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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

理想郷の名前

「今日は、少し範囲から外れるが…」
 たまにはこういう話もいいだろう、とハーレイが教卓の上に置いたもの。
 鮮やかな黄色の実を付けた枝で、葉は艶やかに濃い緑。ミカンにも似た小さな果実。その直径は三センチくらいといった所か。
 家から持参したその枝を前に、ハーレイはぐるりとブルーのクラスを見渡した。
「こいつは何だか知っているか?」
 サッと手を挙げた男子生徒。こういった時には必ず出て来る、クラスのムードメーカーの彼。
「ミカンです!」
 自信満々で答えた、彼だったけれど。「残念だったな」と片目を瞑るハーレイ。
「柑橘類には違いないのだが…。ミカンではなくて橘ってヤツだ」
「橘ですか!?」
 ワッと湧き立つクラスメイトたち。橘なるものは古典の教科書に出て来るけれども、本物の実に出会える機会は少ない。植物園に行けばあるのだろうが。
「遥かな昔には、ときじくのかぐのこのみ、とも言った」
 こう書くのだ、と教室の前のボードに大きく伸びやかな文字。「時じくの香の木の実」と。
「ずうっと昔の、この地域…。日本って島国で信じられていた理想郷があってな」
 常世の国、と呼ばれていた。
 其処に蓬莱山という山がある。その蓬莱山で採れる木の実が「時じくの香の木の実」なんだな。
 不老不死の薬になると言われて、それを探しに出掛けて行った人もいるんだ。
 苦労した末に見付け出して持って帰った木の実が橘だった、という話だ。



 へえ…、と聞き入っているクラスメイトたちと、皆の視線を集める橘の実と枝。
 ハーレイは「右近の橘ってヤツもこれだぞ」などと語って、誰もが興味津々だけれど。
 不老不死の薬だという橘の黄色に夢中だけれども、ブルーの思いは少し違った。
(…時じくの香の木の実…)
 それに、その実が採れる常世の国。
 どちらも初めて耳にした言葉。知らなかった、自分が住んでいる地域の遥かな昔の古い伝説。
 時じくの香の木の実も、常世の国も今日まで知らなかったけれど、理想郷という響き。
 その言葉になら覚えがあった。
(…シャングリラだ…)
 忘れられない、懐かしい言葉。
 前の生でハーレイと共に暮らした白い船。
 あの船の名だ、と思い出す。白い鯨を、ミュウたちの楽園だった船の名前を。



(…シャングリラ…)
 帰宅した後も、頭から離れない言葉。
 ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 理想郷と名付けられていた船と、今日のハーレイの授業で聞いた常世の国と。
 シャングリラと同じ意味合いを持った、常世の国。
 こんな日にハーレイが来てくれたなら…、と勉強机に頬杖をついて考えていたら、来客を告げるチャイムの音。
(ハーレイ!?)
 パッと駆け寄った窓の下の方で、庭を隔てた門扉の向こうで見慣れた人影が手を振っていた。



 ハーレイをブルーの部屋へと案内して来た母がお茶とお菓子を置いて行ってくれて。
 いつもの窓辺のテーブルで二人、向かい合わせに座って直ぐにハーレイの口から出た言葉。
「どうだった、今日の俺の授業は?」
 ブルーは「あっ!」と息を飲む。
「…ハーレイ、もしかして狙ってた?」
 わざわざぼくに訊くってことは、あの授業、ぼくを狙っていたの?
 理想郷だぞ、何かを思い出さないか、って…?
「まあ、そんなトコだ。もっとも、半ば偶然の産物だがな」
 親父から連絡があったんだ。
 橘の実をくれるという人があるから、授業で使うんだったら届けに行くぞ、と。
 せっかくの機会だ、お前の家に寄れそうな日を選んで授業をすることにした。
 だから親父が来たのは昨日さ、俺が帰ったら鍵を開けてちゃっかりリビングに居たな。
 「一足お先にお邪魔してるぞ」って、俺の菓子まで食ってたわけだが…。
 あの親父には敵わないな。
 キッチンもしっかり使われていたって始末だ、「ついでに魚も釣って来たから」と。
「あははっ、ハーレイのお父さんらしいね」
「そうか? まあ、美味かったが…。親父の料理も」
 お前にも食わせてやりたかったが、そういうわけにもいかんしな?
 親父からの土産は橘の実だけで勘弁してくれ。



