い。簡易式の小さなものさえも。
(ぼくに手がかかりすぎたから…?)
それで温室は無いのだろうか、と眺める庭。母は庭仕事が好きで、花が沢山植えてある。花壇の他にも薔薇の木などが。花壇の花は季節に合わせて植え替えもするし、楽しんでいる庭仕事。
(花を飾るのも好きだしね…)
玄関先や客間や食卓、花を絶やさないようにしている母。庭で咲いた花たちも、もちろん飾る。花を沢山つけない時でも、一輪挿しに生けたりして。
そのくらい花と庭仕事が好きなら、温室も持っていそうなもの。テント風の簡易式とは違って、さっき入って見て来たようなガラス張りのを。
(熱帯睡蓮とか、サボテンじゃなくても…)
温室で育てたい花は幾つもあるだろう。花が大好きな母なら、きっと。
けれども、母の所に生まれて来たのは弱すぎた息子。温室育ちの花と同じで、身体が弱くて手がかかる子供。寒い季節はすぐ風邪を引くし、夏の暑さも身体に毒。少し疲れただけで出す熱。
そんな自分が生まれて来たから、温室の花まで手が回らなかったのかもしれない。父と結婚して此処に住む時は、温室を作る予定があったとしても。
(ごめんね、ママ…)
弱く生まれた自分のせいで、温室を作るのを諦めたなら。「とても無理だわ」と、温室で育てる花たちの苗を諦めたなら。
苗を買おうと店に行ったら、目に入るだろう温室の花。「如何ですか?」と苗を並べて、世話のし方もきちんと書いて。
もしかしたら今も、母は見ているかもしれない。「こういう花も育てたかったわ」と。苗の前に立って暫く眺めて、違う苗を買いにゆくのだろう。家に温室は無いのだから。
(今、温室を作っても…)
やっぱり何かと手がかかる息子。丈夫な子ならば今の時間はクラブ活動、まだまだ家には帰って来ない。母はのんびり庭仕事が出来て、温室の世話も出来た筈。
弱い息子がいなければ。…もっと丈夫に生まれていたなら、母は温室を持てただろう。この庭の何処かにガラス張りのを、色々な花を育てられるのを。
きっとあったよ、と思う温室。弱い息子が生まれなければ、母の好みの花が一杯。ガラス張りの小さな建物の中に、温室で育つ花たちが。
(…ママだって、温室、欲しかったよね…)
今だって欲しいかもしれない。「うちでは無理よね」と、色々な苗を見ては心で溜息をついて。
母は少しもそんなそぶりは見せないけれども、温室で花を育てることも好きそうだから。自分が丈夫な子供だったら、温室を持っていそうだから…。
(ぼくがお嫁に行った後には、温室の花を楽しんでね)
弱い息子を世話する代わりに、うんと素敵な花たちを。温室でしか育てられない花から、寒さを避けて冬は温室に入れる花まで、様々なのを。
温室の中でしか生きられない花たちの世話は難しそうでも、母ならばきっと大丈夫。温室育ちの花たちよりも厄介なものを、ちゃんと育てているのだから。
(ぼくって、人間だけれど、温室育ち…)
温室育ちって言うんだよね、と自覚はしている。弱い身体に生まれて来たから、両親に守られて育った自分。危ないものやら、危険な場所から遠ざけられて。
(公園に行っても、そっちは駄目よ、って…)
怪我をしそうな遊具の方へ行かないようにと、母がいつでも目を配っていた。ブランコだって、幼い頃には母に見守られて乗っていたほど。転げ落ちたら大変だから。
他所の子たちは好きに遊んで、大泣きしていた子もよく見掛けたのに。ブランコから落っこちて泣いた子供や、ジャングルジムから落っこちた子供。
(怪我をしちゃって、血が出てたって…)
「そんな怪我くらいで泣かないの」と叱られている子も多かった。また公園で遊びたいのなら、泣かずに我慢するように、と。
けれど、弱かった自分は別。転んだだけでも母は大慌てで、直ぐに出て来た絆創膏や傷薬。
学校に行く年になっても、体育の授業は見学ばかり。最初から見学する時もあれば、途中で手を挙げて見学に回る時だって。…それは今でも変わらない。
今でも手がかかる弱い子が自分、これからもきっと弱いまま。
温室育ちの弱い息子がお嫁に行ったら、母に楽しんで欲しい温室。庭の何処かにガラス張りのを作って、母の好みの花たちを植えた鉢を並べて。
ぼくがお嫁に行っちゃった後は、ママだって、と思う温室のこと。庭仕事も花も大好きな母が、自分の温室を持てますように、と。今は眺めているだけの苗を買って来て、育てられるように。
(今度はハーレイが大変だけどね…)
温室育ちのお嫁さんを貰うわけだし、手がかかるから。それまでは母が世話していたのを、世話する羽目になるのだから。
