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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

金木犀の香り

 ふわり。
 学校の帰り、バスを降りて家まで歩く途中で、ブルーの鼻腔をくすぐった匂い。
 甘いけれど強い、その独特の秋の花の香。
(あっ…!)
 咲いてるんだ、とブルーは脇道に逸れた。角を曲がって二軒先の家、其処の生垣。
(うん、今年も一杯!)
 どうして今日まで全く気付かなかったのだろう。
(…ハーレイのことで頭が一杯になってたからかな?)
 例年だったら咲き始めて直ぐに誘われるように寄り道するのに、今年は全く覚えが無い。小さな蕾が花開いただけで、いつもの道まで「咲いているよ」と香を漂わせる木たちなのに。
(ごめんね、今年はウッカリしちゃっていたみたい…)
 せっかく呼んでくれていたのに、と家を取り囲む木たちに謝った。
 ブルーの背丈よりも高い、金木犀で出来た生垣。枝一杯に花を咲かせて誇らしげに立つ木々。
(銀木犀の木もあるんだよね)
 あれはこっち、と生垣の角を曲がれば、生垣を越えて道路にまで張り出した白い花の木。香りの高い花をつける木。
(こっちももうすぐ咲きそうだよ)
 金木犀の生垣と、見上げるような銀木犀の木。
 オレンジ色の花と真っ白な花が咲き揃ったら、普段の道を歩いていたって甘い香りが強く漂い、「こっちだよ」「見においでよ」とブルーを手招き、惹き付けて来る。
 小さな頃から大好きな香り。物心つく前からきっと、好きだった香り。
 幼い頃には手のひらの中に花を握って持ち帰ったりもした。



(男の子らしくないんだけどね…)
 零さないようにしっかりと持って帰って、宝物のように窓辺に置いていたなんて。
 可愛らしいと呼ぶには小さすぎる花を器に入れて、香りを楽しんでいたなんて。
 すっかり乾いて香りがしなくなってしまうまで、ポプリよろしく子供部屋の素敵なアクセント。あの頃はポプリという言葉もドライフラワーさえも欠片ほども知りはしなかったのに。
(…だけど香りが好きだったんだよ…)
 何故この花が好きなんだろう、と生垣に咲き誇る金木犀の花に触れてみた。
 集まって咲いているからそれと分かるけれど、一輪一輪は小さくて目立たない四弁の花。
 自分の家の庭に無いのが残念だったが、どういうわけだか、花の季節以外は忘れているから。
 甘い香りが消えてしまったら、見に出掛けようともしなかったから。
 それを良く知るブルーの両親は、金木犀の木を庭に植えようとは言わなかった。
 独特の香りが強い花だし、他の花の香をすっかり圧倒してしまうから。
 母が丹精している四季咲きの薔薇の香りまでもが、台無しになってしまいそうだから。



(金木犀かあ…)
 ハーレイの家の庭にもあるのかな、と呟いたけれど分からない。
 一度だけ遊びに出掛けた時には家の中だけを夢中で見ていて、庭までは足を運ばなかった。次の機会が無くなるだなんて思っていないし、また次でいいと窓から眺めていただけ。
(…まさか行けなくなっちゃうだなんて…)
 前の生と同じ背丈になるまで、来るなと言われてしまった家。
 メギドの悪夢を見た夜に一度だけ、瞬間移動で飛び込んで行ってしまったけれど。一度だけしか飛んでゆけなくて、どうすれば飛べるのか分かりもしない。
(…あの時も庭は見ていないんだよ…)
 ハーレイの車で家まで送って貰ったから、ガレージまで庭を横切って行った筈なのだけども。
 夢のような時間に目がくらんでいて、庭を観察出来る余裕はまるで無かった。
 だから知らない、ハーレイの家の庭を彩る数々の木たち。
 金木犀の木も庭の何処かに植えられ、花を咲かせているのだろうか…。



 せっかくだからハーレイに訊いてみよう、と一枝貰うことにした。花は華奢だけれど丈夫な葉。ハーレイが暫く来られなくても、花が落ちても、枝だけだったら週末まで持つ。
 この生垣に囲まれた家の人とは、小さな頃から顔馴染み。
 金木犀の花が欲しくて欲しくて生垣にべったりへばりついていた、幼稚園からの顔馴染み。
 気付いた奥さんが「持って行ってね」と枝をハサミで切ってくれたし、ご主人だって「ほら」と分けてくれたことが何度もあった。
 そうする内に、とびきりの許可。小躍りしたくなった二人からの言葉。
 いつでも一枝取って行っていいと、大きな枝をもぎ取るわけではないのだから、と。
(うん、久しぶりに!)
 こうして枝を分けて貰うのは、いったい何年ぶりだろう?
 よいしょ、と一枝、小さいのを折った。コップに挿すのに丁度いいくらいの小さな枝を。



