シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(あれ…?)
学校の帰り道、立ち止まったブルー。いつものバス停から家まで歩く途中で。
通り掛かった生垣の向こう、庭木の手入れをしている御主人。何処の家でもよく見るけれども、今日の家のは違った様子。人ではなくて、庭木の方が。
(萎れてる…?)
世話をしている木の葉が少し。花が咲いていないから、何の木か分からないけれど。常緑樹ではないことだけは確か、しっかりと硬い葉ではないから。その葉が萎れている感じ。
夏の盛りなら、暑さで元気を失くす木だってあるけれど。
今は暑くはないわけなのだし、萎れているなら、その木に元気が無いということ。水不足とか、栄養が足りていないだとか。
急に元気が無くなったのか、前からなのか。木の存在にまるで気付いていなかったから、記憶を探ってみても無駄。けれど気になる、元気が無い木。
(…枯れちゃいそう?)
まさか、と生垣越しに眺めた。チビの自分と同じくらいの背丈だろうか、まだ小さな木。若木と呼ぶのが相応しいのに、ひょっとして枯れてしまうとか、と。
それではあまりに可哀相。これから育ってゆく筈なのに、と見ていたら、振り返った御主人。
「おや。ブルー君、今、帰りかい?」
こんにちは、と挨拶してくれた御主人とは顔馴染み。だから木のことを尋ねてみた。
「その木、いったいどうしちゃったの?」
なんだか元気が無さそうだけど…。お水が足りていないとか?
「それがねえ…。そうじゃないんだ、水不足なら水やりをすればいいんだけどね」
植えたのに弱っちゃったんだよ、と御主人は説明してくれた。
元気が無い木の名前は沙羅。夏椿とも呼ばれる、夏に白い花を咲かせる木。知ってるかい、と。
沙羅の木だったら、名前はもちろん知っている。花の写真を見たことも。
平家物語で有名な木だし、花の季節には「此処で見られます」という新聞記事も載る木だから。
本物はこういう木だったんだ、と観察した沙羅。萎れた葉っぱは椿とは違う。夏椿という名前は花の形が似ているからで、常緑樹ではないのが沙羅らしい。
萎れて元気が無い葉たち。生命力が落ちているから。
このままでは木が枯れてしまう、と御主人が聞いて来た手入れの仕方。土を入れ替えて、肥料も少し。やり過ぎないよう、気を付けて。
「大丈夫なの?」
沙羅の木、それで元気になる?
「くれた人に教えて貰ったからね。沙羅の木に詳しい人なんだよ」
植え替えには今の季節がいいから、とプレゼントしてくれた木なんだ、これは。
明日には様子を見に来てくれるし、大丈夫な筈さ。アドバイスも色々くれるだろうしね。場所が悪いようなら、他の所に植え替えるとか…。
違う場所に移るかもしれないけれども、ちゃんと生き返るよ、と聞かせて貰ってホッとした。
枯れてしまったら、木だって可哀相だから。
まだ若い木だし、花もこれから。来年の夏には真っ白な花を咲かせる沙羅。
(ぼくとおんなじくらいの背…)
今はチビでも、もっと大きくなるのだろう。幹だってグンと丈夫になって。枝を伸ばして、葉を茂らせて。…沙羅の木の葉は、冬には落ちてしまうのだけれど。
(元気になってくれるといいよね)
御主人の世話と、木をくれた人のアドバイスで。
少し萎れてしまった葉たちも、元の元気を取り戻して。
きっと元気になる筈だから、と沙羅の木と御主人に「さよなら」と挨拶をして帰った家。
制服を脱いで、ダイニングに行っておやつを食べて。二階の自分の部屋に戻ったら、思い出した元気が無かった木。本物を見るのは初めてだった沙羅。花は咲いてはいなかったけれど。
御主人が手入れをしていたのだし、明日には詳しい人が様子を見に来てくれるから…。
(沙羅の木、元気になりますように…)
元気になって大きく育って、沢山の花を咲かせられるように。たった一日しか咲かない花でも、沙羅の花はとても綺麗だから。本物は写真で見る花よりも素敵だろうし、魅力的な筈。
(きっとその内に、大人気だよ)
花の季節は、ご近所さんに。散歩中に見掛けた人の間でも評判になって。
そういう立派な木になれるように、ぼくもお祈りしているからね、と心の中で呼び掛けていたら掠めた記憶。前も祈った、と。遠く遥かな時の彼方で。
(…前のぼく…?)