でもハーレイなら大丈夫、と帰った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
温室育ちの自分がお嫁に行っても、ハーレイには無い園芸の趣味。ハーレイの家にも庭も芝生もあるのだけれども、やっているのは芝生の刈り込みくらいだろう。それと水撒き。
花壇は作っていない筈だし、鉢植えの花たちも育てていない。だからハーレイが面倒を見るのは温室育ちのお嫁さんだけ。花たちに手はかからないから。
(芝生の刈り込みは毎日じゃないし、水撒きはすぐに出来ちゃうし…)
ハーレイの家の庭の手入れは簡単そう。母のようにせっせと世話をしなくても、きちんと綺麗に保てるだろう。たまに芝生を刈り込んでやって、水不足の時には水撒きすれば。
(ぼくが温室を作っちゃうとか…?)
ハーレイが仕事に行っている間は暇なのだから、ガラス張りの小さな温室を一つ。小さくても、ちゃんとハーレイも中に入れるくらいのを。
熱帯睡蓮を植えてみるとか、庭では無理な花たちを色々育てて楽しむ。苗を買って来て。
それも素敵だと思ったけれども、相手は温室の花たちだから…。
(ぼくが風邪とかで寝込んじゃったら、ハーレイが温室の花の世話まで…)
しなくてはいけないことになる。芝生の刈り込みや水撒きだったら、少しくらいは先延ばしでも何も問題ないのだけれども、温室は駄目。きちんと世話をしてやらないと。
寝込んでいる自分の世話に加えて、温室の世話では申し訳ない。ハーレイが作った温室とは違うわけだから。自分が「欲しい」と作って貰って、勝手に始めた趣味なのだから。
それの世話までするとなったら、ハーレイがあまりに気の毒すぎる。「俺はかまわないぞ?」と笑っていたって、手がかかるのは間違いないから。
そう考えたら、母が温室を作らなかったように、自分もやっぱり作らないのがいいのだろう。
ハーレイに迷惑をかけたくなければ、趣味のためだけの温室などは。
駄目だよね、と分かってはいても、魅力的なガラス張りの建物。植物を育てるための温室。
(家にあったら、素敵なんだけど…)
真冬でも温室の中に置いたら、春の花たちが咲いたりもする。今日、聞いて来た桜みたいに。
温度を高めに調節したなら、夏の花だって咲くだろう。雪の季節に太陽を思わせるヒマワリも。
(いいな…)
冬でも夏の花なんて。花屋さんに出掛けたわけでもないのに、自分の家の庭で見られるなんて。その上、外は冬だというのに、温室の中は汗ばむほどの夏の暑さに包まれて輝いているなんて。
本物の夏の暑さは苦手だけれども、温室だったら話は別。冬から夏へとヒョイと旅して、暑さに飽きたら戻って来られる。冬の世界へ。
(植物園の温室だったら、夏よりもずっと…)
暑く感じる場所だってある。この地域の夏より気温が高い、熱帯雨林を再現している温室なら。ああいう気分を家でも味わえそうなのに。庭に温室があったなら。
(雪の日に手入れをしに入っても…)
きっと汗だくになっちゃうよね、と夢を描くガラス張りの小さな建物。庭に作ってある温室。
入る時には上着も手袋も全部外さないと、本当に直ぐに汗だくだろう。夏真っ盛りの暑い気温を作り出すよう、設定してある温室ならば。
中の季節が外とは逆の真夏だったら、冬はガラスが白く曇っているかもしれない。外は寒くて、温度が遥かに低いのだから。
冬の季節に家の窓ガラスが曇ってしまって、指先で絵などを描けるみたいに。
(温室用なら、曇り止めのガラス…)
そういうガラスを使っている可能性もある。すっかり曇ってしまわないよう、寒い季節も外から中がよく見えるように。
家の窓ガラスも曇るのだから、もっと暖かい温室のガラスはきっと曇ってしまう筈。霧みたいに細かい水の雫がびっしり覆って、真っ白くなって。
それでは駄目だし、曇り止めのガラスで建てる温室。中がどんなに暖かくても、外が寒くても、ガラスは透き通っているように。…中に置かれた鉢や花たちを外から覗けるように。
今日、見学した温室だって、そんな仕掛けがあるかもしれない。雪がしんしん降っている日も、曇りはしないで透明なガラス。中の花たちが透けて見える温室。
きっとそうだよ、という気がしてきた。温室には詳しくないけれど。曇り止めのガラスで作ってあるのか、注文しないと曇り止めのガラスは嵌まらないのか。
けれど料金が少し高くても、大抵の人は曇り止めのガラスを選びそう。自分が温室を持つことになったら、もちろん曇らないガラス。一面の雪景色が広がる日でも。
(ガラスの向こうが見えないと、つまらないものね?)
