シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「あっ…!」
ツキン、と右目の奥が痛んだ。反射的に右手で押さえる。瞳から熱いものが溢れ出して細く白い指を濡らし、そしてポタリと…。
「……まただ……」
どうして、とブルーは広げていたノートに落ちた雫を呆然と眺める。
透明な涙の雫ではなく、ブルー自身の瞳の色を溶かしたような鮮血の赤。指についた雫を舐めると鉄錆を思わせる味がした。それは紛れもなく血液そのもの。
けれど鏡を覗き込んでみても瞳にも瞼にも傷一つ無い。涙の代わりに流れたかの如く、赤い血が滴り落ちたというだけのことで。
(…ぼくは一体、どうしたんだろう…)
こんなことは今まで無かったのに、と白いノートを汚した血の染みを見詰めていると声が聞こえた。
「ブルー! パパが帰ったから食事にしましょう!」
「うん、今、行く!」
言えない。両親に話したら、きっと心配するに違いない。目から血の涙が出るなんて…。
怪我をしているわけではないし、ついこの間までは何ともなかった。
そうでなくても進学したばかりで何かと慌ただしい毎日なのだし、病院になんか行っていられない。洗面所に駆け込んで手と頬を染めた血を洗い流すと、ブルーは両親の待つ階下へと下りて行った。
遠い昔には人が棲めないほどに荒廃していたと聞く水の星、地球。その地球にブルーが生を享けてから、今年で早くも十四年になる。
優しい両親との満ち足りた日々に何の不満も無く生きて来たのに、それは突然やって来た。
目の奥に走る不快な痛みと、涙のように零れる鮮血。
最初は怪我をしたのかと驚き慌て、パニックに近い状態で鏡を覗いた。しかし何処にも傷は見当たらず、一筋の血が流れ落ちた後は特に何事も起こらない。それ以上の出血が続くわけでなく、視界も全く普段と変わらず、問題があるとは思えなかった。
「…大丈夫だよね?」
自分自身に言い聞かせるように呟き、放っておいたのが一ヶ月ばかり前のこと。進学してすぐの忙しさに紛れて翌日には忘れていたのだけれど、それは何度か繰り返された。今日ので多分、五回目くらいになるのだろうか。
それでも目には傷一つ無いし、見えにくくなるわけでもないし…。
「ブルー? 何処か具合が悪いのかい?」
テーブルに着いていた父が新聞を置いて声を掛けて来た。
「ううん、なんでもない」
「それならいいが…。お前は身体が丈夫ではないし、勉強もあまり根を詰めてはいけないよ」
「そうよ、ブルー。無理のしすぎは良くないわよ」
今日は早めにお休みなさい、と母が優しく微笑みながら料理の皿をテーブルに置いた。
「ほら、ブルーの好きなカリフラワーのポタージュよ。だから、お肉もちゃんと食べなさい」
「…うん」
食の細いブルーのために、と母は色々と工夫を凝らしてくれる。父も何かと気遣ってくれるし、こんな二人に「血の涙が出る」などと言おうものなら大騒ぎになってしまうだろう。
ノートの染みは鼻血でも出たことにしておこう、とブルーは思う。
(鼻血だったら普通だしね)
そうそう誰もが出すわけではないが、そう珍しいことでもない。血の涙よりは自然だし…。
(…パパとママが見ている時に出ませんように…)
言い訳が出来ない状況は困る。そんな事態になりませんように、と祈りながらスープを掬って口に運んだ。野菜の甘みが母のように優しい味わいのスープ。肉料理もブルーが好きな部類のハンバーグだ。
(きちんと食べて栄養をつけたら、血の涙なんて出なくなるかな?)
