シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(えっ?)
ブルーは思わず振り返った。
そして微笑む。
(いいもの、見ちゃった…!)
昼休みではなくて、普通の休み時間。授業と授業の合間の時間。
外の空気を吸いに行こうと出て来た渡り廊下の脇を走って行った、それ。
(ハーレイが自転車…!)
少し離れた奥の校舎に何か用事が出来たのだろう。急いで行かねばならない用が。
走り去ってゆく後姿。マントは靡いていないけれども。
キャプテンの制服と違ってスーツなのだし、マントなどありはしないのだけれど。前の生ならばきっとマントが、濃い緑色のマントが靡いていたのだろうに…。
ちょっと残念、と自転車が消えて行った方向を名残惜しげに眺めていて。
(…あれっ?)
不意に蘇ってきた記憶。欠片だけが戻って来た記憶。
遠い昔の、遥かな昔の前の自分の記憶の欠片。
何処かで確かに目にしたと思う。
マントを靡かせ、自転車で走るキャプテンを。キャプテン・ハーレイの後姿を。
(いつ…?)
あの記憶はいつのものだったろう。自転車に乗ったハーレイの背中を何処で見たろう?
休み時間が終わってしまって、教室に戻っても其処から先が思い出せない。蘇って来ない。次の授業が始まった時は、気分を切り替えられたのに。
(何処で…?)
昼休み前の授業時間はハーレイが受け持つ古典だった。ハーレイの顔を見れば気になってしまう自転車の記憶。キャプテン・ハーレイの背中の記憶。マントを靡かせ、自転車に乗っていた背中の記憶が思い出せなくて、懸命に記憶を手繰る内に。
「ブルー君!」
気付けば当てられてしまっていた。きっと続きの音読だろう、と先刻まで耳が拾っていた箇所の続きを慌てて読み始めたら。
「読めとは誰も言っていないが? この文章の解釈は、という質問だったが」
ついでに君の頭の時計は五分ほど遅れているようだ、とハーレイに鼻で笑われた。音読しかけた箇所はとうに過ぎていて、其処よりも先の箇所についての質問だったらしい。
「…すみません…」
「まあいい、君が答えるべき質問は…」
此処だ、と質問し直された上に、途惑いながらも正解を返した筈なのに何かを書かれた。教師が書き込む授業の記録に、褐色の指が何かを書いた。マイナスの評価を書き込まれた可能性が大。
(…やっちゃった…)
ハーレイの授業でマイナス評価。かなり落ち込んでいるというのに、授業の後のランチタイム。友人たちは、いつものランチ仲間は大いに笑い飛ばしてくれた。
ブルーにとっては痛恨のミスを、大好きなハーレイの前で冒してしまった大失態を。
普段のブルーが優等生だけに、こういう時にはクラスメイトに愉快な話題を提供してしまうのが辛い所で、どんな言い訳も通りはしなくて「それが普通だ」と笑われるだけ。たまには派手に失敗してみろと、もっと失敗したっていいと。
(…ハーレイの授業で失敗したからショックなのに…!)
けれど、ハーレイ以外の教師の授業も同じこと。マイナス評価は出来れば御免蒙りたいから。
(だけど自転車のことは忘れたくないし…)
せっかく掴んだ記憶の欠片。自転車に乗ったキャプテン・ハーレイ。
あまりにも有り得なさすぎる記憶だったから、前の自分が夢で見たのかもしれないけれど…。
(…でも、気になるしね?)
何としてでも掴みたい記憶。しっかりと手繰り寄せたい記憶。
うっかり失くしてしまわないよう、授業中に手繰ろうとしてまた失敗をやらかさないようにと、メモに書いておくことにした。「ハーレイの自転車」とだけ、簡潔に。
それを鞄に突っ込んでおいて…。
流石にメモまで書いておいたら、午後からの授業と帰り道のバスで消えた記憶も戻って来た。
家に帰って制服を脱いで、おやつの前にと開けた鞄にメモを見付けて。
(…ハーレイの自転車…)
確かに自分は見たのだと思う。マントを靡かせて自転車で走るハーレイを。
(でも、何処で…?)
