シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
学校から帰って、着替えておやつ。ママが焼いておいてくれたパウンドケーキ。
ハーレイの大好物だから、もしも今日、ハーレイが寄ってくれたら喜ぶ顔が見られるだろう。
(来てくれるといいな…)
ぼくのママが焼くパウンドケーキは、ハーレイのお母さんのと同じ味がするって聞いてるから。ハーレイが自分で焼いても同じ味にはならないのに。
「おふくろがコッソリ持って来たのかと思ったぞ」なんて言ったくらいだし、ホントのホントにそっくり同じに違いないんだ。このパウンドケーキが、ぼくの目標。
(いつかはママに習わなくっちゃね)
どうやって焼くのか、コツは何なのか。
ハーレイの話ではパウンドケーキは材料も作り方も簡単なもので、ケーキ作りの初心者にだって失敗しないで作れるケーキ。
それなのに何故か、違ってくる味。ぼくのママとハーレイのお母さんが焼いたパウンドケーキは同じ味なのに、ハーレイが焼くとそうはいかない。
きっと何処かに秘密がある。ほんのちょっとしたコツか、でなければ癖。
材料を合わせる時のタイミングだとか、その後の混ぜ加減だとか。
(ママに教わったら、きっと同じになるよ)
直接習って、ママがするとおりに焼いたなら。材料を合わせて、混ぜてみたなら。
(ママのと同じ味のを焼くんだ、絶対!)
ハーレイに喜んで貰いたいから。
同じ味のが焼けなくっても、ハーレイは「美味いぞ」って言ってくれそうだけれど、どうせなら同じ味のを焼きたい。「おふくろが焼くのとそっくりだな」って言って貰いたい。
だって、最高の褒め言葉だもの。
あちこちで聞いたり、目にしたりする「おふくろの味」っていう言葉。
たとえパウンドケーキだけでも、ハーレイのお母さんのと同じ味にしたい。「おふくろの味」は誰もが喜ぶ、懐かしくて嬉しい味だと言うから。
そういったことを考えながら、食べ終わったパウンドケーキのお皿。空になった紅茶のカップと一緒にキッチンに居るママに返しに行った。「御馳走様」って。
ママは、お皿とかを受け取りながら「ハーレイ先生、来て下さるといいのにね」と優しい笑顔。パウンドケーキがハーレイの大好物だってこと、ママだってちゃんと知っているから。
「うん。来てくれるといいんだけどな、ハーレイ…」
「ブルーはホントにハーレイ先生が大好きだものね」
今日もチャイムが鳴るといいわね、ってママが玄関の方へ目を遣る。キッチンからでは見えないけれども、ハーレイが来た時は入る玄関。それに通って来る庭と、くぐる門扉と。
(チャイム、鳴らしてくれるといいな…)
今日はパウンドケーキなんだもの、とキッチンの中をぐるりと見回してみたら、目に入った棚にノートが何冊も。ママの自慢のレシピ帳。お料理の本と並んで、ノート。
ママはお料理もお菓子作りも大好きだから、うんと沢山レシピを持ってる。
新聞や雑誌から書き抜いたものや、お祖母ちゃんから習ったもの。曾祖母ちゃんのレシピだってある。パパの方のお祖母ちゃんのレシピも。
(伯母さんたちのもあるんだっけ…)
美味しい料理やお菓子を御馳走になったら、作り方を知りたくなっちゃうママ。御馳走した人も褒められて悪い気なんかしないし、レシピを教えて貰えるみたいで。
(それを整理してあるんだよね、あれ)
貰ったメモが貼ってあったり、ママの字で綺麗に書き込んであったり。
