シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「弘法筆を選ばず」。
ハーレイが教室の前のボードに書いた文字。
筆っていうのはアレだよね、ってピンと来たけど。動物の毛とかで出来ているヤツで、書くには墨を使うもの。文字を書く筆はレトロだけれども、今もきちんと存在してる。
(前のぼくたちが生きてた頃には無かったけれど…)
絵を描くための筆はあっても、字を書く筆は何処にも無かった。そういう文化が無かったから。だけど今では復活している、筆で字を書くという文化。書道家なんて人だっている。
今の時代に筆と言ったら、絵筆ではなくて文字を書く方。「筆を選ばず」もそれだと思う。
(でも、弘法って…?)
なんのことだか分からない。筆の一種で「弘法筆」っていうのがあるんだろうか、とハーレイの字を眺めていたら、「どうだ、分かるか?」っていう声がして。
始まったハーレイお得意の雑談、居眠りそうな生徒もガバッと起きちゃう。面白かったり、他の学校の友達とかに披露したくなったり、そういう中身が詰まっているから。
「弘法筆を選ばず」は、SD体制が始まるよりもずっと昔の日本のことわざなんだって。弘法は偉いお坊さんのことで、死んじゃった後も弘法大師って呼ばれて大勢の信者さんがいたくらい。
そのお坊さんは字がとても上手で、三筆っていう字の上手い三人に数えられたほど。綺麗な字を書くには立派な筆が要るんじゃないか、って思っちゃうけど、そうじゃない。弘法大師ほどの人になったら、どんな筆でも上手に書いちゃう、立派な文字をスラスラと書く。
それが「弘法筆を選ばず」、名人は道具を選ばない。文字を書く人も、彫刻なんかをする人も。名人は何でも使いこなせる、安物の筆でも、くたびれちゃった筆でも。
名人だったら、同じ道具でも立派な文字やら、工芸品やらを仕上げるから。それでこその名人、本当に優れた腕を持つ人は、何を渡されても人並み以上の技を発揮するものだから。
自分の字とかが下手くそなことを、道具のせいにしちゃ駄目だ、って。もっと練習したら見事な字が書けるんだし、練習不足なだけなんだから、って。
クラスのみんなは目を輝かせて聞いていたけれど。
今日も楽しい話を聞けたと、勉強になったとノートに書く子もいたけれど。ぼくはノートに書くよりも前に、他の方に頭が行っちゃった。肝心要の弘法大師の方じゃなくって、筆の方。
(…ハーレイ、羽根ペン、使えてるかな?)
夏休みの終わりが其処に見えてた、まだ暑かった八月の二十八日。その日がハーレイの誕生日。
前のハーレイが愛用していた羽根ペン、今のハーレイは持っていなかったから。前のハーレイの記憶が戻って「欲しい気もする」とは言っていたけど、買うとは言っていなかったから。
誕生日に羽根ペンを贈ろうと思った、前のハーレイのと似た羽根ペンを。航宙日誌を書いていたような、白い羽根ペンをプレゼントしようと。
だけどお小遣いの一ヶ月分では無理だった羽根ペン、子供のぼくには高すぎた。それでも諦めることは出来なくて、悩んでいたら助け舟。ハーレイと二人で買うことになった、白い羽根ペンを。ぼくとハーレイ、二人のお金で。
(殆どハーレイが出したんだけど…)
それでも羽根ペンは無事に贈れた、ハーレイは白い羽根ペンを持っているんだけれど。
気になってしまった、ほんのちょっぴり。「弘法筆を選ばず」と聞いて。
ハーレイはあの羽根ペンでスラスラと書いているんだろうか?
