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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

車と鼻歌
(あれ…?)
 雨かな、とブルーが気付いた音。目覚めたベッドで。
 ポツリ、ポツリと落ちる雨音。屋根や軒を打つ雨粒の音。それに地面に滴る音も。耳に届く音はそのようにしか聞こえない。どう聞いてみても雨の音。
(今日は土曜日…)
 ハーレイが来る日だ、と気が付いた。学校は休みで、午前中からハーレイが家に来てくれる日。昨夜はそれを楽しみにベッドに入って、天気予報は見ていなかった。雨とも、晴れとも。
 けれど雨音が聞こえるのならば、雨なのだろう。窓の向こうや天井の上で、こういう音を立てるものは他に無いのだから。
 ベッドから出てカーテンを開けたら、やっぱり雨。しとしとと空から落ちてくる雨。
(ハーレイ、車だ…)
 それが最初に思ったこと。こんな日は車で来るハーレイ。
 天気のいい週末は、家から歩いて来るのが習慣。何ブロックも離れているのに、まるで散歩でもするかのように。実際、散歩なのだろう。回り道して歩いて来る日も多いから。
 ハーレイにとっては「軽い運動」の散歩だけれども、雨の日は流石に歩いては来ない。本降りになってしまったりしたら、靴やズボンの裾が濡れるから。
 だから雨なら車の出番。来るのを窓から見ようと思う。ハーレイの愛車が走って来るのを。
(平日は車なんだけど…)
 仕事の帰りに来てくれる時は、いつでも車。ハーレイの通勤は車だから。
 車は度々やって来るけれど、走って来る所は滅多に見ない。数えるほどしか目にしてはいない。いつもチャイムで「ハーレイが来た」と気付くわけだし、車はガレージに入った後。
(帰る時には暗くなっちゃってるし…)
 もう見えはしない車の色。夜の闇が車を覆ってしまって、夜だけの色に変えるから。
 おまけに家の表まで出掛けて、其処で見送り。遠ざかってゆくテールライトに懸命に手を振る。また来てね、と精一杯の思いをこめて。
 帰ってゆく車を部屋の窓から見るのは、病気で寝込んでいる時だけ。
 ハーレイに「寝てろ」と言われてしまうし、両親だって許してくれない。具合が悪いのに、外に出るなど。仕方ないから窓から見るだけ。去ってゆく車のテールライトを。



 この窓からは殆ど見ていない、濃い緑色をした車。前のハーレイのマントとそっくり同じ色。
 それが走って来るのを見られるチャンスが、朝から雨が降っている今日。ハーレイは車でやって来る筈で、それよりも前に窓の所で待っていたなら出会える車。姿を見せる所から。
(よーし…)
 ハーレイの車を見なくっちゃ、と張り切って顔を洗いに出掛けた。それから着替えて朝御飯。
 両親と一緒に食べる間も、「ご馳走様」と部屋に戻って掃除する間も、弾んだ気分。ハーレイの車を見るんだから、と。
 掃除の仕上げは、窓辺のテーブルを綺麗に拭くこと。いつもハーレイと使うテーブル。二人分の椅子も位置を確かめ、大満足で済ませた掃除。「これでおしまい」と。
 それから座った椅子の片方。ハーレイが座る椅子とは違って、自分用だと決めている椅子。
 其処に座れば窓の向こうがよく見えるのだし、車を待つにはお誂え向き。まだ少し早いと思いはしても、此処で車を待ちたい気分。
(ハーレイの車、もうじき走って来るんだから…)
 今日はしっかり見なくっちゃ、と雨に濡れた庭の向こうを眺める。生垣を隔てた所に道路。
 ハーレイの車は、学校にある駐車場でも見るけれど。乗せて貰ったこともあるけれど、こうして車を待っている間も高鳴る胸。前のハーレイのマントの色の車なんだよ、と思っただけで。
 空は雨雲に覆われているし、雨だって降っているけれど。太陽の光は射さないけれども、夜とは違って明るい今。車の色はよく見える筈。ハーレイも好きな車の色が。
(不思議だよね…)
 今のハーレイが車を買う時、あの色の車を選んだこと。「この色がいい」と。
 記憶は戻っていなかったのに。前のハーレイの記憶など無くて、今のハーレイだったのに。車を買いに出掛けた時にも、どの色にしようかと考えた時も。
(白もいいけど、乗りたくなかったって…)
 前にハーレイはそう言っていた。白い車も勧められたし、「気に入った」とも思ったらしい。
 けれど「欲しい」という気がしなくて、選んだ車は濃い緑色。「自分らしい」と考えて。
 若いハーレイには渋すぎる色で、友人たちにも驚かれたのだという車。もっと鮮やかな色の方がいいと、「黄色なんかも似合いそうだぞ?」と。
 白ならば、誰も「渋い」とは言わなかっただろうに。「白が好みか」と思うだけで。



