シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(今度の土曜日…)
お菓子はパウンドケーキがいいな、と考えたブルー。
学校から帰っておやつの時間に、ダイニングで。何かのはずみに、なんとなく、ふと。
頬張っていたのはアップルパイで、パウンドケーキとは似てもいないのに。味も舌触りも、見た目もまるで違うのに。
けれど思い付いたパウンドケーキ。何の飾りも無いシンプルなケーキ、ごくごくプレーンなのがいい。チョコレートもバナナも入っていなくて、小麦粉と卵とバターと砂糖だけで焼くのが。
(ハーレイの大好物…)
好き嫌いが無いハーレイだけれど、大好物はちゃんと存在する。母のパウンドケーキが、そう。
一番幸せそうに食べるケーキで、その時のハーレイの顔が大好き。
(何でも美味しそうに食べているけど…)
見ている方まで幸せになれる顔なのだけれど、パウンドケーキは中でも特別。
ハーレイの「おふくろの味」だから。隣町で暮らすハーレイの母が作るのと同じ味らしいから。
単純なレシピのケーキだというのに、ハーレイが焼いても同じ味にはならないという。
(不思議だよね?)
本当に不思議でたまらないけれど、母のパウンドケーキを食べるハーレイはいつも幸せそうで。子供みたいに嬉しそうな顔の時もあるから、特別なのがパウンドケーキ。
あのハーレイの顔をゆっくり見るなら、土曜が一番。普段の日よりも、時間がたっぷり。
だからパウンドケーキがいい。ハーレイの好きなケーキがいい。
それがいいな、と考えたけれど、パウンドケーキを焼くのは母。頼まないと焼いて貰えない。
何も言わずに放っておいたら、別のケーキが出て来るだろう。でなければパイやスフレだとか。
(ママに注文…)
しなくっちゃ、と思った所へ、母が入って来たものだから。
「ママ!」
「なあに?」
どうかしたの、と尋ねた母。「アップルパイはもう、あげないわよ」と。「食べ過ぎるから」と軽く睨まれたけれど、頼みたいものは今日のおやつではなくて…。
「えっとね…。おやつの話なんだけど…」
今じゃなくって、今度の土曜日。…土曜日のおやつ、パウンドケーキを焼いてくれない?
ハーレイが来てくれる時に、と注文した。「うんと普通のパウンドケーキ」と。
「いいわよ、基本のパウンドケーキね。…余計な味はつけないケーキ」
ハーレイ先生、プレーンなのが、とてもお好きだものね。
「そうでしょ?」
あれが一番好きらしいんだよ、チョコレート味も好きだけど…。バナナ入りでもいいんだけど。
だけどプレーンが大好きみたい、と母に話したハーレイの好み。
一度だけハーレイの家に遊びに出掛けた時にも、持って行ったのがパウンドケーキ。
母だってよく知っているから、「分かったわ」と笑顔で引き受けてくれた。
「パウンドケーキね、土曜日には」
「忘れないでよ?」
「もちろんよ。それに材料は、いつでも家に揃っているから」
買い忘れたりする心配も無いわ、と言って貰えたけれど。
「そうなんだけど…。絶対だよ?」
約束だからね、と母と指切りをした。「忘れないでね」と。
土曜日は絶対パウンドケーキ、と。ハーレイの好きなプレーンでお願い、と。
おやつを食べ終えて、戻った二階の自分の部屋。
勉強机の前に座って幸せな気分。頬杖をついて、顔を綻ばせて。
(ふふっ、土曜日はパウンドケーキ…)
ハーレイが好きな「おふくろの味」。幸せそうな顔が見えるよう。「おっ?」と輝かせる顔も。
「こいつは俺の好物だな」と、「この味が実に好きなんだ」と。
食べる前から嬉しそうなのに決まっている。一目見たなら、そうだと分かるパウンドケーキ。
ぼくが注文したんだから、と誇らしげに披露したならば…。
(御礼にキス…)