羽根ペンの箱には色々なペン先が入っていたけど、どれを使っても楽々と書くのか、これ以外は駄目だというのがあるのか。
筆ならぬペン先を選んでいるのか、選ばないのか、気になってしまう。ハーレイの場合はどっちだろうかと、名人は選ばないんだけれど、と。
ハーレイの授業はまだ続いたから、その内に忘れてしまった、ぼく。授業の中身の方が大切。
学校を出る時もすっかり忘れていたんだけれども、家に帰って、庭に入ったら思い出した。前にこの庭で拾ったっけ、って。
ぼくの羽根ペン、鳩の羽根。見付けて拾った大きめの羽根、それを大切に持っていた。羽根ペン気取りで、ハーレイとお揃いになった気分で。
文字を書こうと頑張っていたら、折れちゃったけれど。力を入れすぎて折れてしまって、それでおしまい。泣く泣く屑籠に捨てるしかなくて、あれっきり手に入らないけれど。
羽根ペンだっけ、って考えた途端、頭に浮かんだハーレイの雑談。それから羽根ペン。
(ハーレイの羽根ペン…)
使えてるかどうか、やっぱり気になる。それまでのペンと全く同じに使えているのか、ペン先を選んでいるのかどうかも。
ダイニングでおやつを食べる間も、部屋に帰っても、ぼくの頭から消えない羽根ペン。白い羽根ペン、ハーレイと二人で買った誕生日プレゼント。
あの羽根ペンはどうなったのかな、と勉強机に頬杖をついて考えていたら、チャイムの音。
仕事帰りのハーレイが寄ってくれたから。ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせで話せる時間が出来たから。早速訊こうと口を開いた、羽根ペンのこと。
「あのね…。ハーレイ、筆を選ぶ?」
「はあ?」
なんのことだ、と怪訝そうな顔になったハーレイ。きっと雑談のことは忘れているから。
「今日の雑談だよ、ぼくのクラスの。…弘法筆を選ばず、って話してたでしょ?」
名人は道具を選ばない、って。筆でも、何でも。
「ああ、あれな。…あれがどうかしたか?」
「ハーレイはどうなのかな、と思ったから…。ハーレイの羽根ペン、どんな感じ?」
いろんなペン先がセットだったけど、どれでもスラスラ書けちゃうの?
それとも筆を選ぶみたいに、これでしか上手く書けないっていうのがあったりする?
「…そう来たか…。あの雑談で俺の羽根ペンを思い出したか、参ったな」
藪蛇だとは言わないが…。
「弘法筆を選ばず」と自分で喋ったからには、言い訳みたいになっちまうんだが…。
あの羽根ペンなあ…。
少し違うんだ、ってハーレイは困ったような笑顔になった。
ちゃんと書けるけど、何処か違うって。
「…どういう意味?」
何が違うの、ハーレイがそれまで使ってたペンと違う気がするの?
「いや、そうじゃなくて…。それまでのペンとは違っていたって当たり前だろ?」
なにしろ羽根ペンだ、ペンの軸が羽根で出来ている分、重さからして違うしな。頼りないくらい軽い気がしたし、使い勝手がまるで違った。それにインクもペンの中から出ては来ないし…。
慣れるまでに多少時間はかかるさ、それだけ違ったペンとなればな。
しかしだ、前の俺は羽根ペンを使ってたんだし、じきに慣れると思ってた。こいつが俺の愛用品だと、これで書くのが一番だと。
実際、今じゃ気に入っているし、あれで書くのが好きなんだが…。
どうも何処かが違うんだ。前の俺のと、前の俺が使っていた羽根ペンの書き心地と。
あれこれ試してみたんだが…、ってフウと溜息をついたハーレイ。
羽根ペンの箱にセットされてたペン先を色々と取り替えてみては、次々に試したらしいけど。
きっとどれかが手に馴染む筈だと書いてみたけれど、前のハーレイの羽根ペンとは違うって気がして、違和感が消えてくれないんだって。どれで書いても、いくら書いても。
「弘法筆を選ばず、って…。ハーレイ、自分で言ったんだよ?」
前のハーレイ、羽根ペンで書くのが得意だったと思うんだけど…。今は駄目なの、あれは違うと言うんだったら、ハーレイ、筆を選んでいるよね?
