シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
夢のドライブ
(嘘…!)
クルンと回ったブルーの視界。体育の授業の真っ最中に、グラウンドで。
まだ午前中で、日射しが暑いわけでもないのに。さっき始めたばかりのサッカー、走りすぎてはいないのに。
けれど、回ってしまった目。よく考えたら、ボールを追い掛けて全力疾走、それもいきなり。
いつもだったら、これだけの距離を一気に走り抜いたりはしない。足の速い仲間たちにお任せ、端で見ているだけなのが自分。
(頑張り過ぎちゃった…)
たまたま誰もいなかったから。…いける、と思ったものだから。
倒れちゃうんだ、と思ったけれども、止まらない身体。スローモーションみたいに感じる時間。色々なことを、こうして考えていられるほどに。
(時間、伸びてる…)
地面が遠い、と感じる間に遠ざかる意識。まだグラウンドに倒れない身体。
眩暈を感じた瞬間からだと、かなり経ったと思うのに。けれど時間は、まるで飴のように伸びてゆく。もう倒れても良さそうなのに、と意識はフッと消えてしまって…。
「おい、ブルー!」
大丈夫か、と頭の上から聞こえて来た声。
此処にいる筈がないハーレイの声で、背中の下に感じる地面。仰向けに寝かされているらしい。
「ハーレイ……先生…?」
うっかり「ハーレイ」と呼びそうになって、慌てて付け加えた「先生」。
ぼんやりと瞼を押し上げてみたら、ハーレイがいたものだから。
側に屈み込んで、心配そうな顔のハーレイ。鳶色の瞳が見下ろしている。「大丈夫か?」と。
何処から見たってハーレイそのもの、夢を見ているとは思えない。
グラウンドで倒れた筈なのに。…身体の下には地面の感触、体育の授業中なのに。
よくよく見たら、ハーレイの後ろに見える青空。やっぱり此処はグラウンド。
他の生徒の声も聞こえるし、サッカーボールを追う音だって。シュートやドリブル、グラウンドだけで聞ける音。
(なんで…?)
どうしてハーレイが此処にいるの、と訊きたいけれど。見下ろしながら日陰を作ってくれている優しい恋人、温かな声の持ち主に尋ねたいけれど。
(……敬語……)
学校でハーレイと話す時には、いつでも敬語。学校では「ハーレイ先生」だから。
その大切な敬語が使えそうにない。上手く話せなくて、家での言葉が口から零れてしまいそう。先生と話す言葉ではない、友達に向けるような言葉が。
だから目だけを瞬かせた。「なんで?」と、「どうして此処にいるの?」と。
ハーレイは直ぐに分かったらしくて、穏やかな笑みを浮かべてくれた。
「驚いたか? たまたま通り掛かったんだ。空き時間だからな」
ちょいと学校の中を散歩だ、そしたらお前が倒れる所を、偶然、目撃しちまった、と…。
しかしだ、お前、暫く意識が無かったし…。
こりゃ保健室に行くしかないな、とハーレイは体育の先生と相談し始めた。グラウンドで授業を見学するより、保健室。ベッドに寝かせて、それから家に帰した方が、と。
「私もそう思っていたんですよ。帰らせた方が良さそうです」
保健委員を呼びましょう、と手を上げかけた体育の先生を、「いえ」と止めたハーレイ。
「私が連れて行きますよ。授業中の生徒よりかは暇ですからね」
それに、ブルー君の守り役でもあります。大丈夫ですよ、お任せ下さい。
先生も、どうぞ授業の続きを。…あっちの方で揉めていますよ、オフサイドかどうか。
行ってあげて下さい、とハーレイが促したから、体育の先生は「お願いします」と、生徒たちの方へ走って行った。「こら、騒ぐな!」と、声を上げながら。
(…ハーレイが連れてってくれるんだ…)
保健委員の生徒の代わりに、保健室まで。グラウンドからは距離がある場所。
少し遠いから、背中に背負ってくれるのだろうか。「倒れたお前を運ぶ時には、おんぶだな」と前に言っていたことがあるから。学校の中で倒れていたなら、ハーレイがおんぶ。
それとも抱っこ、と期待したのに。
柔道部員の生徒たちには罰でしかない、「お姫様抱っこ」での保健室行き。ハーレイが注意したことを守らず、その結果、怪我をしたならば。「行くぞ」と、逞しい両腕で抱き上げられて。
(柔道部員には恥らしいけど、ぼくはお姫様抱っこでも…)
いいんだけどな、と夢を見たのに、「おい、立てるか?」と言ったハーレイ。
「熱は無いしな、倒れたはずみに足を捻ってもいないようだし…」
立てるんだったら、俺が支えて歩くから。
「あ、はい…。多分…」
大丈夫です、と起き上がってみても、世界が回りはしなかった。身体に力が入らないだけ。少し重くて、だるい感じで。
その程度だったら立つしかなくて、外れた期待。おんぶも抱っこも、何処かに消えた。
保健委員の生徒と行くなら、歩いてゆくのが当然のこと。ヨロヨロしていても、歩けるのなら。歩けないなら、車椅子とか担架の出番。
(…おんぶも抱っこも無しなんだ…)
せっかくハーレイが来てくれたのに、と残念だけれど、ハーレイはしっかり支えてくれた。
力が入らない足で立ち上がる時も、手を貸してくれて。
なんとか立ったら、身体に腕を回してくれて。
「俺に掴まれ。…お前とじゃ、背が違いすぎるしな」
服を握ってもかまわないから。
スーツがちょっぴり皺になろうが、俺は文句を言いはしないぞ。
ゆっくり歩けよ、とハーレイが一歩踏み出した足。チビの自分に合わせてくれた小さな歩幅。
「この歩き方で大丈夫か?」と確かめてくれた。「お前に合わせたつもりなんだが…」と。
ハーレイだったら、もっと大股で歩くのに。背筋もシャンと真っ直ぐ伸ばして。
そのハーレイが腰を屈めて、一緒に歩いてくれている。置き去りにしてしまわないように。
(夢みたい…)
ハーレイと並んで歩けるなんて。それも二人きりで、学校の中で。
保健室まで距離があることを感謝した。ハーレイと二人で歩く時間が、遠い分だけ増えるから。
倒れないようハーレイの上着の裾を掴んで歩いて、グラウンドから少し離れた所で…。
「おい、ブルー。ボロを出すなよ?」
「え…?」
なあに、とハーレイの顔を仰いだら、返った苦笑。
「ほら、それだ。…其処は「なあに?」じゃなくて、「何ですか?」だろうが」
学校の中では、俺はハーレイ先生だ。…お前の家とは違うってな。
いつもみたいに敬語で話せる自信が無いなら、黙っておけ。
他の先生だって通るし、保健室にも先生ってヤツがいるんだから。
分かったな、と刺された釘。「失敗するより、最初から喋らない方がマシだ」と。
それきり、黙ってしまったハーレイ。…ハーレイが話せば、きっと自分も話し出すから。
会話はプツンと途切れてしまって、黙って歩くしかないのだけれど。
(喋れなくても…)
ハーレイと二人だったら幸せだよ、と校舎に入って歩いた廊下。
保健室がもっと遠いといいなと、まだまだ着きたくないんだけれど、と心の中で繰り返して。
そうは思っても、どんな道にもある終点。「保健室」と書かれた部屋の前に着いた。
ハーレイが扉を「ほら」と開けてくれて、中に入ると、顔馴染みになった女の先生。保健室には何度も来ているのだから、当然だけれど。
「ブルー君?」と名前を呼んだ先生に、ハーレイが「ええ」と代わりに答えた。
「体育の授業で倒れたんです。いきなり全力疾走したそうで…。この通りですよ」
たまたま私が通りましてね、こうして連れて来たんです。保健委員も授業がありますからね。
ベッドに寝かせていいですか?
