シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
欲しい合鍵
(鍵だ…)
本物じゃないよね、とブルーが見詰めたもの。学校からの帰りに、路線バスの中で。
ふと見た、通路を挟んだ席。其処に座った若い女性のペンダント。
(金色の鍵…)
細い金色の鎖を通して、首から下げた金色の鍵。そういう形のペンダント。きっとアクセサリーなのだと思う。鍵の形をしているだけの。
アクセサリーだから、何処の扉が開くわけでもない。鍵の形の飾りというだけ。
でも…。
(本物だったら素敵だよね?)
アクセサリーではなくて、本物の鍵。ちゃんと使えて、扉が開く。
そうだとしたなら、開く扉は特別な場所の扉だろう。女性の家の扉の一つではなくて、箱などに使う鍵でもなくて…。
恋人に貰った、家の合鍵。それを使えば、留守の時にも家に入って待てる鍵。
せっかくだからと、わざわざ金色に作って貰って、ペンダントにしてくれた優しい恋人。いつも首から下げられるように、いつでも持っていられるように。
(恋人の家に出掛けて行ったら、あのペンダントで…)
鍵を開けて入って、料理しながら恋人の帰りを待つだとか。お菓子も作るかもしれない。恋人が家に帰って来たなら、作った料理やお菓子の出番。「おかえりなさい」と笑顔で迎えて。
(鍵さえあったら、先に入っていられるもんね?)
恋人が仕事に出掛けていたって、家の表で待っていないで。
「今日は帰りが遅くなるから」と言われた日だって、恋人の家で夕食の支度。帰って来たなら、直ぐに食べられるように。「料理だけ作って置いておくから」と手紙を残して帰ったりもして。
そういうのも素敵、と夢見てしまう。
自分だったら、そのための鍵が欲しいから。ハーレイの家に入って待っていたいから。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
ハーレイの家の合鍵があれば、どんなに素敵なことだろう。
それで扉を開けられたなら。
ハーレイが家にいない時にも、中に入って帰りを待っていられたら。
いいな、と眺めた金色の鍵。アクセサリーか、本物なのかは謎だけれども。
(ああいう形の鍵もあるしね?)
本当に扉が開く鍵。扉についた鍵穴に入れて、回してやったらカチャリと小さな音がして。
あれが本物の合鍵だったら、と羨ましく思いながら降りたバス。恋人の家の扉が開く鍵、恋人に貰った金色の鍵。それを首から下げているなら、本当に幸せだろうから。
家に帰って、ダイニングでおやつを食べる間も、鍵が頭から離れない。ペンダントになっていた金色の鍵は、本物だった気がするものだから。
アクセサリーのように見えても、恋人の家の扉の合鍵。使う時には首から外して、あれを鍵穴に差し込んでやる。鍵が外れる方へ回して、鍵が開いたら扉を開けて家の中へと。
恋人が帰るまでの時間に、色々なことをするために。料理の支度や、お菓子作りや。
(ぼくも合鍵…)
もしもハーレイが贈ってくれたら、大切に持つことだろう。宝物みたいなものだから。いつでもハーレイの家に入れて、中で帰りを待てるのだから。
それを貰えたら、帰りに見掛けた女性みたいに、ペンダントにして肌身離さず持っておく。細い鎖を通してやって。
(金色の鍵じゃなくたって…)
実用的な鍵にしたって、やっぱり首から下げておく。アクセサリーには出来ないものでも、誰が見たって「ただの鍵」でも。ごく平凡な銀色でも。
どんな時でも持っていたいし、大切な鍵と一緒にいたい。首から下げておくのが一番。
(お風呂に入る時くらいしか…)
きっと外しはしないだろう。何処に行くにも、鍵と離れたくないものだから。
(学校は、アクセサリーは禁止だけれど…)
その学校でも、なんとかして持っていたいと思う。ハーレイに貰った大切な鍵を。
「家の鍵なんです」と言い張ったならば、持てるだろうか?
帰った時に母が留守なら、それを使って入らないと、と「家の鍵です」と嘘をついたら。
(首に下げるのは駄目かもだけど…)
家の鍵なら、きっと許して貰える筈。持っていないと困るものだし、「アクセサリーは駄目」と注意されても、他の形で持てるだろう。
制服のポケットに入れておいたら、いつでも一緒。「家の鍵です」と言い張りながら。
そんなのも素敵、と思った「制服のポケットに入れておく」鍵。落っことさないように、紐でも通して、それを何処かに結んでやって。
家の鍵なら先生だって怒らない。紐がポケットから覗いていたって、その先に鍵があったって。
(…ぼくの家じゃなくて、ハーレイの家の鍵なんだけどね?)
家の鍵には違いないもの、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(合鍵かあ…)
勉強机の前に座った後にも、金色の鍵ばかり思い出す。アクセサリーか本物なのか、本当の所は分からないけれど。
(だけど、合鍵…)
自分がそれを貰ったならば、あんな風にして持つだろう。学校では首から下げられないのなら、制服のポケットに入れる形で。
(家の鍵です、って言えば絶対、大丈夫…)
先生に注意された時にはそれだよね、と言い訳までスラスラ浮かんでくる。本当に家の鍵なのかどうか、先生は確かめないだろうから。家に来てまで、鍵穴に入れたりするわけがない。
(鍵は鍵だし、何処かの扉が開くんだから…)
自分の家の鍵にしたって、ハーレイの家の鍵にしたって、鍵は鍵。先生たちに区別はつかない。
「持つための言い訳」まで思い付いたら、欲しくてたまらなくなった合鍵。
ハーレイの家の扉の鍵穴、其処に突っ込んだらカチャリと鍵が開く合鍵。
(チビの間は、ハーレイの家には行けないけれど…)
悲しいことに、そういう決まりになっている。
前の自分と同じ背丈に育たない内は、ハーレイの家には遊びに行けない。柔道部員たちは何度も呼んで貰って、暑い季節は庭で賑やかにバーベキューまでやっていたのに。
(…ぼくは一回、呼んで貰って、それっきりで…)
後はメギドの悪夢を見た夜、瞬間移動で飛んで行っただけ。あの時だって、朝食が済んだら車に乗せられて、家に帰されてしまっておしまい。
けれど、いつかは出掛けてゆける。大きくなったら、「遊びに来たよ」と何度でも。
思い付いた時には「行ってもいい?」と尋ねてみたり、予告もしないで押し掛けてみたり。
今は無理でも、何年か待てばその時が来る。前の自分とそっくり同じに育ったら。
いつかハーレイの家に行けるという、お守りに合鍵があったらいい。お守りに持っていられたらいい。「家の鍵です」と嘘をつきながら、学校に行く時もポケットに入れて。
ハーレイに頼めば作って貰えるだろうか、ただ「持っておく」だけならば?
留守の間に家まで出掛けて、合鍵を使って中に入るのではなかったら…?
使える時がやって来るまで使わないなら、お許しが貰えるかもしれない。約束通りに、育つまで家に行かないのなら。
(駄目で元々なんだしね…?)
合鍵が欲しいと頼んでみたい、と思っていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、合鍵、作ってくれる?」
作ってくれる所は色々あるでしょ、そういうお店。其処で作って欲しいんだけど…。駄目?
「はあ? 合鍵って…?」
なんでまた、とハーレイは怪訝そうな顔。「何処の合鍵が欲しいと言うんだ?」と。
学校の中の扉だったら、どれも最初から合鍵がある。生徒が個人的に使うロッカーでも、万一の時に困らないよう、合鍵の束が職員室にあるほどだから。
「ぼくが欲しいの、ハーレイの家の合鍵だけど…」
作ってくれたら嬉しいんだけどな、ハーレイの家の玄関の扉が開く合鍵。
一番安いヤツでいいから、とも頼んでみた。合鍵を作る店は色々、値段も色々だろうから。
「俺の家の玄関の合鍵だって…?」
お前、そんなので何をする気だ、空き巣の真似か?
俺が出掛けて留守の間に、勝手に入って中でゴソゴソするって言うのか、帰る時間はお前の方が早いんだからな?
俺が柔道部に行っていたなら、家は留守だし…。お前は放課後で暇なんだし。
もっとも空き巣は、今の時代はいやしないんだが。…泥棒なんかはいない時代だ、空き巣なんて言葉は本の中にしか出て来ないがな。
そいつをお前がやるって言うのか、盗っていくものは色々ありそうだから…。
他のヤツらの目にはガラクタでも、お前にとっては宝物ってヤツが山ほどドッサリとな。
俺の愛用のマグカップだって盗られそうだ、とハーレイは空き巣の心配中。コーヒーを飲む時のお気に入りのカップで、ハーレイの家で見掛けたそれ。とても大きなマグカップ。
「茶碗も危ないかもしれん」だとか、「箸だって危なそうだよな」とか。
「俺が愛用してるってだけで、お前は欲しがりそうだから…。茶碗だろうが、カップだろうが」
消えていたなら新しいのを買えばいいだろう、と鞄に詰めて行きそうなんだ。俺に黙って。
お宝を奪って逃げる時には、元通りに鍵までかけて行ってな。
俺が仕事から帰って来たって、最初は気付かないんだろう。鍵はきちんとかかってるから、何も知らずに開けて入って、さて、とカップを使おうとしたら、見事に消えているってな。
マグカップどころか、茶碗も箸も…、とハーレイが的外れなことを並べ立てるものだから。
「違うよ、空き巣をするんじゃなくて…。留守の間に家に入りたいわけでもなくて…」
お守りに欲しいんだよ、ハーレイの家の合鍵を。…ぼくのお守り。
「…お守りだって?」
俺の家の鍵には、何の御利益も詰まっちゃいないと思うがな?