「だから、書けるとは言ってるだろうが」
字が書けないとは言っていないぞ、下手な字になるとも言ってない。
最初の間は慣れてないから、力加減が上手くいかなくて歪んじまった字だってあるが…。それは誰でも経験するだろ、よほどの名人ならばともかく。
俺はあの羽根ペンが悪いと言いはしないし、そのせいで字が下手になったと文句も言わん。俺の字は今も昔も同じで、羽根ペンで書こうが、それまでのペンを使って書こうが、変わらないぞ。
もう羽根ペンには慣れているから、字は書ける、って。
どのペン先をセットしたって、文字の太さや硬さが変わる程度で、ハーレイが書きたいと思った通りの字がスラスラと書けるらしいんだけど…。
「しかし何処かが違うんだよなあ…。前の俺のペンと」
あの羽根ペンとは違っているんだ、どのペン先をつけてみたって。
前のと全く同じにはならん、俺のじゃないって気がするんだよなあ…。前の俺と羽根ペンの長い付き合い、今の俺と今の羽根ペンとの付き合いとは比較にならないからな。
「書き心地が違うって言っていたよね、ペンそのものじゃなくってペン先だよね?」
字を書く時の感じだったら、ペン先が違うっていう意味だよね…?
前のハーレイが使ってた羽根ペンと今の羽根ペン、ペン先が違っているってこと…?
「どうやら、そういうことらしいな」
選んじゃいかんとは思うんだがなあ、「弘法筆を選ばず」だしな。
前の俺が使っていたペン先がいい、なんていうのは俺の我儘ってヤツなわけだし…。
だが…、とハーレイが教えてくれた話。ペン先についての、お得意の雑学。
前のぼくたちが生きてた時代も、今の時代も、ペン先はとても丈夫に出来ているけれど。ペンと一緒について来たものは、簡単に駄目にはならないけれど。
ずうっと昔は、ペン先といえば消耗品。すぐに潰れて買い替えるもの。ペンをよく使う人なんかだと纏め買いをしていたくらいに、ペン先の寿命は短かったみたい。
そういう時代に、自分好みの線が書けるよう、ペン先を工夫していた人たちがいた。ペンで絵を描く漫画家さんたち。同じペンでも、描きたい絵柄は人それぞれだし、その絵に似合ったペン先で描こうと、使い始める前にひと工夫。どうやっていたかは、人によって違う。
それに、ペン先についてる切れ込みの長さ。ほんのちょっぴり、人間の目では分からないほどの僅かな長さの違いで、書ける線が変わってしまったりもした。
字を書く人たちは全く気付かなかったらしいけど、絵を描く人たちは気が付いた。前と違うと、このペン先では前のような絵が描けないと。
それくらいに凄い、人間の手が持っている感覚。僅かな違いも見抜いてしまった、ペン先の方が違うのだと。自分の技術は前と全く変わらないのに、ペン先のせいで腕前を発揮出来ないと。
そういう話を聞いてしまったら、ハーレイのペン先が違うというのも分かる気がする。
「弘法筆を選ばず」だけれど、やっぱり筆も大切だよね、って。ハーレイの場合は筆と違って、ペン先ってことになるんだけれど。
そうしたら…。
「俺は選んでもいいと思うんだよなあ…。筆ってヤツを」
実際、選んでいたんだしな。弘法筆を選ばず、なんて言われているのに。
「え?」
誰が選んでたの、何の名人?
ハーレイが言ってた、ずっと昔の凄く有名な漫画家さんとか…?
