シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(ツバメが低く飛ぶと、雨…)
学校の帰り道、ブルーが思い出したこと。バス停から家まで歩く途中で。
何故だか、不意に。雨が降るどころか晴れているのに、空には雲の欠片も無いのに。
(さっきの鳥…)
シジュウカラだろうか、身体が小さかったから。道路を挟んだ家の生垣、垣根から垣根へ飛んで渡っていった鳥。歩いてゆく道の少し前の方、其処をスイッと。道路を横切って、低い所を。
ツバメみたいに空を滑るような飛び方ではなかった、小さな小鳥。
きっと、そのせいで思い出したツバメの言い伝え。
ツバメが低い所を飛んだら、雨が降るのが近いのだという。人間が地球しか知らなかった頃に、日本の人たちがそう伝えていた。
前にハーレイの授業で聞いたこと。雑談の時間に、「知っているか?」と。
ツバメの餌は虫らしい。雨が近くなると空気は湿気を帯びてゆくから、虫たちの翅は重くなる。高い所を飛ばなくなるから、それを捕まえるツバメも低く飛ぶという。
時には、地面すれすれなくらい、人間の目よりも低い所を。
その言い伝えを思い出したけれど、さっきの小鳥はツバメではなくて別の鳥。
(…ツバメ、見ないよ?)
今日だけではなくて、昨日も、もっと前の日だって。
最近、いない、と気が付いた。春にツバメがやって来てから、何度も姿を目にしていたのに。
(もう渡っちゃった…?)
季節は秋になっているから、南の国へ。
それほど寒いとも思わないけれど、昼間は暑いくらいの日もあるけれど…。
(ツバメ、身体が小さいから…)
冷えてしまうのも早いだろう。人間には大したことはなくても、小さな小鳥の身体では。
凍えたら長い旅は無理だし、早い間に飛んでゆくのに違いない。暖かい間に、南の国へと。
きっとそうだ、と考えながら帰った家。ツバメには出会わないままで。
制服を脱いで、ダイニングでおやつ。それから戻った二階の部屋。勉強机の前に座って、眺めた窓の向こうの空。やっぱりツバメは飛んでいなくて、違う小鳥が飛び過ぎて行った。
知らない間に姿を消したツバメたち。子育てを済ませて、群れを作って南の国へ。
ハーレイの授業で教えて貰った、ツバメたちの飛び方の天気予報。それも来年までは無理。
いないのだから、低く飛んではくれないから。ツバメは旅に出たのだから。
(南の国まで…)
頑張るんだね、と思ったツバメ。寒い冬に凍えてしまわないよう、暖かく過ごせる南の国へと。
小さい身体で海を渡って、信じられないほど遠い所まで。此処とはまるで違う地域へ。
でも…。
(ツバメ、寝る時はどうするの?)
眠りもしないで飛び続けるなんて、どう考えても無理なこと。人間だって寝不足になれば、頭が働かないのだから。うっかり居眠りしてしまっていて、机に頭をぶつけるのだから。
小さなツバメが旅をするには、何処かで眠らなければならない。一日で着けるような場所とは、全く違う南の国。何日かかるか、想像もつかないほどの距離。
途中で眠るしかなさそうだけれど、その寝場所。
上手い具合に島があるのか、それとも船に降りるのか。海の上なら、船も通っている筈だから。
(えーっと…?)
ツバメでなくても、旅をする鳥。渡りのルートは決まっているらしいし、それに合わせて…。
(島ってあるの?)
休める島がある場所を通ってゆくのだろうか、と考えたけれど、広がっている筈の大海原。南の国まで辿り着くには、島伝いでは無理そうな感じ。肝心の島が途切れてしまって。
船だって、いつも同じ場所にあるとは限らない。
人間の都合で動いてゆくから、鳥たちのために海に浮かんではいないから。
考えるほどに、無さそうなツバメの休憩場所。翼を休めるだけならともかく、眠れる場所や島が無ければ、南の国には着けないのに。疲れてしまって海に落っこちそうなのに。
(…どうなってるの?)
