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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

フィシスの地球

(あっ…!)
 学校から帰り、おやつを食べながら眺めた新聞。天気予報欄の上に刷られた青い地球。ごくごく見慣れたコーナーだけれど、ふと思い出した。
 フィシスの地球を。前の生の自分が飽きることなく眺め続けた、青かった地球を。
(……地球……)
 今のブルーは地球を知らない。知っているけれど、知らないのと同じ。
 蘇った青い地球に生まれたブルーだけれども、その地球はいつも足の下にある。前の生で願った「踏みしめる大地」が、ミュウのためどころか自分のために在って、しかも地球。
 焦がれ続けた青い水の星。
 それなのに、肝心の姿が見えない。青い地球は常に足の下にあって、一粒の青い真珠ではない。海に行けば地球が丸いことが分かる、と言われてはいても、水平線が緩やかな弧を描くだけ。
 ブルーが知っている海の景色も水平線と青い空だけで、其処には地球の姿は無かった。
 そう、宇宙から見た地球を知らない。暗い宇宙にぽっかりと浮かぶ地球を見たことがない。
(…せっかく地球の上にいるのに…)
 天気予報には気象衛星から見た地球が付き物、新聞でも、映像ニュースでも。
 夏休みに地球を宇宙から見られるツアーに行こう、と父が約束してくれていたのに、ハーレイと出会って行きそびれた。
 旅行などに出掛ける暇があったら再会した恋人と過ごしたかったし、「家に居たいよ」と願った自分。旅行は要らないと父に告げた自分。
 けれど…。



(地球…)
 見損ねてしまった、宇宙から見る青い地球。
 前の自分が焦がれ続けて、幾度となく眺めた青い水の星へと飛んでゆく旅。フィシスの記憶。
 あれで見たように、外から見た地球を見てみたい。足の下に在る地球を、地球の外から。
 写真や映像などとは違って、ヒトの目が捉えた青い地球。肉眼で捉えた、青い水の星。
 それが見たい、と思うけれども、今はもう隣にフィシスはいない。
 あんな風に今の地球の姿を、住んでいる星を見てみたいのに、フィシスはいない。地球を見せてくれたフィシスがいない、と溜息をつきかけて気が付いた。
(そうだ、ママ!)
 ママ、とキッチンに駆けて行った。
 地球が見たいと、ママの記憶の地球を見せて、と。



 夕食の支度にはまだ早かったから、母は食材のチェックをしていた手を止めて振り返った。
「…地球?」
「そう、ママが見た地球! ママは地球の外へも旅行に行っているでしょ?」
 ぼく、夏休みに行けなかったから…。ママのを見たいよ、ママの記憶に残ってる地球。
「…パパに頼んだ方がいいんじゃないの?」
 何度か出張に行っているわよ、ブルーが生まれてからだって。パパの記憶の方が新しいわ。
 ママは新婚旅行が最後よ、ブルーが生まれるより前よ?
「それ、この家に帰ってくる?」
「もちろんよ。新婚旅行よ、此処に帰って此処に住むのよ」
「じゃあ、それが見たい!」
 お願い、見せて。晩御飯の用意をする前に見せてよ、ママが見た地球。



 母は「しょうがないわねえ…」とブルーと一緒にダイニングまで戻って来てくれた。テーブルの上の空いたティーカップや空になったケーキの皿をキッチンに運び、後片付けを済ませて。
「はい、お待たせ」
 エプロンを外し、ブルーの隣の椅子に「此処でいいかしら?」と腰掛け、差し出された手。母の白い手。ブルーはキュッと自分の手を絡めた。
 かつてフィシスとそうしたように、母と絡め合わせた右手。
 前の自分の右の手はメギドで凍えてしまったけれども、今の自分の小さな右手に母の温もり。
「…フィシスになったような気分だわ、ママ」
 憧れたのよ、と母が微笑む。
 幼い頃にはフィシスがとても羨ましかったと、ソルジャー・ブルーに地球を見せていた女神が。
 母にとっては王子様のように思えたソルジャー・ブルー。
 フィシスはさながらお姫様といった所で、フィシスになりたかったという。
「…ごめんね、ママ…。ぼくがソルジャー・ブルーだなんて」
 ママの夢、叶わなかったのに。
 …ママがフィシスになれるどころか、ソルジャー・ブルーのママになっちゃうだなんて…。
「いいのよ、ママはパパに出会って、ちゃんと結婚出来たんだから」
 素敵なパパと暮らせる上に、こんなに可愛いソルジャー・ブルーもいるんだものね。



