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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

お煎餅

 ハーレイはその日、紙袋を提げてやって来た。ぼくの部屋に入るなり、それを持ち上げてニッと笑って、こう言ったんだ。
「たまにはこういうのもいいと思ってな」
「えっ?」
 こういうのって、何のことだろう?
 キョトンとしてたら、ママがお茶を運んで来てくれた。ハーレイに「ごゆっくりどうぞ」と頭を下げて、ママは階段を下りて行ったけれども。
 ハーレイとぼくとが向かい合わせで挟んだテーブル。その上に、ママが持って来たお茶。
 いつもの紅茶とかココアじゃなくって、熱いほうじ茶。緑茶でもないって……なんで?
 ほうじ茶はぼくも飲んだりするけど、緑茶と違って普段に飲むお茶。お客様用のお茶じゃない。ママがハーレイにほうじ茶を出すなんて、有り得ない。
 だけど、テーブルの上にはほうじ茶。おかわりが入っているであろう大きな急須の中身も、多分ほうじ茶。どう見ても普段用だもの。お客様用の急須じゃないんだもの…。
(…なんで?)
 ぼくは好き嫌いが無いから、ほうじ茶でも緑茶でも気にしないけど。
 コーヒーみたいに苦すぎてそのままじゃ飲めないってわけでもないから、いいんだけれど…。
(ハーレイにほうじ茶?)
 和風の食事を出した時の食後のお茶だって、緑茶なのに。ほうじ茶なんか出て来ないのに。
 それに、お菓子用のお皿が無い。ハーレイとぼくとに一枚ずつある筈のお菓子用のお皿。
 代わりとばかりに、テーブルの真ん中に木製の深めの菓子鉢。中身は空っぽ。
(…えーっと…)
 たまにハーレイがお菓子を持って来てくれることがあるから、お菓子が無いことは珍しくない。
 けれど、菓子鉢。おまけにほうじ茶。
 ハーレイがお饅頭とかをくれる時にはこうじゃない。何かが違う。
 原因はあの紙袋なんだと思うけれども、何なんだろう…?



 テーブルの端に置かれた紙袋。お店の名前と袋のデザインだけでは中身がまるで分からない。
 まじまじと見てたら、ハーレイが袋に手を突っ込んで。
「ほら、ブルー」
 何枚食べる?
「えっ?」
 袋から出て来た褐色の手には、個別包装の平たい物体。
 ハーレイが持って来た袋の中身はお煎餅だった。一枚、二枚、と菓子鉢に盛られるお煎餅。
「…なんでお煎餅?」
 ぼくはお煎餅が好きだと話した覚えなんか無いし、好きでたまらないってわけでもない。好きなお菓子には違いないけれど、ハーレイがわざわざ買って来た理由が分からない。
 なのにハーレイは「まあ、食ってみろ」とお煎餅を一枚、差し出して来た。
「食えば分かるさ、俺が煎餅を持って来た理由」
「…そうなの?」
 受け取った袋の端をピリリと破って、顔を覗かせたお煎餅の端っこを一口齧った。
(あ…!)
 本当だ。
 ぼくはすっかり忘れていたけど、舌はきちんと覚えてた。
 懐かしい味。凄く懐かしい味と記憶を運んで来てくれた、お煎餅…。



「ハーレイ、これ…」
 ずっと昔にシャングリラで食べた。こんなお煎餅を確かに食べてた。
 ハーレイが「思い出したか?」と笑顔になる。ぼくの大好きな笑顔になる。
「シャングリラのうんと初期のおやつだ、これもあったろ?」
「うん、あった!」
 ぼくはお煎餅をパリンと齧って、懐かしい味が口いっぱいに広がった。
 塩味の素朴なお煎餅。香ばしく焼けたお煎餅だけど、シャングリラの味。
 まだ名前だけがシャングリラだった頃の、白い鯨が出来上がる前の時代のおやつ。
 あの頃、船はずっと小さくて、白い鯨の六分の一も無かっただろうか。
 アルタミラから脱出する時、たった一隻だけ残っていた船。とにかく乗り込んで空を目指した。飛び立つ術さえ知らなかったから、船のコンピューターにあった手順どおりに実行した。
 そのせいでミスもあったんだけど。
 本来なら離陸と同時に閉めなくちゃいけない、乗降口。
 どうやって閉めるのか、操縦室に居た仲間たちには分からなかった。開いたままだったことさえ気付かなかった。
 乗降口に居たぼくたちにしても、生存者が居るならギリギリまで待ちたかったから。置き去りにしてゆくことだけは避けたかったから、もう生き残りは居ないと分かっていたのに待った。爆発が続く炎の地獄から誰か走って来るんじゃないかと、船を目指して来るんじゃないかと。
 そうやって最後まで待っていたから、手動で乗降口を閉める装置を見もしなかった。離陸すれば直ちに閉めねばならない乗降口。開いたままだと危険なことさえ、誰の頭にも浮かばなかった。
 そうして悲劇は起こってしまった。
 浮上する船でバランスを崩したゼルの弟、ハンス。ゼルが慌てて手を掴んだけど、乗降口の外へ放り出されたハンスの身体を引き上げるだけの力は無かった。ぼくも力を貸せなかった。すっかり使い果たしてしまったサイオンはもう、使えなかった。
 今でも耳に残っている。「死にたくない」と叫んでいたハンス。「兄さん」という叫びを残して燃え盛る地獄へ落ちて行ったハンス。その名を絶叫していたゼル。
 ぼくたちはあまりに未熟だった。
 船の一隻すらも満足に操れないほど、何も分からなくて無知だった…。



