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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

ジョミーの気持ち
(えっと…)
 今日のおやつ、とブルーが頬張っていたパウンドケーキ。学校から帰って、ダイニングで。
 母の手作り、オレンジがたっぷり。ケーキの上にも、生地の中にも。口の中に広がるオレンジの味。爽やかな酸味と、それに甘さと。
 美味しいよね、と食べている間に気付いたこと。パウンドケーキが好きな恋人。
(ハーレイの好きなパウンドケーキは…)
 やっぱり母の手作りだけれど、オレンジとは違ってプレーンなもの。本当に基本の材料だけの。
 小麦粉と砂糖と、バターと卵。どれも一ポンドずつ使って焼くから「パウンド」ケーキ。それがハーレイの大好物で、母が作るのが大切な所。
 どうしたわけだか、母が焼いたら「おふくろの味」になるらしい。隣町で暮らすハーレイの母が作るパウンドケーキと、そっくり同じ味わいに。
 同じ材料とレシピで焼いても、ハーレイには再現できない味。何度焼いても、頑張ってみても。
 その味のケーキを作れるのが母で、すっかり魅せられているハーレイ。「美味いんだよな」と。
(オレンジの味のパウンドケーキも、好きみたいだけど…)
 そちらの方は、おふくろの味だと聞いてはいない。「お母さんのケーキは美味いな」としか。
 ハーレイの「おふくろの味」になるのは、プレーンなパウンドケーキだけ。小麦粉と砂糖、卵とバターで焼き上げたシンプルなもの。
(オレンジが少し入っただけでも、味が変わって来ちゃうから…)
 同じパウンドケーキにしたって、ハーレイの「おふくろの味」にはなれない。美味しいケーキになれるだけ。
 それを思うと、お菓子というのは面白い。ほんの少しの材料だけで、違う味わいになるケーキ。
 しかもプレーンなパウンドケーキを焼いてみたって、作り手で味が変わるだなんて。
(ぼくもパウンドケーキ、上手く焼けるようになりますように…)
 それが自分の未来の夢。
 今の自分はチビの子供で、料理は調理実習くらい。母と一緒にお菓子作りもしていない。
 だから知らない、母のパウンドケーキのレシピ。作る所をしっかり見学したことも無いし、まだ分からないケーキの秘密。
 どうすれば母と同じに焼けるか、ハーレイが好きな「おふくろの味」に出来上がるのか。



 前にハーレイから聞いたこと。「作り手の癖かもしれないな」と。
 パウンドケーキの材料を同じに計っていたって、レシピが同じだったって…。
(作る人の癖が出るんだろう、って…)
 材料を混ぜてゆく時だとか、混ぜ合わせる時間やタイミングなどや。ハーレイの母が持っている癖と、母の癖とが同じなら…。
(おんなじ味のパウンドケーキになるものね?)
 いつかはそれをマスターしたい。母に習って、レシピもきちんと教わって。
 今は「教えて」と言えないけれども、ハーレイとの結婚が決まった後なら、もう堂々と頼んでもいい。「ハーレイはこれが好きなんだから」と、「ママの作り方のコツを教えて」と。
 そうして頼んで、修業を始めるパウンドケーキ。ハーレイが好きなプレーンなもの。おふくろの味と同じケーキを作れるようになったなら…。
 次は他の味のパウンドケーキにチャレンジ、そちらの方も上手く出来たら褒めて貰えるだろう。「この味のケーキも美味いじゃないか」と、「おふくろの味にも負けていないぞ」と。
(ぼくが作るケーキの味はこれ、っていうのが出来たら嬉しいよね…)
 今日のようなオレンジ風味でもいいし、バナナやナッツを入れてもいいし、チョコレートでも。
 プレーンはハーレイの「おふくろの味」が最高だから、それ以外の味のパウンドケーキ。食べたハーレイが「ブルーのだな」と思ってくれれば、きっと幸せ。
 何処かで同じ味のケーキを口にした時に。「こいつはブルーのケーキじゃないか」と。
 それを食べたら、家に帰って話して欲しい。「今日はお前のと同じケーキを食ったんだぞ」と。楽しそうな顔で、「お前が焼いて持って来たのかと思っちまった」という報告。
(ママのケーキで、そう言ってたもんね…)
 あまりにも良く似ていたらしくて、「おふくろがコッソリ持って来たのかと思ったぞ」と笑ったハーレイ。そんなことなど有り得ないのに、そう思うくらいに似ていた味。
 それと同じに、「ブルーの味」のパウンドケーキを作れたらいい。
 ハーレイのお気に入りのケーキで、自分にしか焼けないパウンドケーキ。料理上手なハーレイが「たまには俺も焼いてみるかな」と挑戦したって、同じ味にはならないケーキ。
 「どうなってるんだ?」とレシピを確かめてみても、ハーレイが何度頑張ってみても。
 作り手の癖が出てくるケーキは、きっと出来上がりが違うから。同じレシピで焼き上げたって。



