シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
無かった日誌
(航宙日誌…)
やっぱり人気、とブルーが眺めた新聞広告。学校から帰って、おやつの時間に。
キャプテン・ハーレイの航宙日誌。前のハーレイが綴った日誌が色々、気軽に買える文庫版から本物そっくりの復刻版まで。
値段も違えばサイズも違う。復刻版と文庫版の他にも様々な大きさ、それから値段。元の日誌の抜粋だとか、子供でも読める簡単な文章になったものとか。
(買う人、沢山いるものね…)
キャプテン・ハーレイの日誌は、超一級の歴史資料だから。前の自分たちが生きた時代の歴史を知るには、欠かせない資料。歴史が好きな子供だったら、読んでみることもあるだろう。
研究者向けの復刻版だと、値段はとても高くなる。前のハーレイが羽根ペンで綴った文字たち、それをそのまま写しているから。
歴史好きとか、研究者だとか、読みたい人が大勢いる日誌。趣味で買う人がいるということも、最近になって耳にした。
(…キャプテン・ハーレイのファンの人…)
一人だけしか知らないけれども、今のハーレイの馴染みの人。行きつけの理髪店の店主が、前のハーレイのファンだった。ハーレイに「キャプテン・ハーレイ風」の髪型を勧めたほどに。恋人がいると聞いた途端に、「ソルジャー・ブルー風にカットしたい」と言い出したほどに。
(…その人、研究者向けの復刻版も欲しいって…)
ハーレイがそう話していたから、研究者でなくてもファンなら買うのが復刻版。いくら高くても揃えてみたいと考えるらしい。
色々な人が買って読むのが航宙日誌。文庫に、子供向けの仕様に、本物そっくりの復刻版やら。
こうして広告を眺めていると、本当に凄いロングセラー。
古典の本にも負けない勢い、今も売れ続けているのだから。ずっと昔から売られているのに。
(ハーレイ、有名作家だよ…)
小説の形はしていないけれど、エッセイとも違う中身だけれど。
それでも充分、有名作家。これだけのロングセラーなら。時代を越えて売れているなら。
何百年も書いていたんだものね、と戻った二階の自分の部屋。おやつの後で。
勉強机の前に座って、思い返した航宙日誌。前のハーレイがせっせと綴っていたけれど…。
(人気があるのも分かる気がするよ)
日誌の中身がどうであろうと、ハーレイの文章に遊びがまるで無かったとしても、綴られた文はミュウの歴史そのもの。初代のミュウたちがどう生きていたか、それが分かるのが航宙日誌。
人類側の記録は多くあるけれど、ミュウの側から書かれたものは他に無いから。
広い宇宙の何処を探しても、ミュウが書いた記録はあの一つだけ。
(誰も日誌は書かなかったから…)
シャングリラで生きた仲間たち。アルタミラからの時代をずっと、あの船で生きた仲間は何人もいたのだけれど。けして少なくなかったけれども、誰も日誌は残さなかった。
彼らが書いた記録となったら、自分の仕事の覚え書きくらい。引き継ぎの時に使う程度の。
長老と呼ばれたゼルもブラウも、博識だったヒルマンとエラの二人も、そのタイプ。日誌の形で書き残すよりは、覚え書きやら、レポートやら。
(…ヒルマンとエラなら論文だったし、ゼルだったら図面とかなんだよ)
それらが今に残っていたって、ミュウの歴史の記録にはならない。研究資料になるという程度。例の航宙日誌と突き合わせないと、時期の特定すらも危うい。
白いシャングリラの設計図にしても、いつから在ったか分からないから。
初めての自然出産だって、ジョミーがそれを宣言した日は、航宙日誌の中にしか無い。カリナは日記を書かなかったし、ノルディが記録を残していたって…。
(…カリナが診察に来てからだよね?)
身ごもったのかも、とメディカル・ルームにやって来るまで出来ないカルテ。それまでに色々と勉強したって、それはカルテに書かれはしない。
(前のハーレイ、ホントに凄いよ…)
日々の出来事を淡々と綴っていたのが、後の時代に役立つなんて。
今でもロングセラーになるほど、色々な人が必要としている日誌を残しておいただなんて。
改めて思う、キャプテン・ハーレイの日誌の偉大さ。コツコツと毎日書き続けたこと。
他の仲間たちは、誰も書いてはいなかったのに。前の自分も、何も綴りはしなかったのに。
ソルジャーだった前のぼくでも書かなかった、と思ったけれど。日誌は存在しないのだけれど。
(もしも、ソルジャー・ブルーの日誌があったら…)
物凄い人気だっただろう。キャプテン・ハーレイの航宙日誌が、これだけ売れているのだから。見た目の人気と関係無く。…前のハーレイのファンの数とは無関係に。
(前のハーレイ、あんまり人気が無いものね…)
写真集が出版されていないのだから、注目されていないということ。出版したって、売れそうにない前のハーレイの写真集。
けれど、ソルジャー・ブルーは違う。自分でもちょっぴり恥ずかしいけれど、写真集が出ている数なら誰にも負けない。ジョミーにも、もちろんキースにだって。
そんな具合だから、もしも日誌があったなら…。
(日誌だけでも売れるんだろうし…)
写真集に日誌の抜粋があれば、きっと人気を集める筈。手軽に読めて、写真も楽しめるから。
それとは逆に、写真が豊富な日誌も売れる。ふんだんに写真を鏤めたならば、文字だけの日誌を売り出すよりも。
(凄く売れそう…)
キャプテン・ハーレイの航宙日誌を越える売り上げ、ついでにロングセラーにも。
そうなったろう、と容易に想像出来るのに…。
(前のぼくの日誌…)
なんで無いわけ、と首を傾げた。どうしてハーレイの航宙日誌しか無いのだろう、と。
書かなかったものは、存在する筈がないけれど。残っていなくて当然だけれど、書かずにおいた理由が分からない。ソルジャー・ブルーとしての日誌を。
今の自分は日記をつけてはいないのだけれど、前の自分は事情が違う。置かれた立場も、生き方だって。…長い年月、たった一人のソルジャーだったし、ミュウの長として生きていた。
(前のぼくなら…)
ハーレイのように、日誌を書いていたって不思議ではない。
日々の出来事や、ソルジャーが下した判断などを。船の中で見聞きしたことも。
(ソルジャーの日誌…)
それは日誌で日記ではないし、ハーレイとの恋は書けないけれど。プライベートなことも書けはしないけれども、前の自分はソルジャーだから…。
(日誌、書いておけば良かったのに…)
どういう日々を過ごしていたのか、様々な出来事にどう対処したか。会議の議題や、長老たちと交わした意見。それに彼らがどう答えたのか、そういったことを。
自分が書いておきさえしたなら、後々、ジョミーの参考にもなった。判断に迷った時に開いて、似たような例が何処かに無いかと探したりして。
(…記憶装置はあったけど…)
ジョミーに遺した記憶装置に、それらも入っていたのだけれど。
記憶装置にしか入っていない記録は、他の仲間は見られない。ジョミーの言葉が本当かどうか、誰も確かめることは出来ない。
「ソルジャー・ブルーの意志でもある」と言われても。ジョミーがそうだと主張しても。
その点、日誌の形だったら、他の仲間も読むことが出来る。長老だったヒルマンやエラも、若いナスカの子供たちも。
前の自分の意志を確かめ、それに従って動けた筈。
ジョミーが「こうだ」と述べた意見が、前の自分のとは違っていたって、溜息をついても従った筈。もしも日誌を書いていたなら、「これから先は、ジョミーに従え」と綴ったろうから。
日誌があったら、大いに役立ったことだろう。ジョミーがソルジャーを継いだ後には。
前のハーレイの航宙日誌も、そのために綴られていたものだった。ハーレイの代で地球まで辿り着けなかったら、次のキャプテンが立つだろうから。…その時に日誌が助けになれば、と。
前の自分はそれを知っていたのに、どうして日誌を書こうと思わなかったのか。
キャプテンが次の世代を意識していたなら、ソルジャーの自分も同じように考えるべきなのに。
(大失敗…)