玄関の扉が開くってだけで、他の役には立たないぞ。本物の鍵でもその有様だし、合鍵となれば御利益の無さは想像がつくと思わんか?
どんなものでも、本家本元が一番御利益があるもんだ。複製品だと、ちょいと落ちるし…。
ただでも御利益の無い鍵の合鍵なんかが、何のお守りになると言うんだ…?
俺にはサッパリ分からんのだが、とハーレイは首を捻っている。「何に効くんだ?」と。
「えっと、お守りには違いないけど…。それ、ぼくにしか効かないから…」
ぼくの心に効くお守りだよ、持っているだけで幸せになれるお守り。それが御利益。
これがハーレイの家の合鍵、って思うだけでホントに幸せだから…。
「お前だけに効くお守りだって? 何処から思い付いたんだ?」
何かのおまじないでも読んだか、合鍵を持ったら幸せになるとか、そういう記事を…?
それとも本に書いてあったか、何かのついでに…?
「おまじないじゃないよ、今日の帰りにバスで見掛けたペンダント…」
若い女の人が首から下げてたんだよ、金色の鍵のペンダントを。
アクセサリーかな、って思ったけれども、そうじゃないかもしれないよね、って…。
恋人に貰った家の合鍵で、アクセサリーに使えるように、金色に作ってあるのかも、って…。
細い鎖で下げていたよ、と話した鍵のペンダント。金色の鍵。
「あんな風に合鍵を持っていたい」と、「ハーレイの家のが欲しいんだけど」と。
「学校はアクセサリーが禁止で、ペンダントにしてたら叱られるかもしれないけれど…」
家の鍵です、って言ったら許して貰えそう。ペンダントは駄目でも、制服のポケットに入れるのならね。家に帰った時に誰もいなかったら、鍵が無いと入れないんだから。
何処の鍵かは確かめないでしょ、先生だって。…「家の鍵か」って眺めるだけで。
だから、ハーレイの家の鍵でも大丈夫。ぼくの家の鍵だと思われておしまい。
大切にするから、合鍵、欲しいな…。
今はまだハーレイの家に行くのは無理だし、合鍵があっても、鍵を開けたり出来ないけれど…。
持っていたって使えはしなくて、何の役にも立たないんだけど…。だけど、お守り。
いつか使える時が来るよ、って考えるだけで幸せじゃない。ぼくが大きくなった時には、合鍵、使っていいんだから。
ハーレイが留守にしている時には、それで入って…、と瞳を輝かせた。玄関に鍵がかかっていた時も、合鍵があれば中に入れる。「留守なんだ…」と溜息をついて帰る代わりに、扉を開けて中に入って、ハーレイの帰りを待つことが出来る。お気に入りの椅子に座ったりして、のんびりと。
いつか使えるだろう合鍵、それがあったら幸せな気分。今は出番がまるで無くても。
「そういう理由で合鍵なのか…。お守りという意味も良く分かったが…」
生意気だぞ、お前。チビのくせして、俺の家の合鍵が欲しいだなんて。
前のお前と同じに育って、俺の家に出入りが出来るようになったら、合鍵だって作ってやらないわけではないが…。欲しいんだったら、幾らでも作ってやるんだが…。
チビのお前じゃ話にならんな、文字通り、役に立たないんだから。
お前がワクワク持っているだけで、その鍵、出番が来やしないからな。
それじゃ鍵だって可哀相だろうが、とハーレイが眉間に寄せた皺。「使われない鍵じゃ、ただの飾りになっちまう」と。
合鍵とはいえ、鍵の姿に生まれたからには、使われてこそ。人間の役に立つ道具でないと、と。
「…やっぱり駄目?」
ぼくがお守りにするだけだったら、ハーレイの家の合鍵は作ってくれないの?
一番安いヤツでいいのに、綺麗な金色の鍵じゃなくても…。
合鍵だったら何でもいいよ、と食い下がったけれど。本当に欲しいのだけれど…。
「俺が駄目だと言ったら、駄目だ。お前にはまだ、合鍵ってヤツは早すぎる」
考えてもみろよ、前のお前だって、キャプテンの部屋の合鍵なんぞは持ってなかった。ちゃんと育った立派な大人で、俺と恋人同士でも。
もっとも、お前に鍵は必要無かったがな。鍵も扉も、お前には無いも同然だったし。
どんな場所でも、瞬間移動でヒョイと入ってしまうんだから…。鍵があろうが、扉があろうが。
いや、その前にだ…。
鍵が無いのか、と苦笑したハーレイ。「今の時代とは、鍵が違ってたよな」と。
「え? 鍵って…」
前のぼくたちが生きてた頃でも、鍵はきちんとあったでしょ?
シャングリラの中にも鍵はあったし、アルタミラの檻にも、あそこで閉じ込められたシェルターにも鍵…。檻もシェルターも、内側からは開けられなかったんだから。
そうなったのは鍵のせいだよ、と例に挙げた忌まわしい記憶。
前の自分は、アルタミラで狭い檻の中に押し込められていた。人体実験の時だけ、外に出される牢獄に。もちろん中から開くわけがないし、逃げることさえ諦めた。未来に何の希望も無いから、心も身体も成長を止めて。
メギドの炎がアルタミラを星ごと滅ぼした時は、人類はミュウをシェルターの中に閉じ込めた。けして外には出られないよう、星ごと焼き滅ぼされるように。
その中で悟った「終わりの時」。このままでいたら死んでしまう、と懸命に扉を叩いてみても、扉は開きはしなかった。前の自分のサイオンが扉を、シェルターの壁ごと破壊するまで。
つまり、存在していた鍵。檻もシェルターも、鍵が無いなら簡単に開いた筈なのだから。
それにシャングリラにも、鍵は幾つも。キャプテンの部屋にも、倉庫などにも。
「アルタミラの檻に、シェルターなあ…」
あそこにも確かに鍵はあったな、俺たちには歯が立たなかったのが。
忌々しい鍵の話はともかく、シャングリラにも鍵は幾つもあったってわけで…。
白い鯨に改造する前から、個人の部屋にも鍵はかかった。住人が閉めようと思いさえすれば。
改造した後の船になったら、鍵がかかる場所もグンと増えたが…。
船が大きくなった分だけ、部屋も増えたし、施錠しなけりゃ駄目な区画も増えたから…。
だが…、とハーレイは鳶色の瞳をゆっくり瞬かせた。「鍵ってヤツが問題だ」と。
「シャングリラにあった色々な部屋は、こういう鍵で開いてたのか?」
今の俺の家の鍵はコレだが、シャングリラで俺たちが使ってた鍵もこんなのだったか…?
これなんだが、とハーレイが取り出したキーホルダー。背広の上着のポケットから。テーブルの上にコトリと置いて、それにつけられた鍵を順に指してゆく。
家のがこれで、車がこれで、と。柔道部の部室の鍵がこいつで…、と色々な鍵を。
「…一杯あるね、ハーレイの鍵…」
やっぱり大人の人は違うね、ぼくだと鍵も持っていないし、キーホルダーの出番も無いよ。家の鍵だって、要りそうな時だけ、ママから借りて持って行くから。
ホントに沢山、とキーホルダーについた鍵の数に感心していたら…。
「そういや、車のキーも無いよな」
今の俺には当たり前のものだが、前の俺だとキーは無縁で…。うん、無かったよな、車のは。
「車?」
あった筈だよ、車のキー。…前のぼくは運転しなかったけれど、人類の世界に車はあったし…。
人類が車を動かす時には、今と同じでキーだった筈だと思うけど…。
基本は変わっていないものね、と前の自分が生きた時代の車の形を思い浮かべる。今の車たちの隣に並べてみたって、さほど違いはしないだろう。車は車で、人間を乗せて道路を走るもの。
形が変わっていないのだったら、あの頃だってキーがあった筈。使った記憶は無いのだけれど。
「車のキーはあっただろうな、お前が言っている通りに。…俺も使っちゃいないんだが」
シャングリラにあったのは自転車くらいで、車は無かったモンだから。
俺が言うのは、前の俺の車というヤツだ。いわゆる車よりも遥かにデカくて、シャングリラって名前がついてたんだが。
…今の俺の車に、いずれその名をつける予定だし、シャングリラだって俺の車と言っていい。
俺の私物じゃなかっただけで、俺が動かしていたんだから。大勢の仲間を乗っけてな。
シャングリラの運転手は前の俺だが、あの船にキーは無かったぞ。
車みたいに、これさえ使えば動くってヤツは。…エンジンがスタートするキーなんかは。
「…無かったね…」
ホントだ、同じシャングリラって名前をつけてみたって、車と船とじゃ違うんだね…。
全然違う、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せた。懐かしい白いシャングリラに。
今のハーレイの愛車は白くないのだけれども、いつか二人でドライブ出来る時が来たなら、あの船の名前をつけてやる。二人だけのために走ってくれる車に、「シャングリラ」と。
けれど本物の白いシャングリラと、ハーレイの車は全く違う。シャングリラの方は宇宙船だし、道路を走る車とは違って当たり前。
シャングリラを動かしていたエンジンは、小さなキーを差し込むだけでは始動などしない。船を動かすには幾つもの手順、それを正しく実行してゆくことが必要。
(メイン・エンジン点火、って…)
キャプテンや機関長が指示して、それに携わる仲間が動く。各自の持ち場で、安全確認やデータ確認などをして。何人もが「いける」と判断を下して、その作業をして、ようやくシャングリラが動き始める。巨大な白い鯨のような船体が。
(物凄く沢山の手順だけれども、点火までには、ほんの一瞬…)
皆が瞬時にこなした作業。エンジンに点火するために。
でないと船は動かないから、危険を回避することすらも出来ない。それもあって、完全に止まることはなかったシャングリラ。前の自分が生きていた頃には、ただの一度も。
(メイン・エンジンが、メンテナンスで止まっていたって…)
補助エンジンが常に動いていた。そちらの方も、小さなキーを使うだけでは動かない。何人もの仲間が関わらないと、安全やデータを確認しないと。
(…本物の方のシャングリラには…)
こういうキーは無かったのか、と見詰めた車のためのキー。
今のハーレイの自慢の車は、このキーがあれば動くのに。前のハーレイのマントと同じ色の車、あれを動かすにはキーを差し込んでやればいいのに。
(船のシャングリラは、とても大変…)
キーだけじゃ動いてくれないんだ、と納得させられたけれど、鍵は確かに無かったけれど。
そのシャングリラの船体の中には、幾つもの部屋や倉庫や、様々な区画。
居住区にあった個人の部屋には鍵がついていたし、立ち入りを制限すべき場所にも、同じに鍵。
部屋も、立ち入り制限区画も、倉庫なども鍵が間違いなくあった。鍵がかかるなら、鍵を開けるための方法がある。でないと、扉は開かないから。
(鍵が無いと、開いてくれないよ…?)