 ほら、と目を閉じた母が絡めてくれたサイオン。
 「ごゆっくりどうぞ」とクスクス笑って、明け渡してくれた青い地球へと向かう旅の記憶。
「わあ…!」
 凄い、とブルーは歓声を上げた。
 閉じた瞼の下へと流れ込んで来た、母が見た地球。宇宙船の窓から眺めた地球。
 フィシスが見せてくれた地球よりもずっと鮮やかで、地形はすっかり違うけれども青い水の星。蘇った地球の美しい姿。宇宙に浮かんだ一粒の真珠。
 宇宙船からシャトルに乗り継ぎ、ぐんぐんと青い海を目指して降下してゆく。
 リアリティーのある、本物の地球へと降りてゆく旅。
 フィシスの記憶は降下の途中で終わったけれども、母が乗ったシャトルは地球の大地に造られた広い宙港に降りた。ガクン、と揺れてから滑走路を滑り、速度を落として停まったシャトル。
「もっと…!」
 ママ、もっと。家に着くまで全部見せて、と願った通りに旅の終わりまで見せて貰った。
 ブルーの記憶と殆ど変らない街の通りを車で走って、生垣に囲まれたこの家まで。車のドアから地面に降り立ち、見慣れた門扉の前に立つまで。
「…ソルジャー・ブルー? 如何でしたか?」
 母がニッコリ笑ってフィシスを気取るから、どう応えようかと思ったけれど。
 前の自分の台詞を口にしたなら、きっと笑い出すに決まっているから、今の自分の言葉にした。溢れ出す喜びを隠さないまま、母にピョコンと頭を下げて。
「ありがとう、ママ!」
 綺麗だったよ、ママが見た地球。フィシスの地球よりずっと凄いよ…!
「どういたしまして」
 お喜び頂けて嬉しいですわ、と返した母は「はい、フィシスごっこの時間はおしまい」と片目を瞑ってエプロンを着けると軽やかにキッチンの方へと向かった。
 楽しかったわ、とブルーに笑みを投げ掛けて。



(…あれがママの地球…)
 あんな風に見えるものなんだ、と部屋に戻ったブルーは勉強机の前に座って遠い昔を思い出す。
 前の自分が、地球が見たくて攫った少女。
 欲しかったフィシス。
 青い地球の記憶を抱く少女が、水槽の中に浮かぶ少女が欲しくて欲しくてたまらなかった。
(…偽物の地球の記憶だったなんて、前のぼくは知らなかったしね…)
 雲海の星、アルテメシアの育英都市。
 偶然入り込んだ研究棟の奥で見付けた、前の自分の宝物。
 マザー・システムが無から創った生命だけれど、その身に抱く記憶は本物。流し込まれる膨大な記憶は全て本物、いずれ人類の指導者となるべく機械が送り込む数々の知識。
(だから本物だと思ったんだよ、地球も…)
 そういう風に見えるものだと、宇宙を旅して地球に降りる時にはこう見えるのだと。
 青く美しい星、母なる地球。
 今はまだ何処に在るのかも分からないけれど、これが本物の地球なのだと。



