シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(あれ?)
テントウムシだ、とブルーが見詰めた小さな虫。学校から帰って、おやつの時間。ダイニングのテーブルの上に、チョコンと一匹。赤い背中に、七つの黒い星を乗っけたテントウムシ。
艶々と光る丸っこい姿は可愛らしいけれど、テーブルに住んでいるわけがないから。
(くっついて来ちゃった?)
庭から、母に。そうでなければ、母が生けようと持って入った花に。
ちっちゃいよね、と眺めて、指でチョンとつついて、庭に戻そうかと考えていて…。
ほんの少しだけ目を離したら、テントウムシの姿は無かった。窓越しに庭を見ていた間に。
(いなくなっちゃった?)
消えてしまったテントウムシ。テーブルの上には紅茶のカップやケーキのお皿くらいだけ。順に動かして探したけれども、テントウムシは見付からない。テーブルの下を覗いてみても。
(…消えちゃった…)
ダイニングは広くて、入り込めそうな所が沢山。小さな虫なら。
その上、廊下に繋がる扉。それが細めに開いていた。テントウムシなら通れる程度に。あそこを抜けて、廊下に行ってしまったろうか。
床をチョコチョコ歩くのはやめて、何処かへ飛んで行っただろうか?
テントウムシには翅があるから、広げたら直ぐに飛び立てる。テーブルから上へ、扉をくぐって外の廊下へ、階段を抜けて二階にだって。
けれども、開いていない窓。玄関の扉も閉まったまま。テントウムシは外に出られない。いくら飛んでも、せっせと歩き回っても。
(家の中で迷子…)
庭には戻れず、家の中をぐるぐる回るだけ。此処はいったい何処なのだろうと、住み慣れた庭は何処に消えたのかと。
それはとっても可哀相だから、通り掛かった母に話した。「テントウムシが消えちゃった」と。
「さっき、テーブルの上にいたのに…。出してあげなくちゃ、と思ってたのに…」
直ぐに外へ出してあげれば良かった、見付けた時に。
もし見付けたら出してあげてね、可哀相だから。…お腹だって、きっと減っちゃうし…。
「心配しなくても、大丈夫なんじゃないかしら?」
ちょっと気が早いテントウムシだけど、冬になったら家の中で暮らしていることもあるの。
暖かいから、わざわざ人間の家に入って冬越しするのよ。
丁度良さそうな隙間を探して、潜り込んで。
引き戸の隙間なんかにね、と母は教えてくれた。春になるまで家の中よ、と。
(それなら安心…)
テントウムシが迷子になっても、春になるまで家で冬越し。暖かくなったら其処から出て来て、開いた窓を探すのだろう。風の吹いて来る方向は何処か、ちゃんと見付けて。
開いた窓や扉があったら、後は空へと飛び立つだけ。春になった、と。
行方不明になった時には慌てたけれども、家の中でも大丈夫らしいテントウムシ。良かった、と二階の部屋に帰って、勉強机の前に座って。
昨日の続きの本を読んでいたら、パタッと落ちた丸っこい虫。本の上に赤いテントウムシ。
(くっついてたの!?)
ぼくに、と驚いて目を丸くした。頭の上に乗っかっていたか、服の何処かに入っていたか。肩か背中にいたかもしれない、自分では気付いていなかっただけで。
(潰しちゃわなくて良かったよ…)
椅子に座った時に、お尻や背中で。テントウムシは小さいのだから、チビの自分の体重だって、確実に潰れてしまうから。
危なかった、と思った所へチャイムの音。仕事帰りのハーレイが門扉の脇で手を振っている。
せっかくだから、この珍客を披露しようと思った。窓から庭には、まだ出さないで。ハーレイが来る前に他所へ行かないよう、丁度あった小さな空き箱に入れて。
暫くしたら、母が案内して来たハーレイ。いつものテーブルと椅子で向かい合うなり、その箱を開けて中身を見せた。
「あのね、ハーレイ…。こんなのが、ぼくにくっついて来ちゃった」
テントウムシ。…おやつの時間にダイニングにいたけど、行方不明になっちゃって…。
ついさっき、落ちて来たんだよ。本を読んでたら、机の上に。
ぼくと一緒に来ちゃったみたい。髪の毛か、服にくっついちゃって。
「テントウムシか…。そりゃ運がいいな」
お前、いいことあるんじゃないか。今日か、それとも明日かは知らんが。
「えっ、いいことって?」
運がいいって何のことなの、虫がくっついて来たらいいことがあるの?