何処で、と辿った前の自分が生きた頃。
元気になって、と木に祈ったなら、シャングリラでのことだろう。あの船だけが世界の全てで、外の世界は人類の世界。外の世界では多分、祈らない。
(弱っている木に会ったって…)
また会える機会は無いのだろうし、祈ったとしても「元気に生きて」という言葉だけ。その木が元気に生きてゆけるよう、大きくなるよう祈りはしない。
自分が生きる世界の中には、その木は無いのと同じだから。
人類の世界に生えている木が大きくなっても、船の仲間は姿さえも見られないのだから。
シャングリラで祈った筈なんだけど、ということは分かる。ただ、記憶には残っていない。あの船にあった木たちに向かって祈った記憶。「元気になって」と。
(サイオンで育てた豆はあったけど…)
白い鯨になる前の船で、前の自分がサイオンで育てたらしい豆。まるで自覚は無かったけれど。
豆の苗が駄目になりそうだ、と聞いたから励ましてやっただけ。弱々しい苗を。
「元気になって」と、「生きて欲しいよ」と。
そうしたら元気を取り戻した苗。今にも枯れそうだったのに。「生き返った」と皆も驚いた。
豆はグングン育っていって、次の世代を生み出した。一番丈夫な作物になった。
赤いナスカでも、最初に根付いたほどに。蘇った青い地球の上でも、テラフォーミング用の植物以外では、最初の植物になったくらいに。
今の時代は「パパのお花」と呼ばれる豆。幼かったトォニィがそう呼んだから。
(あれだって綺麗に忘れていたし…)
パパのお花の記事に出会うまで、思い出しさえしなかった。前の自分が励ましたことが、生きる力になったらしいのに。…ジョミーが「生きて」と願う力で、前の自分を生かしたように。
サイオンで植物を生かす奇跡は、きっと豆の時の一度きり。他にやってはいないと思う。
それとも忘れてしまっただけで、奇跡をもう一度起こして欲しい、と誰かに頼まれただろうか?
(まさかね…?)
もしも誰かが頼みに来たなら、豆のことを覚えていそうだから。今の自分も忘れないで。
前の自分は、そういう力を持っていた、と。
祈りの力で植物たちを、元気に生き返らせたのだ、と。
けれど、そういう記憶も無い。奇跡の力を持っていたとは、前の自分は思っていない。
力を持っていないのだったら、どうして祈っていたのだろう。「元気になって」と、船にあった木に。祈っても意味は無さそうなのに。それで生き返りはしないのに。
(…あれは、いつなの…?)
祈っていた時も、祈っていた意味も分からないや、と首を捻っていたら、聞こえたチャイム。
仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、ぶつけた質問。ハーレイは知っているかも、と。
「あのね…。前のぼく、木にお祈りしてた?」
「はあ? お祈りって…」
木は神様ではないと思うが、と怪訝そうなハーレイ。当然と言えば当然な答え。
質問の仕方を間違えちゃった、と最初から説明することにした。
「えっとね…。今日の帰りに、元気の無い木に会っちゃって…」
御主人が手入れをしていたんだよ、きっと元気になる筈だ、って。…小さな沙羅の木。
元気に育って欲しかったから、家に帰って思い出した時にもお祈りをしてて…。あの木が元気に育ちますように、って。
そしたら、そういう気持ちを知っている気がしたんだよ。前のぼくもお祈りしてた、って。
この木が元気になりますように、っていうお祈り。…パパのお花とは違うんだよ。
パパのお花は豆の苗でしょ、それとは違っていた筈で…。普通の木だと思うんだけど…。
前のぼくは木のためにお祈りしたかな、パパのお花の時とは別に。
「なるほど、そういうお祈りか。木が神様ではないんだな」
前のお前が木にお祈りなあ…。はて…?
