シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(ふふっ…)
美味しそう、とブルーが眺めたアップルパイ。学校から帰って、おやつの時間に。
母の手作り、サクッとした艶やかなパイ皮の下に、甘く煮てある金色のリンゴ。大好きなパイの一つだけれども、それをお皿に載せてくれた母が、熱い紅茶をカップに淹れながら。
「バニラアイスを添えてもいいわよ、今日は冷えないみたいだから」
昼間もポカポカ暖かかったし、たまにはアイスも食べたいでしょう?
「ホント!?」
いいの、いつもは「冷えるから駄目」って言われちゃうのに…。
「今日は特別。でも、食べ過ぎちゃ駄目よ?」
アップルパイじゃなくて、アイスの方。沢山食べないって約束するなら。
「約束する!」
もっと頂戴、って言わないから。ママが許してくれる分だけ。
「はいはい、それじゃ取って来るわね」
ママが入れるわ、と母が冷凍庫から取って来てくれたバニラアイス。それにスプーンも、掬ってお皿に盛り付けるために。
けれど、最近は滅多に出番が無いアイス。暫く蓋を開けていないから、固く凍って…。
「ママ、もっと入れて。これじゃ少なすぎ…」
スプーンに山盛り一杯も無いよ、食べた気分がしないよ、これじゃ。
「分かってるけど…。アイスがもう少し柔らかくなってくれないと無理ね」
見れば分かるでしょ、固いのよ。ほらね、スプーンは刺さるんだけど…。
削るくらいしか出来ないのよ、と母がアイスを削ろうとしたら、チャイムが鳴った。門扉の脇にあるチャイム。この時間ならば、ハーレイではなくて、お客さん。ご近所さんとか。
出るのは母だし、「自分でやるよ」と伸ばした手。
「アイス、続きはぼくがやるから…。スプーン、ちょうだい」
食べ過ぎないよ、大丈夫。スプーンに山盛り、あと二杯くらい。
「約束、ちゃんと守るのよ?」
それから、アイスを冷凍庫にきちんと返しておくこと。忘れないでね、溶けちゃうから。
食べ始める前に冷凍庫、と注意してからスプーンを残して出て行った母。玄関の方へ。そのまま戻って来ないものだから、きっと立ち話をしている筈。お客さんと。
(んーと…)
そろそろかな、とスプーンで掬ってみたアイス。丁度いい柔らかさになっていたから、滑らかなアイスを上手に掬えた。盛り付けた感じも、お店みたいに綺麗な形。
スプーンに山盛り二杯分、とアップルパイの隣に添えて、閉めたアイスクリームの蓋。
(食べる前に、ちゃんと冷凍庫…)
溶けちゃうもんね、と返しに出掛けた冷凍庫。キッチンまで。
アイスはこの辺、と扉を開けたら、色々詰まっている中身。他の味のアイスや、食材やら。
(綺麗…)
模様みたい、と眺めた、冷凍できるガラスの器に咲いた花。表面についた氷の花。
指で触ったら溶けてしまうけれど、細かくて綺麗で…。
「ブルー?」
開けっ放しにしないでちょうだい、冷凍庫の中身、溶けちゃうでしょう…!
何をしてるの、と母に叱られて、慌てて閉めた冷凍庫。
「ごめんなさい…!」
ちょっと中身に見惚れちゃってた、と謝って戻ったダイニング。お皿に盛られたバニラアイスは無事だったから、美味しく食べた。アップルパイと一緒に頬張って。
素敵だった今日のおやつの時間。思いがけなく食べられたアイス。「駄目」と言われずに。
御機嫌で二階の部屋に戻って、座った勉強机の前。頬杖をついて。
(氷の花…)
綺麗だったよね、と思い浮かべた冷凍庫。ガラスの器に咲いていた花、とても小さな氷の結晶。
氷が張るような真冬になったら、この部屋の窓にも咲いたりする花。窓のガラスを彩る花たち、様々な模様を描き出しながら。
今の季節はまだ咲かないから、冷凍庫でしか出会えない。とても綺麗な花なのに。
(神様が作る花なんだものね?)