して貰えるかな、と思うけれども。「流石は俺の恋人だよな」と褒めても貰えそうだけど。
いくらハーレイが大喜びでも、御礼のキスを贈ってくれても…。
(どうせ、おでこか頬っぺたなんだよ)
御礼のキスを貰える場所は。
ハーレイの唇が触れてゆく場所は、額か頬に決まっている。いつも其処にしか貰えないキス。
欲しくてたまらない唇へのキスは、ケチなハーレイが「駄目だ」と言うから。何度強請っても、断られるのが唇へのキス。「前のお前と同じ背丈に育つまでは、俺はキスはしない」と。
(だから御礼のキスだって…)
して貰えても、額か頬に。「これだけなの?」と頬っぺたを膨らませたって。
けれど、ハーレイの笑顔は見られる。幸せそうに食べる顔だって見られる、パウンドケーキさえ用意したなら。…こちらまで幸せになってくるような表情を。
「キスは駄目だ」と叱られたって、パウンドケーキの御礼は聞ける。「ありがとう」と。
「俺の好物、ちゃんと分かってくれているよな」と、「こいつは、おふくろの味なんだ」と。
今のハーレイの「おふくろの味」。それを出せるのが今度の土曜日。
いつかは自分で焼きたいけれども、まだ無理だから母任せ。「焼いてね」と出しておいた注文。
(幸せだよね…)
ハーレイのために、恋人のために用意するケーキ。大好物のパウンドケーキ。
自分で焼いたものでなくても、「食べてね」とハーレイに出せる幸せ。喜んで貰える大好物を。
(ハーレイが好きなパウンドケーキ…)
ママに頼んであるんだものね、と眺めた小指。ちゃんと指切りしたんだから、と。
指切りまでして約束したから、母は忘れはしないだろう。キッチンにもメモを貼っておくとか、部屋のカレンダーに書き込んだりして。「土曜日のおやつはパウンドケーキ」と。
ただ「お願い」と言っただけではないのだから。「約束だよ」と指切りだから。
母としっかり絡めた小指を、指と指とでした約束を、小指を見ながら思い出していて…。
(…あれ?)
よくハーレイとも交わす指切り。何か約束した時は。「忘れないでね」と約束の印。
褐色の大きな手に見合った小指。チビの自分の細っこい指より、ずっと太くて力強い指。
指切りしようと絡めた時には、褐色と白が絡み合う。ハーレイの肌と自分の肌と。あまり意識はしていないけれど、対照的な二本の小指。色も、太さも。
それを互いに絡めて約束、キュッと力をこめる指切り。
時には腕ごとブンブンと振って、「約束だよ?」と念を押したりもする。「破らないでね」と。
指切りの約束は、言葉だけでの約束よりも強いから。
二人の間で交わした約束、それを「破らない」と誓う印が指切りだから。
何度もハーレイと指切りをした。指を絡めて、約束の印。
約束の中身は本当に色々、ほんの数日後に果たされるものや、まだまだ遠い未来のものや。幾つあるのか数えてみたって、きっと山ほどあることだろう。遠い未来の約束だけでも。
(好き嫌い探しの旅に行くのも、宇宙から青い地球を見るのも…)
どれもまだ遠い未来の約束、いつか結婚してからのこと。
最初に約束を交わした時には、指切りはしていないかもしれない。幸せな夢で胸が一杯だから。夢見るだけで、もう充分なほどの幸せすぎる約束だから。
(…でも、何回も…)
思い出す度に、「いつか行こうね」と交わす約束。指切りだって何回もした。好き嫌いを探しに旅をすることも、宇宙から青い地球を見ることも。他にも約束は沢山あって、指切りだって。
何度も何度も交わした指切り、本当に数え切れないほど。ハーレイと小指をキュッと絡めて。
けれども、前の自分たちは…。
白いシャングリラで共に暮らした、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは…。
(指切り、してない…?)
