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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

餌と豆スープ

(豆スープ…)
 美味しいんだけれど、とブルーは夕食のスープを口へと運ぶ。
 金曜日の夜、明日はハーレイが朝から訪ねて来てくれる筈の土曜日。
 母が作った白インゲン豆のスープはトマトベースの赤いスープで、タマネギにニンジン、それにセロリも入っていた。とろけるほどによく煮込まれた豆と野菜は味わい深くて、ハーレイが作ってくれる野菜スープとは違った風味。
 前の生からブルーが好んだ「野菜スープのシャングリラ風」。何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ素朴なスープ。
 それは母の豆スープとは比べようもなくて、豆も無ければトマトの赤さも味すらも無くて。
(でも…)
 何故だかハーレイを思い出す、今日の母のスープ。白インゲン豆がたっぷり入った豆スープ。
 ハーレイは豆のスープを作ったろうか?
 遠い昔に、共に暮らしたシャングリラで。名前だけの楽園に過ぎなかった頃のシャングリラで。
 キャプテンになる前は、厨房で料理をしていたハーレイ。
 そのハーレイは豆のスープを、こういう味の豆のスープを作っただろうか?



(…豆のスープも、作ってない筈は無いんだけどね?)
 前の自分は豆も奪って来ていたから。
 人類の船から奪った物資や食料の中に豆があることは、特に珍しくも無かったから。
(だけど、どうしてハーレイを思い出すんだろう?)
 トマトベースの、白インゲン豆と野菜のスープ。タマネギにニンジン、それからセロリ。
 ハーレイの得意な料理だったか、前の自分の好物だったか。
(…野菜スープのシャングリラ風じゃなくて…?)
 あれはキャプテンになった後にハーレイが作った料理。物資不足だった頃のシャングリラで。
 豆のスープはそれよりも前に、奪った食料で豊かに暮らしていた頃、ハーレイが作ったスープの一つだったのだろうか?
 気に入っていた料理の一つだろうか、と気になって仕方ないのだけれど。
 食べている間には思い出すことが出来なかった。柔らかな豆と野菜とをゆっくりゆっくり、舌の上に乗せては喉へと送り込んでも。



(豆のスープ…)
 何だったろう、と引っ掛かる味。
 前の生での懐かしい記憶なら思い出したい。
 ハーレイと過ごした優しい時間の記憶だったら、なおのこと。
 けれど、どうしても遡ることが出来ない遠すぎる記憶。流れ去ってしまった遥かな時の彼方。
 記憶の糸を手繰って手繰って、それでも引き寄せられない記憶。
 お風呂に入って、ベッドに入る時間になっても思い出すことが出来なくて。



(豆スープ…)
 きっと忘れてしまったのだ、とベッドにもぐって身体を丸めた途端に蘇った記憶。縮めた手足が遠い記憶を呼び寄せた。
 そうだ、こうしていたら出て来た。豆のスープが。
 出て来たと言うより、乱暴に置かれた。
(アルタミラ…!)
 狭い檻の中、係の男が突っ込んでいった豆スープの皿。食事を差し入れるという形でさえ無く、動物に餌を与えるように。ミュウはペットにも劣る存在、実験動物に過ぎなかったから。
(…あのスープだ…)
 たった一人きり、独りぼっちの狭い檻。
 時間を潰せるものなどは無くて、いつだって蹲っていた。でなければ手足を縮めて丸まり、何も考えてはいなかった。
 考えても何も起こりはしないし、ただ辛くなるだけだから。果ての見えない、終わりなど来ない地獄のことなど忘れていたくて、心は殆ど空っぽのままで。
 そんな日々の中、檻に入れられた豆スープ。
 母の味とは似ても似つかぬ、火を通したというだけの豆スープ。
 トマトの赤い色などは無くて茹で汁そのまま、豆だけが入っていたスープ。
 けれど…。



(それでハーレイだったんだ…)
 ハーレイと出会ったアルタミラ。忘れようもない、メギドに砕かれてしまった星。
 其処で食べた、と引っ掛かって来たスープの記憶。豆だけのスープ。
 けれども、豆のスープを啜っていた時。突っ込まれたスープを食べていた時。
 ハーレイの姿は何処にも無かった。檻の中には自分しかおらず、いつだって独りきりだった。
 上や下や、左右の独房。檻という名の狭い独房。
 それらに仲間が押し込められていることは知っていたけれど、顔を合わせる機会などは無くて。言葉も交わすことさえ出来ない、絶対の孤独。
 実験が無い時は、檻に居る時は、蹲るか、丸くなるか、餌を食べていたか。
 でなければ、眠り。幸せな夢さえ見られないまま、眠っていただけ。