今の自分の家の扉も、ハーレイの家の玄関も。学校のロッカーも開きはしないし、シャングリラでも同じだと思う。鍵がかかる場所があった以上は、それを開けるための鍵が欠かせない。それが無ければ、誰も入れはしないのだから。
(瞬間移動で飛び込むんなら、別だけど…)
ジョミーを船に迎える前には、瞬間移動が出来たのは前の自分だけ。他の仲間には無理だった。その方法で入れないなら、鍵が無かった筈はないのに…。
(どうなってるの…?)
今のハーレイの「鍵は無かった」という言葉。鍵はあったし、鍵がかかるなら開けるための鍵が必要なのに。
「やれやれ…。まだ思い出せないって顔をしてるな、お前ときたら」
俺は嘘なんかついちゃいないし、お前を騙そうともしてはいないぞ。鍵が無かった話の件で。
いいか、前のお前の青の間にしても、俺がいたキャプテンの部屋にしてもだな…。
どちらにも鍵はあったわけだが、少なくとも、こういう鍵じゃなかった。今日のお前が見かけたような、こんな形の鍵なんかでは…な。
こいつだ、とハーレイは鍵の一つを指で弾いた。キーホルダーについている中の一つを。
それを使えば、柔道部の部室の扉が開くらしい。他の幾つもの鍵との違いは、見ているだけではよく分からない。車のキーなら、一目で「あれだ」と分かるけれども。
鍵の基本の形は同じ。刻まれた溝や、差し込む部分の僅かな違いで別の鍵になる。
けれどシャングリラでは、もっと厳重だったシステム。
基本の鍵など何処にも無かった。「これがそうだ」という形も無かった。
キーホルダーなどあるわけがなくて、鍵の数だけあったと言っても良かった鍵。その場所の鍵を開ける方法。部屋も倉庫も、立ち入り制限区画の扉も。
(鍵なんか、誰も差し込まなくて…)
回してカチャリと開けてもいない。
そんなシステムではないのだから。鍵を開けるには、様々な手順。
(方法だって、ホントに色々…)
一つだけで開く扉もあれば、幾つも組み合わされていた場所も。其処の重要性に応じて。
そうだったっけ、と蘇って来た遠い遠い記憶。
施錠が必要だった場所では、誰も鍵など使わなかった。開ける時にも、閉める時にも。…鍵穴に入れて回す鍵など、誰一人として。
前の自分は瞬間移動であらゆる扉を通り抜けたけれど、それが出来ない船の仲間たちは皆、扉を相手に苦労していた。鍵がかかっていたならば。
施錠されたキャプテンの部屋に入る時には、ハーレイに頼んで中から開けて貰っていたか…。
(パスワードを幾つも打ち込むだとか、そんなので…)
部屋の掃除をする係などが入っていただけ。部屋の主が留守にしていた時は。
キャプテンは船の最高責任者だけに、たやすく入れる部屋ではいけない。本人の許可か、入れる資格を持つ者だけが知っている手順か、それが無ければ開かなかった扉。
今のハーレイのキーホルダーについているような、鍵一つでは開けられない。そういう形の鍵も無ければ、鍵穴だって無いのだから。
前の自分が長く暮らした青の間も同じ。ソルジャーに用がある者は多いだろうから、昼間は施錠しなかったけれど、施錠したなら…。
(入るの、大変…)
ちょっと視察に出掛けるから、と鍵をかけてから出ようものなら、厄介なことになっただろう。
「ソルジャーがお戻りにならない間に、掃除をしよう」と部屋付きの係がやって来たって、鍵を開けるのに幾つもの手順。
船で一番偉いとされた、ソルジャーの私室なのだから。…キャプテンとは比較にならない存在。
そのソルジャーの部屋の鍵だし、そう簡単には開かない。
(掃除しに来た係の名前を打ち込んで…)
係の名前と、それを打ち込んだ仲間が同じ人間かどうか、その照合から始まる仕組み。無関係な者には、ソルジャー不在の時の青の間には、立ち入り許可が下りないから。
間違いなく同じ人間なのだ、と証明したって、今度はロックを解除するための作業が必要。
どういう理由で鍵を開けたいのか、目的によって違う色々なパスワードなど。
掃除したいのなら、掃除の時に使うものを入力、それが通れば扉を開くための別のパスワードを入れて、と複雑すぎた青の間の鍵。
たとえ部屋付きの係にしたって、ミスをしたなら、けして開いてくれないほどに。
とんでもない鍵があったんだった、と思い出した前の自分の部屋。青の間と呼ばれた、やたらと大きすぎた部屋。「ソルジャーの威厳を高めるために」と、余計な工夫が凝らされた場所。
あの部屋の鍵は、誰も開けたくなかっただろう。あまりにも仕組みが厄介すぎて。
居住区にあった他の仲間たちの部屋にしたって、鍵というものは…。
(青の間に入る係を確認するのと同じで、いろんな認証システムとか…)
持ち主の好みや、肩書きなどで違った種類。パスワードを打ち込んでやれば開く扉や、その前に立った人間が誰かを確認しないと開いてくれない扉やら。
どれにしたって、今の時代の鍵とは違った。青の間も、前のハーレイの部屋も、ごくごく普通の仲間たちの部屋の扉にしても。
そんな具合だから、合鍵だって無かった船。何処の部屋にも、倉庫や様々な区画にも。
鍵を開ける方法からして違ったからには、合鍵があるわけがない。作りたくても、作る方法などありはしないのだから。
「…前のぼくたちの部屋、こんな鍵だと開かないね…」
合鍵だって作れやしないよ、どう頑張っても。今の鍵とは違うんだから。
ゼルやヒルマンがどんなに研究したって、あのタイプの鍵の合鍵は無理。…作れやしないよ。
絶対に無理、と今の自分でも分かる。そう簡単には開けられないように工夫された鍵は、それに応じた開け方だけしか、受け付けてなどはくれないから。
「分かったか? まるで時代が違ったんだな、前の俺たちが生きていた頃は」
鍵は開けられないことが大事で、合鍵なんぞは論外だった。合鍵があれば開いちまうから。
あの時代にも、こういった形の鍵は一応、あったんだが…。
何処にも無かったわけではないし、形を見たなら「鍵だ」と分かるものではあったが…。
残念なことに、前の俺だけが好きで使っていた、羽根ペンってヤツと同じでだな…。
レトロなアイテムの一つだったぞ、と今のハーレイが言う通り。
SD体制が敷かれた時代も、鍵穴に差し込む鍵ならばあった。鍵を差し込む鍵穴がついた、箱や机の引き出しなども。
とはいえ、それらは「信用されてはいなかった」鍵で、一種の飾り。
本当に隠しておきたい文書や品物、そういったものを其処に仕舞いはしなかった。誰が見たってかまわないものや、鍵を開けて「どうだ」と自慢したいものを入れておくだけで。
ハーレイ曰く、「レトロなアイテム」だった鍵。白いシャングリラが在った頃には。
「今だと、本物なんだがな…」
どれも立派に現役の鍵で、家の扉も、部室の扉も、学校の門を開けられる鍵もあるんだが…。
前の俺たちの目には頼りなくても、どれも本物の鍵ばかりだ。これも、これも、この鍵だって。
どの鍵も何処かの鍵なんだ、とハーレイはキーホルダーを元のポケットの中に仕舞った。
「こいつらは大事な鍵だしな?」と。
失くしちまったら大変だ、と大切に仕舞い込まれた鍵たちの束。その中の一つを選んで使えば、車も動くし、家にも入れる。
ハーレイが柔道着を入れたりしているロッカーも開けば、柔道部の部室に入ることも出来る。
「鍵って、昔に戻ったんだね。…ぼくたちは未来に来ちゃったのに」
前のぼくたちが生きた頃よりも、ずっと昔の時代の人は、今みたいな鍵を使ってたんでしょ?
