シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
秋の光が優しい午後。
ハーレイとぼくと、庭で一番大きな木の下の白いテーブルと椅子で向かい合わせでお茶の時間。夏の間は午前中から早めのお昼御飯までの間に使っていた場所なんだけれど。今では午後のお茶が定番、それだけ気候も穏やかになった。
(あ…!)
ひらり。生垣を越えて蝶が一匹、舞い込んで来た。庭に咲いている花の香りがしたんだろうか。午後の日射しを浴びて、ひらひらと飛んでゆく黄色の蝶。モンシロチョウくらいの大きさの蝶。
夏の盛りにはアゲハ蝶なんかも飛んでいたけれど、秋になったら大きな蝶は見かけない。何処か他所へと移って行ったか、蝶にも好みの花があるのか。幼虫の間に食べる植物が違うみたいに。
だけど庭に花が咲けば蝶はやって来るし、現に今だって黄色の蝶。お目当ての花がどれかはまだ分からないけれど、薔薇の周りを舞っている。
「いいもんだな…」
地球だな、とハーレイが蝶の飛んでいる方を眺めながら目を細めた。
(…地球?)
何が良くって、何が地球だって言うんだろう。ぼくとハーレイは二人で青い地球の上に生まれて来たし、いつだって地球を満喫してる。ぼくの家の庭でお茶にするのも珍しくないと思うけど…。
(…えーっと…)
何のことだろう、と考えていたら、「分からないか?」と褐色の指が庭を指差した。
「ほら、あそこだ。蝶が入って来ただろう?」
「うん、来たね。薔薇の蜜は吸いにくいんじゃないかと思うけど…。匂いに釣られて来たのかな」
「さてな? 向こうにクローバーとかも咲いているしな、蜜は充分あるだろうさ」
鳶色の瞳が追っている蝶。ごくごく普通の光景だろうと思うんだけど…。あの蝶、珍しい種類の蝶なんだろうか? それとも今の季節に居るのは珍しいとか?
ハーレイが言わんとしていることが分からなくって、ぼくが小首を傾げていたら。
「やっぱり、お前でもピンと来ないか…。夏の間は当たり前のように飛んでいたしな、俺もまるで気付きもしなかったんだが…」
シャングリラでは見られなかった光景だよなあ、花に蝶ってのは。
「…そういえば…。そうだったっけね」
ぼくもすっかり忘れていた。
青い地球の上に生まれて、今日まで暮らして来て。
ハーレイと再会して記憶が蘇ってからも地球はぼくの周りに普通に在ったから、それが日常。
そういう暮らしに馴染んでしまって、綺麗に忘れてしまっていた。遠い昔にハーレイと暮らしたシャングリラの中の世界のことを。
花が咲いたら蝶が来るのは当たり前のこと。ミツバチが蜜を集めに来るのと同じで、当然。
何処の庭でもごくごくありふれた光景だったし、郊外の野原や山に行ったら蝶は沢山見られる。生まれつき身体の弱いぼくはあんまり出掛けないけれど、パパとママに連れてって貰った野原でのピクニックだとか、学校からの遠足だとか。蝶なら沢山、色々見て来た。
でも…。
シャングリラに蝶は居なかった。
ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
楽園と名付けたシャングリラだけど、その楽園に花が咲いても蝶が来ることは決して無かった。どんなに香り高い花が咲いても、蜜がたっぷりの花が咲いても、花から花へと飛んでゆく蝶の姿を誰も目にすることはなかった。
花の間を飛んでいた虫はミツバチだけ。蜜を集めて、ついでに花粉を運んでくれる働き者の虫。ミツバチはシャングリラに欠かせない昆虫だったけれども、蝶はそういう虫ではなかった。
居れば野菜や木々の葉っぱが食われてしまうし、花粉だって運んでくれない。少しは運ぶのかもしれないけれども、ミツバチのように目に見えて役立つレベルではない。
だからシャングリラの花にはミツバチだけ。働き者のミツバチだけ。
蝶を飼おうとは誰も言わなかった。ただその姿が美しいだけの、役に立たない昆虫だから。
(…花には蝶が似合うんだけどね?)