(アルタミラの餌…)
 餌と水しか与えられなかった、ペットにも劣る実験動物。
 来る日も来る日もオーツ麦をベースにしたシリアルと、必要な栄養分などが添加された飲み水、それしか無かった。もちろん火などは通っていなくて、室温だった餌。
 ボソボソとして口に貼り付く不味いシリアル、飲み水で胃へと流し込むしかなかったシリアル。ミュウのための餌はそれで充分、栄養失調で死にもしなければ痩せ衰えもしない優れもの。
(…だけど…)
 思い出した、例の豆スープ。豆を茹でた汁を豆ごと出して来たようなスープ。
 そんな風に時折、パンやスープが餌の代わりに出る日があった。
 豆のスープに硬いパン。ジャムもバターも添えられていない、硬くて冷たいパンの塊。
 それに茹でられた卵が一個。
 茹でただけの卵がゴロンとついた。殻に塩を少し纏った卵が突っ込まれた。
 何も考えずに食べていたけれど、今だったならば。
 周りを見回すだけの余裕がたっぷりとあって、幸せな毎日を送る自分があれを見たなら…。



(明日は死んじゃうのかと思うよね?)
 殺される前の、せめてもの慈悲。
 実験動物のミュウに情けをかけてくれるかどうかはともかく、普段と違う食事は怪しい。これが最後だから味わって食えと言わんばかりのスープや卵。
(前のぼく、それに気付いてたらパニックかも…)
 明日は死ぬのだと、これで終わりだと泣きながら食べていたかもしれない。
 幸か不幸か、そういうことすら考える余裕は無かったのだけれど。
(でなきゃ、体力つけておけ、っていう食事だとか…)
 過酷な実験を実施する前の準備段階。
 餌と水では足りないだろうと、もっと体力を蓄えておけと、スープに卵に硬いパン。
 それとも、あれも実験だったのだろうか?
(普段と違う食事をさせたら、何かが変わると思っていたとか…?)
 ミュウは精神の生き物だから。
 精神状態がサイオンに反映されることもあるから、餌の内容を特別なものに変えてみてデータを取るとか。
 御馳走とは呼べない代物であっても、スープにパンに茹で卵。
 シリアルと水だけの餌とは違うし、研究者から見れば実験する価値があったかも…。



(どういう時に出て来たっけ…?)
 豆のスープや、硬すぎるパン。殻に少しだけの塩を纏った茹で卵。
 生憎と全く記憶に無かった。
 茹で汁にゴロゴロと入っていた豆がまるで柔らかくはなかったことも、パンの歯ごたえも覚えているのに。茹で卵を剥いて、殻にくっついていた僅かな塩で頬張ったことも覚えているのに。
 記憶からすっかり消えてしまった、それらを食べた時の条件。
 実験の後の労いだったか、はたまた実験を行う前の栄養補給のためだったのか。
(ハーレイに訊けば分かるかな?)
 二人分の記憶を突き合わせれば…、と考えたけれど。
 明日、ハーレイは来てくれるけれど、それまで覚えていそうもないから。
(メモ…)
 こういう時には覚え書きだ、とベッドから起き出し、メモに「アルタミラ」と書いた。その下に「特別な食事が出て来た時」と。



 翌朝目覚めて、メモに気付いて。今の幸せにホッと息をついた。
 狭い檻の中に居るのではなくて、両親と共に暮らす家。自分のためのベッドに机に、ハーレイと二人で向かい合うためのテーブルに…。
(うん、今のぼくには部屋があるんだよ)
 アルタミラに居た頃と同じ姿でも、全く違う。のびのびと自由に過ごせる部屋。
 顔を洗って着替えが済んだら、両親も一緒の朝食の席で。
 餌でも硬いパンでもなくって、焼き立ての匂いが漂うトースト。狐色のそれにハーレイの母から貰ったマーマレードの金色を塗れば、もうそれだけで顔が綻ぶ。
 アルタミラには無かったものだ、と嬉しくなる。焼き立てのトーストも、ハーレイの母が作った夏ミカンの金色のマーマレードも、母が注いでくれたミルクも。
 一日も早く背が伸びるように、前の自分と同じ背丈に育つようにと飲んでいるミルク。
 祈りをこめて飲んでいるミルクも、アルタミラでは見もしなかった。今では毎日、新鮮なそれが瓶に入って出て来るのに。幸せの四つ葉のクローバーのマークが描かれた、大きな瓶で。