熱は無いですから、それほど心配要らないだろうとは思うんですが…。
「どうぞ、ベッドは何処でも空いてますから」
今日の保健室は暇なんです、と保健室の先生が言う通り。並んだベッドはどれも空っぽ、先客は誰もいなかった。「暇なんです」と言うほどだから、怪我をした子もいないのだろう。
「良かったな、ベッドが空いていて。…選び放題だぞ、何処がいい?」
そうおどけながら、ハーレイはベッドに座らせてくれた。体操服にグラウンドの土がくっついていないか確認してから、「寝ていろよ」という命令。
ベッドの上に横になったら、上掛けがそっと被せられた。「こんなモンかな」と胸の辺りまで。
その間に、保健室の先生が「ブルー君の家に連絡を」と、通信を入れていたのだけれど。
「…お留守みたいですわね」
困ったような先生の声で、気が付いた。母が通信に出ない理由。
(ママ、出掛けるって…)
昨日の夜に、そう聞いた。「明日はお友達と出掛けて来るわ」と。午前中だけと言っていた母。知り合いが小さな展覧会をするから、それを見に行くと。
思い出したから、そう言った。「母は午前中は留守なんです」と、ベッドの上から。
午前中だけと聞いたのだけれど、行き先は小さな展覧会。しかも知り合いが開いたもの。其処へ友達と出掛けたのなら、昼御飯も食べて来るかもしれない。
(…だけど、どうだか分からないから…)
今、言わなくてもいいだろう、と「午前中は留守」と伝えたものの…。
「そりゃ困ったな…。お母さん、出掛けちまってるのか…」
お前、行き先、知らないだろうな、と首を捻っているハーレイ。「こりゃ連絡は無理だな」と。
「後で通信を入れてみますわ、お昼休みにでも」
その頃にはお帰りになるでしょうから、と保健室の先生が書いているメモ。きっと中身は、次に通信を入れる時間。「お昼休み」だとか、「午前中は留守」とか、そんな感じで。
「すみません、ブルー君をよろしくお願いします」
また昼休みに、様子を見に来てみますから。…あ、連絡がつくようでしたら…。
ブルー君は私が送って行くと伝えて下さい、とハーレイが口にした言葉。
「午後は授業が無いですから」と、「これも守り役の役目の内でしょう」とも。
母が迎えに来るのだったら、タクシーを使うことになる。そうするよりもずっといい、と。
(ホント…!?)
ハーレイに送って貰えるんだ、と高鳴った胸。
学校の駐車場に停めてある濃い緑色の車、前のハーレイのマントの色とそっくりな車。あの車で家まで送って貰える。ハーレイの運転で、助手席に乗って。
(ハーレイの車で、家までドライブ…)
ほんの短い距離だけれども、二人きりで乗ってゆく車。ハーレイの車で走れる道路。
それを思うと、もう嬉しくてたまらない。
(身体、なんだか重いから…)
下手をしたなら明日は欠席、それはとっても癪だけど。
学校を休むことになったら、その日は会えない「ハーレイ先生」。昼の間はハーレイに会えずに終わってしまう。「ハーレイ先生」の方にしたって、ハーレイには違いないのだから。
嬉しい反面、癪にも障る「倒れた」こと。
ハーレイと一緒に保健室に来られて、家まで送って貰えるにしても…、と複雑な気分。大喜びの自分と、悔しい自分と、どちらも本当。
いったいどちらが大きいだろう、と考えていたら、こちらの方へ向いたハーレイ。
「そうだ、お前の制服とかは…。ロッカーか?」
今は体操服に運動靴だし、ロッカーの中といった所か。制服も、靴も。
「はい…」
ロッカーです、と返事した。其処に入れてある、制服と靴。体育の授業の前に着替えて、入れた自分のロッカーの中。鍵などは無いロッカーだけれど。
「開けてもいいな? 俺が送って行くんだから」
今じゃないがな、後で送って行く時に。…でないと、お前の服も靴も無いし。
どうせ持ち物検査の時には、抜き打ちで開けちまうのがロッカーだしな?
いいな、と念を押すハーレイ。「開けないとお前の服が出せない」と、大真面目な顔で。
「すみません。お願いします…」
「よし。…じゃあ、また後で見に来るから」
お母さんと早く連絡がつくといいな、とハーレイは保健室から出て行った。「よろしく」と女の先生に軽く頭を下げて。
次に来るのは昼休み。それまでは授業か、他の用事で忙しいのか。
(…ずっとついてて欲しいんだけど…)
そう思ったって、此処は学校。ハーレイはあくまで「ハーレイ先生」、一人占めしたり出来ない場所。保健室まで連れて来て貰えただけでも幸運なのだし、贅沢なことはとても言えない。
それに…、と綻んでしまった顔。
母にきちんと連絡がついたら、ハーレイが家まで送ってくれる。
チビの自分は、まだドライブには行けない車で。いつも見ているだけの車で。
ハーレイと出会って間も無い頃に、一度だけ乗せて貰った車。
メギドの悪夢に襲われた夜、無意識の内にハーレイの家まで飛んでいた。瞬間移動で、ベッドの中へ。何も知らずに朝まで眠って、朝食の後で、パジャマのままで家までドライブ。
あの時だけしか乗ってはいない。いつか乗りたい、ハーレイの隣の助手席に座れる車には。
(…車で送って貰えるんだよ…!)
ぼくの家まで、と天にも昇る心地だけれども、ふと心配になったロッカー。教室の後ろに幾つも並んだロッカーの一つ、自分の名前が書かれた紙がついているロッカーだけど。
(…ハーレイがあれを開けるんだよね?)
他の生徒たちもいる教室で、「荷物を取りに来たからな」と。鍵は無いから、カチャリと簡単に開く扉。そのロッカーの中を、ハーレイが覗き込むわけで…。
きちんと制服を入れただろうか?
畳みもしないで突っ込まないで、皺にならないように綺麗に。それに靴とか、ロッカーの中身。美術の授業で使う絵具や、他にも色々入れている場所。
(通学鞄も…)
ハーレイが持って来てくれる筈。そちらは訊かれなかったけれども、服と一緒に届くのだろう。鞄に入れるべき物たちを選んで、ハーレイが詰めて。
(…酷いことになっていないかな…)
鞄の中と、教科書とかを入れた机の中。
整理しながら入れるタイプとはいえ、いつもそうとは限らない。
(たまに、慌てて…)
いい加減に突っ込んでしまったりする、机や鞄やロッカーの中身。休み時間に友達と話す間に、ついつい時間が経ってしまって。チャイムの音でビックリ仰天、エイッと放り込む中身。
(変なことになっていませんように…)
今更どうにもならないのだけど、祈るような気持ち。「神様、お願い」と心の中で。
けれど、だるくて重たい身体。自然と瞼が重くなっていって、身体もベッドに沈んでゆくよう。
いつの間にやら、スウッと眠りに落ちてしまって…。
「ブルー君?」
大丈夫、という保健室の先生の声で目が覚めた。あれからどのくらい経ったのだろう?
そう思いながら「はい」と答えた。天井が回っていたりはしないし、大丈夫と言えば大丈夫。
「…少し身体が重いですけど…。大丈夫です」
「良かったわ。よく寝ていたし、あれから熱も出ていないから。でも…」
お母さん、まだ連絡がつかないの。今はお昼休みの時間だけれど…。
どう、お昼御飯は食べられそう?
食べられそうなら、食堂から何か届けて貰うわ、と先生は笑顔。「何か食べる?」と。
「えーっと…」
どうだろうか、と考えたけれど、頭に浮かぶのはランチセットのプレート。食べられそうもない量と中身と。他には何も浮かんで来ないし、「無理かも…」と答えかけた所へ開いた扉。
「ブルー君のお母さん、どうでしたか?」と入って来たハーレイ。
「あれから連絡、つきましたか? それなら送って行きますが…」
「いえ、それが…」
まだなんです、と先生が応じて、ハーレイは「そうですか…」とベッドの方にやって来た。
「お母さん、まだ家に帰ってないんだな。この時間だったら、外で食事かもなあ…」
それなら暫くかかるだろう。…分かった、昼飯、持って来てやるから。
「えっ…?」
キョトンと瞳を見開いてから、「いえ、いいです…」と俯き加減で断った。ハーレイの心遣いは嬉しいけれども、昼御飯はとても食べられない。保健室の先生にだって、断るつもりだったから。
ハーレイにもそう説明したのに、「お前なあ…」と顰められた顔。
「お母さん、何時に帰って来るかも分からないんだぞ?」
何も食べないなんて、身体に悪い。お前、体育で走ってたしな?
運動した分、エネルギーを入れてやらないと。
いつものランチセットは無理でも、プリンくらいは食えるだろうが。
買って来てやる、と出掛けて行ったハーレイ。「直ぐに戻る」と、保健室の扉の向こうへ。
言葉通りに、本当に直ぐに戻って来たのがハーレイの凄さ。食堂まで走ったわけでもないのに、歩幅が大きいと歩く速度も速いから。
手には食堂で売られているプリン。放課後に食べる生徒もいるから、昼休みには売り切れない。
「食っとけ、プリンは病人食にもいいんだぞ」
卵と砂糖で栄養満点、ただし食い過ぎると駄目だがな。甘い物ばかり食ってちゃいかん。
だが、お前には必要だ。腹が減ったら、治るものも治らないからな。
食えよ、とプリンを見せられた。「ベッドの上で食っていいから」と、スプーンもつけて。
「はい…。ありがとうございます…」
うん、と言えないのが悔しい。それに「ありがとう!」も。
学校ではハーレイは「ハーレイ先生」、敬語でしか話すことが出来ない。「起きられるか?」と支えて起こしてくれても、プリンを持たせて貰っても。…それにスプーンも。
ハーレイが側にいてくれるのに。プリンだって買ってくれたのに。
(でも、美味しい…)
甘くてとっても優しい味、とスプーンで掬って頬張っていたら。
「あ、ブルー君のお母さんですか?」
保健室の先生が話しながら、「良かったわね」と向けてくれた笑み。ようやく母についた連絡。
先生は様子をテキパキ伝えて、ハーレイが送ってゆくこともきちんと話してくれて…。
「良かったな、ブルー。家のベッドで寝られるぞ」
食い終わったら送って行くか。…俺はお前の服と荷物を取ってくるから。
プリン、残さずに食うんだぞ?
