シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(今日は、出汁巻きにしてみるかな)
美味いからな、とハーレイが作り始めた出汁巻き卵。ブルーの家には寄れなかった日に、一人で食べる夕食のために。他にも料理は作るけれども、何故か食べたくなった出汁巻き。
(ふわりとしているトコがいいんだ)
出汁をたっぷり含んでいるから、卵焼きより柔らかい食感。厚みがあっても、卵焼きほど重くはならない口当たり。ただ、出汁で卵を緩めるのだから…。
(巻き方がちょいと難しいってな)
薄く焼いて幾重にも巻いていくのは難しい。出汁を含んだ分、火を通しても破れやすいから。
もっとも、出汁巻きを何度となく作った、自分にとっては容易いこと。破れないようにクルクル巻いてゆくのも、火を通してゆく加減の方も。
隣町に住む母の直伝、子供の頃から教わったから。他の色々な料理と一緒に。
(上手く焼けると嬉しかったんだ…)
まだ下手だった子供の頃は。今日は一度も破れずに焼けたとか、綺麗な形に巻けたとか。
ふわふわの出汁巻きを同じ厚みの層を重ねて焼き上げるには、やっぱりコツが要るものだから。
今の自分は、鼻歌交じりにヒョイヒョイと巻いてゆけるけど。
卵焼き専用の卵焼き器を熱して、フライパンよろしく気軽に作ってゆけるのだけれど。
いい感じだな、と出汁で溶いた卵を流し入れては、薄い層を焼き上げて巻いてゆく内に…。
おや、と頭を掠めたこと。出汁巻きだな、と。
残りの卵は丁度一回分、これを流したら出来上がり。薄く焼いて巻いて、ポンと皿に移して。
(…出汁巻きか…)
此処の料理だな、と眺めたそれ。ホカホカと湯気を立てているそれは、日本の料理。遠く遥かな昔の島国、其処で生まれた料理が出汁巻き。卵焼きだって。
今の自分が暮らす地域は、日本の文化を復活させて楽しんでいる。和食と呼ばれた食文化も。
生まれた時から馴染んでいたから、すっかり慣れていたけれど。出汁巻き卵も、卵焼きの方も、ごく平凡な料理だけれど…。
(シャングリラには無かった料理なんだ…)
今の今まで気付かなかった、と改めて見詰めた出汁巻き卵。他の料理は出来上がっているから、これを食べやすい大きさに切れば夕食という運び。
(ただの出汁巻きに過ぎないんだが…)
今夜の主役はこいつらしい、と皿を選び直すことにした。焼き上がりを載せたシンプルな皿は、食卓の主役に似合わないから。
もっと素敵な皿に載せよう、切り分けて綺麗に盛り付けて。
(和食の店で出て来る時には、うんと偉そうな顔だしな?)
立派な皿にチョンと二切れほど載っているんだ、と極上の出汁巻きを思い出す。そういう具合に盛ってやろうと、いい取り皿も出してやらねばと。
夕食のテーブルの真ん中に出汁巻き。出汁をたっぷり含んだ卵の淡い黄色が映える皿に載せて。
主役はこいつだ、と決めた以上は、こうしてやるのが相応しい。他の料理は全部脇役、出汁巻き卵の引き立て役。いい焼き色がついた魚も、美味しく出来た野菜の煮物も。
(気付いちまった以上は、ちゃんと敬意を払わんと…)
出汁巻きといえども、今の時代の代表の一つ。前の自分は知らない料理、と取り皿に一つ載せて眺めてみた。それから齧って、断面をしっかり観察してみて…。
(こう、何層も巻いてあってだな…)
だが材料は卵なんだ、と頬張った。たっぷりの出汁で溶いた卵がメインで、調味料が少し。
それだけの料理に過ぎないけれども、前の自分は作っていない。ただの一度も。
シャングリラのキャプテンに就任する前、厨房で料理をしていた時代。あそこで卵が手に入った時は、色々な料理を作ったけれど。
(卵焼きはなあ…)
思い付きさえしなかった。卵をクルクル巻いて重ねてゆく料理。
出汁巻きの方は、出汁の文化が無かった時代だったし、仕方ないとも言えるけれども、卵焼きの方なら作れた筈。醤油は無くても、さほど重要ではない筈だから。…シャングリラならば。
(調味料が無いってことは何度も…)
あの船の初期なら、何度でもあった。此処はバターで、と思ってもバターが無かったことなど、さして珍しくもなかった船。
砂糖の残りが少ないから、と使わなかったり、塩さえも控えて作っていたり。
皆も文句は言わなかったし、醤油が入らない卵焼きでも、多分、充分だったろう。今日の料理はコレだ、と作って出しておいたら。
そういったことを考えながら、口に運んだ出汁巻き卵。取り皿に取った二切れ目。
(美味いんだがなあ…)
出汁巻きは特に、と納得の味の柔らかく出来た卵焼き。出汁でふんわりしている食感、幾重にも巻かれた薄く薄く焼けている卵。
これをシャングリラで作っていたなら…。
(人気メニューになっていたのか?)