 ほら、とハーレイは荷物の中から橘の実を一つ取り出した。
「なにしろ授業で使うっていう名目だしな?」
 他の先生たちも使いたいと言うし、持ってったヤツは枝ごと学校のものになっちまったが…。
 こいつは持って行く前にもいでおいたんだ、一つ足りなくても誰も気にせん。
「…ぼくにくれるの?」
「もちろんさ。そのために親父に頼んだんだからな」
 親父はシャングリラのことは何も知らんし、お前のための授業用だとしか思っていないが…。
 お前が興味を持ってくれたら嬉しいな、と笑って渡してくれたんだが…。
「これ、食べられるの?」
 ブルーはテーブルの真ん中に置かれた果実を眺めた。
 ミカンの原種か何かだろうか、と思ってしまうほどの小さな木の実。
 名前こそ「時じくの香の木の実」と立派だけれども、食べられる部分が少なそうな実。
「食えるらしいぞ?」
 俺も食ったことは無いんだが、とハーレイの指が橘の実をチョンとつついた。
 父の友人の家の庭で沢山採れるそうだと、皮や絞り汁で菓子やジャムなどが作れるらしい、と。



「ついでに昔のこの地域では、だ。橘は菓子の神様とも関係が…な」
「お菓子の神様?」
「授業で話した、こいつを探しに蓬莱山を目指した人さ」
 うんと苦労して、これを見付けて。
 帰って来てみたら、探しに行ってくれと頼んだ主人は亡くなってしまった後だった。
 主人と言っても天皇だから、日本って島国の王様だな。
 王様は死んでしまっていたから、その人もショックで泣きながら死んでしまったんだが…。
 橘の実は王様のお墓に半分、もう半分はお妃様に。
 その時代には菓子と言ったら木の実だったからな、橘は珍しい菓子ということになる。
 それを持ち帰った人ってトコから、その人がお菓子の神様になったって話だ。
「ふうん…」
 なんだか可哀相だね、お菓子の神様。
 頑張って不老不死の木の実を探して来たのに、間に合わなかったなんて。
「まあな」
 挙句に自分も死んじまいました、では神様になっても悲しいよな。
 …前のお前も悲しいわけだが…。
 今や英雄だが、前の俺たちとシャングリラを守って独りぼっちで死んじまったし…。



「ぼくは間に合ったからいいんだよ」
 メギドを沈めて、ちゃんと間に合った。みんなを守れた。
 お菓子の神様と違って間に合ったんだからそれでいいんだ、シャングリラを守れたんだから。
 でも、シャングリラの名前…。
 常世の国は候補に入っていなかったよね。
「聞かなかったな」
 それに、桃源郷っていうのも無かったっけな。
「…桃源郷?」
「シャングリラは西洋で生まれた理想郷だが、桃源郷は東洋生まれなのさ」
 遠い昔の地球の、東洋と西洋。
 今、俺たちが住んでる地域は東洋だよな?
 其処じゃ理想郷と言えば桃源郷って考える人が多かったそうだ。
「…前のぼくたち、やっぱり知識が足りなかったかな?」
 常世の国も、桃源郷もスッポリ抜け落ちていただなんて。
「いや、ヒルマンとエラなら探せただろう」
 そのための時間が足りなかっただけだ。データベースを端から端まで漁る時間が。
「そっか…」
 時間不足はそうかもしれない、とブルーは過去へと思いを馳せた。
 前の自分が生きていた頃、まだシャングリラがそういう名前ではなかった頃へと。



 アルタミラから脱出した後、皆の心が落ち着くにつれて話題に上り始めたもの。
 それは船のあちこちに埋められ、取り付けられたプレート。
 コンスティテューションと記された、それ。
 船の名前を示すプレート。ついでに建造年月日なども。
 どういった意味の名前だろうか、と調べた結果、SD体制よりも遥かな昔に同じ名を持つ有名な船があった事実と、コンスティテューションは「憲法」の意味だということが分かったけれど。
 どちらも、どうもしっくり来ない。
 自分たちの船に似合う名前だとは思えない。
 同じ名前ならもっといいのが良かったのにと、もっといい名が良かったのに、と。