ツバメの寝場所は何処にあるの、と首を捻っていたら、チャイムの音。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、訊いてみようと切り出した。テーブルを挟んで、向かい合わせで。
「あのね、ツバメのことなんだけど…」
「ツバメ?」
いきなり何だ、と怪訝そうだから、「ツバメだよ」と繰り返した。
「小鳥のツバメ…。前に教えてくれたでしょ。授業の時に、雑談で」
ツバメが低く飛ぶと雨だ、って昔の日本の言い伝えを。
今日の帰りに思い出したけど、ぼくが見た鳥はツバメじゃなくって、別の小鳥で…。
気が付いたんだよ、最近、ツバメを見ないよね、って。
「ああ、ツバメか…。行っちまったろうな」
南の国へ飛んでったろう。此処はこれから寒くなるから。
「もう行っちゃったの?」
ツバメにはやっぱり寒すぎるんだね、今の季節でも。
「そいつはどうだか分からんが…。年にもよるしな、気温ってヤツは」
しかし、ツバメは九月の終わりには集まるもんだ。旅に備えて、あちこちからな。
決まったねぐらというヤツがあって、河原が多いと聞いてるが…。茂ってる葦に隠れられるし。
其処に沢山集まって来てだ、暫くの間は大騒ぎらしいぞ。ツバメだらけで。
渡る仲間が全部揃ったら、一斉に旅に出るわけだ。
春に南からやって来たヤツも、今年生まれた若いツバメも。
ねぐらに集まるツバメたち。旅に出る前に、あちこちの場所から集合して。
何日か賑やかに騒ぎ続けて、それから南へ旅立つという。隠れ場所だった、ねぐらを離れて。
「群れで渡って行くんだね」
お父さんのツバメも、お母さんのツバメも、子供のツバメも。
ねぐらで初めて会った仲間も、みんな一緒に群れを作って。
「まあ、最初はな」
群れなんだろうな、最初の間は。
「最初?」
なんなの、最初の間って。…群れを作って旅に出るんでしょ、みんなでねぐらに集まってから。
「そういう仕組みになってはいるが…」
集まってから旅に出るわけなんだが、ツバメってヤツは、群れじゃ渡らん。
「え?」
群れじゃないって、どういうことなの?
みんなで一緒に旅に出るんでしょ、途中でグループに分かれちゃうの?
仲良しの仲間と一緒に飛ぶとか、家族で飛んでゆくだとか。
「グループでもない。一羽ずつ飛んでいるんだそうだ」
海の上でツバメの渡りに出会った人たちがそう言っている。一羽ずつ飛んで来るんだ、と。
群れでドッサリ来るんじゃなくって、一羽通って行ったと見てたら、また一羽、とな。
「一羽ずつって…。それじゃ、寝る時だけ島に集合?」
ねぐらに集まる時と同じで、夜になったら、みんなで島に降りるとか。
「そうなるな」
島でもバラバラってことはないだろう。集まっている方が安全だから。
何処にでも天敵はいるもんだしなあ、一羽だけだと狙われやすい。その点、群れだと安心だ。
沢山いるな、と敵の方でも腰が引けるってことはあるから。
群れでは渡らないツバメ。海の上では一羽ずつ。けれど夜には島で一緒に眠るらしいから…。
「やっぱり島はあるんだね」
ツバメが旅をする時には、島。ちゃんとみんなで降りるんだから。
「島って…。今度は何の話だ?」
お前、ツバメと言ってなかったか、ツバメの次は島なのか?
「そっちを訊こうと思ってたんだよ。ツバメ、どうやって旅をするのか」
南の国には、一日で着けるわけないし…。うんと遠いし、どうするのかな、って。
寝ないと飛べなくなってしまうし、休憩できる島が要るでしょ?