出汁という文化が消されていたから出汁巻きは無理でも、卵焼きなら作れただろう。今の時代と違う味でも、醤油は入っていなくても。
(四角く焼くのも無理だとしても…)
専用の卵焼き器が無いから、こんな風には焼けそうにない。これがそうだ、という卵焼きは。
フライパンを使って焼いてゆくなら、四角い卵焼きにはならない。クレープもどきか、オムレツもどきといった風情になるだろうけれど…。
(卵焼きなら、バリエーション豊かで…)
そのまま作っても美味しいものだし、色々な物を入れて巻くことも出来る。今なら海苔だとか、明太子だとか、和食の食材が多いけれども…。
(ホウレンソウだって、入れられるしな?)
卵焼きの層を重ねてゆく時、間に入れればホウレンソウ入りの卵焼き。
それとは違って、真ん中に何かを入れて焼くのも卵焼きの定番。アナゴを入れた穴子巻きなら、卵焼き専門の店に行ったら、何処でもあるというくらいだから。
きっとシャングリラでも作れたんだ、と出汁巻き卵のお蔭で気付いた。ふうわりとした出汁巻き卵は無理でも、卵焼きの方なら作れたのに、と。
卵を溶いて薄く焼いては、クルクルと巻いて。真ん中に何かを入れてやったり、卵の層を巻いてゆく時に、間に何かを挟んでいったり。
(…思い付かなかった俺が馬鹿だった…)
シャングリラの厨房にいた頃の自分。
あれこれと試作していたけれども、まだまだ工夫が足りなかったな、と痛感させられた卵焼き。食べているのは出汁巻きだけれど、卵焼きも出汁巻きも似たようなもの。どちらも卵料理だから。
これはブルーにも話さなければ、と味わう今日の主役の出汁巻き。
シャングリラには無かった卵料理で、けれど作れた筈のもの。思い付いていれば。
(あいつ、無かったことさえ気付いちゃいないぞ)
俺と同じで、と思い浮かべた恋人の顔。
ブルーの家でも、卵焼きなら何度も食べたことがあるから。出汁巻きだって。
けれど話題にならなかったから、ブルーも全く気付いてはいない。「今の料理だ」と。
(…買って行くとするかな)
出汁巻き卵、と考えた。
手料理を持ってゆくのは駄目だし、近所の店で。
幸い、明日は土曜日だから。午前中からブルーの家へと出掛けてゆくのが習慣だから。
翌朝になっても、忘れずにいた卵焼き。シャングリラには無かった料理。
今日の話題は卵焼きなんだ、と歩いて出掛けたブルーの家。途中で卵の専門店に寄って、評判の出汁巻き卵を買った。「これを一つ」と、ふんわりと焼けた一本を。
それの袋を提げて行ったから、ブルーの部屋へと案内されたら、飛んで来た質問。
「お土産は?」
ハーレイ、何か持って来たでしょ、ママに袋を渡していたよ。
だけど、お菓子はママが作ったケーキだし…。ハーレイのお土産、何処に行ったの?