シャングリラの時代には、レトロなアイテムだったんだから。…そういう鍵は。
「うむ。前の俺が好きそうな鍵ではあった」
いくら好きでも、キャプテンの部屋には使えないんだが…。あの時代ではな。
今の俺たちには、こっちの方が普通になっちまったが。
学校だろうが、ロッカーだろうが、家であろうが、何処もこの手の鍵ばっかりで…。
お蔭で合鍵を作る店だって、幾つもあるというわけだ。道具さえあれば、直ぐに作れるから。
店で少しだけ待ってる間に出来ちまう、とハーレイは笑う。「早くて安くて、便利だよな」と。
「そうなんだけど…。でも、どうしてだろう?」
鍵の形が、昔に戻っちゃったのは。…シャングリラの頃には、うんと複雑だったのに。
もっと複雑になったんだったら分かるけれども、どうして逆になっちゃったのかな…?
「なあに、簡単なことだってな。…平和な時代になったからさ」
人間がみんなミュウになったら、戦争も武器も無くなった。誰も争ったりしないから。
平和なんだし、暗殺なんて物騒なことも無ければ、泥棒もいない世の中だ。
厳重に鍵をかけなくっても、誰も困りはしないってな。殺されも、盗まれもしないんだから。
そうは言っても、やっぱり鍵は欲しいモンだし、ああいう鍵で充分だろう、ということだ。
鍵穴に入れて回してやったら、カチャリと開いたり、閉まったりする鍵。
もっとも、宇宙船となったら、昔と変わらないだろうがな。…シャングリラの頃と。
客船にしても、輸送船にしても、大勢の人の命を預かる宇宙船。外は真空の宇宙空間だから。
いくら乗客がミュウばかりでも、宇宙はやはり危険な場所。咄嗟にシールドを張れなかったら、命を落としかねない所。
そんな宇宙を飛んでゆく船は、車みたいに鍵一つでは動かせない。
キーを差し込んだだけでエンジンが始動したりはしなくて、多分、昔と同じなのだろう。技術が進歩している分だけ、手順が多少変わっていても。
宙港を離陸してゆく前には、何人もが自分の担当する部分の安全やデータを確認する。そのまま離陸してもいいのか、前の段階に戻って整備すべきかなどを。
それが済んだら、ようやく発進できる船。乗客を乗せて、遥か宇宙へと。
「前の俺の頃と大して変わってないのが、宇宙船の方の鍵ってヤツだが…」
車みたいに、キーを使えばいいってわけにはいかないんだが…。行き先は宇宙なんだから。
しかし、個人の家とかだったら、レトロな鍵で足りるってこった。
合鍵を作ろうと思った時には、店に出掛けて頼んだらポンと出来ちまうような。
ゼルやヒルマンにも無理だったのにな…、とハーレイは可笑しそうな顔。シャングリラで一番の技術力を自慢していたゼルと、博識だったヒルマンと。
白いシャングリラを設計したような二人がやっても、青の間の合鍵は作れなかった、と。それにキャプテンの部屋の合鍵も、他の仲間たちの部屋や、倉庫なんかの合鍵も。
「面白いよね、今だと簡単なんだけど…。家の鍵でも、学校の鍵でも、直ぐに出来ちゃう」
せっかく簡単に作れるんだし、ぼくも欲しいよ。ハーレイの家の鍵の合鍵。
お守りに作って欲しいんだけどな、ホントに一番安い合鍵でかまわないから。
「今は駄目だと言ったがな? チビのお前には早すぎると」
前のお前と同じくらいに大きくなったら、作ってやる。俺が留守でも、入れるように。
お前、金色のが欲しいのか?
アクセサリーが好きなタイプだとは思えないんだが、どうやら憧れらしいしな?
首から下げて自慢したいのなら、そういうヤツを作ってやるが。
金色の鍵を作る値段も、そんなに高くはないだろう。本物の金じゃないんだから。
「うーん…?」
首から下げておくんだったら、金色の方がいいのかな…。銀色の鍵でも、お洒落なのかも…。
バスで見掛けた女性の鍵は、金色の鍵。アクセサリーか、合鍵なのかは謎だった鍵。
自分が貰うのは合鍵なのだし、アクセサリーらしく金色にするか、銀色の鍵でもお洒落なのか。服によっては金よりも銀で、自分の髪の色も銀色。
(…金色の合鍵を作って貰うか、銀色でいいか…)
どっちだろう、と考えたけれど、合鍵を貰える頃になったら、自分は大きく育っている。堂々とハーレイの家に出掛けて、合鍵を使って入れるほどに。
そういう姿に育ったのなら、結婚の日も遠くない。婚約しているかもしれない。
(結婚したら、大抵の時は、ハーレイと一緒にいるんだろうし…)
ハーレイが仕事に行っている間に、何処かに行くなら、合鍵で扉を閉めてゆく。それが普通で、当たり前の日々。戻った時には、合鍵で扉を開けて入って。
その頃にはもう、珍しくもないものが合鍵。失くさないよう気を付けるだけで、宝物だとまでは思わないだろう。「自分の家の鍵」なのだから。
そうなる前の、結婚までの短い間だけなら、合鍵を仕舞っておく場所は…。
(ポケットの中とかでもいいのかな?)
いつも首から下げておかなくても、使う時だけ出してくるとか。「留守なんだ…」とポケットを探って、頼もしい合鍵で扉を開けてやるために。
でも…。
(やっぱり、首から下げておくのも…)
幸せだろうし、迷ってしまう。
どういう合鍵を貰うのがいいか。金色の鍵か、銀色の鍵か、どちらが自分に似合うだろうかと。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくが首から下げるんだったら、どっちの鍵が似合いそう?」
金色の鍵か、銀色の方か。…ぼくの髪の毛、銀色なんだし、銀色なのかな…?
だけど金色の鍵も素敵だったし、似合わなくても金色の鍵にした方がいいかもしれないし…。
「お前に似合いの鍵の色ってか? 俺のセンスに期待しないで、今の間に悩んでおけ」
いつも着ている服の色とか、そういったこともよく考えて。
金がいいのか、銀がいいのか、鏡の前でも悩むんだな。俺はお前の注文通りに作ってやるから。
しかし、お前のことだしなあ…。明日には忘れていそうだが。合鍵のことは、すっかり全部。
「酷いよ、ハーレイ!」
ぼくは真剣に悩んでいるのに、忘れそうだなんて…。酷いよ、ホントに酷すぎるってば!
あんまりだよ、と文句を言ったけれども、きっと本当に忘れるのだろう。
下手をしたなら、まだハーレイが家にいる内に。母が「夕食よ」と呼びに来るよりも前に。
(…ホントに、今日中に忘れちゃいそう…)
ハーレイが「またな」と帰る頃には、頭から消えていそうな合鍵。金色の鍵も、銀色の鍵も。
けれど、いつかは貰える合鍵。
ハーレイが留守にしていた時には、入って待っていられるように。玄関の扉をそれで開いて。
平和になった今の時代は、鍵一つだけで何処でも入れる。
学校だろうと、ハーレイが暮らしている家だろうと、何処だって、合鍵がありさえすれば。
そういう素敵な合鍵を一個、ハーレイにプレゼントして貰おう。
学校だとか、柔道部の部室の鍵は要らないけれども、ハーレイの家の合鍵を一つ。
「これで入れる」と貰えた時には、きっと嬉しい。金色だろうと、銀色だろうと、もう最高に。
鎖を通して首から下げたり、握り締めたり、枕の下にも入れそうな感じ。眠る時には。
(早く欲しいな…)
ハーレイの家に入れる合鍵、と未来の自分の姿を夢見る。
出掛けて行ったら留守だった時も、鍵を開けてハーレイの家に入って、中でのんびり。
お気に入りの椅子に座って本を読んだり、ダイニングのテーブルでお茶を飲んだり。
時には料理も出来たらいい。
ハーレイが好きな、「おふくろの味」のパウンドケーキを焼いたりも。
(勝手に入って、キッチンでお料理…)
お菓子作りもしたっていい。冷蔵庫とかの中身を勝手に出してしまって、使ったりして。
そのために合鍵があるのだから。
ハーレイの留守に家に入って、ハーレイを待つための幸せな道具が合鍵だから。
出来上がった料理が焦げていたって、パウンドケーキが下手くそだって、かまわない。
家に帰ったハーレイはきっと、笑顔で食べてくれるから。
「お前がいるとは思わなかったな」と、「美味いの、作ってくれたんだよな?」と…。
欲しい合鍵・了
※ハーレイの家の合鍵が欲しくなったブルー。持っているだけで幸せ気分になれるお守り。
断られてしまったわけですけれど、いつか貰える日が来るのです。何色の鍵になるか楽しみ。
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本物じゃないよね、とブルーが見詰めたもの。学校からの帰りに、路線バスの中で。
ふと見た、通路を挟んだ席。其処に座った若い女性のペンダント。
(金色の鍵…)
細い金色の鎖を通して、首から下げた金色の鍵。そういう形のペンダント。きっとアクセサリーなのだと思う。鍵の形をしているだけの。
アクセサリーだから、何処の扉が開くわけでもない。鍵の形の飾りというだけ。
でも…。
(本物だったら素敵だよね?)