前のぼくも日誌を書けば良かった、とコツンと叩いた頭。そうすればジョミーの役に立ったし、船の仲間たちの参考にもなった筈なのに。
ゼルたちだって、ジョミーの考えを頭から否定したりはしなかったろうに。「若すぎる」というだけのことで。アルタミラを知らない世代は駄目だと、決めてかかって。
そうならないよう、日誌を書いておくべきだった、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで口にした。
「あのね、ハーレイ…。前のぼくの日誌…」
「日誌?」
前のお前の日誌なのか、と丸くなったハーレイの鳶色の瞳。
「そう。前のハーレイの航宙日誌みたいなヤツ」
「日誌って…。お前、書いてはいないだろう?」
俺は知らんぞ、とハーレイは怪訝そうな顔。「お前の日誌なんかが、あったか?」と。
「そうなんだけど…。前のぼく、日誌を書いてはいないんだけれど…」
日誌、書いておけば良かったかな、って思ったんだよ。日誌があったら、役に立ちそう。
ジョミーも参考に出来ただろうし、船のみんなも悩んだ時には、開いて読んでみたりして。
「そりゃまあ、あればそうなったろうが…」
役に立っただろうとは思うが、無かったものは仕方ない。お前は日誌を書かなかったんだから。
「そのことなんだよ。…前のぼく、日誌を書けば良かったのに、思い付きさえしなくって…」
今頃になって気が付いちゃった。ぼくも日誌を書くべきだった、って。
ハーレイが書くのを見ていたくせに、駄目だよね。前のぼくの目、節穴だったよ…。
もっときちんと考えていたら、ぼくも日誌を書いたのに。
…ハーレイの航宙日誌とは別に、ソルジャーの日誌。
ホントに駄目なソルジャーだよね、と零した溜息。まるで気付かなかっただなんて、と。
日誌があったら、どれほど役に立つかということに。後の時代に、自分の命が燃え尽きた後に。
「…今まで気付きもしないだなんて、ホントに駄目で考えなしだよ」
前のぼく、長生きしてたってだけで、後のことまでは少しも考えてなくて…。
ソルジャーだったら、きちんと記録を残しておくべきだったのにね。みんなのために。
馬鹿で間抜けだよ、前のぼくって。
「それは違うぞ、お前が忘れているだけだ」
前のお前は、そのことを思い付いていた。ソルジャーの日誌を書き残すことを。
俺は知ってる、とハーレイが言うから驚いた。そんな馬鹿な、と。
「え…?」
忘れてるって…。どういうこと?
それに日誌を思い付いたんなら、前のぼくは書いたと思うんだけど…?
「本当に忘れちまったんだな、綺麗サッパリ…。お前ってヤツは」
生まれ変わる時に落として来たのか、その後の人生が長すぎたせいで忘れちまったか。
お前、俺に相談に来たろうが。…日誌の件で。
ソルジャーになって間も無い頃だな、此処まで言っても思い出せんか?
俺の所に来たんだがなあ、日誌の書き方を教えてくれと。日誌は俺の方が先輩だから。
「そうだったっけ…!」
ハーレイ、日誌を書いていたから…。
どういう風に書けばいいのか、書き方、教えて貰いたくって…。
思い出した、と蘇った記憶。遠く遥かな時の彼方で、前の自分がやったこと。
まだ名前だけがシャングリラだった船で、ソルジャーの任に就いた後。ご大層な尊称で呼ばれる日々にも慣れて来た頃、ハーレイの日誌が気になり始めた。
一日の終わりに、必ず書いている航宙日誌。船の出来事を記すキャプテン。
その姿を何度も目にしていたから、考えた。ソルジャーになった自分も、あんな風に日誌を書くべきだろうか、と。
(ソルジャーはキャプテンよりも偉いんだしね…?)
単なるリーダーだった頃とは違うのだ、と嫌でも思い知らされるのがソルジャーの立場。歩いていれば誰もが礼を取るほど、それまでとは違ってしまった生活。
皆の頂点に立つのがソルジャーなのだし、キャプテンよりも責任は重い。ならば、記録も必要になってくるだろう。どういう日々を過ごしているのか、ソルジャーの役目は何なのか。
(だけど、日誌の書き方なんて…)
分からなかったのが前の自分。心も身体も長く成長を止めていたから、ソルジャーとはいえ姿は少年。中身の方も、姿に見合った少年の心。ハーレイのような大人になってはいない。
(…子供が日誌を書いたって…)
きっと大人のようにはいかない。子供っぽいだけならマシだけれども、書くべきことを抜かしているとか、まるで日誌の体を成してはいないとか。
それでは日誌を書く意味が無いし、相談に出掛けて行ったのだった。いつも航宙日誌を忘れずに綴る、大先輩のハーレイに。
シャングリラの中の一日が終わって、通路の灯りが「夜なのだから」と落とされた後に。
遊びに行くのとは違っていたから、少し緊張した扉の前。「開いてるぞ」というハーレイの声を聞いたら、いつもの自分に戻ったけれど。
扉を開けて中に入って、勧められるままに座った椅子。もうハーレイは日誌を書き終えた後で、机の上には閉じられたそれ。
そちらの方に視線をやって、訪問の用件を切り出した。
「航宙日誌…。今日の分はもう書いたんだね。…ぼくも日誌を書こうと思って…」
ソルジャーだからね、日誌も書いておくべきだろうと思うんだ。でも…。
日誌というのは、どんなことを書けばいいんだい?
書き方を教わりたいんだけれど、と質問したら、「見せてやらんぞ」と返したハーレイ。
「何度も言ったが、航宙日誌は俺の日記だ。…いくらソルジャーでも見せられんな」
勝手に覗いたりもするなよ、と軽く睨んだハーレイの言葉遣いは、まだ普通だった。エラが色々言っていたけれど、こうして二人で話す時には、まだ敬語ではなかったハーレイ。
「分かっているよ。覗こうとは思っていないけど…」
だから教えて欲しくって…。勝手に見るより、教わる方がいいからね。
ぼくだと何を書くべきなのかな、ソルジャーの日誌を作るのならば。
君は日誌の先輩だから、と訊いたのだけれど、ハーレイは逆に尋ねて来た。
「書き方って…。お前、日誌を書きたいのか?」
「そうだよ、日誌を書いておいたら、いつかは役に立つだろう?」
君の日誌と同じようにね。
ぼくは地球まで行くつもりだけど、辿り着けなかった時は日誌が役に立つ。
それが誰かは分からないけれど、ぼくの跡を継いでくれる人。…迷った時には、ぼくの日誌。
読んでくれたら、其処に答えがあるだろうから。
「どうなんだか…。俺はそういうつもりで日誌を書いてはいるが…」
お前は俺とは立場が違う。
ソルジャーとキャプテンってだけじゃなくてだ、何から何まで違いすぎるってな。
誰も参考に出来やしないぞ、お前の生き方。
俺の生き方なら、真似られるヤツも、参考にするヤツもいるんだろうが…。
違うのか、と覗き込まれた瞳。射るような視線で、真っ直ぐに。
ミュウという種族が発見されて以来、一人しかいないタイプ・ブルー。「それがお前だ」と。
宇宙に一人きりの存在、そんなお前と同じに生きられる人間が誰かいるのか、と。
「考えてもみろ。お前だからこそ、ソルジャーなんだ」
お前と同じに生きられないなら、誰もソルジャーにはなれないが…。
いるのか、タイプ・ブルーの仲間。…お前と同じサイオンを使いこなせるヤツが?
どうなんだ、と見詰められたから。
「…誰もいないね…」
この船には誰も乗っていないよ、ぼくのようなことが出来る仲間は。
アルタミラでも、タイプ・ブルーは他に誰もいなくて…。だから殺されずに生かされていて…。
これで死ぬんだ、と思った時でも、いつも治療されて、気が付いたら檻の中だった…。
「そうだろう? 人類ですらも分かっていたんだ。お前の代わりはいないってことを」
俺たちミュウも気付いてるってな、お前だけしかいないということ。
お前しかソルジャーになれやしないし、お前の仕事はお前にしか出来ん。
その分、お前の責任も重い。…一人きりしかいないんだから。
俺の方なら、厨房からキャプテンになったほどだし、船を操れる仲間は他にもいる。他の仕事が山ほどあっても、俺にしか出来ないわけじゃない。俺が纏めているってだけで。
だがな、お前は違うんだ。…お前がいなくなっちまったら、誰がこの船を守ってくれる?