おやつを食べながら考え続けて、食べ終えて部屋に戻って来てもまだ分からない。記憶の尻尾が掴めない。自転車を走らせるキャプテン・ハーレイ。その背に靡いていたマント。
(何処で自転車…?)
あれはやっぱり、前の自分が夢の中で見た幻だったのだろうか?
白いシャングリラに自転車なんかは、無かったように思うのだけれど…。
一向に戻って来ない記憶を追い掛けていたら、来客を知らせるチャイムが鳴って。ブルーの頭を悩ませ続ける張本人がやって来た。
もっとも、キャプテン・ハーレイではなく、今のハーレイなのだけれども。
そのハーレイはブルーの部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、こう訊いて来た。
「おい。今日のお前は何をボケてた?」
俺の授業中によそ見どころか、考え事とは恐れ入った。で、原因は何なんだ?
「…自転車…」
「はあ?」
ブルーがボソリと呟いた言葉に、ハーレイは鳶色の目を見開いて。
「お前、自転車通学に切り替えるのか?」
そいつは大きな問題だな、うん。お前の頭が一杯になるのも仕方ないかもな、自転車ではな。
「無理だから!」
自転車通学なんか出来っこないよ。学校はうんと遠いんだから!
「だろうな、やめておいた方がいいぞ。これから寒くなる季節なんだし」
やるなら来年の春からにしておけ、どうしても自転車で通いたいなら。
「ぼくはそんなこと、言っていないよ!」
自転車が気になっただけなんだから、とブルーは叫んだ。
乗りたいと考えたわけではないのだと、自転車そのものが気になるだけだと。
「自転車だと…?」
ハーレイは首を傾げたけれども、さほど間を置かずに自転車なるものに思い至ったようで。
「そう言えば、お前、今日、廊下に居たか?」
休み時間に渡り廊下に。俺が自転車で走っていた時。
「うん。見たよ、ハーレイが自転車で奥の方へと走って行くのを」
振り返って見てたよ、珍しいな、って。なんで自転車なんだろう、って。
「まあなあ、自分の足で走ればいい距離なんだが…。急ぎすぎるとスーツが汗まみれにな」
だから自転車だ、たまに乗ってはいるんだが…。お前、見たこと無かったのか…。
「無いよ、初めて見たんだよ」
いいもの見ちゃった、って思ったんだけど。自転車のハーレイ、初めてだから。
「ふむ…。それで、お前の自転車は何なんだ? お前の頭に詰まっていた自転車っていうヤツは」
「…その自転車…」
「俺か?」
お前、俺が自転車に乗っていただけで頭がすっかりお留守になるのか?
「違うよ、そういうわけじゃなくって!」
ハーレイを見てたら思い出したんだよ、キャプテンの制服で走ってたな、って。
自転車に乗って走っていたな、って思うんだけれど、いつだったのか全然思い出せない…。
何処で見たのかも分からないのだ、というブルーの言葉にハーレイの方も怪訝そうに。
「キャプテンの俺がか?」
前の俺が自転車だったと言うのか、そんな記憶か?
「うん。…もしかしたら夢だったのかな、って気もするけれど…」
今のぼくじゃなくって、前のぼく。前のぼくが見ていた夢なのかな、とも思うけど…。
「ふうむ…。キャプテン・ハーレイが自転車なあ…」
それは全く有り得ないが、とハーレイの考えもブルーと同じだったから。
やはり夢かと、前の自分が夢に見たのかと、納得しかけたブルーだけども。
「待てよ、あの時か!」
「えっ?」
いきなりハーレイが声を上げたから、ブルーの瞳は真ん丸になった。
あの時とは何のことだろう?
そういう夢を見ていたのだ、と前の自分がハーレイに話していたのだろうか?