 香りを楽しみながら大切に持って、元の道へと。
 花が零れてしまわないよう、ゆっくり歩いて家に帰ると、母が「あら、金木犀。久しぶりね」とクリスタルの一輪挿しに生けてくれた。
「部屋に飾るんでしょ? 長い間咲いててくれるといいわね」
「うん。ありがとう、ママ!」
 コップに挿そうと思っていたのに、母のお気に入りの一輪挿し。
 これならばグンと見栄えがする、と嬉しくなった。
 勉強机に置いたけれども、もしもハーレイが来てくれたならば、部屋の彩りになるだろう。



 制服を脱いで着替えて、母と二人でおやつを食べてから、部屋に戻って。
 扉を開けて入った途端に、あの香り。ふうわりと甘く、けれども強く主張する香り。
 勉強机の上に飾った金木犀。
 引き寄せられるように机の前に座って、ハーレイと自分が写った写真を収めたフォトフレームと交互に見比べ、金木犀の香りを心ゆくまで吸い込んだ。
(いい匂い…)
 強すぎて嫌いだ、と言う友達もいるし、両親だって庭に植えてはくれない。薔薇の香りを殺してしまうからと植えてはくれない。
 それでも、この花に心惹かれる。花が咲く時期だけ、香りが風に乗る花の季節にだけ、ついつい惹かれて見に行ってしまう。こうして香りを手に入れたくなる。
 どうして好きなのか分からないけれど。
 何故だか分からないのだけれど…。



(…もしかしたら…)
 ひょっとしたら、と心を掠めた微かな、それでいて引っ掛かってくる思い。
 これは自分ではないのかもしれない。
 金木犀の香りが好きだった人は。甘い香りに惹かれる人は…。
(前のぼくなの…?)
 遠く遥かに過ぎ去った昔、白いシャングリラで暮らした前の生の自分。ソルジャー・ブルー。
 前の自分の全てだった船。世界の全てと言ってよかった、ミュウの楽園。
 あのシャングリラに金木犀の花はあっただろうか、と手繰り寄せた記憶にその木があった。
 ブリッジから見える広い公園ではなくて、居住区の方。
 皆の憩いの場になるように、と幾つも鏤めた公園の一つにあったと、金木犀が植えてあったと。
 何本かあった金木犀の木。今日の帰り道に見た生垣と同じくらいに大きかった木。
(銀木犀だってあったんだよ)
 オレンジ色の花と競うかのように、その公園にあった銀木犀。季節ともなれば漂った香り。
 でも…。
 前の自分は、どういったわけで金木犀の香りを好んでいたのだろう?
 金木犀と銀木犀とが植わった公園に、頻繁に足を運んだ覚えも無いのに。
 その公園が好きで、花の季節には入り浸っていたという記憶すら残っていないのに…。



(なんで…?)
 理由さえ記憶に無いというのに、前の自分だという気がする。
 金木犀の香りが好きだった人は前の自分で、それゆえに今も惹かれるのだと。
 けれども今でも覚えているのは金木犀があった公園だけ。銀木犀もあった公園だけ。手掛かりにならない、前の生の記憶。
(忘れちゃっただけで、あの公園が一番好きだったとか…?)
 思い出せない、と金木犀の枝を見詰めて悩んでいたら、来客を知らせるチャイムの音。
 程なくして母に案内され、部屋にやって来た、白いシャングリラの生き証人。
 褐色の肌のブルーの想い人は、直ぐに香りに気付いたようで。



「ほほう…。金木犀か」
 母がお茶とお菓子をテーブルに置いて立ち去った後で、ハーレイは勉強机の方へ視線を遣った。
「お前の家の庭には無いだろ、珍しいものが飾ってあるな」
 いや、金木犀自体は、今の季節には特に珍しくもないんだが…。
「ぼくが貰って来たんだよ。近所にあるんだ、金木犀の生垣に囲まれた家が」
 ハーレイの家の庭にも金木犀はあるの?
「いや、植えてないな」
「そうなんだ…。ちょっと残念」
 あったらいいな、と思ったんだけど。枝を貰いたくなっちゃう木だし。
「俺の家の庭には植えていないが、親父の家には昔からあるぞ」
 生垣じゃなくて一本だけだが、お前の背よりはデカイ木だな。
「ホント?」
「おふくろは薔薇に凝ってるわけじゃないから、こいつだってあるさ」
 ガキの頃にはこいつが咲いたら「ああ、秋だな」って思っていたな。
 夏の暑さが残っている間は、金木犀の花は咲かないからな。