 どうしたわけだか、白い車を避けたハーレイ。気が乗らなくて、欲しい気分になれなくて。
 「きっと、シャングリラの色だったからなんだろうな」とハーレイは前に話していた。
 遠く遥かな時の彼方で、前のハーレイと暮らした船。白いシャングリラで長く共に生きて、死という別れに引き裂かれた。前の自分がメギドに向かって飛び去った時に。
(ハーレイ、独りぼっちになっちゃって…)
 それでも地球へと進むしかなくて、白いシャングリラを運んで行った。キャプテンとして、舵を握って。恋人はもういなくなった船、二度と戻って来はしない船を。
 その悲しみをハーレイは覚えていたのだろう。記憶が戻って来なくても。心の何処か深い所で。
 代わりに選んだ、キャプテンのマントと同じ色の車。「これが自分に似合いの色だ」と。
(ホントに不思議なんだけど…)
 生まれ変わって来たほどなのだし、そういったこともあるのだろう。記憶が無くても、心に深く刻まれたもの。「白は悲しい色だから」と白い車を避けたくらいに。
 けれどハーレイは「次の車は白がいいよな」と言っていた。まだ何年も先だけれども、次の車を買う時が来たら、白にしようと。
 その頃には車の助手席に座っているのが自分。前の自分と同じに育って、ハーレイの隣に。
 いつか二人でドライブに出掛けるようになったら、白い車に乗ることになる。最初の間は、今の車に乗るけれど。ハーレイが大切にしている車は、まだ何年も頼もしく走ってくれそうだから。
 大切に乗って走った車にお別れしたなら、ハーレイの車はシャングリラの色になるけれど…。
(今の車も、ぼくたちのシャングリラになってくれるんだよ)
 濃い緑色の車でも。白いシャングリラとは違う色でも。
 ハーレイと二人で出掛けるのならば、それが自分たちのシャングリラ。宇宙船ではなくて、何の変哲もない車だけれど。同じ形の車だったら、きっと山ほどあるだろうけれど。
(それでも、あれはシャングリラになる車なんだから…)
 白くなくても、鯨の形をしていなくても。
 ハーレイと二人で乗ってゆくなら、それが自分たちのシャングリラ。
 仲間たちは抜きで、二人きりで。ソルジャーもキャプテンも要らない車で、ハーレイと走る。
 舵の代わりにハンドルを握ったハーレイと。キャプテンの制服ではないハーレイと。
 その日の気分で、行きたい場所へと走らせる車。地球を目指しての旅ではなくて。



 素敵だよね、と夢見るハーレイと出掛けるドライブ。いつか助手席に乗れる日が来たら。
(早く来ないかな…)
 ドライブに行ける日も来て欲しいけれど、今日の所は、ハーレイが乗った未来のシャングリラ。濃い緑色の車が見たくて、庭の向こうを眺めて待つ。「まだ来ないかな?」と雨を見ながら。
 空から雨が降って来るから、今日は車で来るハーレイ。「軽い運動だ」と歩く代わりに。足元が濡れてしまわないよう、いつも学校に乗ってゆく車で。
(今はハーレイが一人で乗ってて…)
 一人で運転している車。助手席には誰も乗っていないし、後部座席の方も空っぽ。乗せる人などいないから。この家に来るのはハーレイ一人だけだから。
 ハーレイだけが乗った車、と考えてみると、まるで独りぼっちだった頃のハーレイのよう。前の自分を失くしてしまって、独りきりになってしまったハーレイ。白いシャングリラで。
 仲間たちが大勢乗っていたって、ハーレイの心には絶望と孤独。
 恋人はいなくて、追ってゆくことも出来ないまま。それでも行かねばならなかった地球。それが恋人の望みだったから。「ジョミーを支えてやってくれ」と頼まれたから。
 心は独りぼっちのままで、遠い地球まで行ったハーレイ。白いシャングリラに一人きりで。
 今のハーレイも、今日は一人で車を運転して来るけれど…。
(此処に着いたら、ぼくがいるしね?)
 前のハーレイが失くした恋人、ソルジャー・ブルーの生まれ変わりの自分。チビだけれども。
 十四歳にしかならない子供で、ハーレイはキスさえしてくれないチビ。
 けれど恋人には違いないのだし、その恋人の家を目指して走らせる車。ハンドルを握って、前を見詰めて。だからハーレイは独りぼっちで車の中に乗っていたって…。
(寂しくなんかないんだよ)
 今は一人でも、道路を走れば恋人の家に着くのだから。
 まだドライブには一緒に行けないチビの恋人でも、前のハーレイが愛した人の生まれ変わり。
(チビでも、ちゃんと恋人だから…)
 恋人に会いに走ってゆくなら、寂しいと思う筈がない。「一緒だったらいいのにな」と、夢見ることはあったとしても。
 「まだ当分は一人だよな」と、「あいつとドライブはまだ出来ないな」と思いはしても。



 いつか助手席に乗るだろう恋人、その日を心に思い描いて走らせる車。運転席に一人きりでも。
(そういう旅なら楽しいよね?)
 前のハーレイが歩んだ地球までの道と違って。辛くて長い旅路ではなくて、きっと心が弾む旅。ほんの短い距離にしたって、同じ町の中を此処まで走るだけにしたって。
(それにハーレイが乗ってる車は、未来のシャングリラなんだから…)
 二人で乗る日を、ハーレイも待っているだろう。早くその日が来ないものかと、自分と同じに。
 口では何と言っていたって、心の中では。
 何かと言ったら「チビのくせに」と、「今のお前はまだ子供だ」などと叱っていても。
 そのハーレイも、待っているのに違いない。チビの自分が前の自分と同じに育って、隣に座ってくれる日を。助手席に乗せて、一緒にドライブに行ける日を。
 前のハーレイのマントの色をしている車。濃い緑色のシャングリラで。
(シャングリラと車じゃ、運転のやり方、全然違っているけれど…)
 車は空を飛びはしないし、もちろん宇宙も飛んでゆけない。地面の上を走るだけ。それも道路がある所だけを。…ハーレイの車は普通の車で、道路の無い場所を走れはしないから。
 運転するにも、ハンドルと舵輪は全く違う。同じように円を描いてはいても。
 「面舵いっぱーい!」と回す舵輪と、ハンドルを右に切るのとは違う。右の方へと向かう所は、どちらも同じなのだけど。
 白いシャングリラと車はまるで違うけれども、いつかシャングリラになる予定の車。ハーレイと自分と、二人きりで乗るシャングリラ。
 それを走らせて来るのだったら、鼻歌交じりのドライブだろうか。ハーレイの家から此処までの道は。何ブロックも離れたハーレイの家。其処のガレージを出た後には。
(そうなのかも…)
 鼻歌交じりでハンドルを握っているハーレイ。「もうすぐブルーに会えるんだしな?」と。
 恋人の家に向かっているなら、鼻歌だって飛び出しそう。心が浮き立つドライブなのだし、今のハーレイの気に入りのメロディ。
 記憶が戻って来る前だったら、一人でドライブを楽しみながら、きっと鼻歌。それは御機嫌で。
 歌も歌ったかもしれない。
 その頃だったら、気ままにドライブしていたのだから。「今日は行くぞ」と車に乗って。