友達に習ったっていうものもあるし、旅行先で食べて気に入ったものを再現したりと、レシピは一杯、どれだってママの得意な料理。
(あの中にきっと、パウンドケーキも…)
ぼくのお目当てのレシピだって、きっとあるんだろう。もしかしたら、コツも書き添えて。
(見たいんだけどな…)
ちょっぴり中を覗けたならば。そうしてコツが書いてあったら。
(ハーレイに「秘密、これだよ!」って言えるのに…)
謎が解けたと、ハーレイの好きなパウンドケーキはこうすれば焼ける、と言えるのに…。
だけど見られない、レシピ帳。
ママがキッチンに立っている時に開いていたなら「調理実習でもあるの?」って尋ねられるか、「何が食べたいの?」って訊かれるか。
それじゃ肝心のパウンドケーキのレシピが何処にあるかは分からない。
うっかりパウンドケーキって言おうものなら、どうしてそれを知りたいのかと探られちゃうし、ハーレイのために探してることも、作りたいことも下手をすればバレる。
それがバレたら、ぼくの夢もバレる。
いつかはハーレイのお嫁さんになって、「おふくろの味」のパウンドケーキを焼くという夢。
それはマズイし、レシピ帳には手を出せない。
ママが留守の間にコッソリ覗くってことも考えたけれど、きっとそういう時に限って予定よりも早くママが帰ってくるんだ。
レシピの発掘作業に夢中のぼくは気が付かなくって、結果はやっぱり大惨事。
ハーレイのためにパウンドケーキ、って夢がバレちゃって、お嫁さんになるという夢だって…。
(…見たいんだけどな、レシピ帳…)
すぐそこに魔法の種があるのに、種明かしが転がっているというのに、手も足も出ない。
小さなぼくが結婚出来る年になるまで、ハーレイのお嫁さんになれる時まで、お預けの魔法。
ハーレイが大好きな「おふくろの味」を再現するための魔法の種…。
暫くキッチンに立っていたけど、レシピ帳が降ってくる筈もなくて。
ママが「見てみる?」と渡してくれる筈もなくって、夕食用のシチューの味見だけ。お昼過ぎにママが仕込んで、味に深みを出すためにトロトロと煮込んでいるシチュー。
「どう、美味しい?」
まだまだ煮込むから美味しくなるわよ、とスプーンで掬って貰ったシチューは充分美味しくて、今でも食べられそうなのに。「まだ足りないわ」って笑ったママ。もっと美味しく、って。
(うーん…)
部屋に戻って、考え込んでしまった、ぼく。
勉強机の前に座って、さっきのシチューやパウンドケーキのことなんかを。
(ぼく、ママのお料理、ちゃんと味だけで分かるのかな…?)
ハーレイがいつも言ってるみたいに。
ぼくのママのパウンドケーキを口にする度に「おふくろの味と同じだな」って言うみたいに。
(…ママのパウンドケーキ…)
たまにママが買う、お店のケーキと味が違うのは分かってる。お店のケーキは、なんて言ったらいいんだろう…。ちょっと澄ました、よそ行きの味?
素朴な味が売りのお店だったら別だけれども、大抵のお店のケーキは気取った味がする。ケーキだけじゃなくて、他のお菓子だって。
だからママのとは味が違うし、それはぼくにも区別が出来る。
でも…。
(友達の家とかで御馳走になって、ママの味とおんなじだなんて気付くかな?)
しかも凝ってるケーキと違ってパウンドケーキ。それで分かるか、と訊かれたら…。
(…分かんないかも…)
ママのとそっくりだったとしても。
まるで同じ味のが出て来たとしても、気付かないままで食べそうな、ぼく。
(……シチューだったら…?)