「まあ、待て。ちゃんとお前用の土産だから」
お母さんたちにどうぞ、と渡したわけじゃないから、その内、出て来る。
「お昼御飯なの?」
今日のお昼に食べられる何か。…お好み焼きとか、たまに買って来てくれるものね。
「ちょっとしたおかずだ、それだけで腹は膨れないぞ」
いくらお前が少ししか食わないチビでもな。
お母さんの料理もついて来るだろうさ、俺が買って来た土産だけでは足りないから。
小さなブルーが「何かな、お土産…」と心待ちにしていた昼御飯。ブルーの母の料理とは別に、皿に盛られた出汁巻き卵。「ハーレイ先生が持って来て下さったのよ」という言葉も添えて。
ブルーの母が扉を閉めて去って行ったら、ブルーは出汁巻き卵を指差して。
「これ、ハーレイのお勧めなの?」
此処のお店のが美味しいだとか、いつも行列が出来てるだとか。
「行列は出来ちゃいないんだが…。人気の店だぞ」
卵の専門店だからなあ、使っている卵が美味いんだ。もうそれだけで美味くなるってな。
「そっか、卵の味でも変わるもんね!」
どんな味かな、とブルーがヒョイと取り皿に一切れ、載せているから。
「俺がわざわざ買って来たのに、気が付かないか…」
やっぱりな。…俺でも気付かなかったんだし。
「気が付かないって…。何に?」
この出汁巻きは何かが違うの、他のお店のとは違った工夫をしてるとか…?
「そうじゃなくてだ、出汁巻きそのものが問題だってな」
当たり前すぎるんだ、出汁巻きは。…出汁巻きだけじゃない、卵焼きもな。
こいつはシャングリラにもあったのか、と尋ねてやったら、目を真ん丸にしたブルー。
「…無かった…」
出汁巻きも無かったし、卵焼きだって。…前のぼく、一度も見たことがないよ。
「ほらな、前のお前は知らないだろうが。俺だって知らん、元は厨房にいたのにな?」
昨日の夜にだ、食いたくなって作っていたら気が付いたんだ。これは無かった、と。
それでこいつを話題作りに買って来た。
家の近所で買えるくらいに、今じゃ当たり前に食ってるのになあ、出汁巻き卵…。卵焼きもだ。
「これって、ぼくたちが住んでる地域にしか無いの?」
前のぼくたちが知らないってことは、あの時代には無かった食べ物の一つだろうけど…。
この地域だけなの、他所には無いの?
「無いだろうなあ、元は日本の料理だからな」
出汁巻きもそうだし、卵焼きもそうだ。どっちも日本生まれの料理だ。
「そうなんだ…」
だったら、シャングリラにはあるわけがないね。日本の文化は消されていたし…。
出汁巻きに使う、お出汁だって何処にも無かったんだし。
「…出汁巻きの方は無理としてもだ、卵焼きがな…」
前の俺がこいつに気付いていれば、と思うんだ。卵を焼いては巻いていく料理。
「気付いていたら、どうなったの?」
「卵焼きそのものも美味い料理だが、あれは色々と使えるだろうが」
卵と一緒に巻いてあるだろ、海苔とか、真ん中にアナゴだとか。
シャングリラには海苔もアナゴも無かったわけだが、他にも巻けそうな物はあるしな。
「ホントだね…」
ホウレンソウとかも入れて巻くんだし、作れそうだよね、卵焼きなら。
「そういうこった。…前の俺がそいつに気付いていればな」
卵を焼いて巻くって料理。…それだけで色々と出来たんだがなあ、卵を使った料理がな。
前の自分が思い付いていたら、バリエーション豊かになっていたろう卵の料理。
きっとシャングリラでも喜ばれた筈で、人気があったと思うけれども。
「ただなあ…。朝飯には向かんな、卵焼きは」
白い鯨になってからでも、朝飯は駄目だ。卵は充分あったんだが。
「なんで?」
どうして駄目なの、朝御飯に卵焼きっていうのは珍しくないよ?
ぼくの家だと朝はパンだけど、御飯を食べてる友達だったら、朝御飯のおかずに卵焼き。
旅行に行っても、泊まったホテルに和食があったら、朝は卵焼きだって出て来るじゃない。
「それはそうだが、今の時代とシャングリラとでは事情が違うぞ」
個人の家とかホテルだったら、卵焼きを作っても全く困りはしないんだが…。大勢いるから。
卵焼きを一つ作ろうとしたら、そいつに卵は幾つ要るんだ?