別世界のような温室の中。雪が降る日に咲くヒマワリやら、南国の色鮮やかな花たち。外側から見れば夢のようだし、そういう仕掛けをしておきたい。
着ぶくれたままで中に入ったら汗だくになるし、そうしないと花が見えないよりは。花の世話をしに入る時以外でも、通りかかったら中を見られる方がいい。曇っていないガラス越しに。
やっぱり花が見えないと…、と思った所で掠めた記憶。遠く遥かな時の彼方で、前の自分が見ていたもの。温室に少し似ていたもの。
(とても暑かったガラスケース…)
透き通っていたガラスの地獄に入れられたんだ、と蘇って来た前の自分の記憶。
あれはアルタミラで実験動物だった頃。今と同じにチビだったけれど、心も身体も成長を止めて過ごしていたから、本当の年は分からない。子供だったか、子供と呼べない年だったかは。
それでも心は子供だったし、身体も子供。
檻から引っ張り出される度に怯えて、実験室を見たら震え上がった。何が起こるのかと、どんな酷い目に遭わされるのかと。
研究者たちは容赦なく「入れ」と顎で命じたけれど。ガラスケースに押し込めたけれど。
(低温実験をされる時だと、ガラスに氷の花が咲くけど…)
中の温度が下がっていったら、咲き始めたのが氷の花。命を奪おうと咲いてゆく花。
それとは逆に高温の時は、ガラスケースは蒸気で曇った。研究者たちが見守るケースの外より、中が遥かに暑いから。冬に窓ガラスが曇るみたいに、内側の方から真っ白に。
どういう風に曇っていったか、中の自分は観察してなどいないけれども、見えなくなった外側にいた研究者たち。中の温度が上がり始めたら、酷い暑さに襲われたならば、見えない外。
研究者たちが曇り止めの装置を作動させるまで、いつも曇ったままだったガラス。
曇りが消えたら、彼らは外で観察していた。温室の中の花を眺めるみたいに、覗き込んで。中で苦しむ自分を見ながら、記録したり、何かを話していたり。
温室みたい、と今だから思う強化ガラスのケース。前の自分が苦しめられた高温実験。ガラスの外は少しも暑くないのに、内側は凄まじい暑さ。真夏どころではなかった温度。
(前のぼく、温室に入れられちゃってた…)
それも曇り止めのガラスの温室、外から中を覗けるものに。前の自分は花ではないのに、暑さに苦しむ人間なのに。…研究者たちの目から見たなら、単なる実験動物でも。
たとえ温室の花だとしたって、研究者たちは酷い扱いはしなかったろう。美しい花ならば愛でて楽しみ、適切な温度にしてやった筈。少しでも長くその美しさを保てるように。
けれど実験動物は違う。何処まで耐えることが出来るか、それを調べていたのだから。ケースの中で倒れて動かなくなるまで、温度を上げてゆくだけだから。
(見てたのだって、ぼくの変化を調べてただけ…)
どのくらいで肌が赤くなるのか、火ぶくれや火傷はいつ出来るのか。観察するには、白く曇ったガラスではまるで話にならない。向こう側が透けて見えないと。
だから使われた曇り止めの装置。ガラスケースが白く曇れば、スイッチを入れて。
いったい何度まで上がっただろうか、あの時のガラスケースの中は。温度計など内側にはついていなかったのだし、前の自分は何も知らない。どれほどの暑さに包まれたのか。
息も出来ないほどに暑くて、真っ赤になっていった肌。日焼けしたように。