さっき味見をしてきたシチュー。うんと美味しいのに、ママが「まだよ」と言った味。
(…ますます区別が付かないかも…)
ママの納得の味になってないのに、美味しいと思っているんだから。
完成品のシチューはこれだと、これがママの自慢のシチューなんだとは分かりっこない。何処で出されてもシチューはシチューで、美味しかったら喜んでいそう。
(…ぼくって、駄目かも…)
ママの味すら分からないんじゃ、ハーレイのために「おふくろの味」は無理かもしれない。
レシピ帳にあるだろうパウンドケーキは何とかなっても、たったそれだけ。
「これは美味いな」と褒めて貰える、ハーレイが馴染んだ「おふくろの味」。
ハーレイのお母さんが作るだろう味は、パウンドケーキの他にはただの一つも出せないとか…。
(…どうしよう…)
パウンドケーキだけしか自慢出来ないお嫁さん。
好きでたまらないハーレイのために、「おふくろの味」の料理を幾つも作ってあげたくっても、その才能の欠片すら無い、お嫁さん。
ハーレイは自分で料理をするから、料理上手だから、かまわないのかもしれないけれど。
「お前は俺が作る料理を食ってくれればそれでいいのさ」って、何度も言ってくれるけど。
でも、お嫁さんは普通、作る方だと思うんだ。
あれこれ作って、帰りを待って。
「お帰りなさい」って、出来立てのお料理を出すとか、そういうの。
パウンドケーキじゃ、ただのデザート。「お帰りなさい」って出すものじゃない。
それこそシチューとか、煮物だとか。
旬の野菜や魚や、お肉。そういったものを使ったお料理、そしてハーレイお気に入りの味。
ハーレイが子供の頃から馴染んだお母さんの味で、おふくろの味。
そこまで分かっているというのに、このぼくと来たら。
(…ママの味だって区別が付かないんだけど…!)
ぼくを育ててくれたママの味すら、全く見分けが付かないぼく。
見分けと言ったら変かもだけれど、「これがママのだ」と言えない、ぼく。
こんな調子じゃ、ハーレイのお母さんの味なんて分かるわけがない。
隣町にあるハーレイのお父さんたちが住んでいる家で、何度御馳走になったとしたって、ぼくは何一つ覚えられなくて、再現だって出来やしないんだ。
ハーレイのお母さんの味。
釣って来た魚を自分で料理するのが大好きな、ハーレイのお父さんの味だって…。
おふくろの味が出せない、ぼく。
そもそも最初から分かってないから、その味を作り出せない、ぼく。
ママみたいにレシピ帳を作っていったら、いつか出来るかもしれないけれど。
庭に夏ミカンの大きな木がある、隣町のハーレイのお父さんとお母さんとが暮らす家。その家に行く度、其処で御飯を御馳走になる度、レシピを教えて貰ったならば。
ぼくのママがレシピ帳を作ったみたいに、「美味しいから作ってみたいんです」ってお願いしてレシピを教わったならば、少しはハーレイのお母さんの味に近付く。
材料と味付けは、そのものズバリのレシピってヤツが手に入る。
(…だけど…)
ハーレイが焼いても、お母さんの味にはならないと聞いたパウンドケーキ。
つまりは材料と味付けじゃ駄目で、コツというのが何処かにあって。
そのコツとやらを掴むためには、料理の手順をしっかり見ていて「これだ」って所を見抜くしかない。でなければ自分で懸命に工夫。舌だけを頼りに、ああだこうだと。
(…でも、その舌に自信が無いんだけど…!)
ハーレイのお母さんの料理を御馳走になって、「こんな味なんだ」と思えるかどうか。
ママの料理とは此処が違うと、ちょっと違うと気付けるかどうか。
(……全然、駄目そう……)
さっきキッチンで味見した、シチュー。
それが完成品の味かどうかも、ぼくには分からなかったんだから。
(……おふくろの味……)
ハーレイの口から聞きたい褒め言葉だけど、その前に世間では定番の言葉。
懐かしい味、自分の舌に刻み込まれた子供時代からの記憶の味。
おふくろの味が嫌いだなんていう人はいなくて、今のぼくみたいな子供はともかく、大人ならば確実に誰もが惹かれる味。ハーレイがパウンドケーキを大好きなのも、そのせいだから。
(…ぼくが子供だから分からないの?)