もしかしたら、と気付いたこと。
今の自分は何度もハーレイと指切りしたのに、前の自分はしなかったろうか、と。
互いの指を絡める約束、それを交わさなかっただろうか、と。
そんなことが…、と遠い記憶を探るけれども、覚えていない。指切りをした記憶が無い。
「約束だよ」と交わす指切り、それこそ何度もハーレイとしていそうなのに。
平和な今の時代と違って、明日さえも見えなかった船。其処で懸命に生きてゆく中、約束しない筈がない。それこそ、指をキュッと絡めて。互いの想いを確かめ合って。
今ならほんの小さなことでも、前の自分たちには大きすぎるものが幾つもあった。必ず来るとは言えなかった明日、明ける保証が無かった夜。…シャングリラが沈めば「明日」は無いから。
そういう船で生きていたから、約束するなら指切りが似合い。「約束だよ」と。
指を絡めて約束したなら、普通よりも遥かに強い約束。叶いそうな気持ちも強くなるから、何か約束するなら指切り。…今の時代なら、そこまでしなくていい中身でも。
「そんなことまで指切りなの?」と、笑い出しそうな約束さえも。
たとえば、「今夜また会おう」とか。
夜には必ずハーレイが青の間に来るというのに、そういう決まりになっていたのに。
(…シャングリラの夜は、ちゃんとやって来るとは限らなくって…)
昼の間に人類軍に攻撃されたら、もう来ないかもしれなかった夜。
白いシャングリラが沈んでしまえば、それで全てが終わるから。前の自分たちの命も、恋も。
明日さえも危うかった船。夜が明けても、無事に日暮れを迎えられるとは言えなかった船。
綱渡りのような日々を生きてゆく中、ハーレイと何か約束するなら、指切りだろうと思うのに。それが相応しいという気がするのに、まるで記憶に無い指切り。
どうしたわけだか、ただの一度も。
(…前のぼくは、手袋…)
素手とは違って、いつでも着けていたのが手袋。ソルジャーの衣装を構成するもの。
あれをはめていたせいなのかな、とも考えたけれど。手袋が小指を包んでいたから、指切りには向かなかっただろうか、と思ったけれど。
(手袋、本物の肌と同じで…)
着けたままでも、違和感を感じたことは無かった。水に触れれば濡れたと分かるし、誰かの手に触れれば温もりも分かる。そういう風に感じるようにと出来ていた素材。
手袋をはめたままでいたって、何の不自由も無いように。素肌と同じに思えるように。
もっとも、手袋が出来て間も無い頃には違ったけれど。仰々しいだけの衣装の一部で、快適とは言えなかった品。船にあった布で作られただけで、何の工夫も無かったから。
けれど、技術は日進月歩。白い鯨を作り上げたように、ミュウの技術も進んでいった。ミュウが持つサイオンなどを生かして、改良を重ねたソルジャーの衣装。
手袋は肌の一部と変わらなくなり、それでいて強い防御力を秘めた優れたものに。紫のマントや白い上着も、爆風や高熱に耐え得る強度を備えながらも、着心地の良さを誇れるものに。
(…あの手袋が邪魔だった筈は…)
なかったよね、と今でも分かる。
何かする時に、邪魔だと思ったことは無いから。「外したい」と思いもしなかったから。
手袋のせいではなかった筈だ、と思える指切りをしなかった理由。あの手袋なら、互いに絡めた指の温もりも、強さも伝えてくれたろうから。それが伝わる素材で出来ていたのだから。
(…それに、ハーレイが夜に青の間に来た時には…)
最初にすることは、キャプテンとしての一日の報告。ソルジャーだった前の自分に。
恋人同士になるよりも前から、そう決まっていたスケジュール。一日の終わりに、ソルジャーに報告すべきこと。船を纏めるキャプテンの仕事の締め括り。ブリッジでの勤務を終えたなら。
そのハーレイの報告が済んだら、外した手袋。恋人同士になった後には、「もう要らない」と。
恋人同士の二人なのだし、ソルジャーの衣装は邪魔になるだけ。