 ハーレイが車を運転しながら歌う鼻歌。気分がいい日は、ハンドルを右へ左へと切って。
 今日も歌っているかもしれない。此処への道を走る車で、「ブルーに会える」と楽しそうに。
(ぼくと一緒に乗っていく時も…)
 二人きりのシャングリラになった車でドライブの時も、鼻歌が飛び出すかもしれない。助手席に座って、耳を澄ませていたならば。
(お喋りしてたら、鼻歌どころじゃないけれど…)
 綺麗な景色に見惚れてしまって会話が無いとか、助手席の自分がウトウト眠りかけているとか。そういう時なら、ハーレイの鼻歌が聞こえて来そう。楽しげな歌が運転席から。
 それも素敵、と思ったけれど。聴いてみたいと考えたけれど…。
(シャングリラ…)
 本物だった方のシャングリラ。巨大な白い鯨のようにも見えた船。人類軍も、あの白い船に名を付けた。「モビー・ディック」と、遠い昔の小説に出てくる白鯨の名を。
 誰が見たって鯨に見えた白い船。ミュウの母船だと知らない人類は、「宇宙鯨」と呼んでいた。暗い宇宙を彷徨う鯨で、異星人が乗っているのだとも。
 そのシャングリラの舵を握っていたハーレイ。主任操舵士のシドがいたって、ハーレイが自分で舵を握る日も多かった。誰よりも船に詳しかったし、癖も掴んでいたのだから。
 そうやって舵を握っている時、ハーレイはいつも真剣だった。ただ真っ直ぐに前を見据えて。
 シャングリラの舵輪を動かす時には、鼻歌交じりなどではなかった。どんな時でも。
(人類の船なんか、何処にもいなくて…)
 安全なのだと分かっていたって、生真面目な顔をしていたハーレイ。鼻歌などは歌いもせずに。舵輪をしっかり握り締めて立って、背筋をしゃんと伸ばした姿で。
(同じシャングリラでも、船と車じゃ違うよね…)
 形も違えば機能も違うし、動かし方もまるで違っている。シャングリラと名前を付けたって。
 ハーレイと自分の二人が乗るから、車を「シャングリラ」と呼んだって。
 何もかもが違う、船と車のシャングリラ。巨大な白い鯨の姿か、濃い緑色をしている車か。
 二つのシャングリラを比べてみたなら、きっと車の方が楽しい。
 ハーレイが一人で乗っていたって、鼻歌が飛び出す素敵な車。一人きりでのドライブでも。
 白い鯨の方だったならば、鼻歌なんかは一度も出番が無かったのだから。



 車の方が楽しい筈だよね、と考えていたら、窓から見えた緑の車。ハーレイの愛車。
 それを見間違えるわけがないから、「あれだ!」と胸の鼓動が高鳴る。待っていた甲斐があった車で、あれにハーレイが乗っている。此処からはよく見えないけれど。
(運転席には、ハーレイが乗ってて…)
 あそこに見える影がハーレイ、と思う間に車は家の表で止まって、ガレージの方へ。空から雨が降る中を。降りしきる雨に濡れながらも。
 ガレージに車をきちんと停めたら、ハーレイがバタンと開けたドア。運転席の側を。
(降りるハーレイも楽しそう…)
 パッと広げた紳士用の雨傘。それを差したら、大股で歩いて門扉の所へ。足取りも軽く。
 門扉の横にあるチャイムを鳴らすと、部屋でも聞こえたいつもの音。ハーレイはこの部屋の窓を見上げて、こちらに向かって手を振ってくれた。傘を持ってはいない方の手で。
 応えて大きく振り返した手。「ぼくは此処だよ」と、「待っていたよ」と。
(ぼくが待ってたから、一人でも平気…)
 車の中でも、ハーレイの家から此処までの道も。
 記憶が戻る前のハーレイも、車を楽しんでいた筈だよね、と思うから。鼻歌交じりにハンドルを切って、きっと走っていただろうから、訊いてみた。ハーレイと部屋で向かい合うなり。
「ねえ、ハーレイ。車は楽しい?」
 今日は車で此処に来たでしょ、ハーレイは車を楽しいと思う…?
「はあ? 車って…」
 楽しいと思うか、と言われてもだな…。
 それはいったいどういう意味だ、と問い返された。「楽しいと言っても色々あるが」と。
「えっとね…。車、ぼくは運転できないけれども、楽しいの?」
 車を走らせるっていうこと。今日みたいに此処まで走って来るとか、ドライブだとか…。
 楽しそうだよね、っていう気がしたから、ハーレイに訊いてみたんだけれど…。
「そりゃまあ…なあ?」
 楽しくないわけがないだろう。でなきゃ車に乗っていないぞ、路線バスとか俺の足さえあったら何も困りはしないしな。…ちょっとした距離なら歩けばいいし、遠い場所なら他の乗り物。
 自分の車を持ってなくても、何処かへ行くには方法が幾つもあるんだから。