(ふふっ…)
 そんなケーキを焼ける日が来たら素敵だよね、と戻った二階の自分の部屋。
 勉強机の前に座って、未来への夢を膨らませる。「ブルーの味」は何のケーキになるのか、と。プレーンなパウンドケーキだったら「おふくろの味」で、母の味。
 違う風味のパウンドケーキが「ブルーの味」になるのだけれども、どの味だろうと。
(…オレンジとか?)
 直ぐに浮かんだのが、さっき食べたばかりのオレンジ風味。生地にもオレンジ、ケーキの上にも薄くスライスしたオレンジを幾つも並べて焼き上げたもの。
 あれもいいかな、と考えたけれど、オレンジの個性で変わるだろうか?
 たまに食料品店に行くと、いろんな種類のオレンジが並ぶ。母が買って来るオレンジの種類も、その日の気分で変わるようだし…。
(うーん…)
 酸味の強いオレンジだとか、果肉の色が赤いものとか。使ったオレンジの種類次第で、ケーキの風味も変わりそう。生地の中にも混ぜ込むのだから。
(このオレンジだ、って買って来たって…)
 同じ味とは限らないオレンジ、幾つも買ったら酸っぱいものやら、甘いものやら。自然が作ったオレンジの個性、同じ枝に実った兄弟の実でも。
(選んだ実で味が変わっちゃいそう…)
 オレンジの味は色々だしね、と考えていたら掠めた思い。「オレンジだった」と。
 夏ミカンに少し似ているオレンジ。皮の色が濃いのがオレンジの方で、隣同士に並んでいたら、きっと分かると思うけれども…。
(…オレンジの木…)
 沢山の実をつけるオレンジは、白いシャングリラにも植えていた。
 花の季節にはいい香りがするから、農場だけでなくて公園にも。船の中で作り出した四季でも、初夏に幾つも咲いていた花。それが終われば青い実がつく。
(最初は小さな緑色の実で…)
 やがて色づき、食べ頃になったら係の者たちが収穫した。子供たちも手伝いに出掛けたりして、手の届く場所の実を手を一杯に伸ばして取って。



 あって良かった、と前の自分が思ったオレンジ。果樹は幾つもあったけれども、その中でも。
 白い鯨が出来た頃には、他の果実と同じ認識。「今年も沢山実っている」と見ていた程度だったオレンジ。けれど事情はガラリと変わった。前の自分の命の終わりが見えて来た頃に。
(オレンジスカッシュ…)
 レモンではなくて、オレンジを使った酸っぱい飲み物。それが好きだったのがジョミー。
 前の自分が次のソルジャーに選んだ少年、成人検査を妨害して。…リオに命じて、シャングリラまで連れて来させて。
 何かと逆らってばかりだった彼は、船に馴染もうとしなかった。「ぼくはミュウじゃない」と、頑なに。ソルジャー候補になった後には、「この船にもあるんだ」と笑顔になった好きな飲み物。
 オレンジスカッシュが大好きだったと、「ママが作ってくれてたんだよ」と。
(…オレンジスカッシュは、オレンジを搾るだけだし…)
 搾った果汁にソーダ水を加えて、後は好みでレモンや砂糖。誰が作っても、それほど味に違いは出ないことだろう。甘みが強いか、酸っぱいかといった僅かな違いがあるだけで。
 ジョミーの母が作っていたのも、オレンジの個性で味が変わったに違いない。「酸っぱいよ」と砂糖を加えた日だとか、「もっとソーダ!」と足していた日とか。
 だからシャングリラのオレンジスカッシュも、ジョミーには懐かしい味だったろう。母の味とは違うものだと思いはしないで、「家でも飲んだ」と食堂で見たら注文して。
 けれど…。
(ジョミーにだって、お母さんの味…)
 きっとあっただろう、今のハーレイに「おふくろの味」があるように。
 母が焼くプレーンなパウンドケーキがとてもお気に入りで、「俺のおふくろのと同じ味だ」と、いつも喜んでいるように。
 それと同じに、ジョミーにも何かあったのかもしれない。「おふくろの味」というものが。
(前のぼくたちは、記憶をすっかり失くしてて…)
 成人検査と、繰り返された過酷な人体実験が奪い去った子供時代の記憶。何もかもを。
 養父母がいたことも、生まれ育った家があったことも、全て忘れた前の自分。ハーレイたちも。
 何も覚えていなかったのだし、「おふくろの味」は存在しない。母親の記憶が無いのでは。
 アルテメシアで船に迎えた子供たちからも、特に聞いてはいないけれども…。



(ジョミーにもあった…?)
 舌が覚えていた「おふくろの味」。ジョミーを育てた母が作った料理の味。
 オレンジスカッシュを懐かしんだジョミーは、母の料理やお菓子の記憶を失くさないまま。全て心に残したままで、白いシャングリラに連れて来られた。成人検査は妨害されたのだから。
(小さい間に船に来た子は、おふくろの味って思うくらいには…)
 味覚が完成されていないし、見た目が同じ料理が出たなら、それだけで満足したのだろう。この船でも家と同じ料理が食べられる、と。味の違いには気も留めないで。
(だけど、ジョミーは…)
 目覚めの日の朝まで養父母と過ごして、朝食も一緒に食べて別れた。その上、記憶を消されてはいない。あの朝に食べた最後の食事も、鮮やかに覚えていたのだろう。
(おふくろの味も、きっと幾つもあったんだよね…?)
 今のハーレイだとパウンドケーキがそうだけれども、ほんの一例。他にも「おふくろの味」だと思う料理はある筈、食べた途端に「これだ!」と舌に蘇る記憶。
 十四年間を養父母と暮らしたジョミーも、同じだったに違いない。シャングリラで懐かしく思う料理を口に入れても、「ママの味だ」と思えずに過ごしていただけで。
(同じ味の料理があったんだったら、ぼくやリオには…)
 話しただろうと思うから。「ぼくのママのと同じ味がしたよ」と、「あれが大好き!」と。
 次から食堂で見かけた時には、迷わずに注文する料理。「ママのを食べているみたいだよ」と、最高の笑顔で頬張って。
 そういう話を知らないからには、無かったらしい「おふくろの味」。白いシャングリラの食堂に行っても、懐かしいものはオレンジスカッシュだけ。オレンジを搾ってソーダを加えただけの。
(おふくろの味の料理は、何処にも無くって…)
 食べたいと思っても違った味。ジョミーの母のとは違う味付け、見た目は同じ料理でも。
 これを家でも食べていたのだ、と選んでトレイに載せてみたって、口に運んだら覚える違和感。一口目で「違う」と舌が訴えるか、食べてゆく間に気付くのか。
(今のぼくだって、ママのと違うお料理だったら…)
 食べる内に「違う」と気が付く筈。直ぐにはそうだと分からなくても、「いつものじゃない」と感じ取って。母の料理と重ねてみたなら、何処かが違う味なのだから。