だから一番に外した手袋、二人きりの時間の始まりの合図。時には「早く」と促すように外したことも。ハーレイの報告が長く続いて、さして重要でもなかった時は。
「早く報告を終わらせて」と。「待ちくたびれた」と、「それは重要ではないだろう?」と。
ハーレイも意味を知っていたから、「すみません」と浮かべた苦笑。
「もう少しだけお待ち下さい」と、「これがキャプテンの仕事ですから」と。
そう言いながらも、多分、急いで切り上げていた。せっかちな恋人を待たせないよう、長すぎる報告を慌てて纏めて。「以上です」と早く言えるようにと。
報告が終われば、外してしまっていた手袋。「ソルジャーじゃない」という思いをこめて。
此処にいるのは「ただのブルー」だと、そう扱って欲しいのだ、と。
手袋を外した後になったら、もう簡単に出来る指切り。手袋に隔てられることなく、指と指とを絡められるから。褐色の小指と白い小指を、直接絡められるのだから。
二人きりの時間を過ごす間に、幾つも交わしただろう約束。小さなことから、遠く遥かな、まだ見えもしない未来のことも。「いつか地球まで辿り着いたら」と、様々な夢を。
そうでなくても、朝になったら「また夜に」とキスを交わして、指切りだって。
夜が必ず訪れるとは誰も言えない船だったのだし、指を絡めて約束を。「また夜に会おう」と。
恋人同士で約束するなら、本当に似合いそうなのに。…小指を絡め合いそうなのに。
(…キスしていたから、指切りは無し?)
唇を重ねる、恋人同士の本物のキス。強く抱き合って交わしていたから、指切りの出番はまるで全く無かったろうか。キスの方がずっと確かな誓いで、約束に向いていたのだろうか。
その可能性も高いよね、と思ったけれど。
チビの自分には「早すぎる」とハーレイが顔を顰めるから、そうなのかも、と考えたけれど。
(でも、もっと前…)
ハーレイと恋人同士になるよりも前も、指切りをした記憶が無い。
どんなに記憶を遡ってみても、ハーレイと指を絡めてはいない。青の間でも、白い鯨に改造する前の船で暮らしていた頃も。
(…ソルジャーとキャプテンだったから?)
皆を導く立場のソルジャー、船の舵を握っていたキャプテン。そういう肩書きの二人だったし、約束するなら指切りなどより、きちんと言葉か、あるいは書類にサインをするか。
けれど、ハーレイとは一番の友達同士でもあった。ハーレイの「一番古い友達」、そう呼ばれていた前の自分。アルタミラを脱出した直後から、「俺の一番古い友達だ」と。
仲のいい友達同士だったら、交わしていそうに思える指切り。「約束だよ」と。
それとも、一人前の大人だったから、指切りはしなかっただろうか?
小さな子供ではないのだから、と言葉で交わしていた約束。指と指とを絡める代わりに。
そうだったかも、と遠い記憶を遡る。大人同士なら、指切りはしないかもしれない。
今の自分の両親だって、指切りをしてはいないから。…少なくとも、チビの自分の前では。
前の自分たちもそうだったろうか、「指切りは子供がするものだから」と。
(だけど、指切り…)
今と変わらないチビだった頃にも、覚えが無い。心も身体も成長を止めて、子供の姿で過ごしていたのが前の自分。アルタミラを脱出するまでは。…狭い檻の中にいた頃は。
船で宇宙に逃げ出した後も、暫くはチビのままだった。少しずつ育っていったけれども、チビはチビ。船では一人きりだった子供、本当の年齢はともかくとして。
ブラウやヒルマン、ゼルやエラたちも、「子供だからね」と面倒を見てくれていた。サイオンはとても強いけれども、身体も心もまだ子供だ、と。
子供なのだし、ハーレイと指切りしてもいい。「約束だよ?」と指を絡めて。
なのに記憶に無いというのは、ハーレイが大人だったからなのだろうか?
自分はともかく、ハーレイは大人。…指切りはしそうにない大人。
(そうなのかな…?)