 少女が夢見る地球は確かすぎて、実感を伴いすぎていて。
 その青い地球に囚われる。見れば見るほど地球に惹かれて、水槽から離れ難くなる。
(…何度見たって、飽きるわけないよ)
 あの地球が見たい。幾度でも見たくて、いつまでも見たい。時間が許す限り眺めていたい。
 地上に降りる度に通い続けて、通う内にどんどん欲しくなる。地球が、地球の夢を抱く少女が。青い地球の夢を見ている少女はミュウではないのに、人類の指導者になる者なのに。
 けれども欲しくて、どうしても欲しくてたまらないから。
(…サイオンは多分、移せる筈…)
 水槽の中で眠る少女にサイオンさえあれば、彼女はミュウ。
 白いシャングリラへと連れて帰って、ミュウの仲間として保護するべき者。その考えが浮かんだ瞬間、ゴクリと唾を飲み込んだ。
 サイオンを移すなどやってみたことは無かったけれども、出来ると思えた。
 しかし…。



(…人間じゃない)
 ミュウでもない。
 無から創られ、今は研究者たちに記号で呼ばれている少女。
 いずれ水槽から出された時には、フィシスと呼ばれる予定の少女。
 もしもサイオンを移してしまったら、少女が進むべき本当の未来は無くなってしまう。ミュウと判断され、処分される道が待っているだけ。
 それを攫って連れ帰ることは簡単だけれど、シャングリラに暮らす仲間への手酷い裏切り。
 ミュウの楽園に人類を連れて帰るどころか、人類ですらもない少女。
 けれど少女にサイオンを与えてしまったならば、連れ帰る以外に道は無かった。研究所に残せば殺されるだけで、少女は地球の夢ごと消える。泡のように儚く消されてしまう。
 自分が少女を欲しがったせいで、サイオンを与えてしまったせいで。



 それをやったら、もう後戻りは出来ないから。
 少女を失わずに済む方法は仲間に対する裏切りしか無く、それでも欲しくてたまらないから。
 どうしても堪え切れなくなってしまったから、勤務を終えて青の間を訪れた恋人の名を呼んだ。
「ハーレイ。…君に相談があるんだけれど」
 ぼくは青い地球を見付けたんだよ、地球の夢をいつも見ている少女を。
 シャングリラに連れて来たいんだけれど、その子はミュウじゃないんだよ。人類が無から創った生命体。人間じゃないんだ、人間ですらないものなんだよ。
 …だけど欲しくてたまらない。
 ぼくのサイオンを与えさえすればミュウに出来ると、そうしたら連れて来られると…。
 そればかり考えてしまうんだ、ぼくは。
 ねえ、ハーレイ。…ぼくはどうすればいいんだろう…?
 諦めるべきだと分かっているのに、欲しくて欲しくてたまらないんだよ…。



 そう打ち明けた後、ハーレイは腕組みをして長く考え込んでいたけれど。
 眉間の皺を常よりも深くし、キャプテンの貌で思案を巡らせていたハーレイだったから、これは駄目だと半ば諦めていたブルーだけれど。
 腕組みを解いた恋人の口から零れた言葉は、予想とはまるで違っていた。
「…その少女。…本当に……ミュウに出来ますか?」
「うん、多分」
「ならば、私は聞かなかったことにしておきます」
「えっ?」
 何を言うのかと驚くブルーに、ハーレイは穏やかな笑みで応えた。
「あなたは殺されそうだったミュウの少女を救出して来た。それでいいではありませんか」
 …いえ、私の記憶も消して下さい。後々を思えばその方がいい。
 聞かなかったことにするより、今、聞いた全て。消してしまうのが一番です、ブルー。
「…それは出来ない」
 出来ないし、ぼくは決してしないよ。ハーレイにだけは知っていて欲しい。
 あの子を船に連れて来ていいと言ってくれるなら、忘れないで覚えていて欲しい。ぼくが連れて来ようとしている少女が何者なのか、どういう存在だったのかを。
「ですが、ブルー…」
「いいんだ、君には知っていて欲しい」
 ぼくの我儘を、とんでもない無茶を聞き入れてくれたハーレイだから。
 船のみんなを騙すことになっても、ハーレイにだけは相談しようと思ったんだから…。