仲間たちが食う飯にしたって、もう何処からも来やしない。お前が奪いに行かなかったら。
お前は船の仲間の命を預かってるんだ、お前自身が責任の重さをまるで気にしていなくても。
俺よりも遥かに重く出来てて、誰も代わりに持っちゃくれない責任ってヤツ。
お前はそいつを背負ってるわけだ、仲間たちの命も、このシャングリラも、ミュウの未来も。
そんな毎日を書き残しておいて楽しいか、と問い掛けられた。
一人、日誌を読み返してみては、後悔することにならないか、と。
「今みたいな夜の時間に、だ。…その日の分の日誌をお前が書いた後だな」
こういう時間に、前に書いた日誌を読んでみて。…そうだった、と思い返して。
「後悔だって…?」
日誌を書いたことを後悔するのかい?
書こうと決めた日誌だったら、後悔しないと思うけれどね…?
ぼくが自分で決めたことなのに、どうして後悔するんだい?
君は不思議なことを言うね、とハーレイを見詰め返したけれども、「違う」と返った静かな声。
「日誌を書くってことじゃない。…其処に書かれている中身が問題なんだ」
お前が自分で残した記録。そいつを読んだら、色々なことを思い出すから…。
あの時、こうすりゃ良かったんだ、と悔やむことだってあるだろう。
幸い、今の所は平穏無事でだ、何も起こっちゃいないんだが…。
お前、アルタミラから脱出した後、ハンスのことを悔やんでいただろう。思い出す度に。
もっとサイオンがあったなら、と。
救おうと思う気持ちが強かったならば、サイオンを使えていたんじゃないか、とも。
お前のサイオンは尽きちまってたが、意識はあったわけだから…。
その分、余力があった筈だと。…もう無理だ、と思っていなかったならば、救えていたとな。
「…うん…。今でも、たまに思い出すよ」
どうして救えなかったのかと。…あそこで力を使えていたなら、ハンスも船にいた筈だとね。
「ほらな。…そういう記録を書いていくのがソルジャーなんだ」
それがソルジャーの日誌になるんだ、お前は船の仲間たちの命を背負うんだから。
読み返してみても辛いだけだぞ、自分を責めるばかりでな。
「でも…。楽しいことも幾つもあるよ?」
生きていて良かった、と思えることが。ジャガイモ地獄もキャベツ地獄も、楽しかったよ。
「それはまあ…。だが、それだけじゃ済まない時が来ないと何故言えるんだ?」
いくら平穏無事な日々でも、俺たちは追われる存在だ。
ミュウに生まれたというだけでな。
この先も無事とは限らないんだ、とハーレイの瞳は穏やかだけれど、真剣だった。
人類軍に見付かった時は、逃げるだけしか術がない船。武装していない民間船では、とても戦うことは出来ない。改造する技術も、今はまだ無い。
それがシャングリラで、ミュウの仲間たちを乗せた箱舟。何処かに着弾したとしたって、空気が流れ出さないようにと、隔壁で遮断して逃げることしか出来ない船が。
「俺たちの船は、そういう船だ。いくらお前が守っていたって、運が悪けりゃ被弾しちまう」
その時、其処に誰かがいたなら、そいつも危ない。シールドを張り損なっちまえばな。
もしも、そういう不幸な事故が起こったら…。
お前、その事故を、どんな思いで日誌に書くんだ?
きっと涙が出るのを堪えて、懸命に書くんだろうがな…。書いた後にはどうするんだ?
「…何度でも読むよ。忘れないように」
同じようなことが二度と起こらないように、何度でも。…どうすれば良かったかを考えながら。
ぼくはどうするべきだったのかを。
「俺が思った通りじゃないか。ハンスの事故の時と同じだ」
何度も日誌を読み返しては、その度にお前は後悔するんだ。ちゃんと最善を尽くしたのか、と。
読み返す度に、過ぎ去った過去に囚われちまう。自分のせいだ、と自分を責めて。
そういう辛い日誌を書いていきたいか、お前?
とっくに終わっちまったことまで、お前に突き付けてくるような辛い日誌を…?
「それが必要なんだったら…」
船のみんなの役に立つなら、きちんと書いておこうと思う。辛いだなんて言わないでね。
それもソルジャーの役目だろう、と答えたけれど。
「お前にそれは必要無い。…辛い日誌は要らないんだ」
さっきも言ったが、お前の代わりはいないんだから。…今も、これから先にもな。
辛い思いをして書き残したって、日誌は誰の役にも立たん。そんな日誌に意味は無いだろ?
この船のことは俺が書くから、お前は何も書かなくていい。
ソルジャーの日誌は無くていいんだ、お前が辛くなるだけだから。
いいな、と肩に置かれたハーレイの手。
「日誌は書くな」と。「仲間たちには、俺の航宙日誌があれば足りる」と。
そうだった、と蘇って来た、あの夜のこと。「日誌は要らない」と諭したハーレイ。
日誌の書き方を教わりに行って、止められてしまった前の自分。「書くな」と日誌の大先輩に。
ハーレイは一番の友達でもあったし、そのハーレイが止めるからには、書くべきではない。そう思ったから、日誌は書かないことにした。ソルジャーの日誌はやめておこう、と。
「…前のぼくの日誌…。前のハーレイが止めたんだ…」
ぼくは書こうと思っていたのに、書かなくていい、って。…必要無い、って。
「そうだが、お前、書きたかったか?」
俺は生まれ変わって別の俺だし、今だから、もう一度訊いてみるんだが。
お前は日誌を書いた方が良かったと思っているのか、ソルジャーの日誌を…?
「どうだろう…?」
書いておいた方が良かったのかな、と改めて考えた日誌のこと。前の自分が書かずに終わった、ソルジャーの日誌。
あれから長い時が流れて、ジョミーを見付け出したのだけれど。
奇跡のように現れた二人目のタイプ・ブルーで、シャングリラに迎え入れたけれども。
補聴器に仕込んだ記憶装置を持っていたから、日誌はまるで必要無かった。文字にしなくても、記憶を丸ごと渡せたから。…下手に文章の形にするより、正確に全てを伝えられたから。
もっとも、十五年間もの深い眠りに就いていた間は、渡しそびれてしまったけれど。
ああいう時こそ、ジョミーは記憶装置が欲しかったろうに。
ソルジャー候補でしかなかったのが、いきなりソルジャーになったのだから。
何の引き継ぎもしてはいなくて、正式なお披露目もされないままで。
皆を導くにはどうすればいいか、手探りで歩くしか無かったジョミー。
記憶装置さえ持っていたなら、ヒントも答えも、その中に山と詰まっていたのに。
何の前触れもなく導き手を失い、放り出されてしまったジョミー。ただでも味方が少ない船で。
それでも懸命に頑張り続けて、人類に向けての思念波通信を行ったけれど…。
(…裏目に出ちゃって、責められちゃって…)
ブリッジにも顔を出さない日が長く続いていたという。青の間に来ては、佇むだけで。
きっとジョミーは、前の自分の導きを欲していたのだろう。進むべき道が分からなくて。
何処に向かって歩めばいいのか、教えてくれる者が誰もいなくて。
それを思うと、前の自分がすべきだったことは…。
「…前のぼく、ジョミーに記憶装置を渡しそびれて眠っちゃって…」
まさか目が覚めないとは思わないしね、寝ちゃう前には少し眠かっただけなんだから。
十五年間も眠っちゃうんだと分かっていたなら、記憶装置、ジョミーに渡しておいたのに…。
あんなことになるなら、ソルジャーの日誌、書いておけば良かったんだよね。
そしたらジョミーも読めたのに…。色々と参考になっただろうし、自信も持てたよ。
ぼくが眠ってしまっていたって、ぼくの考えは日誌に書いてあるんだから。…やり方だって。
「おいおい、お前の日誌って…。お前が生きているのにか?」
深く眠っているだけなんだし、あの状態では勝手に開いて読めはしないぞ。
いくらジョミーがソルジャーになっても、青の間に出入り自由でもな。
「読めないって…。なんで?」
どうして駄目なの、ぼくの日誌はそういう時に読むためのものでしょ…?