アクセサリーではなくて、本物の鍵。ちゃんと使えて、扉が開く。
そうだとしたなら、開く扉は特別な場所の扉だろう。女性の家の扉の一つではなくて、箱などに使う鍵でもなくて…。
恋人に貰った、家の合鍵。それを使えば、留守の時にも家に入って待てる鍵。
せっかくだからと、わざわざ金色に作って貰って、ペンダントにしてくれた優しい恋人。いつも首から下げられるように、いつでも持っていられるように。
(恋人の家に出掛けて行ったら、あのペンダントで…)
鍵を開けて入って、料理しながら恋人の帰りを待つだとか。お菓子も作るかもしれない。恋人が家に帰って来たなら、作った料理やお菓子の出番。「おかえりなさい」と笑顔で迎えて。
(鍵さえあったら、先に入っていられるもんね?)
恋人が仕事に出掛けていたって、家の表で待っていないで。
「今日は帰りが遅くなるから」と言われた日だって、恋人の家で夕食の支度。帰って来たなら、直ぐに食べられるように。「料理だけ作って置いておくから」と手紙を残して帰ったりもして。
そういうのも素敵、と夢見てしまう。
自分だったら、そのための鍵が欲しいから。ハーレイの家に入って待っていたいから。
前の生から愛した恋人、生まれ変わってまた巡り会えた愛おしい人。
ハーレイの家の合鍵があれば、どんなに素敵なことだろう。
それで扉を開けられたなら。
ハーレイが家にいない時にも、中に入って帰りを待っていられたら。
いいな、と眺めた金色の鍵。アクセサリーか、本物なのかは謎だけれども。
(ああいう形の鍵もあるしね?)
本当に扉が開く鍵。扉についた鍵穴に入れて、回してやったらカチャリと小さな音がして。
あれが本物の合鍵だったら、と羨ましく思いながら降りたバス。恋人の家の扉が開く鍵、恋人に貰った金色の鍵。それを首から下げているなら、本当に幸せだろうから。
家に帰って、ダイニングでおやつを食べる間も、鍵が頭から離れない。ペンダントになっていた金色の鍵は、本物だった気がするものだから。
アクセサリーのように見えても、恋人の家の扉の合鍵。使う時には首から外して、あれを鍵穴に差し込んでやる。鍵が外れる方へ回して、鍵が開いたら扉を開けて家の中へと。
恋人が帰るまでの時間に、色々なことをするために。料理の支度や、お菓子作りや。
(ぼくも合鍵…)
もしもハーレイが贈ってくれたら、大切に持つことだろう。宝物みたいなものだから。いつでもハーレイの家に入れて、中で帰りを待てるのだから。
それを貰えたら、帰りに見掛けた女性みたいに、ペンダントにして肌身離さず持っておく。細い鎖を通してやって。
(金色の鍵じゃなくたって…)
実用的な鍵にしたって、やっぱり首から下げておく。アクセサリーには出来ないものでも、誰が見たって「ただの鍵」でも。ごく平凡な銀色でも。
どんな時でも持っていたいし、大切な鍵と一緒にいたい。首から下げておくのが一番。
(お風呂に入る時くらいしか…)
きっと外しはしないだろう。何処に行くにも、鍵と離れたくないものだから。
(学校は、アクセサリーは禁止だけれど…)
その学校でも、なんとかして持っていたいと思う。ハーレイに貰った大切な鍵を。
「家の鍵なんです」と言い張ったならば、持てるだろうか?
帰った時に母が留守なら、それを使って入らないと、と「家の鍵です」と嘘をついたら。
(首に下げるのは駄目かもだけど…)
家の鍵なら、きっと許して貰える筈。持っていないと困るものだし、「アクセサリーは駄目」と注意されても、他の形で持てるだろう。
制服のポケットに入れておいたら、いつでも一緒。「家の鍵です」と言い張りながら。
そんなのも素敵、と思った「制服のポケットに入れておく」鍵。落っことさないように、紐でも通して、それを何処かに結んでやって。
家の鍵なら先生だって怒らない。紐がポケットから覗いていたって、その先に鍵があったって。
(…ぼくの家じゃなくて、ハーレイの家の鍵なんだけどね?)
家の鍵には違いないもの、と考えながら戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、キッチンの母に返してから。
(合鍵かあ…)
勉強机の前に座った後にも、金色の鍵ばかり思い出す。アクセサリーか本物なのか、本当の所は分からないけれど。
(だけど、合鍵…)
自分がそれを貰ったならば、あんな風にして持つだろう。学校では首から下げられないのなら、制服のポケットに入れる形で。
(家の鍵です、って言えば絶対、大丈夫…)
先生に注意された時にはそれだよね、と言い訳までスラスラ浮かんでくる。本当に家の鍵なのかどうか、先生は確かめないだろうから。家に来てまで、鍵穴に入れたりするわけがない。
(鍵は鍵だし、何処かの扉が開くんだから…)
自分の家の鍵にしたって、ハーレイの家の鍵にしたって、鍵は鍵。先生たちに区別はつかない。
「持つための言い訳」まで思い付いたら、欲しくてたまらなくなった合鍵。
ハーレイの家の扉の鍵穴、其処に突っ込んだらカチャリと鍵が開く合鍵。
(チビの間は、ハーレイの家には行けないけれど…)
悲しいことに、そういう決まりになっている。
前の自分と同じ背丈に育たない内は、ハーレイの家には遊びに行けない。柔道部員たちは何度も呼んで貰って、暑い季節は庭で賑やかにバーベキューまでやっていたのに。
(…ぼくは一回、呼んで貰って、それっきりで…)
後はメギドの悪夢を見た夜、瞬間移動で飛んで行っただけ。あの時だって、朝食が済んだら車に乗せられて、家に帰されてしまっておしまい。
けれど、いつかは出掛けてゆける。大きくなったら、「遊びに来たよ」と何度でも。
思い付いた時には「行ってもいい?」と尋ねてみたり、予告もしないで押し掛けてみたり。
今は無理でも、何年か待てばその時が来る。前の自分とそっくり同じに育ったら。
いつかハーレイの家に行けるという、お守りに合鍵があったらいい。お守りに持っていられたらいい。「家の鍵です」と嘘をつきながら、学校に行く時もポケットに入れて。
ハーレイに頼めば作って貰えるだろうか、ただ「持っておく」だけならば?
留守の間に家まで出掛けて、合鍵を使って中に入るのではなかったら…?
使える時がやって来るまで使わないなら、お許しが貰えるかもしれない。約束通りに、育つまで家に行かないのなら。
(駄目で元々なんだしね…?)
合鍵が欲しいと頼んでみたい、と思っていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、合鍵、作ってくれる?」
作ってくれる所は色々あるでしょ、そういうお店。其処で作って欲しいんだけど…。駄目?
「はあ? 合鍵って…?」
なんでまた、とハーレイは怪訝そうな顔。「何処の合鍵が欲しいと言うんだ?」と。
学校の中の扉だったら、どれも最初から合鍵がある。生徒が個人的に使うロッカーでも、万一の時に困らないよう、合鍵の束が職員室にあるほどだから。
「ぼくが欲しいの、ハーレイの家の合鍵だけど…」
作ってくれたら嬉しいんだけどな、ハーレイの家の玄関の扉が開く合鍵。
一番安いヤツでいいから、とも頼んでみた。合鍵を作る店は色々、値段も色々だろうから。
「俺の家の玄関の合鍵だって…?」
お前、そんなので何をする気だ、空き巣の真似か?
俺が出掛けて留守の間に、勝手に入って中でゴソゴソするって言うのか、帰る時間はお前の方が早いんだからな?
俺が柔道部に行っていたなら、家は留守だし…。お前は放課後で暇なんだし。
もっとも空き巣は、今の時代はいやしないんだが。…泥棒なんかはいない時代だ、空き巣なんて言葉は本の中にしか出て来ないがな。
そいつをお前がやるって言うのか、盗っていくものは色々ありそうだから…。
他のヤツらの目にはガラクタでも、お前にとっては宝物ってヤツが山ほどドッサリとな。
俺の愛用のマグカップだって盗られそうだ、とハーレイは空き巣の心配中。コーヒーを飲む時のお気に入りのカップで、ハーレイの家で見掛けたそれ。とても大きなマグカップ。
「茶碗も危ないかもしれん」だとか、「箸だって危なそうだよな」とか。
「俺が愛用してるってだけで、お前は欲しがりそうだから…。茶碗だろうが、カップだろうが」
消えていたなら新しいのを買えばいいだろう、と鞄に詰めて行きそうなんだ。俺に黙って。
お宝を奪って逃げる時には、元通りに鍵までかけて行ってな。
俺が仕事から帰って来たって、最初は気付かないんだろう。鍵はきちんとかかってるから、何も知らずに開けて入って、さて、とカップを使おうとしたら、見事に消えているってな。
マグカップどころか、茶碗も箸も…、とハーレイが的外れなことを並べ立てるものだから。
「違うよ、空き巣をするんじゃなくて…。留守の間に家に入りたいわけでもなくて…」
お守りに欲しいんだよ、ハーレイの家の合鍵を。…ぼくのお守り。
「…お守りだって?」
俺の家の鍵には、何の御利益も詰まっちゃいないと思うがな?