南の国まで渡る途中に、降りて眠れる島とかが無いと…。
島があるなら、安心だよね。地図に載らない小さな島でも、ツバメには充分、広いだろうし。
「おいおい、島って…。いつもあるとは限らんぞ?」
まるで無いってこともないがだ、島が途切れる場所だってある。何処まで飛んでも海って所。
昼の間にせっせと飛んでも、島なんか見えて来ない場所がな。
「島が無いって…。じゃあ、どうするの?」
船があったら降りられるけれど、船があるとは限らないんだし…。
ツバメ、寝ないで飛んで行くわけ、降りられる島が見えて来るまで…?
「それじゃ身体が持たんだろうが。飛ぶだけの力は蓄えてるから、飛び続けられるが…」
人間と同じで、寝ないと馬鹿になっちまう。頭が回らなくなって。
だからツバメは飛びながら寝るんだ。寝不足で馬鹿にならないようにな。
「飛びながら寝るって…。落っこちちゃうよ?」
居眠りしちゃって、机に頭をぶつけるのと同じ。気が付いたら海の中じゃない…!
「それが、片目は開いているらしい。ちゃんと起きてて、周りも見ている」
身体が半分ずつ眠るわけだな、目を瞑っている方の半分だけが。
「半分ずつって…。器用すぎるよ!」
身体の半分はグッスリ寝ていて、片方は起きているなんて…!
それで寝られて疲れが取れるって、ツバメ、物凄く器用なんだけど…!
前のぼくでも絶対に無理、と悲鳴を上げた。
片方の目を瞑りながら飛ぶツバメたち。目を瞑った方の身体の半分、それは飛びながらも眠って休憩。寝不足で頭が鈍らないよう、身体の半分を眠らせて飛ぶ。
そんな飛び方は、ぼくでも無理、と。
「ぼくがツバメなら、落っこちちゃう…」
身体を半分、眠らせるなんて出来ないから…。疲れてしまって落っこちちゃうよ。
寝不足になって頭が疲れて、アッと思ったら海の中だよ、落っこちちゃって。
「落ちるって…。今のお前がか?」
サイオンがとことん不器用だしなあ、落ちるよりも前に飛べんと思うが。
「前のぼくでも落っこちるよ!」
身体を半分眠らせるんだよ、それで飛べると思っているの?
前のぼくが目を片方閉じたら、そっちの半分、寝られると思う?
其処まで器用なことが出来るなら、前のぼくの寿命はもっと長かったよ、絶対に…!
休憩時間が倍になるから、身体が疲れないんだもの。
「そんなトコだろうな、前のお前でも無理だろう」
人間の身体はツバメと違うし、半分だけ起きているのはなあ…。
出来ないのが普通で、出来たら、それこそ化け物だ。ミュウどころじゃない、別の生き物。
ツバメは器用に出来ちゃいるがだ、そのツバメ…。
もしも、と鳶色の瞳に見詰められた。「お前がツバメだったとしたら…」と。
「お前、不器用なんだしな?」
ツバメになっても、そいつはきっと変わらんだろう。
お前がツバメになっていたなら、俺が一緒に飛んでやるから。
普通は一羽ずつ渡るらしいが、そんなことは言っていられないってな。
「え…?」
ハーレイが一緒に飛んでくれるって、どういう意味?