其処を過ぎたら肌は火傷して、幾つも火ぶくれが出来たと思う。熱さと痛みで泣き叫んだのに、研究者たちは何もしなかった。淡々と記録し続けるだけで、けして下げてはくれなかった温度。
(床にバッタリ倒れちゃっても…)
焦げそうに熱い床に倒れ伏しても、まだ上がる温度。喉の奥まで焼け付くようで、息を吸ったら肺の奥まで入り込む熱。身体の中から焼き尽くすように。
それでも温度は上がり続けるから、「これで死ぬんだ」と薄れゆく意識の中で思った。焼かれて此処で死んでしまうと、きっと黒焦げになるのだと。
(死んじゃうんだ、って思ってたのに…)
気が付いたら、また檻の中にいた。自分の他には誰もいなくて、餌と水が突っ込まれる檻に。
身体のあちこちが酷く痛くて、呼吸をするのも辛いほど。治療が終わって檻に戻されても、まだ癒えたとは言えない身体。火傷の痕があったりもした。明らかにそうだと分かるものが。
死んではいなかったのだけど。命は潰えていなかったけれど、その手前までは行ったのだろう。
酷かったよね、と今でも身体が震える。一人きりのタイプ・ブルーでなければ、きっと殺されていたのだと思う。死の一歩手前で止めはしないで、どんどん温度を上げ続けて。
死体になっても、もう動かなくなった身体が真っ黒に焦げてしまうまで。炭化して崩れて、灰になってケースの中に舞うまで。
(今のぼくだと、温室育ちの子供なのに…)
弱い子供だから、過保護なくらいに守られて育って来たというのに、同じに弱かった前の自分は温室で酷い目に遭った。あれを温室と呼ぶのなら。曇り止めの装置が備えられていた、あれも温室だったなら。…アルタミラにあった、強化ガラスのケース。
あの中だって適温だったら、きっと暖かかったのだろうに。心地よい温度に保ち続けることも、使いようによっては出来た筈。研究者たちが、そうしてみようと考えたなら。
春の陽だまりみたいな温度。それを保った、温室のようなガラスのケース。そういうケースに、檻の空調が壊れて寒かった日に入れて貰えたなら、とても幸せだっただろうに。
同じケースでも全く違うと、床で丸くなってまどろみさえもしたのだろうに。
(ホントに上手くいかないよね…)
実験動物だったから仕方ないけど、と思い出しても悲しい気分。温室の中で育つ花なら、寒さで凍えて震えていたなら、暖かい場所へ移されたのに。「花が傷む」と大急ぎで。
とりあえず此処でいいだろうかと、少しでも暖かい部屋へ。花を飾るような場所ではなくても、鍋が置かれたキッチンでも。
(実験動物だっていうだけで、ガラスケースの気持ちいい温室も無し…)
適温だったケースなんかは知らないよ、と前の自分の不幸を嘆いていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、ぼくって温室育ちだよね?」
ぼくみたいなのを、そう言うんでしょ?
パパとママに守られてぬくぬく育って、うんと過保護に育って来たと思うから…。
ホントの温室では育ってないけど、温室育ち。外の厳しさを知らないから。
「温室育ちなあ…。間違いなくそうだと俺も思うが、どうかしたのか?」
今のお前は正真正銘、温室育ちのチビだよな。前のお前だった頃と違って。
幸せ一杯の温室の花だが、なんでいきなり温室なんだ…?