「そうだが…。何の虫でもいいわけじゃない」
テントウムシなら、幸運なんだ。幸運を運んでくれる虫だし、それがくっついてくれたらな。
「そうなんだ…!」
知らなかったよ、幸運だなんて。テントウムシって、そういう虫なんだ…。
何かいいことあるといいな、と顔を綻ばせたけれど。
空き箱の中の幸運の使者を、赤い背中を見詰めたけれど…。
(テントウムシ…?)
それに幸運、くっついて来ると幸せを運ぶらしい虫。
知っているような気がして来た。けれど自分が知っているなら、見付けた時に気付いた筈。本の上にポトリと落ちて来た時に、「今日はツイてる」と、幸運が来ることを思い出して。
なのに全く気付かなかったし、だとしたら、これは今の自分の知識ではなくて…。
「…前のぼく、知ってたみたいだよ。テントウムシのこと」
くっついて来たら幸せなんだ、って知っていたように思うんだけれど…。
「お前、色々な本を読んでたからなあ、そのせいじゃないか?」
人間が地球しか知らなかった頃から、テントウムシは幸運の虫なんだから。ずっと昔からな。
「そうなのかも…。本で読んだのかも…」
でも、と心に引っ掛かる記憶。テントウムシと、テントウムシが運ぶ幸運と。
それにシャングリラ、白い鯨までが絡む記憶だという気がするから、尋ねてみた。
「ねえ」と鳶色の瞳を見詰めて。
「…テントウムシ、シャングリラで飼っていたかな?」
白い鯨に改造した後、あの船の中で…?
「おいおい、まさか…。シャングリラの中でテントウムシって…」
害虫を退治してくれるんだから、役に立たない虫ではないが…。
その害虫がいなかった船だぞ、シャングリラは。害虫がいなけりゃ、役に立つも何も…。
飼っている意味が無いわけなんだし、テントウムシなんかはいなかったな。
「だよねえ…?」
虫って言ったら、ミツバチだけの船だったよね?
蝶だって飛んでいなかったんだし、テントウムシがいるわけないよね…。
理屈では分かっているのだけれども、やはり引っ掛かるテントウムシ。
白いシャングリラに、テントウムシはいなかったのに。ハーレイもそう言っているのに。
もしもテントウムシがいたとしたなら…。
「テントウムシ…。前のぼくが、くっつけて帰るなんてことは…」
外に出た時、服にくっつけて帰って来たりはしないよね?
アルテメシアには何度も降りたけれども、虫と一緒に船に帰ってしまうようなことは…。
「無いな、お前はきちんと気を付けてたしな」
余計な虫が紛れ込んだら、生態系ってヤツが乱れるし…。生態系って呼べるほどには、ご立派なモンじゃなかったが…。
それでも木や草や花や、野菜なんかを育ててたわけで、虫一匹でも馬鹿には出来ん。
前のお前は船に戻る前に、サイオンで全部追い払ってだな…。
待て、それだ!
くっついて来たんだ、とハーレイが言うから見開いた瞳。
「…くっついて来たって…。前のぼくに?」
「ああ、救出の下見に出掛けた時に」
テントウムシを連れて来たんだ、くっつけたままで戻ったぞ、お前。
「ええっ!?」
それって、とっても大変じゃない!
害虫じゃなくても、シャングリラに虫を持ち込んだなんて…!
まさか、と息を飲んだけれども。前の自分がミスをする筈が無い、と考えたけれど。
(…テントウムシ…?)