「片方ずつ眠れないんだろ、お前」
身体の半分は眠らせておいて、もう片方は起きるってヤツ。
それが出来なくて落っこちちまうと、お前、自分で言ったじゃないか。
「うん…。多分、ツバメになっても無理…」
不器用だから、他のツバメなら出来ることでも出来そうにないよ。
片方だけ眠ればいいんだから、って他のツバメが教えてくれても、ぼくには無理そう…。
「ほらな。だから俺が一緒に飛んでやるんだ、お前とな」
前に話してやらなかったか、比翼の鳥というヤツを。
二羽で一緒に飛んでゆく鳥だ、いつも決して離れないで。
一緒に飛ぶから、翼も目玉も片方ずつしか持っていないってな。身体は一つなんだから。
「聞いたね、そういう鳥のお話」
雄と雌とがいつも一緒で、何処へ行く時も離れないって。
「俺たちは雄のツバメ同士だが、そんな感じで支えてやるさ」
身体は一つになってなくても、お前が眠って落っこちないよう、俺が頑張って支えてやる。
海に落っこちそうになるよりも前に、お前の翼を俺が支えて。
眠くて飛べないお前の身体を、俺が半分ずつ眠らせてやれるわけだな、うん。
俺と一緒なら飛べるだろ、お前。自分では眠れなくてもな。
「そうかも…!」
身体を片方休められら、きっと落ちずに飛んで行けるね。
ぼくが眠ってしまっていたって、身体の半分、ハーレイが起こしてくれそうだから。
そう、ハーレイとなら何処までも飛べる。
海の上に降りられる島が無くても、翼を休められる船が何処にも見えなくても。
眠りながらでも、ハーレイの翼に支えて貰って。きっと落っこちたりはしないで。
「良かった…。ツバメになっても、ハーレイがいれば落っこちないよ」
うんと不器用なツバメでも。…身体の半分、寝ながら飛べないようなツバメでも。
「安心しろ。俺は絶対、お前を落としはしないから」
前の俺みたいに、お前を失くすのは御免だからな。眠る時間が無くなったって、お前を支える。
俺は半分寝たりはしないで、両方とも起きて、お前と飛ぶんだ。休める所に降りられるまで。
だが、ツバメか…。
ツバメなんだな、とハーレイが溜息を零したから。
「どうかしたの?」
ハーレイ、ツバメに何か思い出でもあるの?
「思い出というか…。幸福な王子って話、知らないか?」
王子様の像と、ツバメが出て来る話なんだが。
「知ってる。古い童話だよね」
前のぼくたちが生きてた頃より、ずっと昔に生まれた童話。人間が地球しか知らなかった頃に。
「ツバメは幸せの鳥なんだが…。世界中、何処でもそうだったらしい。昔からな」
日本でも同じで、ツバメは幸せを運んで来ると言われていたんだが…。
あの話、思い出しちまった。幸福な王子。
ハーレイの顔は、溜息と同じに少し曇っているようで。
ツバメは幸せを運ぶ鳥なのに、何故、そうなるのか分からないから。
「幸福な王子…。幸せを運ぶよね、あのお話に出て来るツバメも」
お金が無くて困っている人に、宝石や金を届けてあげて。…貧しい人たちを沢山助けて。
王子様の像は、すっかり剥げてしまうけど…。
宝石も金も剥がれてしまって、最後は捨てられちゃうんだけれど。
「それだ、それ。…俺が言うのは、そこの所だ」
前のお前みたいだと思ってな。幸福な王子の話が、そのまま。
「えっと…。前のぼくって、あのツバメが?」
王子様のお手伝いで幸せを配りに、あちこちに飛んで行ってたツバメ?
「ツバメじゃなくて、王子の方だ」
とても綺麗な像だったのにな、町の自慢の立派な像。
なのに、王子は優しかったから…。自分の身体を飾る金も宝石も、何もかも全部与えちまった。
それがあったら助かる人たち、そういう人が貰うべきだと、ツバメに頼んで運んで貰って。
まるでお前だ、前のお前にそっくりだ。
シャングリラに乗ってたミュウの仲間たちに、自分の幸せを分けて、せっせと分け与えて。
自分の幸せは全部後回しで、いつも仲間が優先だった。「みんなのために」と。
そうやって生きて、最後はメギドで命まで捨てて…。
前のお前の生き方ってヤツは、幸福な王子そのままなんだが…。
その生き方、とハーレイがまた零した溜息。フウと大きく、辛そうな顔で。
「俺が手伝っちまったような気がしてな…」
前のお前が王子の像なら、俺はツバメの方なんだ。
お前の身体を飾る宝石や金を、お前に言われるままに剥がして、運んだツバメ。
すっかりみすぼらしくなるまで、最後に残った金箔を剥がしちまうまで。
「そうだった…?」
前のハーレイがツバメだったなんて、どうしてそういうことになるわけ?