一個じゃとても作れやしないし、シャングリラの決まりが狂っちまう。
朝飯の卵は一人に一個が基本だろうが、卵焼きを食いたいヤツらでグループを作るのか?
「今日は卵焼きでお願いします」って、焼いて貰って、それを分けるしか手が無いぞ。
立派な卵焼きを食いたかったら、その方法しか有り得ない。
厨房のヤツらの手間は増えるし、朝から食堂でグループ作りもしなきゃならんし…。
向かないだろうが、シャングリラには。朝っぱらから、そんな我儘。
「確かにね…」
ただでも朝には大忙しだし、全員が卵焼きなんだったら、出来たかもだけど…。
そうじゃないなら、難しいよね。卵焼きは手間もかかりそうだから。
前のぼくとハーレイが頼むというのも難しそう、と小さなブルーが竦めた肩。
朝食は二人で食べていたけれど、二人一緒に注文しないと立派な卵焼きは無理、と。
「…ハーレイはオムレツを食べているのに、ぼくだけ卵焼きだとか…」
ちょっと無理だよね、ぼくは卵は一個だったし…。
「そうなるな。俺の方なら、卵二個分だし、なんとか出来るが…」
立派な卵焼きは無理だな、この出汁巻きみたいに大きいのはな。
デカイ卵焼きが食いたかったら、前のお前を巻き込まないと…。今日の俺は卵焼きなんだ、と。
お前が嫌だと言ったら終わりで、俺はデカイのは食えないってな。
今の時代なら、一人で卵を三個なんだが…。そいつで出汁巻き卵なんだが。
現に昨夜も作ったわけだし、やっぱり三個は欲しいよな、卵。
「…卵三個で出汁巻き卵って…。一人暮らしで?」
そんなの作ってしまうわけ?
今のハーレイが食べてる朝のオムレツ、卵は二個だと思うんだけど…。
「気が向きゃ作るさ、美味いんだから」
晩飯にちょいと食いたくなったら、出汁をたっぷりで出汁巻きだ。余れば朝に食ってもいいし。
「余れば、って…。全部食べちゃったの?」
昨日の夜に、卵を三個も使った出汁巻き。…朝御飯に残しておかないで。
「当たり前だろうが、作ったからには食うってな」
そういう気分で作ってるんだし、他に料理を作っていたって、ペロリと食うのが普通だろうが。
「…シャングリラのことを思い出したんなら、持って来てくれれば良かったのに…」
全部食べないで、ぼくに一切れ。…お土産に少し。
「俺の手料理は駄目だと言ってる筈だが?」
お前のお母さんに申し訳ないから、持って来ないと何度も言ったぞ。だから土産に買ったんだ。
美味いだろうが、此処の出汁巻きは。
「うー…」
ハーレイが作ったヤツが食べたいのに…。ホントのホントに食べてみたいのに…!
卵焼きも出汁巻きも、ハーレイが作ったヤツは無理かあ、と残念そうなブルー。同じだったら、そっちの方が食べたかったのに、と。
「いくら美味しいお店のヤツでも、ハーレイが作った話を聞いちゃったら…」
そっちがいいな、と思っちゃうじゃない、ハーレイが作った出汁巻きの方が。
「まあいいじゃないか、これも話題にはなっただろうが」
買ったヤツでも、ちゃんとシャングリラの思い出話が出来たってな。
「…シャングリラには無かったっけ、っていう話だけどね…」
卵焼きも出汁巻きも無かった船だったんだ、って。
それは確かにそうなんだけど…。そういう話も悪くないけど…。
シャングリラの思い出の卵料理の話だったらもっと良かった、と零されても困る。今の時代なら色々な卵料理があるのだけれども、前の自分たちが生きた時代は、卵料理となったなら…。
「おいおい、卵料理はだな…」
今も昔も変わりはしないぞ、前の俺たちが食ってた料理に関しては。
スクランブルエッグにしても、オムレツにしても、今もそのままあるんだから。
「そうだね、目玉焼きもあったし…」
卵がメインの料理だったら、今の時代の方がよっぽど沢山。
「ほらな、考えてみれば分かるだろうが」
あの船ならではの卵料理ってヤツも、特に無かった筈なんだ。卵が充分に無かった時代は、卵がメインの料理なんかを作りはしないし…。
朝は卵だって時代になっても、卵料理は今も定番のヤツばかりでだな…。
…待てよ?