マントの下から、コロンとそれを落とした記憶。テーブルの上に。
本当だった、と思った途端に、鮮やかに蘇ったテントウムシを巡る出来事。ミュウの子供を救出するべく、下見に出掛けたアルテメシアの住宅街。
「思い出したよ、ヤエの時だっけ…!」
ヤエの救出をどうしようか、ってヒルマンたちと相談していた時だよ。
「勘が鋭い子だったからなあ、ヤエって子は」
どのタイミングで救い出すかで、救助班のヤツらも悩んでいたんだ。それで俺たちに話が来た。普段だったら、立てた作戦の計画をチェックするんだが…。
ヤエの時には、「どうしましょうか」と、計画自体を訊いて来やがった。
まだ当分は大丈夫そうだし、急がなくてもいいだろうか、と。それとも急いだ方がいいのか。
どっちなんだ、ってことになったら、経験豊富な年配者たちの出番だってな、そういった時は。
あいつらが悩んでいたのも分かる、とハーレイがついた大きな溜息。
幼かったヤエは、自分で上手くやっていたから。
他の人間には無いらしい力、サイオンを隠して、ごくごく普通の子供のふり。
けれど、いずれはバレるもの。
どんなに上手く隠していたって、成人検査はパス出来ない。
何かのはずみに心理検査を受けさせられても、やっぱりバレてしまうだろう。ミュウなのだと。
ヤエは失敗していなくても、他の子供の派手な喧嘩に巻き込まれたなら、有り得る検査。
感情の激しい子供はミュウの疑いがあるとされているから、検査する。そのついでにヤエも、と連れて行かれたら誤魔化せない。小さな子供の力では、とても。
人類の世界で暮らす以上は、常にリスクが伴うもの。危機がいつ来るかは分からないもの。
長老たちが集まる会議で焦点になったのも、その部分。
ヤエは幸せに暮らしているから、今の幸せを見守るべきか。それとも船に連れて来るべきか。
「お前、早めがいいと思う、と言い出して…」
しかし、ヤエの気持ちも尊重したいし、どうするか考え込んでしまって…。
養父母と一緒に暮らせる幸せ、シャングリラに来たら消えちまうからな。二度と会えなくなってしまうし、家に帰れもしないんだから。
「…それで見に行って来たんだっけね…」
船から思念で見ているだけでは、分からないことも多いから…。
ホントに幸せに過ごしているなら、ギリギリまで待つのがヤエのためだし…。
どんな家だか、見て来よう、って。思念体じゃなくて、身体ごとね。
だって、その方が色々なことが掴めるもの。
そう考えたから、ヤエの家まで出掛けて行った。白いシャングリラから地上に降りて。
気配を隠して庭にいたのに、姿は見えない筈だったのに…。
(ヤエが窓からヒョイと覗いて…)
まだ小さいのに、眼鏡だったヤエ。
その眼鏡を外して、またかけ直して、窓越しにこちらを見詰めて来た。真っ直ぐ、見えない筈の自分を。「あそこにいる」と気付いた顔で。
ヤエの視線は逸れなかったから、「まずい」と慌てて撤収した。
見詰めているヤエは、サイオンの瞳で見ていることに気付かない可能性も高いから。
庭を指差して「誰かいるの」と親に告げたら、ヤエの努力が台無しだから。
(…ミュウを見たこと、無いんだものね…)
姿を消すような力を持つとは、ヤエは知らないし、気付くかどうか。気付けば黙っているだろうけれど、幼いだけに「ホントにいるの」と言い張ることもありそうなこと。
けれど自分が消えてしまったら、「あれも変なもの」と分かる筈。
養父母に「見た」と言いはしないで、心に仕舞っておくだろう。サイオンを隠しているように。
急いで帰ったシャングリラ。空も飛ばずに、瞬間移動で。
ヤエの家から青の間に飛んで、忘れていた虫を追い払うこと。船に入る前にサイオンで、軽く。
そして招集した長老たち。ヤエの救出は急ぐべきだ、と。
「まだ心配は要らんじゃろうが」
利口な子じゃと聞いておるわい、緊急性は無さそうじゃが…?