栄養不足じゃ話にならん。さてと、お前の制服と靴と、それに鞄と…。
昼休みの時間で丁度良かった、とハーレイは荷物を取りに出掛けた。
「俺は昼飯、先に食っといたから心配ないぞ」と、気になっていたことをヒョイと口にして。
今の時間が授業中なら、教室でロッカーを開けていたなら悪目立ちだな、と笑いながら。
教室へ荷物を取りに行ったハーレイ。これから開けられるだろうロッカー。覗かれる鞄と、机の中と。帰り支度を整えるために。
(ロッカーも鞄も、机も、きちんとしてますように…)
神様お願い、とプリンを食べる間もお祈り。今頃いくらお祈りしたって、手遅れなのに。いくら神様でも、ロッカーや鞄を整理したりはしてくれないのに。
それでも祈って、プリンを綺麗に食べ終えた所へ…。
「待たせたな」と、制服と鞄を持って来てくれたハーレイ。通学用の靴だって。
「お前の荷物は、これで全部、と…。安心しろ、机の中もきちんと確かめたからな」
忘れ物は一つも無い筈だ。プリントとかも、クラスのヤツらに確認したから。
食い終わったんなら、着替えろよ。
お前が着替えをしている間に、運動靴を返して来るから。…さっき持って行けば良かったな。
運動靴、ベッドの住人には要らないのにな、とハーレイは教室に行ってしまった。ベッドの脇の床に揃えてあった、運動靴を左手に持って。
(…着替えるトコ、ハーレイ、見てくれないんだ…)
着替えるためには体操服を脱いだりするのに、ハーレイは自分の恋人なのに。
前の自分なら、何度も脱がせて貰ったのに。
(ハーレイのケチ…!)
キスも断る恋人なのだし、当然と言えば当然だけれど。着替えなんかは見てもくれない。
保健室の先生だって、ベッド周りのカーテンをサッと引いたけれども。…他の生徒が入って来た時、着替えている姿が見えないように。
(…どうせ、こうなっちゃうんだけどね…)
ハーレイが此処に残っていたって、カーテンの向こう。
「早くしろよ?」などと言いながら。着替える姿は影さえ見ないで、保健室の先生と話すとか。
そうなることが分かっているから、なんとも悲しい。
どうせチビだよ、と悔しい気分。それに学校、ハーレイが「ハーレイ先生」なことも残念。
膨れっ面になってしまいそうなのを、我慢して着替えて、腰掛けたベッド。靴を履いたら、丁度戻って来たハーレイ。扉が開く音と、「着替えたか?」という声と。
「あ、はい…!」
終わりました、と開けたカーテン。「よし」とハーレイが通学鞄を持ってくれた。
「行くとするかな。…先生、お世話になりました」
送って来ます、と保健室の先生に挨拶も。
大急ぎで自分も頭を下げた。ピョコンと、「ありがとうございました」と御礼。
やっぱり少しふらつく足。ハーレイが支えて歩いてくれて、保健室を出て、少し行ったら。
「大丈夫か、ブルー? なんとか歩けはするようだが…」
プリン、美味かったか?
ちゃんと栄養になりそうか、と問い掛けられた。「お前の昼飯、プリンだけだが」と。
「はい…」
美味しかったです、と答えるのだけで精一杯。「ありがとうございました」も言い忘れた。あのプリンは、ハーレイが買って来てくれたプリンだったのに。
(…ぼくって駄目かも…)
御礼も言えない駄目な生徒、と思うけれども、まだ校舎の中。
ハーレイは「ハーレイ先生」なのだし、下手に喋ったら、きっと敬語が崩れてしまう。家で使う言葉になってしまって、周りの生徒や先生たちに…。
(偉そうな喋り方をしてる、って…)
呆れられるか、叱られるか。
そうなることが分かっているから、話せない。…黙って歩いてゆくしかない。
ハーレイにしっかり支えて貰って、二人並んで歩いていても。恋人と一緒に歩いていても。
ホントに残念、と心で溜息を零してみたり、「御礼も言えない、駄目な子だよね」と、プリンの御礼を言いそびれたことを悔やんだりして、歩いた廊下。保健室から、校舎の外へ出るまでの。
(廊下、こんなに長かったっけ…?)
話しながらだと直ぐなのに、と思う間に、ようやっと、外。校舎を離れて、ハーレイの車がある駐車場が其処に近付いて来たら…。
「ドライブだな」
「え…?」
もう、頑張って敬語で話さなくても大丈夫な場所。昼休みの終わりのチャイムが鳴ったし、誰も此処まで来はしない。生徒も、それに先生だって。
そういう所で、ハーレイの口から出て来た言葉が「ドライブだな」。
ドライブとはどういう意味だろう、と目を丸くして見上げたハーレイの顔。ドライブを期待していたのだけれども、まさかハーレイが言うとは思わなかったから。
「なあに、お前の家までドライブだってな。…ドライブにしては短い距離だが」
お前がバス通学をしてるってだけで、元気な生徒は歩きに自転車。
たったそれだけの距離しか無いドライブだし、ついでにお前は病人なんだが…。
乗れ、とハーレイに開けて貰った助手席のドア。
其処に座ったら、「鞄はお前が持ってろよ」と通学鞄を渡された。膝の上にポンと乗せられて。
「俺はあっちだ」と、助手席のドアがバタンと外から閉まって、ハーレイが車の前を横切る。
運転席の方のドアを開いて、乗り込むために。
(これ、本当にドライブなんだ…!)
ぼくの家までの間なんだけど、とキョロキョロ周りを見回した。
ハーレイの車で家までドライブ、短い距離でも二人きり。こういう車だったっけ、と天井や床やシートなんかを目で追ってゆく。
(…ハーレイの車…)
いつもハーレイが乗ってる車、と誇らしい気分。それの助手席、其処に自分がいるのだから。
まるでデートの帰りみたいに、ハーレイが送ってくれるのだから。
ワクワクする間に、運転席に座ったハーレイ。ハンドルやシートやミラーを確かめ、エンジンをかけて、車が動き出した時。
「シャングリラ、発進!」
そう懐かしい声が上がった。遠く遥かな時の彼方で、何度も耳にしていた言葉。
キャプテンだった前のハーレイ、そのハーレイが舵を握って、あるいはブリッジのキャプテンの席でかけた号令。「シャングリラ、発進!」と、誰の耳にも届くようにと大きな声で。
(…シャングリラ…)
そうだったっけ、と思った車。ハーレイの車は、いつかシャングリラになる車。
今のハーレイと今の自分と、二人だけのために動くシャングリラ。今は濃い緑色の車で、白い車ではないけれど。…白いシャングリラではないのだけれど。
ぼくとハーレイのシャングリラ、とハーレイの方に顔を向けたら、「うん?」と視線。
「ああ言ってやりたい所なんだが、まだ言えないな。…お前、チビだし」
俺とデートに出掛けてゆくには、年も背丈も足りてない。シャングリラに乗るには早いってな。
今のはちょっとしたサービスってトコだ、俺もケチではないんだぞ。
お前の元気が出るように言ってみたんだが、と駐車場を出て走り始めた車。校門を抜けて、後にした学校。道路に出たらもう、本当にハーレイと二人きり。
いくら制服を着込んでいても、膝の上に通学鞄があっても、「ハーレイ先生」はもういない。
学校の外では、もう教え子ではない自分。ハーレイだって、教師ではない。
(…ぼくとハーレイと、二人だけ…)
まだシャングリラとは呼んで貰えない車だけれども、ハーレイと二人。
前の生と同じに恋人同士で、二人きりで走ってゆく道路。
ほんの短い距離にしたって、家に着くまでの道だって。…学校から帰るだけだって。
いつかデートに出掛ける時には、自分が座る筈の席。ハーレイの隣にある助手席。
其処に座って前を見ている。ハーレイが見ているのと同じ景色を、ほんの少しだけ隣にずれて。
そのハーレイはハンドルを握って、未来のシャングリラを操る。真っ直ぐに、時には右に左に、家へと続いている道を。
(気分だけでも、ドライブで、デート…)
はしゃぎたいのに、重たい身体。
学校を早退するほどなのだし、身体が軽いわけがない。どんなに心が軽くても。
踊り出したいくらいに弾んで、羽が生えて飛んでゆけそうでも。
ハーレイと話もしたいというのに、だるくて力が入らない。それでも、と口を開いてみた。
「…えっとね…」
この車、と言った途端に、重々しい声。
「静かにしていろ。酔っちまうぞ」
お前に元気が無いっていうのは分かるんだ。…声の調子で。
そういう時には酔いやすい。お前みたいに身体が弱けりゃ、なおのことだ。
ゆっくり走っているつもりなんだが、他の車には迷惑かけられないからなあ…。
これが限度だ、だから黙って乗っていろ。…酔わないように。
いいな、と幼い子供に言い聞かせるように、ハーレイが注意するものだから。
「…うん…」
そう頷くしか道は無かった。
酔ってしまったら、ハーレイの好意を台無しにする。家に着いたら車酔いでフラフラ、今よりも酷い状態だなんて。
そんな自分を母が見たなら、きっとハーレイに平謝り。「ご迷惑をおかけしました」と。
車に酔うほど具合が悪いと知っていたなら、タクシーで迎えに行ったのに、と。
(…そんなことになったら…)
次のチャンスは二度と訪れない。
学校で倒れて、ハーレイの車で家までドライブ。
そうしたくても、母が保健室の先生に「迎えに行きます」と言ってしまうから。ハーレイの車で帰る代わりに、タクシーに乗って帰る家。…母と一緒に。
またハーレイの車で家に帰りたかったら、酔わないこと。ハーレイの注意を守ること。
仕方なく黙って、助手席のシートに深くもたれて乗っている内に、もう家の近くの住宅街。
(バス停だって、過ぎちゃった…)
いつも歩いて帰ってゆく道、其処をハーレイの車で走って、見えて来た生垣に囲まれた家。
ガレージに車が滑り込んだら、家の中から出て来た母。
「ハーレイ先生、すみません!」
家まで送って来て頂くなんて、と母が駆けて来て、ハーレイも「いいえ」と運転席から降りた。ドアを閉めて、助手席の方に向かってやって来る。
家に着いたのだし、此処は学校ではないし…。
(ハーレイに抱っこして貰える?)