 やっとの思いで手に入れた船。ぼくたちを救ってくれた船。
 コンピューターには船の名前が登録されていたし、そういう名なのかと思ったけれど。
 せっかく自由の身になったのだし、人類が船につけた名前は捨ててしまいたいと誰もが思った。この船はぼくたちの船なのだから。ミュウのためにある船なのだから。
 シャングリラと名付けた、ぼくたちの船。名前だけを聞けば立派な楽園。
 けれど改造するだけの技術も無かった頃のシャングリラは本当に名前だけの楽園。
 大きさは白い鯨の六分の一もありはしなかったし、設備だって最低限のもの。名付ける前の船にあった設備が全てで、食料だって同じ。
 積まれていた食料は直ぐに底を尽いた。自給自足のための設備は無かった。
 だけど食べねば生きてゆけない。とにかく何か食べねばならない。
 ぼくは近くを航行している船を探させて、一人で食料を奪いに出掛けた。名前だけの楽園に船はあってもシャトルと救命艇だけだったのだし、それで海賊行為は出来ない。あまりにも危険。
 けれども、ぼくなら真空の宇宙空間でも飛べるから。
 奪う先の船に侵入せずとも、瞬間移動で物資を奪って逃げられるから。
 食料も他の物資も、奪いに出るのはぼく一人だけ。
 選んでいるだけの余裕が無くって、コンテナごと全部失敬することもしばしばだった。
 手に入れた食料が偏ることなど珍しくなくて、キャベツだらけとかジャガイモだらけだとか。
 それでも食料があるだけマシ。工夫すれば色々な料理に化けるし、あっただけマシ…。



 限られていた食料品。
 奪って来なければ無かった食料。
 最初の間は食料さえあれば何でも良かった。アルタミラの研究所に居た頃、食事はただの「餌」だったから。調理されたものなど出はしなかったし、それに比べれば天国だった。
 温かい料理を温かい間に食べられる生活。餌ではなくて料理が出る日々。
 そうやって人間らしい食生活を送り始めると、だんだんと思い出して来る。一日に三度の食事の他にも何か食べていたと、成人検査の前に養父母と暮らした家では食べていたのだと思い出す。
 食事の他に何を食べたか、薄れて欠けた記憶の底を捜さなくても答えはあった。
 奪って来た物資に混ざっていることがある嗜好品。いわゆる、お菓子。
 物資に混ざっているくらいだから、保存の利く焼き菓子やキャンディーなど。一度口にすれば、もう忘れない。この世にはお菓子というものがあると、食事の他にも食べ物があると。
 胃袋を満たすための食事と違って、息抜きのおやつ。一度食べればまた欲しくなる。
 食べ物は本来、三度の食事だけではない筈なのだと、おやつが欲しい、と思い始める。
 もっともっと、今よりも人間らしく。
 人間らしく生きてみたいと、嗜好品だって食べたいのだと。