もう少しばかり、親元に置いてやってもじゃな、とゼルが引っ張った髭。
シャングリラに来た子供たちは皆、引き離された親を恋しがるから。…ユニバーサルに通報した人間が親だった時も、そうとは知らずに。
「でも、ぼくがいるのに気が付いたんだ」
姿を隠して庭にいたから、普通のミュウなら気付かないのに…。
あの子は思った以上に敏いよ、それだけ危険が高いってことだ。サイオンがかなり目覚めてる。何かあったら、直ぐに爆発しかねないほどに。
「気付いたのかい、あんたの姿に。それはマズイかもしれないねえ…」
急ぎで救出させようか、とブラウが言った時、テーブルの上にコロンと落ちたテントウムシ。
マントの下に入っていたのか、胸元から。
赤い背中に黒い星が七つ、丸くて小さなテントウムシ。船にはいない筈の虫。
ヤエの話は途切れてしまって、皆の瞳が釘付けになった。テーブルの上のテントウムシに。
「なんだい、それは?」
ブラウが訊くから、バツが悪くて口ごもりながら。
「…テントウムシ…かな?」
ぼくが持ち込んでしまったみたいだ、ヤエの家から。…庭にいた間にくっついたらしい。
「よほど慌てておったんじゃろう。普段はきちんと見ておるからな」
妙な虫を船に持ち込まないよう、戻る時には。
サイオンで追い払うのを忘れたんじゃな、とゼルも見ているテントウムシ。
「ごめん…。ぼくとしたことが、ウッカリしていた」
直ぐに出すよ、とテントウムシを手に取りかけたら、「急がなくても」とヒルマンの声。それは幸運の虫なのだから、と。
「テントウムシがくっついて来ると、幸運が来ると言うのだよ」
そう言うそうだよ、ずっと昔から。…人間が地球だけで暮らしていた遠い昔からね。
「ええ、聖母マリアのお使いですから、テントウムシは」
幸せを運ぶそうですよ、とエラも頷いたテントウムシ。幸運を連れて来たのでしょう、と。
「それでは、ソルジャーに幸運が?」
来るのでしょうか、とハーレイが興味深そうにテントウムシを眺めたけれど。
「どうなんだかねえ、幸運を貰うのはヤエじゃないのかい?」
今までにこんな事件は一度も無かったからね、とブラウが指でチョンとつついたテントウムシ。
あの子は強運なんじゃないかと、この船で幸せを掴むんだろう、と。
「そうだね、ヤエの方がいい」
ぼくなんかよりも、ヤエが幸運を貰うべきだろう。ヤエの人生は、これからだから。
ミュウの未来を担う子供には幸運があった方がいい、と指先で触れたテントウムシ。七つの星を背負った背中。この虫は後で、ヤエの家の庭に返しておこう、と。
「それで、救出はいつにするんじゃ?」
わしらが計画を立ててやらんと、救助班のヤツらも困るじゃろう。「急げ」だけでは。
具体的な案というヤツをじゃな…、とゼルが元へと戻した話題。テントウムシから。
「タイミングを見るのが大切だろう。でも、出来るだけ早い方がいい」
期間は短くしたいけれども、どのくらい…、と皆に意見を求めた自分。
直ぐにでも救助に向かえるけれども、ヤエの家での暮らしも守ってやりたいし、と。
そうしたら…。
「一週間でいいと思うよ、テントウムシのお告げだからね」
七日後がいいと思うんだがね、とヒルマンが不思議なことを言うから。
「お告げって…?」
テントウムシは喋っていないと思うけど…。いったい何がお告げなんだい?