大きくなったら分かるのかな、と思ったけれども、それと舌とは別だった。
おふくろの味だと思う料理の有無はともかく、十四歳にもなれば味覚の鋭い子だって居る。料理上手で休日は家族のために食事を作る、って子だって珍しくはない。
(ぼくって舌が鈍いとか…?)
好き嫌いが無いくらいだから、と自分に言い訳しようとしたけど、ハーレイも同じ条件だった。ぼくと同じで好き嫌い無しで、それでも「おふくろの味」を見分けるハーレイ。
ぼくのママが焼くパウンドケーキは特別なのだと、自分のお母さんのと同じ味だと。
(…ぼくって、とことん駄目なのかも…)
不器用なのはサイオンだけだと思っていたのに、実は舌まで不器用だった。
ママの料理が分からないほどに、ママが作っているシチューの味とか、パウンドケーキの風味が全く分からないほどに、鈍くて不器用だったんだ…。
(もう駄目かも…)
おふくろの味はパウンドケーキしか作れないという、酷いお嫁さん。
それも本当に作れるかは謎で、ママのレシピ帳と特訓があっても焼けないのかもしれなくて。
(…パウンドケーキが目標なのに…)
舌までとことん不器用となったら、パウンドケーキだって無事に焼けるか怪しい。ママに習って「この味なんだ」と覚えられなければそれでおしまい、何処かでズレが出来てくる。
(習って直ぐなら上手に出来ても、二回、三回って作ってる内に…)
自分では同じ味のつもりが、香ばしさが少し足りないだとか。口どけが違うとか、そんなズレ。最初の間はご愛嬌でも、ズレていく間にすっかり別物、おふくろの味の欠片も無くなる。
(…でも、ハーレイは「美味いな」って食べてくれるんだろうし…)
どんなに違うものが出来ても、ハーレイならばきっと笑顔で「美味い」と言ってくれるだろう。「おふくろの味がするパウンドケーキだ」と、「これはお前にしか作れないな」と。
(ハーレイ、そう言うに決まってるんだよ…)
そんな優しいハーレイだからこそ、優しすぎるほどに優しいハーレイだからこそ、本当に本物の「おふくろの味」のパウンドケーキを焼き上げて食べて貰いたいのに。
普段の料理も、おふくろの味で揃えたいのに。
ハーレイが心の底から「美味い」と喜んでくれそうな味を、料理を揃えたいのに…。
絶望的かもしれない味覚。
役に立たないサイオンよろしく、とことん不器用らしい舌。
これじゃ駄目だと、いいお嫁さんにはなれやしない、と落ち込んでいたら、チャイムの音。誰か来たのだと、お客さんだと、ぼくに知らせるチャイムの音。
(…まさか…)
窓の所に行って、庭の向こうの門扉を見たら。
其処で大きく手を振る人影、間違えようもない、ぼくの恋人。
(……パウンドケーキはあるんだけど……!)
来てくれたらいいなと思っていたけど、それとこれとは別問題。
ハーレイの大好物のパウンドケーキは、もうすぐママがお皿に乗っけて、紅茶と一緒に部屋まで運んでくれるだろうけど。
嬉しそうに食べるハーレイの顔が見られるけれども、パウンドケーキは「おふくろの味」。
いつか焼こうと、結婚したらハーレイのために焼いてあげるんだと勇んでいたぼくは、ドン底な気分になっていて。
それをハーレイに言うべきか否か、頭の中がぐるぐるしてる。
ハーレイはぼくの料理の腕には期待してないって言っていたけど、どうなんだか…。
だって、お嫁さんを貰うんだもの。
一つくらいは得意料理があるといいなと、ぼくのママと同じ味のパウンドケーキが焼けるのならいいなと思っていない…?