 そうしてミュウにしてしまった少女。サイオンを移してしまった少女。
 ハーレイは何度も「まだですか?」とブルーに尋ねてくれた。地球を抱く少女は、あなたの夢の化身の少女はまだこの船に来ないのですか、と。
「まだだよ。…まだかかる」
 あの子は水槽の中に居るから。まだ外に出される時期じゃないから。
 でも、準備を進めておいてくれるかい?
 あの子のために部屋が欲しいんだ。
 ぼくがいつでも訪ねられるよう、他の子供たちとは別の部屋がいい。
 それに特別な子だからね。地球の記憶を持った子だから、特別扱いでも誰も怪しまないよ。



 やがて水槽から出された少女。
 盲目のフィシス。
 目が見えない彼女を研究者たちは失敗作だと思い始めていたのだけれど。
 ブルーが与えたサイオンが何かと結び付いたか、それとも神の気まぐれなのか。彼女がタロットカードで占いをすることを知って、どれほどの喜びに包まれたか。どんなに嬉しく思ったことか。
 これで彼女は間違いなく本物のミュウに見えると、それ以上だと。
「ハーレイ、フィシスは未来が読めるよ」
 タロットカードというカードなんだ、シャングリラには無い、占い専用に作られたカード。
 そのカードで未来を占えるんだよ、とても良く当たると研究者たちが恐れるくらいに。
「それは会える日が楽しみですね」
 タロットカードとやらも作らなくてはなりませんね。この船には無いと仰るのなら。
「フィシスの地球は君に一番に見せてあげるよ、約束するよ」
「…まずくないですか?」
 何故、私なのか。…私との仲を疑われませんか、そのようなことをなさったら。
「大丈夫。だって、君はキャプテン・ハーレイだから。このシャングリラのキャプテンだから」
 ぼくの恋人だとは誰も思わないよ、気が付きはしない。もちろん、フィシスも。



 その日が来た朝、死神のカードの上下を入れ替え、救い出したフィシス。
 本当は攫って手に入れた少女。そうなるようにと仕向けた少女。
 宝物のように大切に両腕に抱いて、白いシャングリラへと連れ帰って。
 ミュウの女神だと皆に披露した。
 天体の間に船の仲間を集めて、連れ帰った時の白いドレスのままで。
 その身に地球を抱く女神だと、それに彼女は未来を読むと。



 どよめきの中で、少女の小さな肩に両手を置いて。
「フィシスの地球は…。そうだ、ハーレイ。君に一番に体験して貰おう」
 怖くないことを皆に証明するためにもね。どうだい、ハーレイ?
「はい、謹んでお受けいたします」
「ありがとう。こういったことは、やはりキャプテンの役目だからね」
 大真面目な理屈をつけて、過ぎた日に交わした約束の通り、ハーレイに地球を一番に見せた。
 自分の手よりも遥かに大きな褐色の手を怖がりもせずに、フィシスが差し出した手を握らせて。目を閉じたハーレイの表情が驚きに揺れて、それから一気に引き込まれてゆく。
 フィシスが抱く地球の記憶へと、青く輝く水の星へと飛んでゆく旅に。
 手が離れた後も、ハーレイの鳶色の瞳はうっとりと夢を見ているかのようで。
「どうでした、キャプテン!?」
「地球は青かったですか?」
 口々に問う声に天体の間へと引き戻されたらしいハーレイは「うむ」と仲間たちを見回した。
「…素晴らしかった。本当に地球を見て来たような気持ちがする」
 皆もあの地球を見せて貰うといい。
 フィシスが疲れてしまわないよう、自己紹介を兼ねて順番に。
「そうじゃな、しかし今日は一人でいいじゃろう」
 デカい男で怯えておらんか、見た目は平気そうじゃがな。
 ゼルが気遣い、「違いないね」とブラウが頷く。
 自己紹介はまたの機会でいいであろうと、今日の所は顔合わせだけにしておこうと。
「お嬢ちゃん。とりあえず、名前だけ覚えてくれるかい? あたしはブラウさ」
「わしはゼルじゃ。そっちがヒルマンで、向こうがエラじゃ」
「よろしくな、フィシス」
「よろしくお願いいたしますね」
 このシャングリラへようこそ、フィシス。