 生まれ育った家には金木犀の木があった、とハーレイが話すから、ブルーは訊いた。
「ハーレイは金木犀が好きだった?」
「いや、特にどうとも思わなかったが…」
 言ったろ、秋の花だって。庭から金木犀の花の匂いがしたらだ、もう秋だな、という程度だ。
「…じゃあ、無理かな…」
「どうした?」
 金木犀がどうかしたのか、飾ってあるくらいだし、お前にとっては特別なのか?
「…金木犀の香りが好きなんだよ。うんと小さい頃から好きで、生垣にへばりついてたくらい」
 この枝を貰って来た家のことだよ、いつでも貰っていいって言って貰えたほど見てたんだ。
 花だけ貰って握り締めて帰った時でも、香りが消えるまで部屋に置いてた。
 でも、今のぼくじゃないかもしれない、って思っちゃって。
 金木犀の香りが大好きだったのは、前のぼくかもしれない、って…。
 だって、シャングリラにも金木犀の木があったんだもの。植えてある公園、あったんだもの。
 ハーレイだったら覚えてるかと思ったけれども、やっぱり無理かな…。
「ああ、あれな」
 思いがけずも返った答えに、ブルーは赤い瞳を丸くした。
 ハーレイは「忘れちまったか?」と穏やかに笑む。
「そいつは前のお前だな」
 金木犀の香りが好きで、何故なのか思い出せないとしたら。
 それは間違いなく前のお前だ、今のお前が金木犀に惹かれる理由が無いなら。



「…知ってるの?」
 覚えているの、と驚きに包まれてブルーは尋ねる。自分は忘れてしまったというのに、金木犀の香りに纏わる記憶が無いのに、ハーレイに断言されたから。
 今のブルーに金木犀を好む理由が無いなら、それはソルジャー・ブルーのものだと。
「ハーレイ、なんで前のぼくだって言い切れるの?」
「ん? そりゃまあ、なあ…。他にも色々とあった筈だが、始まりが金木犀だしな」
 一番最初が金木犀なのさ、お前が言うまで俺も綺麗に忘れていたが。
「…どういう意味?」
「前のお前の女神だ、フィシスだ」
「…フィシス?」
 ますますもって分からない、と首を傾げた小さなブルーに、ハーレイは「覚えていないか?」と金木犀の枝を指差した。
「花じゃないんだ、香りの方だな。要するに花の香りってヤツだ」
 お前、フィシスは特別だからと…。こう言っても思い出さないか?
「ああ…!」
 そうだった、とブルーの脳裏に蘇る記憶。遠く遥かな時の彼方のシャングリラ。
 其処に確かに花の香りが、金木犀の香があったのだった…。



 ソルジャー・ブルーだった頃のブルーが攫って、ミュウの女神に仕立てたフィシス。
 無から生み出され、人類とすら言えなかった少女が欲しくてサイオンを与え、手に入れた。
 彼女はその身に地球を抱くと、未来を読むとシャングリラに暮らす仲間を騙して。
 フィシスは特別だったから。
 彼女の正体が何であろうと、ブルーにとっては大切な女神だったから。
 幼い頃から皆の制服とは違う服を纏わせ、天体の間の奥に個室を持たせた。
 竪琴が得意なアルフレートを世話係に付けて、フィシスはさながらミュウの姫君。
 それでも足りなくて、もっと何か…、と思っていた頃。
 フィシスと皆との違いを引き立たせるものが欲しいと思っていた頃。



「香水がいいんじゃないのかい?」
 長老たちが集まる会議が終わった後の寛ぎのひと時、ブラウが投げ掛けて来た言葉。
「…香水?」
 何のことだか咄嗟に分からず、オウム返しに問い返したら。
「昔はあったよ、この船にもね。あんたが色々と人類の船から奪っていた頃」
「アレじゃ、女性の好きな香りじゃ。たまに物資に混ざっておったじゃろうが」
 好きなヤツらはつけておったぞ、とゼルが続きを引き継いだ。
 すれ違うとほのかに香ったものだと、ふと振り返ったりもしたものだと。
「そういえば…。あったね、確かにそういったものが」
 でも…。香水なんかを作れるのかい?
 データベースに作り方とかは入っているんだろうけど…。
「花さえあれば出来るじゃろうて。合成よりも本物が良かろう、可愛い女神のためじゃからな」
 ヒルマン、その辺はどうなんじゃ?
「作れるだろうね、本物の花で。今の季節だと…」
「金木犀じゃないかしら?」
 居住区の公園で花盛りよ、とエラが応じて、ゼルが頷く。
「うむ、咲いておるな」
 あれはいい香りじゃ、わしも好きじゃぞ。あの香りがする女神ともなれば素敵じゃろうなあ…。