「漫画家どころか、本家本元だ」
弘法大師だ、「弘法筆を選ばず」の弘法大師が筆を選んでいたって言うなあ…。
あの雑談にはオマケがあった。ハーレイが授業で話していなかっただけで。
実は本物の弘法大師は選ばないどころか、選んでた。筆というものを。
授業で聞いた、三筆って人。弘法大師が生きた時代の、字が上手だった三人の人。弘法大師と、嵯峨天皇と、橘逸勢っていう人たち。
その中の一人、嵯峨天皇に弘法大師が四本の筆を贈ったけれど。その時の言葉は、こうだった。この四本の筆を書体に合わせて使い分けて下さい、と。
書きたい文字に合わせて筆を変えろとアドバイス。ちゃんと記録に残ってる。
つまり、弘法大師も本当の所は筆を選んでいたってこと。「弘法筆を選ばず」どころか、反対に筆を選んでた。字の名人にだってアドバイスしてた、「筆を選んで下さいね」って。
「…じゃあ、あのことわざはどうなっちゃうの?」
弘法大師が筆を選んでいたなら、「弘法筆を選ばず」は間違いってことになるんだけれど…。
「史実とは違うってことになるなあ、記録にあるのは逆のことだからな」
しかし、ことわざは立派に出来ちまったんだし、後の時代の人たちはそっちの意味で使ったわけだし、頭から駄目だと言うことも出来ん。
これはなんとも難しいなあ、間違っています、と訂正しようにも「弘法筆を選ばず」と書かれた文章ってヤツは膨大な量があるからな。そいつを端から直していったら凄い手間だし、文章だって書いた人の持ち味が無くなっちまうし…。
放っておくしかないんだろうなあ、「弘法筆を選ばず」はな。
弘法大師がやっていたのとは逆のことわざが出来ちゃったらしい、「筆を選ばず」。一人歩きをしちゃった言葉。弘法大師は選んでいたのに、「弘法筆を選ばず」って。
弘法大師でも筆を選んでいたなら、ハーレイも筆を選んで良さそうだけど。筆じゃなくってペン先だけれど、ハーレイの手にしっくりと馴染むペン先を選べそうだけど…。
「ハーレイ、あの羽根ペンにセットしてあったペン先が違うと言うんだったら…」
前のハーレイのペン先は無いの、前のハーレイが使っていたヤツ。
「…前の俺?」
あれか、キャプテン・ハーレイが使っていたペン先のことか?
「うん。あれの復刻版とかは?」
それを買ったらピッタリじゃないの、同じペン先なんだから。復刻版なら、きっと同じに作ってあると思うよ、それこそ切れ込みの長さまで。うんとこだわって、本物そっくり。
ちょっと高いかもしれないけれども、買ってみる価値はあると思うな。
「おいおい、そんなのがあると思うのか?」
キャプテン・ハーレイ愛用のペン先なんかが、売られていると思っているのか?
あるとしたらだ、少々値段が高くなろうが、羽根ペンとセットで売りそうだがな…?
羽根ペンの売り場でそいつを見たか、って訊かれたら…。
ハーレイに羽根ペンを贈ろうと思って出掛けた時には見ていない。もしもあったなら、そっちにしたくてショーケースの中を見詰めていたに違いないから。
ぼくの予算より遥かに高くて手が出なくっても、「これがハーレイの羽根ペンなんだ」って。
「…そういえば、売り場では見なかったけど…」
キャプテン・ハーレイと言えば羽根ペンなんだ、って凄く有名な話だよ?
航宙日誌は羽根ペンで書かれていたって話も有名なんだし、ハーレイの羽根ペン、復刻版とかがありそうだけど…。売り場に並べるほどじゃなくても、取り寄せとかで。
「生憎とそいつは存在しないな、俺はとっくに調べたってな」
羽根ペンが欲しい気分になってきた時に、そいつを一番に探したんだ。
どうせ買うならキャプテン・ハーレイの羽根ペンがいいだろ、高くついても前の俺のをそっくり再現してあるヤツが。しかし何処にも無かったってな、キャプテン・ハーレイの羽根ペンはな。
「…なんで無いわけ?」
シャングリラの食器の復刻版とかは売られてるんだよ、ソルジャー専用のヤツ以外のも。食堂で普段に使っていたのも、ちゃんと復刻版が売られているのに…。
「分かっているのか、俺の羽根ペンだぞ?」
正確に言えば前の俺だが、俺が使っていた羽根ペンなんだぞ、そこを冷静に考えてみろよ?