 幸いなことに、今の自分は「母の料理」を食べるのが基本。もちろん、ケーキなどのお菓子も。
 お蔭で他のを口にしたって、特に何とも思いはしない。学校の食堂で食べるランチも、外出した時に両親と入る、レストランで出てくる料理でも。
(学校のランチも、レストランのも、其処で作った味ってだけで…)
 美味しかったらそれでいい。母の料理と違っていたって、その料理はそれで満足の味。こういう味になってるんだ、とスプーンやフォークで食べた後には「美味しかった」と「御馳走様」で。
 母の料理は家でいつでも食べられるのだし、こだわる理由は何も無いから。家とは違った味わいだって、料理はちゃんと美味しいのだから。
(…ママの料理に慣れていたって、違う味でも美味しいし…)
 味が違うと考えもせずに、食べているのが食堂のランチ。昼休みにはランチ仲間と一緒に注文、賑やかなお喋りの方に夢中で。「ママの味じゃない」と気付きもせずに。
 けれども、母の作る料理を二度と食べられないのなら。…食べたくても家に帰れないなら、今の自分も探すだろう。「ママのと同じ味のがいいよ」と、「同じ味がするお店は無いの?」と。
(ジョミーは、そうなっちゃったんだ…)
 成人検査でミュウと判断され、帰れなくなってしまった家。二度と会えなくなった両親。
 もっとも、SD体制の時代だったら、ミュウでなくてもそうなのだけれど。目覚めの日を迎えた子供を待つのは記憶の消去で、もう戻れない養父母の家。「おふくろの味」は食べられない。
(それでも、機械が忘れさせるから…)
 教育ステーションに向かう子たちは、おふくろの味を覚えてはいない。里心など持たないように記憶を処理され、過去を振り返りはしないから。
 普通の人生を送っていたなら、何の問題も無かったジョミー。SD体制の時代の子に相応しく、養父母の記憶は薄れてしまって。
 ところがジョミーは、記憶を一切失くすことなくシャングリラに来た。養父母のことも、育った家も、くっきりと心に刻まれたままで。
(おふくろの味だって、忘れてなくて…)
 「オレンジスカッシュがある」と喜んだほどだし、他の料理や菓子の記憶も消えてはいない。
 だとしたら、どんなに寂しかったろうか、あの船で。
 母の料理と同じものだ、とトレイに載せても、「おふくろの味」などしなかった船で。



 ようやく気付いたジョミーの気持ち。「家に帰りたい」と前の自分に訴えたジョミー。
(前のぼく、ジョミーに恨まれてた…?)
 白いシャングリラに連れて来たことを、二度と両親には会えないようにしたことを。成人検査が何であろうと、ジョミーにとっては些細なこと。結果が全て。
(記憶を消されたら、どうなっちゃうかは…)
 具体的には知らないのだから、漠然とした恐怖があっただけ。「記憶を消されそうになった」と覚えていたって、消された結果は分からない。どの程度まで記憶を失くすか、どうなるのかは。
(ジョミーのママが作った料理の味とかも…)
 忘れてしまう結果になっていたなど、あの時のジョミーが知るわけがない。もっと後になって、ソルジャー候補としての勉強が始まるまでは。…人類の社会の本当の仕組みを教わるまでは。
 そんな調子だから、シャングリラに連れて来られたジョミーは、今の幸せな自分と違って…。
(お母さんたちがいる家には帰れなくって、おふくろの味も食べられなくて…)
 それきりになってしまったのだった。
 育ててくれた養父母の記憶や、育った家や食べた料理の鮮明な記憶を抱いたままで。
 今の自分がそうであるように、十四歳の誕生日を迎えた後にも、何一つ記憶を失くすことなく。
 覚えているのに帰れない家、会えない両親。食べることが出来ない「おふくろの味」。どうして全てを失ったのかと、さぞ悔しかったことだろう。悲しくて辛くて、どうしようもなくて。
(…前のぼくのせいだ、って思うよね…)
 そういう立場に追い込まれたのは、成人検査を妨害されたからなのだ、と。邪魔をしたミュウの長が悪いと、「ぼくはミュウとは違うのに」と。
 ジョミーにとっては余計なお世話で、パスしたかった成人検査。どういう結果をもたらす検査か知らなかったら、単なる通過儀礼だから。
(前のぼくが邪魔をしたからだ、って…)
 最初は確かに恨まれていた。弱り果てた身体で無理をしてまで、ジョミーを救い出したのに。
 残り少ない寿命を自ら削ると承知で、テラズ・ナンバー・ファイブと対峙し、成人検査を無事に中断させたのに。
 けれど、ジョミーは怒っただけ。「ぼくの未来を滅茶苦茶にした」と。
 ミュウの船になど来たくなかったと、「何もかもソルジャー・ブルーのせいだ」と。