 コンスティテューションと書かれたプレートを目にする度に、誰もが考えること。
 どうしてこういう名前なのかと、別の名前が良かったのに、と。
「せっかく俺たちの船になったんだ。名前を変えればいいんじゃないか?」
「そうだな、うんと立派なのがいいな」
 言い出した者が誰だったのかも分からなくなるほど、アッと言う間に広がった話。
 名前を変えてしまえばいいと、自分たちの船らしい名前にしよう、と。
 そういった話が食堂で、通路で、休憩室で交わされ、いつしか壮大なものへと変わった。
 この船をミュウの楽園にするのだと、それに相応しい名前がいい、と。



 けれども、何がいいのだろう?
 どう名付ければいいと言うのだろう?
 成人検査と続く実験とで記憶を奪い去られてはいても、残った記憶というものはある。
 誰の記憶にもある楽園。天国とは少し違った、楽園。
 それが素敵だと思うのだけれど、しかし、「楽園」という名は洒落てはいない。
 意味は最高なのだけれども、船の名前には似合わない。
 もっと何か…、と誰もが思う。
 楽園らしくて、それでいて船の名前に相応しい何か。



 そういった時に頼りにされる者たちは、もう決まっていた。
 元々の知識の量が多かったものか、船で一番の物知りと評判の高いヒルマン。
 それから、几帳面で記憶力にも優れていたエラ。
 この二人と、彼らと仲の良いゼルとブラウといった辺りに、相談事は大抵、持ち込まれるもの。
 もちろん彼らの友人であったハーレイ、それにブルーの耳にも入る。
 休憩室で揃ってお茶を飲みながら、ヒルマンが「ふうむ…」と首を捻って。
「確か、理想郷というのがあったな」
「どういうヤツだい?」
 ブラウの問いに、ヒルマンは「理想だよ」と穏やかな笑みを浮かべた。
「そのままの意味だよ、まさに理想の世界のことだ」
「楽園よりいいんじゃないのかしら?」
 エラが応じたけれども、ゼルが不満そうに。
「だが、洒落てないぞ」
 楽園と大して変わらないような気がするんだが。
 言葉をそのまま付けたって感じだ。
「…それもそうだねえ…」
 もうちょっと他の言葉ってヤツはないのかねえ…、とブラウも頻りと首を捻るから。
 「調べてみよう」とヒルマンがエラに協力を求め、二人はデータベースに詰まった情報を相手に戦いを挑むことが決まった。
 この船に相応しい名前。
 楽園そのもので、それでいて洒落た言葉を探しに。



 戦場に向かった二人が引っ提げて戻った、船の名前の候補たち。
 それは三つで、それぞれに意味と由来とがあった。
 まずはユートピア、理想郷を指す言葉だけれども、とある作家の創作だという。
 次にアルカディア、これは地球でも古い部類の古代ギリシャで語られていた理想郷。
 そしてシャングリラ、同じく理想郷を指すが、これも作家の創作だった。
「どうかね、こんな所なのだが」
 ヒルマンが書いて並べた名前を、ブラウが「ふうん…」と覗き込みながら。
「こりゃまた、どれも派手な意味だねえ…」
 理想郷と来たよ、三つとも。よくも探して来たもんだよ。
「コンスティテューションよりかは呼びやすそうだな」
 ゼルの呟きに、ブラウがフンと鼻で笑った。
「あんなの、誰も呼んじゃいないよ」
 とりあえず「船」で通じるからね。
 船って言ったらコレしか無いんだ、舌を噛みそうな名前なんかで呼びやしないよ。



 ヒルマンとエラが探し出して来た、三つの候補。
 ユートピアにアルカディア、それにシャングリラ。
 飛び抜けて呼びやすいものがあれば簡単に決まっただろうが、生憎どれも似たようなもの。
 一見、決め難く思えたけれども、アルカディアに人気が集まった。
 作家の創作に過ぎないものより、地球に古くから伝わるという理想郷、アルカディア。
 それがいい、という声が高まる中、念のためにとヒルマンたちが調べてみれば。
 古代ギリシャではなく、後の世のギリシャ。
 人が乗り物で空を飛ぶようになった時代のギリシャに、アルカディアと呼ばれた地域があった。
 けれど、田園地帯はともかく、緑が少ない岩だらけの山に囲まれた場所。
 乾燥した気候のせいだったらしく、半ば禿げた岩山は理想郷のイメージに似合わない。
 ちょっと違う、と落ちてゆく人気。
 本物がこれなら、作家の創作の方がマシだろうか、と。