「この背中だよ。黒い星が七つあるだろう?」
聖母の七つの喜びと七つの悲しみ、それを表しているんだそうだ。テントウムシの七つの星は。
星が七つだから、一週間といった所だろうと考えたわけで…。
一週間後なら、長すぎもしないし、短すぎもしない。救助班の準備も充分出来るだろう。
ミュウと発覚してからの救助と違って、ヤエを連れて来るというだけだから…。
きっとそのタイミングで上手く運ぶさ、と穏やかな笑顔だったヒルマン。
「それは予知かい?」と前の自分も、ゼルやブラウたちも、テントウムシを見て笑ったけれど。背中の七つの星を数えて、一週間後と決まった救出。
今から直ぐに準備を始めて、一週間後にヤエを船に迎える。万一の場合は、もっと早くに。
前の自分がくっつけて戻ったテントウムシ。それが会議の行方を決めた。ヤエをシャングリラに迎え入れる日は、一週間後にすべきだと。背中に背負った黒い星の数で。
会議が終わった後にヒルマンとエラから聞いた話では、赤い背中も聖母の色。聖母マリアが纏うローブに使われる赤。青いマントに赤いローブの聖母の絵画が多いという。
赤は聖なる愛、青は真実を示す色。聖母の衣の赤を纏ったテントウムシ。「聖母のカブトムシ」とか、「聖母の鳥」とか、様々な名を持つ聖母の使い。
それが幸運を運ぶと言うなら、幸せを連れて来るのなら…。
(助けに行くまで、ヤエを頼むよ)
あの子をよろしく、と瞬間移動で帰してやったテントウムシ。
ヤエの家の庭に、ヤエが自分を見付けた辺りに。
救出までに一週間。一刻を争うわけではないから、充分にあった準備期間。
救助班の者たちは計画を練って、シャングリラではヤエを迎える部屋の用意が始まった。どんな部屋や家具を好みそうな子か、揃えておいてやるべき物は…、と。
そうする間も、人類の世界では何も起こらず、ヤエはミュウだと知られないままで…。
「ホントに丁度七日目だっけね、ヤエの救出」
ヒルマンが言ったテントウムシのお告げ通りに、一週間後。
どうやってヤエを説得するのか、救助班の仲間は色々考えて行ったのに…。
お菓子に釣られてついて来そうな子供じゃないから、シナリオ、山ほど考えてたのに…。
「すっかり無駄になっちまったなあ、あいつらの努力」
自分の方から、スタスタ近付いて行ったんだから。人類のふりをしていた救助班のヤツに。
遊びに行ってた友達の家から、帰る途中のことだったっけな。
「うん…。ぼくも船から見てたけれども、ビックリしちゃった」
チラッとそっちの方を見たな、と思ったら近付いて行くんだもの。「こんにちは」って。
知り合いの人に会ったみたいに、ニコニコして。
ホントにビックリ、と今でも思い出せる光景。幼かったヤエの救出の時。
庭に隠れていた自分に気付いたくらいに、目覚め始めていたサイオン。それにヤエの資質。
勘の鋭い子供だったから、一目見ただけで仲間を見分けた。「同じ種類の人間だ」と。
そして思念波で投げ掛けた問い。「迎えに来たの?」と。
面食らったのは、救助に向かった仲間の方。
まるでシナリオには無かったのだから、「あ、うん…。まあ…」と思念を返すのが精一杯。
けれどもヤエは途惑いもせずに、思念を紡いで無邪気に訊いた。「何処へ行くの?」と。
「シャングリラだ」と貰った答え。同じ仲間が集まる船だと、雲の中にあると。
コクリと大きく頷いたヤエ。「一緒に行く」と、救助班の仲間の手をキュッと握って。
後は大人と子供の散歩。誰も怪しまない、微笑ましいだけの大人と子供。
ヤエはそのまま家には帰らず、隠してあった小型艇に乗って、白いシャングリラにやって来た。好奇心に瞳を輝かせながら、空の旅を充分に満喫して。
そんなケースはヤエの時だけ。
自分から声を掛けた子供も、自分から「行く」と言い出した子も。
船に着いても、皆を質問攻めにしたヤエ。格納庫で迎えたハーレイや長老たちはもちろん、他の仲間も片っ端から。
「この船は何処へ行く船なの?」とか、「どうして私たちは他のみんなと違うの?」だとか。
船の設備にも興味津々、隅から隅まで見て回った。子供でも入れる所は全部。機関部にも入ってみたがったけれど、「危険だから」と諭されて渋々、小さな覗き窓から覗いた。
ヤエの噂はアッと言う間に船に広がり、何処に行っても歓迎された。「何を見て行く?」と。
長老たちが集まるお茶の席でも、自然と話題になるのはヤエで。
「流石はテントウムシの子だよ、ヤエはね」
将来はきっと大物になるに違いないよ、とブラウも高く買っていた。いずれブリッジに来そうな気がする、と。「でも、それだけでは終わらないね」とも。
「シャングリラの役に立ってくれそうじゃな」
女の子じゃが、仕込めば機械にも強くなれると思うんじゃ。こう、今からじゃな…。
英才教育をしてみたいんじゃが、とゼルも惚れ込んだヤエの才能。「あの子は伸びる」と。
「そうだね、ヤエは幸運の子だしね」
テントウムシの、と前の自分が浮かべた笑み。
「この船で幸せになって欲しいよ」と、「ヤエが自分で選んだ道なんだから」と。
他の子供たちとは違ったヤエ。
追われて仕方なく来たのではなくて、家も両親も捨てて、白いシャングリラを取ったのだから。
此処に来ようと、このシャングリラで生きてゆこうと。
前の自分は「幸せになって欲しい」と、ヤエの幸福を願ったけれど。
テントウムシが運ぶ幸運、それを持つのがヤエだったけれど…。
「ハーレイ、ヤエって確か…」
前のぼくが死んじゃった後で、トォニィとアルテラが仲良く喧嘩してるのを聞いて…。
泣いちゃってたって言ってなかった?