 白いシャングリラに迎えられた後も、船に馴染もうとしなかったジョミー。何日経っても、ただ怒るだけで。…やり場のない怒りを、誰彼かまわずぶつけるだけで。
(キムとも喧嘩していたし…)
 青の間に初めてやって来た時も、「家に帰せ」と怒鳴られたほど。ミュウとしての自覚はまるで持たずに、「家に帰れば元通りの日々が戻ってくる」と信じたままで。
 成人検査を終えた子供は、養父母の許にはいられないのに。ミュウでなくても記憶を消されて、教育ステーションへと旅立つのに。
 ジョミーが通っていた学校でも、「目覚めの日」の後に歩む進路を教えただろうに、何もかもを自分に都合よく解釈していたジョミー。「家に帰れば元の暮らしが始まる」と。
 そんなことなど有り得ないのが人類の社会。ジョミーが家に帰ってみたって、養父母の家からは消された痕跡。「ジョミー」という子が、その家にいたという証。
 ジョミーの持ち物も、ジョミーの写真も、ユニバーサルの職員たちが処分して。成人検査をパスしていった子たちと同じに、「そういう子供がいた」ことを示す一切を。
(家に帰れば、それが分かって目が覚めるだろう、って…)
 そう考えて、ジョミーを家に帰したけれど。リオをつけて帰してやったけれども、前の自分は、あの時のジョミーの「帰りたい気持ち」まで汲み取ったろうか?
 どうして家に帰りたがるのか、それほどまでに家を恋しがるのか。
 ただ帰りたいだけなのだろう、と「目を覚まさせる」ために帰した自分。帰れる家など、もはや何処にも無いと分かれば戻るだろう、と。
 ジョミーが帰っていった家には、何も残っていないと承知していたから。ユニバーサルから派遣された職員、彼らが作業を終えた後。ジョミーの痕跡が残る全てを処分して。
(お母さんたちは、作業の間は子育てを終えた特別休暇で…)
 家を留守にして出掛けていたから、本当に「空っぽ」になった家。それを見たなら、ジョミーも諦めるしか道はない筈。「自分の居場所は此処ではない」と、「家は何処にも無いんだから」と。
(それが分かれば、家に帰りたいと思う気持ちも…)
 ジョミーの中から消える筈だ、と考えたのが前の自分。そうするためにジョミーを家に帰した。
 けれど分かっていたのだろうか、ジョミーの気持ちを本当の意味で…?
 両親を、家を恋しがった心を。「帰りたい」と願った、ジョミーの強い思いのことを…?



 前の自分には無かった記憶。子供時代の記憶を全て失くして、養父母も家も、欠片さえも残さず頭の中から消えた後。成人検査よりも前の記憶は、何も無いまま。
 子供には養父母がつくということ、十四歳の誕生日までは養父母の家で育てられること。知識は持っていたのだけれども、無かった実感。…両親とは何か、家とはどういう場所なのか。
 アルテメシアの雲海の中に潜む前から、データベースや本で知ってはいた。両親のことや、家というもの。子供は其処で育ってゆくと。
 雲海の星に隠れ住んでからは、もっと詳しい情報を得た。親子連れで遊びに出掛ける姿や、家がある場所や。…知ったつもりになっていた「家族」。養父母と子供が共に暮らす家。
(十四歳になるまで、一緒に暮らして…)
 後は目覚めの日が来て別れるだけ、と思っていたのが養父母と子供。親に懐く子も、前の自分は知っていたのに…。
(…本当は分かっていなかったかも…)
 今の自分なら分かるけれども、前の自分には掴めなかった感情。養父母と引き離される悲しみ、それがどれほどのものなのか。…幼い子供でも、親を慕って泣いていたりもしたのだから…。
(もっと大きくなってたジョミーは、お母さんたちのこと…)
 忘れ難くて、帰りたかったことだろう。養父母と暮らしていた家へと。
 成人検査で記憶を消されていない以上は、日が経つごとに辛くなるだけ。家に帰りたい気持ちが強くなってゆくだけ。
(もしも、今のぼくが…)
 ジョミーがそうなってしまったように、見知らぬ誰かに攫われたなら。
 「今日から此処で暮らすように」と、まるで知らない遠い所に連れてゆかれて、閉じ込められてしまったならば。
(ハーレイのことは抜きにしたって、パパもママもいなくて…)
 自分の部屋に帰れはしないし、もちろん家にも帰れない。攫われてしまったのだから。
 「家に帰して」と泣き叫んだって、聞いてはくれない悪人たち。善人のように振舞っていても、誰もが悪人。家に帰してくれはしないし、新しい暮らしに馴染むようにと強いるだけ。
(ママのケーキが食べたくっても…)
 違うケーキを差し出される。「これも美味しいケーキだから」と。



 そんなの嫌だ、と思った暮らし。両親と無理やり引き離されて、二度と帰れはしない家。とても耐えられはしない毎日、両親が、家が恋しくて。
 母が作ったのと同じ料理やケーキが出たなら、きっと涙が零れてしまう。食べながらポロポロと零れ落ちる涙。「ママが作ったケーキじゃないよ」と、「ママのはこんな味じゃなかった」と。
(今のぼくだと、そうなっちゃって…)
 同じ境遇に置かれていたのが、シャングリラに連れて来られたジョミー。
 本物の両親とは違ったけれども、親を慕う気持ちは同じだったろう。記憶を消されずに船に来た以上は、攫われたのと変わらない。成人検査のことを抜きにして考えたなら。
(…ジョミーに悪いことをしちゃった…)
 前の自分が「親」の記憶を持ってはいなかったせいで。「家」のことも忘れていたせいで。
 それがどれほど大切なものか、まるで分かっていなかった。帰りたがったジョミーの気持ちさえ逆に利用したほど、酷かった自分。
(ぼくが攫われて、やっとの思いで逃げ出して…)
 懐かしい家に帰り着いたら、全てが消えているなんて。…部屋も両親も、何もかもが全部。
 考えただけで、足元が崩れて落ちてゆきそう。世界がそっくり壊れてしまって、虚無の闇の底へ飲まれてしまうみたいに。
(…ぼくだったら泣いて、泣きじゃくって…)
 自分を攫った悪人たちの所へ戻ろうだなんて、きっと夢にも思いはしない。そうする代わりに、両親を探すことだろう。ふらふらと町を彷徨い歩いて、「パパ、ママ、何処…?」と。
 疲れ果てたら家に戻って、何も無い床で眠るのだろう。「朝になったら、元通りかも」と。
 一晩眠って目を覚ましたなら、消えているかもしれない悪夢。朝の光が恐ろしい夢を払い除け、前の通りの一日が始まる。両親が戻って、朝食の匂いがダイニングの方から漂って来て。
(そうなるよね、って思って、信じて…)
 何と言われても、悪人たちが暮らす場所には戻らない。
 「此処にいたなら殺されますよ」と諫められても、けして縦には振らない首。
 「そんなの嘘だ」と、「パパもママも帰って来るんだから」と。
 二人が戻るまで待っていなきゃ、と言い張る自分が目に浮かぶよう。それが駄目なら、頑張って探しに行くんだから、と。