本当は指切りしたいのだけれど、「子供っぽいよね?」と遠慮をして。
自分よりもずっと大人のハーレイ、そのハーレイを捕まえて「指切りしよう」とは言えなくて。
そうでなければ、ハーレイの方が「柄じゃないな」と思っていたとか。
大人は指切りしないものだし、子供相手でも「なんだかなあ…」と思うかもしれない。指と指を絡めてみたとしたって、子供の手と大人の大きな手。
今と同じに、ハーレイの手と自分の手とでは、大きさがまるで違うから。
前のハーレイが「こういう時には指切りだろうな」と気付いたとしても、気恥ずかしさを覚えたかもしれない。「俺の柄じゃないぞ」と、「指切りは子供がするモンだしな?」と。
そういうことなら、指切りの記憶は無くて当然。…前のハーレイとは指切りしていないから。
だとすると、今のハーレイは…。何度も自分と指切りをしてくれたハーレイは…。
(ママと同じで、ぼくに合わせてくれていて…)
優しいんだよね、と零れた笑み。前のハーレイも優しかったけれど、指切りはしていないから。
きっと船では仲間がいたから、大人ばかりの船だったから。
(…指切りするような子供は、ぼくだけだったし…)
他の仲間とはしない指切り、それをわざわざするまでもない、とハーレイは考えたのだろう。
指切りが似合いのチビだった自分は、まだハーレイとは友達同士。恋人同士とは違ったのだし、特別扱いしなくてもいい。
「お前だけだぞ?」とコッソリ指切りしなくても。指と指とを絡めなくても。
けれども、今の自分は違う。キスも出来ないチビの子供でも、今のハーレイとは恋人同士。前の生での恋の続きを生きているから、友達同士だった頃とは違う。
(指切りだって、して貰えるよね?)
たとえハーレイの柄ではなくても、大人は指切りしないものでも。…子供同士がするものでも。
「約束だよ?」と指を差し出したら、絡めて貰えるハーレイの小指。
キスは駄目でも、小指は絡められるから。キュッと絡めて、誓いの印に出来るから。
(きっとそうだよ…)
今のぼくだから指切りなんだ、と小指に感じた幸せな想い。チビでも恋人だから指切り、と。
ハーレイは柔道部の生徒たちとは、指切りしないに違いない。どんなに大切な約束事でも、指を絡めはしないだろう。柔道部員たちがまだ子供でも、ハーレイは大人で「柄じゃない」から。
前の自分がチビだった時にそうだったように、指切りは無しで約束だけ。
きっと特別、今の自分だけが。
ハーレイと指切りが出来る子供は、本当に幼い子供を除けば、この世界に自分だけしかいない。
(…ホントに小さい子供だったら…)
小さな小さな手を差し出されたら、ハーレイも指切りするだろうけれど。…しなかったならば、大人げないということになるから。幼い子供の可愛い願いは、聞いてやるのが大人だから。
本当に小さな子供以外で、ハーレイと指切り出来る人間は自分だけ。チビの恋人の自分だけ。
前の自分はチビでも指切り出来なかったけれど、それは恋人ではなかったから。
(…今のぼくだけ…)
ぼくの特権、と胸がじんわり温かくなった所へ聞こえたチャイム。そのハーレイが仕事の帰りに訪ねて来てくれたから、してみたくなった指切りの約束。今の自分だけが出来ること。
だからテーブルを挟んで向かい合わせで、鳶色の瞳を見詰めて訊いた。
「ねえ、ハーレイ。…ちょっと指切りしてもいい?」
約束の指切り。ハーレイと指切り、したいんだけど…。
「指切りって…。何故だ?」
なんでまた、とハーレイは怪訝そうだから。
「えっと、約束…。土曜日、来るでしょ?」
今度の土曜日は来てくれるんでしょ、用事があるって聞いてないもの。
「そりゃ、来るが…」
俺はそういうつもりをしてるし、お前の都合が悪いんでなけりゃ、いつもと同じだ。午前中には来ているだろうな、お前の家に。
「だったら約束してもいいよね、「必ず来る」って」
平日だったら、必ずっていうのは無理だけど…。約束したって、用事が出来たら駄目だから。
急な会議が入ったりもするし、他の先生と食事に行くとか、柔道部で何かあるだとか…。
「確かにな。…平日については、出来ん約束ではあるよな、それは」
必ず来るって約束は無理だ。大丈夫だろうと思っていたって、その日になるまで分からんし…。
朝には無かった筈の用事が、放課後に急に出来るというのも珍しくないし。
約束しとくか、土曜日の分は。…其処は間違いなく空いてるからな。
よし、と絡めて貰った小指。ハーレイの強くてがっしりした指。
小指と小指を絡め合わせて「約束だよ」と交わした指切り。「土曜日はぼくの家に来てね」と、「絶対だよ」と。
何度もハーレイに念を押してから小指を離して、幸せな気持ちで微笑んだ。指切りした小指を、反対側の手で確かめながら。
「あのね、指切り…。今もしたけど…」
ぼく、ハーレイの特別だよね?