逞しい両腕で抱き上げられて、車からふわりと降ろされる。それとも、背中におんぶだろうか。
(おんぶだったら、助手席のドアは手で閉められるけど…)
抱っこの方なら、足で蹴ってドアを閉めるとか。…母に「お願いします」と閉めて貰うとか。
玄関の扉も、母が開けたりするのだろう。ハーレイは自分を抱っこかおんぶで、部屋まで運んでくれるのだから。…ハーレイに余計な手間をかけるより、母が扉の開け閉めの係。
(玄関も、ぼくの部屋の扉も…)
ママだよね、と考える。おんぶでも、それに抱っこでも。
学校ではどちらも駄目だったけれど、家なら、きっと抱っこか、おんぶ。
どっちなのかな、と夢見る間に、ハーレイが開けた助手席のドア。
「降りられるか?」
酔ってないか、とハーレイが降ろしたのは鞄だけだった。膝に乗せていた通学鞄。
それを降ろして母に渡して、それっきり。「掴まれ」と手が差し出されただけ。
(…抱っこは?)
それに、おんぶは、なんて訊けるわけがない。母が鞄を持って直ぐ側にいるし、ハーレイの手が目の前にあるのだから。「どうした?」とでも言うように。
「……大丈夫……」
降りられるよ、と掴まった、がっしりした手。自分で降りるしかなかった助手席。
この手に抱っこして欲しかったのに。…抱っこが駄目なら、おんぶで運んで欲しかったのに。
どっちも駄目になっちゃった、と突っ立っている間に閉まったドア。
いつか自分が乗る筈の席は、もうハーレイが閉めた扉の向こう。濃い緑色をしているドアの。
「ハーレイ先生、本当にすみません…。お仕事中でらっしゃいますのに」
ブルーを送って下さるなんて、と母が何度もお辞儀している。「ご迷惑をお掛けしました」と。
「いえ、空き時間ですから、かまいませんよ」
丁度いい息抜きになりました。仕事中には、なかなか運転出来ませんしね。
車で出られる人はいないか、と声でも掛からない限り、車で走りたくても無理で…。
じゃあな、ブルー。
家でいい子にしているんだぞ、とクシャリと撫でられた頭。大きな手で。
「え…?」
まさか、と見詰めたハーレイの顔。「じゃあな」とか、「いい子にしろ」だとか。
これでは、まるでお別れのよう。…たった今、家に着いたばかりで、お茶の用意もまだなのに。
「分かってるだろ、俺は学校に戻らんと…。仕事中だからな」
空き時間でも、お前を送って出て来たついでに、ゆっくりお茶とはいかないってな。
その辺の所は、俺はきちんとしたいんだ。…誰も何にも言わないからこそ、けじめってヤツ。
また帰り道に寄ってやるから、大人しく寝てろ。無理をしないで。
晩飯の時にも、まだ食欲が戻ってなければ俺のスープの出番だよな、と笑顔のハーレイ。
「お母さんと早く家に入れ」と、「ゆっくり寝るのも薬からな」と。
もう一度、頭をクシャリと撫でると、ハーレイは車に乗ってしまった。運転席に。
(そんな…!)
此処まで来たのに行っちゃうの、とハーレイに縋り付きたい気分。
「ぼくの部屋まで一緒に来てよ」と、「ベッドに入るまで側にいてよ」と。
けれど、閉まった車のドア。内側からバタンと、呆気なく。
直ぐにエンジンがかかる音がして、手を振って走り去ったハーレイ。
「じゃあな」と、運転席の窓越しに。
いつか二人だけのシャングリラになる車、それを走らせて、真っ直ぐに元の学校へと。
(…行っちゃった…)
ハーレイ、帰って行っちゃった、と声も出ないで立ち尽くしていたら、母の声。
「どうしたの、ブルー? ボーッとしちゃって…」
具合が悪いのなら、早く寝ないといけないわ。パジャマに着替えて、ちゃんとベッドで。
ごめんなさいね、留守にしていて。
お友達に食事に誘われたけれど、食べずに帰れば良かったわ。…ブルーが帰って来るんなら。
「ううん…。ちゃんと保健室のベッドで寝てたから」
ママはちっとも悪くないよ、と微笑んだけれど。
家に入ってパジャマに着替えて、大人しくベッドに入ったけれど。
(抱っこも、おんぶも…)
駄目だったよ、と本当に残念でたまらない。
ハーレイの逞しい腕か背中で、部屋に運んで欲しかったのに。玄関を入って、階段を上がって、二階の部屋まで、ハーレイに抱っこか、おんぶで帰る。
そうしてベッドに寝かせて貰って、上掛けもそっと被せて貰って、ハーレイは暫く、一人きりでお茶。自分が眠ってしまうまでの間、椅子に腰掛けてベッドの側で。
(…送ってくれるんなら、そこまでして欲しかったのに…)
空き時間なら、やってくれても良かったのに、と考えるけれど、あっさり砕けてしまった夢。
それでも、幸せなドライブは出来た。
ハーレイと二人で、いつかシャングリラになる車で。
(…シャングリラ、発進! っていう声も…)
ちゃんとサービスして貰えた。
学校で倒れてしまった時に、ハーレイが上手く居合わせたから。
その上、母が外出していたお蔭。
ハーレイは家まで送ってくれたし、お茶も飲まずに学校に帰って行ったけれども…。
来てくれるよね、と分かっていること。
(学校の仕事が終わったら…)
来ると約束してくれたしね、とウトウトと落ちてゆく眠り。
明日も欠席になってしまっても、きっとハーレイが来てくれる。
食欲が出ないままだった時は、ハーレイが作る野菜スープも飲める筈。
前の生から好きだったスープ、何種類もの野菜をコトコト煮込んだ素朴なスープ。
(…野菜スープのシャングリラ風…)
ちゃんと食欲が戻っていたって、今日はあのスープを頼もうか。
甘いプリンも美味しかったけれど、やっぱりハーレイの野菜スープが一番だから。
「シャングリラ、発進!」という懐かしい声が聞けた、今日のドライブ。
そんな日の夜は、あの懐かしい野菜スープを、ハーレイの側でゆっくり味わいたいから…。
夢のドライブ・了
※体育の授業で倒れたブルー。ハーレイが通り掛かったお蔭で、思いがけない幸運が。
ハーレイの車で家までドライブ。おんぶも抱っこも無しでしたけれど、夢のように素敵な日。
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クルンと回ったブルーの視界。体育の授業の真っ最中に、グラウンドで。
まだ午前中で、日射しが暑いわけでもないのに。さっき始めたばかりのサッカー、走りすぎてはいないのに。
けれど、回ってしまった目。よく考えたら、ボールを追い掛けて全力疾走、それもいきなり。
いつもだったら、これだけの距離を一気に走り抜いたりはしない。足の速い仲間たちにお任せ、端で見ているだけなのが自分。
(頑張り過ぎちゃった…)
たまたま誰もいなかったから。…いける、と思ったものだから。
倒れちゃうんだ、と思ったけれども、止まらない身体。スローモーションみたいに感じる時間。色々なことを、こうして考えていられるほどに。
(時間、伸びてる…)
地面が遠い、と感じる間に遠ざかる意識。まだグラウンドに倒れない身体。
眩暈を感じた瞬間からだと、かなり経ったと思うのに。けれど時間は、まるで飴のように伸びてゆく。もう倒れても良さそうなのに、と意識はフッと消えてしまって…。
「おい、ブルー!」
大丈夫か、と頭の上から聞こえて来た声。
此処にいる筈がないハーレイの声で、背中の下に感じる地面。仰向けに寝かされているらしい。
「ハーレイ……先生…?」
うっかり「ハーレイ」と呼びそうになって、慌てて付け加えた「先生」。
ぼんやりと瞼を押し上げてみたら、ハーレイがいたものだから。
側に屈み込んで、心配そうな顔のハーレイ。鳶色の瞳が見下ろしている。「大丈夫か?」と。
何処から見たってハーレイそのもの、夢を見ているとは思えない。
グラウンドで倒れた筈なのに。…身体の下には地面の感触、体育の授業中なのに。
よくよく見たら、ハーレイの後ろに見える青空。やっぱり此処はグラウンド。
他の生徒の声も聞こえるし、サッカーボールを追う音だって。シュートやドリブル、グラウンドだけで聞ける音。
(なんで…?)