 やっと分かった、ジョミーの行動。リオを振り回して、ユニバーサルの者たちに捕まった理由。
 あんな状況で、両親を、家を、諦められる筈がない。ようやく家に戻れたからには、元の通りに生きてゆきたいと願うだろう。ミュウの船になど戻ることなく、両親の側で。
(だって、攫われたんだから…。今のぼくと少しも変わらない年で…)
 あの時のジョミーは、目覚めの日に全てを失った。十四歳の誕生日を迎えた日に。
 それを思えば、今の自分の方が半年くらいは年上。誕生日はとうに過ぎた後なのに、ジョミーと同じに振舞いそうな子供。「家に帰して」と泣いて騒いで、帰った後にも諦めないで。
(今のぼくでも、絶対、捕まっちゃうんだよ…)
 リオの言うことを聞きもしないで、ユニバーサルの保安部隊に包囲されて。…前の自分が踏んでいたように、シャングリラに戻ってゆく代わりに。
(帰るわけなんか無いんだから…)
 もっと分かってあげれば良かった。ジョミーがどんな気持ちでいたのか、帰りたいと願い続けていたか。…理解しようにも、前の自分には無理だったけれど。
(子供時代のことは、何も覚えていなかったから…)
 ジョミーの気持ちは分からないものね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ジョミーはぼくを恨んでたかな?」
 とても恨んで憎んでたのかな、前のぼくのこと…。
「はあ? 恨むって…」
 なんでまた、とハーレイは怪訝そうな顔。「いったい、いつの話なんだ?」と。恨んでいたならソルジャーを継いでいるわけがないと、「ソルジャー候補にもなりはしないぞ」と。
「それよりも前の話だよ。…一番最初に船に来た時」
 前のぼくが成人検査を妨害したけど、リオだって救出に向かわせたけど…。
 無理やり連れて来ちゃったようなものでしょ、ジョミーは来る気は無かったんだから。
 成人検査をちゃんとパスして、教育ステーションに行くつもりだったし…。
 それを攫って連れて来たのが前のぼくだよ、リオに任せて救出させて。
 救出って言ったら聞こえはいいけど、ミュウの自覚が無かったジョミーには迷惑だよね…。
 おふくろの味も無かったような船だし、いいことは何も無いんだから…。



 あんな船なんか、ジョミーにとっては楽園どころか地獄だよね、と呟いた。
 シャングリラの名前は「楽園」だけれど、ジョミーから見れば楽園の欠片も無かった船、と。
「…そう思わない? 最初の時から楽園じゃなくて、その後だって…」
 ソルジャー候補になってからだって、ジョミーには悲しいだけの船だよ。…シャングリラは。
「穏やかじゃないな、悲しいだとか、地獄だとか。…前の俺たちの自慢の船を捕まえて」
 お前は何が言いたいんだ?
 さっき妙なことを言っていたよな、おふくろの味も無かったような船だった、と。
 何処から「おふくろの味」が出るんだ、前の俺たちが生きた時代に「おふくろの味」なんていうヤツはだな…。宇宙の何処を探したって、だ…。
 存在しなかった筈なんだが、と鳶色の瞳が瞬きをする。「俺には意味が分からないんだが」と。
「そうだけど…。オレンジスカッシュ、覚えてる…?」
 オレンジを搾って、ソーダを合わせた飲み物。ジョミーはあれが好きだったでしょ?
 シャングリラにオレンジを植えてて良かったと思ったよ、欲しい時に好きなだけ飲めるから。
 植えても直ぐには育たないものね、と話したオレンジ。充分な数の実をつける木に育つまでには何年もかかるものだから。
「オレンジスカッシュか…。そういや、ジョミーの好物だったな」
 よく食堂で頼んでるのを見たが、確かにオレンジの木が必要だ。いつでも好きに飲みたいなら。
 それで、そのオレンジがどうかしたのか?
 それともオレンジスカッシュの方か、とハーレイが訊くから、「オレンジスカッシュだけど」と答えを返した。ジョミーが養父母の家で暮らした頃に好んだ、懐かしい味の飲み物だから。
「オレンジスカッシュは、ジョミーがお父さんとお母さんの家で飲んでたヤツで…」
 これがとっても好きだったんだ、って前のぼくにも話してくれたよ。眠ってしまう前の頃にね。
 シャングリラにもオレンジスカッシュがあって良かった、って嬉しそうな顔で。
 だけど、オレンジスカッシュの他にもあったと思う。ジョミーが好きだった、いろんな食べ物。
 今のハーレイ、ぼくのママが作るパウンドケーキが大好きでしょ?
 おふくろの味のケーキなんだ、って何度も言っているじゃない。おんなじ味がするんだ、って。
 あのケーキみたいに、ジョミーが知ってた「おふくろの味」。
 お母さんの料理やお菓子の味が幾つもあった筈なのに、その味、ぼくが取り上げちゃった…。