格納庫でトォニィの船の調整をしていた時に。
「アレなあ…。若さを保って八十二年っていうヤツだろ?」
青春してるな、と羨ましがって泣いていたのを、聞いちまったんだよな、前の俺がな…。
お前を失くしちまった後の、俺の数少ない笑いの一つだったな、あの時のヤエは。
「いったい何がいけなかったの」と悔しがっていたが、本当に何が駄目だったんだか…。
八十二年も若さを保って頑張るからには、片想いのヤツでも心にいたか…。
それとも全くアテも無いのに、恋に恋する乙女だったか。
まさか訊きにも行けないからなあ、あれっきりになってしまったが…。
どうなったんだか、ヤエの女心というヤツは。
恋の方では、幸運、掴めていなかったよなあ、あの時点では…。
「そうだよねえ?」
好きな人をちゃんと捕まえていたら、そんな所で泣かないし…。
コッソリ聞いちゃったハーレイが笑うことだって無くて、ヤエは幸せ一杯だもんね?
ゼルとブラウが読んだ通りに、立派に育ったテントウムシの子。強運のヤエ。
分析担当のブリッジクルーとして、エンジニアとして、ヤエは優秀だったのだけれど。
本当に強運の子だったけれども、幸運は手に入ったろうか?
一人の女性として夢を描いていただろう幸福、愛する人と一緒に暮らす幸せは。
「…どうなんだろうね、ヤエ…。ちゃんと幸せになれたと思う?」
テントウムシに貰った幸運、シャングリラだけで使い果たしていないよね?
ブリッジクルーで、エンジニアで…。とても凄いけど、それだけで幸運、無くなっちゃった?
ヤエの恋が実る分の幸運、少しも残っていなかったとか…?
「生憎と俺も死んじまったから、あの後は知らん」
幸せな結婚が出来たのかどうか、最後まで独身のままだったのか。
そうは言っても、ヤエだからなあ、記録を調べりゃ分かるんだろうが…。
あれほどの人材はそうはいないし、トォニィとキャプテン・シドの時代も船を支えていた筈だ。
シャングリラが役目を終えた後にも、引く手あまただったとは思うんだが…。
そいつはヤエの腕が目当てでだ、求婚者が列を成すってわけではないからなあ…。
「ヤエの記録は、確かに残っていそうだよね…」
重要人物ってほどではなくても、記録を残して貰えるだけの功績は積んでいるんだし…。
キースがコルディッツでミュウを人質に取った時にも、ヤエのお蔭で救出できたんだから。
ゼルの船にステルス・デバイスを搭載しておいたのって、ヤエなんだものね。
きっと記録は残っているよね、ヤエがシャングリラを離れた後も。
白いシャングリラが無くなった後に、強運のヤエは何処へ行ったのか。
とうに結婚相手を見付けて、その人と一緒に旅立ったのか、旅立った先で恋をしたのか。
記録は何処かにあるだろうけれど、調べれば答えは出るだろうけれど。
「…調べない方がいいのかな?」
ヤエは幸せを捕まえたのか、羨ましがるだけになっちゃったのか。
もしもテントウムシがくれた幸運、シャングリラで使い果たしていたら…。
なんだか凄く申し訳ないし、ヤエだって知られたくないと思うし…。
「そうだな、恋は最後まで手に入らなかったかもしれないからなあ…」
才能の方では引く手あまたでも、「天は二物を与えず」と言うし。
もっとも、お前は幾つも持っているようだが…。
前のお前も今のお前も、優秀な頭も、恋も、とびきり綺麗で誰もが見惚れる姿も持ってる。
今のお前はまだまだチビだが、いずれ美人に育つんだから。
しかしだ、ヤエは美人と言うには…。どちらかと言えば可愛らしい方で、愛嬌だしな?