どうしてハーレイが此処にいるの、と訊きたいけれど。見下ろしながら日陰を作ってくれている優しい恋人、温かな声の持ち主に尋ねたいけれど。
(……敬語……)
学校でハーレイと話す時には、いつでも敬語。学校では「ハーレイ先生」だから。
その大切な敬語が使えそうにない。上手く話せなくて、家での言葉が口から零れてしまいそう。先生と話す言葉ではない、友達に向けるような言葉が。
だから目だけを瞬かせた。「なんで?」と、「どうして此処にいるの?」と。
ハーレイは直ぐに分かったらしくて、穏やかな笑みを浮かべてくれた。
「驚いたか? たまたま通り掛かったんだ。空き時間だからな」
ちょいと学校の中を散歩だ、そしたらお前が倒れる所を、偶然、目撃しちまった、と…。
しかしだ、お前、暫く意識が無かったし…。
こりゃ保健室に行くしかないな、とハーレイは体育の先生と相談し始めた。グラウンドで授業を見学するより、保健室。ベッドに寝かせて、それから家に帰した方が、と。
「私もそう思っていたんですよ。帰らせた方が良さそうです」
保健委員を呼びましょう、と手を上げかけた体育の先生を、「いえ」と止めたハーレイ。
「私が連れて行きますよ。授業中の生徒よりかは暇ですからね」
それに、ブルー君の守り役でもあります。大丈夫ですよ、お任せ下さい。
先生も、どうぞ授業の続きを。…あっちの方で揉めていますよ、オフサイドかどうか。
行ってあげて下さい、とハーレイが促したから、体育の先生は「お願いします」と、生徒たちの方へ走って行った。「こら、騒ぐな!」と、声を上げながら。
(…ハーレイが連れてってくれるんだ…)
保健委員の生徒の代わりに、保健室まで。グラウンドからは距離がある場所。
少し遠いから、背中に背負ってくれるのだろうか。「倒れたお前を運ぶ時には、おんぶだな」と前に言っていたことがあるから。学校の中で倒れていたなら、ハーレイがおんぶ。
それとも抱っこ、と期待したのに。
柔道部員の生徒たちには罰でしかない、「お姫様抱っこ」での保健室行き。ハーレイが注意したことを守らず、その結果、怪我をしたならば。「行くぞ」と、逞しい両腕で抱き上げられて。
(柔道部員には恥らしいけど、ぼくはお姫様抱っこでも…)
いいんだけどな、と夢を見たのに、「おい、立てるか?」と言ったハーレイ。
「熱は無いしな、倒れたはずみに足を捻ってもいないようだし…」
立てるんだったら、俺が支えて歩くから。
「あ、はい…。多分…」
大丈夫です、と起き上がってみても、世界が回りはしなかった。身体に力が入らないだけ。少し重くて、だるい感じで。
その程度だったら立つしかなくて、外れた期待。おんぶも抱っこも、何処かに消えた。
保健委員の生徒と行くなら、歩いてゆくのが当然のこと。ヨロヨロしていても、歩けるのなら。歩けないなら、車椅子とか担架の出番。
(…おんぶも抱っこも無しなんだ…)
せっかくハーレイが来てくれたのに、と残念だけれど、ハーレイはしっかり支えてくれた。
力が入らない足で立ち上がる時も、手を貸してくれて。
なんとか立ったら、身体に腕を回してくれて。
「俺に掴まれ。…お前とじゃ、背が違いすぎるしな」
服を握ってもかまわないから。
スーツがちょっぴり皺になろうが、俺は文句を言いはしないぞ。
ゆっくり歩けよ、とハーレイが一歩踏み出した足。チビの自分に合わせてくれた小さな歩幅。
「この歩き方で大丈夫か?」と確かめてくれた。「お前に合わせたつもりなんだが…」と。
ハーレイだったら、もっと大股で歩くのに。背筋もシャンと真っ直ぐ伸ばして。
そのハーレイが腰を屈めて、一緒に歩いてくれている。置き去りにしてしまわないように。
(夢みたい…)
ハーレイと並んで歩けるなんて。それも二人きりで、学校の中で。
保健室まで距離があることを感謝した。ハーレイと二人で歩く時間が、遠い分だけ増えるから。
倒れないようハーレイの上着の裾を掴んで歩いて、グラウンドから少し離れた所で…。
「おい、ブルー。ボロを出すなよ?」
「え…?」
なあに、とハーレイの顔を仰いだら、返った苦笑。
「ほら、それだ。…其処は「なあに?」じゃなくて、「何ですか?」だろうが」
学校の中では、俺はハーレイ先生だ。…お前の家とは違うってな。
いつもみたいに敬語で話せる自信が無いなら、黙っておけ。
他の先生だって通るし、保健室にも先生ってヤツがいるんだから。
分かったな、と刺された釘。「失敗するより、最初から喋らない方がマシだ」と。
それきり、黙ってしまったハーレイ。…ハーレイが話せば、きっと自分も話し出すから。
会話はプツンと途切れてしまって、黙って歩くしかないのだけれど。
(喋れなくても…)
ハーレイと二人だったら幸せだよ、と校舎に入って歩いた廊下。
保健室がもっと遠いといいなと、まだまだ着きたくないんだけれど、と心の中で繰り返して。
そうは思っても、どんな道にもある終点。「保健室」と書かれた部屋の前に着いた。
ハーレイが扉を「ほら」と開けてくれて、中に入ると、顔馴染みになった女の先生。保健室には何度も来ているのだから、当然だけれど。
「ブルー君?」と名前を呼んだ先生に、ハーレイが「ええ」と代わりに答えた。
「体育の授業で倒れたんです。いきなり全力疾走したそうで…。この通りですよ」
たまたま私が通りましてね、こうして連れて来たんです。保健委員も授業がありますからね。
ベッドに寝かせていいですか?