分からんぞ、と怪訝そうな顔をしているハーレイ。「何処から温室が出て来たんだか」と。
「お前の家には温室は無いだろ、俺の家にも無いんだが…。新聞にでも載ってたか?」
植物園か何かの記事が出てたか、温室の定番は植物園だし。
其処から温室育ちなのか、と尋ねられたから「ううん」と横に振った首。「帰りに見た」と。
「学校の帰りに歩いていたら、温室がある家に気が付いて…。見てたら中にどうぞ、って」
それで温室を見せて貰って、素敵だよね、って家に帰っても思ってて…。
真冬に桜を咲かせたりする、って聞いたから。ちょっといいでしょ、温室があったら雪の季節にヒマワリだって咲くものね。
だけど、うちには温室は無いし…。ぼくが弱すぎる子供だったから、ママは諦めちゃったかも。温室の世話までしていられない、って温室作り。
そんなこととか、いろんなことを考えていたら思い出しちゃった。…前のぼくのことを。
今のぼくは温室育ちだけれども、前のぼくは温室で酷い目に遭わされたんだっけ、って。
「はあ? 温室って…」
シャングリラにあった温室のことか、白い鯨には農作物用の温室もちゃんとあったしな。規模はそんなに大きくないから、嗜好品までは無理だったが…。コーヒー豆とかカカオ豆とかは。
お前、あそこで何かあったか、酷い目に遭ったなんて言うからには…?
そんな記憶は全く無いが、とハーレイが首を捻っているから、「もっと前だよ」と遮った。
「シャングリラだったらいいんだけれど…。閉じ込められても、すぐ出られるから」
瞬間移動で飛び出さなくても、「誰か助けて」って思念で呼んだら、開けに来るでしょ?
ソルジャーのぼくが覗いている間に、扉が勝手に閉まっちゃったとかいう事故ならね。
白い鯨なら、酷い目に遭う前に出られるけれども、アルタミラ…。実験動物だった頃だよ。
温室って言うには暑すぎたけれど、高温実験用のガラスケースのこと。…ガラス張りな所は温室そっくり、曇り止めまでついてたってば。中の様子が見えるようにね。
前のハーレイは入れられていないの、あの暑かったガラスケースには…?
地獄みたいに暑い温室、と尋ねてみたら、「あれなあ…」とハーレイが眉間に寄せた皺。
「温室って言うから何かと思えば、高温実験のガラスケースのことか…」
俺だって一応、経験はあるが、お前ほどではなかったな。
前のお前から聞いた話じゃ、死ぬかと思うほど酷い目に遭っていたそうだから…。
お前がそれなら、俺はせいぜいサウナ止まりってトコだったろうさ、という答え。サウナ程度のガラスケースしか知らないぞ、と。
「こりゃ死ぬな、と考えたことは無かったからな。…俺の場合はサウナだろう」
「…サウナ?」
なにそれ、前のハーレイが受けてた実験、そういうのなの…?
「ものの例えというヤツなんだが…。お前もサウナは知ってるだろう。言葉くらいは」
シャングリラにサウナの設備は無かったわけだが、今の時代はお馴染みのヤツだ。前の俺たちが生きてた頃にも、人類の世界にはあった筈だぞ。
ただしサウナも、お前には少し暑すぎるがな。…高温実験のケースほどじゃなくても。
今のお前ならゆだりそうだ、とハーレイが言うから頷いた。本当にその通りだから。
「うん、ちょっぴりなら入ってみたよ。小さかった頃に、パパと一緒に」
ホテルのサウナ、と話した幼い頃の体験。両親と出掛けた旅先のホテルで起こった出来事。父がサウナに行くと言うから、「ぼくも行きたい!」とくっついて行った。
どんな場所かも知らないくせに。「暑いんだぞ?」と父に脅かされても、「おっ、サウナか」と顔を輝かせた父を目にした後では効果など無い。「きっと素敵な場所なんだ」と考えるだけで。
それで強請って一緒に出掛けて、母が後ろからついて来た。「ブルーには無理よ」と。
サウナの前でも「本当に入りたいのか、ブルー?」と念を押されたのに、張り切って入ったのが幼かった自分。父と一緒に楽しもうと。
けれど二人で入ったサウナは、もう本当に暑かったから。とんでもなく暑い部屋だったから…。
(クラクラしちゃって、すぐにパパに抱えられて外に出て…)
まだ楽しみたい父から母に引き渡された。「やっぱりブルーには暑すぎたな」と。