シャングリラだったことには間違いないな、とハーレイは腕組みをして考え込んだ。
いつの時代か、そいつを思い出さないと、と。
白い鯨になった後には、公園にも農場にも何本もの木。改造前のシャングリラでも、自給自足で生きる船ではどうするべきか、と試験的に作っていた畑。木も何本か育てていた。
木に祈るのなら、改造前の船の方だと思ったけれども、ハーレイが導き出した答えは違った。
「そうか、あれだな。…白い鯨の時代だった」
前のお前が祈っていたのは、白い鯨が出来てからだ。改造が済んだ後のことだな。
「え…? 改造した後のシャングリラなら…」
木は何本もありそうだけど…。農場にも、それに公園にも。
あんなに沢山植えてたんだし、お祈りなんかしなくても元気に育っていそうだけれど…?
「確かに木なら沢山あったが…。それだけに失敗も多かったんだ。初めの頃はな」
覚えていないか、上手く根付かなかった木が何本もあったんだが。
こいつは此処だ、と植えてやっても、なにしろ素人ばかりだったからな。木に関しては。
「それは覚えているけれど…」
難しい木もあったものね、と頷いた。今も記憶に残っているから。
白いシャングリラに植えていた木たち。改造前からの計画通りに、公園に、それに農場に。
様々な木を植えたけれども、全てが成功したわけではない。初めて育てる木なのだから。
枯れてしまった木も少なくはなくて、抜くしかなかった駄目になった木。
そういう時には、新しい苗木を奪いに出たのが前の自分。シャングリラからアルテメシアへ。
担当の仲間に必要な苗木を頼まれて。人類の施設に忍び込んで。
そのことは確かに覚えている。今度はこれか、と苗木を奪いに行ったこと。
けれど、祈りと繋がらない。
新しい苗木を奪って来たなら、それを育てればいいだけのこと。枯れてしまった木の代わりに。
元気な株を選んで奪ったのだし、今度は上手く育つだろうから。
きっと元気に育つだろう木。祈らなくても、備わっている生命力で。丈夫に出来ているだけに。
健康な木には祈りは要らない。自分の力で育ってゆける。
なのにどうして前の自分は祈ったのか。それが不思議で、ハーレイに訊いた。
「枯れた木の代わりに、新しい木を奪ってたけど…。なんで祈るわけ?」
丈夫な苗木を選んでたんだよ、祈らなくても元気に育つと思うけど…。
お祈りする理由、何処にも無さそうなんだけど…。
「それがだな…。駄目になっちまった木だと、そうなるんだが…」
何本もの木を育てる間に、仲間たちだって木が好きになる。木だって生き物なんだから。
そのせいかもなあ、枯れそうな木を懸命に世話したヤツらがいたんだ。
木に仲間たちの名前をつけて、「頑張れよ」とな。
「名前って…?」
ただの名前なら分かるけれども、仲間たちの名前って、どういう意味?
船で暮らしていた仲間の名前をつけていたわけ、枯れそうな木に…?