「いや、無理だ。俺の航宙日誌と同じだ、書いた人間が生きてる間は許可が要る」
読んでもいい、という許しがな。
それをお前が出してないなら、ジョミーは勝手に読むことは出来ん。其処に日誌があったって。
ついでに言うなら、許可を出せるような余裕があったら、記憶装置を渡したろうが。
「…そうだね、そっちの方がずっと早いし、正確だし…」
眠っちゃうんだ、って分かっていたなら、記憶装置を渡していたよ。ジョミーのために。
「俺たちも記憶装置を知ってはいたが…。外してジョミーに渡してはいない」
必要だろうと分かっていたって、お前の許可が無いんだからな。…眠っちまって。
だから日誌が書いてあっても同じことだ。「読め」とは言わんな、ジョミーにだって。
「そっか…」
書いておいても、無駄だったんだ…。本当に役に立ちそうな時に、出番が無いなら。
ソルジャーの日誌は、あったとしても役に立たないものだったらしい。ジョミーがそれを求めていた時、読むための許可は出なかったから。
ハーレイたちは記憶装置の存在さえも、ジョミーに教えなかったのだから。
もしもジョミーが手にしていたなら、求める答えを得られただろうに。迷った時には、導く声も記憶装置から聞こえたろうに。
「…駄目だよね、ぼく…。記憶装置は渡しそびれるし、日誌も書いていなかったし…」
ホントに駄目なソルジャーだったよ、ジョミーに悪いことをしちゃった…。
「ジョミーの件はともかくとして…。要らなかったんだ、お前の日誌は」
お前が辛くなるだけだから、とハーレイは慰めてくれるのだけど。
「でも…。ハンスの事故みたいなことは起こっていないよ?」
死んじゃった仲間もいたけれど…。事故じゃないでしょ、病気だったよ。
日誌に書いても、そんなに辛くはなかったと思う。…悲しいけどね。
「船じゃそうだが、外の世界にはミュウの子供たちがいたろうが」
助け損なった子だって多いぞ、ユニバーサルのヤツらに先を越されて。
お前はそいつを書かなきゃならん。…日誌を書いていたならな。
子供たちの悲鳴が聞こえて来そうな、読み返す度に辛い気持ちになる日誌を。
「そうなっちゃうね…」
助け出せなかった子供たちのことも、きちんと書かなきゃいけないから…。
子供たちの名前も、助け損ねた状況とかも。
それもソルジャーの役目だもの、と今でも心が痛くなる。死んでいった子供たちを思うと。
「今のお前でも、そういう顔になるんだから…。思い出しただけで」
書くなと止めて正解だったな、前のお前のソルジャーの日誌。
お前が思い出して泣くのを、俺は防げたようだから…。お前の心を少しは軽く出来たから。
「うん、ハーレイのお蔭だよ。…毎晩のように後悔しなくて済んだから」
それにね…。もしも日誌を書いてたら…。
ハーレイのように強くない自分は、恋を書けないのが辛かっただろう。
日々の出来事を綴ってゆくのに、恋の思い出を鏤めることは出来ないから。どんなにハーレイを想っていたって、欠片も記せはしないのだから。
「…前のハーレイのことを書けないなんて…。何も残しておけないなんて…」
そんなの辛いよ、辛すぎるよ。
日誌はぼくの日記なのに。…ソルジャーとしてのことは書けても、本当のぼくのことは駄目。
きっと毎晩、辛かったと思う。ハーレイに恋をしちゃった後は。
ハーレイとのことを何も書いたらいけないだなんて、悲しくて辛くて、泣いちゃったかも…。
「なるほどな…。確かに書けんな、俺とのことは」
俺は平気で嘘を書けたが、お前の心は俺よりも遥かに繊細だったというわけだ。
恋をしているのに書けないことが、辛くて悲しくなっちまうなら。
ソルジャーの日誌、書いていなくて良かったな。
俺のアドバイスは思った以上に、前のお前を助けた、と。書くな、とお前を止めたことで。
「そうみたい…」
ありがとう、あの時、ぼくを止めてくれて。
ハーレイが止めてくれなかったら、ぼく、書いてたと思うから…。
書き方を習って、毎晩、真面目に。…これもソルジャーの仕事だから、って。
色々なことを思い出しては、後悔で泣くのはいいけれど…。それも勉強なんだけど…。
二度と後悔しないように、って避ける方法も考えるだろうから。
だけど、ハーレイのことを書けない方は…。
どんなに悲しくて泣いていたって、勉強になんかならないから…。
ただ辛いだけで、涙が零れて、日誌、書くのも辛くなるから…。
ソルジャーの日誌が無くて良かった、とハーレイに「ありがとう」と頭を下げた。
前のハーレイが止めずにいたなら、きっと日誌を書いていたから。毎晩、日誌を綴り続けては、何度も泣いていただろうから。
「ホントにハーレイのお蔭だよ。…前のぼくが泣かずに済んだのは」
もしも日誌を書いていたなら、何度泣いたか、数えることも出来ないくらい。
ハーレイのことを書けないだけでも、涙が溢れて止まらなかったと思うから…。
「礼を言ってくれるのは嬉しいんだが…。先の先まで読めたわけではないからな、俺も」
あの時、お前を止めた理由は、お前の代わりは誰もいない、ってヤツだったんだが…。
来ちまったからな、タイプ・ブルーの後継者が。
ソルジャーの日誌、あれば参考になっただろうに…。記憶装置と同じようにな。
お前がいなくなっちまった後しか、出番が無かったとしても。
「それでもだよ。…あれば良かったかな、とは思うけれどね」
無かったお蔭で、辛い思いをしなくて済んだよ。日誌を書いたり、読み返したりで。
どうして書いたら駄目なんだろう、ってハーレイのことを思う度に涙が止まらないとか。
「そりゃあ良かった。…結果的にお前を救えたんなら」
今のお前も、色々なことを思い出さずに済むからな。
お前の日誌は書かれていないし、何処にも残っていないんだから。
「それなんだけど…。ハーレイは平気?」
航宙日誌が残ってるのに…。本屋さんに行ったら、一杯並んでいたりするのに。
今日も新聞に広告があったよ、そのせいで前のぼくの日誌のことを考えちゃったんだけど…。
「俺の航宙日誌のことか?」
大丈夫だ、こうして俺を心配してくれるお前がいるからな。
前の俺はお前を失くしちまったが、お前は戻って来てくれたから。
お蔭で今の俺は幸せ者なんだ、と笑顔のハーレイ。「宇宙で一番の幸せ者だ」と。
「お前と一緒に青い地球まで来られた上に、すっかり平和な時代だから」と。
今は幸せなのだろうけれど、辛かった時もあっただろうに。
前のハーレイの地球までの道は、最後は生ける屍のような日々だけで埋め尽くされたのに。
それでも「幸せ者だ」と言ってくれる人、前の自分が日誌を書こうとしたのを止めてくれた人。
「辛い思いをすることはない」と、「俺の日誌があればいいから」と。
この優しくて愛おしい人と、また巡り会えて同じ時間を生きてゆく。
今度こそ、離れてしまわずに。
青く蘇った水の星の上で、しっかりと手を繋ぎ合って。
いつまでも、何処までも二人一緒に、幸せを幾つも拾い集めて、心の日誌に書き記しながら…。
無かった日誌・了
※ソルジャー・ブルーの日誌は無いのですけど、実は、書こうとしたことがあったのです。
けれど、書かれずに終わった日誌。前のハーレイが止めたお蔭で、救われた前のブルーの心。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
やっぱり人気、とブルーが眺めた新聞広告。学校から帰って、おやつの時間に。
キャプテン・ハーレイの航宙日誌。前のハーレイが綴った日誌が色々、気軽に買える文庫版から本物そっくりの復刻版まで。
値段も違えばサイズも違う。復刻版と文庫版の他にも様々な大きさ、それから値段。元の日誌の抜粋だとか、子供でも読める簡単な文章になったものとか。
(買う人、沢山いるものね…)