 幸せ一杯の朝食を食べて、部屋を掃除して。
 ハーレイを迎えて、紅茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせで座った後。
 勉強机の方へ視線を向けたブルーは直ぐに思い出した。昨夜のメモが其処に置いてあったから。
 忘れてしまう前に訊かなければ、と目の前の恋人に「あのね…」と切り出す。
「ハーレイ、アルタミラの餌は覚えている?」
「餌と水の日々か?」
 あれは酷かったな、ペットフードの方がまだマシだ。犬や猫の餌でもバラエティー豊かに色々と揃っているからな。味付けも硬さもお好み次第で、おやつだって選べると来たもんだ。
「そっちじゃなくって、特別食だよ」
「特別食?」
「うん。シリアルと水じゃなかった時」
 パンとか、豆のスープとか。茹で卵とかを、たまに食べてた筈だよ。
「ああ、あったなあ…。茹でただけじゃないか、って豆のスープに硬いパンだな」
 ついでに塩は殻にだけっていう茹で卵。まあ、餌よりかはマシだったが…。
「あれって何かの実験だった?」
「実験?」
「食べた食事がサイオンにどういう風に影響するか、っていう実験」
 そういうものかとも思ったんだけど、実験の後の体力の回復用だった?
 それとも、実験前に栄養をつけておくためだった?
「なるほど、そういう質問か…」
「そう」
 気になったのだ、とブルーは答えた。
 どういう時に出て来た食事か、覚えていないから訊いてみたのだと。



「ぼくはホントに、全然覚えてないんだよ。食べたってことは覚えているのに…」
 ハーレイはどう?
 どんな時にあれを食べていたのか、覚えてる?
「俺も同じだな、まるで記憶に無い。…俺たちの檻にカレンダーなんぞは無かったからな」
「カレンダー…?」
 なんなの、それ。カレンダーって、なに?
「カレンダーさ。ほら、お前の部屋にもあるだろう。あれだ、ああいうカレンダーだ」
 それが鍵だ、とハーレイに言われて、ブルーの瞳が丸くなった。部屋の壁にある、カレンダー。自分には馴染みのものだけれども、それがどうして出て来るのだろう?
 確かに檻には無かったけれど。カレンダーなどは何処にも置かれていなかったけれど…。
「カレンダーがあったら、何か分かるの?」
 実験がある日は何曜日だとか、そういったことが決まっていたの?
「そうじゃない。あの餌は実験とはまるで関係ないんだ」
「えっ…?」
「俺も何とも思わずに食った。あの頃には、ただ機械的にな」
 食わなけりゃ死ぬし、「今日はいつもと違うんだな」と思った程度で食っていただけだ。そしてそのまま忘れたかもしれん。
 だがな…。
「何かあったの?」
 あれは違う、って分かる何かが。
 実験とは何の関係も無い、って言い切れるだけの証拠が何処かに。



 ブルーの問いに、ハーレイは「そうだ」と頷いた。
 自分はそれを目にしたのだと、前の自分が見ていたのだと。
「アルテメシアだ、テラズ・ナンバー・ファイブが持ってたデータだ」
「前のぼくたちの…?」
「ああ。ジョミーがあれを破壊した時、前のお前や俺の養父母のデータなんかも出て来たが…」
 他にも膨大な記録があったさ、アルタミラでやってた実験とかのな。
 だが、誰も見たがりはしなかった。惨い記録だと分かっているんだ、それが自然な反応だ。
 俺も見たいとは思わなかったが、何のデータが入っているのかくらいはな…。
 キャプテンとして目を通すべきだろ、ジョミーは見向きもしなかったし。
 誰かが見ておかなくちゃならんと思って、タイトルだけでも全部見ようと決心した。
 俺はアルタミラを、地獄を生き抜いて来たんだからな。