 金木犀だ、と意見の一致を見たのだけれども、遠い記憶になった香水。
 今のシャングリラには存在しない香水。
 子供にはちょっと強すぎないか、とエラが慎重な意見を出した。かつて香水が流行っていた頃、傍迷惑なほどに強い香りのものもあったと。
 香りの強い金木犀はその二の舞になりはしないか、と。
「心配要らないんじゃないのかい?」
 程度ものだよ、とブラウがウインクしてみせた。
「みんながつけてるってわけじゃないんだ、ほんのちょっぴりでも効果のほどは充分さ」
 少しだけ使えば強すぎたりはしない筈だよ、子供らしくほんの一滴、二滴で足りるだろ?
 ふわっと香ればそれでいいのさ、フィシスの身体からは花の香りがするってね。



 花の香りを纏った女神。
 それは如何にも特別そうで、神秘的とも思えたから。
 何よりフィシスの身体から香しい香りがするというのが素晴らしかったから、花の香りの香水を開発させようと決めた。まずは今が盛りの金木犀で。
 ヒルマンがデータベースを調べて、見付け出して来た自然素材の本物の香水の作り方。
 遠い昔には本物の花だけで香水を作るには大量の花が必要だったらしいけれども。
 その時代よりも技術は遥かに進歩していた。僅かな花からでも香り高い香水が作り出せた。
 居住区の公園に咲いた金木犀の花から生まれた香水。
 フィシスのためにだけ、生まれた香水。
 それを一滴、その身に纏ってフィシスは一層、特別になった。
 フィシスが歩けば金木犀の花の香りが漂うと、地球を抱く女神は甘く香しい香りがすると。



「…そっか、最初は金木犀の香りだったんだ…」
 忘れちゃってた、と勉強机の上の金木犀を見遣るブルーに、ハーレイが「お前なあ…」と呆れたような顔で頭を振った。
「綺麗サッパリ忘れちまうとは、見事なもんだな。金木犀の香り以外は忘れました、ってか」
 お前、物凄く喜んでいたじゃないか。ミュウの女神で花の女神だ、って。
 それにフィシスも花の匂いがする水を貰った、って大喜びで…。
 シャングリラの中でもフィシスの人気が更に高まったぞ、ついでに金木犀の方もな。
「そうだったっけ?」
「金木犀の後も色々な花の香りを作り出していたが、金木犀の香りが一番強かったからな。香水にしなくても花を取ってくるだけで香りがするから、人気だったぞ」
 次の年から金木犀の花をこっそり、制服の下に忍ばせる女性がいた筈だが…。
 手袋の中とか、襟元とかにな。
「言われてみれば…。いたね、そういうことをしてた人たち」
 ほんのちょっぴり入れておくだけで、ふんわり香りがするんだものね。
 恋人がいる女性だったら真似たくなるよね、そういったお洒落。



 ようやっと思い出してくれたか、とハーレイの手がブルーの頭をクシャリと撫でた。
「金木犀の香りはフィシスだったんだ。フィシスの最初の香りなんだ」
 でもって、今なら。
 金木犀の花があったら、香水どころか酒だの茶だのを作り始めるんだな、ゼルたちがな。
「なに、それ?」
「男でも楽しめる金木犀さ。金木犀の香りの酒や茶があるんだ」
 茶だと、茶の葉に金木犀の花を混ぜ込んで香りを移して。そいつで普通にお茶を淹れたら、花の香りの茶になるんだな。
 酒の方だと金木犀の花を酒に漬け込むわけだが、出来上がるまでに三年かかる。白ワインに花を浸けてあってな、香りも強いが甘みも強い酒なんだ。
「ふうん…」
 金木犀のお酒、甘いんだ…。
「お前の場合は茶しか無理だな、酔っ払うからな」
「…金木犀の香りがするお酒だったら、欲しい気もするけど…」
「花の香りを年中楽しめる酒だからなあ、金木犀の香水と同じだな。おまけに甘くてお前みたいなヤツでも飲めるタイプだ、あの酒は」
 酒だと言わなきゃ、お前、知らずに飲むかもな?
 ソーダとかで割って出される場合も多いと聞くから、「金木犀の匂いだ」って嬉しそうにな。
「そうかも…」
 飲んじゃって酔っ払ってしまうかも、とブルーは素直に頷いた。
 金木犀の香りはとても好きだから、そんな匂いの飲み物があれば喜んで飲んでしまうだろうと。