ハーレイはいつも守ってくれたよ、ぼくのことを。
いつだって優しくて、チビだった頃からずっと一緒で…。ツバメとは違うと思うけど…。
「それはお前の心のことで、お前とはまた別だってな」
前のお前という存在。ソルジャー・ブルーと呼ばれた人間。
俺が一番古い友達で、お前の恋人だったのに。
友達にしたって、恋人にしたって、俺はお前を誰よりも先に守らなきゃいけなかったのに…。
俺がキャプテンだったばかりに、お前の幸せ、どんどん分けてしまったような…。
お前を優先してやる代わりに、他の仲間に届けに行って。…前のお前の分の幸せ。
しかもメギドに行くと知ってて、前の俺は止めなかったんだ。
あの話のツバメそのものだろうが、王子の像から目の宝石を抜き取ったツバメ。
それを抜いたら、王子の目は見えなくなっちまうのに。
そうなることが分かっているのに、ツバメは王子に頼まれるままに、抜き取っちまった。
やっては駄目だと思っていたって、それが王子の望みだったから。
前の俺がしたのも、それと全く同じだってな。
メギドに行くんだと分かっていたのに、お前を止めはしなかった。
そうすることが前のお前の望みで、お前が行ったら仲間の命を助けることが出来るんだから。
本当にツバメそのものだった、とハーレイが悔しげに噛んだ唇。
「俺は幸福な王子の像から、何もかもを剥がしたツバメなんだ」と。
「ツバメが最後に剥がしていくのは、金箔だったが…。目の宝石じゃなかったんだが…」
順番なんかはどうでもいいんだ、俺がそいつをやっちまったことが問題だ。
前のお前の幸せを全部、仲間たちに配って分けちまったこと。
金箔や宝石を剥がす代わりに、あの船で皆が生きてゆくのに必要な幸せというヤツを。
本当だったら、前のお前が持っていた筈の幸せを。
…悪いことをしちまった、前のお前に。
俺は運んじゃいけなかたのに…。
いくらお前の望みがそれでも、運んじまったら、お前の幸せも命も、全部…。
「それがハーレイの仕事だったんだもの、仕方がないよ」
キャプテンなんだし、船の仲間を守らなきゃ。仲間たちの命も、幸せだって。
船の仲間が幸せでないと、キャプテン失格になっちゃうよ?
それにハーレイも、あのお話のツバメとおんなじ。
ツバメは王子様のお手伝いをしている間に、南の国へ渡り損ねて死んじゃった…。
寒くなってしまって、身体が凍えて。
王子様に「さよなら」って伝えるのだけが精一杯で。
ハーレイは凍えて死んでしまう代わりに、地球に着くまで、ずっと悲しんで泣き続けてた。
ぼくが死んだのは自分のせいだ、って何度も何度も後悔して。
…ごめんね、ぼくの手伝いをさせて。
前のぼくの幸せ、仲間たちに運んで分けてあげて、って頼んでしまって。
ごめん、とハーレイに謝った。「そんなつもりじゃなかったんだよ」と。
ハーレイが前の自分の上に重ねた、幸福な王子。遠い昔に書かれた童話。
幸福な王子は、自分の身体を飾る宝石や金を失くして、みすぼらしくなってゆくけれど。輝きを失くしてゆくのだけれども、前の自分はそうではなかった。
宝石も金も無かった船でも、ソルジャーとして皆を導かねばならない立場でも。
最後はメギドで命まで捨ててしまったけれども、輝きはきっと失くしていない。みすぼらしくもなってはいない。大切なものは持っていたから、それを失くしはしなかったから。
「前のぼく、幸せを分けてしまったかもしれないけれど…」
多分、本当にそうだったんだとは思うけれども、幸せだったよ。…どんな時でも。
前のぼくは幸せだったから…。シャングリラで暮らしていられただけで。
幸せじゃないと思ったことなんか一度も無いよ。
ぼくの幸せ、いつもしっかり持っていたから。…誰にも分けてしまわないで。
「そうなのか?」
お前、何もかも分けちまったのに…。俺がそいつを配っていたのに、持っていたのか?