玄関の扉が開くってだけで、他の役には立たないぞ。本物の鍵でもその有様だし、合鍵となれば御利益の無さは想像がつくと思わんか?
どんなものでも、本家本元が一番御利益があるもんだ。複製品だと、ちょいと落ちるし…。
ただでも御利益の無い鍵の合鍵なんかが、何のお守りになると言うんだ…?
俺にはサッパリ分からんのだが、とハーレイは首を捻っている。「何に効くんだ?」と。
「えっと、お守りには違いないけど…。それ、ぼくにしか効かないから…」
ぼくの心に効くお守りだよ、持っているだけで幸せになれるお守り。それが御利益。
これがハーレイの家の合鍵、って思うだけでホントに幸せだから…。
「お前だけに効くお守りだって? 何処から思い付いたんだ?」
何かのおまじないでも読んだか、合鍵を持ったら幸せになるとか、そういう記事を…?
それとも本に書いてあったか、何かのついでに…?
「おまじないじゃないよ、今日の帰りにバスで見掛けたペンダント…」
若い女の人が首から下げてたんだよ、金色の鍵のペンダントを。
アクセサリーかな、って思ったけれども、そうじゃないかもしれないよね、って…。
恋人に貰った家の合鍵で、アクセサリーに使えるように、金色に作ってあるのかも、って…。
細い鎖で下げていたよ、と話した鍵のペンダント。金色の鍵。
「あんな風に合鍵を持っていたい」と、「ハーレイの家のが欲しいんだけど」と。
「学校はアクセサリーが禁止で、ペンダントにしてたら叱られるかもしれないけれど…」
家の鍵です、って言ったら許して貰えそう。ペンダントは駄目でも、制服のポケットに入れるのならね。家に帰った時に誰もいなかったら、鍵が無いと入れないんだから。
何処の鍵かは確かめないでしょ、先生だって。…「家の鍵か」って眺めるだけで。
だから、ハーレイの家の鍵でも大丈夫。ぼくの家の鍵だと思われておしまい。
大切にするから、合鍵、欲しいな…。
今はまだハーレイの家に行くのは無理だし、合鍵があっても、鍵を開けたり出来ないけれど…。
持っていたって使えはしなくて、何の役にも立たないんだけど…。だけど、お守り。
いつか使える時が来るよ、って考えるだけで幸せじゃない。ぼくが大きくなった時には、合鍵、使っていいんだから。
ハーレイが留守にしている時には、それで入って…、と瞳を輝かせた。玄関に鍵がかかっていた時も、合鍵があれば中に入れる。「留守なんだ…」と溜息をついて帰る代わりに、扉を開けて中に入って、ハーレイの帰りを待つことが出来る。お気に入りの椅子に座ったりして、のんびりと。
いつか使えるだろう合鍵、それがあったら幸せな気分。今は出番がまるで無くても。
「そういう理由で合鍵なのか…。お守りという意味も良く分かったが…」
生意気だぞ、お前。チビのくせして、俺の家の合鍵が欲しいだなんて。
前のお前と同じに育って、俺の家に出入りが出来るようになったら、合鍵だって作ってやらないわけではないが…。欲しいんだったら、幾らでも作ってやるんだが…。
チビのお前じゃ話にならんな、文字通り、役に立たないんだから。
お前がワクワク持っているだけで、その鍵、出番が来やしないからな。
それじゃ鍵だって可哀相だろうが、とハーレイが眉間に寄せた皺。「使われない鍵じゃ、ただの飾りになっちまう」と。
合鍵とはいえ、鍵の姿に生まれたからには、使われてこそ。人間の役に立つ道具でないと、と。
「…やっぱり駄目?」
ぼくがお守りにするだけだったら、ハーレイの家の合鍵は作ってくれないの?
一番安いヤツでいいのに、綺麗な金色の鍵じゃなくても…。
合鍵だったら何でもいいよ、と食い下がったけれど。本当に欲しいのだけれど…。
「俺が駄目だと言ったら、駄目だ。お前にはまだ、合鍵ってヤツは早すぎる」
考えてもみろよ、前のお前だって、キャプテンの部屋の合鍵なんぞは持ってなかった。ちゃんと育った立派な大人で、俺と恋人同士でも。
もっとも、お前に鍵は必要無かったがな。鍵も扉も、お前には無いも同然だったし。
どんな場所でも、瞬間移動でヒョイと入ってしまうんだから…。鍵があろうが、扉があろうが。
いや、その前にだ…。
鍵が無いのか、と苦笑したハーレイ。「今の時代とは、鍵が違ってたよな」と。
「え? 鍵って…」
前のぼくたちが生きてた頃でも、鍵はきちんとあったでしょ?
シャングリラの中にも鍵はあったし、アルタミラの檻にも、あそこで閉じ込められたシェルターにも鍵…。檻もシェルターも、内側からは開けられなかったんだから。
そうなったのは鍵のせいだよ、と例に挙げた忌まわしい記憶。
前の自分は、アルタミラで狭い檻の中に押し込められていた。人体実験の時だけ、外に出される牢獄に。もちろん中から開くわけがないし、逃げることさえ諦めた。未来に何の希望も無いから、心も身体も成長を止めて。
メギドの炎がアルタミラを星ごと滅ぼした時は、人類はミュウをシェルターの中に閉じ込めた。けして外には出られないよう、星ごと焼き滅ぼされるように。
その中で悟った「終わりの時」。このままでいたら死んでしまう、と懸命に扉を叩いてみても、扉は開きはしなかった。前の自分のサイオンが扉を、シェルターの壁ごと破壊するまで。
つまり、存在していた鍵。檻もシェルターも、鍵が無いなら簡単に開いた筈なのだから。
それにシャングリラにも、鍵は幾つも。キャプテンの部屋にも、倉庫などにも。
「アルタミラの檻に、シェルターなあ…」
あそこにも確かに鍵はあったな、俺たちには歯が立たなかったのが。
忌々しい鍵の話はともかく、シャングリラにも鍵は幾つもあったってわけで…。
白い鯨に改造する前から、個人の部屋にも鍵はかかった。住人が閉めようと思いさえすれば。
改造した後の船になったら、鍵がかかる場所もグンと増えたが…。
船が大きくなった分だけ、部屋も増えたし、施錠しなけりゃ駄目な区画も増えたから…。
だが…、とハーレイは鳶色の瞳をゆっくり瞬かせた。「鍵ってヤツが問題だ」と。
「シャングリラにあった色々な部屋は、こういう鍵で開いてたのか?」
今の俺の家の鍵はコレだが、シャングリラで俺たちが使ってた鍵もこんなのだったか…?
これなんだが、とハーレイが取り出したキーホルダー。背広の上着のポケットから。テーブルの上にコトリと置いて、それにつけられた鍵を順に指してゆく。
家のがこれで、車がこれで、と。柔道部の部室の鍵がこいつで…、と色々な鍵を。
「…一杯あるね、ハーレイの鍵…」
やっぱり大人の人は違うね、ぼくだと鍵も持っていないし、キーホルダーの出番も無いよ。家の鍵だって、要りそうな時だけ、ママから借りて持って行くから。
ホントに沢山、とキーホルダーについた鍵の数に感心していたら…。
「そういや、車のキーも無いよな」
今の俺には当たり前のものだが、前の俺だとキーは無縁で…。うん、無かったよな、車のは。
「車?」
あった筈だよ、車のキー。…前のぼくは運転しなかったけれど、人類の世界に車はあったし…。
人類が車を動かす時には、今と同じでキーだった筈だと思うけど…。
基本は変わっていないものね、と前の自分が生きた時代の車の形を思い浮かべる。今の車たちの隣に並べてみたって、さほど違いはしないだろう。車は車で、人間を乗せて道路を走るもの。
形が変わっていないのだったら、あの頃だってキーがあった筈。使った記憶は無いのだけれど。
「車のキーはあっただろうな、お前が言っている通りに。…俺も使っちゃいないんだが」
シャングリラにあったのは自転車くらいで、車は無かったモンだから。
俺が言うのは、前の俺の車というヤツだ。いわゆる車よりも遥かにデカくて、シャングリラって名前がついてたんだが。
…今の俺の車に、いずれその名をつける予定だし、シャングリラだって俺の車と言っていい。
俺の私物じゃなかっただけで、俺が動かしていたんだから。大勢の仲間を乗っけてな。
シャングリラの運転手は前の俺だが、あの船にキーは無かったぞ。
車みたいに、これさえ使えば動くってヤツは。…エンジンがスタートするキーなんかは。
「…無かったね…」
ホントだ、同じシャングリラって名前をつけてみたって、車と船とじゃ違うんだね…。
全然違う、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せた。懐かしい白いシャングリラに。
今のハーレイの愛車は白くないのだけれども、いつか二人でドライブ出来る時が来たなら、あの船の名前をつけてやる。二人だけのために走ってくれる車に、「シャングリラ」と。
けれど本物の白いシャングリラと、ハーレイの車は全く違う。シャングリラの方は宇宙船だし、道路を走る車とは違って当たり前。
シャングリラを動かしていたエンジンは、小さなキーを差し込むだけでは始動などしない。船を動かすには幾つもの手順、それを正しく実行してゆくことが必要。
(メイン・エンジン点火、って…)
キャプテンや機関長が指示して、それに携わる仲間が動く。各自の持ち場で、安全確認やデータ確認などをして。何人もが「いける」と判断を下して、その作業をして、ようやくシャングリラが動き始める。巨大な白い鯨のような船体が。
(物凄く沢山の手順だけれども、点火までには、ほんの一瞬…)
皆が瞬時にこなした作業。エンジンに点火するために。
でないと船は動かないから、危険を回避することすらも出来ない。それもあって、完全に止まることはなかったシャングリラ。前の自分が生きていた頃には、ただの一度も。
(メイン・エンジンが、メンテナンスで止まっていたって…)
補助エンジンが常に動いていた。そちらの方も、小さなキーを使うだけでは動かない。何人もの仲間が関わらないと、安全やデータを確認しないと。
(…本物の方のシャングリラには…)
こういうキーは無かったのか、と見詰めた車のためのキー。
今のハーレイの自慢の車は、このキーがあれば動くのに。前のハーレイのマントと同じ色の車、あれを動かすにはキーを差し込んでやればいいのに。
(船のシャングリラは、とても大変…)
キーだけじゃ動いてくれないんだ、と納得させられたけれど、鍵は確かに無かったけれど。
そのシャングリラの船体の中には、幾つもの部屋や倉庫や、様々な区画。
居住区にあった個人の部屋には鍵がついていたし、立ち入りを制限すべき場所にも、同じに鍵。
部屋も、立ち入り制限区画も、倉庫なども鍵が間違いなくあった。鍵がかかるなら、鍵を開けるための方法がある。でないと、扉は開かないから。
(鍵が無いと、開いてくれないよ…?)