 車を持っていない人も多いだろうが、と言われてみればその通り。乗りたいという気持ちが全く無い人だったら、自分の車を持ってはいない。公共の交通機関だけで充分、と。
「そっか…。ハーレイの仕事は、車が無ければ困る仕事じゃないんだし…」
 乗ってるってことは好きだからだよね、車に乗るのが。好きで乗ってるなら、楽しくて当然。
 その車だけど、シャングリラと、どっちが楽しいと思う?
 シャングリラも車も、ハーレイは動かせるんだけど、と問い掛けた。どちらの方が楽しいかと。
「そいつは今の俺の場合か?」
 俺が考えたらどっちになるのか、それをお前は知りたいのか…?
 そうなのか、と瞳を覗き込まれた。鳶色の瞳で、「今の俺が楽しいと思う方なのか?」と。
「うん。どっちなのかと思ったから…」
 シャングリラはとても大きな宇宙船だし、車はうんと小さいけれど…。
 運転のやり方も違うけれども、ハーレイはどっちの方が好きなの、楽しいのはどっち…?
「今の俺なら、断然、車って所だが…」
 実に気楽に運転できるし、責任だって背負っちゃいないから。…交通ルールを守ることだけで。
 後は誰かを乗せてる時だな、安全運転で行きたいじゃないか。余所見なんかはしてないで。
 もっとも、ちょっと景色を見るのは御愛嬌といったトコだがな。
 あれは余所見とは言わんだろう、と茶目っ気たっぷりの返事が返った。運転中に車の外の景色をチラリと見るのはいいらしい。運転とはまるで関係なくても、首を横へと向けていても。
「やっぱり車の方なんだ…!」
 そうじゃないかと思っていたけど、ホントに車。今日のハーレイも楽しそうだったから…。
 車が来るのを待ってたんだよ、此処の窓から下を見ながら。雨の日はハーレイ、車だものね。
 ガレージに停めて、傘を広げて降りる時にも楽しそうに見えたよ、ホントだよ?
 きっと車が好きなんだよね、と思ったんだけど…。それで当たっていたんだけれど…。
 だけど、前のハーレイだったら違うの?
 前のハーレイのつもりで答えるんなら、別の答えになっちゃうの…?
「そうなっちまうな。なにしろ前の俺の場合は、だ…」
 シャングリラだけしか知らなかったからな、車は運転しちゃいない。
 人類との戦いが始まった後も、運転できる機会は無かった。乗る機会は幾つもあったんだがな。



 あの船だけしか知らなかったが…、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。「楽しかった」と。
「俺にとっては、あのシャングリラは最高の船で相棒だったな」
 あれしか知らない船とは言っても、本当に好きな船だった。今の俺にとっての車と同じで。
 責任ってヤツは重かったがな、と言われなくても分かること。今のハーレイの車だったら、交通ルールを守って走るだけでいい。危険が溢れる宇宙を飛んではいないから。
 それに車に乗れる人数、そちらの方も限られてくる。車には詳しくないのだけれども、あの車に乗れるのは六人くらいだろうか。それとも五人といった所か。
 白いシャングリラには、二千人ものミュウの仲間が乗っていたのに。
 前のハーレイはキャプテンなのだし、皆の命に責任があった。二千人いれば、二千人分の。
 それだけの重い責任があっても、ハーレイはシャングリラが好きだったと言う。あの白い船が。ミュウの仲間たちを乗せた箱舟、皆の世界の全てだった船が。
「でも、ハーレイ…。責任とかはいいにしたって、前のハーレイには普通のことにしたって…」
 最後は独りぼっちになった船だよ、前のぼくがいなくなってしまって。
 ハーレイが一番守りたかった人は消えてしまって、それでも仲間たちの命を守るしかなくて…。
 独りぼっちで地球までの旅をするしかなくって、とっても寂しかった船。
 そのせいで、今も白い車じゃないんでしょ?
 前に聞いたよ、車を買いに出掛けた時の話をね。白い車もいいと思ったけど、それは買わないで今の車になったんだ、って…。
 前のハーレイの記憶が何処かにあったせいでしょ、と口にした。白いシャングリラが悲しい船になっていたから、白い車を選ぶ気になれなかったんだよね、と。
「それは確かにあったんだが…。今の俺まで引きずるくらいに、寂しくて辛い思いはしたが…」
 だが、シャングリラに罪は無い。あの船には何の罪も無いんだ、ミュウの箱舟なんだから。
 それにお前が守った船だ。
 最後は命を捨てちまってまで、前のお前は船を守った。メギドを沈めて、あのシャングリラを。
 そうなる前にも、お前は船を守り続けていただろう?
 人類軍との戦いは無くても、船中に思念の糸を張り巡らせてて、何かあったら動けるように。
 そんなお前に託された船でもあったわけだし、あれはあれで大事だったんだ。
 寂しかったのは間違いないから、楽しかったとは言わんがな。