綺麗で当然、と冷凍庫で見た氷の花たちを思い出す。冬に窓ガラスを飾る花たちも。
氷の花は、生きた花ではないけれど。命を持ってはいないのだけれど。
それでも自然が作り出す花で、神様が作って咲かせる花。
冬の間しか咲いてくれない、寒い日だけに開く花たち。太陽の光で溶けてしまうまで、ガラスの表に咲き続ける花。
(白くて、キラキラ光ってて…)
冬の日の窓には花が一杯、と窓に視線を遣ったのだけれど。あそこに咲くよ、と雪景色と一緒に頭に描いてみたのだけれど…。
(氷の花…?)
怖い、と急に掠めた思い。「氷の花は怖い」と思う自分がいる。
あれは嫌い、と。怖くてとても恐ろしいから、と。
(なんで…?)
変だ、と手繰ってみた記憶。
ガラスに咲いた氷の花が何故怖いのかと、指で触れれば直ぐに溶けるような花なのに、と。
冷凍庫の中に咲いていたのを触った時にも、凍えはしなかった自分の右手。氷の花は儚いから。指の先から手を凍らせはしないから。メギドで凍えた悲しい記憶を秘めた右手でも。
(あんなの、怖くない筈なのに…)
どうして怖いの、と前の自分の記憶を手繰る。今の自分ではない筈だから。
氷の花、と遥かな時の彼方へ遡ったら…。
(アルタミラ…!)
実験動物として囚われていた頃、低温実験のために入れられたケース。
中の温度が下がり始めると、強化ガラスで出来たケースに氷の花が幾つも開き始める。ケースの端の方からだったり、下から一気に咲き始めたり。
氷の花が次から次へと咲いてゆくのだけれども、その花に囲まれた自分の身体は…。
(シールドしないと、寒すぎて火傷…)
多分、凍傷と言うのだろう。まるで火傷のように痛くて、肌も身体も損なわれてゆく。
何度もやられて、治療をされて。傷が癒えたら、次の実験。
絶対零度のガラスケースもあったと思う。
白衣を纏った研究者たちに、「化け物」と罵られて、押し込められて。
凍りついてゆくケースの中で一人、氷の花が咲くのを見ていた。また咲き始めた、と。
今日は何処まで耐えられるだろうと、とても寒いと、寒すぎて死んでしまいそうだ、と。
大嫌いだった、と思い出した低温実験のケース。
強化ガラスに咲く氷の花は怖くて、まるで死の世界に咲いているかのよう。氷の花たちに身体をすっかり埋め尽くされたら、きっと自分は死ぬのだから。
けれど…。
(好きだったよ…?)
嫌いだった筈の氷の花が。今の自分ではなくて、前の自分が。
白いシャングリラの展望室やら、降り立ったアルテメシアやら。其処で目にした氷の花たち。
綺麗、と溶けてゆくまで見ていた。飽きることなく、冷たい氷の結晶たちを。
なんて素敵な花なのだろうと、神様が咲かせた氷の花だ、と。
(神様…?)