熱は無いですから、それほど心配要らないだろうとは思うんですが…。
「どうぞ、ベッドは何処でも空いてますから」
今日の保健室は暇なんです、と保健室の先生が言う通り。並んだベッドはどれも空っぽ、先客は誰もいなかった。「暇なんです」と言うほどだから、怪我をした子もいないのだろう。
「良かったな、ベッドが空いていて。…選び放題だぞ、何処がいい?」
そうおどけながら、ハーレイはベッドに座らせてくれた。体操服にグラウンドの土がくっついていないか確認してから、「寝ていろよ」という命令。
ベッドの上に横になったら、上掛けがそっと被せられた。「こんなモンかな」と胸の辺りまで。
その間に、保健室の先生が「ブルー君の家に連絡を」と、通信を入れていたのだけれど。
「…お留守みたいですわね」
困ったような先生の声で、気が付いた。母が通信に出ない理由。
(ママ、出掛けるって…)
昨日の夜に、そう聞いた。「明日はお友達と出掛けて来るわ」と。午前中だけと言っていた母。知り合いが小さな展覧会をするから、それを見に行くと。
思い出したから、そう言った。「母は午前中は留守なんです」と、ベッドの上から。
午前中だけと聞いたのだけれど、行き先は小さな展覧会。しかも知り合いが開いたもの。其処へ友達と出掛けたのなら、昼御飯も食べて来るかもしれない。
(…だけど、どうだか分からないから…)
今、言わなくてもいいだろう、と「午前中は留守」と伝えたものの…。
「そりゃ困ったな…。お母さん、出掛けちまってるのか…」
お前、行き先、知らないだろうな、と首を捻っているハーレイ。「こりゃ連絡は無理だな」と。
「後で通信を入れてみますわ、お昼休みにでも」
その頃にはお帰りになるでしょうから、と保健室の先生が書いているメモ。きっと中身は、次に通信を入れる時間。「お昼休み」だとか、「午前中は留守」とか、そんな感じで。
「すみません、ブルー君をよろしくお願いします」
また昼休みに、様子を見に来てみますから。…あ、連絡がつくようでしたら…。
ブルー君は私が送って行くと伝えて下さい、とハーレイが口にした言葉。
「午後は授業が無いですから」と、「これも守り役の役目の内でしょう」とも。
母が迎えに来るのだったら、タクシーを使うことになる。そうするよりもずっといい、と。
(ホント…!?)
ハーレイに送って貰えるんだ、と高鳴った胸。
学校の駐車場に停めてある濃い緑色の車、前のハーレイのマントの色とそっくりな車。あの車で家まで送って貰える。ハーレイの運転で、助手席に乗って。
(ハーレイの車で、家までドライブ…)
ほんの短い距離だけれども、二人きりで乗ってゆく車。ハーレイの車で走れる道路。
それを思うと、もう嬉しくてたまらない。
(身体、なんだか重いから…)
下手をしたなら明日は欠席、それはとっても癪だけど。
学校を休むことになったら、その日は会えない「ハーレイ先生」。昼の間はハーレイに会えずに終わってしまう。「ハーレイ先生」の方にしたって、ハーレイには違いないのだから。
嬉しい反面、癪にも障る「倒れた」こと。
ハーレイと一緒に保健室に来られて、家まで送って貰えるにしても…、と複雑な気分。大喜びの自分と、悔しい自分と、どちらも本当。
いったいどちらが大きいだろう、と考えていたら、こちらの方へ向いたハーレイ。
「そうだ、お前の制服とかは…。ロッカーか?」
今は体操服に運動靴だし、ロッカーの中といった所か。制服も、靴も。
「はい…」
ロッカーです、と返事した。其処に入れてある、制服と靴。体育の授業の前に着替えて、入れた自分のロッカーの中。鍵などは無いロッカーだけれど。
「開けてもいいな? 俺が送って行くんだから」
今じゃないがな、後で送って行く時に。…でないと、お前の服も靴も無いし。
どうせ持ち物検査の時には、抜き打ちで開けちまうのがロッカーだしな?
いいな、と念を押すハーレイ。「開けないとお前の服が出せない」と、大真面目な顔で。
「すみません。お願いします…」
「よし。…じゃあ、また後で見に来るから」
お母さんと早く連絡がつくといいな、とハーレイは保健室から出て行った。「よろしく」と女の先生に軽く頭を下げて。
次に来るのは昼休み。それまでは授業か、他の用事で忙しいのか。
(…ずっとついてて欲しいんだけど…)
そう思ったって、此処は学校。ハーレイはあくまで「ハーレイ先生」、一人占めしたり出来ない場所。保健室まで連れて来て貰えただけでも幸運なのだし、贅沢なことはとても言えない。
それに…、と綻んでしまった顔。
母にきちんと連絡がついたら、ハーレイが家まで送ってくれる。
チビの自分は、まだドライブには行けない車で。いつも見ているだけの車で。
ハーレイと出会って間も無い頃に、一度だけ乗せて貰った車。
メギドの悪夢に襲われた夜、無意識の内にハーレイの家まで飛んでいた。瞬間移動で、ベッドの中へ。何も知らずに朝まで眠って、朝食の後で、パジャマのままで家までドライブ。
あの時だけしか乗ってはいない。いつか乗りたい、ハーレイの隣の助手席に座れる車には。
(…車で送って貰えるんだよ…!)
ぼくの家まで、と天にも昇る心地だけれども、ふと心配になったロッカー。教室の後ろに幾つも並んだロッカーの一つ、自分の名前が書かれた紙がついているロッカーだけど。
(…ハーレイがあれを開けるんだよね?)
他の生徒たちもいる教室で、「荷物を取りに来たからな」と。鍵は無いから、カチャリと簡単に開く扉。そのロッカーの中を、ハーレイが覗き込むわけで…。
きちんと制服を入れただろうか?
畳みもしないで突っ込まないで、皺にならないように綺麗に。それに靴とか、ロッカーの中身。美術の授業で使う絵具や、他にも色々入れている場所。
(通学鞄も…)
ハーレイが持って来てくれる筈。そちらは訊かれなかったけれども、服と一緒に届くのだろう。鞄に入れるべき物たちを選んで、ハーレイが詰めて。
(…酷いことになっていないかな…)
鞄の中と、教科書とかを入れた机の中。
整理しながら入れるタイプとはいえ、いつもそうとは限らない。
(たまに、慌てて…)
いい加減に突っ込んでしまったりする、机や鞄やロッカーの中身。休み時間に友達と話す間に、ついつい時間が経ってしまって。チャイムの音でビックリ仰天、エイッと放り込む中身。
(変なことになっていませんように…)
今更どうにもならないのだけど、祈るような気持ち。「神様、お願い」と心の中で。
けれど、だるくて重たい身体。自然と瞼が重くなっていって、身体もベッドに沈んでゆくよう。
いつの間にやら、スウッと眠りに落ちてしまって…。
「ブルー君?」
大丈夫、という保健室の先生の声で目が覚めた。あれからどのくらい経ったのだろう?
そう思いながら「はい」と答えた。天井が回っていたりはしないし、大丈夫と言えば大丈夫。
「…少し身体が重いですけど…。大丈夫です」
「良かったわ。よく寝ていたし、あれから熱も出ていないから。でも…」
お母さん、まだ連絡がつかないの。今はお昼休みの時間だけれど…。
どう、お昼御飯は食べられそう?
食べられそうなら、食堂から何か届けて貰うわ、と先生は笑顔。「何か食べる?」と。
「えーっと…」
どうだろうか、と考えたけれど、頭に浮かぶのはランチセットのプレート。食べられそうもない量と中身と。他には何も浮かんで来ないし、「無理かも…」と答えかけた所へ開いた扉。
「ブルー君のお母さん、どうでしたか?」と入って来たハーレイ。
「あれから連絡、つきましたか? それなら送って行きますが…」
「いえ、それが…」
まだなんです、と先生が応じて、ハーレイは「そうですか…」とベッドの方にやって来た。
「お母さん、まだ家に帰ってないんだな。この時間だったら、外で食事かもなあ…」
それなら暫くかかるだろう。…分かった、昼飯、持って来てやるから。
「えっ…?」
キョトンと瞳を見開いてから、「いえ、いいです…」と俯き加減で断った。ハーレイの心遣いは嬉しいけれども、昼御飯はとても食べられない。保健室の先生にだって、断るつもりだったから。
ハーレイにもそう説明したのに、「お前なあ…」と顰められた顔。
「お母さん、何時に帰って来るかも分からないんだぞ?」
何も食べないなんて、身体に悪い。お前、体育で走ってたしな?
運動した分、エネルギーを入れてやらないと。
いつものランチセットは無理でも、プリンくらいは食えるだろうが。
買って来てやる、と出掛けて行ったハーレイ。「直ぐに戻る」と、保健室の扉の向こうへ。
言葉通りに、本当に直ぐに戻って来たのがハーレイの凄さ。食堂まで走ったわけでもないのに、歩幅が大きいと歩く速度も速いから。
手には食堂で売られているプリン。放課後に食べる生徒もいるから、昼休みには売り切れない。
「食っとけ、プリンは病人食にもいいんだぞ」
卵と砂糖で栄養満点、ただし食い過ぎると駄目だがな。甘い物ばかり食ってちゃいかん。
だが、お前には必要だ。腹が減ったら、治るものも治らないからな。
食えよ、とプリンを見せられた。「ベッドの上で食っていいから」と、スプーンもつけて。
「はい…。ありがとうございます…」
うん、と言えないのが悔しい。それに「ありがとう!」も。
学校ではハーレイは「ハーレイ先生」、敬語でしか話すことが出来ない。「起きられるか?」と支えて起こしてくれても、プリンを持たせて貰っても。…それにスプーンも。
ハーレイが側にいてくれるのに。プリンだって買ってくれたのに。
(でも、美味しい…)
甘くてとっても優しい味、とスプーンで掬って頬張っていたら。
「あ、ブルー君のお母さんですか?」
保健室の先生が話しながら、「良かったわね」と向けてくれた笑み。ようやく母についた連絡。
先生は様子をテキパキ伝えて、ハーレイが送ってゆくこともきちんと話してくれて…。
「良かったな、ブルー。家のベッドで寝られるぞ」
食い終わったら送って行くか。…俺はお前の服と荷物を取ってくるから。
プリン、残さずに食うんだぞ?