(…思うよね、普通…)
いくら優しいハーレイでも。
ぼくが「おふくろの味」とは似ても似つかないパウンドケーキを焼いたとしたって、「今日のも美味いぞ」と褒めてくれそうなハーレイでも、きっと。
少しくらい期待するだろう。お嫁さんになったぼくの、料理の腕に。
そうしてハーレイが部屋にやって来て、テーブルを挟んで、ぼくと向かい合わせ。
テーブルの上に紅茶とポットと、それからパウンドケーキのお皿。ハーレイは「今日の俺は運がいいな」と笑顔で、ママにも御礼を言っていたから。
「これが最高に好きなんですよ」と言っていたから、ぼくはますます肩身が狭い。ママの特訓とレシピ帳があっても、ぼくには多分…。
(…きっと無理だよ、おふくろの味…)
この味が分からないんだもの、とパウンドケーキをフォークに刺して頬張った。ママが作ったと断言出来る自信が全く無いケーキ。何処かの家で同じ味が出ても、分からないケーキ…。
「おい、どうした?」
元気が無いぞ、ってハーレイの声。
「学校で何かあったのか? それとも腹でも痛くなったか?」
「ううん、そうじゃなくて…」
「じゃあ、何だ?」
悩み事なら相談に乗るぞ、って鳶色の瞳で穏やかに見詰められたから。
ぼくを心配してくれているのも伝わってくるから、ぼくは打ち明けることにした。ハーレイには申し訳ないけれども、これは本当のことだから。
「…ハーレイ、お願い。呆れないでよ?」
「何にだ?」
お前、失敗でもやらかしたのか?
帰る途中で派手に転んだとか、でなきゃおやつの皿を割ったか。
「…おやつのお皿は、ちょっと近いかも…」
パウンドケーキ、と呟いた、ぼく。
今日のおやつがパウンドケーキで、いつか焼こうと思ったのだ、と。
だけど舌まで不器用らしくて、頑張ったとしてもハーレイの好きな「おふくろの味」は無理かもしれないと。
「なんだ、そんなことか。別にいいだろ、お前はお前だ」
お前が焼いてくれると言うならそれだけで俺は嬉しいんだが、ってハーレイが笑う。
焦げていたって、不味くったって。
「でも…。ハーレイのお母さんの味…」
おふくろの味が最高なんでしょ、お菓子も、それにお料理も。
それをハーレイに作ってあげたいんだけれど、ぼくには無理かもしれないんだよ?
そんなお嫁さん、嫌じゃない?
おふくろの味の料理やお菓子が作れるお嫁さんの方が、絶対にいいと思うんだけど…。
「そりゃまあ、なあ…。世間一般ではそうではあるが、だ」
お前、何かを忘れちゃいないか?
俺たちの場合は例外なんだぞ、おふくろの味に関しては。
「えっ?」
どういう意味、って訊き返した、ぼく。例外だなんて、まるで分からない。
「忘れちまったか? 今の俺にはおふくろがいるし、おふくろの味も当然あるが…」
前の俺にはおふくろの味どころか、おふくろの記憶が無かったってな。
お前だってそうだろ、機械にすっかり消されちまっていただろうが。
そうでなくても、前の俺たちが生きていた時代。
おふくろの味なんて言葉自体が存在しないさ、成人検査で綺麗サッパリ消されちまってな。
「そういえば…。残しておいても無駄な記憶かな、おふくろの味」
「無駄で済めばいいが、場合によっては有害だろうが」
子供時代にこだわられては困る、というのがマザー・システムの時代の考え方だ。
そんな時代を生きた俺だし、おふくろの味があるというだけで幸せなのさ。
たとえそいつを食べられなくても、おふくろの味の記憶がある。それは最高だと思わないか?