白い鯨になった後には、朝の食堂では卵料理で…。
ちょっと待てよ、と引っ掛かった記憶。朝の食堂と、卵料理と。
前の自分が見ていたもの。白いシャングリラになった時代に、朝の食堂で。
「…何かあったの?」
ハーレイ、何か変わった卵料理を思い出したの、シャングリラの?
「うむ。…目玉焼きだ」
朝に食堂に出掛けて行ったら、そいつを見たんだ。
「目玉焼きって…。普通じゃない」
前のぼくだって、何度も食べたよ。青の間のキッチンで作って貰って。
「そいつは普通の目玉焼きだろ、フライパンで卵を焼くだけの」
俺が見たのは、それじゃない。ひと捻りした目玉焼きだった。
「どんな目玉焼き?」
焼き方は色々あった筈だよ、目玉焼きだって。ベーコンエッグも目玉焼きだし。
「それが全く違うんだ。目玉焼きには違いないんだが…」
パンのド真ん中に目玉焼きだぞ、トーストの真ん中に入ってた。
「えっ…?」
それって、乗っけてあるんじゃなくって、入っているの?
トーストの真ん中に目玉焼きが?
「…その筈なんだが…。目玉焼きはパンの真ん中で…」
後から乗せたってヤツじゃなかった、本当にパンの真ん中にだな…。
まるで穴でも開いているようで、と記憶に残った目玉焼き。トーストの真ん中に卵が一個。
確かに見たんだ、と手繰った記憶。あれを食べていたのは誰だったろうか、と探り続けて…。
「そうだ、ヒルマンだ。…あいつが始めたんだった」
パンの真ん中に目玉焼き。…そういう食べ方をし始めたんだ。
「ヒルマン…?」
どうしてヒルマンが目玉焼きなの、それの変わった食べ方なの?
ヒルマンは厨房にいた時代なんか無かったよ、という指摘通りに、およそ料理とは無縁な人物。
ブルーはキョトンとしているけれども、思い出した前の自分の記憶。ヒルマンだった、と。
「あいつは厨房に行っちゃいないが、本当にヒルマンが始まりなんだ」
白い鯨が完成した後、前のお前が奪って来た鶏を増やしていって。
船で卵が充分に手に入るようになってだな…。
一人に一個は当たり前になって、朝の食堂では卵料理っていう時代が来たろ?
厨房のスタッフは毎朝大忙しで、卵料理の注文も色々。
オムレツがいいとか、スクランブルエッグだとか、目玉焼きだとか、次から次へと。
もっとも、お前は青の間で食事していたが…。
滅多に食堂に出ては来なくて、青の間で食うのが普通だったが。
「うん、ハーレイも来ていたけどね」
ソルジャーに朝の報告ってことで、ぼくと一緒に朝御飯。
厨房の係が運んで来てキッチンで仕上げをするから、前の晩から何を食べるか頼んでおいて。
「あれのお蔭で、お前と恋人同士になった後にも、俺は慌てずに済んだわけだが…」
急いで食堂に行かないと、と起きて走って出掛けなくても、ゆっくり朝飯を食べられたんだが。
その俺がある時、食堂で朝食っていうことになって、だ…。
まだお前とは恋人同士じゃなかった頃だな、俺の部屋から真っ直ぐ出掛けて行ったんだから。
食堂に出掛けて行った理由は、ブルーが寝込んでしまったから。
安静に、とノルディが診断したから、朝食は食堂で食べることになった。皆と一緒に。そういう朝食もいいだろう、と久しぶりの朝の食堂に入って行って…。
(顔見知りのヤツと一緒がいいよな、と思ったし…)
昼食などは、いつもそうだから。ゼルやブラウやヒルマンといった昔馴染みと同じテーブル。
だから朝食もそうしよう、と見回したらヒルマンの姿が見えた。あの席がいい、と注文する前に近付いたテーブル、其処でせっせとパンに穴を開けていたのがヒルマン。
まだ焼き色のついていないトースト用のパン、その真ん中に開けている穴。白い柔らかなパンを指で毟って、真ん丸な穴を。
なんとも奇妙なことをしているから、隣の椅子に腰を下ろしながら訊いてみた。
「何してるんだ?」
パンに穴なんかを開けたりして。…そうやって食べたら美味いのか?