ミツバチよりずっと似合うんだけどね、と庭の黄色い蝶を眺める。まだ薔薇の周りをひらひらと飛んで、蜜が吸えないか探しているのか、それとも香りに惹かれているのか。
こんな当たり前の景色が無かったシャングリラ。蝶が居なかったシャングリラ…。
(前のぼくしか蝶は見ていなかったんだよ)
外の世界へと出てゆくぼくは見かけていた蝶。
それが目当てではなかったけれども、蝶が飛んでいる季節にアルテメシアの地上に降りれば目に入る。人類たちの動きを探りに、ある時は新しい仲間を助け出して来るために降りていた。危険を承知で外へ出るぼくに、神様がくれたささやかな御褒美。自然と触れ合える僅かな時間。
アルテメシアはテラフォーミングされた星だったから、まがいものでも自然があった。地球には遠く及ばないまでも、海もあったし野原も山も。
その人工の山や野原を風が優しく吹き渡ってゆく。その風に乗って蝶だって飛ぶ。
前のぼくが何度も目にした、アルテメシアの花と蝶たち。
作りものの自然でも蝶は飛んでいて、野生の花だって数え切れないほどに咲き乱れていた。
だけどシャングリラの中が世界の全ての、他のミュウたちは蝶を見られなかった。
どんなに綺麗な花が咲いても、其処に蝶は居ない。ひらひらと何処からか舞っては来ない。
少し寂しい、蝶が居なかったシャングリラの春と夏と秋。
保護してきた小さな子供たちは皆、蝶の居ない世界に簡単に馴染みはしたのだけれど。
外の世界の方が怖かったのだ、という記憶があるからシャングリラに直ぐに馴染むのだけれど。
花が咲いたら、ミツバチが飛んで蜜を集めるシャングリラ。
ぼくたちに蜂蜜をたっぷりとくれて、花粉を運んで実りを助けてくれるミツバチ。働き者の虫が飛び回るだけの、シャングリラの中に咲く幾つもの花。果樹も野菜も公園の花も、ミツバチだけが花から花へと飛んでゆく。それがシャングリラの花たちの世界。
そういうものだと、そうしたものだと、ちゃんと分かっているのだけれど。役に立たない昆虫を飼うだけの余裕など無いと、誰もが分かっていたのだけれど。
それでも、子供も、時には大人も。
蝶を見たいと思ったりもする。シャングリラには無い自然の景色を懐かしく夢に見たりもする。花にはミツバチだけじゃなくって、蝶だって集まるものなのだと。
だけどシャングリラで蝶は飼えない。そんな環境を作り出せるほどに、船の中の生活に余裕など無い。シャングリラはぼくたちが生きるための場所で、観賞用の植物園とは違うのだから。
ひらひらと飛ぶ蝶を見たくても、蝶は舞わない。鳥たちが飛んでいないのと同じ。
シャングリラの公園の上を鳥たちが自由に飛ぶことはなくて、蝶も花には集まらなかった。
(…シャングリラに蝶は居なかったっけ…)
今のぼくの家の庭には蝶が来るのに。今だって黄色い蝶が一匹、飛んでいるのに。
蝶を飼うことが不可能だったシャングリラ。花が咲いても、蝶なんか来ないシャングリラ。
ぼくたちは夢を見るしかなかった。
いつか大地に降りる時が来たら、青い地球まで辿り着いたら、其処では野原に蝶が飛んでいる。自然の中に降り立つ日が来たら、花の上を舞う蝶が見られる。
花が咲いたら、ひらひらと何処からか舞って来る蝶。花には蝶が来るものなのだ、と。
その日が来るまで蝶はお預け。地球に着くまで、蝶はお預け。
(…地球に着いたら、蝶だって居ると信じていたっけ…)
青い地球が存在しないことも知らずに、信じて夢見た。本物の自然が息づく星を夢に見ていた。
当たり前の風景が無かったシャングリラ。
蝶なんか居なかったシャングリラ…。
夢に見た青い地球が無かったことを、今のぼくはちゃんと知っているから。
ハーレイたちが辿り着いた頃の地球は死に絶えた星だったことを、知っているから。ぼくたちの夢はどうなったのか、とハーレイに訊いてみることにした。
「ハーレイ、ナスカに蝶は居たの?」
ぼくは一度も降りなかった星。遙か上空から眺めただけだった赤い星、ナスカ。
シャングリラのミュウたちは其処で何年か暮らし、自然出産の子供たちまで生まれた。赤い星の土で野菜を育てた。その星に蝶は居たのだろうか、と思ったけれど。
「居なかったな。ナスカはそういう星ではなかった」
人類が一度入植した後、放棄した星だ。
俺たちがナスカに降りた時には昆虫は何も居なかった。そういった生物の助けが無くても生きてゆける植物が僅かに残っていただけだ。
「そっか…。じゃあ、最後まで蝶は見られないままだったんだ…」