 アルタミラ時代の多岐にわたるデータ。
 実験内容や、想像するだに惨たらしい標本などの記録や、研究施設に纏わるものや。
 ハーレイはそれらに付けられたタイトルだけでも確認せねば、と思ったという。ジョミーが全く見ないからには、シャングリラを預かる自分が見ておかねば、と。
「とてもじゃないが、中身まで見られる量じゃなかった。俺もそんなに暇じゃないしな」
「それで…?」
「流し読みのように見ていたら、だ。餌の記録があったんだ」
 そいつの中身を覗いてみようという気になった。
 キャプテンになる前は厨房に居たせいかもしれん。
 お前と同じで思い出したのさ、特別な餌が出ていたことを。そうなれば知りたくなるだろう?
 あの食事には何の意味があったのか、何のために食わせていたのかと。
 そういうわけでだ、俺の分のデータを引き出してみたら…。



「どうだったの?」
 ハーレイが言ってたカレンダーと、食事。どんな関係があったの、其処に?
「節目ってヤツだ」
「節目?」
「そのまんまさ。今のカレンダーにも色々あるだろ?」
 俺が授業で教えたものなら、七夕だとか、仲秋だとか。
 しかし、前の俺が引き出したデータで見付けたものは少し違った。
 一年の始まりに、復活祭。それとクリスマス。あの時代の神様は一つだけだし、祝い事は二つ。それと誰もが嬉しい新年。
 この三つと、あの頃の祝日に出たんだ、例の食事は。
 実験とはまるで関係なくって、人類にとっての祝い事の日に出されたわけだな。
 ところが、檻の中に居た俺たちにはカレンダーが無い。ついでに曜日どころか月日の感覚だって無いんだ、祝い事だとは気が付かないさ。
 感情だって半ば麻痺しているしな、今日の餌はいつもと少し違うと考えるだけだ。
 祝い事なら祝い事だと、今日はクリスマスだとか言ってくれれば分かったのにな?



 アルタミラで出された特別な食事。
 餌ではなかった、不味いながらも火の通ったスープと硬いパンと、それに茹で卵。
 シリアルと水だけの日々の中では特別だった食事は、祝い事の時に出たというから。ハーレイはそれを確認したと言うから、ブルーは首を傾げるしかなくて。
「…なんでミュウに御馳走してくれるわけ?」
 茹で汁のスープでも豆スープだよ?
 硬いパンだって、塩ちょっぴりの茹で卵だって、料理をしなくちゃ作れないのに。
 いつものシリアルと水だけでいいのに、どうしてわざわざ作ってたわけ…?
「さてなあ…。復活祭にクリスマスだしな?」
 それに新年と祝日だ。人類の社会じゃ御馳走を食って祝おうって日だぞ。
 少しばかりは良心ってヤツがあったのかもなあ、あいつらにも。傷めつけてばかりのミュウにも祝いのお裾分けだと、今日くらいは飯を食わせてやるか、と。
「ホント…?」
 そうだったのかな、あの食事って?
「実験動物だって動物の内だ、それらしく扱ってやらんとな?」
 ペットを可愛がっていたのが人類ってヤツだ、たまには情けもかけてくれるさ。
「人間の形をしてるってだけの、実験動物だったミュウでも?」
「うむ。たとえ明日には殺す予定でも、ほんの少しのお情けってヤツだ」
 あるいは自分たちにだって情けはあると、優しいのだと酔っていたかもしれないが。
 祝いの日だからと実験動物に飯を食わせる、慈悲深い自分。
 お優しくて偉い人格者なんだと、高い評価を自分につけてた可能性だって大きいんだがな。



「それなら言ってくれればいいのに…」
 御慈悲で食事をくれたんだったら言えばいいのに、とブルーはフウと溜息をついた。
 そうすれば少しは感謝しただろうし、あの食事だって特別な気持ちで食べられたのに、と。
「おいおい、コミュニケーションを取ってどうする、ペット以下のヤツらと」
 実験動物と会話なんかをする必要は全く無いんだ。
 それに感謝をされたって困る。どうせいずれは殺すか、酷い実験をするか。そんな相手から感謝なんぞをされてみろ。いくらヤツらが冷血漢でも良心が痛むってこともあるしな。
 その良心で気が付いたが…。
 俺たちが食ってた特別な食事。
 最悪、グランド・マザーの指示だったかもしれんな、研究者どもの精神衛生のために。
「どういう意味?」
「傷めつけてばかりだと、人間性が歪むだろうが」
 ミュウは見た目は人間なんだぞ、動物じゃなくて。
 それを相手に切り刻んだり、殺してみたり。血だって流れる、苦しむ声だって聞こえるんだ。
 そういったことが当たり前の日々になっちまったら、ヤツらはただの殺人鬼だぞ?
 歪んだ人間が出来上がらないよう、慈悲深さも併せ持つべきだってな。
 実験動物だって大事にしますと、祝い事の時には飯も食わせてやるんです、とな。
 そうすりゃヤツらも救われる。
 大事に扱っていたが死んじまったと、実験動物だから仕方ないんだと。