毟ったパンは食ってるんだし、真ん中から食べると美味いだとか。
「ああ、これかね。これはだね…」
こうしておかないと作って貰えないものだから、とヒルマンが浮かべた苦笑い。
朝の食堂はスタッフも大忙しだから、と。
「作るって…。何を作って貰うんだ?」
「目玉焼きだよ、朝の食堂は卵料理だろう?」
それが食べたい気分なんだよ、だからこうして用意するんだ。
「何故、パンの真ん中に穴なんだ?」
目玉焼きなのに、どうしてパンに穴なんかを開ける必要がある?
「これが肝心の所でね…」
まだ焼いていないパンの真ん中、其処に穴を開けておかないと…。
目玉焼きはそれが大切だ。私の食べたい目玉焼きはね。
さて、と…。こんな所で丁度良さそうだ。
頼みに行くから、一緒について来るといい、と立ち上がったヒルマン。
「君も朝食の注文は済んでいないだろう?」と。その通りだから、椅子を引いたままで残して、朝食の注文に出掛けて行った。椅子が引いてあれば、「座る人がいる」という意味になるから。
他の仲間たちも注文している、厨房に繋がるカウンター。
其処でトーストやオムレツなどを頼んでいたら、ヒルマンが皿を差し出した。穴を開けたパンが乗っかった皿を。
「いつものを頼むよ、半熟でね」
「はい!」
半熟ですね、と確認してから、スタッフは厨房に入って行った。暫く経ったら、自分が注文した朝食のトレイと殆ど同時に、戻って来た皿。
「どうぞ」とヒルマンに渡された皿に、真ん中に目玉焼きが入ったパン。其処に開いていた穴を塞ぐようにして目玉焼き。パンの方もこんがり焼けているから…。
「何なんだ、それは?」
さっきのパンがそうなったのか、とテーブルに戻りながら尋ねた。あれがそれか、と。
「そうだよ、だから準備が要ると言っただろう?」
食堂のスタッフは忙しいからね、我儘なことは言えないじゃないか。
ああやって穴を開けておいたら、フライパンで目玉焼きを作るだけのことで済むんだが…。
パンに穴まで開けてくれとは言えないよ。朝は本当に大忙しな時間だからね。
これはエッグインザバスケットという名前の料理で…。
由緒正しい朝食メニューだ、とヒルマンはテーブルで説明してくれた。
毎朝、卵料理が食べられるようになったから、データベースで調べたのだ、と。
遠い昔の地球のイギリス、それにアメリカ。エッグインザバスケットは其処の朝食メニュー。
トースト用のパンの真ん中を刳り貫き、フライパンに乗せて卵を落とす。その穴の中に。
目玉焼きが焼けてくるのと一緒に、パンの方も焼けてゆく仕組み。焼き加減は好みで色々と。
「美味そうに食っていやがったから…」
ひと手間かけるだけの価値はあるとか、半熟が一番美味いとか。
「ハーレイ、話してくれたっけね」
前のぼくの病気がきちんと治って、またハーレイと一緒に朝御飯を食べられるようになったら。
二日ほど後の話だったか、三日ほどかな…?
「俺もハッキリ覚えていないが…。三日ほどじゃないか?」
ヒルマンだけしかやっていないな、と見回してた日が、その日の他にもあったしな。
それにヒルマンがオムレツを食っていた日もあった筈だし…。
面白い食い方があるもんだよな、と思ったからお前に話したんだ。俺が目撃したからにはな。
こういう卵の食べ方を見た、と朝食の席でブルーに教えてやったら、好奇心で輝いていた瞳。
「ヒルマンだけかい?」
その、何だっけ…。エッグなんとかという名前の料理を食べていたのは?