花に来る蝶。
前のハーレイも、地球で死んでいったジョミーやゼルたちも。
最後まで蝶は見られないままで、命が終わってしまったんだね…。
ちょっぴり悲しかった、ぼくだったけれど。
蝶の姿さえ見られないままで、皆、逝ったのかと思ったのだけれど。
ハーレイが「そうでもないぞ」と微笑んでくれた。
「ナスカに蝶は居なかったんだが、アルテメシアに戻ったら居たさ。それから後に落としていった星でも蝶は見られた。ノアとかでもな」
「良かった…。花に蝶くらいは見られたんだ…」
ぼくは心底、ホッとした。
だって、みんな死に物狂いで地球まで辿り着いたのに。沢山の仲間を喪ってまでも目指した先に蝶は居なくて、死に絶えた地球が待っていただけなんて、あんまりだから。
地球を目指しての旅の途中に蝶を見られたなら、それでいい。
人類との戦いを始めたことで少しでも自然の世界に近付けたんなら、作り物の自然でも皆の救いにはなっただろう。大地に降りれば蝶が居るのだと、花には蝶が来るものなのだと。
前のハーレイたちが辛うじて見られたらしい蝶。
もっとも、ハーレイの目には「居るな」と映っていた程度。キャプテンとしての視線で観察していた程度。
前のぼくを失くしてしまったハーレイにとっては、蝶なんかどうでも良かったらしい。
「…ごめん…。ごめん、ハーレイ。ぼくのせいだね…」
「気にするな。前のお前は蝶さえ見られずに逝っちまったんだしな」
だから気にするな、とハーレイの大きな手がぼくの頭を撫でてくれた。
「それに俺は案外冷静に観察してたぞ、シャングリラに居ない蝶が此処には居るな、と」
地球に着いたら、もっと沢山飛んでいるんだろうと思って見ていたが…。
まさか居ないとは思わなかったな、蝶どころか生き物が棲めない星のままだったとはな…。
「そうだね…」
でも、今は居るね。
ぼくは黄色い蝶を見ながらハーレイに言った。
あそこに居るよ、って。
青い地球がちゃんと戻って来たから、ぼくの家の庭にも蝶が来るよ、って。
「ああ、居るな。…お前がミュウを、地球を守ってくれたからだな」
ハーレイは頷いただけじゃなくって、とんでもないことを言い出した。
「前のお前が命と引き換えにメギドから俺たちを、シャングリラを守ってくれたお蔭で青い地球が在るんだ。蝶が居るのはお前のお蔭だ」
「ぼくが守ったのはシャングリラだけで、地球までは守っていないんだけど…」
前のぼくは地球が何処にあるのかも知らなかったよ、と言ったんだけれど。
ハーレイが「いや」と真面目な顔で続ける。
「あの時、お前がメギドを沈めなかったら、シャングリラが沈められていた。そうなっていたら、誰も地球まで辿り着けていない。ミュウの歴史はナスカで終わりで、地球も蘇りはしなかった」
お前も分かっているんだろう?
学校じゃ入学式だの新年度だのの定番の挨拶になってるだろうが、その辺の話。
入学式の時に校長先生に言われなかったか? 「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」と。
「……それは言われたけど……」
そうなんだけど、と、ぼくは右目の奥が初めてツキンと痛んだ日のことを思い出す。
(入学式じゃなくって、入学前の説明会の時だったよね?)
校長先生の長い挨拶を聞いて、ソルジャー・ブルーの話も聞いて。その夜、初めて右の目の奥に痛みが走った。右目から零れた赤い鮮血。
怪我をしたのかと酷く驚いて、泣きそうになった。右目が見えなくなるかもしれないとか、入学前に手術するために入院になってしまうのかもとか、考えただけで泣きそうだった。
あの日のぼくは何も知らなくて、怖くて慌ててしまったけれど。右目の奥に走った痛みと零れた血とが奇跡の始まり。
そうして、ぼくはハーレイに会った。もう一度ハーレイに会うことが出来た。
前のぼくが「もう会えない」と泣きながら死んだ、誰よりも会いたかったハーレイに…。
そのハーレイと二人、青い地球の上。
ハーレイと二人で生まれ変わって来た、青い地球。
何故だか、地球が青く蘇ったのは前のぼくのお蔭だという凄い話が出来上がっていた。
学校に通う子供たちが聞かされる、偉い先生の挨拶の定番。
決まり文句の「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」。
(…ぼくは地球に何をしたわけでもないんだけどね?)