誰にも分けずに持っていたなんて、俺には信じられないんだが…?
「ちゃんと持っていたよ、分けないままで独り占めだよ」
分けてしまうわけないじゃない。…ぼくの側にいてくれた、友達で恋人だった前のハーレイを。
誰にも分けるつもりなんか無いし、頼まれたって分けてあげない。
前のハーレイは前のぼくだけのもので、一番大切な友達で恋人だったんだから。
いつも頑張っていられたのだって、ハーレイが一緒に飛んでいてくれたからなんだよ。
ツバメになって海の上を飛んでいく時みたいに、支えてくれて。
ぼくが眠って落っこちないように、ハーレイが隣を離れずに飛んでいてくれて。
前のハーレイと一緒に飛んでいたから幸せだった、と微笑んでみせた。
ハーレイと二人で海を越えて飛んで、いつも支えて貰っていたと。
「ホントだよ? 前のハーレイと、いつでも一緒」
眠っちゃっても、ハーレイが隣を飛んでくれていたから、落ちずに飛んでいられたよ。
もう駄目だ、って海に落ちたりしないで、最後まで飛んで行けたんだよ。
…地球までは飛べなかったけど…。南の国には着けなかったけど。
「お前もツバメか、王子じゃないのか?」
王子の像だと思うんだがなあ、前のお前は。
幸せを全部ツバメに配らせちまって、何もかも失くしちまった王子。…命さえもな。
「王子様じゃないよ、あのお話の王子みたいに偉くはなかったよ」
ぼくの幸せは誰にも分けずに、最後まで独り占めだったから。誰にも配らなかったから。
ハーレイを分けてあげたりしないよ、ぼくの大事な恋人だもの。
だから幸せは失くしていないよ、全部配ってはいないんだよ。…一番大切だった分はね。
それで失敗しちゃったのかな?
自分の幸せを独り占めして抱えていたから、罰が当たって落としたかな…?
ハーレイの温もり、最後まで持っていたかったのに…。
メギドで失くして右手が凍えて、前のぼく、泣きながら死んじゃった…。独りぼっちで。
幸せを独り占めしていた罰かな、誰にも分けてあげないよ、って。
「馬鹿。…前のお前は配り過ぎたくらいだ、王子よりもな」
自分の幸せを配り続けて、全部みんなに分けちまって。
最後は俺とも離れちまった、前のお前は独り占めしようとしていたのにな…?