キャプテン・ハーレイの日誌は、超一級の歴史資料だから。前の自分たちが生きた時代の歴史を知るには、欠かせない資料。歴史が好きな子供だったら、読んでみることもあるだろう。
研究者向けの復刻版だと、値段はとても高くなる。前のハーレイが羽根ペンで綴った文字たち、それをそのまま写しているから。
歴史好きとか、研究者だとか、読みたい人が大勢いる日誌。趣味で買う人がいるということも、最近になって耳にした。
(…キャプテン・ハーレイのファンの人…)
一人だけしか知らないけれども、今のハーレイの馴染みの人。行きつけの理髪店の店主が、前のハーレイのファンだった。ハーレイに「キャプテン・ハーレイ風」の髪型を勧めたほどに。恋人がいると聞いた途端に、「ソルジャー・ブルー風にカットしたい」と言い出したほどに。
(…その人、研究者向けの復刻版も欲しいって…)
ハーレイがそう話していたから、研究者でなくてもファンなら買うのが復刻版。いくら高くても揃えてみたいと考えるらしい。
色々な人が買って読むのが航宙日誌。文庫に、子供向けの仕様に、本物そっくりの復刻版やら。
こうして広告を眺めていると、本当に凄いロングセラー。
古典の本にも負けない勢い、今も売れ続けているのだから。ずっと昔から売られているのに。
(ハーレイ、有名作家だよ…)
小説の形はしていないけれど、エッセイとも違う中身だけれど。
それでも充分、有名作家。これだけのロングセラーなら。時代を越えて売れているなら。
何百年も書いていたんだものね、と戻った二階の自分の部屋。おやつの後で。
勉強机の前に座って、思い返した航宙日誌。前のハーレイがせっせと綴っていたけれど…。
(人気があるのも分かる気がするよ)
日誌の中身がどうであろうと、ハーレイの文章に遊びがまるで無かったとしても、綴られた文はミュウの歴史そのもの。初代のミュウたちがどう生きていたか、それが分かるのが航宙日誌。
人類側の記録は多くあるけれど、ミュウの側から書かれたものは他に無いから。
広い宇宙の何処を探しても、ミュウが書いた記録はあの一つだけ。
(誰も日誌は書かなかったから…)
シャングリラで生きた仲間たち。アルタミラからの時代をずっと、あの船で生きた仲間は何人もいたのだけれど。けして少なくなかったけれども、誰も日誌は残さなかった。
彼らが書いた記録となったら、自分の仕事の覚え書きくらい。引き継ぎの時に使う程度の。
長老と呼ばれたゼルもブラウも、博識だったヒルマンとエラの二人も、そのタイプ。日誌の形で書き残すよりは、覚え書きやら、レポートやら。
(…ヒルマンとエラなら論文だったし、ゼルだったら図面とかなんだよ)
それらが今に残っていたって、ミュウの歴史の記録にはならない。研究資料になるという程度。例の航宙日誌と突き合わせないと、時期の特定すらも危うい。
白いシャングリラの設計図にしても、いつから在ったか分からないから。
初めての自然出産だって、ジョミーがそれを宣言した日は、航宙日誌の中にしか無い。カリナは日記を書かなかったし、ノルディが記録を残していたって…。
(…カリナが診察に来てからだよね?)
身ごもったのかも、とメディカル・ルームにやって来るまで出来ないカルテ。それまでに色々と勉強したって、それはカルテに書かれはしない。
(前のハーレイ、ホントに凄いよ…)
日々の出来事を淡々と綴っていたのが、後の時代に役立つなんて。
今でもロングセラーになるほど、色々な人が必要としている日誌を残しておいただなんて。
改めて思う、キャプテン・ハーレイの日誌の偉大さ。コツコツと毎日書き続けたこと。
他の仲間たちは、誰も書いてはいなかったのに。前の自分も、何も綴りはしなかったのに。
ソルジャーだった前のぼくでも書かなかった、と思ったけれど。日誌は存在しないのだけれど。
(もしも、ソルジャー・ブルーの日誌があったら…)
物凄い人気だっただろう。キャプテン・ハーレイの航宙日誌が、これだけ売れているのだから。見た目の人気と関係無く。…前のハーレイのファンの数とは無関係に。
(前のハーレイ、あんまり人気が無いものね…)
写真集が出版されていないのだから、注目されていないということ。出版したって、売れそうにない前のハーレイの写真集。
けれど、ソルジャー・ブルーは違う。自分でもちょっぴり恥ずかしいけれど、写真集が出ている数なら誰にも負けない。ジョミーにも、もちろんキースにだって。
そんな具合だから、もしも日誌があったなら…。
(日誌だけでも売れるんだろうし…)
写真集に日誌の抜粋があれば、きっと人気を集める筈。手軽に読めて、写真も楽しめるから。
それとは逆に、写真が豊富な日誌も売れる。ふんだんに写真を鏤めたならば、文字だけの日誌を売り出すよりも。
(凄く売れそう…)
キャプテン・ハーレイの航宙日誌を越える売り上げ、ついでにロングセラーにも。
そうなったろう、と容易に想像出来るのに…。
(前のぼくの日誌…)
なんで無いわけ、と首を傾げた。どうしてハーレイの航宙日誌しか無いのだろう、と。
書かなかったものは、存在する筈がないけれど。残っていなくて当然だけれど、書かずにおいた理由が分からない。ソルジャー・ブルーとしての日誌を。
今の自分は日記をつけてはいないのだけれど、前の自分は事情が違う。置かれた立場も、生き方だって。…長い年月、たった一人のソルジャーだったし、ミュウの長として生きていた。
(前のぼくなら…)
ハーレイのように、日誌を書いていたって不思議ではない。
日々の出来事や、ソルジャーが下した判断などを。船の中で見聞きしたことも。
(ソルジャーの日誌…)
それは日誌で日記ではないし、ハーレイとの恋は書けないけれど。プライベートなことも書けはしないけれども、前の自分はソルジャーだから…。
(日誌、書いておけば良かったのに…)
どういう日々を過ごしていたのか、様々な出来事にどう対処したか。会議の議題や、長老たちと交わした意見。それに彼らがどう答えたのか、そういったことを。
自分が書いておきさえしたなら、後々、ジョミーの参考にもなった。判断に迷った時に開いて、似たような例が何処かに無いかと探したりして。
(…記憶装置はあったけど…)
ジョミーに遺した記憶装置に、それらも入っていたのだけれど。
記憶装置にしか入っていない記録は、他の仲間は見られない。ジョミーの言葉が本当かどうか、誰も確かめることは出来ない。
「ソルジャー・ブルーの意志でもある」と言われても。ジョミーがそうだと主張しても。
その点、日誌の形だったら、他の仲間も読むことが出来る。長老だったヒルマンやエラも、若いナスカの子供たちも。
前の自分の意志を確かめ、それに従って動けた筈。
ジョミーが「こうだ」と述べた意見が、前の自分のとは違っていたって、溜息をついても従った筈。もしも日誌を書いていたなら、「これから先は、ジョミーに従え」と綴ったろうから。
日誌があったら、大いに役立ったことだろう。ジョミーがソルジャーを継いだ後には。
前のハーレイの航宙日誌も、そのために綴られていたものだった。ハーレイの代で地球まで辿り着けなかったら、次のキャプテンが立つだろうから。…その時に日誌が助けになれば、と。
前の自分はそれを知っていたのに、どうして日誌を書こうと思わなかったのか。
キャプテンが次の世代を意識していたなら、ソルジャーの自分も同じように考えるべきなのに。
(大失敗…)
前のぼくも日誌を書けば良かった、とコツンと叩いた頭。そうすればジョミーの役に立ったし、船の仲間たちの参考にもなった筈なのに。
ゼルたちだって、ジョミーの考えを頭から否定したりはしなかったろうに。「若すぎる」というだけのことで。アルタミラを知らない世代は駄目だと、決めてかかって。