ちゃんと指切りしてくれるんだし、ぼくはハーレイの特別なんでしょ?
「はあ? 特別って…」
なんだ、そいつはどういう意味だ?
分からんぞ、とハーレイが言うから、「そう?」と返した。
「ハーレイ、柔道部の生徒とだったら、しないでしょ?」
「何をだ?」
「だから、指切り。…だって、ハーレイの柄じゃないから」
「いや…?」
する時はするが、という返事。
柔道部員たちとも指切りはすると、あちらが指を出して来たら、と。
なまじっか力が強いものだから、強引にやられることもあるな、と苦笑いまで。
適当な所で指を離そうと考えていても、「約束ですよ」と、ハーレイの手をブンブン振る生徒がいるらしい。「これだけしっかり約束したから、破らないで下さいね」と。
次の試合で好成績なら、何かおごって欲しいとか。おごってくれるなら、これがいいとか。
「俺の意見は関係無しだ」と、「酷いもんだ」とハーレイが笑う柔道部員たちとの指切り。一度ハーレイと指を絡めたら、離さないらしい逞しい彼ら。
「いやもう、困ったヤツらだってな。…まったく、何が約束なんだか…」
指切りしたから絶対ですよ、と言われちまうと、俺もどうにも出来ないからな。
「…ホントなの?」
ハーレイ、ぼくじゃなくても指切りするの?
頼まれちゃったら、柔道部の生徒が指を出して来ても指切りなの…?
「お前が何を言っているのか分からんが…。指切りくらいは普通だろうが」
柔道部員のヤツらじゃなくても、俺は指切りしているぞ。流石に大人は頼んでこないが…。
頼まれた時は、女の子とでも指切りだな、うん。
「えーっ!?」
女の子って…。学校の子だよね、ハーレイ、頼まれたら女の子とでも指切りするの…?
柔道部員よりも柄じゃなさそうなのに、どうしてなの、と叫んだら、ハーレイも目を丸くして。
「お前の方こそ、どうしたんだ。…柄じゃないというのもサッパリだが…」
それよりも前に、指切りだとか、お前だけが特別だとか、その辺からして謎だってな。
いったい何処から、そういう話になったんだ。指切りは何処から出て来たんだ…?
「…前のぼく…。前のぼく、指切りしていないんだよ、ハーレイと…」
頑張って思い出してみたけど、ホントに一度もしていないみたい。…前のハーレイとは。
恋人同士になって、キスで約束するようになる前も、していないんだよ。指切りは。
チビだった頃にもしていないから、前のぼく、ハーレイに遠慮していたのかな、って…。
だってハーレイは大人だったし、指切りなんて「俺の柄じゃないな」って恥ずかしそうな感じに見えたとか…。それで指切り、頼もうと思わなかったとか。
だから前のハーレイとは指切りしないで、代わりに約束。…多分、言葉だけで。
今のぼくだと、チビでも恋人同士だから…。ハーレイ、指切りしてくれるのかな、って…。
「なるほどな…。それで特別だと思ったわけか」
前のお前がチビだった頃と違って、今は特別。そう考えたのが、俺の指切りなんだな…?