ふと引っ掛かった、「神様」という言葉。今の自分なら、神様の花でいいけれど。
前の自分は、どうして神だと思ったのだろう。神様が咲かせる花なのだ、と。
低温実験の時に見たのは、地獄で咲いた氷の花。命を奪おうとして咲き始める花。
命は失わなかったけれども、酷い凍傷を負わされた花。
あの花たちを、神が咲かせたわけがないのに。
咲かせる者がいたとしたなら、神ではなくて悪魔だろうに。
(でも、神様…)
前の自分は、確かにそうだと思って見ていた。展望室で、アルテメシアで。
綺麗な花だと見惚れたけれども、神が咲かせたと考えた理由が全くの謎で分からない。悪魔の花なら、まだ分かるのに。…慣れて平気になっただけなら、まだしも理解できるのに。
何故なの、と首を捻っていたら聞こえたチャイム。今度はお客様ではなかった。窓に駆け寄ってみたら門扉の向こうで手を振るハーレイ。前の生から愛した恋人。
(キャプテン・ハーレイ…)
もしかしたら知っているかもしれない、氷の花の記憶のことを。前の自分が神様の花だと考えた理由、それをハーレイは知っているかも、と。
そう思ったから、ハーレイと部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。氷の花って知っている?」
氷で出来た花のことだよ、本物の生きた花じゃなくって。
「花氷か?」
もちろん俺も知ってはいるが…。涼しげでいい感じだな、あれは。
「え?」
涼しそうって…。それ、夏みたいに聞こえるよ?
「夏のものだろうが、花氷は。…冬でもパーティーとかに行ったら、飾ってあるかもしれないが」
花を閉じ込めて凍らせたヤツだろ、花氷。お前が言ってる氷の花は。
「違うよ、本物の花じゃないって言ったよ、ぼくは」
冬になったら窓に出来るでしょ、氷の花。寒い日に窓のガラスに咲いてる、氷の結晶。
「あれか、氷の花というのは。…言われてみれば、確かに花だな」
車の窓にも咲いてるぞ。寒い朝だと、もう一面に白い氷の花ってな。
「分かってくれた? その氷の花、今日、冷凍庫で見たんだけれど…」
アイスクリームを入れようとしたら、ガラスの器に一杯咲いてて、とっても綺麗で…。
見惚れちゃってて、冷凍庫の戸が開けっ放しで、ママにちょっぴり叱られちゃった。
今のぼくもアレ、好きなんだけど…。氷の花は大好きだけど…。
前のぼくは嫌いだったみたい、とアルタミラにいた頃の話をした。強化ガラスのケースで開いた氷の花。命を奪う花が怖くて、恐ろしかったと。
それなのに、好きになっていた花。神様が咲かせる花だと思って見ていたくらいに。
「…どう考えても悪魔の花でしょ、低温実験の時に咲くんだから」
ぼくはいつでも死んでしまいそうで、このまま死んでしまうのかも、って思ってて…。
神様が咲かせる花のわけがないよ、あれは地獄に咲いていた花で、悪魔の花。
だけど前のぼくは、神様の花だと考えるようになっちゃって…。綺麗だな、って見惚れてて。
そうなった理由、ハーレイ、知らない?
前のぼくが「氷の花は、神様が咲かせる花なんだ」って、思い始めた理由は何か。
「…俺がか?」
そいつは前の俺のことだな、とハーレイが自分の顔を指差したから。
「うん、ハーレイなら知ってるかも、って…」
前のハーレイ、ぼくの一番の友達だったし、友達の後は、恋人同士。
ずっと同じ船で暮らしていたから、ハーレイだったら、知っているかもしれないでしょ?
「そう来たか…。だが、いつも一緒にいたってわけではないからなあ…」
俺が知らない間ってことも、まるで無いとは言えないぞ?
ゼルとかヒルマンとか、仲間は大勢いたんだから。…あいつらが知っていたかもしれん。
神様で、それで氷の花なあ…。
地獄に咲いていた筈の花が、神様の花になる理由だな…?
果たして俺が知ってるかどうか…、とハーレイは腕組みをしたけれど。遠い記憶を手繰り寄せてみては、眉間に皺を何度も刻んでいたけれど…。
「アレだ、シャングリラの窓だ」
白い鯨になる前の、と探り当てたらしい氷の花。それに纏わる遠い遠い記憶。
「シャングリラ…?」
それに、白い鯨になる前だなんて…。そんな頃なの、前のぼくの話?