ソルジャー・ブルーやジョミーたちとは全く違うぞ、人気の高さというヤツがな。
何処にニーズがあると言うんだ、って苦笑された。
ただでもレトロな文具の羽根ペン、そういったものが好きな人しか買わないアイテム。その上、キャプテン・ハーレイの羽根ペンの復刻版だと、ハードルが二重に高いって。
「俺ですら、羽根ペンを買うかどうかで躊躇ったんだぞ」
キャプテン・ハーレイの生まれ変わりで同じ記憶を持っていてさえ、暫く悩んでいたってな。
高いし、買っても使いこなせる自信が無かったし…。
お前がプレゼントしたいと言ってくれなきゃ、未だに買わずにいたかもしれん。売り場を何度も覗きに行っては、もう少し考えてからにするかと回れ右してな。
「そうだったっけね…」
ハーレイでも買うまでに時間がかかったんだものね、普通の人だともっと悩むかも…。
キャプテン・ハーレイを好きな人がいても、羽根ペンは安くはないんだし…。
せっかく買っても持ち歩けるタイプのペンとは違うし、やっぱりハードル高そうかなあ…。
復刻版は出ていないらしい、キャプテン・ハーレイの白い羽根ペン。
実際、キャプテン・ハーレイ愛用の羽根ペンが飛ぶように売れるとは思えない。シャングリラの食堂の食器だったら実用的だけど、羽根ペンの方はそうじゃないから。
それに食器はシャングリラに乗った気分になれるし、あの船に乗ってた誰が好きでも、その人と一緒に食事な気分。ソルジャー専用の食器はあっても、ソルジャーが食堂の食器を使わなかったということはないし、前のぼくもジョミーも使ってた。トォニィだって、きっと。
だけど、キャプテン・ハーレイの羽根ペンは違う。それを買ってもキャプテン・ハーレイにしか思いを馳せられはしなくて、しかも部屋に居る時のハーレイ限定、ブリッジじゃない。ハーレイはブリッジに羽根ペンを持っては行かなかったから。
キャプテン・ハーレイのファンが買うにも、羽根ペンはちょっぴり厳しそう。羽根ペンよりかはシャングリラの舵輪をあしらったレターセットだとか、そういう物が喜ばれそう。
でも…。
「ハーレイの羽根ペン、データは残っていないのかな?」
どんなペン先がついていたとか、そのペン先は何処で作ったものだったとか…。
「そいつは分からん」
俺もそこまでは調べていないし、どうなんだか…。前の俺の羽根ペン、歴史的な価値があるとも思えん代物だしなあ…。
「価値はどうだか知らないけれど…。トォニィは前のぼくたちの部屋を残していたよ?」
ハーレイとお揃いで持ってるシャングリラの写真集にも、前のハーレイの部屋が載ってるし…。あの部屋の机に羽根ペンがちゃんと置いてあるから、羽根ペンは最後まであったんだよ。
トォニィがシャングリラの解体を決めるまで、羽根ペンは残っていた筈だから…。キャプテンの部屋に置かれていたんだろうから、データ、あるかもしれないね。ペン先の分も。
「そうだな、シャングリラの資料を端から引っくり返せばな」
誰かが記録していたかもしれん、すっかり平和になった時代に。シャングリラの全てを記録しておこうと、あんなペン先に至るまでな。
「…データがあるなら、復刻版を作ってくれればいいのに…」
「そいつは些か難しそうだな、今に至るまで一度も作られていないんだからな」
さっきも言ったろ、キャプテン・ハーレイの羽根ペンはハードルが二重に高いと。
商品を作るからには売れないと駄目だし、あまり売れそうにない羽根ペンではなあ…。
それにペン先は自分で工夫していたものだし、と言うハーレイ。
ずっと昔のことだけれども。
なのに全く工夫もしないで、自分に合ったペン先が欲しいと考える方が我儘だろう、って。
ハーレイに聞いた替えのペン先を纏め買いしていた時代もそうだし、その前の時代は…。
「羽根ペンって、鳥の羽根のままだったの?」
ペン先がくっついていたわけじゃなくって、羽根のままなの…?