「それはそうかもしれないけれど…。でも…」
「出会えればラッキー、出会えなくても舌は決して忘れないってな、おふくろの味」
その思い出ってヤツが幸せなんだ。
ついでに、思い出ってヤツは幾らでも増える。
お前が焼け焦げたパウンドケーキを作ってくれたら、そいつも俺には幸せの味でいい思い出だ。
今度はお前を嫁に貰えたと、お前が作ってくれたんだ、とな。
前のお前はパウンドケーキなんかは焼かなかったろうが、と片目をパチンと瞑ったハーレイ。
ソルジャー・ブルーはキャプテン・ハーレイに料理を作ってはくれなかった、と。
「ところが、今度は作ってくれると来たもんだ。これが嬉しくなければ何だ?」
焦げたケーキでも、お前が焼いてくれたんだ。俺のためにな。
おふくろの味なら言うことはないが、焦げていたって充分に美味い。
いいか、嫁さんが心をこめて作ってくれた料理をけなす男はいないんだぞ?
愛情ってヤツは最高の調味料なのさ。どんな料理でも美味くしちまう、魔法の味だな。
「…その魔法…。ママのパウンドケーキの秘密は何処かにあると思うんだけど…」
愛情なんかを使わなくっても、レシピ帳の中か、ちょっとしたコツか。
それが分かったら、って思うけれども、ぼくの舌も不器用みたいだから…。
ママに教えて貰って直ぐなら、ハーレイの好きな味になるかもしれないけれど。何回か作ってる間にズレていっちゃって、全然違うって味になりそう…。
「どうだかな? 案外、才能があるって可能性もゼロではないしな」
お前、まだまだチビだろうが。これから育つし、可能性は無限大ってことだ。
それにだ、お母さんに習った味からズレて別物になったとしても。その時は、それを自慢の味にしておけばいいのさ、お前の。
お前が作るパウンドケーキの味はこれだと、そういうものだと。
「でも、それって美味しいって言わないんじゃない?」
おふくろの味じゃなくなってるよ、って言ったんだけれど。ハーレイはぼくの頭をポンと叩いて微笑んだんだ。「それもおふくろの味って言うさ」と。
「…なんで?」
ズレちゃった味がおふくろの味って、どういうこと?
ハーレイのお母さんの味でもなければ、ぼくのママの味でもないんだよ?
「お前、俺の嫁さんになるんだろ?」
「そうだけど…」
「嫁さんってヤツは、普通は子供が付き物だってな。生憎とお前は産めないわけだが…」
もしも、お前が子供を産んで親になったら。
お前が作るパウンドケーキが、その子にとっては「おふくろの味」だ。違うか、ブルー?
「……そうなのかも……」
「そこは疑う余地も無いってな、子供さえいれば「おふくろの味」になるわけだ」
だからだ、ズレた味でも本物のおふくろの味になるのさ、その家の味っていうヤツに。
子供にとっての「おふくろの味」は、旦那にとっては家庭の味だ。
おふくろの味は卒業しろっていうことなんだな、家庭の味が出来る頃には。
たまには恋しくなったとしたって、家庭の味が一番なんだと思うようになるのが結婚なのさ。
「…ズレたパウンドケーキでもいいの?」
「もちろんだ。それが俺たちの家庭の味ってことなんだからな」
きっと美味いさ、お前がパウンドケーキを焼いてくれたら。
レシピ帳もコツも、こだわらなくっていいんだからな、って頭を撫でてくれたハーレイ。
ズレた味でも、家庭の味だからそれがいいんだ、って言ったハーレイ。
だけどやっぱり、そんな優しい言葉を掛けてくれるハーレイのために作ってあげたい。
おふくろの味の料理に、お菓子。
まずはパウンドケーキから。
結婚したなら、ママに教えて貰わなくっちゃ。
今はまだ覗けない、レシピ帳。
あれを開いて、ママと一緒に材料を計って、合わせていって。
ハーレイが大好きな味のケーキを、ハーレイのお母さんの味と同じケーキを作りたい。
ぼくの夢で目標のパウンドケーキ。
それくらいは頑張って、おふくろの味をハーレイのために…。
おふくろの味・了
※ハーレイが大好きな「おふくろの味」のパウンドケーキ。それを焼くのがブルーの目標。
上手く焼けなくても、ハーレイは気にしないようですけれど…。ブルーはきっと頑張ります。
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