誰もが恋をしたがるタイプの女性とは少し違っているよな、人を選ぶというヤツだ。
「うーん…」
人を選ぶって言葉は、そういう時に使うんだっけ?
だけど、ヤエの魅力も、分かる人には分かる筈だと思うんだけど…。
とっても頭が良くて賢くて、おまけに可愛らしいんだから。
八十二年も放っておかれたみたいだけれども、それって、ヤエが間違えていない?
とっくに恋人がいるような人を好きになっても、駄目なんだもの。
前のぼくとか、ハーレイとかをね。
「…前の俺だと!?」
それは考えてもみなかった…。前のお前の方ならともかく、前の俺ってか?
もしもそうなら、選択ミスだな。俺にはお前がいたんだから。
前のお前に惚れてたにしても、結果は同じなんだがな…。
恋人がいる人に恋をしたって、恋は決して実りはしない。
横取りしようとしても出来ない、横から奪えるような恋なら、それは本物の恋とは違う。
たまにはそういう恋もあるけれど、奪い取った恋が本物のこともあるのだけれど。
「…ヤエって、間違えちゃっていたかな…?」
前のぼくを好きでもハーレイがいたとか、ハーレイを好きでも、ぼくがいたとか。
ぼくの方ならフィシスがいたから、諦めだってつきそうだけれど…。
ハーレイだったら誰もいないし、そう思い込んで好きだったかもね?
いつか振り向いてくれるといいな、って思い続けて、八十二年も頑張ったのかも…。
「…俺じゃなかったと思いたいんだが…」
ゼルとかヒルマンとか、他にもいるだろ、恋人のいない渋い男なら。
しかし、前の俺だったという可能性だって否定は出来んか…。
薔薇の花もジャムも似合わないから、モテるわけがないと思っていたが…。
蓼食う虫も好き好きなんだし、ヤエの好みのタイプだったってことも有り得るな、うん。
「…ぼくも悪趣味だって言うわけ?」
前のハーレイが好きだったんだよ、今のハーレイも大好きだけど。
ぼくの趣味まで変に聞こえるから、蓼食う虫も好き好きっていうのは言い直してよ!
「すまん、すまん」
お前の趣味は悪くない。…ちょっと変わっているってだけでだ、悪趣味とは少し違うよな。
「それ、言い直せていないから!」
もっと上手に言えないの?
ハーレイ、古典の先生なんだし、言葉も沢山知っているのに…。
そんな調子だから、前のハーレイだって気付かなかったかもしれないよ?
ヤエが「好きです」って打ち明けてるのに、「そりゃ光栄だな」って笑って終わりだったとか。
絶対そうだよ、ヤエが好きだったの、前のハーレイだったんだよ…!
八十二年も若さを保って頑張ってたのは、振り向いて貰うためだったんだよ…!
きっとそうだよ、とハーレイを軽く睨んでおいた。「鈍いんだから」と。
ヤエが本当にハーレイに恋をしたかはともかく、「蓼食う虫も好き好き」などと言われたから。今の自分も前の自分も、悪趣味なのだと決め付けたのがハーレイだから。
(…ヤエに「すまん」って何度も謝るといいよ、心の中で…!)
全部ハーレイが悪いんだから、と苛めてやった鈍い恋人。自分を悪趣味だと言った恋人。
ヤエもハーレイが好きだったろうか、今となっては分からないけれど。
ハーレイが気付いていなかっただけで、ヤエはハーレイを見ていたろうか…?
そうだったとしても、強運のヤエは、幸せだったと思いたい。
欲しかった恋が手に入らなくても、テントウムシの子だったから。幸運の子供だったから。
(…きっと幸せだったよね…?)