ふむ、と腕組みしたハーレイ。「お前の言いたいことは分かった」と。「しかし…」とも。
ハーレイの顔に浮かんだ穏やかな笑み。「ユニークな発想ではあるが…」と。
「斬新な考えだとも思うが、そいつはお前の勘違いだ」
残念ながら、そういうことになっちまうってな。…お前が特別ってわけではなくて。
「勘違い?」
ぼくが勘違いをしているわけなの、ハーレイの特別だから指切りだ、って…?
ハーレイが、柔道部の生徒とも、女の子とも指切りしてるんだったら、本当にぼくの勘違い…?
「そうだ、勘違いというヤツだ。…いいか、よくよく考えてみろよ?」
お前、いつから指切りしてる?
俺と指切りするんじゃなくてだ、誰とでもいいが、指切りってヤツを。指切りで約束、いつからしている…?
「えーっと…?」
約束する時は指切りだから…。さっきもママと指切りしてたし、小さい頃から…。
友達とだって、大事な約束は指切りだよね、と手繰ったチビの自分の記憶。指切りの記憶。
多分、物心つくよりも前からしていたのだろう。覚えていないだけで、両親たちと。
大切な約束をする時だったら、いつも指切り。両親はもちろん、幼稚園や学校の友達とも。
だから「前から」と答えたけれど。「うんと小さい頃からだよ」と言ったのだけれど。
「俺もそうなんだが…。ガキの頃から、約束と言えば指切りだったが…」
前の俺たちの場合はだな…。少々、事情が異なるってな。
今のお前や俺とは違う、というハーレイの指摘で気付いたこと。前の自分が失くしてしまった、子供時代の記憶というもの。前のハーレイもそれは同じで、何も覚えてはいなかった。成人検査を受ける前のことは、ミュウと判断される前の記憶は、何一つとして。
いつから指切りをやっていたのか、誰と指切りで約束したか。…そんな記憶を持ってはいない。下手をしたなら、指切りをしていたことさえも…。
「…前のぼく、忘れちゃってたの? ぼくだけじゃなくて、前のハーレイも…」
子供の頃の記憶と一緒に忘れちゃっていたの、指切りのことを?
約束する時は指切りなんだ、っていうことを忘れてしまっていたから、指切りしようと思わずにいたの、ハーレイもぼくも…?
「いや、違う。忘れちまったわけではなくて…」
無かったんだ、指切りというヤツが。…小指と小指を絡める約束、それ自体が。
存在しなかったものは出来ないだろうが、俺もお前も。…指切りの無い時代だったんだから。
「…そうだったの?」
前のぼくたち、最初から指切り、知らなかったの…?
「日本の約束の方法だからな、指切りは」
指切りの時に歌う歌だってあるだろうが。嘘をついたら針を千本飲ませる、ってな。
「そういえば…。あるね、指切りする時の歌…」
歌いながら指切りしていないから、忘れちゃってた。…あの歌、古い歌だっけね…。
小さい頃には歌ってたけど、と思い出した昔の童歌。SD体制が始まるよりも遠い昔に歌われた歌。日本という小さな島国で。
普段は全く耳にしないから、すっかり忘れてしまっていた。
幼かった頃に覚えて歌った、指切りの歌。嘘をついたら針を千本飲ませると歌う、約束の歌。
「やっと分かったか? 前の俺たちが生きた頃には、指切りは存在しなかった」
日本の色々な文化と一緒に復活したのが、指切りなんだ。今じゃ当たり前の習慣だがな。
「そうだったんだ…」
前のぼくが覚えていないわけだね、指切りのこと。…やってないよ、って。
だから今のぼく、特別なんだと思ったのに…。ハーレイに指切りして貰えるよ、って…。
ぼくの勘違いだっただなんて、と見詰めた小指。さっきハーレイと絡めた小指。
「土曜日は来てね」と交わした約束。小指と小指をキュッと絡めて。
とても幸せだったのに。…小指同士で交わす約束は、温かくて確かで、幸せなのに。
「…ハーレイと指切り…。前のハーレイと一度もしていないから…」
今のぼくだから出来るんだよ、って思ってたのに…。幸せな気分だったのに…。
「気持ちは分かるが、前のお前、フィシスと指切りをしたか?」
フィシスが小さな子供だった頃に、お前、指切りしてたのか…?