頑張って今日は多めに食べよう、と決心をしてもブルーの食事のスピードは遅い。先に食べ終えた父が「まだ食べてるのか」と苦笑する。
「でも、沢山食べるのはいいことだな。細っこいままだと、ますますそっくりになってしまうぞ。…なあ、ママ?」
「そうねえ、ホントに似て来たわよねえ…。今日もお隣の奥さんに言われたの。お宅のブルー君、ソルジャー・ブルーの昔の写真にそっくりよねえ、って」
その瞬間、ブルーの右目の奥がズキンと痛んだ。
「ブルー!?」
「ど、どうしたの、ブルー?」
サラダを食べていたフォークを取り落とし、右目を押さえたブルーの指の間から零れる鮮血。母が悲鳴を上げ、父が慌てて立ち上がった。もう言い逃れは許されない。ブルーは父の車に乗せられ、病院へ行く羽目になってしまった。
頭部スキャンに全身スキャン。眼球は特に詳細に調べられ、採血などの検査もされた。けれど何処にも異常は見られないらしく、褐色の肌の男性医師が首を傾げる。
「こんなことは前からありましたか?」
尋ねられたブルーは黙っていたが、母に「どうなの?」と促されて仕方なく俯き加減で答える。
「……今日で五回目くらいです」
両親が息を飲むのが分かった。…だから言いたくなかったのに。
「五回目ですか。…最初はいつ頃?」
「…ひと月ほど前…」
ブルーの答えに母が「知らなかったわ」と悲しそうな声を上げ、両手で顔を覆う。
「私、母親失格ね。…子供の病気にも気付かないなんて」
「ごめんなさい、ママ…。言ったら心配すると思って」
謝るブルーに父が母の肩を抱きながら言った。
「その方がよほど心配だよ。…それで先生、ブルーの目は?」
「分かりません。こんな症状は初めて見ます。…ブルー君、何か前兆のようなものはありますか? 頭が痛むとか、目が霞むとか」
「…ありません。今日も別に…」
そこまで口にしてから、ふと思い出した。目の奥が痛み出す前に耳にした言葉。そう、母は確かに「ソルジャー・ブルー」と…。
「…え、えっと…。関係ないかもしれませんが…」
口ごもるブルーに、医師は「些細なことでも話して下さい」と穏やかに言った。
「心当たりがあるのでしょう? 何がありましたか?」
「……ソルジャー・ブルー。そう聞いた途端に目の奥がズキッと痛んだんです。…食事の前にも同じように血が出て、その時にノートに書こうとしたのもその名前でした」
「…ソルジャー・ブルー…。ミュウの初代の長の名前ですね。歴史の授業ではよく出て来ますが、以前は大丈夫だったのですね?」
「はい…」
本当に前は大丈夫だった。幼い頃から何度も聞いたし、学校で習うのも初めてではない。なのに何故。そういえば最初に血を流した日は、今の学校でその名を教わった初日のことで…。
「……ソルジャー・ブルーねえ……」
医師は首を捻りながら、ブルーの姿を上から下まで眺め回した。
「…言われてみれば君はそっくりですねえ、歴史書の彼に」
赤い瞳に銀色の髪。両親はごくごく普通の外見だったが、ブルーは生まれつき色素を欠いて生まれたアルビノだった。遙か昔のミュウの初代の長、ソルジャー・ブルーとは其処が異なる。
ソルジャー・ブルーは昔の世界で行われていた成人検査が切っ掛けでアルビノになったと伝わっているが、ブルーの名前は彼にちなんで名付けられた。今の時代、人類は全員がミュウであり、それゆえに心を読むのも隠すのも当たり前のように誰でも出来る。
「それで、ブルー君のサイオン・タイプは?」
医師の質問に父が答えた。
「ブルーです。…ソルジャー・ブルーの時代ならともかく、特に珍しくもないですが」
「なるほど、サイオン・タイプまでソルジャー・ブルーと同じですか…。私は医者ですから、あまり変わったことを言いたくはないのですけれど…。聖痕というものを御存知ですか?」
ブルーにとっては初めて聞く単語。しかし両親は知っていたようだ。ソルジャー・ブルーが生きた時代よりも昔、神の受難の傷痕をその身に写し取り、血を流した人々がいたという。
「…ソルジャー・ブルーの最期がどうであったかは誰も知りません。惑星破壊兵器、メギドと共に散ったことしか今に伝わってはいませんが…。その前に銃撃を受けたという説がありますね。…ブルー君は彼が受けた傷を再現しているのかも…」
「…まさか!」
ブルーは即座に否定した。
「ぼく、その話は習っていません! 銃撃なんていう説はまだ誰からも…」
「そうですか? ですが、ソルジャー・ブルーと無関係とも思えないのですよ。症状が初めて出たのが十四歳になった直後ですね? …ソルジャー・ブルーがアルビノとなり、ミュウの力が覚醒したのと同じ年です。私は生まれ変わりを信じているわけではありませんが…」