 前のお前がいなくなった後は、寂しくて悲しい船だった、とハーレイが語るシャングリラ。
 生まれ変わった後に選んだ車も白ではないほど、前のハーレイの心に深い悲しみと痛みを残した船。白い車が気に入っていても、「乗りたくない」と別の色の車を選んだほどに。
 そんな悲しい思いをしたのに、「好きな船だった」とハーレイが言うものだから…。
「…あの船が楽しかった時代もあるの?」
 悲しい思い出ばかりの船でも、ハーレイは大事だと言ったけど…。楽しかった時は無かったの?
 白い車が欲しくなるような、うんと素敵な思い出とかは…?
 今のハーレイの車は白じゃないしね、と悲しい気持ちに包まれる。前の自分がいなくなった後、独りぼっちで生きたハーレイ。好きな船の色さえ選べなくなるほど、辛い日々だったようだから。
「お前なあ…。何を寝言を言っているんだ、まだ半分ほど寝てるのか?」
 昨夜は遅くまで夜更かししたとか、寝付けなくって睡眠時間が足りないだとか。
 分かっていないな、お前ってヤツは。前のお前と沢山の夢を見ていただろうが、あの船で。
 お前の寿命が尽きてしまうと分かる前には、山ほどの夢を持ってたろうが。…俺も、お前も。
 地球に着いたら船を離れて、二人きりで暮らしてゆこうとか…。
 ヒマラヤまで青いケシを見に行くとか、森に咲くスズランの花を探しに行こうとか。前のお前の夢の朝飯、そいつも食べに行くんだっけな。本物のメープルシロップをたっぷりとかけて、地球の草で育った牛のミルクのバターを乗っけたホットケーキを。
 ああいった夢を見ていた頃には、俺だってうんと楽しかったぞ。未来への夢が一杯だ。
 お前の夢を叶えるためには、まずは地球まで行かないと…。俺がシャングリラを動かしてな。
 俺たちを夢の星まで連れてってくれる、頼もしい相棒があの船だったわけだから…。
 楽しくなかった筈がないだろう、とハーレイが挙げた「楽しかった時代」。シャングリラでの。
 それは確かに存在していた。前の自分の未来が無限に思えた頃には。
「…そうだけど…。楽しかった時代も、沢山あったみたいだけれど…」
 だけどハーレイ、鼻歌なんかは一度も歌っていなかったよ…?
「鼻歌だって?」
 いったい何処から鼻歌ってヤツの話になるんだ、ますますもって謎なんだが…。
 今日のお前は車の話を持ち出すかと思えば、今度は鼻歌。
 シャングリラと鼻歌、どういう具合に結び付くのか、俺に説明して欲しいんだが…?



 その言い方ではサッパリ分からん、とハーレイは怪訝そうな顔。「何故、鼻歌だ?」と。
「ごめん…。ぼくの頭の中では、話がとっくに出来上がっていて…」
 通じているような気になってたけど、鼻歌の話はしていなかったよ。車の話をしていただけで。
 鼻歌と車はセットなんだよ、今のハーレイが車が好きなら、鼻歌も歌っていそうだから…。
 楽しく運転している時には、ハンドルを握りながら鼻歌。楽しいとそういう気分になるでしょ?
 でも、シャングリラでは、鼻歌、歌っていなかったから…。
 楽しかったって言ってた頃にしたって、ハーレイ、歌っていなかったじゃない。
 前のぼくは一度も聞いていないよ、と思い浮かべたブリッジの光景。シャングリラの舵を握っていたハーレイは、鼻歌を歌いはしなかった。いつも背筋をしゃんと伸ばして立っていただけで。
「おいおいおい…。車を運転するならともかく、シャングリラの方で鼻歌だってか?」
 あのシャングリラの舵を握って、俺が鼻歌を歌うのか?
 お前、よくよく考えてみたか、前の俺の立場というヤツを。シャングリラでの俺は、キャプテンなんだぞ。車の運転手じゃなくて。…主任操舵士よりも上の立場で、俺よりも上はいなかった。
 前のお前は俺よりも上のソルジャーだったが、船の航行には無関係だし…。
 つまりは俺がトップの立場だ、シャングリラって船に関しては。キャプテンであった以上はな。
 そのキャプテンがだ、鼻歌なんかを歌ってられると思うのか?
 どんなに気分がいいにしたって…、と呆れたような口調のハーレイ。「鼻歌だぞ?」と。
「…そうかもね…」
 ブリッジ以外の所だったら、鼻歌でもいいんだろうけれど…。歌ってることもあったけど…。
 そうじゃない時は、鼻歌だったらマズイかも…。シャングリラの舵を握っている時なんかは。
 楽しい気分になっていたって、キャプテンが鼻歌を歌っていたなら、エラが怒っていたかもね。もっと真面目にやって下さい、って凄い勢いで。
 見た目に真面目とは言えないし…、と思った鼻歌。今のハーレイなら自分の車の運転なのだし、交通ルールを守りさえすれば、何をするのもハーレイの自由。鼻歌交じりの運転だって。
 けれども、前のハーレイは違う。白いシャングリラを預かるキャプテン、船の仲間を纏め上げる立場。皆の模範になるべき存在、ブリッジで仕事をしている時は。
 鼻歌交じりのキャプテン・ハーレイなど、それは如何にも不真面目な感じ。
 白いシャングリラはミュウの箱舟で、SD体制の枠からはみ出た海賊船ではないのだから。