 前のぼくがね、と俯いた。「きっとジョミーは、とっても悲しかったよね」と。
 成人検査で記憶を奪われなかったジョミーだからこそ、覚えていただろう「おふくろの味」。
 SD体制が敷かれた時代は、誰もが忘れてしまったもの。成人検査の日を境にして。
 成人検査をパス出来なかった前の自分たちも、すっかり失くしていた記憶。養父母の顔も、家も故郷も、子供時代に持っていた記憶は全部。
 自分自身に記憶が無いから、両親や家を恋しがっていたジョミーの気持ちは分からない。どんな思いでそれを求めるのか、どうして家に帰りたがるのか。
 シャングリラにいた古参のミュウたちは誰もが記憶を失くしていたし、若い世代は幼かった頃に船に来たから理解できないジョミーの気持ち。両親も家も、記憶がおぼろになってしまって。
 そんな具合だから、周りはジョミーを分かってくれない者ばかり。
 帰りたいと強く願う気持ちも、両親を慕い続ける心も。
「…今のぼくなら分かるんだけど…。パパもママも、ちゃんといてくれるしね」
 生まれた時から、この家で大きくなったから…。攫われたりしたら、きっと泣いちゃう。ぼくの命が危ないから、って言われたとしても、「そんなの嘘だ」って。
 嘘に決まってるから家に帰して、って泣いて騒いで、ジョミーみたいに帰っちゃうんだよ。
 でも、前のぼくには分からなくって…。
 ジョミーを家に帰した理由も、ハーレイが知っている通り。帰してあげよう、って親切に思ったわけじゃなくって、全部、計算。
 何も無い家に帰ってみたって、思い知らされるだけだから。…この家にはもう帰れない、って。
 そしたらジョミーは帰って来るよ、って考えてたから、リオに家まで送らせたけど…。
 それで帰って来るわけがないよね、今のぼくなら帰らないもの。…パパとママが帰って来るまで家で待つとか、何処にいるのか探しに行くとか…。
 ホントに分かっていなかったよ、と零れた溜息。両親を、家を、忘れてはいなかったジョミーの気持ちを理解できなかった前の自分。
「俺も分かっちゃいなかったなあ…」
 前の俺にも、ジョミーの気持ちはまるで分かっちゃいなかった。…前のお前と同じでな。
 ミュウの世界に馴染めないから、逃げ出したんだとばかり思っていたが…。
 そうじゃなかったかもしれないな。…今のお前が思う通りに。



 今の俺なら分かる気がする、とハーレイも頷いたジョミーの気持ち。シャングリラを飛び出し、家に帰ろうと無謀なことをしたけれど…。
「俺もお前と同じだな。おふくろが作ってくれる料理や、育った家が突然消えちまったら…」
 いや、消えたんじゃなくて、家も料理もちゃんとあるのに、戻れないってことになったなら…。
 強引に取り上げられてしまったわけだし、それをやったヤツを恨みたくもなる。
 許すもんか、と憎んで恨んで、脱走することだって考えそうだ。
 何処かに閉じ込められたんならな…、と今のハーレイだって逃げ出すらしい。自分を攫った悪人どもが暮らす場所から、脱走という手を使ってでも。
「やっぱり…? ハーレイだって逃げるんだ…」
 ぼくだと「帰して」って泣くしかないけど、ハーレイは脱走するんだね?
 シャングリラからだと、脱走するのはとても大変そうだけど…。雲の海の中を飛んでいるから。
 小型艇を操縦できる腕前が無いと無理そうだよ、と白いシャングリラを思い浮かべた。白い鯨を思わせる船は雲海の中に潜んでいたから、生身では逃げ出せそうにない。…空を飛べないなら。
「まったくだ。そう簡単には逃がしちゃくれんな、あの船からは」
 それでも逃げようと頑張ってみるさ、スプーンで掘るとはいかないだろうが…。
 掘ってみたって雲の海では、逃げ道なんぞは無いからな。…俺の場合は。
 空を飛べるんなら、スプーンを使ってみる手もあるが、とハーレイが言うからキョトンとした。
「スプーンって…?」
 それって何なの、スプーンってどういう道具のこと…?
 脱走するのに役に立つの、と尋ねたスプーン。自分が知っているスプーンと言ったら、スープやシチューを掬うもの。プリンを食べたり、アイスクリームも。他のスプーンのことは知らない。
「俺が言ってるのは、そのスプーンだが?」
 飯だの菓子だのを食おうって時に使うスプーンで、それ以外に使い道は無い。
 だがな、そういう脱獄方法があったらしいぞ、ずっと昔は。
 人間が地球しか知らなかった頃には、監獄だって地面の上にあるもんだから…。
 食事のために持ってるスプーンで、せっせと床を掘っていくんだ。毎日、毎日、少しずつな。
 掘ったら土がゴミになるだろ、そいつはズボンの中に隠して捨てに行く。労働とかで、土のある場所に出られる時に。…でないとバレてしまうからなあ、穴を掘ってるのが。