「いいから聞け。こいつはお前が思っているほど、単純なモンじゃないってな」
シャングリラって名前があったかどうかも怪しいくらいに、ずっと昔の話なんだ。一番最初は。
前のお前が、俺と一緒に歩いていた頃。…今のお前みたいなチビの頃だな。
まだリーダーにもなっていなくて、俺の後ろにくっついていた。でなきゃ、隣を歩いていたか。
そうやって俺と歩いていた時、たまたま窓の側を通った。あの船にも窓はあっただろ?
窓の向こうは宇宙なんだし、船の中より遥かに寒い。恒星の近くを飛んでいない時は。
そういう時には、窓に氷の花が咲いてた。真っ暗な宇宙に星が幾つか、それと氷の花とだな。
俺たちにとっちゃ、馴染みの景色というヤツなんだが…。
そいつをお前が怖がったんだ。きっと、気付いてしまったんだな、氷の花だということに。
これは嫌い、と窓の側でブルブル震え始めて…。
「思い出した…!」
何が見えるの、って窓を覗き込んだら、星の代わりに氷の花が咲いていて…。
いつもだったら気にならないのに、ガラスケースで咲いていた花とおんなじだ、って…。
前の自分が重ねた記憶。窓のガラスと、低温実験の時の強化ガラスで出来たケースと。
どちらにも咲いた氷の花。…凍らせて命を奪い取ろうと、幾つも幾つも咲いていった花。
俄かに怖くなったのだった。アルタミラの時代が蘇るようで、凍ってゆくケースに引き戻されてしまいそうで。
氷の花が咲いているから、氷の花は恐ろしいから。咲いたら死ぬかもしれないから。
ガクガクと震え始めた身体。「怖い」とハーレイにしがみ付いて。
「どうしたんだ?」とハーレイは抱き締めてくれたけれども、氷の花は恐ろしい。アルタミラで何度も咲いていたから、咲いたら凍ってゆくのだから。身体も命も、何もかもが。
泣きながら「怖いよ」と訴えた自分。「これは嫌い」と、「死んでしまう」と。
逃げ出したいのに、少しも動いてくれない足。氷の花が咲いた窓から逃れられない。ハーレイの身体に縋り付いたまま、ブルブルと震え続けていたら…。
「なんだ、こいつが怖いのか。こんなのはだな…」
震えなくても、こうすりゃ消える。なんてことはないさ、こういう船の中ならな。
此処はアルタミラじゃないんだから、とハーレイが「見てろ」と指で溶かした氷の花。ガラスの表面をスイと撫でるだけで。
「ほんの少しだけ凍った程度じゃ、人間の体温には勝てないんだぞ」と。
こうだ、とハーレイの指が溶かしてくれた氷の花。一本の線を描くように。
「でも…。怖いよ、ぼくには出来なかったよ」
実験でケースに入れられた時は、ただ寒いだけで、ぼくの指まで凍っていって…。
あんな凍った指で撫でても、氷の花は消えやしないよ。もっと沢山咲いていくだけで、触ったら指にも花が咲いちゃう。…きっとそうだよ、一度も触っていなかったけど…。
「…可哀相に…。お前、すっかり、そういうモンだと思い込んでしまっているんだな」
此処だと俺たちの方が強くて、こんな花なんか、触っただけで消えちまうんだが…。
お前が怖くて触れないなら、俺が代わりに消してやる。氷の花くらいお安い御用だ、幾つでも。
一つ残らず消せってことなら、手で撫でちまえば終わりなんだが…。
そうするよりかは、きっとこっちの方がいい。いいか、こういう具合にだな…。
よく見ていろよ、と大きな指でチョンとつついては、消していってくれた氷の花。温かな指先で溶かしてしまって、跡形もなく。
氷の花は消せるものなのか、と目を丸くして眺めていたら、「消えるだろ?」と優しい声。
怖がらなくても、船の中では俺たちの方が遥かに強いんだから、と。
ついでだから絵でも描いてみるか、とハーレイが窓に描いていった絵。船にはいない鳥や動物、花や果物。けして上手くはなかったけれども、心が温かくほどけていった。
氷の花は人に勝てはしないと、こんな風に絵を描かれちゃうんだ、と。
絵を描くついでに、綴られた文字。「ハーレイ」、それに「ブルー」と二人の名前。
「…ハーレイ、窓に書いてくれたね、ぼくたちの名前」
絵を描いた後に、サインみたいに。…相合傘じゃなかったけれど。
「相合傘か…。あの時の名前、並べて書いてはいたんだけどな」
恋人同士ってわけじゃなくてだ、一番古い友達同士。並べて書いても変じゃないだろ?