俺を誰にも配らないのが、お前の幸せだったのに…。
その俺を仲間たちのために分けちまったんだ、最後の最後に。
キャプテンの俺がいなくなったら、シャングリラはどうにもならないんだから。
お前は俺まで配っちまった、とハーレイが零した深い溜息。「本当に全部配ったんだ」と。
「幸せを配る手伝いをしてた、ツバメまでお前は配っちまった」
ツバメは俺だったんだから。…俺がお前の幸せを分けて、仲間に配っていたんだから。
そのツバメまでも、前のお前は仲間たちのために残していった。
シャングリラを地球まで運ばせるために、みんなが幸せになれるようにと。
幸福な王子は、ツバメを失くしやしなかった。
ツバメは最後に凍えて死ぬまで、王子の側にいたんだから。…何処へも飛んで行かないで。
王子に「さよなら」のキスをした後、ツバメは王子の足元に落ちて死んじまうがな…。
その瞬間に、王子の鉛の心臓も壊れてしまうだろうが。
王子は最後までツバメと一緒だったんだ。死んで天国に昇る時まで。
…だがな、前のお前は最後は一人きりだった。仲間たちのために俺を残して行ったんだから。
そうじゃないのか、と言われれば、そう。
幸福な王子はツバメと離れなかったけれども、前の自分はツバメと別れてメギドに飛んだ。
ツバメの仕事は、幸せを運ぶことだったから。
前の自分がいなくなった後も、皆に幸せを配り続けて欲しかったから。
キャプテンとして船の舵を握って、宇宙の何処かにある筈の地球へ。
青く輝く水の星まで、シャングリラを運んで欲しかったから。
(…前のぼく、ツバメまで配っちゃったの…?)
幸福な王子は宝石も金も失くした後にも、ツバメと一緒だったのに。
鉛の心臓が壊れる時まで、ツバメは王子の側にいたのに。
それを思えば、前の自分は本当に幸せを全部配ってしまった、幸福な王子だったのだろう。
皆に幸せを運ぶツバメを、前のハーレイを皆に配ってしまったから。
ツバメがいないと青い地球まで行けはしない船、それをツバメに託したから。
誰にも分けずに独り占めしていた、前のハーレイ。
そのハーレイを皆に配って、一人きりでメギドに飛び去った自分。
これでいいのだと、ハーレイの温もりだけを右手に持って。
ずっと一緒だと、心はハーレイと一緒なのだと、ツバメとも別れて、たった一人で。
そうやってメギドに飛んだというのに、温もりを落として失くした自分。
幸せのツバメを仲間たちに配って、独りぼっちで泣きじゃくりながらメギドで死んだ。ツバメは側にいなかったから。幸福な王子でも配らなかった、ツバメまで配ってしまったから。
自分の幸せを配り尽くして、独りぼっちで死んでいったけれど。
死よりも恐ろしい絶望と孤独、それに包まれて前の自分の命は終わってしまったけれど…。
「えっとね…。前のぼく、ホントに配り過ぎちゃったかもしれないけれど…」
前のハーレイまで配ってしまって、独りぼっちになっちゃったけど…。
ちゃんと幸せだよ、またハーレイと生まれて来たよ?
青い地球まで来られたんだよ、前のぼくは地球まで飛ぶよりも前に落っこちたのに…。
南の国には辿り着けなくて、海に落っこちちゃったのに…。
ハーレイと離れて飛んでいたから、支えて貰えなくなって、もう飛べなくて…。
だけど地球だよ、ハーレイと二人で青い地球に生まれて、また会えたんだよ。
「そいつが神様の御褒美ってヤツだ」
幸福な王子の話と同じで、頑張ったから。
神様が天国に運ぶ代わりに、地球に連れて来て下さったってな。
お前、その方が嬉しいだろうが。天国で暮らしていたかもしれんが、青い地球の方が。
「青い地球、ずっと見たかったから…。天国よりも、今の地球の方がいいよ」
ハーレイも御褒美、貰ったんだね。ぼくと一緒に地球に来たもの。
頑張って幸せを配っていたから、神様が御褒美、くれたんだね。
「どうだかなあ…?」
俺の場合は、お前が貰った御褒美のオマケ、そんな所じゃないかという気がするんだが…。
なにしろ幸せを配っただけだし、配っていたのは前のお前の幸せだから。
お前、俺がいないと、どうにもならないようだしな?