 確かに駄目だ、と分かった事情。前のハーレイが鼻歌を歌っていなかった理由。
「…キャプテンが鼻歌を歌いながら操舵してたら、海賊船みたいになっちゃうものね…」
 楽しそうだけど、見た目に不真面目。どんなにきちんと操舵してても、それが台無し。遊んでるように見えちゃうから…。シャングリラっていう船を動かす遊び。
 きっとホントにエラが怒るよ、と肩を竦めた。「キャプテン!」と叱る声が耳に届いたようで。
「海賊船なあ…。前の俺たちが生きてた時代も、海賊ってヤツはいたんだが…」
 マザー・システムなんぞに従えるか、と宇宙で好きに生きてた連中。略奪なんかもやらかして。
 略奪だったら白い鯨になる前の船じゃお馴染みだったし、マザー・システムには従えない、ってトコも同じだな、前の俺たちと海賊とは。
 そういう意味ではシャングリラも似たような立場だったが、こっちは未来がかかってたしな?
 ミュウの未来を手に入れなければ駄目な俺たちと、その場限りで面白おかしく生きれば良かった海賊とは違う。同じようにはみ出し者の船でも、シャングリラは海賊船にはなれん。
 そのシャングリラで旅をしていた以上は、鼻歌交じりの気楽な旅とはいかないさ。今の俺なら、鼻歌交じりにドライブするのも自由だがな。
 キャプテンの俺だとそうはいかない、と苦笑しているハーレイ。キャプテンが不真面目でもいい船だったら、そいつはただの海賊船だ、と。
「そうだよね…。ハーレイが真面目にやっていたって、鼻歌を聞かれちゃ駄目だから…」
 歌えないよね、あのシャングリラのブリッジだと。楽しい気持ちで船で暮らした頃だって。
 …ぼくとハーレイ、二人きりなら鼻歌だって歌ってくれた?
 他に仲間は乗っていなくて、二人きりで地球を目指してたなら。…あのシャングリラで。
「もちろんだ。鼻歌だって飛び出すだろうな、お前と二人きりの船なら」
 それに地球まで行くんだったら、毎日が鼻歌気分だろう。もう楽しくて仕方がなくて。
 船が先へと進んだ分だけ、俺たちは地球に近付くんだから…。今日は昨日よりも地球が近くて、明日になったらもっと近付く。船が進めば進むほどにな。
 きっと気分が良かっただろう、とハーレイも頷く夢の船旅。白いシャングリラに乗っているのは二人だけ。前のハーレイと自分の二人で、目指してゆく先は青く輝く地球。そういう旅路。
 どんなに心が躍っただろうか、鼻歌交じりの一日が過ぎてゆく度に。
 白いシャングリラが飛んだ分だけ、青い地球が近くなるのだから。夢の星まで、一日分ずつ。



 そうは思っても、所詮は夢。白いシャングリラを二人きりで作れるわけがない。あんなに巨大な白い鯨を、人類軍の船より優れた機能を幾つも搭載していた船を。
 その上、青い地球も無かった。二人きりで地球に辿り着いても、夢が無残に砕け散るだけ。青い水の星は何処にも存在しなくて、死の星があっただけなのだから。
「…ハーレイと二人きりの旅なら、本当に素敵だっただろうけど…。幸せだったと思うけど…」
 だけど夢だね、ぼくとハーレイだけの力じゃ、白いシャングリラは作れないから。
 それに地球まで辿り着けても、青い星は何処にも無かったから…。
 前のぼくたちの本当の旅は、他の仲間が大勢一緒で、ハーレイの仕事も沢山あって…。
 キャプテンの責任はうんと重くて、鼻歌だって歌えやしない旅。どんなに気分がいい時だって、シャングリラの舵を握っているなら、鼻歌は無理…。
「そういうことだ。今の俺のようにはいかなかったな、前の俺だと」
 好きな船でも、俺の持ち物ではなかったから…。俺はあの船を預かっていただけのことだから。
 持ち主は船に乗ってた仲間で、みんなの物だった船がシャングリラだ。俺の車とは違うってな。今の俺なら、俺の車を好きなようにしていいんだが…。何処へ行くにも、どう使うのも。
 真面目だろうが、不真面目だろうが…、とハーレイが笑っている通り。今のハーレイが走らせる車は、ハーレイが持っている車。白い車を選ぶ代わりに、濃い緑色の車を買って。
「ハーレイ、今の車だと鼻歌、歌っているの?」
 今の車なら、怒る人は誰もいないしね…。エラが文句を言うことも無いし、ハーレイは自由。
 楽しい時には歌ったりもするの、前のハーレイがブリッジで歌えなかった鼻歌を…?
「歌ってる時もあったりするな。それこそ俺の知らない内に」
 前の俺なら意識して気分を引き締めていたが、今の俺だと、その必要は無いわけだから…。
 誰にも文句を言われやしないし、何よりも俺のための車だ。他の誰かの持ち物じゃなくて。
 そいつを楽しく運転してれば、ついつい歌が飛び出したりもするもんだ。鼻歌はもちろん、声に出してる時だってある。いわゆる本物の歌ってヤツを。
 歌詞がついてる歌のことだな、とハーレイは笑顔。「お前だって歌う日、あるだろう?」と。
 車を運転する時に限らず、気分が良ければ歌いたい気分になるものが歌。鼻歌も、色々な歌詞がついた本物の歌だって。
 言われてみれば、今朝も歌ったかもしれない。部屋の掃除をしていた間に、御機嫌になって。