父は一人でサウナに戻って、暑さにやられた幼い自分は暫くの間、母にもたれて廊下のソファでぐったりとしていたのだけれど。「目が回りそう」と、目をギュッと瞑っていたけれど…。
身体の熱さが引いていったら、アイスクリームを強請った記憶。「冷たいものが食べたい」と。
サウナはとても暑かったのだし、身体を冷やすのにアイスクリーム。
ホテルだからアイスクリームもあるよね、と母に強請って、アイスクリームどころかパフェ。
とても食べ切れないようなサイズの、大きなパフェを前にして御機嫌だった覚えがある。一人で全部食べていいんだと、「このパフェはぼくのものなんだから」と。
多分、食べ切れなかっただろうパフェ。どう考えても大人サイズで、今の自分でも食べ切れるかどうか怪しいから。
きっと「美味しそう!」とパクパクと食べて、早々に降参したのだろう。「もう入らない」と。残りは母が食べてくれたか、サウナから戻った父が笑って平らげたのか。
「なるほど、サウナで参っちまった後にはパフェを強請った、と…」
本当に今のお前らしいよな、我儘なのも。…サウナに行くと頑張る所も、その後のパフェも。
そういうお前も可愛らしいが、サウナ、けっこう暑かったろうが。お前が参っちまうくらいに。
今の俺はよくジムで入るんだが、前の俺がやられた高温実験だって恐らくサウナ程度だろう。
もっとも、実験の時に温度計なんぞは無かったから…。正確な所は分からないがな。
何度も実験を受ける間に、慣れてしまうってこともあるから。身体の方が。
しかしだ、俺の場合は耐久実験だったわけで、どれくらいの時間を耐えていられるかが、研究者どもの興味の的だった。飲み物も無しでサウナに入っていられる時間。
だから温度はそれほど高くはなかっただろう。…前のお前の場合は温度が高かったんだが。
気を失うまで上げたんだよな、とハーレイが顔を曇らせる。「チビの子供に酷いことを」と。
「そう…。もう死んじゃう、って思っていたよ。いつも、とっても暑かったから」
息も出来ないくらいに暑くて、肌が真っ赤になっちゃって…。
酷い時だと火傷もしてたし、火ぶくれだって幾つも出来ちゃった…。
ホントに酷いよ、いくら実験動物でも…。後で治療をするつもりでも、あんまりだよね。
前のぼく、見た目は子供だったし、中身も子供だったのに…。
ガラスケースの中で「熱い」って泣いていたのに、止めてくれさえしなかったよ。
今のぼくだと、同じぼくでも本物の温室育ちなのに…。
実験用のガラスケースじゃなくって、ガラス張りの温室の方なのに。ちゃんと身体にピッタリの温度で、世話だってきちんとして貰えて。
そういう温室、ちょっぴり憧れるんだけど…。
花を育てるための温室、素敵だよね、って思ったんだけど…。
いつかハーレイと暮らす家に温室が欲しいけれども、難しいよね、と溜息をついた。温室育ちの自分がそれを欲しがったなら、ハーレイの手間が増えそうだから。
具合が悪くて寝込んだ時には、温室の世話までハーレイがすることになるから。
「そうだな、お前の世話をするだけで手一杯かもしれないなあ…」
俺の仕事が多い時だと、そうなることもあるだろう。お前の世話しか出来ないような日。
そうなったら花が可哀想だしな、一日くらいは世話を休んでも大丈夫だとは思うんだが…。
何日か続けば、命が危うくなっちまう。温室育ちの花は弱くて、こまめな世話が必要だから。
お前の夢も分かるんだがなあ、前のお前が温室で酷い目に遭った分だけ、憧れるのも。
同じにガラスで出来たヤツでも、温室の方が遥かに素敵だからな。
家で温室は無理となったら、デートに行くしかないってことか…。植物園の温室まで。
あそこだったらデカイ温室があるぞ、とハーレイも思い付いた場所が植物園。やっぱり其処しか無さそうなのが、ガラスで出来た大きな温室。
「ハーレイも植物園だと思う?」
そんな楽しみ方しか出来そうにないね、ガラス張りの温室…。家じゃ無理なら。
「うむ。せっかくアルタミラの地獄とは違う時代に生まれて来たのになあ…」
本物のサウナを楽しめる時代で、俺はサウナをジムで満喫してるのに…。
今よりもずっとチビだったお前も、サウナに懲りてパフェを食ったりしたのにな…?