 だけど、シャングリラの中では作れないお菓子。技術も材料も全く無かった。
 それでもパンや食事だけでは飽きて来る。おやつが欲しい、と皆の心が求め始める。
 出来上がったお菓子は奪えたけれども、奪うことは簡単だったけれども。
 ぼくがお菓子を奪いに出掛けようとする度、ハーレイが止めた。
 たかがおやつでぼくを危険に晒せはしないと。
 そんなものを奪いに出なくてもいいと、食料は足りているのだからと。
 ハーレイの気持ちは分からないでもなかった。
 あの頃のぼくは、今と同じで小さい姿だったから。見た目だけは子供だったから。
 それでも食事だけしかない日が続くと、船の空気が澱んでくる。皆に生気が無くなってくる。
 生き生きとしていた瞳が曇って、まるで脱出した直後のよう。
 そんな仲間たちを見ていたくなくて、ぼくはついつい、奪いに出掛ける。食料は足りているのを承知で、何かお菓子を手に入れるために。皆の心を満たすために。
 そしてお菓子を手に入れて戻り、ハーレイを深く悲しませる。
 危ないから出掛けて欲しくないのにと、此処に武装した船さえあったら自分が行くのに、と。



 そうは言われても、ぼくは大切な船の空気を澱ませたくはなかったから。
 お菓子を奪いに出掛けて行っては、ハーレイが嘆く。
 行かせたくないのにと、出来ることなら自分が代わりに出掛けるのに、と。
 そういった日々の繰り返し。
 ぼくを危険に晒さないために、ハーレイは懸命に頑張った。船にある食材を常に把握し、料理の方法をあれこれ調べて作れる料理を増やそうとした。同じ食材でも違う料理を、様々な料理を。
 皆が飽きないよう、バラエティーに富んだ料理が出来たのだけれど。
 やはり料理とお菓子とは違う。やっぱり違う、と誰もが思う。
 パンとは違った、甘い焼き菓子。ふんわりと空気を含んだお菓子や、口の中でサクッとほどけるクッキー。食事とは違った味わいのお菓子。
 それらが食べたい、と願う気持ちは止められない。
 人間らしい生活を取り戻したいと、この楽園でそうしたいのだと願い始めたら止まらない…。



 ぼくがお菓子を奪いに出掛けて、ハーレイが何度も嘆いた末に。
 お菓子もなんとか作るしかないと、料理以外に作るしかないという結論になった。
 自給自足が始まる前のシャングリラ。
 まだ名前だけだった楽園の中で、ぼくが奪った食料をあれこれと工夫してお菓子を作った。
 けれど砂糖はキャンディーになって、他のお菓子には回されなかった。
 長い間食べていられるキャンディーはとても貴重な存在。甘いお菓子はこれに限る、と風味だけ変えて何種類ものキャンディーが出来た。
 砂糖が余ればキャンディーを作る。他のお菓子は作られない。
 甘い砂糖はバラエティー豊かなお菓子にはならず、残る調味料は塩だった。
 その塩で作られたお菓子の一つで、人気だったものがお煎餅。
 齧ればパリンと音がしていた、塩味の素朴なお煎餅…。



 ハーレイが「ほら」と持って来てくれたお煎餅の味は、まさにその味。
 シャングリラが名前だけの楽園だった時代に、皆が楽しみにしていたおやつ。
 前のぼくが奪いに出掛けなくても、シャングリラの中で作れたおやつ…。
「ふふっ、懐かしい」
 これが出来るまではハーレイに何度も叱られたっけね。
 お菓子なんか奪いに行かなくていいと、食料だけで充分だから、と。
「当たり前だろう! なんで命懸けで菓子を調達せにゃならんのだ」
「ぼくには簡単なことだったよ? 命なんかは懸けていないよ」
「お前にとってはそうかもしれんが、傍で見てれば命懸けにしか見えんだろうが!」
 宇宙服も着ないで飛び出して行ってしまうんだからな。
 いくら俺たちでも、宇宙空間で長時間のシールドは出来ん。船の外に出るだけで命懸けだ。
 それなのに前のお前ときたら…。
「だって、命は懸かってないもの。それよりも船の雰囲気が大事」
「気持ちは分かるが、たかが菓子だぞ」
 菓子くらい無くても死にやしないし、欲しがる方がどうかと思うが。
 アルタミラに居た頃は食事さえも無くて、餌しか食えない日々だったのにな。
「でも、ハーレイ。…ぼくたちは楽園を手に入れたんだよ、人間らしく生きたいじゃない」
「しかしだ、其処で菓子になるのか…」
「お菓子作りでうんと素敵になったよ、シャングリラの中」
 同じ塩味ならこれも出来るとか、色々と楽しみが増えたじゃない。
 塩加減でもキャンディーの味でも、料理には口を出さない人までああだこうだと言ってたよ?
 もっと塩味が濃いのがいいとか、こんなキャンディーを作らないか、とか。