 残った二つの理想郷。
 どちらも架空の、作家が捻り出した名前の理想郷。
 ユートピア、それにシャングリラ。
 この二つに違いはあるのだろうか、とヒルマンとエラは更に調べてみたのだけれど。
 ユートピアは架空の国家の名前で、理想郷なのに管理社会らしい。
 町と田舎の住民を計画的に入れ替えていたりするくらいに。
 おまけに私有財産は持てず、誰もに課された勤労義務。
「管理社会はなんだか嫌だねえ…」
 あたしはちょっと、とブラウが頭を振った。ヒルマンが皆を集めて発表していた食堂で。
「そいつはなんだかSD体制みたいだよ。シャングリラの方はどうなんだい?」
「…シャングリラは場所が限定されるのだがね…」
 地球のチベットと呼ばれる地域。
 其処にあるとされて、「シャンの山の峠」の意味だね、シャングリラは。
 そのシャングリラに住む人々は、皆、長生きで、老いる速度が非常に遅いのだそうだ。
「へえ…! なんだか俺たちみたいだな!」
「おまけに場所が決まっているのか、ユートピアより夢があるよな、あるかもしれない、って」
 シャングリラがいいな、と昂揚する空気。
 管理社会なユートピアよりもシャングリラがいいと、夢があると。
 しかもシャングリラにはミュウを思わせる人々が住むという。
 おまけに地球のこの辺りにある、と匂わせる名前に誰もが心惹かれた。
 「シャンの山の峠」。
 チベットとやらの其処を探し当てれば、シャングリラに辿り着けるのだから。
 いつか行きたい、青い水の星。
 其処に在る筈の理想郷がいいと、此処に在ると示す名前がいい、と。



 シャングリラを希望する者たちが一気に増えた所へ、新たに入って来た情報。
 管理社会だと皆が嫌ったユートピアだが、それは後世、理想郷の代名詞になっていたという。
 元々の創作を読みもしなかった人々の間で、イメージだけが独り歩きをしてしまって。
 忘れ去られた創作の中身。管理社会という実態。
 ユートピアと言えば理想郷だと、その響きだけで多くの人々を惹き付けた名前。
 そういった情報を聞いてしまうと、ユートピアがいいと宗旨替えをする者たちが何人も出た。
 ユートピアならば架空の場所で、名前の由来も「何処にも無い良い場所」という造語。
 チベットの奥地と決まってしまったシャングリラよりも、そちらの方が夢があるのだ、と。



 皆の意見はもはや纏まらず、シャングリラ派が多数とはいえ、ユートピア派も無視できない。
 日が経てば逆転するのかもしれず、あるいはシャングリラに落ち着くのかも…。
 まるでどうなるかが分からない中、ブルーはヒルマンたちが集まった部屋で尋ねられた。
 いつもブルーを何かと気にかけてくれる、褐色の肌のハーレイに。
「ブルー、お前はどうなんだ?」
 シャングリラとユートピア、お前はどっちが好みなんだ?
「どっちでもいいよ」
「だが…。お前の一言で多分、決まるぞ」
「なんで?」
 どうして、とブルーは首を傾げた。
 自分の意見で何故決まるのかと、どうして決まってしまうのかと。
「お前だからさ。…分からないか?」
 俺も含めて、この船のヤツら。
 お前がいなけりゃ、誰も生きていけん。誰一人として生きられないんだ、食えもしないしな。
 だから、お前の一言で決まる。希望があるなら言った方がいいぞ。
「そうだよ、どっちがいいんだい?」
 遠慮しないで言っちまいな、とブラウにも勧められたけれども。
「どっちでも…」
 ぼくはどっちでも構わないよ。
 ユートピアでも、シャングリラでも。
 この船が理想郷になるなら、どんな名前でもいいと思うな…。



 ブルーは本当にどちらでも良いと思っていた。
 理想郷という意味だけで気に入っていたし、船のみんなが呼びたい方を選べばいい、と。
「…ブルーが特に希望しないなら、やはり投票で選ぶかね?」
 期限を設けて、というヒルマンの提案に、ブラウたちも揃って賛成で。
 ユートピアにするか、シャングリラか。
 それとも最初に人気を集めたアルカディアか。
 三つの候補から自由に選ぶ、ということになって、投票用紙が配られた。もちろん無記名、船の名だけを書いて食堂に置かれた箱へと投じる仕組み。
 蓋を開けてみればユートピア派はごくごく少数、圧倒的多数でシャングリラ。