そうならないよう、日誌を書いておくべきだった、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで口にした。
「あのね、ハーレイ…。前のぼくの日誌…」
「日誌?」
前のお前の日誌なのか、と丸くなったハーレイの鳶色の瞳。
「そう。前のハーレイの航宙日誌みたいなヤツ」
「日誌って…。お前、書いてはいないだろう?」
俺は知らんぞ、とハーレイは怪訝そうな顔。「お前の日誌なんかが、あったか?」と。
「そうなんだけど…。前のぼく、日誌を書いてはいないんだけれど…」
日誌、書いておけば良かったかな、って思ったんだよ。日誌があったら、役に立ちそう。
ジョミーも参考に出来ただろうし、船のみんなも悩んだ時には、開いて読んでみたりして。
「そりゃまあ、あればそうなったろうが…」
役に立っただろうとは思うが、無かったものは仕方ない。お前は日誌を書かなかったんだから。
「そのことなんだよ。…前のぼく、日誌を書けば良かったのに、思い付きさえしなくって…」
今頃になって気が付いちゃった。ぼくも日誌を書くべきだった、って。
ハーレイが書くのを見ていたくせに、駄目だよね。前のぼくの目、節穴だったよ…。
もっときちんと考えていたら、ぼくも日誌を書いたのに。
…ハーレイの航宙日誌とは別に、ソルジャーの日誌。
ホントに駄目なソルジャーだよね、と零した溜息。まるで気付かなかっただなんて、と。
日誌があったら、どれほど役に立つかということに。後の時代に、自分の命が燃え尽きた後に。
「…今まで気付きもしないだなんて、ホントに駄目で考えなしだよ」
前のぼく、長生きしてたってだけで、後のことまでは少しも考えてなくて…。
ソルジャーだったら、きちんと記録を残しておくべきだったのにね。みんなのために。
馬鹿で間抜けだよ、前のぼくって。
「それは違うぞ、お前が忘れているだけだ」
前のお前は、そのことを思い付いていた。ソルジャーの日誌を書き残すことを。
俺は知ってる、とハーレイが言うから驚いた。そんな馬鹿な、と。
「え…?」
忘れてるって…。どういうこと?
それに日誌を思い付いたんなら、前のぼくは書いたと思うんだけど…?
「本当に忘れちまったんだな、綺麗サッパリ…。お前ってヤツは」
生まれ変わる時に落として来たのか、その後の人生が長すぎたせいで忘れちまったか。
お前、俺に相談に来たろうが。…日誌の件で。
ソルジャーになって間も無い頃だな、此処まで言っても思い出せんか?
俺の所に来たんだがなあ、日誌の書き方を教えてくれと。日誌は俺の方が先輩だから。
「そうだったっけ…!」
ハーレイ、日誌を書いていたから…。
どういう風に書けばいいのか、書き方、教えて貰いたくって…。
思い出した、と蘇った記憶。遠く遥かな時の彼方で、前の自分がやったこと。
まだ名前だけがシャングリラだった船で、ソルジャーの任に就いた後。ご大層な尊称で呼ばれる日々にも慣れて来た頃、ハーレイの日誌が気になり始めた。
一日の終わりに、必ず書いている航宙日誌。船の出来事を記すキャプテン。
その姿を何度も目にしていたから、考えた。ソルジャーになった自分も、あんな風に日誌を書くべきだろうか、と。
(ソルジャーはキャプテンよりも偉いんだしね…?)
単なるリーダーだった頃とは違うのだ、と嫌でも思い知らされるのがソルジャーの立場。歩いていれば誰もが礼を取るほど、それまでとは違ってしまった生活。
皆の頂点に立つのがソルジャーなのだし、キャプテンよりも責任は重い。ならば、記録も必要になってくるだろう。どういう日々を過ごしているのか、ソルジャーの役目は何なのか。
(だけど、日誌の書き方なんて…)
分からなかったのが前の自分。心も身体も長く成長を止めていたから、ソルジャーとはいえ姿は少年。中身の方も、姿に見合った少年の心。ハーレイのような大人になってはいない。
(…子供が日誌を書いたって…)
きっと大人のようにはいかない。子供っぽいだけならマシだけれども、書くべきことを抜かしているとか、まるで日誌の体を成してはいないとか。
それでは日誌を書く意味が無いし、相談に出掛けて行ったのだった。いつも航宙日誌を忘れずに綴る、大先輩のハーレイに。
シャングリラの中の一日が終わって、通路の灯りが「夜なのだから」と落とされた後に。
遊びに行くのとは違っていたから、少し緊張した扉の前。「開いてるぞ」というハーレイの声を聞いたら、いつもの自分に戻ったけれど。
扉を開けて中に入って、勧められるままに座った椅子。もうハーレイは日誌を書き終えた後で、机の上には閉じられたそれ。
そちらの方に視線をやって、訪問の用件を切り出した。
「航宙日誌…。今日の分はもう書いたんだね。…ぼくも日誌を書こうと思って…」
ソルジャーだからね、日誌も書いておくべきだろうと思うんだ。でも…。
日誌というのは、どんなことを書けばいいんだい?
書き方を教わりたいんだけれど、と質問したら、「見せてやらんぞ」と返したハーレイ。
「何度も言ったが、航宙日誌は俺の日記だ。…いくらソルジャーでも見せられんな」
勝手に覗いたりもするなよ、と軽く睨んだハーレイの言葉遣いは、まだ普通だった。エラが色々言っていたけれど、こうして二人で話す時には、まだ敬語ではなかったハーレイ。
「分かっているよ。覗こうとは思っていないけど…」
だから教えて欲しくって…。勝手に見るより、教わる方がいいからね。
ぼくだと何を書くべきなのかな、ソルジャーの日誌を作るのならば。
君は日誌の先輩だから、と訊いたのだけれど、ハーレイは逆に尋ねて来た。
「書き方って…。お前、日誌を書きたいのか?」
「そうだよ、日誌を書いておいたら、いつかは役に立つだろう?」
君の日誌と同じようにね。
ぼくは地球まで行くつもりだけど、辿り着けなかった時は日誌が役に立つ。
それが誰かは分からないけれど、ぼくの跡を継いでくれる人。…迷った時には、ぼくの日誌。
読んでくれたら、其処に答えがあるだろうから。
「どうなんだか…。俺はそういうつもりで日誌を書いてはいるが…」
お前は俺とは立場が違う。
ソルジャーとキャプテンってだけじゃなくてだ、何から何まで違いすぎるってな。
誰も参考に出来やしないぞ、お前の生き方。
俺の生き方なら、真似られるヤツも、参考にするヤツもいるんだろうが…。
違うのか、と覗き込まれた瞳。射るような視線で、真っ直ぐに。
ミュウという種族が発見されて以来、一人しかいないタイプ・ブルー。「それがお前だ」と。
宇宙に一人きりの存在、そんなお前と同じに生きられる人間が誰かいるのか、と。
「考えてもみろ。お前だからこそ、ソルジャーなんだ」
お前と同じに生きられないなら、誰もソルジャーにはなれないが…。
いるのか、タイプ・ブルーの仲間。…お前と同じサイオンを使いこなせるヤツが?
どうなんだ、と見詰められたから。
「…誰もいないね…」
この船には誰も乗っていないよ、ぼくのようなことが出来る仲間は。
アルタミラでも、タイプ・ブルーは他に誰もいなくて…。だから殺されずに生かされていて…。
これで死ぬんだ、と思った時でも、いつも治療されて、気が付いたら檻の中だった…。
「そうだろう? 人類ですらも分かっていたんだ。お前の代わりはいないってことを」
俺たちミュウも気付いてるってな、お前だけしかいないということ。
お前しかソルジャーになれやしないし、お前の仕事はお前にしか出来ん。
その分、お前の責任も重い。…一人きりしかいないんだから。
俺の方なら、厨房からキャプテンになったほどだし、船を操れる仲間は他にもいる。他の仕事が山ほどあっても、俺にしか出来ないわけじゃない。俺が纏めているってだけで。
だがな、お前は違うんだ。…お前がいなくなっちまったら、誰がこの船を守ってくれる?