 歌ったかもね、と思う歌。「ハーレイの車が見られるよ」と心が弾んでいたのだから。雨の日は車で来てくれるのだし、部屋の窓からそれを見ようと。
「歌…。今朝のぼくも何か歌っていたかも…。いい気分で掃除をしていたから」
 ハーレイの方は今日はどうなの、車の中で歌ってた…?
 今の車なら歌うんでしょ、と興味津々。そういうハーレイを思い浮かべて、車が来るのを待っていた自分。きっと鼻歌交じりだろうと、今のハーレイが運転している車の到着を。
「歌いながらは来ていないんだが…。もしかしたら鼻歌、出ていたかもな」
 もうすぐお前に会えるんだから、と上機嫌で運転していたんだし…。自分でも気付かない内に。
 前の俺ならエラに叱られる所だが…、とハーレイが軽く広げた両手。「不真面目だしな?」と。白いシャングリラでは鼻歌は無理だと、今なら歌い放題だが、と。
「それ、聞きたいな…。ハーレイが御機嫌で歌う鼻歌」
 前のハーレイは操舵の時には歌っていないし、どんな感じか知りたいんだけど…。運転しながら歌う鼻歌。いい気分の時に飛び出すヤツを。
 だけど、此処だと無理だよね…。ぼくのリクエストで鼻歌を歌って貰うのは。
「歌う気は無い、と言いはしないが、お前が聞きたいヤツとは別のになるだろう。俺の鼻歌」
 お前の頼みで歌うとなったら、余所行きの歌になっちまうから。
 同じ鼻歌でも、めかしこんだ歌って所だな。お前にいい所を見せないと、と構えちまうだろ?
 そんな鼻歌しか歌ってやれん、と遠回しに断られてしまった鼻歌。「此処じゃ駄目だ」と。
「うーん…。余所行きの鼻歌になっちゃうわけ?」
 車の中で歌っていたなら、普段着の鼻歌なんだろうけど…。此処で歌ったら余所行きの鼻歌。
 ぼくがいたって駄目だって言うの、ハーレイの機嫌はいい筈だよね?
 ぼくに会うために車を運転してたら、いい気分になって鼻歌なんだし…。いい気分になる理由は恋人のぼくでしょ、ぼくがいるだけじゃ鼻歌は無理…?
 この顔で御機嫌になれないの、と指差してみた自分の顔。「前のぼくよりチビだけどね」と。
 さっきハーレイと語った夢の船旅、前の自分と二人きりで地球を目指す旅。そういう旅に二人で出たなら、前のハーレイも鼻歌を歌ったらしいから。白いシャングリラの舵を握って。
 だから自分の顔さえあれば、と少しばかり年が足りない顔を示してみせた。今のハーレイでも、この顔が好きな筈だから。きっと御機嫌になれる顔だと思ったから。



 この顔のぼくに聞かせて欲しいんだけど、と強請った鼻歌。今のハーレイが車で歌う鼻歌。
 御機嫌になれば飛び出す歌なら、恋人がいれば出てくるだろうと考えたのに…。
「さっきも言った筈だがな? 此処で歌えば余所行きの鼻歌になっちまう、と」
 俺にわざわざ頼まなくても、いつか聞ける日、来る筈だぞ。俺とドライブに行くんだろう…?
 本物のシャングリラは無くなっちまったが、今度は俺たちのシャングリラで。…俺の車で。
 俺たちだけのためのシャングリラだぞ、と念を押された。「他のヤツらの物じゃないんだ」と。二人だけのためにある車なのだし、誰にも遠慮は要らないから、と。…運転中の鼻歌だって。
「それまでは無理?」
 頼んでも歌ってくれないって言うの、今のハーレイの御機嫌な鼻歌…。普段着の方の。
 余所行きになってる鼻歌じゃなくて、いつもハーレイが歌っているヤツ…。
 聞きたいんだけどな、と上目遣いに見上げたけれども、「欲張るなよ?」と返された。御機嫌な鼻歌を歌う代わりに、「フン」と鼻まで鳴らされて。
「チビのお前も確かに好きだが、こうして会ってしまうとなあ…。チビの姿が引き立っちまう」
 会う前だったら、「俺のブルーに会いに行くんだ」と胸がワクワクしてるんだがな。今のお前はチビだってことが分かっていたって、ついつい前のお前みたいに思ったりもして。
 だからだ、今のお前の顔だと、そう御機嫌にはなれないかもなあ、チビだから。…諦めておけ。
 その代わり、チビのお前がいつか大きくなったなら…。前のお前と同じ姿に育ったら。
 今日みたいに雨が降っていたって、お前と一緒に出掛けられるぞ。俺の車があるんだから。
 歩くには少し遠い場所でも、車なら濡れずに行けるだろうが。
 ついでに俺の鼻歌もついてくるってな、と髪をクシャリと撫でられた。その日が来るまで、今は我慢をすることだ、と。
「…ハーレイの鼻歌、聞きたいのに…。前のハーレイの鼻歌は聞けなかったから」
 もちろん鼻歌は聞いていたけど、ブリッジでは歌っていなかったから…。運転中に歌っていたらどんな感じか、前のぼくだって知らないんだよ…!
 今のハーレイの鼻歌でお願い、と頼んだけれども、ハーレイは「駄目だ」の一点張り。その歌は未来に取っておくべきだと、「大きくなった時のお楽しみだ」と。
 いつかドライブに出掛けたならば、鼻歌はきっと飛び出すから。
 ハンドルを握っているハーレイはきっと、御機嫌で鼻歌を歌うだろうから。雨の日だって。