「そうだな、みんな口出ししたがったっけな…」
 嗜好品の菓子だったからだろうな、とハーレイが笑う。
 料理の味に文句をつけたら「なら、食べるな」と言われて終わりだろうけど、お菓子だから。
 嫌いだったら食べなくてもいいお菓子だったから、誰もが口出ししたがったと。
 自分好みの味にしたくて、美味しいおやつを食べてみたくて、普段は口数の少ない仲間も厨房に出掛けて注文をつけた。こんなのがいいと、それが駄目ならこういうのを、と。
「ねえ、ハーレイ。このお煎餅は人気だったよね、特に調整しなくっても」
「ああ。しかし、まさか煎餅が普通にある場所に来ちまうとは思わなかったよなあ…」
「シャングリラではお煎餅って言わずにライスクラッカーだったっけ?」
「そんな名前で呼んでたな、うん」
 前のぼくはお煎餅という単語を知っていたけれど。
 当時の世界じゃ馴染みが無かった、今、ぼくとハーレイとが住んでる地域で使われる名前。
 耳慣れない単語を使うよりはと、お煎餅じゃなくてライスクラッカー。
 ハーレイが持って来てくれたお煎餅みたいな、お米の粉で作ったお煎餅ではなかったけれど。
 小麦粉を使って焼き上げられた、塩味のお煎餅だったけど…。



「今だとライスクラッカーの方が通じないね?」
「まったくだ。そいつを俺が店で言っても出て来ないかもな、煎餅は」
 ついでに煎餅の種類も増えたな、とハーレイは袋の中から一枚の紙を取り出した。
 塩味のお煎餅を買って来た店で扱っているというお煎餅の種類が書かれてる。写真がついてて、名前と説明。どんな味付けか、何処にこだわって作ったかとか。
 その一覧を覗き込みながら、ぼくは「これ!」と一つを指差した。
「ザラメのお煎餅は貴重だよね? 前のぼくたちには、これは貴重品だよ」
「貴重品以前に作れんぞ。シャングリラにザラメは無かったしな」
 お前だってザラメなんぞは何処からも奪って来なかったろうが。
「そういうお砂糖、無かったしね…。そもそも存在しなかったかもね?」
「うむ。和食の文化と同じで復活してきた砂糖かもしれんな、ザラメはな」
 俺もそこまで詳しくはないが。
 料理は好きだが、料理研究家を自称するレベルじゃないからな。
「トウガラシのお煎餅も貴重かも…」
「トウガラシか…。あるにはあったが、煎餅にたっぷりとまぶすほどには使えんな、うん」
 あれは貴重なスパイスってヤツだ。
 シャングリラで採れた数少ないスパイスの一つだったな、トウガラシは。
「胡麻煎餅は作れそうだね」
「こいつは簡単に出来ただろうなあ、前の俺たちが胡麻煎餅ってヤツを知らなかっただけで」
 実に惜しいことをしたかもしれん。
 胡麻煎餅は美味いからなあ、塩煎餅にも負けていないしな?
「醤油煎餅もシャングリラじゃ無理かあ…」
「醤油は作っていなかったしなあ…。そも、醤油自体が無かったぞ」
 あの頃の文化に醤油は無かった。
 そいつは俺でも断言出来るぞ、醤油は和食の文化と一緒にこの地球の上に再び戻って来たんだ。一度は消えちまった調味料なのさ、昆布の出汁が消えたみたいにな。



 SD体制の時代には消えた味だったり、あってもシャングリラでは貴重だったり、無かったり。
 ハーレイと二人、お煎餅の写真と名前を見ながら何が貴重かを語り合っていて。
「ハーレイ、これ! 海苔煎餅!」
 すっごく貴重、と、ぼくは叫んだ。
 海苔が貼ってあるだけのお煎餅だけれど、貴重品。とてつもなく貴重なお煎餅。
「うーむ…。シャングリラの中では有り得んな、これは」
「アルテメシアでも絶対、無理だよ!」
 青い海がある地球に行ったら海苔煎餅を作れたかも、っていうどころの話じゃなかった。海苔を食べるという文化が無かった。
 昆布の出汁が無かったみたいに、海苔だって誰も作りはしないし、食べなかった。
 アルテメシアにも海はあったのに。
 作り物の海でも海藻は生えていたと記憶してるけど、昆布の出汁も海苔も何処にも無かった。
 海苔のお煎餅は美味しいのに…。
 それと同じで、醤油煎餅だって美味しいのに…。
 どちらも前のぼくたちが全く知らなかった味。
 手に入るとか入らない以前に、海苔も醤油も何処にも存在しなかった世界。
 そんな世界に居た、前のぼくたち。
 塩煎餅を作っていたのに、海苔煎餅も醤油煎餅も夢見ることさえ無かったぼくたち…。