「…ミュウの扱いより、研究者の精神状態の方が大切なんだ…。当然だろうけど…」
 特別な食事を食べさせておいたから、死んじゃってもいいって発想なんだ?
 ちゃんと大事に扱いました、って。
「どっちなのかは分からないがな、今となっては」
 グランド・マザーがそういう指示を出していたのか、それともヤツらが良心ってヤツを持ってて特別な飯をくれたのか。
 前の俺がデータを見付けた時さえ、その辺のことは何処にも記録が無かったし…。
 祝い事の日には餌じゃなくって飯を食わせた、って所までしか掴めずに終わっちまったからな。
「本当はどっちだったんだろうね?」
「さあな?」
 グランド・マザーは地球と一緒に滅びちまったし、データもすっかり消えちまった。
 そいつがあったら、どうだったのかも分かったのかもしれないが…。
 今じゃ想像するしかないのさ、前の俺たちが食わせて貰った特別な飯の真相は。
 分かってることは一つだけだ。
 あれは祝いの時の食事で、餌とは違うものだったんだ、ということだけだな。



 茹で汁で作ったような豆のスープと、硬いパン。殻に少しの塩を纏った茹で卵。
 料理とも呼べないものだけれども、あまりにも酷い食事だけれど。
 それでもオーツ麦のシリアルと飲み水しか出ない、餌しか出ない日々の中では貴重だった食事。曲がりなりにもスープとパンがあり、茹でた卵も一個ついていた。
 祝い事の日にそれを出して来た人類の真意は、もう永遠に謎だけれども。
 知りようもないことだけれども、アルタミラに食事は確かに在った。
 餌と水しか無かった日々でも、豆のスープと硬いパンと、たった一個の茹で卵。
 祝いの日だとも気付かないままで、知らされないままで食べた食事が。



「ハーレイ、あの食事、嬉しかった?」
 美味しかったかどうかは、別で。
 餌と水じゃない食事が出た時、ハーレイはどんな気持ちで食べてた?
「そうだな…。これは飯だ、と思ったな」
 餌じゃないんだと、人間が食べるためのものだと。俺も人間に違いないんだと、餌じゃなくって飯を食うのが本来の姿なんだとな。
「だよね、全部に火が通ってた。スープもパンも、茹で卵も」
 餌と違って、煮たり、焼いたり、茹でたりしないと作れないもの。料理しないと作れない食事。硬いパンでもオーブンが要るし、豆のスープも茹で卵も火が無きゃ作れないし…。
 あれのお蔭で人だってことを覚えていたよ。
 餌じゃなくって食事を食べるのが人間なんだと、ぼくだってちゃんと人間なんだ、と。
 もしも、あの食事が無かったら。
 餌と水しか出ていなかったら、人間だってことまで忘れちゃっていたかもしれないね…。
「そうかもしれんな」
 アルタミラと言えば餌と水だと今でも思い込んでるが…。
 そして実際、そうだったんだが、年に数回出て来ただけの特別食。
 案外、あれが前の俺たちの正気を保つためには役立ってたかもしれないなあ…。
 あの頃の俺も、前の俺ですら、そういう自覚はまるで無かったが。