だから消さずに放っておいたし、後で誰かが見てたんじゃないか?
こんな所で落書きしたなと、二人がかりで遊んでいたなと。…お前も書いたと思い込まれて。
それに相合傘、あの頃の俺たちは知らないだろうが。
相合傘は昔の日本の文化で、前の俺たちが生きた時代は何処にも無かったんだから。
無理に決まっているだろうが、と苦笑いされた相合傘。窓に書けなかった悪戯書き。
氷の花はとても怖かったけれど、それから後にも、ハーレイと一緒に窓の側を歩いて、氷の花が咲いていたなら、消して貰えた。気付いて足が止まった時には。
「怖くないから」と、ハーレイの指で。
絵を描いてみたり、文字を書いたり、何度も、何度も。「これで消える」と、武骨な指で。
その内に慣れて、氷の花は怖くなくなったのだけど。
咲いている窓の側を通っても、「凍っているな」と眺めるだけで、氷の花が怖かったことさえ、いつしか忘れていたのだけれど…。
白い鯨に改造されたシャングリラ。其処に作った展望室。いつかは青い地球を見ようと。
雲海の星、アルテメシアの雲に潜んで、もう子供たちを迎え始めていた頃。
ある夜、ブリッジでの勤務を終えて、一日の報告に来たハーレイ。
青の間でキャプテンの仕事を済ませた後に、「懐かしい物を見に行きませんか」と誘われた。
「遅い時間ですが、今でしたら誰もいないでしょうから…」
如何ですか、私とご一緒に。…夜の散歩に。
「散歩って…。懐かしい物というのは、なんだい?」
公園なのかな、それとも農場に行くとでも?
「おいでになれば分かりますよ」
行き先は船の展望室です、この時間だと外は真っ暗でしょうが…。
元々、雲しか見えませんしね。昼でも夜でも、あまり変わりはしないでしょう。…外の景色は。
けれど、この時間が一番いいのですよ。懐かしい物をお見せするには。
ハーレイは笑みを浮かべたけれども、心当たりが全く無かった「懐かしい物」。
展望室は新しく出来た施設なのだし、懐かしくなるほど長い時間が流れてはいない。何を眺めに行くのだろうか、と思いながらも頷いた。
ハーレイとは今も一番の友達同士で、二人でいたなら満ち足りた時間を過ごせるから。
懐かしい物が見られると言うなら、なおのこと。…それが何かは分からなくても。
青の間から二人、誰もいない夜の通路を歩いて、辿り着いた暗い展望室。ガラスの向こうは夜の闇だし、明かりも灯っていなかったから。ぼんやりと淡く、足元を照らす光だけしか。
其処に入って見回したけれど、何があるというわけでもない。休憩用の椅子やテーブル、それが幾つか置かれているだけ。もちろん懐かしい家具とは違って、展望室に合わせて作られたもの。
他には大きなガラス張りの窓、展望室という名前通りに。
いつかは向こうに青い地球が見える日が来るだろうけれど、今は雲しか見えない窓。
アルテメシアの太陽はとうに沈んでいるから、夜の雲が外を流れてゆくだけ。星の光さえ見えはしなくて、限りなく闇に近いのが窓。
まるで漆黒の宇宙のように。
アルテメシアまで旅をして来た、真っ暗な宇宙空間のように。
こんな所にいったい何が、と側に立つハーレイの顔を見上げたら。
「覚えていらっしゃいませんか?」
この窓ですよ、とハーレイが近付いたガラス窓。此処に、と指差した氷の花。
宇宙よりかは暖かいけれど、地表から遠い雲の中では、気温はとても低いから。時にはこうして氷の花が咲いたりするから、昼の間はガラスを温めたりもする。氷の花がガラスを覆い尽くして、外の景色が全く見えなくならないように。たとえ雲しか見えなくても。
けれど夜間は、そのシステムも殆ど働きはしない。誰も来ない夜が多いのだから、窓の端までは温めなくてもいいだろう、と。
だから窓ガラスの端の方から咲き始めている氷の花。美しい模様を描きながら。
「これは…?」
窓が凍っているだけのように見えるけど…。この窓に意味があるのかい?