もしかしたら、と医師は「異常なし」のデータが並んだブルーのカルテに目をやった。
「ブルー君はソルジャー・ブルーの生まれ変わりかもしれませんよ? そうそう、私の従兄弟に面白いのがいましてね。キャプテン・ハーレイにそっくりなんです」
苗字までちゃんとハーレイなんです、と笑う医師の名札にブルーは初めて気が付いた。医師の苗字も同じくハーレイ。自分がソルジャー・ブルーとそっくりなように、ミュウの船のキャプテンとして教科書に載っているハーレイにそっくりな人も居るのか…。
「そのハーレイですが…。近々、ブルー君が通っている学校に教師として行くことになっています。会った途端に目から血の涙が流れるようなら、ブルー君は本当にソルジャー・ブルーの生まれ変わりかもしれませんね。残念ながら、私の従兄弟はキャプテン・ハーレイではないそうですが」
その言葉にブルーはホッと安堵の吐息をついた。血の涙だけでも気味が悪いのに、生まれ変わりだなどと言われても…。自分は普通の十四歳の子供で、伝説の戦士とは違うのだから。
異常なしと診断されたブルーは観察入院もせずに済み、両親と家に帰ることが出来た。しかし、次に同じ症状が出たらまた病院に行かねばならない。両親にも「二度と隠さないように」と強く言われたし、我慢するしかないのだが…。
(…もう起こらないといいんだけどな…)
そう願っていることが効いたのだろうか。ソルジャー・ブルーに関する時代の授業は無事に終わって、平穏な日々が戻ってきた。彼の名を聞いても血の涙は出ない。生まれ変わりだの聖痕だのと聞かされて少し怖かったけれど、再発しなければ大丈夫。あれはたまたま、ほんの偶然。
(そうだよね? ソルジャー・ブルーの生まれ変わりだなんて有り得ないよ)
ぼくはぼく、と読みかけの本を机に置いたまま、考え事をしていると。
「おい、ブルー! 新しい先生が来るらしいぜ」
「えっ?」
クラスメイトの声でブルーはハッと我に返った。
「なんだよ、聞いていなかったのかよ? 古典の先生、変わるんだってよ。年度初めに来る予定だったのが遅れたらしくて、なんか今日から」
「…ふうん? なんで遅れてたんだろ」
「前の学校で欠員が出てさ、引き止められてたみたいだぜ? 宿題出さねえ先生だといいな」
今の先生は宿題多すぎ、とクラスメイトが嘆いた所で授業開始のチャイムが鳴った。それと同時に教室に現れた褐色の肌の新任教師に、ブルーの胸がドクリと脈打つ。
(ハーレイ…!)
教科書で見たキャプテン・ハーレイにそっくりな彼。
何故「キャプテン」の呼称を抜かしたのかも分からない内に、右目の奥がズキンと痛んだ。
「お、おい、ブルー!?」
どうしたんだよ、と叫ぶクラスメイトの声は酷く遠くて、肩が、脇腹が、目の奥が痛い。絹を裂くような女子たちの悲鳴が聞こえる。床に倒れたブルー自身は知らなかったが、右目だけでなく両肩と左の脇腹からも血が溢れ出して制服の白いシャツを赤く染めていて…。
「どうしたんだ! おい、しっかりしろ!」
駆け寄って来た教師がブルーを抱え起こした、その瞬間。
(……ハーレイ?!)
(…ブルー?!)
触れ合った部分から流れ込み、交差する夥しい記憶。
そうだ、ぼくはこの手を知っている。そしてハーレイも、ぼくを知っている……。
授業は自習となり、ブルーは駆け込んで来た救急隊員たちに担架に乗せられ、ハーレイに付き添われて先日の病院へと搬送された。検査結果は全て異常なし、身体にも傷は見当たらない。それでも出血が多かったからと点滴を打たれ、それが終わるまで帰れないのだが…。
「…ハーレイ先生は?」
ブルーは病院に駆け付けてきた母に尋ねた。
「さっき学校へお帰りになったわ」
「……そうなんだ……」
ブルーの胸がツキンと痛む。
ハーレイ。やっと会えたのに…。ぼくは全てを思い出したし、君も思い出してくれたのに……。
「どうしたの、ブルー? ハーレイ先生がどうかしたの?」
「…ごめんなさい、ママ…」
ブルーは儚げな笑みを浮かべた。
「……ぼく、思い出してしまったんだよ。…ぼくはソルジャー・ブルーだったみたいだ。あの傷、ぼくが昔に撃たれた時のと同じ…」
「…そ、そんな……」
そんなことが、と声を詰まらせる母にブルーは懸命に詫びる。
「ごめんなさい。…ママの子供なのに、ごめんなさい…。でも、本当のことだから…」
「……それじゃ、まさかハーレイ先生も…?」
「うん…。先生はキャプテン・ハーレイだった……」
ごめんね、ママ。先生はキャプテン・ハーレイっていうだけじゃない。
ぼくの……。ううん、ソルジャー・ブルーの大切な……。
(……ハーレイ……)
自分の唇に指先で触れる。