栄養不足じゃ話にならん。さてと、お前の制服と靴と、それに鞄と…。
昼休みの時間で丁度良かった、とハーレイは荷物を取りに出掛けた。
「俺は昼飯、先に食っといたから心配ないぞ」と、気になっていたことをヒョイと口にして。
今の時間が授業中なら、教室でロッカーを開けていたなら悪目立ちだな、と笑いながら。
教室へ荷物を取りに行ったハーレイ。これから開けられるだろうロッカー。覗かれる鞄と、机の中と。帰り支度を整えるために。
(ロッカーも鞄も、机も、きちんとしてますように…)
神様お願い、とプリンを食べる間もお祈り。今頃いくらお祈りしたって、手遅れなのに。いくら神様でも、ロッカーや鞄を整理したりはしてくれないのに。
それでも祈って、プリンを綺麗に食べ終えた所へ…。
「待たせたな」と、制服と鞄を持って来てくれたハーレイ。通学用の靴だって。
「お前の荷物は、これで全部、と…。安心しろ、机の中もきちんと確かめたからな」
忘れ物は一つも無い筈だ。プリントとかも、クラスのヤツらに確認したから。
食い終わったんなら、着替えろよ。
お前が着替えをしている間に、運動靴を返して来るから。…さっき持って行けば良かったな。
運動靴、ベッドの住人には要らないのにな、とハーレイは教室に行ってしまった。ベッドの脇の床に揃えてあった、運動靴を左手に持って。
(…着替えるトコ、ハーレイ、見てくれないんだ…)
着替えるためには体操服を脱いだりするのに、ハーレイは自分の恋人なのに。
前の自分なら、何度も脱がせて貰ったのに。
(ハーレイのケチ…!)
キスも断る恋人なのだし、当然と言えば当然だけれど。着替えなんかは見てもくれない。
保健室の先生だって、ベッド周りのカーテンをサッと引いたけれども。…他の生徒が入って来た時、着替えている姿が見えないように。
(…どうせ、こうなっちゃうんだけどね…)
ハーレイが此処に残っていたって、カーテンの向こう。
「早くしろよ?」などと言いながら。着替える姿は影さえ見ないで、保健室の先生と話すとか。
そうなることが分かっているから、なんとも悲しい。
どうせチビだよ、と悔しい気分。それに学校、ハーレイが「ハーレイ先生」なことも残念。
膨れっ面になってしまいそうなのを、我慢して着替えて、腰掛けたベッド。靴を履いたら、丁度戻って来たハーレイ。扉が開く音と、「着替えたか?」という声と。
「あ、はい…!」
終わりました、と開けたカーテン。「よし」とハーレイが通学鞄を持ってくれた。
「行くとするかな。…先生、お世話になりました」
送って来ます、と保健室の先生に挨拶も。
大急ぎで自分も頭を下げた。ピョコンと、「ありがとうございました」と御礼。
やっぱり少しふらつく足。ハーレイが支えて歩いてくれて、保健室を出て、少し行ったら。
「大丈夫か、ブルー? なんとか歩けはするようだが…」
プリン、美味かったか?
ちゃんと栄養になりそうか、と問い掛けられた。「お前の昼飯、プリンだけだが」と。
「はい…」
美味しかったです、と答えるのだけで精一杯。「ありがとうございました」も言い忘れた。あのプリンは、ハーレイが買って来てくれたプリンだったのに。
(…ぼくって駄目かも…)
御礼も言えない駄目な生徒、と思うけれども、まだ校舎の中。
ハーレイは「ハーレイ先生」なのだし、下手に喋ったら、きっと敬語が崩れてしまう。家で使う言葉になってしまって、周りの生徒や先生たちに…。
(偉そうな喋り方をしてる、って…)
呆れられるか、叱られるか。
そうなることが分かっているから、話せない。…黙って歩いてゆくしかない。
ハーレイにしっかり支えて貰って、二人並んで歩いていても。恋人と一緒に歩いていても。
ホントに残念、と心で溜息を零してみたり、「御礼も言えない、駄目な子だよね」と、プリンの御礼を言いそびれたことを悔やんだりして、歩いた廊下。保健室から、校舎の外へ出るまでの。
(廊下、こんなに長かったっけ…?)
話しながらだと直ぐなのに、と思う間に、ようやっと、外。校舎を離れて、ハーレイの車がある駐車場が其処に近付いて来たら…。
「ドライブだな」
「え…?」
もう、頑張って敬語で話さなくても大丈夫な場所。昼休みの終わりのチャイムが鳴ったし、誰も此処まで来はしない。生徒も、それに先生だって。
そういう所で、ハーレイの口から出て来た言葉が「ドライブだな」。
ドライブとはどういう意味だろう、と目を丸くして見上げたハーレイの顔。ドライブを期待していたのだけれども、まさかハーレイが言うとは思わなかったから。
「なあに、お前の家までドライブだってな。…ドライブにしては短い距離だが」
お前がバス通学をしてるってだけで、元気な生徒は歩きに自転車。
たったそれだけの距離しか無いドライブだし、ついでにお前は病人なんだが…。
乗れ、とハーレイに開けて貰った助手席のドア。
其処に座ったら、「鞄はお前が持ってろよ」と通学鞄を渡された。膝の上にポンと乗せられて。
「俺はあっちだ」と、助手席のドアがバタンと外から閉まって、ハーレイが車の前を横切る。
運転席の方のドアを開いて、乗り込むために。
(これ、本当にドライブなんだ…!)
ぼくの家までの間なんだけど、とキョロキョロ周りを見回した。
ハーレイの車で家までドライブ、短い距離でも二人きり。こういう車だったっけ、と天井や床やシートなんかを目で追ってゆく。
(…ハーレイの車…)
いつもハーレイが乗ってる車、と誇らしい気分。それの助手席、其処に自分がいるのだから。
まるでデートの帰りみたいに、ハーレイが送ってくれるのだから。
ワクワクする間に、運転席に座ったハーレイ。ハンドルやシートやミラーを確かめ、エンジンをかけて、車が動き出した時。
「シャングリラ、発進!」
そう懐かしい声が上がった。遠く遥かな時の彼方で、何度も耳にしていた言葉。
キャプテンだった前のハーレイ、そのハーレイが舵を握って、あるいはブリッジのキャプテンの席でかけた号令。「シャングリラ、発進!」と、誰の耳にも届くようにと大きな声で。
(…シャングリラ…)
そうだったっけ、と思った車。ハーレイの車は、いつかシャングリラになる車。
今のハーレイと今の自分と、二人だけのために動くシャングリラ。今は濃い緑色の車で、白い車ではないけれど。…白いシャングリラではないのだけれど。
ぼくとハーレイのシャングリラ、とハーレイの方に顔を向けたら、「うん?」と視線。
「ああ言ってやりたい所なんだが、まだ言えないな。…お前、チビだし」
俺とデートに出掛けてゆくには、年も背丈も足りてない。シャングリラに乗るには早いってな。
今のはちょっとしたサービスってトコだ、俺もケチではないんだぞ。
お前の元気が出るように言ってみたんだが、と駐車場を出て走り始めた車。校門を抜けて、後にした学校。道路に出たらもう、本当にハーレイと二人きり。
いくら制服を着込んでいても、膝の上に通学鞄があっても、「ハーレイ先生」はもういない。
学校の外では、もう教え子ではない自分。ハーレイだって、教師ではない。
(…ぼくとハーレイと、二人だけ…)
まだシャングリラとは呼んで貰えない車だけれども、ハーレイと二人。
前の生と同じに恋人同士で、二人きりで走ってゆく道路。
ほんの短い距離にしたって、家に着くまでの道だって。…学校から帰るだけだって。
いつかデートに出掛ける時には、自分が座る筈の席。ハーレイの隣にある助手席。
其処に座って前を見ている。ハーレイが見ているのと同じ景色を、ほんの少しだけ隣にずれて。
そのハーレイはハンドルを握って、未来のシャングリラを操る。真っ直ぐに、時には右に左に、家へと続いている道を。
(気分だけでも、ドライブで、デート…)
はしゃぎたいのに、重たい身体。
学校を早退するほどなのだし、身体が軽いわけがない。どんなに心が軽くても。
踊り出したいくらいに弾んで、羽が生えて飛んでゆけそうでも。
ハーレイと話もしたいというのに、だるくて力が入らない。それでも、と口を開いてみた。
「…えっとね…」
この車、と言った途端に、重々しい声。
「静かにしていろ。酔っちまうぞ」
お前に元気が無いっていうのは分かるんだ。…声の調子で。
そういう時には酔いやすい。お前みたいに身体が弱けりゃ、なおのことだ。
ゆっくり走っているつもりなんだが、他の車には迷惑かけられないからなあ…。
これが限度だ、だから黙って乗っていろ。…酔わないように。
いいな、と幼い子供に言い聞かせるように、ハーレイが注意するものだから。
「…うん…」
そう頷くしか道は無かった。
酔ってしまったら、ハーレイの好意を台無しにする。家に着いたら車酔いでフラフラ、今よりも酷い状態だなんて。
そんな自分を母が見たなら、きっとハーレイに平謝り。「ご迷惑をおかけしました」と。
車に酔うほど具合が悪いと知っていたなら、タクシーで迎えに行ったのに、と。
(…そんなことになったら…)
次のチャンスは二度と訪れない。
学校で倒れて、ハーレイの車で家までドライブ。
そうしたくても、母が保健室の先生に「迎えに行きます」と言ってしまうから。ハーレイの車で帰る代わりに、タクシーに乗って帰る家。…母と一緒に。
またハーレイの車で家に帰りたかったら、酔わないこと。ハーレイの注意を守ること。
仕方なく黙って、助手席のシートに深くもたれて乗っている内に、もう家の近くの住宅街。
(バス停だって、過ぎちゃった…)
いつも歩いて帰ってゆく道、其処をハーレイの車で走って、見えて来た生垣に囲まれた家。
ガレージに車が滑り込んだら、家の中から出て来た母。
「ハーレイ先生、すみません!」
家まで送って来て頂くなんて、と母が駆けて来て、ハーレイも「いいえ」と運転席から降りた。ドアを閉めて、助手席の方に向かってやって来る。
家に着いたのだし、此処は学校ではないし…。
(ハーレイに抱っこして貰える?)