ぼくはメギドを沈めただけ。それ以上のことは何も考えてはいなかった。
シャングリラを守ろうと、守らなければと、ただそれだけ。
挙句の果てに「ハーレイの温もりを失くしてしまった」と泣きじゃくりながら死んだのに…。
(話が大きくなりすぎちゃったよ)
死に絶えた星だった、前のぼくが生きていた頃の地球。
それを思うとなんだか不思議だ。
沢山の生き物が地球に居るのが、蝶まで当たり前に飛んでいるのが。
おまけに地球が蘇ったことまでが全部、前のぼくのお蔭だってことになっているのが。
ソルジャー・ブルーに感謝も何も、ぼくはそこまで偉くなかったと思うんだけど…。
でも、ハーレイまでが「お前のお蔭だ」と言ったりするから、「違うよ」と訂正しておいた。
「絶対、前のぼくだけの力じゃないよ。神様の力なんだと思うよ」
神様が何処かに居るんだと思う。
何処に居るのかは分からないけれど、神様は居ると思うよ、ハーレイ…。
「神様か…。うん、神様は何処かにいらっしゃるだろうな」
それは間違いないだろう、とハーレイは直ぐに頷いてくれた。
「でないとお前に会えてはいない。…そんな気がする」
「そうでしょ、絶対、神様なんだよ」
地球を蘇らせた力は神様の力。前のぼくじゃなくって、神様の力。
神様が青い地球を蘇らせたのなら、あそこの蝶も。
蝶も神様が作るんだよね?
「まあ…。そうなんだろうな、命を作るのは神様だろうな」
器だけ作っても命は出来ん。
蝶にそっくりの形を作り上げても、そいつは空を飛ばないからな。
ひらひらと庭を飛んでいる蝶。
生垣を越えてぼくの家に来た黄色い蝶は、クローバーの花が気に入ったらしい。白くて丸っこいクローバの花に止まって蜜を吸ったり、緑色の葉っぱに止まってみたり。
芝生の間に濃い緑色をしたクローバーの茂み。広がり過ぎないようにパパが刈り込んだりしてるけれども、あの中に四つ葉のクローバーの葉っぱが隠れてる。
前のぼくには見付けられなかった、幸せの四つ葉のクローバー。前のハーレイとシャングリラで頑張って探していたのに、一度も見付からなかった四つ葉。
それが今ではぼくの家にも、ハーレイの家にもちゃんとあるんだ。探せば見付かる、幸せの四つ葉のクローバー。今のぼくたちは幸せになれると教えてくれる四つ葉のクローバー。
そのクローバーがお気に入りの蝶を見ながら、「ねえ、ハーレイ」と訊いてみる。
「ぼくとハーレイの身体も作ってくれたんだよね、神様が。前とそっくり同じ姿に」
「そうだと思うぞ、これは神様にしか作れんだろう」
ハーレイはぐるりと自分の身体を見回してみて、褐色の大きな手を握って、開いて。
「こいつを作るのは前のお前でも無理なんじゃないか?」
「うん、多分。フィシスを作った仕組み自体は分かったけれども…」
ちょっとぼくには出来そうにないよ。
前のぼくの力でも、多分、出来ない。…それに作りたいとも思わないしね、生命も、器も。
「あの技術は失われてしまったらしいな。廃棄されたと言うべきか…」
「前のぼくたちが生まれた人工子宮と一緒にね」
もう誰も無から生命を作れはしないよ、今の地球では。…ううん、宇宙では。
生命を作れるのは神様だけだよ、ぼくたちの身体も、あそこの蝶も…。
黄色い蝶はまだ庭を飛んでる。
クローバーの上はもう飽きたのか、チャレンジ精神旺盛なのか。今度は薔薇の花の上にひらりと止まった。花びらが沢山重なった薔薇は、蜜を吸いにくいと思うんだけど…。
案の定、やっぱり無理だったみたい。ふわりと飛び立って、花びらがもう一杯に開き切った花に移って、翅を閉じてる。
(良かった、ちょっとは蜜が残ってたんだね)
あんなに開いてしまった薔薇では駄目じゃないかと心配したけど、蜜は残っていたらしい。蝶の翅が満足そうにゆっくり開いたり、閉じたりしてる。
それを見てたら、ハーレイも「ふむ…」と薔薇の咲いてる方を見ながら。