 エラの言葉が散会の合図。
 仲間たちが感嘆の表情で見詰めている中、ブルーはフィシスを天体の間の奥へと導いて行った。
 いずれ大切な仲間を迎える予定だ、と改装させておいた部屋まで。
 ハーレイがフィシスの正体を伏せつつ、幼い少女が好みそうな部屋にと指揮して作らせた専用の部屋へ。
 相部屋で暮らす子供たちとは違って、個室。愛らしい少女に良く似合う個室。
 クローゼットに、ベッドに、テーブル。この日に備えてハーレイが用意させたタロットカードを収めた小箱。何もかもが全てフィシスだけのもの、フィシスだけの部屋。
 それから彼女の世話係にと、竪琴の得意なアルフレートを側に控えさせて。



 フィシスが部屋に馴染むのを見届け、彼女が抱く地球を眺めて戻った青の間。
 其処で恋人の勤務時間が終わるのを待ち、やって来たハーレイが一日の報告を済ませるなり抱き付いて「ありがとう」と何度も繰り返した。
「ありがとう、ハーレイ。…君のお蔭だよ、ぼくはフィシスを手に入れられた」
「いえ、ソルジャー…。いいえ、ブルー。私は何もしていませんよ」
 あなたが御自分で連れておいでになったのです。全てはあなたのお力ですよ。
「違うよ。君が許してくれなかったら、ぼくは決心出来たかどうか…」
 でも、本当は。
 ぼくが一番欲しいものは本当はフィシスじゃなくって、君なんだけどね?
「…地球よりもですか?」
「うん。…でも、地球も欲しい。青い地球も見たくてたまらないから、フィシスを攫った」
 君も欲しいし、フィシスの地球も欲しい。…ぼくはとっても欲張りなんだよ。
「知っていますよ、本当のあなたがそうであることは」
 ソルジャーではない、本当のあなた。
 本当のあなたがどんな人かは、ずうっと昔から知っていますよ、そうでしょう…?



(…フィシスの地球かあ…)
 懐かしいな、と小さなブルーは勉強机の前で呟いた。
 母に見せて貰った記憶の方が遥かに鮮やかで、しかも本物の地球だったけれど。
 フィシスが持っていた地球の記憶は偽物だったけれども、それを本物だと信じていた自分。青い地球があると信じて、其処を目指したソルジャー・ブルー。
(…あれはあれで良かったんだと思うけど…)
 信じていたから前に進めたし、諦めなかった。仲間たちを、白い鯨を守って命までも捨てた。
(だけど本物の地球は青くなくって、前のハーレイが辿り着いた地球は死の星で…)
 ハーレイはどんなにガッカリしただろうか、と考えた所で気が付いた。
 今のハーレイは宇宙から見た地球を知っている。見たことがある、と前に話していた。
 それも見たい、と欲が出て来た。
 母の記憶の地球を見たからにはハーレイの地球も、と。
(ハーレイ、今日は来ないかな…?)
 夕食に寄ってくれたらいいのに、と窓の方へと視線をやったら、来客を知らせるチャイムの音。
(来た!)
 ハーレイだ、とブルーは窓に駆け寄り、門扉の向こうに佇む人影に手を振った。