仲間たちが食う飯にしたって、もう何処からも来やしない。お前が奪いに行かなかったら。
お前は船の仲間の命を預かってるんだ、お前自身が責任の重さをまるで気にしていなくても。
俺よりも遥かに重く出来てて、誰も代わりに持っちゃくれない責任ってヤツ。
お前はそいつを背負ってるわけだ、仲間たちの命も、このシャングリラも、ミュウの未来も。
そんな毎日を書き残しておいて楽しいか、と問い掛けられた。
一人、日誌を読み返してみては、後悔することにならないか、と。
「今みたいな夜の時間に、だ。…その日の分の日誌をお前が書いた後だな」
こういう時間に、前に書いた日誌を読んでみて。…そうだった、と思い返して。
「後悔だって…?」
日誌を書いたことを後悔するのかい?
書こうと決めた日誌だったら、後悔しないと思うけれどね…?
ぼくが自分で決めたことなのに、どうして後悔するんだい?
君は不思議なことを言うね、とハーレイを見詰め返したけれども、「違う」と返った静かな声。
「日誌を書くってことじゃない。…其処に書かれている中身が問題なんだ」
お前が自分で残した記録。そいつを読んだら、色々なことを思い出すから…。
あの時、こうすりゃ良かったんだ、と悔やむことだってあるだろう。
幸い、今の所は平穏無事でだ、何も起こっちゃいないんだが…。
お前、アルタミラから脱出した後、ハンスのことを悔やんでいただろう。思い出す度に。
もっとサイオンがあったなら、と。
救おうと思う気持ちが強かったならば、サイオンを使えていたんじゃないか、とも。
お前のサイオンは尽きちまってたが、意識はあったわけだから…。
その分、余力があった筈だと。…もう無理だ、と思っていなかったならば、救えていたとな。
「…うん…。今でも、たまに思い出すよ」
どうして救えなかったのかと。…あそこで力を使えていたなら、ハンスも船にいた筈だとね。
「ほらな。…そういう記録を書いていくのがソルジャーなんだ」
それがソルジャーの日誌になるんだ、お前は船の仲間たちの命を背負うんだから。
読み返してみても辛いだけだぞ、自分を責めるばかりでな。
「でも…。楽しいことも幾つもあるよ?」
生きていて良かった、と思えることが。ジャガイモ地獄もキャベツ地獄も、楽しかったよ。
「それはまあ…。だが、それだけじゃ済まない時が来ないと何故言えるんだ?」
いくら平穏無事な日々でも、俺たちは追われる存在だ。
ミュウに生まれたというだけでな。
この先も無事とは限らないんだ、とハーレイの瞳は穏やかだけれど、真剣だった。
人類軍に見付かった時は、逃げるだけしか術がない船。武装していない民間船では、とても戦うことは出来ない。改造する技術も、今はまだ無い。
それがシャングリラで、ミュウの仲間たちを乗せた箱舟。何処かに着弾したとしたって、空気が流れ出さないようにと、隔壁で遮断して逃げることしか出来ない船が。
「俺たちの船は、そういう船だ。いくらお前が守っていたって、運が悪けりゃ被弾しちまう」
その時、其処に誰かがいたなら、そいつも危ない。シールドを張り損なっちまえばな。
もしも、そういう不幸な事故が起こったら…。
お前、その事故を、どんな思いで日誌に書くんだ?
きっと涙が出るのを堪えて、懸命に書くんだろうがな…。書いた後にはどうするんだ?
「…何度でも読むよ。忘れないように」
同じようなことが二度と起こらないように、何度でも。…どうすれば良かったかを考えながら。
ぼくはどうするべきだったのかを。
「俺が思った通りじゃないか。ハンスの事故の時と同じだ」
何度も日誌を読み返しては、その度にお前は後悔するんだ。ちゃんと最善を尽くしたのか、と。
読み返す度に、過ぎ去った過去に囚われちまう。自分のせいだ、と自分を責めて。
そういう辛い日誌を書いていきたいか、お前?
とっくに終わっちまったことまで、お前に突き付けてくるような辛い日誌を…?
「それが必要なんだったら…」
船のみんなの役に立つなら、きちんと書いておこうと思う。辛いだなんて言わないでね。
それもソルジャーの役目だろう、と答えたけれど。
「お前にそれは必要無い。…辛い日誌は要らないんだ」
さっきも言ったが、お前の代わりはいないんだから。…今も、これから先にもな。
辛い思いをして書き残したって、日誌は誰の役にも立たん。そんな日誌に意味は無いだろ?
この船のことは俺が書くから、お前は何も書かなくていい。
ソルジャーの日誌は無くていいんだ、お前が辛くなるだけだから。
いいな、と肩に置かれたハーレイの手。
「日誌は書くな」と。「仲間たちには、俺の航宙日誌があれば足りる」と。
そうだった、と蘇って来た、あの夜のこと。「日誌は要らない」と諭したハーレイ。
日誌の書き方を教わりに行って、止められてしまった前の自分。「書くな」と日誌の大先輩に。
ハーレイは一番の友達でもあったし、そのハーレイが止めるからには、書くべきではない。そう思ったから、日誌は書かないことにした。ソルジャーの日誌はやめておこう、と。
「…前のぼくの日誌…。前のハーレイが止めたんだ…」
ぼくは書こうと思っていたのに、書かなくていい、って。…必要無い、って。
「そうだが、お前、書きたかったか?」
俺は生まれ変わって別の俺だし、今だから、もう一度訊いてみるんだが。
お前は日誌を書いた方が良かったと思っているのか、ソルジャーの日誌を…?
「どうだろう…?」
書いておいた方が良かったのかな、と改めて考えた日誌のこと。前の自分が書かずに終わった、ソルジャーの日誌。
あれから長い時が流れて、ジョミーを見付け出したのだけれど。
奇跡のように現れた二人目のタイプ・ブルーで、シャングリラに迎え入れたけれども。
補聴器に仕込んだ記憶装置を持っていたから、日誌はまるで必要無かった。文字にしなくても、記憶を丸ごと渡せたから。…下手に文章の形にするより、正確に全てを伝えられたから。
もっとも、十五年間もの深い眠りに就いていた間は、渡しそびれてしまったけれど。
ああいう時こそ、ジョミーは記憶装置が欲しかったろうに。
ソルジャー候補でしかなかったのが、いきなりソルジャーになったのだから。
何の引き継ぎもしてはいなくて、正式なお披露目もされないままで。
皆を導くにはどうすればいいか、手探りで歩くしか無かったジョミー。
記憶装置さえ持っていたなら、ヒントも答えも、その中に山と詰まっていたのに。
何の前触れもなく導き手を失い、放り出されてしまったジョミー。ただでも味方が少ない船で。
それでも懸命に頑張り続けて、人類に向けての思念波通信を行ったけれど…。
(…裏目に出ちゃって、責められちゃって…)
ブリッジにも顔を出さない日が長く続いていたという。青の間に来ては、佇むだけで。
きっとジョミーは、前の自分の導きを欲していたのだろう。進むべき道が分からなくて。
何処に向かって歩めばいいのか、教えてくれる者が誰もいなくて。
それを思うと、前の自分がすべきだったことは…。
「…前のぼく、ジョミーに記憶装置を渡しそびれて眠っちゃって…」
まさか目が覚めないとは思わないしね、寝ちゃう前には少し眠かっただけなんだから。
十五年間も眠っちゃうんだと分かっていたなら、記憶装置、ジョミーに渡しておいたのに…。
あんなことになるなら、ソルジャーの日誌、書いておけば良かったんだよね。
そしたらジョミーも読めたのに…。色々と参考になっただろうし、自信も持てたよ。
ぼくが眠ってしまっていたって、ぼくの考えは日誌に書いてあるんだから。…やり方だって。
「おいおい、お前の日誌って…。お前が生きているのにか?」
深く眠っているだけなんだし、あの状態では勝手に開いて読めはしないぞ。
いくらジョミーがソルジャーになっても、青の間に出入り自由でもな。
「読めないって…。なんで?」
どうして駄目なの、ぼくの日誌はそういう時に読むためのものでしょ…?