「平和な時代になったもんだな、花に蝶か」
「うん。…シャングリラにも、あの頃の地球にも無かった平和な景色だよね」
蝶なんか居なかったシャングリラ。
地球に行けば蝶が居ると信じていたのに、死に絶えてしまった星だった地球。
あの頃を思えば、今のぼくたちが居るのは楽園。
シャングリラの公園よりもずっと小さい、ぼくの家の庭でも本物の楽園…。
そんな感慨に耽っていると、ハーレイが妙な台詞を口にした。
「とりあえず平和で花に蝶だが、イノシカチョウとはいかんようだな」
「イノシカチョウ?」
なにそれ、とぼくは目を丸くした。聞いたこともない言葉だけれど…。
「知らないか? 花札ってヤツだ。前のお前とは色々ゲームもしてたが、そういえば花札は遊んでいないか…」
「ああ、花札…。あるね、綺麗な模様の札でやるゲーム。それで、イノシカチョウって何なの?」
花札なら今のぼくでも知ってる。今のぼくたちが住んでる地域の、ずうっと昔のゲーム用の札。SD体制よりも古い歴史があるゲーム。遊び方はよく知らないけれど…。
「あの札の揃え方の一つだ、イノシカチョウは」
イノシシの札と、鹿の札と、蝶の札とを揃えられたらイノシカチョウになるんだが…。
蝶ならあそこに止まってるんだが、イノシカチョウはなあ…。
そう言ってハーレイが難しそうな顔で腕組みするから、「どうしたの?」と尋ねてみたら。
「いや、蝶はいるんだが、イノシカチョウだとイノシシと鹿と蝶とを揃える。考えてもみろ、この庭にそいつが全部揃ったら大変だぞ」
「……庭……」
ぼくはポカンと口を開けたまま、ハーレイが言ったイノシカチョウなるものを思い浮かべた。
蝶はともかく、イノシシと鹿。どっちも大きな野生の動物。
(…イノシシと鹿が入って来るの? ぼくの家の庭に!?)
生垣を飛び越えて入って来るのか、生垣の木をへし折りながらの侵入なのか。入って来るだけで済めばいいけど、ママが手入れをしてる庭。パパが芝生を刈り込んでる庭。踏み荒らされるとか、掘り返されるとか、齧られちゃうとか…。
「ハーレイ、それって、庭はどうなっちゃうの?」
「さてなあ…。イノシシは土の中の虫を食うから、芝生は剥がされちまうかもな?」
それから、鹿は葉っぱを食うんだ。クローバーが好物かどうかは知らんが、木の葉は食われる。柔らかい葉っぱから齧られちまうぞ、鹿の頭が届く範囲で。
「それって、ママの大事な庭がメチャクチャ…」
「そういうことだな、だから大変だと俺は言ったが?」
「イノシカチョウは要らないよ!」
蝶だけでいいよ、と叫んだ、ぼく。黄色い蝶だけいれば充分、イノシシと鹿は無くてもいい。
(…イノシシと鹿まで揃えるだなんて…)
シャングリラで蝶を飼うどころの騒ぎじゃないってことは良く分かった。
平和になった今の地球でも、個人の家の庭では出来ないことがあるらしい。
でも、そういうのも何だか素敵だ。
自然の生き物には自然が似合う。
蝶も、イノシシも、それから鹿も。
シャングリラに蝶は居なかったけれど、青く蘇った今の地球。
きっと山ではイノシカチョウが綺麗に揃ったりもするんだろうな、と夢心地になる。
ぼくの家の庭では見たくないけど、山なら見てみたい気持ちになる。
いつかハーレイと一緒に出掛けてみようか、郊外の山に。
イノシカチョウが揃ったとしても、ハーレイはタイプ・グリーンだから。
防御力なら前のぼくにも負けていないから、イノシシが来たってきっと平気だ。
ねえ、ハーレイ。ぼくが見たいってお願いしたなら、イノシカチョウ、見せてくれるよね…?
いなかった蝶・了
※蝶がいなかったシャングリラ。役に立たない虫は必要無いから、と。蝶は綺麗なのに。
今の時代は蝶は当たり前、猪も鹿もいるのです。イノシカチョウ、見応えありそうですよね。
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