 母に案内されて来たハーレイと二人、窓辺のテーブルで向かい合う。お茶とお菓子を運んで来た母の足音が階段を下りて消えるなり、ブルーはハーレイに「ねえ」と強請った。
 地球が見たいと、宇宙から見た青い地球の記憶が見たいのだと。
「…俺の地球か?」
「うん。それで地球に降りて、ハーレイの家まで行きたいんだけど…」
 ママに見せて貰ったのが素敵だったから。
 ハーレイのも見たいよ、ハーレイの目が見て来た地球も見てみたいんだよ。
「かまわないが…。お前のお母さんの記憶と同じくらい古いぞ、それでいいのか?」
「えっ?」
 ハーレイ、旅行をしてないの?
 一人暮らしだから、夏休みとかは旅行に行ってたと思っていたのに…。
「それなんだがな…。どういうわけだか、教師になってからは地球を離れたいと思わなかった」
 長期休暇には長い旅行に行ける、っていうのもあって教師を選んだつもりだったんだがな。
 最初の一年間は早く仕事に慣れるためにも旅は控えて、次の年からは気の向くままにあちこちの星へ出掛けて行こうと計画を立てていたんだが…。
 旅の本まで買ってたんだが、いざ二年目って時になったら地球を離れる気にならなくてな。
 しかも此処から、この地域から出たくないんだ。
 そういうわけでな、俺は地球から離れるどころか、旅はこの地域専門だ。
 今から思えば、お前が生まれちまってたんだな、あの年の終わりに。
 お前から遠く離れたくなくて、俺の旅行は狭い範囲になっちまったんだろうな、きっとそうだ。



 地球の記憶は古いのしか無いぞ、とハーレイは言う。
 自分が最後に地球を離れた頃はまだ両親の家に住んでいて、今の家に戻る記憶ではないと。
 ついでに隣町にある両親が暮らす家はまだ秘密だから、其処までは見せてやれないと。
「いいよ、内緒でも。…宙港に降りる所まででいいよ」
「なら、最後のにしておくか。卒業記念旅行の時の。…ソル太陽系からは出ていないがな」
 大抵のヤツらは遠い星へと旅をしてたが、俺は行く気にならなかった。
 ソル太陽系から出たいと思わなかったんだ。だから同じ趣味のヤツと一緒にフラリとな。
 なにしろ同じ星系の中だ、何処へ行っても太陽が遠いか、近いかくらいの違いだったさ。
「他はどういう時に行ったの、地球の外へは?」
「色々だ。親父たちと旅行に行ったり、合宿もしたし、遠征もしたさ」
 もっとも、遠征と言っても学生だからな、ソル太陽系の中だけだが。
 親父たちと行った旅行もソル太陽系から出ちゃいないんだ。柔道も水泳も、練習を長い間休むと身体がなまっちまうしな?
 だから近い所へ行こうと親父たちに言って、帰ってくるなり練習に走って行っていたのさ。
 おまけに卒業記念旅行でも外へ出ないで、それから後は出ずじまいで。
 結局、俺は地球を離れ難かったってことなんだろうな、記憶が戻っていなくても。
 …そしてお前が生まれた後には、もう離れたくはなかった、と。



 うんと古いぞ、と苦笑いしながらハーレイが見せてくれた記憶の中の地球。
 母の記憶と同じくらいに古いという地球。
 けれどもそれは青くて、少しもぼやけた所など無くて。
 漆黒の宇宙にぽっかりと浮かぶ青い真珠は、前の自分が焦がれた通りの青い水の星。その地球が見る間に近付いて来る。シャトルに乗り継ぎ、青い地球へと降りてゆく記憶。
(ハーレイも見たんだ…)
 海面が近くなって、滑るように宙港に着陸するシャトル。窓の外を流れる景色が静かに止まった所で、ハーレイが「この先は秘密だ」と手を離した。
「隣町の親父の家までの道も秘密だ、まだ教えんぞ」
「うん。…ありがとう、ハーレイの地球も綺麗だったよ」
 フィシスの地球よりずっと素敵だよ、ぼくも宇宙から地球に帰って来たみたいな気分になるよ。
「そうか?」
「本物なんだな、って分かるもの。ちゃんとシャトルで降りるんだもの」
 ハーレイだって知っているでしょ、フィシスの地球。
 青い地球に向かって降りて行くけど、絶対、着陸出来ないんだよ。
 その前におしまいになってしまうんだよ、スウッと記憶が霞んでしまって。
 前のぼくは「この先は秘密なんだな」って思い込んでいたけど、秘密なんかじゃなかったんだ。
 青い地球なんかは何処にも無いから、ああしておくしかなかったんだよ…。