「おいおい、それだと枯れちまった時に困るだろう。…その木の名前の持ち主に悪い」
縁起でもないってことになるしな、自分の名前の木が枯れたら。…俺だっていい気分はしない。
ハーレイって名前がついていた木が、枯れてしまったと聞いたらな。
だから仲間たちの名前と言っても、船にいなかった仲間の名前だ。…だが、仲間だった。
もちろん本当の名前は分からん。それが正しいか、間違っていたか、誰も分かりはしなかった。
アルタミラにいただろう仲間たちの名だ、船に乗れずに死んでいった仲間。
そいつを木たちにつけていたんだ、ハンスの木と同じ理屈だな。
墓碑公園にあった糸杉、ゼルが「ハンス」と呼んでたろうが。
ハンスは本当に存在してたが、他の仲間の名前は分からないままだった。ただの一つも。
こういう名前の仲間がいたかも、という名を木たちに名付けたわけだな。
「そういえば…!」
本当にいたとは限らなくても、仲間たちの名前…。
つけてたっけね、枯れそうな木を世話する時には、「頑張って」って。
白いシャングリラで育てていた木。枯れそうな木には名前がついた。
いつの頃からか、つけられるようになっていた名前。シャングリラに乗れなかった仲間の名前。
アルタミラの研究所で殺された仲間や、メギドの炎で死んでいった仲間。
彼らの名前は分からないけれど、こんな名前もあっただろうと。きっとこういう仲間も、と。
名前がついたら、誰もがその名を呼んでいた。相手は木なのに、仲間が其処にいるかのように。
食事の時に話題になったり、様子はどうかと何度も見に行く仲間がいたり。
「どういうわけだか、あれで不思議に生き返った木もあったってな」
すっかり萎れて、枯れるだろうと思っていたのが嘘みたいに。
パパのお花になってしまった豆ほど凄くはなかったんだが、だんだん元気を取り戻して。
「そんな木、幾つもあったよね…」
新しい苗木を調達しなきゃ、って思っていたのに、リストから外れちゃった木が。
頼んでいた係が言いに来るんだよ、「この木は無事に根付きました」って。
あれってやっぱり、パパのお花と同じ理屈で戻ったのかな…。あの木たちの命。
みんなが「生きて」って願っていたから、それが生きるための力になって。
「どうだかなあ…。そいつは俺にも謎だとしか…」
サイオンのお蔭とは限っちゃいないぞ、木たちの場合は。
なんたって名前がついていたんだ、それだけで係たちの力の入り具合も違う。
ただの木だったら「こんなモンだな」と思う所を、名前がある分、細やかに世話をするからな。
仲間たちの名前がついてる木なんだ、大切にしようと考える気持ちが出て来るもんだし…。
夜中でも様子を見に行ったりもしただろう。仕事で見に行く時以外にも。
「そうだね、大切に世話してやったら、弱い木だって持ち堪えそう…」
枯れちゃいそうでも、頑張って世話をして貰えたら。
今日の木だって、そうだから…。あの沙羅の木は、場所が合わないなら植え替える、って。
それだけ気を付けて世話してくれたら、木だって元気になれそうだものね。
シャングリラの木だって同じだったかもね、せっせと世話をして貰えた木は丈夫に育って。
細やかな世話のお蔭で生き返ったかも、と思い出した木たち。枯れそうだった何本もの木。
仲間たちの名前がついていたから、前の自分も気に掛けていた。どうしているか、と。
「思い出したか、名前がついてた木たちのことを?」
もっとも、元気になっちまったら、すっかり忘れ去られていたが…。名前ごとな。
他の木たちに混ざっちまって、ただの木だ。元は名前があったことさえ、忘れられてて。
元気に育ち始めるまでの間だけだな、仲間たちの名前で呼ばれていたのは。
しかし、お前も呼んでたろうが。
あの木たちについてた、色々な名前。…船の仲間の名前とは違っていたんだが。
「思い出したよ。前のぼくのお祈り、枯れそうな木たちのためだったんだ…」
仲間たちに生きて欲しかったから。…その木の名前を持ってた仲間に。
そういう名前を持っていた仲間、本当にいたかどうかは分からなかったけど…。
だけど、仲間の名前だから…。仲間たちの名前の木だったから。