側でしっかり支えてやれ、って神様が俺をオマケにつけたんじゃないか、御褒美のオマケ。
「オマケじゃないと思うけど…。ハーレイがいないと駄目なのはホント」
落っこちてしまうよ、寝てしまって。…半分眠って飛ぶなんてことは出来ないんだから。
「今度も支えてやらんとなあ…」
前よりも不器用になっちまった分、余計に一人じゃ飛べそうにないしな、今のお前は。
しかし…、とハーレイが顰めた眉。「今度は俺と飛ぶだけだぞ」と。
「俺と一緒に飛ぶのはいい。…いくらでも支えて飛んでやるから」
前の俺と同じで、お前の側で。お前が不器用なツバメだったら、海に落っこちないように。
だが、幸せは配るんじゃないぞ、前のお前とは違うんだから。
幸せを分ける仲間はいないが、今から念を押しておく。…配るんじゃない、と。
お前だけの幸せをしっかり持ってろ、誰にも分けたり配ったりせずに。
欲張りなヤツだと思われたってだ、今度のお前は分けなくていい。お前の幸せはお前のものだ。
お前が一人で大事に抱えて、誰にも分けずに独り占めってな。
「独り占めって…。誰にも分けずに、欲張りだなんて…」
それでいいの、そんなことをしちゃっても…?
お菓子でも何でも、独り占めより、分けた方がいいと思うけど…。
その方が幸せな気分になれるし、分けて貰った人も幸せになれるのに…。
「絶対に分けちゃいかん、と言ってはいないぞ、俺は」
お前だけの幸せを分けちゃ駄目だ、と言っているんだ。…前のお前がやったみたいに。
俺まで配ってしまっただろうが、お前は独り占めしたかったのに。
幸福な王子の話でさえもだ、王子はツバメを配ってしまいやしなかったのに。
それなのに、お前は配っちまった。
前のお前の幸せをせっせと、皆に運んで届け続けていたツバメをな。これも要るだろう、と。
確かにツバメを配らなければ、シャングリラは地球まで行けたかどうか怪しいが…。
それでも配りすぎだぞ、あれは。
ツバメまで配った幸福な王子じゃ、可哀相すぎる。いくら立派な王子でもな。
だから今度は配るんじゃない。お前だけの幸せは配らないで持ってろ、神様も許して下さるさ。
前のお前が配り過ぎたからな、仲間たちのことばかりを考え続けて。
ツバメも配っておかないと、と俺を仲間たちのために船に残して、一人で飛んで行っちまった。
幸福な王子でも、ツバメは最後まで配りはしないで、一緒に天国に昇るのに…。
ツバメの方だって、王子を残して南の国へは行かずに残っていたのにな…?
凍えて死ぬんだと分かっていたって、ツバメは王子の側にいたんだ。
王子には自分が必要だからと、支えて一緒に飛ばなければ、と。
そのツバメを配ってしまったのが前のお前ってヤツで、配られたツバメの気分ときたら…。
俺も悲しい気持ちだったが、お前はもっと辛かったよな、と大きな手で優しく撫でられた頭。
「ツバメまで配っちまったなんて」と、「何もかも配っちまったなんて」と。
今度のお前は、ちゃんと幸せにならないと…、と微笑むハーレイが側にいてくれるから。
前の自分を支え続けて、飛んでいてくれたのがハーレイだから…。
(きっと幸せになれるんだよ)
いつか大きく育ったら。
前の自分と同じに育って、ハーレイと二人で暮らし始めたら。
眠ってしまって海に落っこちないよう、今度もハーレイと一緒に飛ぼう。
ツバメは一羽ずつ海を渡って飛んでゆくけれど、ツバメだとしても、ハーレイと二人。
前の自分がそうだったように、ハーレイの翼に支えて貰って。
いつまでも、何処までも、ハーレイと二人で青い地球の上を飛び続けよう。
二人なら、きっと幸せだから。
今度はハーレイと離れないから、もうハーレイまで配らなくてもいいのだから…。
幸福な王子・了
※幸福な王子そのものだった、とハーレイが言う、前のブルーの生き方。全てを皆に配って。
最後はツバメまで配ったのですが、今度はツバメと何処までも一緒。長い渡りをする時にも。
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