「していない…」
やっていないよ、フィシスとも…。前のハーレイとも、指切りはしていないけど…。
「そうだろうが。…あの時代に指切りが無かったという証拠だ、それが」
子供時代の記憶を失くしちまった前のお前はともかく、フィシスは記憶を消されていない。
しかも機械が育てたわけだし、あの年までに必要な知識は充分に持っていたってな。
そのフィシスでも知らなかったんだ。…約束の時には指切りだってことを。
知っていたなら、前のお前に教える筈だ。約束する時は、こうするものだと。
「そっか…。そうだね、小さかった頃のフィシスなら…」
前のぼくに教えていたんだろうね、指切りの仕方。…ぼくが覚えていなくても。
約束の指切り、前のぼくたちが生きてた頃には無かったなんて…。
とっても素敵な方法なのにね、大切な約束をするなら指切り。
「うむ。幸せな約束のやり方ではある」
相手と絆が出来るっていうか、本物の誓いという感じだな。…言葉だけで約束するよりも。
キスは無理でも、こう、指と指とが絡まるからな、とハーレイが絡めてくれた褐色の小指。
「手を出してみろ」と、大きな手を差し出して。「こうだな」と指切りをする形に。
小指と小指が絡まったけれど、ハーレイの指に小指を捕えられたけれど。
「はてさて…。指切りの形に絡めてはみたが、何を約束するべきか…」
土曜日に来るっていう約束なら、お前に頼まれてやっちまったし…。
他に約束出来るようなことは、いったい何があるやらなあ…。
はて…、とハーレイが考え込むから、ここぞと声を上げてみた。
「それなら、土曜日に来たら、ぼくにキスをすること!」
おでこや頬っぺたにキスじゃなくって、本物のキス。唇にキスだよ、そういう約束。
いいでしょ、指切りで約束したなら、ハーレイ、キスをくれるんだよね…?
嘘をついたら、針を千本。…指切りの約束は絶対だもの。
「それは駄目だな、約束を破った時には俺が針を千本飲むわけだから…」
針を千本飲まされちまっても、俺が納得するような約束をするというのが筋だろう。
同じキスでも、お前が前のお前と同じ背丈に育つまではしない、という約束だな。
そいつでいいだろ、ほら、約束だ。
いいな、とハーレイがしっかり絡めた小指。約束だぞ、と。
「酷い…!」
キスは駄目なんて、そんな約束…!
ぼくだって針を千本なんでしょ、その約束を破っちゃったら…!
ハーレイのケチ、と叫んでしまったけれども、酷い約束をさせられたけれど。
絡めて貰った小指は温かくて、幸せだから。ハーレイの小指に捕まっているのが嬉しいから。
(…ハーレイと指切り…)
遠い昔の日本の約束、前の自分は知らなかった指切り。
今の時代だから出来る約束が指切りなのだし、小指をキュッとハーレイの小指に絡めておいた。
ハーレイと何度もして来た指切り、小指と小指を絡めて約束。
これから先だって、幾つも幾つも、幸せな約束が出来るのだろう。ハーレイと二人で。
その度に小指で約束出来るし、交わしてゆける幸せな約束。
未来の幸せをちょっぴり先取りだよ、と。
こうして小指を絡めるんだよと、ハーレイと幾つも幸せな約束をするんだから、と…。
指切り・了
※前のブルーとハーレイが生きた時代には、指切りの約束は無かったのです。習慣自体が。
今だからこそ、出来る指切り。幸せな約束の方法ですけど、出来ない約束もあるようですね。
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