覚えているよ、と鮮やかに蘇って来た記憶。ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃の。
白いシャングリラで誰かが始めた、枯れそうな木に名前をつけること。アルタミラで命を失った仲間、船に乗れなかった仲間を思って。
船の仲間たちとは重ならない名前、けれど珍しくはない名前。人類の世界にはよくある名前で、名付けられた仲間がいても不思議はない名前。
それを木たちに名付けていた。この木はこれ、と本物の仲間がいるかのように。男性の名前も、女性の名前もついていた木たち。
(名前、ホントに色々あったんだっけ…)
データベースで探していたのか、名付けるのが得意な仲間でもいたか。同じ名前は無かった木。重ならなかった木たちの名前。けして少なくはなかったのに。
船の仲間たちも木の心配をしていたけれども、前の自分も全く同じ。枯れそうな木があると耳にした時は、その木に会いに出掛けて行った。農場へも、それに公園へも。
手入れをしている係に尋ねた、木につけられた仲間の名前。それを教わったら、早速呼んだ。
幹に手を当てて、「元気になって」と。
枯れてしまわないで、この船で大きく育って欲しいと。根を張って、葉を茂らせて、と。
アルタミラで死んだ仲間たちを思って、「生きてゆこう」と声で、心で呼び掛けた木たち。この船で一緒に生きてゆこうと、せっかく船に来たんだから、と。
仲間たちの名前は分からないままになったけれども、檻の向こうに姿を見た日もあったから。
実験のために檻から引き出された時や、押し込まれる時に。
(…サイオン制御リングを外されるから…)
その一瞬だけ、透けて見えていた仲間たちの檻。自分の檻の隣や、上下に並んだ檻の中に。
生きた仲間の姿を見たのは、研究所の中ではその時だけ。研究者たちは、他のミュウたちと接触しないよう、管理を徹底させていたから。
檻に名札はついていなくて、思念を交わすことも出来なかった仲間たち。名前が分かるわけなど無かった。何という名か分からないまま、入れ替わっていった檻の隣人たち。
(…みんな、殺されちゃったんだ…)
実験の果てに、残酷に。狭い檻にさえ帰れもしないで、何も言葉を残せないままで。
そういう仲間の姿を重ねて、木たちの名前を呼んでいた。「ぼくたちと一緒に生きよう」と。
パパのお花を生き返らせたことは忘れていたのだけれども、「生きて」と撫でてやった幹。
枯れそうな木の幹を撫でては、「元気になって」と祈った自分。
シャングリラには乗れなかった仲間が、木になって其処にいるかのように。名前すらも告げずに死んでいった仲間、彼らが船に来たかのように。
前の自分は確かに祈って、木たちの無事を願っていた。枯れずに元気に育って欲しいと。
「ねえ、ハーレイ…。奇跡は何度も起こらないよね?」
パパのお花は、前のぼくが生き返らせたみたいだけれど…。あれっきりだよね?
枯れそうだった木たちが元気に育った理由は、きちんと世話して貰えたからでしょ?
船の仲間たちや前のぼくのお祈りだって、少しくらいは効いていたかもしれないけれど…。
「どうなんだかなあ…?」
俺にも分からんと言った筈だぞ、しかし生き返った木が多かったのは確かだな。
枯れそうな間は、大勢のヤツらが名前を呼んでいたことも。様子を見に行く仲間が大勢いたってことも。…船に乗れなかった仲間たちのことは、誰もが覚えていたからなあ…。
名前すらも分からない有様だったが、命が助かった俺たちよりも、死んだ仲間の方が多かった。
考えなくても誰だって分かる。…どれだけの年月、ミュウが殺されていたかってことだ。
そいつを思うと、木でも大事にしないとな。仲間たちの名前がついた木なんだ、何の根拠も無い名前でも。…そういう名前を持っていた仲間が、いたかどうかは分からなくても。
確証は何も無かったけれども、船の仲間たちが呼んでいた名前。
枯れそうになった木に名付けていた、アルタミラの地獄で死んでいったミュウたちの名前。その木が立派に育つようにと祈りをこめて。白いシャングリラで、自分たちと一緒に生きてゆこうと。
「あれって、いつまであったんだっけ…?」
枯れそうな木には名前をつける、っていう習慣。元気になったら名前は忘れられちゃったけど。