「私が見たのは彼だけですね」
エッグインザバスケット自体は古い料理だそうですが…。
人間が地球しか知らなかった時代に、朝食メニューの定番だったらしいですから。
「ずいぶんと古い料理なんだね、歴史はたっぷりありそうだ」
ぼくも試してみたい気がするよ、そのエッグインザバスケットというのをね。
「此処でも充分、出来ますね…」
朝食の仕上げは奥のキッチンでやっていますし、卵料理も其処ですから…。
目玉焼きも其処で焼くのですから、頼めば作って貰えるでしょう。朝食の時に。
「それじゃ、明日の朝に二人で頼んでみようか」
君と二人で食べてみたいな、せっかくだから。…ぼく一人よりも。
「喜んで御一緒させて頂きますよ」
係が朝食の支度に来たなら、トーストする前にパンを貰って…。卵料理も待って貰って。
パンの真ん中に穴を開けるとしましょう、ヒルマンのように。
「それで、目玉焼きの焼き加減は?」
どうするのが一番いいんだい?
「お好みの焼き加減でよろしいでしょう。ヒルマンからも、そう聞きましたし…」
ヒルマンは半熟を食べていましたが。「これが一番美味しい」と言って。
「じゃあ、半熟で頼んでみよう」
好き嫌いは無いから、どれでもかまわないんだけれど…。
半熟が美味しいと聞いたんだったら、最初はそれを試すべきだよ。
次の日の朝、朝食の係がやって来た時、ブルーと二人でパンの真ん中に開けた穴。
トーストの焼き加減を尋ねる係に「後で」と言って。「卵料理も少し待ってくれ」と。食堂とは違って、青の間では好きに出来たから。朝食係は大忙しではなかったから。
ヒルマンは厨房のスタッフの手間を省こうと、自分でパンに穴を開けたのだけれど。自分好みの卵料理を作って貰うべく、パンを毟っていたのだけれど。
その真似をした前の自分とブルーは逆だった。係を待たせて、せっせとパンの真ん中に穴。
まだ焼けていないパンの真ん中、丸い穴が開いたら、係に頼んだ。
「卵料理は、この穴の中に目玉焼きを」と。「目玉焼きは半熟で作ってくれ」と。
なんとも我儘な注文だけれど、朝食係は見事に応えた。エッグインザバスケットを焼き上げて。
「とっても美味しかったっけ…」
パンの真ん中に目玉焼き。トーストとパンを一緒に食べてるみたいな感じで。
半熟だったから、トロトロの黄身がトーストに絡んで、ソースみたいで。
「あれから、たまに頼んだっけな」
ちょっと待ってくれ、ってパンに穴を開けては、エッグインザバスケットというヤツを。
ヒルマンの気に入りと言うだけはあって、食うだけの価値はあったんだ。
「焼き加減、色々試してみたけど…」
黄身までしっかり焼いて貰ったり、裏も表も焼いて貰ったり。
トーストが焦げてしまわない程度で、ホントに色々やってみたよね。
「どの焼き加減でも美味かったよなあ、半熟だろうが、黄身に完全に火が通ってようが」
美味いっていうのも良かったんだが、パンに穴を開けるというのがいいんだ。
自分で穴を開けるんだからな、朝飯を自分で作っているような気分がしてくるじゃないか。
パンを毟って、真ん中に穴。…たったそれだけのことなんだがな。
前のブルーも気に入ったからと、たまに二人で食べていたエッグインザバスケット。二人きりで食べる青の間での朝食、それの時間に。係を少し待たせておいて。
「ハーレイ、今も食べている?」
朝御飯の時に、エッグインザバスケット、作ってる?
今のハーレイなら、簡単に作れそうだけど…。出汁巻き卵より簡単だろうし。
「いや、それが…。すっかり忘れちまってた」
エッグインザバスケットは多分、今でも作られているんだろうが…。
イギリスやアメリカの文化を復活させて楽しんでいる地域だったら、きっと定番の朝食メニューだろうという気はするんだが…。
生憎と、今の俺たちが住んでる地域じゃ、サッパリ聞かない料理だからな。
目玉焼きはあくまで目玉焼きだし、トーストはトーストとして食うモンだと思い込んでたし…。
「おんなじだよ、ぼくも…」
忘れちゃってた、とっても美味しかったのに…。
パンの真ん中に自分で穴を開けるのも、お料理みたいで好きだったのに。ハーレイと同じ。
前のハーレイが厨房にいた頃は、ぼく、お手伝いをしてたから…。ジャガイモの皮を剥いたり、泣きながらタマネギを刻んでみたり。
…エッグインザバスケット、また食べたいよ。
ママに頼もうかな、お昼御飯に作ってよ、って。パンも卵もある筈だもの。
「やめとけ、お前、これ以上はもう入らないだろうが」
昼飯、すっかり食っちまったんだし、腹一杯になっていないか、お前…?