今の自分の家の扉も、ハーレイの家の玄関も。学校のロッカーも開きはしないし、シャングリラでも同じだと思う。鍵がかかる場所があった以上は、それを開けるための鍵が欠かせない。それが無ければ、誰も入れはしないのだから。
(瞬間移動で飛び込むんなら、別だけど…)
ジョミーを船に迎える前には、瞬間移動が出来たのは前の自分だけ。他の仲間には無理だった。その方法で入れないなら、鍵が無かった筈はないのに…。
(どうなってるの…?)
今のハーレイの「鍵は無かった」という言葉。鍵はあったし、鍵がかかるなら開けるための鍵が必要なのに。
「やれやれ…。まだ思い出せないって顔をしてるな、お前ときたら」
俺は嘘なんかついちゃいないし、お前を騙そうともしてはいないぞ。鍵が無かった話の件で。
いいか、前のお前の青の間にしても、俺がいたキャプテンの部屋にしてもだな…。
どちらにも鍵はあったわけだが、少なくとも、こういう鍵じゃなかった。今日のお前が見かけたような、こんな形の鍵なんかでは…な。
こいつだ、とハーレイは鍵の一つを指で弾いた。キーホルダーについている中の一つを。
それを使えば、柔道部の部室の扉が開くらしい。他の幾つもの鍵との違いは、見ているだけではよく分からない。車のキーなら、一目で「あれだ」と分かるけれども。
鍵の基本の形は同じ。刻まれた溝や、差し込む部分の僅かな違いで別の鍵になる。
けれどシャングリラでは、もっと厳重だったシステム。
基本の鍵など何処にも無かった。「これがそうだ」という形も無かった。
キーホルダーなどあるわけがなくて、鍵の数だけあったと言っても良かった鍵。その場所の鍵を開ける方法。部屋も倉庫も、立ち入り制限区画の扉も。
(鍵なんか、誰も差し込まなくて…)
回してカチャリと開けてもいない。
そんなシステムではないのだから。鍵を開けるには、様々な手順。
(方法だって、ホントに色々…)
一つだけで開く扉もあれば、幾つも組み合わされていた場所も。其処の重要性に応じて。
そうだったっけ、と蘇って来た遠い遠い記憶。
施錠が必要だった場所では、誰も鍵など使わなかった。開ける時にも、閉める時にも。…鍵穴に入れて回す鍵など、誰一人として。
前の自分は瞬間移動であらゆる扉を通り抜けたけれど、それが出来ない船の仲間たちは皆、扉を相手に苦労していた。鍵がかかっていたならば。
施錠されたキャプテンの部屋に入る時には、ハーレイに頼んで中から開けて貰っていたか…。
(パスワードを幾つも打ち込むだとか、そんなので…)
部屋の掃除をする係などが入っていただけ。部屋の主が留守にしていた時は。
キャプテンは船の最高責任者だけに、たやすく入れる部屋ではいけない。本人の許可か、入れる資格を持つ者だけが知っている手順か、それが無ければ開かなかった扉。
今のハーレイのキーホルダーについているような、鍵一つでは開けられない。そういう形の鍵も無ければ、鍵穴だって無いのだから。
前の自分が長く暮らした青の間も同じ。ソルジャーに用がある者は多いだろうから、昼間は施錠しなかったけれど、施錠したなら…。
(入るの、大変…)
ちょっと視察に出掛けるから、と鍵をかけてから出ようものなら、厄介なことになっただろう。
「ソルジャーがお戻りにならない間に、掃除をしよう」と部屋付きの係がやって来たって、鍵を開けるのに幾つもの手順。
船で一番偉いとされた、ソルジャーの私室なのだから。…キャプテンとは比較にならない存在。
そのソルジャーの部屋の鍵だし、そう簡単には開かない。
(掃除しに来た係の名前を打ち込んで…)
係の名前と、それを打ち込んだ仲間が同じ人間かどうか、その照合から始まる仕組み。無関係な者には、ソルジャー不在の時の青の間には、立ち入り許可が下りないから。
間違いなく同じ人間なのだ、と証明したって、今度はロックを解除するための作業が必要。
どういう理由で鍵を開けたいのか、目的によって違う色々なパスワードなど。
掃除したいのなら、掃除の時に使うものを入力、それが通れば扉を開くための別のパスワードを入れて、と複雑すぎた青の間の鍵。
たとえ部屋付きの係にしたって、ミスをしたなら、けして開いてくれないほどに。
とんでもない鍵があったんだった、と思い出した前の自分の部屋。青の間と呼ばれた、やたらと大きすぎた部屋。「ソルジャーの威厳を高めるために」と、余計な工夫が凝らされた場所。
あの部屋の鍵は、誰も開けたくなかっただろう。あまりにも仕組みが厄介すぎて。
居住区にあった他の仲間たちの部屋にしたって、鍵というものは…。
(青の間に入る係を確認するのと同じで、いろんな認証システムとか…)
持ち主の好みや、肩書きなどで違った種類。パスワードを打ち込んでやれば開く扉や、その前に立った人間が誰かを確認しないと開いてくれない扉やら。
どれにしたって、今の時代の鍵とは違った。青の間も、前のハーレイの部屋も、ごくごく普通の仲間たちの部屋の扉にしても。
そんな具合だから、合鍵だって無かった船。何処の部屋にも、倉庫や様々な区画にも。
鍵を開ける方法からして違ったからには、合鍵があるわけがない。作りたくても、作る方法などありはしないのだから。
「…前のぼくたちの部屋、こんな鍵だと開かないね…」
合鍵だって作れやしないよ、どう頑張っても。今の鍵とは違うんだから。
ゼルやヒルマンがどんなに研究したって、あのタイプの鍵の合鍵は無理。…作れやしないよ。
絶対に無理、と今の自分でも分かる。そう簡単には開けられないように工夫された鍵は、それに応じた開け方だけしか、受け付けてなどはくれないから。
「分かったか? まるで時代が違ったんだな、前の俺たちが生きていた頃は」
鍵は開けられないことが大事で、合鍵なんぞは論外だった。合鍵があれば開いちまうから。
あの時代にも、こういった形の鍵は一応、あったんだが…。
何処にも無かったわけではないし、形を見たなら「鍵だ」と分かるものではあったが…。
残念なことに、前の俺だけが好きで使っていた、羽根ペンってヤツと同じでだな…。
レトロなアイテムの一つだったぞ、と今のハーレイが言う通り。
SD体制が敷かれた時代も、鍵穴に差し込む鍵ならばあった。鍵を差し込む鍵穴がついた、箱や机の引き出しなども。
とはいえ、それらは「信用されてはいなかった」鍵で、一種の飾り。
本当に隠しておきたい文書や品物、そういったものを其処に仕舞いはしなかった。誰が見たってかまわないものや、鍵を開けて「どうだ」と自慢したいものを入れておくだけで。
ハーレイ曰く、「レトロなアイテム」だった鍵。白いシャングリラが在った頃には。
「今だと、本物なんだがな…」
どれも立派に現役の鍵で、家の扉も、部室の扉も、学校の門を開けられる鍵もあるんだが…。
前の俺たちの目には頼りなくても、どれも本物の鍵ばかりだ。これも、これも、この鍵だって。
どの鍵も何処かの鍵なんだ、とハーレイはキーホルダーを元のポケットの中に仕舞った。
「こいつらは大事な鍵だしな?」と。
失くしちまったら大変だ、と大切に仕舞い込まれた鍵たちの束。その中の一つを選んで使えば、車も動くし、家にも入れる。
ハーレイが柔道着を入れたりしているロッカーも開けば、柔道部の部室に入ることも出来る。
「鍵って、昔に戻ったんだね。…ぼくたちは未来に来ちゃったのに」
前のぼくたちが生きた頃よりも、ずっと昔の時代の人は、今みたいな鍵を使ってたんでしょ?