どの木だったか、みんなすっかり忘れてしまっていたけれど…。
「俺も覚えちゃいないんだが…。最初の数年だけってトコだな、名前をつけていた時期は」
白い鯨での暮らしってヤツが軌道に乗ったら、木を育てるのにも慣れていったから…。
枯れちまうことの方が珍しくなって来たなら、自然とやらなくなっただろう。
元々はただの木なんだからなあ、たまには枯れることだってあるし…。代わりのを植えて終わりだろうな、そのために苗を何本も育てていたんだから。
「そうなんだろうね、育つのが普通になったら忘れてしまうよね…」
元気に育つようになったら、木の名前、忘れていたんだし…。みんなが名前を呼んでた木でも。
ハンスの木だけが例外なんだね、ゼルが大事にしていたってこともあるけれど…。
本当に生きてた仲間の名前で、どんな顔だったか知ってた仲間も何人も…。
あの事故の時に乗降口の側にいた仲間たちは、ハンスの顔を見たんだものね…。
「ハンスだけだからな、名前が分かっていたのはな…」
顔を直接知らないヤツでも、ゼルに弟がいたってことは知っていた。脱出の時の事故だって。
ハンスは確かにいたんだってことを、知らないヤツはいなかったから…。
墓碑公園の糸杉を見れば思い出すよな、ハンスの名前を。
この木の名前はハンスなんだ、っていうゼルが名付けた名前の方も。
例外だったハンスの木。墓碑公園にあった糸杉。ゼルがせっせと世話をしていた。まるで本物の弟のように。アルタミラから脱出する時、亡くしてしまったハンスの代わりに。
けれど、ハンス以外の仲間たちの名前は分からなかった。アルタミラで死んだ仲間たち。実験で殺されてしまった仲間も、メギドの炎で命を失った者も。
名前どころか、その正確な人数までもが分からないまま。何人いたのか、何人のミュウが人類の餌食になったのかも。
とはいえ、それは前の自分が生きていた間のことだから。機械がデータを隠し続けて、封印していただけなのだから…。
「…ハーレイ、アルタミラの本当のデータ…。知ってるよね?」
「データだと?」
「そう。…前のハーレイだよ、今のハーレイじゃなくて」
前のぼくの誕生日とかを知っているなら、アルタミラにいた仲間たちのことも知ってるでしょ?
あそこに何人の仲間たちがいたのか、どうなったのか。…名前も、殺された仲間の数も。
テラズ・ナンバー・ファイブから引き出したデータの中にあった筈だよ。
前のハーレイは見た筈なんだよ、アルタミラで死んだ仲間たちの名前も、人数だって。
「まあな…。そいつを否定はしない」
キャプテンだったし、データにはもちろん目を通してる。…今でも覚えているのも確かだ。
あそこに何人のミュウがいたのか、どういう名前のヤツらだったかも。
「その名前…。教えてって言っても、ぼくには教えてくれないよね?」
仲間たちの名前を一つでいいから、って頼んでも。
「お前、自分を責めそうだからな。…助け損ねた、と」
前のお前が本気だったら、研究所ごと吹っ飛ばすことも出来たんだ。…逃げ出すことも。
そうしなかったから仲間が大勢死んじまった、と考えてるのがお前だしな。
あの状況では、とても無理だったのに…。子供のままで、成長を止めていたようなお前じゃな。
お前に教えるわけにはいかん、とハーレイの答えは予想通りのものだった。どんなに頼んでも、口を開きはしないのだろう。…仲間たちの名前は今もやっぱり分からない。ハーレイのせいで。
「…だったら、訊くのは諦めるから…。代わりに教えて」
木たちにつけてた名前の中で、当たっていた名前があったのかどうか。
枯れそうだった木につけた名前だよ。仲間たちの名前のつもりでつけていたでしょ、あれは。
「そう来たか…。待てよ、どうだったやら…」
木の名前の方もけっこうあったし、元気に育っちまった後には忘れてしまった名前だから…。
ちょっと待ってくれよ、今、木の方を思い出してるトコだ。
あれだろ、それから、あれで、あれでだ…。
そういやあったな、今にして思えば。
…ハンスの木みたいに、本当にいた仲間の名前を持っていた木が。
「どの木?」
当たっていたのはどの木だったの、何処にあった木?