 その雨だがな…、とハーレイは窓の外を見た。「今も相変わらず降ってるな」と。
「此処が本物のシャングリラだったら、船がデカかったもんだから…」
 傘を差さずに外に出たって、うんと遠くまで濡れずに行けたぞ。何処まで行っても天井だから。
 船が丸ごとデッカイ傘だ、という冗談。
 シャングリラの大きさはともかくとして、あの船に雨は降らなかったのに。白い船体を叩く雨の粒は、中に降り注ぎはしなかったのに。
 とはいえ、確かに巨大だった船。あの中で雨が降っていたなら、どうなったろう…?
「シャングリラの端から端までだったら、凄い距離だよ?」
 傘の代わりの天井が無くて、ザアザア雨が降っていたなら、雨の日、とっても大変だね。端まで歩いて行こうとしたら、靴とかが濡れてしまいそう…。
 前のぼくのソルジャーのブーツだったら、雨でも大丈夫だけれど。
 他のみんなの靴だと水が入ったかな…、と想像してみる。シャングリラの端まで歩く間に、雨に降られてビショ濡れになっている仲間たちを。シールドで防がなかったらビショ濡れ、と。
「そうだろう? とびきりデカい船だったんだよなあ、シャングリラは」
 俺の車が何台並べられるやら…。あの船の中に。
 青の間だけでも何台も置けるぞ、スロープに順に停めていったら。…なんてデカさだ。そういう船に作ったとはいえ、デカすぎだよな。あのシャングリラは。
「シャングリラ、小さくなっちゃったよね…」
 今のぼくたちのシャングリラは、ハーレイが乗ってる車だから…。青の間に幾つも置けるヤツ。
 ホントのホントにうんと小さくて、同じシャングリラでもまるで違うよ。
 でも、そのシャングリラに乗りたいけれど…、と将来の夢を口にした。小さいシャングリラでもかまわないから、ハーレイと二人で乗りたいのだ、と。
 そうしたら…。
「小さくなったのはシャングリラだけじゃないってな」
 俺たちも小さくなっただろうが、前よりもずっと。…シャングリラが小さくなったみたいに。
 今の俺たちも小さくなった、と言われてキョトンと見開いた瞳。
「えっ、ハーレイは小さくないでしょ?」
 ぼくは小さいけど、前よりもチビになっちゃったけど…。ハーレイは変わっていないってば。



 前とそっくり同じじゃない、と恋人の顔をまじまじと見た。前のハーレイと同じ顔だし、背丈も前と変わらない筈。シャングリラの誰よりも頑丈だった体格だって。
「外見は変わっちゃいないんだが…。中身だ、いわゆる人間ってヤツ。人物とも言うな」
 今の俺はただの古典の教師で、英雄のキャプテン・ハーレイじゃない。似てるってだけで。前の俺の記憶を持っていたって、俺に出来ることはたかが知れてる。
 だから小さくなったと言うんだ、今のお前も同じだろうが。…それとも前と変わらないのか?
 今のお前も前と同じに振る舞えるのか、と言われたら無理。前の自分のようにはいかない。
「無理だよ、前のぼくみたいなのは…!」
 今の平和な時代でなければ、ぼくなんか直ぐに殺されちゃう…。うんと弱虫で泣き虫だから。
 大きくなっても強くなれなくて、ハーレイのお嫁さんになれるくらいで…。
 前のぼくのようには生きられないよ、と悲鳴を上げた。「あんなのは無理」と。
「そうだろ、だから俺たちには小さなシャングリラで丁度いいんだ」
 本物の白い鯨の中なら、幾つ置けるか想像もつかない、今の俺が乗ってるあの車で。
 青の間だけでも何台も置けてしまう小さな車なんだが、俺たちにピッタリのサイズじゃないか。
 俺たちが小さくなっちまったなら、シャングリラも小さくならないとな。
 おまけに二人きりで乗って行くとなったら…、とハーレイがパチンと瞑った片目。小さい車でも似合いの船だと、「船ではなくて車なんだがな」と。
「本当だ…! ぼくたちにピッタリのシャングリラだね。今のハーレイの車」
 早く乗りたいな、シャングリラに…。今のぼくたちが二人きりで乗れる、うんと小さなサイズになったシャングリラ。
 きっと楽しいだろうから…。ハーレイも今の車がとっても好きらしいから。



 早く乗せてね、と頼んだけれども、こればっかりは神様次第。背が伸びないと乗せて貰えない。
 そうは言っても、その日は必ずやって来るから、今は楽しみに待つことにしよう。
 小さくなったシャングリラが似合いの今の自分たち。
 いつかハーレイと二人で乗ろう。今のハーレイが好きなシャングリラに、ハーレイの愛車に。
 ハーレイの御機嫌な鼻歌を聞いて、時には二人で声を合わせて歌ったりもして。
 気分が良ければ、ハーレイも歌うらしいから。歌詞のあるちゃんとした歌を。
 天気のいい日は窓だって開けて、歌いながら何処までも走ってゆこう。この地球の上を。
 小さくなったシャングリラで。今の自分たちに似合いのサイズの、同じ名前の車に乗って…。



             車と鼻歌・了


※キャプテンだった頃のハーレイには、持ち場で歌えなかった鼻歌。どんなに御機嫌でも。
 けれど今では、車の運転中に鼻歌。それを聞きたいブルーですけど、まだまだ先になりそう。
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