シャングリラの時代には、レトロなアイテムだったんだから。…そういう鍵は。
「うむ。前の俺が好きそうな鍵ではあった」
いくら好きでも、キャプテンの部屋には使えないんだが…。あの時代ではな。
今の俺たちには、こっちの方が普通になっちまったが。
学校だろうが、ロッカーだろうが、家であろうが、何処もこの手の鍵ばっかりで…。
お蔭で合鍵を作る店だって、幾つもあるというわけだ。道具さえあれば、直ぐに作れるから。
店で少しだけ待ってる間に出来ちまう、とハーレイは笑う。「早くて安くて、便利だよな」と。
「そうなんだけど…。でも、どうしてだろう?」
鍵の形が、昔に戻っちゃったのは。…シャングリラの頃には、うんと複雑だったのに。
もっと複雑になったんだったら分かるけれども、どうして逆になっちゃったのかな…?
「なあに、簡単なことだってな。…平和な時代になったからさ」
人間がみんなミュウになったら、戦争も武器も無くなった。誰も争ったりしないから。
平和なんだし、暗殺なんて物騒なことも無ければ、泥棒もいない世の中だ。
厳重に鍵をかけなくっても、誰も困りはしないってな。殺されも、盗まれもしないんだから。
そうは言っても、やっぱり鍵は欲しいモンだし、ああいう鍵で充分だろう、ということだ。
鍵穴に入れて回してやったら、カチャリと開いたり、閉まったりする鍵。
もっとも、宇宙船となったら、昔と変わらないだろうがな。…シャングリラの頃と。
客船にしても、輸送船にしても、大勢の人の命を預かる宇宙船。外は真空の宇宙空間だから。
いくら乗客がミュウばかりでも、宇宙はやはり危険な場所。咄嗟にシールドを張れなかったら、命を落としかねない所。
そんな宇宙を飛んでゆく船は、車みたいに鍵一つでは動かせない。
キーを差し込んだだけでエンジンが始動したりはしなくて、多分、昔と同じなのだろう。技術が進歩している分だけ、手順が多少変わっていても。
宙港を離陸してゆく前には、何人もが自分の担当する部分の安全やデータを確認する。そのまま離陸してもいいのか、前の段階に戻って整備すべきかなどを。
それが済んだら、ようやく発進できる船。乗客を乗せて、遥か宇宙へと。
「前の俺の頃と大して変わってないのが、宇宙船の方の鍵ってヤツだが…」
車みたいに、キーを使えばいいってわけにはいかないんだが…。行き先は宇宙なんだから。
しかし、個人の家とかだったら、レトロな鍵で足りるってこった。
合鍵を作ろうと思った時には、店に出掛けて頼んだらポンと出来ちまうような。
ゼルやヒルマンにも無理だったのにな…、とハーレイは可笑しそうな顔。シャングリラで一番の技術力を自慢していたゼルと、博識だったヒルマンと。
白いシャングリラを設計したような二人がやっても、青の間の合鍵は作れなかった、と。それにキャプテンの部屋の合鍵も、他の仲間たちの部屋や、倉庫なんかの合鍵も。
「面白いよね、今だと簡単なんだけど…。家の鍵でも、学校の鍵でも、直ぐに出来ちゃう」
せっかく簡単に作れるんだし、ぼくも欲しいよ。ハーレイの家の鍵の合鍵。
お守りに作って欲しいんだけどな、ホントに一番安い合鍵でかまわないから。
「今は駄目だと言ったがな? チビのお前には早すぎると」
前のお前と同じくらいに大きくなったら、作ってやる。俺が留守でも、入れるように。
お前、金色のが欲しいのか?
アクセサリーが好きなタイプだとは思えないんだが、どうやら憧れらしいしな?
首から下げて自慢したいのなら、そういうヤツを作ってやるが。
金色の鍵を作る値段も、そんなに高くはないだろう。本物の金じゃないんだから。
「うーん…?」
首から下げておくんだったら、金色の方がいいのかな…。銀色の鍵でも、お洒落なのかも…。
バスで見掛けた女性の鍵は、金色の鍵。アクセサリーか、合鍵なのかは謎だった鍵。
自分が貰うのは合鍵なのだし、アクセサリーらしく金色にするか、銀色の鍵でもお洒落なのか。服によっては金よりも銀で、自分の髪の色も銀色。
(…金色の合鍵を作って貰うか、銀色でいいか…)
どっちだろう、と考えたけれど、合鍵を貰える頃になったら、自分は大きく育っている。堂々とハーレイの家に出掛けて、合鍵を使って入れるほどに。
そういう姿に育ったのなら、結婚の日も遠くない。婚約しているかもしれない。
(結婚したら、大抵の時は、ハーレイと一緒にいるんだろうし…)
ハーレイが仕事に行っている間に、何処かに行くなら、合鍵で扉を閉めてゆく。それが普通で、当たり前の日々。戻った時には、合鍵で扉を開けて入って。
その頃にはもう、珍しくもないものが合鍵。失くさないよう気を付けるだけで、宝物だとまでは思わないだろう。「自分の家の鍵」なのだから。
そうなる前の、結婚までの短い間だけなら、合鍵を仕舞っておく場所は…。
(ポケットの中とかでもいいのかな?)
いつも首から下げておかなくても、使う時だけ出してくるとか。「留守なんだ…」とポケットを探って、頼もしい合鍵で扉を開けてやるために。
でも…。
(やっぱり、首から下げておくのも…)
幸せだろうし、迷ってしまう。
どういう合鍵を貰うのがいいか。金色の鍵か、銀色の鍵か、どちらが自分に似合うだろうかと。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくが首から下げるんだったら、どっちの鍵が似合いそう?」
金色の鍵か、銀色の方か。…ぼくの髪の毛、銀色なんだし、銀色なのかな…?
だけど金色の鍵も素敵だったし、似合わなくても金色の鍵にした方がいいかもしれないし…。
「お前に似合いの鍵の色ってか? 俺のセンスに期待しないで、今の間に悩んでおけ」
いつも着ている服の色とか、そういったこともよく考えて。
金がいいのか、銀がいいのか、鏡の前でも悩むんだな。俺はお前の注文通りに作ってやるから。
しかし、お前のことだしなあ…。明日には忘れていそうだが。合鍵のことは、すっかり全部。
「酷いよ、ハーレイ!」
ぼくは真剣に悩んでいるのに、忘れそうだなんて…。酷いよ、ホントに酷すぎるってば!
あんまりだよ、と文句を言ったけれども、きっと本当に忘れるのだろう。
下手をしたなら、まだハーレイが家にいる内に。母が「夕食よ」と呼びに来るよりも前に。
(…ホントに、今日中に忘れちゃいそう…)
ハーレイが「またな」と帰る頃には、頭から消えていそうな合鍵。金色の鍵も、銀色の鍵も。
けれど、いつかは貰える合鍵。
ハーレイが留守にしていた時には、入って待っていられるように。玄関の扉をそれで開いて。
平和になった今の時代は、鍵一つだけで何処でも入れる。
学校だろうと、ハーレイが暮らしている家だろうと、何処だって、合鍵がありさえすれば。
そういう素敵な合鍵を一個、ハーレイにプレゼントして貰おう。
学校だとか、柔道部の部室の鍵は要らないけれども、ハーレイの家の合鍵を一つ。
「これで入れる」と貰えた時には、きっと嬉しい。金色だろうと、銀色だろうと、もう最高に。
鎖を通して首から下げたり、握り締めたり、枕の下にも入れそうな感じ。眠る時には。
(早く欲しいな…)
ハーレイの家に入れる合鍵、と未来の自分の姿を夢見る。
出掛けて行ったら留守だった時も、鍵を開けてハーレイの家に入って、中でのんびり。
お気に入りの椅子に座って本を読んだり、ダイニングのテーブルでお茶を飲んだり。
時には料理も出来たらいい。
ハーレイが好きな、「おふくろの味」のパウンドケーキを焼いたりも。
(勝手に入って、キッチンでお料理…)
お菓子作りもしたっていい。冷蔵庫とかの中身を勝手に出してしまって、使ったりして。
そのために合鍵があるのだから。
ハーレイの留守に家に入って、ハーレイを待つための幸せな道具が合鍵だから。
出来上がった料理が焦げていたって、パウンドケーキが下手くそだって、かまわない。
家に帰ったハーレイはきっと、笑顔で食べてくれるから。
「お前がいるとは思わなかったな」と、「美味いの、作ってくれたんだよな?」と…。
欲しい合鍵・了
※ハーレイの家の合鍵が欲しくなったブルー。持っているだけで幸せ気分になれるお守り。
断られてしまったわけですけれど、いつか貰える日が来るのです。何色の鍵になるか楽しみ。
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