場所を忘れているんだったら、木の種類だけでも教えてよ。何の木だったか。
「それもお前には教えられない。…お前、思い出そうとするに決まっているからな」
どの木だったかを手掛かりにして、忘れちまっている名前を。
そして名前を思い出したら、悲しむだろうが、今のお前も。そういう名前の仲間がいた、と。
アルタミラから救い損ねたと、前のお前のせいなんだ、とな。
「…そうだけど…」
そうなっちゃうけど、でも、知りたいよ。
死んでしまった仲間の名前も、とても大切だから。…その人が生きた印だから。
シャングリラのみんなも、そう思ったから名前をつけていたんだよ。
枯れそうな木には仲間の名前を。…この船で一緒に生きてゆこう、って。
だから教えて、と食い下がったけれど、ハーレイは「駄目だ」と応じなかった。仲間とそっくり同じ名前だった、木のことは教えられないと。種類も、その木があった場所も。
「知らなくてもいいんだ、今のお前は。…アルタミラの地獄のことなんかはな」
お前は充分、頑張ったから。命まで捨てて、ミュウの未来を守ったんだから。
今のお前は別の人生を生きているんだ、前のお前のことまで引き摺らなくてもいい。
自分を責めたりしなくていいんだ、今のお前と前のお前は違うんだから。
「そうだけど…。ぼくは前より、ずっと弱虫になっちゃったけど…」
本当に知らないままでいいと思うの、ぼくの中身は前のぼくだよ?
前のぼくが中に入っているから、ハーレイが好きで、ハーレイの恋人なんだけど…。
「…お前、今でも頑固だからなあ…。変な所で前のお前にそっくりだ」
分かった、いつかアルタミラの本当のことを、お前が知りたくなったなら。
前のお前と同じに育って、もう大丈夫だと思える時が来たなら、データを探してみるといい。
責任に押し潰されたりしないで、事実を受け止められるなら。…今ならデータは見付かるから。
だがな、探す時には必ず俺が一緒だ。
俺がお前の隣にいる時、そういう時しか調べては駄目だ。…絶対にな。
「どうして?」
ハーレイと一緒でなくっちゃ駄目って、どうしてそういう決まりになるの?
ぼく一人でも調べられるよ、今の時代はデータをブロックされたりはしていないでしょ?
「調べるだけなら簡単なんだが…。其処が大いに問題だ」
データを引き出したら、お前はどうなる?
何人の仲間が死んでいったか、どういう名前の仲間だったか、全部分かってしまうんだぞ?
慰めてやれる俺がいないと、お前、一日中、泣きっ放しになるだろうが。
俺の留守にウッカリ調べちまったら、俺が戻って来るまでな。
飯を食うのも、お茶を飲むのも忘れちまって、涙をポロポロ零し続けて。
「…そうなっちゃうかも…」
ぼくのせいだ、って前のぼくのつもりになっちゃって。
今のぼくとは関係無いのに、ぼくの中身は前のぼくと同じになっているから…。
本当に泣いてしまいそう、と自分でも容易に想像がつく。アルタミラで死んだ仲間たちの数や、名前を目にしてしまったら。
ハーレイは「分かったか?」と、大きな手でクシャリと頭を撫でてくれた。
「俺はお前を泣きっ放しにさせたくはない。…知りたい気持ちは分かるんだがな」
しかしだ、俺が一緒だったら、同じデータをお前が見ても…。泣き出しても、ちゃんと打つ手を持っているってわけだ。
もう泣き止んで飯でも食うか、と声を掛けられるし、抱き締めてもやれる。
お前の気分が変わるようにと、ドライブにも連れて行けるしな。
俺がお前の側にいられる時が来るまで、アルタミラのことは調べるんじゃない。今のお前も。
いいな、絶対にやるんじゃないぞ?