ただでも食が細いのがブルー。なのに出汁巻きを、一人で三切れは食べていた筈。自分が貰ったお土産なのだし、大喜びで。話の合間に「美味しいね」と顔を綻ばせながら。
とっくにお腹は一杯の筈で、エッグインザバスケットなどは食べられそうもないのだから…。
「お前、自分の胃袋のサイズってヤツを考えろよ?」
腹一杯の所に卵料理は無茶ってモンだ。おまけにトーストまでついてくるんだから。
食えるわけないだろ、今からエッグインザバスケットなんて。
「そうかも…。ちょっと食べられそうにないかも…」
無理そうだから、今度食べようよ。ママに頼んで、ハーレイとぼくと、二人分。
パンの真ん中に穴を開けるんだよ、「此処に卵を入れて、目玉焼きにしてね」って。
ママに頼むんなら、やっぱり半熟。それがいいよね、ヒルマンのお気に入りだったんだもの。
「…俺は手帳には書いてやらんぞ?」
次はそいつだ、と手帳にお前との予定を書くには、今はまだまだ早すぎるってな。
エッグインザバスケットを食おうって話にしたって、お前との予定には違いないんだから。
「…だったら、この話、忘れちゃう?」
ぼくもハーレイも忘れちゃうかな、エッグインザバスケットを食べていたこと…。
「多分な、忘れちまうんだろう」
お前も俺も、綺麗サッパリ。
出汁巻き卵や卵焼きが無かったことも忘れて、今日まで来ちまったみたいにな。
しかし、だ…。
その内にまた思い出すさ、と片目を瞑った。
あれは朝食メニューなんだし、いつか二人で暮らし始めたら、と。
「朝飯を食ってる真っ最中にだ、ポンと思い出すこともあるだろう」
目玉焼きはこうして食うんじゃなくって、パンの真ん中に入れるんだ、とな。
思い出したら、その時は腹一杯で食えなくっても、その辺に書いておけばいい。
次に目玉焼きを食べる時には、エッグインザバスケットを作ること、と。
「そうだよね…!」
二人で一緒に暮らしてるんなら、ハーレイは予定を書いてくれるし…。
ぼくと二人で食べる朝御飯、何にするかの予定もきちんと書いておけるものね。
また食べようね、エッグインザバスケット。…ハーレイと二人で。
「もちろんだ。俺もその日が楽しみだな」
忘れちまっても、いつかは思い出すんだから。…俺かお前か、どっちかがな。
思い出すのはどっちだろうな、と微笑み掛けてやった小さな恋人。十四歳にしかならない恋人。
今はまだ二人で暮らせないけれど、出汁巻き卵が思わぬ記憶を連れて来た。
遠い昔に、青の間で二人、楽しみながら食べたエッグインザバスケット。
あの思い出の朝食メニューを、いつかブルーと二人で食べよう。
朝の光が射し込む幸せなテーブル、其処でパンの真ん中に丸い穴を開けて。
指で毟って穴を開けながら、互いに何度も微笑み交わして。
遠く遥かな時の彼方で、暮らした白いシャングリラ。
あの船でこれを食べていたなと、元はヒルマンがやっていたんだっけなと、思い出しながら。
そうやって食べる、懐かしいエッグインザバスケット。
二人で青い地球に来たから。いつまでも、何処までも、幸せに歩いてゆけるのだから…。
卵の料理・了
※シャングリラには無かった卵焼き。けれどヒルマンが食べていた、昔のイギリスの卵料理。
それを青の間で、ブルーとハーレイも楽しんでいたのです。パンの真ん中に穴を開けて。
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