逞しい両腕で抱き上げられて、車からふわりと降ろされる。それとも、背中におんぶだろうか。
(おんぶだったら、助手席のドアは手で閉められるけど…)
抱っこの方なら、足で蹴ってドアを閉めるとか。…母に「お願いします」と閉めて貰うとか。
玄関の扉も、母が開けたりするのだろう。ハーレイは自分を抱っこかおんぶで、部屋まで運んでくれるのだから。…ハーレイに余計な手間をかけるより、母が扉の開け閉めの係。
(玄関も、ぼくの部屋の扉も…)
ママだよね、と考える。おんぶでも、それに抱っこでも。
学校ではどちらも駄目だったけれど、家なら、きっと抱っこか、おんぶ。
どっちなのかな、と夢見る間に、ハーレイが開けた助手席のドア。
「降りられるか?」
酔ってないか、とハーレイが降ろしたのは鞄だけだった。膝に乗せていた通学鞄。
それを降ろして母に渡して、それっきり。「掴まれ」と手が差し出されただけ。
(…抱っこは?)
それに、おんぶは、なんて訊けるわけがない。母が鞄を持って直ぐ側にいるし、ハーレイの手が目の前にあるのだから。「どうした?」とでも言うように。
「……大丈夫……」
降りられるよ、と掴まった、がっしりした手。自分で降りるしかなかった助手席。
この手に抱っこして欲しかったのに。…抱っこが駄目なら、おんぶで運んで欲しかったのに。
どっちも駄目になっちゃった、と突っ立っている間に閉まったドア。
いつか自分が乗る筈の席は、もうハーレイが閉めた扉の向こう。濃い緑色をしているドアの。
「ハーレイ先生、本当にすみません…。お仕事中でらっしゃいますのに」
ブルーを送って下さるなんて、と母が何度もお辞儀している。「ご迷惑をお掛けしました」と。
「いえ、空き時間ですから、かまいませんよ」
丁度いい息抜きになりました。仕事中には、なかなか運転出来ませんしね。
車で出られる人はいないか、と声でも掛からない限り、車で走りたくても無理で…。
じゃあな、ブルー。
家でいい子にしているんだぞ、とクシャリと撫でられた頭。大きな手で。
「え…?」
まさか、と見詰めたハーレイの顔。「じゃあな」とか、「いい子にしろ」だとか。
これでは、まるでお別れのよう。…たった今、家に着いたばかりで、お茶の用意もまだなのに。
「分かってるだろ、俺は学校に戻らんと…。仕事中だからな」
空き時間でも、お前を送って出て来たついでに、ゆっくりお茶とはいかないってな。
その辺の所は、俺はきちんとしたいんだ。…誰も何にも言わないからこそ、けじめってヤツ。
また帰り道に寄ってやるから、大人しく寝てろ。無理をしないで。
晩飯の時にも、まだ食欲が戻ってなければ俺のスープの出番だよな、と笑顔のハーレイ。
「お母さんと早く家に入れ」と、「ゆっくり寝るのも薬からな」と。
もう一度、頭をクシャリと撫でると、ハーレイは車に乗ってしまった。運転席に。
(そんな…!)
此処まで来たのに行っちゃうの、とハーレイに縋り付きたい気分。
「ぼくの部屋まで一緒に来てよ」と、「ベッドに入るまで側にいてよ」と。
けれど、閉まった車のドア。内側からバタンと、呆気なく。
直ぐにエンジンがかかる音がして、手を振って走り去ったハーレイ。
「じゃあな」と、運転席の窓越しに。
いつか二人だけのシャングリラになる車、それを走らせて、真っ直ぐに元の学校へと。
(…行っちゃった…)
ハーレイ、帰って行っちゃった、と声も出ないで立ち尽くしていたら、母の声。
「どうしたの、ブルー? ボーッとしちゃって…」
具合が悪いのなら、早く寝ないといけないわ。パジャマに着替えて、ちゃんとベッドで。
ごめんなさいね、留守にしていて。
お友達に食事に誘われたけれど、食べずに帰れば良かったわ。…ブルーが帰って来るんなら。
「ううん…。ちゃんと保健室のベッドで寝てたから」
ママはちっとも悪くないよ、と微笑んだけれど。
家に入ってパジャマに着替えて、大人しくベッドに入ったけれど。
(抱っこも、おんぶも…)
駄目だったよ、と本当に残念でたまらない。
ハーレイの逞しい腕か背中で、部屋に運んで欲しかったのに。玄関を入って、階段を上がって、二階の部屋まで、ハーレイに抱っこか、おんぶで帰る。
そうしてベッドに寝かせて貰って、上掛けもそっと被せて貰って、ハーレイは暫く、一人きりでお茶。自分が眠ってしまうまでの間、椅子に腰掛けてベッドの側で。
(…送ってくれるんなら、そこまでして欲しかったのに…)
空き時間なら、やってくれても良かったのに、と考えるけれど、あっさり砕けてしまった夢。
それでも、幸せなドライブは出来た。
ハーレイと二人で、いつかシャングリラになる車で。
(…シャングリラ、発進! っていう声も…)
ちゃんとサービスして貰えた。
学校で倒れてしまった時に、ハーレイが上手く居合わせたから。
その上、母が外出していたお蔭。
ハーレイは家まで送ってくれたし、お茶も飲まずに学校に帰って行ったけれども…。
来てくれるよね、と分かっていること。
(学校の仕事が終わったら…)
来ると約束してくれたしね、とウトウトと落ちてゆく眠り。
明日も欠席になってしまっても、きっとハーレイが来てくれる。
食欲が出ないままだった時は、ハーレイが作る野菜スープも飲める筈。
前の生から好きだったスープ、何種類もの野菜をコトコト煮込んだ素朴なスープ。
(…野菜スープのシャングリラ風…)
ちゃんと食欲が戻っていたって、今日はあのスープを頼もうか。
甘いプリンも美味しかったけれど、やっぱりハーレイの野菜スープが一番だから。
「シャングリラ、発進!」という懐かしい声が聞けた、今日のドライブ。
そんな日の夜は、あの懐かしい野菜スープを、ハーレイの側でゆっくり味わいたいから…。
夢のドライブ・了
※体育の授業で倒れたブルー。ハーレイが通り掛かったお蔭で、思いがけない幸運が。
ハーレイの車で家までドライブ。おんぶも抱っこも無しでしたけれど、夢のように素敵な日。
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