 だから…、とブルーは微笑んでみせた。
「ハーレイが地球を知ってて良かった。宇宙から見た地球を知ってて、ホントに良かった…」
「何故だ?」
「前のハーレイが見た地球の記憶しか無いんじゃ悲しいでしょ?」
 死の星だった地球しか知らなかったら、今のハーレイ、きっと悲しいと思うんだ。
 せっかく青い地球の上に生まれて来たのに、ぼくみたいに外から見た地球を知らなかったら。
「…そうかもしれんな」
「それに、ハーレイは前のぼくにフィシスをくれた」
 シャングリラに連れて来てもいいんだ、ってハーレイが許してくれたんだよ。
 前のぼくが青い地球を好きなだけ見られたのはハーレイのお蔭。
 偽物の地球でも、前のぼくにとっては本物の青い地球だったんだ。あの星に行こう、って地球を夢見て頑張れたんだよ、前のぼくは。
 ハーレイがフィシスをくれなかったら、ぼくは最後まで頑張れたかどうか…。
 だからハーレイには本物の青い地球を見せてあげたいよ、死の星じゃなくて今の地球を。
 ちゃんとハーレイが見ていてくれたのが嬉しいんだよ、今の青い地球。



「フィシスか…。俺はお前の我儘を聞いてやりたかったというだけなんだが」
 礼を言われるようなことは何もしていないと思うんだがな?
 俺が自分のやりたいようにやったってだけで。
「…そうなの?」
「ああ。前のお前が欲しいと言うようなものが、そうそうあったか?」
 欲しくて欲しくて、シャングリラの仲間たちまで敵に回そうってほどのものがあったか、それを手に入れるためなら何でもやろうと思うようなもの。
「……無かったかも…」
「そうだろう? 前のお前は、いつだって仲間が最優先で。我儘なんか言いやしなかった」
 そんなお前がフィシスを欲しいと言い出したんだ。
 仲間を裏切ることになっても欲しいと、どうしてもフィシスが欲しいんだと。
 そこまでお前が欲しがるフィシスだ、手に入れさせてやりたいと思うじゃないか。
 お前の嬉しそうな顔が見られるなら、俺はそれだけで良かったのさ。
 たとえフィシスにお前を盗られる結果になっちまってもな。



「…それだけは無いよ」
 無いよ、とブルーは首を横に振った。
「ぼくの一番は、いつでもハーレイ。…フィシスより、地球より、ハーレイが一番」
 前のぼくもハーレイに言った筈だよ、本当に欲しいのはハーレイだって。
 ホントなんだよ、前のぼくも今も、いつだって、そう。
「…そういや、お前、そう言ってたか…」
「うん。ハーレイがフィシスをくれた時にね」
 フィシスよりも、地球よりも、ハーレイが好き。
 青い地球もとっても欲しかったけれど、ハーレイのことが何よりも好きで、欲しかった。
 そのハーレイと一緒に地球に来られたんだよ、青い地球まで。
 だから…、とブルーはハーレイの手にもう一度自分の手を絡める。
 小指と小指を添わせて強く絡ませる。
 今度こそ二人で地球を見ようと、結婚したら二人で青い地球を見られる旅をしよう…、と。




        フィシスの地球・了

※青い地球が見たくて、前のブルーが攫ったフィシス。秘密を知っていたのはハーレイだけ。
 今は本物の青い地球へ向かう映像を見られるブルーです。母のも、今のハーレイのも。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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