 そうして船の名はシャングリラに決まり、一番最初に行われたこと。
「もうこのプレートは要らないんだよな?」
「この船は今日から、シャングリラだしな!」
 船内に鏤められたコンスティテューションと書かれたプレート。
 プレートは端から紙が貼られて、コンスティテューションの名が隠された。
 代わりに書かれた、手書きの文字の「シャングリラ」。
 半ばお祭り騒ぎの熱狂の中で、全てのプレートに誇らしげな文字で「シャングリラ」の名。
 この船の名前はシャングリラだと、自分たちの理想郷なのだと。
 プレートが正式に書き替えられるまでは、船のあちこちに手書きの文字。
 紙をペタリと貼り付けただけの、それでも皆の思いがこもった「シャングリラ」の名が…。



「お前、あの時、どっちを書いた?」
 どっちだった、とハーレイが橘の実を前にしてブルーに訊く。
 お前はどちらを選んだのか、と。
「…ハーレイは?」
 そう言うハーレイはどっちを書いたの、ユートピアだったか、シャングリラか。
 ぼくも気になるよ、どっちだったの?
 …前のぼくたちの時に訊けば良かったね、今頃じゃなくて。
「その発想は無かったな。投票はあくまで秘密ってな」
 訊けば教えてくれたんだろうが…。
 で、どっちだ?
「…シャングリラ」
 ぼくはシャングリラと書いて入れたよ、食堂の箱に。
「奇遇だな、俺もシャングリラだ」
 どうせだったら、実在するかもしれない場所というのに賭けたかったのさ。
 地球が滅びてチベットどころじゃなくなっただけに、シャングリラだって消えただろうが…。
 それでもそういう場所が在った、と思えば希望が湧きそうじゃないか。
 何処にも存在しないなんていうユートピアより、辿り着く目標になりそうだってな。
「ぼくもおんなじ気持ちだったよ、どちらか一つを選ぶんならね」
 地球に着いたら、ずっと昔には「シャンの山の峠」だった場所が何処かにあるんだ。
 シャングリラは作家の作り話でも、チベットって場所はあったんだから。
 同じ幻なら、実在しそうな方がいい。
 その可能性が高そうな方がいいよね、ってシャングリラを選んで書いたんだよ。



「…お前、どっちでもいいと言っていたくせに」
 ハーレイが深い溜息をつくから、ブルーは微笑む。
「それもホントだよ?」
 みんなが選びたい方で良かった。
 ぼくの意見で決めるんじゃなくて、自由に選んで欲しかったんだよ。
 だって、あの頃のぼくはソルジャーどころか、リーダーですらも無かったしね?
 物資を奪う力があるってだけのチビだよ、そんなぼくが決めてどうするの?
 みんなが乗る船の名前なんだよ、やっぱりみんなで決めなくっちゃね。
「なるほどなあ…。お前もチビなりに考えていた、と」
 そして今だったら選択肢が二つほど増えるようだが。
「桃源郷は似合わないと思うよ、白い鯨には」
「うむ。常世の国もな」
 どっちも合わんな、シャングリラには。
 あの船は桃源郷でも常世の国でもなくてシャングリラだという、そんな気がする。



「シャングリラって名前で良かったんだよね?」
 前のぼくたちが乗っていた船。
 最初はコンスティテューション号だった船…。
「ああ。キャプテンの俺が言うのも何だが、シャングリラ以外に考えられんな」
 だが、俺たちはシャングリラに乗って、シャングリラがある筈の地球を目指して…。
「空振りだったね、前のハーレイ…」
 青い地球は何処にも無かったんだものね。
「お前は辿り着けさえしなかったんだよなあ、あんなに地球を夢見ていたのに…」
 俺たちを守って、メギドなんかへ飛んじまって。
「空振りしちゃってガッカリするより、良かったような気もするけどね」
「本当か?」
「…今だから思うことだろうけど。青い地球は無かったってことを知っているから…」
 あの時のぼくは、地球を見られずに死んでしまうことが悲しかったもの。
 一目でいいから見たかった、ってメギドへ飛ぶ前に思ったもの。
 だから、死の星だった地球でも。
 もしも着けていたら、「此処まで来られた」って泣いて喜んでたかもしれない。
 あれが地球だ、って、青くないけど地球に来たんだ、って…。