 茹で汁で作ったような豆のスープと、硬いパン。たった一個の茹で卵。
 それが前の自分たちの役に立ったというのなら。
 人として生き抜く糧になったと言うのだったら、食事の由来が何処にあろうと。如何なる理由で供されていた特別食でも、意味はあったとブルーは思う。自分たちにとっては、と。
「あの食事…。グランド・マザーの指示で出てたって方が本当の理由でもかまわないかな」
 お蔭で人でいられたのなら。自分は人だと、あれのお蔭で覚えていたなら…。
「食事だけで覚えていたってわけでもないんだろうが…。確かに助けにはなってたろうな」
 まだ人なんだと、飯も食えると。
 餌と水だけでは誇りってヤツまで失くしちまうし、あの飯にも意味はあったんだなあ…。
 グランド・マザーの指示だとしたなら、研究者どもの精神衛生のために、と考え出したプランが仇になったってか。俺たちに正気を保たせちまって。
「うん。あれがグランド・マザーの指示だったとしても…」
 研究者たちのお情けでなくても、食事のお蔭で人でいられた。人の心は失くさなかったよ。
 心も身体もすっかり成長を止めてしまって、蹲っていただけのぼくなんかでも。



「なら、感謝するか、豆のスープに?」
 それに硬いパンと茹で卵だ。
 パンと茹で卵はまだマシだったが、あの豆スープは許せんな。茹で汁なんかで作りやがって。
「そのスープで思い出したんだよ。アルタミラの食事」
 昨日の晩御飯、白インゲン豆のスープだったんだ。トマトベースで赤かったけど…。
 なんだかハーレイを思い出すな、っていう気がしたから、前のハーレイの得意料理だったのかと思っちゃってた。よく考えたら違ったんだよ、アルタミラだった…。
「ふむ。豆のスープもじっくり作れば悪くないしな、前の俺だって作っていたし」
 茹で汁で煮込んで作るなんぞは論外だが。
 豆を茹でたら茹で零さんとな、茹で汁は捨てて新しい水で煮るもんだ。おまけに例の豆スープときたら、豆が充分に煮えてないってな。茹でただけだろ、あのスープは。
「ハーレイ、今でも豆のスープを作ってる?」
「もちろんだ。シャングリラで料理をしていた頃より、ずっと美味いのをな」
 見かけはアルタミラのスープみたいに見えても、ぐんと柔らかい豆が入ったヤツとか。
 採れたてのエンドウ豆のスープなんかは美味いぞ、こいつは春に限るんだ。畑をやってる人から貰えば必ず作るな、ポタージュスープも、豆を潰さずに煮込んだスープも。



 他にも豆のスープは沢山あるぞ、とハーレイが指を折って数えてゆく。
 乾燥した豆でも美味しいスープは幾らでも作れると、逆にアルタミラの豆スープも今の自分ならそっくりそのまま再現出来ると。
「いつか作るか、クリスマスとかに?」
 祝い事の時は豆のスープだぞ、アルタミラではな。
「クリスマスとかなら、御馳走でなくちゃ!」
「そこに一品、アルタミラの味だ」
 前の俺たちの特別食だぞ、餌と水の日々の中では最高級の飯だったんだが?
「悪くないけど、うんと幸せになってからね」
 もう食べられない、ってくらいに御馳走を食べて、幸せになって。
 アルタミラの食事はそれからでいいよ、ハーレイと一緒に暮らせる幸せに満足してから!
「そう来たか…。うんうん、幸せになってからだな」
「お祝い事の日でなくっても、アルタミラの食事でいいってほどにね」
 それくらい幸せな日を過ごしてから、アルタミラの食事。
 もちろん、ハーレイが作ってくれた豆のスープで。それと、硬いパンと茹で卵も。
「硬いパンだな、そいつも焼け、と」
「うんっ!」
 期待してるよ、ハーレイの腕に。パンだって焼けると言ってたものね。
 茹で卵は殻にお塩をつけておいてよ、ちょっぴりだけね。



 結婚して二人、幸せな日々がやって来たなら。
 アルタミラの食事どころか餌さえも懐かしく思えるくらいに幸せな毎日が訪れたなら。
 たまには茹で汁で作った豆のスープも悪くない、と二人、幸せに笑い合う。
 豆のスープに硬いパン。茹で卵が一個ついてくるだけの質素な食事を食べてみようと。
 不味かったあれを食べてみようと。
 褒めようもない食事だけれども、二人で食べれば、きっと美味しい。
 アルタミラではそれが祝い事の日の食事だとも知らず、独りぼっちで食べたのだから…。




         餌と豆スープ・了

※餌と水だけだった、アルタミラの檻の中での食事。けれども、たまに違っていた日。
 実験内容とはまるで無関係、祝日だからと。それすらも知らなかったミュウ。酷かった時代。
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