「…うん…」
ぼくだって一人で泣きたくないから、約束するよ。…一人の時には調べない、って。
いつかは調べられる時が来るしね、ぼくが知りたいと思ったら。…今よりも大きくなったなら。
アルタミラのデータを調べられたら、どの木の名前が当たってたのかも分かりそう。
木の名前の方を、ぼくが忘れていなかったら。
…そうだ、今日の木、大丈夫かな?
弱っちゃってた沙羅の木、元気になれるかな…?
「大丈夫だろう。その家の人が、きちんと世話していたんだから」
沙羅の木に詳しい知り合いの人も、明日には見に来てくれると聞いて来たんだろ?
頼もしい人もついているんだ、元気になるに決まっているさ。
植わっている場所が合わないのならば、ちょっと引越ししたりもして。
シャングリラじゃなくて地球でもあるしな、光も風も本物だ。土も水もな。
命に溢れた地球の上だぞ、うんと元気に育ちそうじゃないか。
「そうだよね…!」
地球なんだものね、本当に本物の青い地球。
シャングリラでも名前をつけていた木は、枯れそうな時でも生き返ることが多かったんだし…。
地球の上なら、名前なんかはつけてなくても、元気に育っていけるよね…!
葉っぱが少し萎れてしまっていた沙羅の木。学校の帰りに出会った、まだ小さな木。
あの木に名前は無かったけれども、きっと元気になるだろう。世話をしてくれる御主人がいて、明日は詳しい人も見に来てくれるのだから。
青い地球の水や土や光も、元気を与えてくれる筈だから。吹き渡ってゆく風だって。
明日も元気が無かったとしたら、何か名前をつけてやろうか。白いシャングリラで、仲間たちがそうしていたように。「元気になって」と、名前をつけて世話したように。
「ねえ、ハーレイ…。沙羅の木、名前をつけてあげようかな?」
もしも元気が出ないようなら、うんと元気に育っていくように、強そうな名前。
ゼルなんか、いいと思わない?
若かった頃はハーレイの喧嘩友達だったし、元気が溢れていたんだから。
「ゼルか…。そいつはいいな、その時は俺にも教えろよ?」
何処の家なのか、そのゼルの木があるっていう家。
沙羅の木を探せば見付かるだろうが、花が咲いてない時に探すのは大変だしな?
「もちろんだよ。ゼルってつけたら、場所はきちんと教えるよ」
家がある場所も、ゼルの木が植えてある場所も。
…あの沙羅の木に、ゼルって名前をつけるかどうかは分かんないけど…。
いつかハーレイと暮らす時には、ぼくたちの家で植える木にも名前をつけようね。
元気が無くって枯れちゃいそう、って思った時は。
「名前をつけるなら、やっぱりゼルか?」
憎まれっ子世に憚ると言うしな、枯れそうな木でも生き返りそうだが。
「ブラウとかでもいいと思うよ、強かったから」
うんと強そうな名前にしようね、逞しそうな名前がいいよ。…今のぼくたちがつけるんだから。
シャングリラの頃とは違うものね、と浮かべた笑み。
今の時代は、悲しい祈りはもう要らない。アルタミラで死んだ仲間たちの名前をつけた木たち。
本当の名前が分からないままで、こうだろうか、と名付けた木。
今はアルタミラは遠く遥かな時の彼方で、調べれば彼らの名前も分かる。いつかハーレイが側にいる時に、調べようと思い立ったなら。
そういう時代に生まれたのだし、木に名付けるなら、元気さにあやかれる名前がいい。
前のハーレイの喧嘩友達のゼルや、姉御肌だったブラウの名前。
今は誰もが幸せになれる、平和で素敵な時代だから。
ハーレイも自分も、小さな木だって、青い地球で生きてゆけるのだから…。
木たちの名前・了
※シャングリラで名前がついていた木は「ハンスの木」。けれど、他に何本もあったのです。
アルタミラの仲間たちを思って名付けて、育てていた木。育ったのは、祈りのお蔭なのかも。
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