シャングリラが地球を離れた後も。
いつも見詰めていたかもしれない、前のハーレイがいなくなっても。
テントウムシに貰った幸運を背負って、何処かの星で。
もしかしたら恋まで手に入れてしまって、それは幸せな人生を。
テントウムシは幸運を運ぶ虫だから。
ヤエは幸運のテントウムシの子、背中に七つの星を背負ったテントウムシと一緒だったから。
白いシャングリラにたった一度だけ、姿を見せたテントウムシ。
それが運んだ幸運はきっと、ヤエのためだけにあったのだから…。
幸せだっただろうヤエ。恋は出来なくても、何処かの星で。
恋を手に入れたら、もっと幸せだったろう。一緒に生きる人を見付けて、いつまでも、きっと。
子供だって生まれていたかもしれない、今の時代は当たり前の自然出産児。
ヤエが母親になっていたなら、きっと、幸せな子供が育っただろう。
(お母さんになっても、ヤエなら完璧…)
子育ても、料理も、全部楽々とこなしていって。子供と沢山遊んでやって、愛を注いで。
そういう姿が見える気がする、小さなテントウムシの向こうに。
今の自分にくっついて来た、赤い背中の丸っこい虫に。
「ハーレイ、このテントウムシ…」
ぼくにくっついて来ちゃったけれども、やっぱり放してあげなくっちゃね?
ママは「家の中で冬越しするのよ」って言っていたけど、まだ冬越しには早いから…。
「その方がいいな、暖かい間は、外でのんびりしたいだろうしな」
こいつの幸運、お前が貰っておくんだろ?
今度もお前にくっついて来たが、前のはヤエに譲っちまったし…。
「あれは最初から、ヤエのだったと思うけど…」
このテントウムシは、ぼくにくっついて部屋まで来たし…。
テントウムシの幸運を譲りたい人もいないしね。…ハーレイの他には。
ハーレイにはちょっぴり譲りたい気分。
さっきは苛めてしまったけれども、ハーレイと幸せになりたいんだもの。
「なるほどな…。俺には譲ってくれるんだな」
だったら、二人で分けることにするか。
こいつが運んでくれる幸運、お前と俺とで半分ずつだ。
それでいいだろ、それなら一緒に幸せになれる。今でも充分幸せなんだが、もっと、ずっとな。
テントウムシに幸せを貰うとするか、とハーレイがパチンと瞑った片目。
こいつの幸運は半分ずつだ、と。
「俺が半分、お前が半分。…上手い具合に、テントウムシの背中、半分ずつになってるし…」
翅を広げりゃ、丁度半分に分かれるってな。真ん中から。
「ホントだね…! なんだか相合傘みたい」
名前を書きたい気分だけれども、そしたら背中の星が見えなくなっちゃうし…。
じゃあ、ぼくが、こっち。こっちの半分が、ぼくの幸せ。
「よしきた、俺がこっち側だな」
それじゃ窓から放してやるか。こいつは指先から飛んで行くから…。
幸せが多めに来るよう、お前の指に止まらせてやれ。そう、そんな風に。
俺がこうして手を添えておくから、そうすりゃ二人で放せるだろう?
ほらな、とハーレイが導いてくれた手。右手の人差し指の先っぽ、テントウムシを止まらせて。
そして二人で窓を開けたら、空に飛び立ったテントウムシ。
(ちゃんと飛んだよ…)
ぼくとハーレイの手から飛んだよ、と見えなくなるまで見送った。
ハーレイと二人、手を握り合って。
空に放ったテントウムシが、幸せに飛んでゆくように。
自分たちにも、幸運がやって来るように。
白いシャングリラに紛れ込んでいた、一度だけ来たテントウムシ。
あのテントウムシはヤエのものだったけれど、今度は自分のものだから。
チビの自分にくっついて来た、幸運を運ぶテントウムシ。
ハーレイと幸運を分け合ってもいい、二人だけのための小さなテントウムシなのだから…。
テントウムシ・了
※前のブルーが、たった一度だけ、シャングリラに持ち込んでしまった虫が、テントウムシ。
幸せを運ぶという虫の幸運は、ヤエが貰ったらしいです。最後まで、幸せに暮らした筈。
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