 そういう話を二人でしてたら、ハーレイが「うむ」と重々しく口を開いた。
「どの煎餅が一番貴重かという話で行ったら、醤油煎餅に海苔の組み合わせが最高かもな」
 醤油味のお煎餅に、ペタリと海苔。
 ハーレイが持って来た塩煎餅の店の商品にもちゃんと入っている、定番中の定番のお煎餅。
「…普通なんだけどね?」
 多分、一番普通のお煎餅だよ。
 お煎餅の絵を描きなさい、って子供に言ったら描くんじゃないかな、そのお煎餅。
「違いない」
 次はそいつを買ってくるか、って言い出したハーレイと二人で笑い合った。
 すっごく貴重なお煎餅。
 シャングリラの中では作れなかった、存在すらも知らなかった海苔と醤油のお煎餅。
 塩味のお煎餅が貴重なおやつだった時代が終わって、白い鯨が完成したって無理だった。
 青の間まで出来上がったシャングリラは見事な自給自足の世界で、お菓子も色々とあったのに。薔薇の花びらのジャムまで有志が作っていたのに、海苔と醤油のお煎餅は無理。
 海苔も醤油も何処にも存在しなかった上に、あったとしたって海苔だけは無理。
 海苔は海でしか採れないから。
 シャングリラに海は無かったから…。



 前のぼくたちの時代には貴重どころか、存在しなかった海苔と醤油のお煎餅。
 今では当たり前にお店で買える。
 小さな子供が握り締めて出掛けそうなお小遣いのコインで充分に買える。
 それも青い地球の海で採れた海苔をペタリと貼り付け、地球で採れた大豆の醤油の味のが。
「…すっごく貴重なお煎餅だね…」
 地球の海の海苔と地球のお醤油。
 とびっきり貴重なお煎餅だよ、と感嘆の息をついたら、ハーレイが塩煎餅を齧りながら。
「それを言うなら、この煎餅だって貴重だぞ」
 地球の海の塩だ、と言われて「ああ…!」と大きく目を見開いた、ぼく。
「そうだね、地球の海の味だね…」
 塩辛いよ、と懐かしい味の塩煎餅をパリンと齧ってみた。
 ごくごく普通の塩味な上に、とっても素朴なんだけど。
 お菓子なんかは殆ど無かった初期のシャングリラで作ってたほど、素朴なお煎餅だけど。
 今、ぼくが食べてるお煎餅の味は地球の海の味。
 前のぼくが行きたいと焦がれ続けた、青い地球の海から採れた塩の味…。
(…ふふっ、塩煎餅なのに貴重品だよ)
 シャングリラでは一番素朴な味だった、初期のお菓子の塩煎餅。白い鯨が完成した後には、誰も欲しいと言い出さなかった塩煎餅。他にお菓子は沢山あったし、誰だってそっちの方がいい。
 その塩煎餅が地球で贅沢に化けた。青い地球の海から採れた塩を纏って贅沢に化けた…。



(なんて幸せなんだろう…)
 ハーレイと二人、なんて幸せな場所に生まれ変わって来たんだろう。
 前のぼくたちには贅沢過ぎる、貴重品のお煎餅がごく当たり前にある世界。
 海苔と醤油のお煎餅とか、地球の海で採れた塩を使った塩煎餅とか。
(それに塩煎餅、ハーレイが思い出してくれたんだしね?)
 ぼくはすっかり忘れていたのに、懐かしい味を思い出させてくれたハーレイ。
 塩煎餅を手にして「ん?」と笑顔を向けてくれるハーレイ。
(…ハーレイと一緒に地球に来られたから、ぼくはホントに幸せなんだよ…)
 ハーレイが持って来てくれたお煎餅から幸せな気持ちが広がってゆく。
 ぼくたちは青い地球に来られたと、幸せな世界に生まれて来たと。
 塩煎餅はうんと贅沢に化けたけれども、その贅沢が出来る世界でハーレイと一緒。
 贅沢なお煎餅が普通な世界で、青い地球でハーレイといつまでも一緒……。




          お煎餅・了

※シャングリラの時代だと、とても贅沢だった海苔と醤油のお煎餅。今は普通なのに。
 何故かアルタミラ脱出の辺りがちょろっと書かれてますけど、このタイトルでいいんです!
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