温室の方は植物園しか手が無いというのが、なんともはや…。
前のお前の辛い記憶が吹っ飛ぶくらいの素敵な何かが、何処かにあればいいんだが…。
温室と言ったら植物園しか無さそうだよなあ…。
なんたってモノが温室なんだし、植物を育ててやるための部屋で…。
いや、待てよ?
温室ってヤツにこだわらなければ、似たようなヤツでアルタミラ風で…。うん、あれだ!
植物園よりも面白い施設があるんだった、とハーレイはポンと手を打った。
「温室じゃないが、地球のあちこちの気候を再現している所なんだ」
焼け付くような砂漠だったり、雪と氷の世界だったり。…そういう部屋が並んでる。
うんと暑い部屋から出て来た途端に、「次はこちら」と氷の世界に続く扉があったりしてな。
扉を開けて入らない限りは、空調の効いた普通の建物なんだが…、という説明。いながらにして地球のあらゆる気候を体験、それが売りの施設。
「砂漠とか、雪と氷とか…。面白いの?」
植物園とは違うみたいだし、木とかは植わってなさそうだけど…。凄く極端な温度なだけで。
「俺たちにとっては楽しい施設じゃないか?」
特にお前だ、高温実験も低温実験もされていたのが前のお前だろうが。…死にそうなほどの。
それが今だと、暑い部屋にも寒い部屋にも、遊びで入って行けるんだからな。
其処の施設に行きさえすれば。
服とかも貸して貰えるんだぞ、防寒用のを。サイオンでシールドしたりしないで、自分の身体で寒さを体験したいなら。…暑い方の部屋なら、暑気あたり防止用のグッズも借りられるから。
入っている時間も自分の好きに決めていいんだ、とハーレイが教えてくれたから。
「それ、行ってみたい…!」
植物園の温室とかより、ずっと幸せな気分になれそう。今は遊びで入れるよ、って。
ガラスケースじゃないけれど…。部屋の中に入って行くみたいだけど。
「なら、行くとするか。いつかお前と一緒にな」
俺の車でドライブがてら、デートに出掛けて行くとしようか。アルタミラの気分を味わいにな。
砂漠の暑さや氷の世界の寒さくらいじゃ、前のお前の体験にはとても及ばんが…。
「ううん、充分、素敵だってば。遊びで行けるアルタミラだね」
こんな実験をされていたよね、って暑い部屋とか寒い部屋に入って行くんでしょ?
「俺たちにとっては、そういう施設になっちまうなあ…。本当の所は体験用の施設なんだが」
地球には豊かな気候があります、と味わうための所なわけで…。
「どんな所でもいいじゃない。入るぼくたちが、実験動物じゃないのなら」
自分で決めて入って行くなら、ガラスケースでも今は温室なんだよ?
今のぼくにはガラスの温室、ちょっぴり憧れなんだから…。
いつか二人で遊びに行こうね、とハーレイと約束の指切りをした。大きくなった時の約束。
温室育ちの今の自分だけれども、今度は遊びで体験できる。
高温実験や低温実験用のガラスケースの代わりに、暑すぎる部屋も、寒すぎる部屋も。
家にガラス張りの温室を作って楽しむ代わりに、ハーレイと二人で遊びにゆく。地球のあらゆる場所の気候を体験できる施設まで。
「地球は素敵な星だけれども、地球の上にも暑すぎる所があるんだね」などと言いながら。
「寒すぎる場所はとても寒いね」と、着ぶくれて笑い合いながら。
今は平和な時代なのだし、そんな所に出掛けて行っても、怖いことなど何もない。
暑すぎる部屋で疲れた時には、大きなパフェを強請ってみよう。「暑かったよ」とハーレイに。
幼かった自分がサウナでクラクラした時みたいに、我儘に。
きっとハーレイは、気前よく許してくれるだろうから。
「食べ切れるのか?」と可笑しそうに笑って、とても大きなパフェを注文してくれるから…。
温室とガラス・了
※温室のガラスで、実験動物だった頃を思い出してしまったブルー。高温に晒される実験。
けれど今では、高温の世界を楽しめる施設があるのです。酷寒の世界も、今の地球ならでは。
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