 どうだったろう、とブルーは呟く。
 前の自分が死に絶えた地球に辿り着いていたら、喜んだのか、それとも失望したかと。
「さてなあ…?」
 俺にもそいつは分かりかねるが、お前は辿り着けたじゃないか。
 前のお前が焦がれたとおりの、本物の青い地球までな。
 まさに理想郷って感じの地球だぞ、もう人類との戦いだって無いんだからな。
「うん。…だけどシャングリラじゃなくって、常世の国って所なんじゃない?」
「この地域だと、どうやら理想郷はそいつらしいしなあ…」
「でしょ? 時じくの香の木の実もあるしね」
 ほら、ちゃんとテーブルの上に乗っかってる。
 常世の国の蓬莱山に生えてるんでしょ、これが採れる木。



「橘か…」
 ふむ、とハーレイは笑みを深くした。
「晩飯の時にちょっと食ってみるか?」
「どうやって?」
「柚子とかの代わりに使えないこともないだろう」
 親父が言うには、けっこう酸っぱいらしいしな。
 菓子を作るなら砂糖を多めに入れてやらんと駄目なようだぞ、だからだな…。
 料理に少し絞ってやるとか。
「それじゃメニューによるんじゃない?」
 今日の晩御飯、柚子とかレモンが合わないメニューかもしれないよ?
 …それにパパとママも一緒に食べているんじゃ、シャングリラな気分になれないし…。
 食べるんだったら、今、使おうよ。
「どうするつもりだ?」
「この紅茶だよ。レモンティーの代わり」
 おかわりはレモンじゃなくって橘で飲もうよ、いいと思わない?
「なるほどな…!」
 そいつはいいな、とハーレイが頷き、ブルーはテーブルの橘の実を掴むと立ち上がった。
 キッチンで二つに切ってくるから、少しの間だけ待っていて、と。



 階段を駆け下り、母が立つキッチンに飛び込んで行って。
「ママ!」
 橘の実を載せた右手を差し出した。
「この実、二つに切りたいから、ナイフ!」
 時じくの香の木の実なんだよ、ハーレイがぼくにくれたんだ。
 これで紅茶を飲んでみたいから、二つに切りたい!
「あらまあ…。珍しいものを頂いたのね?」
「うんっ!」
「まな板、これから使う所だったから。先に切ってあげるわ」
 母は橘の実を綺麗に二つに切って分けてくれた。
 小さな皿に載せて貰ったそれをブルーは宝物のように大切に持って、部屋へ戻って。



「ハーレイ、これ」
 切って貰って来たよ、橘の実。早く絞って飲んでみようよ、レモンティーの代わりに。
「よし。だったら、紅茶のシャングリラ風と洒落込むか」
「常世の国だよ、此処の地域だと」
「そいつを別の言葉で言ったらシャングリラだろうが、理想郷だぞ」
 チベットだの由来だのにこだわらなきゃな。
「そういえばそうだね、どっちも理想郷なんだものね」
「うむ。だから、こいつを絞って、と…」
 二つに分かれた橘の実を半分ずつ持って、熱い紅茶を満たしたカップに絞ってみて。
 香り高い実の香りが移った指でカップを持ち上げ、口に運んだブルーは素直な感想を述べた。
「酸っぱいかも…」
 レモンを一枚入れるだけより酸っぱいんだけど…!
「だが、これがシャングリラの味ってな」
 時じくの香の木の実だ、理想郷で採れる木の実の味だな。
「ふふっ、そうだね、常世の国でもシャングリラだしね」
 それに地球だよ、とハーレイと二人、酸味が増した紅茶のカップを傾ける。
 自分たちは地球に辿り着いたと、長い長い時を経て、ついに本物のシャングリラに。
 今、自分たちが住んでいる地域では理想郷と言えば常世の国。
 そんな名前のシャングリラに二人一緒に辿り着いたと、蘇った青い地球の上で、と…。




         理想郷の名前・了

※楽園という名を船につけようと思ったミュウたち。候補は幾つかあったのです。
 そして決まったのがシャングリラ。今のブルーたちが暮らす地域だと、常世の国ですね。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







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