「いや、無理だ。俺の航宙日誌と同じだ、書いた人間が生きてる間は許可が要る」
読んでもいい、という許しがな。
それをお前が出してないなら、ジョミーは勝手に読むことは出来ん。其処に日誌があったって。
ついでに言うなら、許可を出せるような余裕があったら、記憶装置を渡したろうが。
「…そうだね、そっちの方がずっと早いし、正確だし…」
眠っちゃうんだ、って分かっていたなら、記憶装置を渡していたよ。ジョミーのために。
「俺たちも記憶装置を知ってはいたが…。外してジョミーに渡してはいない」
必要だろうと分かっていたって、お前の許可が無いんだからな。…眠っちまって。
だから日誌が書いてあっても同じことだ。「読め」とは言わんな、ジョミーにだって。
「そっか…」
書いておいても、無駄だったんだ…。本当に役に立ちそうな時に、出番が無いなら。
ソルジャーの日誌は、あったとしても役に立たないものだったらしい。ジョミーがそれを求めていた時、読むための許可は出なかったから。
ハーレイたちは記憶装置の存在さえも、ジョミーに教えなかったのだから。
もしもジョミーが手にしていたなら、求める答えを得られただろうに。迷った時には、導く声も記憶装置から聞こえたろうに。
「…駄目だよね、ぼく…。記憶装置は渡しそびれるし、日誌も書いていなかったし…」
ホントに駄目なソルジャーだったよ、ジョミーに悪いことをしちゃった…。
「ジョミーの件はともかくとして…。要らなかったんだ、お前の日誌は」
お前が辛くなるだけだから、とハーレイは慰めてくれるのだけど。
「でも…。ハンスの事故みたいなことは起こっていないよ?」
死んじゃった仲間もいたけれど…。事故じゃないでしょ、病気だったよ。
日誌に書いても、そんなに辛くはなかったと思う。…悲しいけどね。
「船じゃそうだが、外の世界にはミュウの子供たちがいたろうが」
助け損なった子だって多いぞ、ユニバーサルのヤツらに先を越されて。
お前はそいつを書かなきゃならん。…日誌を書いていたならな。
子供たちの悲鳴が聞こえて来そうな、読み返す度に辛い気持ちになる日誌を。
「そうなっちゃうね…」
助け出せなかった子供たちのことも、きちんと書かなきゃいけないから…。
子供たちの名前も、助け損ねた状況とかも。
それもソルジャーの役目だもの、と今でも心が痛くなる。死んでいった子供たちを思うと。
「今のお前でも、そういう顔になるんだから…。思い出しただけで」
書くなと止めて正解だったな、前のお前のソルジャーの日誌。
お前が思い出して泣くのを、俺は防げたようだから…。お前の心を少しは軽く出来たから。
「うん、ハーレイのお蔭だよ。…毎晩のように後悔しなくて済んだから」
それにね…。もしも日誌を書いてたら…。
ハーレイのように強くない自分は、恋を書けないのが辛かっただろう。
日々の出来事を綴ってゆくのに、恋の思い出を鏤めることは出来ないから。どんなにハーレイを想っていたって、欠片も記せはしないのだから。
「…前のハーレイのことを書けないなんて…。何も残しておけないなんて…」
そんなの辛いよ、辛すぎるよ。
日誌はぼくの日記なのに。…ソルジャーとしてのことは書けても、本当のぼくのことは駄目。
きっと毎晩、辛かったと思う。ハーレイに恋をしちゃった後は。
ハーレイとのことを何も書いたらいけないだなんて、悲しくて辛くて、泣いちゃったかも…。
「なるほどな…。確かに書けんな、俺とのことは」
俺は平気で嘘を書けたが、お前の心は俺よりも遥かに繊細だったというわけだ。
恋をしているのに書けないことが、辛くて悲しくなっちまうなら。
ソルジャーの日誌、書いていなくて良かったな。
俺のアドバイスは思った以上に、前のお前を助けた、と。書くな、とお前を止めたことで。
「そうみたい…」
ありがとう、あの時、ぼくを止めてくれて。
ハーレイが止めてくれなかったら、ぼく、書いてたと思うから…。
書き方を習って、毎晩、真面目に。…これもソルジャーの仕事だから、って。
色々なことを思い出しては、後悔で泣くのはいいけれど…。それも勉強なんだけど…。
二度と後悔しないように、って避ける方法も考えるだろうから。
だけど、ハーレイのことを書けない方は…。
どんなに悲しくて泣いていたって、勉強になんかならないから…。
ただ辛いだけで、涙が零れて、日誌、書くのも辛くなるから…。
ソルジャーの日誌が無くて良かった、とハーレイに「ありがとう」と頭を下げた。
前のハーレイが止めずにいたなら、きっと日誌を書いていたから。毎晩、日誌を綴り続けては、何度も泣いていただろうから。
「ホントにハーレイのお蔭だよ。…前のぼくが泣かずに済んだのは」
もしも日誌を書いていたなら、何度泣いたか、数えることも出来ないくらい。
ハーレイのことを書けないだけでも、涙が溢れて止まらなかったと思うから…。
「礼を言ってくれるのは嬉しいんだが…。先の先まで読めたわけではないからな、俺も」
あの時、お前を止めた理由は、お前の代わりは誰もいない、ってヤツだったんだが…。
来ちまったからな、タイプ・ブルーの後継者が。
ソルジャーの日誌、あれば参考になっただろうに…。記憶装置と同じようにな。
お前がいなくなっちまった後しか、出番が無かったとしても。
「それでもだよ。…あれば良かったかな、とは思うけれどね」
無かったお蔭で、辛い思いをしなくて済んだよ。日誌を書いたり、読み返したりで。
どうして書いたら駄目なんだろう、ってハーレイのことを思う度に涙が止まらないとか。
「そりゃあ良かった。…結果的にお前を救えたんなら」
今のお前も、色々なことを思い出さずに済むからな。
お前の日誌は書かれていないし、何処にも残っていないんだから。
「それなんだけど…。ハーレイは平気?」
航宙日誌が残ってるのに…。本屋さんに行ったら、一杯並んでいたりするのに。
今日も新聞に広告があったよ、そのせいで前のぼくの日誌のことを考えちゃったんだけど…。
「俺の航宙日誌のことか?」
大丈夫だ、こうして俺を心配してくれるお前がいるからな。
前の俺はお前を失くしちまったが、お前は戻って来てくれたから。
お蔭で今の俺は幸せ者なんだ、と笑顔のハーレイ。「宇宙で一番の幸せ者だ」と。
「お前と一緒に青い地球まで来られた上に、すっかり平和な時代だから」と。
今は幸せなのだろうけれど、辛かった時もあっただろうに。
前のハーレイの地球までの道は、最後は生ける屍のような日々だけで埋め尽くされたのに。
それでも「幸せ者だ」と言ってくれる人、前の自分が日誌を書こうとしたのを止めてくれた人。
「辛い思いをすることはない」と、「俺の日誌があればいいから」と。
この優しくて愛おしい人と、また巡り会えて同じ時間を生きてゆく。
今度こそ、離れてしまわずに。
青く蘇った水の星の上で、しっかりと手を繋ぎ合って。
いつまでも、何処までも二人一緒に、幸せを幾つも拾い集めて、心の日誌に書き記しながら…。
無かった日誌・了
※ソルジャー・ブルーの日誌は無いのですけど、実は、書こうとしたことがあったのです。
けれど、書かれずに終わった日誌。前のハーレイが止めたお蔭で、救われた前のブルーの心。
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