「うむ。羽根の先を切って使っていたんだ」
そいつをインクに浸してやればだ、ストローと同じで羽根の空洞がインクを吸うし…。
中にインクが入っている間はスラスラと書ける仕組みだな。そう沢山は入ってくれないが。
羽根ペンの仕組み、ぼくの推理は当たってた。
庭で拾った鳩の羽根で気取ったぼくの羽根ペン、あれを使っていた頃の推理。
羽根ペンの始まりは鳥の羽根をそのまま使うんだろうと、先っぽを切って書いたんだろうと。
そう思ったから、鳩の羽根でも充分に羽根ペン、ぼく専用だと大事にしてた。先っぽを切ったら失敗した時にもったいないから、切らずに書いていたけれど。尖った羽根の先でせっせと。
それでもポキリと折れてしまって、もう羽根ペンは無いんだけれど。
本物の羽根ペンは、あの頃にぼくが考えた通り、羽根の先を切って書くものだった。切った先を丈夫にするために軽く焼いたりもした。
そういう時代が過ぎた後には、ペン先の時代がやって来た。今みたいに丈夫なペン先と違って、纏め買いしてた消耗品。ペンを使って絵を描く人たちがペン先に工夫をしていた時代。
羽根の先を切って書いてた時代も、消耗品だったペン先の時代も、使いやすいよう、人は色々と工夫を重ねて来たんだから。
羽根の切り口を軽く焼いたり、自分の好みの線が描けるようペン先を工夫してみたり…。
そんな時代が幾つも幾つも重なった後に、今のハーレイのペン先がある。前のハーレイが使ったペンとは違ったペン先、書き心地が違うらしいペン先。
「俺が思うに、今の俺のペン先も、時代に合ったヤツなんだろう」
時代に合わせて進化して来て、今の時代ならこれがピッタリのペン先ですよ、ということだな。
俺には違和感のあるペン先でも、他の人たちは何も思わん。
むしろ書きやすいと思うんじゃないか、このペン先は素晴らしいとな。
「そうなの?」
ハーレイにはピンと来ないヤツでも、他の人が使えば素敵なの?
どれも書き心地のいいヤツばかりで、もっと他のがいいなんてことは思いもしなくて。
「多分な」
そうでなければ、あのペン先がセットになってはいないだろう。
羽根ペンのセットを売り出す前には色々とデータを集めた筈だぞ、どんなペン先がいいのかを。
沢山の人にアンケートをしたり、実際に書いて試して貰ったり…。
そうやって発売された自信作なわけだな、あの羽根ペンとセットのペン先たちは。誰が書いても手に馴染むヤツで、書き心地も多分、最高だろうな。
俺の手が時代遅れなんだ、って笑ったハーレイ。
キャプテン・ハーレイの時代からもペン先は進化を重ねて、今の時代はあのペン先だ、って。
書き心地もきっと今風なんだ、って、最先端だ、っておどけるけれど。キャプテン・ハーレイも驚く最新の羽根ペンなんだ、って笑っているけど、ハーレイは少し寂しそうで。
時代遅れだと笑う瞳の奥にちょっぴり、昔を懐かしむ光があって。
それがハーレイの本心なんだ、って分かるから。
本当は前のハーレイと同じペンが欲しくて、それで書きたいんだと思うから…。
「ハーレイの羽根ペンの復刻版、出して貰えないかな?」
何処かの会社が作らないかな、キャプテン・ハーレイの白い羽根ペン。
「ニーズが無いって言ってるだろうが、この俺が」
キャプテン・ハーレイだった俺が言うんだ、ニーズが無いと。発売したって、まず売れないな。
だがなあ…。
出しちまった、ってハーレイが浮かべた苦笑い。
何の話かと思ったんだけど、羽根ペンの会社にお願いの手紙。今のハーレイの羽根ペンを作った会社に手紙を書いて出したんだって。
「キャプテン・ハーレイのペン先の復刻版を出して貰えませんか」って。
同じ羽根ペン愛好家として、あの時代と同じペン先で書いてみたいと、それが夢です、と書いた手紙を郵便ポストに入れたと言うから。
発売されたら必ず買います、と羽根ペンで書いて出したと言うから。
「…出るかな、それ?」
ちゃんと発売して貰えるかな、キャプテン・ハーレイのと同じペン先。
データがあったら作れそうだし、ペン先だけなら羽根ペンほど高くはならないし…。羽根ペンが好きな人だって興味を持ちそう、どんな書き心地のペン先だろう、って。
「俺としては出て欲しいんだがな」
いろんなペン先を付け替えて使えるのが羽根ペンの良さだ、それこそ使い分けるんだな。書体に合わせるとか、自分の好みだとか…。「弘法筆を選ばず」の逆で、弘法大師のアドバイス通り。
そういう使い方を楽しんでるのが羽根ペン愛好家というヤツだからな、キャプテン・ハーレイのペン先の復刻版でも飛び付きそうではあるんだ、うん。
キャプテン・ハーレイのファンでなくても、SD体制の時代のペン先ってヤツを試したいとな。
「そっか…。それなら、ぼくも手紙、出すよ」
羽根ペンの会社の住所を教えて、ぼくも欲しいって手紙を書くから。
一人だけから手紙が来るより、二人目から来たら、会社の方でも売れそうだって考えそうだし。
「…チビの字でか?」
どう考えても、自分で羽根ペンを買えそうな大人の字じゃないんだが…。
説得力があると思うか、今のお前が書いた手紙に?