「やはり忘れてらっしゃいましたか、その方がいいことなのですが…」
こうして凍っている窓です。氷の花が咲いている窓。
ずっと昔に、あなたが怖いと仰って…。窓の側で震えて動けなくなって、泣いてしまわれて。
お忘れですか、と問われて思い出した。
氷の花がとても怖かったことを。ハーレイの大きな身体に縋って震えたことを。
「…あったね、ぼくにもそういう頃が」
この花を見たら、アルタミラに引き戻されそうで…。ガラスケースに閉じ込められて、身体ごと凍ってゆきそうで。
怖かったんだよ、本当に。…氷の花が咲いた時には、いつも死ぬかと思っていたから。
「今は平気でらっしゃいますか?」
御覧になっても、お分かりにならなかったくらいですから…。
大丈夫だとは思うのですが、氷の花はもう、ただの氷の花なのですか?
「そうだよ、今はただの氷の花なんだとしか思わない」
水分が凍って出来る結晶、それだけかな。…それに綺麗だ、氷の花は。
治ったよ、君のお蔭でね。
君が何度も消してくれたから、平気になった。氷の花は直ぐに消せるし、絵も描けるから。
もう大丈夫、と笑みを浮かべたら、「安心いたしました」と嬉しそうな顔。
「下手な絵でしたが、描いた甲斐があったというものです。…あなたが忘れて下さったなら」
氷の花は綺麗なものだ、と仰るくらいに、あなたの心が癒えたのでしたら。
では、懐かしむとしましょうか。…そのためにお連れしたのですから。
相変わらず下手なままなのですが、とハーレイが指で窓に描いた絵。猫だろうか、と長い尻尾の動物の絵が出来てゆくのを眺めていたら、「ちゃんとナキネズミに見えますか?」という質問。
昔、描いた頃にはナキネズミは船にいませんでしたが、今はいますよ、と。
「ナキネズミだって?」
それは違うだろう、これは猫だよ。何処から見たって、猫でしかない。
ナキネズミを描くなら、顔をもっと長く描かないと…。それに尻尾も、もっと大きく…。
あれ?
ぼくが描いても、なんだか少し…。
違うような、と首を傾げながら自分も描いた。氷の花たちを指で溶かしながら、手袋に覆われた指で辿ってゆきながら。
窓に咲いている氷の花は、今はもう怖くはなかったから。
ただの絵を描くためのキャンバス、自然が作った画用紙でしかなかったから。
でも描けない、とハーレイの絵と見比べてしまったナキネズミ。どちらも下手くそ、子供たちが見たなら何の動物だと思うだろう?
ハーレイの絵は猫だけれども、自分の絵は正体不明の生き物。猫でもリスでもネズミでもない、宇宙の何処にも住んでいそうにない動物。
足が四本あるだけの。…細長い顔と、大きな尻尾を持っているだけの。
こんな筈では、と嘆きたくなった自分の絵心。きっとガラスが悪いのだ、と睨んだキャンバス。氷の花を指で溶かして描くのでなければ、もっと上手に描けるんだから、と。
(どうせ、朝には消えるんだし…)
窓の向こうが明るくなったら、ガラスを温めるシステムが動く。朝一番に来る仲間もいるから、その時に窓がすっかり凍っていないように、と。
下手くそな絵も消える筈だ、と窓ガラスを綺麗に掃除してくれるシステムにも期待していたら。
「御存知ですか、ブルー?」
神様が咲かせる花だそうですよ、氷の花は。
二人で絵を描いてしまいましたが、そうやって壊した花たちは。…どの花も、全部。
「そうなのかい?」
神様だなんて、ぼくには信じられないけれど…。
この花たちが怖かった頃は、地獄の花だと思っていたから。…地獄だったら悪魔だろう?