 穴を掘るための道具ではない、小さなスプーン。食事用にと渡されたそれ。
 頼りないスプーンで床を掘っては、掘った分の土をコッソリと捨てていた囚人。スプーン一本で頑張り続けて、何年もかかって監獄の外へ出てゆくためのトンネルを掘る。
 この床からこう掘っていったら塀の向こうだ、と努力を重ねた脱獄犯。あちこちの国で、様々な理由で囚われの身になっていた囚人。
 彼らはスプーンで掘って掘り続けて、ついには自由を手に入れたけれど。監獄の塀の向こうへと逃げ出して行ったけれども、ジョミーには最後まで無かった自由。
 シャングリラに連れ戻された後には、ソルジャー候補で、やがてはソルジャー。
「…ハーレイだったら、スプーンで掘ってでも逃げるのに…」
 なんとか逃げる方法は無いだろうか、って頑張って穴を掘るらしいのに…。
 今のぼくだって、「家に帰して」って泣いて大騒ぎをすると思うのに、ジョミー、可哀相…。
 家に帰ろうとして連れ戻された後は、もう逃げたりは出来なかったよ。…シャングリラから。
 ジョミーのお父さんとお母さんは元気に生きていたのに…。会えないで、家にも帰らないまま。
 そのままでジョミーは地球で死んじゃったよ、お母さんたちのこと、忘れてないのに…。
 生きていたなら、またお母さんたちに会えて、おふくろの味も食べられたのに…。
 ジョミーが好きだった料理やお菓子…、と瞳からポロリと零れた涙。
 両親を忘れなかったジョミーは、どんなにか、食べたかったことだろう。子供だった頃に食べた料理を、おふくろの味を。…オレンジスカッシュとは違う本物を。
 きっと最後までジョミーは忘れていなかったんだ、と思うと涙が止まらない。前の自分は少しも気付いていなかったけれど、今の自分には分かるから。
 ジョミーが会いたかった両親のことも、帰りたいと思った家がどんなに大切かも。
「こら、泣くな。…泣くんじゃない」
 今のお前が泣くことはないんだ、とうに過ぎちまったことだから。…メギドと同じで。
 お前が悲しむ気持ちも分かるが、そいつがジョミーの運命というヤツだったんだ。人間の力ではどうしようもない、歴史の流れがそうさせた。
 …ジョミーに其処を歩かせたってな、前のお前をメギドに飛ばせてしまったように。
 それに、あの時代じゃ仕方ない。
 SD体制の時代だからなあ、おふくろの味は食べられないのが、当たり前で普通だったんだ。



 成人検査で記憶を消されちまうんだから、とハーレイがフウと零した溜息。「酷い時代だ」と。
「前の俺たちほどではなくても、誰の記憶も曖昧だった。…子供時代に関しては」
 懸命に逆らっていたシロエでさえもだ、両親の顔はおぼろだったと言うからなあ…。
 シナモンミルクにマヌカ多め、と覚えていたって、味の方までハッキリ覚えていたかは謎だ。
 そういう飲み物が好きだったんだ、という記憶はあっても、家で飲んでた味はどうだか…。
 そんな時代に、ジョミーは両親も家も覚えたままでいられた。…おふくろの味も、忘れないで。
 普通は忘れちまう所を、覚えていられただけでも良かった。この味だった、とピンと来るのを、俺たちの船では食えないままでいたとしたって。
 ジョミーは幸せだったと思うぞ、前のお前のお蔭で記憶を失わずに済んで。
 お前が妨害しなかったならば、全部忘れていたんだからな、とハーレイは前の自分の肩を持ってくれるけれども、そうなのだろうか。…ジョミーは幸せだっただろうか…?
「…そうなのかな…?」
 お母さんたちのことを覚えていたって、おふくろの味は食べられなくて…。
 そういう話を誰かにしたって、誰も分かってくれなくて…。
 辛い思いをしなかったのかな、ソルジャー候補にされて閉じ込められちゃった後には…?
 もう船からは二度と逃げられなかったんだよ、とジョミーの瞳を思い出す。明るい若葉の緑色。いつも明るく煌めいていた瞳、けれどナスカが滅びた後には冷たく凍っていたという瞳。
「きっと分かってくれていたさ。…自分は幸せ者なんだ、とな」
 あんな時代に、育ててくれた両親のことや、育った家を忘れずにいられた幸せな子供。
 それが自分だと、ジョミーは分かっていた筈だ。…他のヤツらには分からなくても、自分でな。
 でなきゃ地球まで行っていないぞ、途中で船から逃げちまって。
 ソルジャー候補として鍛えられた後には、もう充分にサイオンが強くなっていたから…。
 まだシャングリラがアルテメシアに隠れていた間に、脱走してな。
 今度こそ家に帰るんだからと、それこそスプーン一本ででも。
 部屋の床から穴を掘ってゆけば、いつかは外に出られるからな、とハーレイがおどける。正規の出口を使わずに船から脱出するなら、スプーンも役に立ちそうだぞ、と。
「ジョミーなら、そうかもしれないね!」
 普通のスプーンをサイオンで硬くして、少しずつ掘って。…穴が掘れたら、空を飛んでって。



 そうやって逃げて行ったかもね、と愉快な気分。ジョミーならばスプーンで、シャングリラから逃げてゆけそうだから。
 けれどジョミーは脱走しないで、白いシャングリラに留まった。前の自分に言われるままに。
 ソルジャー候補として頑張った後は、ソルジャー・シンとして皆を導いて。
 前の自分がいなくなってから、人類軍との戦いの末に、最初に落としたアルテメシア。
 かつて追われた雲海の星は、ジョミーが生まれ育った星。両親が今もいる可能性が高い星。
 調べさせたならば、きっと分かっただろう。両親が健在であることが。
 けれどジョミーは「調べろ」とさえも言いはしなくて、偶然会えた筈のチャンスも退けた。白い鯨を追っていたスウェナ・ダールトン、アルテメシアでの幼馴染。
 ジョミーの両親と親交があった彼女が、「会ってゆかないか」と誘っていたというのに。
 直接、ジョミーの両親に会えと言いはしないで、彼らの養女に紹介するという形で。
「…ジョミー、お母さんたちに会わないままになっちゃった…」
 アルテメシアに戻った後なら、また会えたのに…。おふくろの味も、食べられたのに…。
 お母さんなら、きっと覚えていた筈だから。…ジョミーが好きだった料理のことも。
 それなのに、ジョミー…。
 前のぼくが、みんなを頼んだせいで…。ミュウのみんなの未来のことを…。
 息抜きをしても良かったのに、と項垂れた。アルテメシアを落とした時なら、会いに行くことも出来た両親。丸一日は一緒にいられなくても、昼食か夕食を懐かしい家で食べることは出来た。
 「ジョミーはこれが好きだったわね」と、母が作ってくれた料理を。…おふくろの味を。
「いいや、それもお前のせいじゃない。ジョミーが自分で決めたんだ」
 前のお前がいなくなった後は、ああいう風にしようと選んだ。
 ジョミー自身が、あの生き方を。
 誰に言われたわけでもないのに、自分で心を凍らせちまって。それこそ氷みたいにな。
 俺の意見も聞きやしなかった、とハーレイが眉を顰めているのは、降伏して来た救命艇までも、爆破させていたことだろう。人類軍の船だというだけのことで。
 救命艇は武装していないのに。…彼らに攻撃の意図などはなくて、助けを求めただけなのに。
 そんな船さえ沈めさせたほどに、感情を殺して生きていたジョミー。
 彼が自分で選んだとはいえ、その生き方でジョミーは幸せだったのだろうか…?