「うー…」
そうかも…。今のぼくが書いても「子供からか」って笑われちゃうかも、それでおしまいかも。
ちゃんと読んでは貰えなくって、商品開発の参考データにはならないかも…。
「弘法筆を選ばず」だけど。
名人だったら、どんな筆でも、どんなペンでも綺麗で立派な字を書くんだけど。
チビのぼくの字じゃ、何処から見たって子供の字。弘法大師のアドバイス通りに大人用のペンを使って書いても、羽根ペンを買えるお客様の字にはならないから。
パパの部屋からペンを持ち出しても、どう頑張っても、大人の字なんか書けないから。
「…今は無理だけど、大きくなったら何通も出すよ」
ちゃんと大きく育ったら。前のぼくと同じに大きくなったら、ぼくの字、大人の字になるから。
そしたら羽根ペンの会社に手紙を何通も書くよ、キャプテン・ハーレイのペン先と同じペン先を作って貰えませんか、って。
「お前も書いてくれるのか?」
羽根ペン、お前は使わないのに…。前のお前も使ってないのに。
「ハーレイのペン先、あると嬉しいでしょ?」
前のハーレイのと同じ書き心地のペン先、それがあったら。
最先端のペン先もいいかもしれないけれども、無理に慣れるより、時代遅れでも昔のペン先。
「まあな」
あのペン先にもう一度会えたら、俺は感動するだろうなあ…。
お前にまで手紙を出して貰って、復刻版がちゃんと発売されたら。俺の記憶に残った通りの書き心地のペン先、あれが帰って来てくれたらな。
お前が大きく育つよりも前に実現するかもしれないけどな、って言ってるハーレイ。
ペン先だけなら手間も開発費もそれほどじゃないし、って。
だけどニーズが無さそうなのがキャプテン・ハーレイの羽根ペンだから。
キャプテン・ハーレイのペン先だって、どう転ぶかは分からない。
ぼくが大きく育った頃にも出ていなかったら、まだハーレイが悲しそうだったら手紙を出そう。
ハーレイの羽根ペンを作った会社に、大人の字で。
「キャプテン・ハーレイのペン先の復刻版をお願いします」って。
ぼくは羽根ペンは使わないけど、ハーレイの羽根ペンを借りて、頑張って書いて。
「弘法筆を選ばず」だけど。
ハーレイにはやっぱり、あのペン先で書いて欲しいから。
これが馴染むと、俺のペンだと、あの頃のままの書き心地を楽しんで欲しいから。
ハーレイの羽根ペン、白い羽根ペン。
前のハーレイが使っていたのと同じに、ペン先までがそっくり同じでいて欲しいから。
だって、ハーレイの大好きなペン。
ハーレイには白い羽根ペンが似合うし、そう思って贈ったんだから。
いつか出て欲しい、復刻版。
キャプテン・ハーレイと同じペン先、それが出るまで、お願いの手紙を書き続けなくちゃ。
何度も、何度も、ハーレイのために手紙を書こう。
大好きなハーレイの嬉しそうな顔を見たいから。
幸せそうに羽根ペンを使う姿を、ハーレイの隣で見ていたいから…。
選びたいペン先・了
※今のハーレイがブルーに貰った、白い羽根ペン。見た目は、前のハーレイのと全く同じ。
けれど書き心地が違うらしいのです。前のハーレイのペンの復刻版、出て欲しいですよね。
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