 その香りがするというだけのことで、酒すらも飲んでしまいかねない金木犀。
 幼い頃から生垣にへばりついて動かなかったほど、大好きな香りの金木犀の花。
 まさか前世の自分が好んだ香りだったとは…、とブルーは部屋に漂う金木犀の香りを追った。
 勉強机の上に置かれた一輪挿し。久しぶりに、と手折って来た枝。
「金木犀の香り、好きだったけど…。まさかフィシスの香りだったなんて思わなかったよ」
 前のぼくが好きだった花かと思ってたんだよ、でなきゃあの公園が好きだったとか。
 意外過ぎてちょっとビックリしちゃった。
「俺もお前が忘れていたことに驚きだ」
 前のお前の記憶かもしれない、ってトコまでは行っていたくせに、何故、出ないんだ。
 フィシスなんだぞ、前のお前が欲しがって攫って来たんだろうが。
 たかが香水の話ではあるが、漠然と「好き」だけで済ませるとはなあ…。
「これがハーレイだったら忘れたりはしないよ、思い出せるよ」
 忘れていたって、ちゃんと思い出すよ。切っ掛けがあれば。
「そうなのか?」
「ぼくの一番はハーレイだしね。フィシスも欲しかったけれど、断然、ハーレイ」
 だからハーレイのことなら忘れないんだよ、金木犀の思い出がハーレイだったら思い出したよ。
「そいつは非常に有難いんだが…」
 光栄でもあるが、とハーレイは金木犀の枝をチラリと眺めた。
 独特の甘い香りを振り撒く、小さいながらも香り高い枝を。



「俺のことなら覚えている、と言われてもだ。金木犀の香りは要らんぞ、俺は」
 あんな香りを俺がさせていたら、笑いもの以外の何物でもない。
 もしもシャングリラでフィシスの香りが移っていたら、だ。ブリッジに立つ俺から金木犀の花の香りがしてたら、似合わないこと夥しいぞ。
 絶対、皆が肘でつつき合いとか、サイオンでヒソヒソ話とか。ネタになるんだ、格好のな。
「…金木犀の香りのお酒だったら?」
「そっちだったら頂いておこう、酒には罪は無いからな」
 ただし、そいつは前の俺たちの時代には無かったぞ?
 さっきも言ったが、金木犀の茶も、金木犀の酒も今だから飲めるものなんだ。
 SD体制の時代には消されちまってた文化の一つだ、誰も作りやしなかった。青い地球と一緒に復活して来た文化さ、ゼルたちは作ろうとも思っていなかった、ってな。



 今の時代だから金木犀の香りの酒もあるのさ、とハーレイが片目を瞑ってみせるから。
 青い地球で咲いた金木犀の花を白ワインに閉じ込め、香りを移した今の時代の酒だと言うから。
「それじゃ、そのお酒、結婚したら買ってみたいな」
 金木犀の香りなんでしょ、一年中。飲めなくてもいいから、香りが欲しいよ。
「そうだな、買って来て俺が飲むとするか。お前は舐めるか、見てるだけでな」
 他の地域の酒を沢山扱う、でかい店なら置いているからな。
「なんて名前のお酒なの?」
「桂花陳酒さ」
「いつか買おうね、その桂花陳酒」
 金木犀の花の時期でもいいけど、違う季節にも。あの香り、ホントに大好きなんだよ。
「…酒はかまわんが、フィシスはいいのか、フィシスの香りの香水の方は?」
 俺は香水のことはサッパリ知らんが、売ってるんじゃないのか、金木犀の香りの香水。
「ぼくは男だから、そんな香水、要らないよ。それに…」
 金木犀の香りが何だったのかを思い出してくれた、ハーレイの方がずっと大切。
 だから金木犀、来年からはハーレイのために桂花陳酒だ、って思うことにするよ。
 それを買わなきゃ、って、いつかハーレイと結婚した時には買うんだ、って。
 金木犀の花が咲く季節になったら思い出すよ、とブルーは幸せそうな笑みを浮かべた。
 幼い頃から惹かれ続けた金木犀の香り。
 フィシスの香りも大切だけれど、それよりもずっと君が大切…、と。




        金木犀の香り・了

※今のブルーが好きな金木犀の香り。小さかった頃から好きな香りだったのですけれど…。
 元々は前のブルーの記憶。フィシスが一番最初につけた香水、それが金木犀なのです。
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