「ねえ、ハーレイ…。ジョミーは幸せだったと思う…?」
 いくら自分で決めたにしたって、感情なんか見せない生き方。それ、辛くない…?
 悲しい時には悲しいものだし、泣きたい時だってありそうなのに…。
 氷みたいな目をしているのは辛そうだよ、と顔を曇らせた。その頃のジョミーは、今の時代まで残る写真でしか知らないけれど。
「俺にもジョミーの心の中までは分からんが…。決して読ませはしなかったからな」
 しかし、俺よりはきっとマシだったろう。俺はお前を失くしちまって、独りぼっちだったが…。
 未来の希望ってヤツも無かったが、ジョミーは違う。…俺と同じ目で地球を見ちゃいなかった。
 ジョミーが見ていた地球は約束の場所で、希望の地だった。還り着くべき、母なる星。
 もしも辿り着いて、平和な時代を手に入れていたら。死なずに生きていたのなら…。
 キャプテンだった俺がお前を追い掛けて逝っちまっても、ジョミーには笑顔が戻っただろう。
 暫くの間はシャングリラ中が喪に服したとしても、それが済んだら。
 俺の喪なんぞたかが知れてる、とハーレイは笑う。「ほんの数日間だろう」と。それが終われば普段通りに戻る船。ジョミーも涙を流した後には、太陽のようだった笑みを取り戻して。
「ジョミーが昔のジョミーみたいに、明るく笑う筈だったんなら…」
 お母さんたちにも、会おうとしてた?
 シャングリラが地球まで無事に辿り着いて、SD体制が終わったら。…平和になったら。
 またシャングリラでアルテメシアを目指して戻って、お母さんたちの家を探して。
 会いに行こうとしていたのかな、と尋ねてみたら、「そうだろうな」と返った答え。
「ジョミーが忘れていないからには、きっと消息を調べさせただろう。…落ち着いた後に」
 もっとも、アルテメシアに戻っていたなら、無駄足なんだが…。
 ジョミーの両親はコルディッツに行ってしまっていたしな、育てていた小さな娘と一緒に。
 運が良ければ、シャングリラで会えていたんだろうに…。上手くいかんな、人生ってヤツは。
 ジョミーが名簿を確かめていれば…、とハーレイが言うコルディッツで救ったミュウたち。強制収容所に入れられた彼らの名簿の中に、人類が二人混じっていた。かつてのジョミーの両親が。
「やっぱり、ぼくのせいだ…」
 ジョミーがお母さんの作る料理を、二度と食べられなかったのは。
 心を凍らせてしまってなければ、名簿だってきっと、見た筈なのに…。



 前のぼくが頼んじゃったからだよ、と胸が締め付けられるよう。ミュウの未来を託さなければ、もっと余裕があっただろうジョミー。同じように地球を目指したとしても。
「気にするな。お前のせいじゃないんだから」
 ジョミーが自分で決めたことだし、あいつは満足していただろう。…そんな気がする。
 傍から見たなら辛そうに見えても、悲しいように思える最期だとしても。
 そしてだな…。
 さっさと生まれ変わっているんじゃないのか、死んじまった後は。
 すっかり平和になった世界に、あいつが最初に言い出した自然出産で。
 俺たちよりも遥かに早く地球に生まれて、本物の家族と一緒に暮らして、おふくろの味だ。成人検査なんかはもう無い時代に、お母さんの料理をたらふく食ってな。
 おふくろの味を堪能してたに違いないぞ、というのがハーレイの読み。ジョミーはとうに地球に生まれて、おふくろの味で育ったのだ、と。
「そうなったかな…?」
 食べられないままで終わった分まで、おふくろの味を食べられたかな…。
 オレンジスカッシュしか無かった船の分まで、ジョミーが食べたかった何かを…?
「お前に聖痕を下さった神様なんだぞ、ちゃんとジョミーにも御褒美があるさ」
 生まれ変わりの記憶は無かったとしても、ジョミーらしく元気に、幸せに生きて。
「そうだよね…!」
 ぼくたちが御褒美を貰えるんだもの、ジョミーも貰った筈だよね。うんと素敵なのを…。
 お母さんが作ったお菓子やお料理、好きなだけ食べて大きくなって…。
 大人になってもおふくろの味、と浮かべた笑み。ジョミーならそんな大人だよね、と考えて。
 きっとジョミーも地球に生まれて、また食べられたことだろう。おふくろの味を。
 前の人生とは違う料理やお菓子に変わっていたって、「これが好き」と笑顔になれる味。
 今のハーレイにおふくろの味のパウンドケーキがあるように、きっとジョミーにも。
 そうであって欲しい、と心から思う。ジョミーも神様に御褒美を貰って、おふくろの味、と。
 今の自分は幸せだから。今は誰もが幸せに暮らせる平和な時代で、蘇っている青い地球。
 それを作ってくれたジョミーも、幸せになっていて欲しい。
 前のジョミーが両親を、家を恋しがった理由が、自分にもやっと今頃になって分かったから…。



            ジョミーの気持ち・了


※シャングリラに迎えられた直後に、家に帰ったジョミーですけど、何故、帰ったのか。
 前のブルーには、想像もつかなかった理由なのかもしれません。両親を覚えていたのが原因。
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