悪魔の花なら分かるけれども、神様がこれを咲かせるのかい?
「ずっと昔に、そう言った人がいたそうですよ」
私はヒルマンに聞いたのですが…。
休憩時間に此処へ来てみたら、丁度、少しだけ咲いていまして…。
ヒルマンが子供たちに説明しようと、氷の花を見せに連れて来たのです。咲いているよ、と。
なんでも、人間が地球しか知らなかった時代の話だそうで…。
その頃にはガラス窓がとても高価で、何処の家にもあるというものではなかったとか。
そういう時代に、ガラス窓に咲いた氷の花を見上げた女性が言ったそうです。
「神様が咲かせて下さる氷の花」だと。
外はすっかり冬の寒さでも、神様が守って下さっているから寒くはない、と。
神に仕える修道女の言葉だと言っていましたね、ヒルマンは。…後に聖女になった人だと。
寒い真冬に、神が咲かせる氷の花。
聖女の言葉だと言われてみれば、氷の花は確かに美しかった。それに自分も、氷の花が怖かったことを忘れていた間は、綺麗だと思って眺めていた。地獄の花だとは考えもせずに。
(…怖いの、すっかり忘れちゃってたし…)
怖かった頃には、ハーレイが何度も消してくれたのが氷の花たち。
その時代は懐かしい思い出になって、今は二人で絵だって描ける。ナキネズミは上手く描けないけれども、二人揃って下手だけれども。
ハーレイに見せられた「懐かしい物」と、優しくて遠い思い出と。
氷の花たちに絵を描いた後で、ヒルマンが子供たちに話した言葉を聞かされたから…。
「神様の花だ、って素直に納得しちゃったんだっけ…」
悪魔が咲かせる花じゃなくって、神様が咲かせる氷の花。
だからとっても綺麗な花で、怖い花なんかじゃなかったんだよ、って…。
「あの時、俺も言ったっけな。…前のお前に」
もっと昔に、俺がそいつを知っていれば、と。
チビのお前が震えてた時に、「神様が咲かせる花なんだから怖くないぞ」と言ってやれたら…。
そうすれば、お前、もう少し早く、怖くなくなっていたんだろうに。
「…ううん、知らなくて良かったんだよ。あの頃のぼくは」
身体も心も子供だったし、きっと受け止められないと思う。神様の花だって聞いたって。
聞いていたなら、神様のことを恨んでいたかもしれないよ。
ぼくにとっては地獄の花だし、悪魔が咲かせる花とおんなじだったんだから。
どうして神様は、ぼくの身体を凍らせる花を咲かせたんだろう、って恨んでいそう。…本当に。
前のハーレイから聞いた時には、ぼくは神様、信じていたから…。
アルタミラの地獄も、きっと何かの意味があったと考えるようになっていたから良かっただけ。
氷の花は神様が咲かせる花なんだ、ってハーレイの話を丸ごと信じられただけ…。
丁度いい時に聞けたんだよ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。あの時だったからこそ、神様が咲かせる花だと信じられたのだ、と。
「ホントだよ? チビだった頃なら、きっと駄目だよ」
信じないどころか、神様を嫌いになっていたかも…。神様も悪魔も一緒なんだ、って。
人類のための神様なんだし、ミュウにとっては悪魔だよね、って。
「なら、いいが…」
俺が話すの、遅すぎたというわけでないならいいんだが…。
もっとも、ヒルマンの話を聞かなきゃ、前の俺は知らないままなんだがな。氷の花は誰が作って咲かせているのか、そんな話は。
「だろうね、キャプテンの仕事には入っていなかったから…。氷の花は誰が作るかなんて」