覚えている。こんなにも君を覚えている。…君の唇も、温かい手も、身体中が君を覚えている。
…会いたいよ、ハーレイ。すぐに、今すぐに君に会いたい。
ハーレイ、ぼくは帰ってきたから。君のいる世界に帰ってきたから…。
点滴が終わり、会社を早退してきた父の車で家に戻ったブルーは大事を取って寝かされた。
今の生の記憶と、その前の……ソルジャー・ブルーの膨大な記憶。それらを融合させるためには有難い時間だったけれども、大切なものが欠けていた。
ハーレイがいない。…全てを思い出す切っ掛けになったハーレイが側に居てくれない…。
「会いたいよ、ハーレイ…」
もう何度目になるのだろう。涙で枕を濡らしながら小さな声で呟いた時、寝室のドアが軽く叩かれた。
「ブルー? ハーレイ先生が来て下さったわよ」
どうぞ、と母がドアを開け、懐かしい姿が現れた。記憶の中の彼と違ってキャプテンの制服を纏ってはおらず、教師としてのスーツ姿だけれども、忘れようもない彼の人の姿。
どうして自分は忘れていたのか。忘れ去ったままで十四年も生きて来られたのか…。
恐る恐る上掛けの下から差し出した手を、褐色の手が強く握ってくれた。
ああ、ハーレイ。
君の手だ。君の温かい手だ……。
「ママ……」
少しの間だけ、二人きりにさせて。
ブルーの言葉に母は頷き、「お茶の用意をしてくるわね」と部屋を出て階段を下りて行った。その足音が遠ざかるのを確認してからブルーは微笑む。
「……ただいま、ハーレイ。帰って来たよ」
「ブルー! ブルー、どうしてあんな…! もう心臓が止まるかと…!」
「ごめん。あの傷が思い出させてくれたんだ…」
「あんな酷い傷を、いったい何処で…! どうしてあんな姿になるまで…!」
行かせるのではなかった、とハーレイが何度も繰り返す。ブルーをメギドに行かせるべきではなかったのだ、と。
「…いいんだよ。あの時はぼくがそう決めた。…でも……」
今度は君と離れたくない。
そう言ったブルーの身体をハーレイがベッドから抱き起こし、両腕で強く抱き締める。その腕をブルーは覚えていた。前の生では幾度となくこうして抱き締められて、そして……。
「……ハーレイ?」
パッとハーレイの身体が離れて、扉が小さくノックされる。紅茶とクッキーを運んで来た母の何処となく寂しげな表情。
そうだ、母は自分たちの過去を全く知らない。ソルジャー・ブルーのことも、キャプテン・ハーレイのことも歴史に記された部分しか知らず、また知りようもなかったのだ…。
こうしてブルーは思い出した。
かつて自分が何者であったのか、何を思い、誰を愛したのかを。
ブルーの身体を染めた血が贄であったかのように、ハーレイの記憶も蘇った。ブルーの右目の奥は二度と痛まず、血が頬を伝うこともない。
けれど……。
「…ハーレイ…」
「駄目だ。ブルー、お前はまだ子供だ」
キスを強請ろうとして断られた。
あれからハーレイはブルーの家をしばしば訪ねて来てくれる。その度に自分の部屋に通して、母がお茶を置いて立ち去るとすぐに広い胸に甘え、優しい腕に抱き締められて幸せなひと時を過ごすのだけれど。
魂に刻まれた前世とは違い、ブルーは十四歳になったばかりの子供で、ハーレイは倍以上もの年を重ねた大人だった。
「…子供、子供って、そればっかり…」
「だが、本当のことだろう? …安心しろ、ちゃんと待っていてやるから」
ハーレイの手がブルーの銀色の髪を愛おしげに撫でた。
「……ホント?」
「本当だ。お前が充分に大きくなるまで気長に待つさ。…俺だって待つのは辛いんだがな」
でも、教え子に手を出すわけにはいかんだろうが。
「ふふっ、そう……かもしれないね」
ハーレイ、いつまで待てばいい? 来年? 再来年? それとも、もっと…?
「こらっ、子供がそういう話をするもんじゃない!」
コツン、と頭を小突かれる。
ああ、本当にいつまで待てばいいんだろう。いつになったら昔みたいに本物の恋人同士になれるんだろう? だけど、こういう時間さえもが愛おしい…。
「ねえ、ハーレイ…。君の身体の時間は止めて待っててくれるんだよね?」
「そのつもりだ。でないと釣り合いが取れなくなるしな」
だから頑張って沢山食べろ。
そう言うハーレイに「うん」と返して厚い胸に頬を擦り寄せる。
今はまだ、こうして甘えるだけしか出来ないけれど。母が「お茶のお代わりは如何?」と来はしないかと、ドアを気にしながらの逢瀬だけれど。
でも、ハーレイ。君にもう一度会えて良かった。
ぼくはもう何処へも行かないから。二度と君から離れないから、いつまでもぼくの側に居て…。
分かるかい、ハーレイ? 今、ぼくがどれだけ幸せなのか………。
聖痕・了