キャプテンの仕事は、氷の花で窓が埋まってしまわないよう、メンテナンスをさせること。
そっちの方でしょ、システムが故障しちゃわないように。
…前のぼくとハーレイが描いたナキネズミの絵も、残ってしまって窓が汚れないよう、きちんと掃除させなくちゃ。朝一番には、窓をすっかり綺麗に仕上げるシステムで。
あの時の絵は酷かったけれど、またハーレイと遊びたいな。
今度は上手く描いてみたいよ、ナキネズミの絵。…ちゃんとナキネズミに見えるように。
「そうだな、冬になったらな」
この部屋の窓にも、氷の花は咲くんだろうし…。夜なら絵だってよく目立つだろう。外が暗くて見えやすいからな、あの時と同じで。
だが、この部屋では相合傘は書けないぞ。今の時代は相合傘でも、絶対に駄目だ。
傘の絵だけなら描いたっていいが、俺とお前の名前を並べて書くのはいかん。
「やっぱり駄目…?」
直ぐにゴシゴシ消してしまうのでも、相合傘は駄目なの、ハーレイ…?
「当然だろうが、此処はお前の部屋でだな…」
俺とお前が恋人同士だってこと、お母さんたちは知らないだろうが。
そういう間は、相合傘は禁止だ、禁止。…名前だけなら書いてもいいがな。でなきゃ傘だけ。
恋人同士だと分かるようなヤツは、絵でも文字でも、書く前に俺が端から止める。
氷の花さえ全部消したら、書く場所は何処にも無いんだからな。
その代わり…、とハーレイがパチンと瞑った片目。「いつかは…」と。
「俺の車の窓に書いちまっても、許してやる」
車の窓にも氷の花は咲くからな。寒い朝だと、ビッシリ真っ白になっちまうほどに。
「いいの!?」
相合傘も書いちゃっていいの、本当に…?
うんと大きく相合傘を書いて、見せびらかしながら走ろうね。
氷の花が咲いた朝には、相合傘をつけて、二人でドライブ。ぼくとハーレイの車だよ、って。
「お前の気持ちは、分からないでもないんだが…」
生憎と、車の窓に咲いた氷の花はだ、アッと言う間に溶けるってな。
でないと外が見えないからなあ、運転どころじゃないだろうが。
「えーっ!?」
酷いよ、それじゃ書いてもいいっていうだけじゃない!
ドライブに行く前に消えてしまうんなら、そんなの、意味が無いんだから…!
あんまりだよ、と怒ったけれども、いつか書きたい相合傘。今の時代だから書けるもの。
傘の絵を描いて、ハーレイと自分の名前を並べて、幸せな気分。
神様が咲かせる氷の花を指で溶かして、「ハーレイ」に「ブルー」。
車の窓だと直ぐに溶けるのなら、今度も窓のガラスに書こう。
白いシャングリラの展望室には敵わないけれど、ハーレイと二人で暮らす家で一番大きい窓に。
とても寒い日に、家からは出ずに。
ハーレイと二人で窓に向かって、指で書いてゆく相合傘。
神様が咲かせる氷の花たち、それを指先で溶かして消して。
白くなった窓に幾つも幾つも、幸せな相合傘と名前を。
それが済んだら、次はナキネズミの絵も描こう。
ハーレイと自分と、どちらが上手く描き上げることが出来るかの勝負。
きっと今度は負けないから。
負けてしまっても、神様が氷の花を咲かせてくれたら、またハーレイに挑めるから…。
氷の花・了
※前のブルーが恐れた氷の花。低温実験のせいですけれど、ハーレイのお蔭で消えた恐怖感。
落書きをして遊んでいたのも、今では懐かしい思い出の一つ。またハーレイと、描きたい絵。
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