けれどハーレイの口から出て来た言葉は。
「シャングリラのコミューターが故障した時だ」
「コミューター?」
それは巨大な白い鯨の中を走っていた乗り物。決められた軌道を走った乗り物。
あまりにも大きな船だったから、移動手段として導入された。ランチと呼んでいた小さな車両。それが船内の何ヶ所かで停まり、人を乗せたり下ろしたり。
ブルーの記憶では、完成してから暫くの間は…。
「何度かあったよ、コミューターの故障。シャングリラの改造が済んで直ぐの間は」
止まっちゃったり、乗ってた仲間がランチごと閉じ込められちゃったりとか。
「そいつだ、そういった時に自転車を出したぞ」
「自転車…?」
ブルーの記憶とは結び付かない、コミューターと自転車。まるで別物の二つの乗り物。
「忘れちまったか、前のお前が奪った物資に紛れて、自転車ってヤツも何台か…」
それを前の俺が取っておいてだ、時々、ゼルが倉庫でメンテを…。
「ああ…!」
ホントだ、シャングリラにあったね、自転車。備品倉庫の奥に仕舞ってあったっけね…。
二人揃って綺麗に忘れ果てていた。
そんな乗り物を、自転車なるものをシャングリラに載せていたことを。
ハーレイの目が懐かしそうに細められる。
「シャングリラがすっかりデカくなっちまって、コミューターを作りはしたが、だ」
「よく故障したっけね、あのコミューター…」
止まっちゃいましたとか、閉じ込められましただとか。そういう連絡、よく飛んでたね。
「最初の間だけだがな。だが、アレが止まって移動手段が無くなっていても…」
キャプテンってヤツは用があったら船の端から端までだって行かねばならん。
急ぎだったら走らにゃならんが、キャプテンの制服を汗まみれにするってわけにもなあ…。
威厳が台無しになっちまうからな。
「今日のハーレイとおんなじだね。走ったらスーツが汗まみれだから、って」
「うむ。それで自転車を倉庫から引っ張り出したんだ。思い出したぞ」
こいつさえあれば早く走れる筈だと、汗だってさほどかかずに済むとな。だが…。
「まずは練習からだったっけね」
あの自転車。出して直ぐには乗れなかったよね、ハーレイでも。
「うむ。成人検査よりも前には間違いなく乗っていたんだろうが…」
ブランクってヤツが長すぎたってな。身体の大きさもガキの頃とはまるで違うし…。
俺とゼルとで練習だっけな、ゼルもコミューターが止まったとなりゃあ現場行きだからな。他のヤツらに任せちゃおけんと、原因を調べて改良せねば、と。
「もっと若けりゃ楽だったのに、ってゼル、言ってたね…」
「ああ。ついでにデカブツの自転車なんぞは支えられん、とな」
それで俺ばかりがババを引くんだ。同じ自転車の練習でもな。
「ゼルのはハーレイが支えていたけど、ハーレイのはね…」
「誰も支えてくれなかったしな、後ろを押さえてくれるヤツさえいなかったぞ」
自転車の後部を押さえてくれるだけでも助かったのに、と嘆くハーレイ。そうすればハンドルを取られてよろめいたとしても倒れはしないと、そうなる前に姿勢を立て直せたと。
ゼルとハーレイ、二人の練習は格好の見もので、ブラウが囃しに出て来たりもした。
とても無理だと、乗れはしないと遠巻きに見ていた者たちもいたが。
「乗れるようになった時には嬉しかったな、あれは」
実に頼もしい相棒だった、とハーレイは懐かしそうな笑顔で。
「だろうね、颯爽と走ってたものね。ハーレイも、ゼルも」
コミューターが故障する度に見たのだった、とブルーは時の彼方に流れ去った光景を思い出す。
白い鯨を、シャングリラの中を走った自転車。
濃い緑色のマントを靡かせ、自転車で走るキャプテンを。キャプテン・ハーレイの後姿を。
(うん、ぼくはホントに見ていたんだよ…)
夢の中ではなく、現実で。現実の世界で自転車に乗っていたキャプテンを。
もっとも、コミューターが安定した後。
ゼルたちの改良が功を奏して、メンテナンス以外ではもう動かなくなることは無くなった頃。
自転車は役目を終えたとばかりに、全て壊れてしまったのだけれど。
ハーレイたちが便利に使っているからと他の何人かが乗っていたものも含めて、全部。
それきり二度と作られもせずに、補充もされなかったのだけれど…。
(リオなんかは自転車、現地調達組だしね)
ジョミーを一旦船に迎えた後、アタラクシアへ戻した時。リオはジョミーを自転車に乗せて二人乗りをして走っていた。草原を、道路を、自由自在に。
けれど自転車はリオが地上で入手したもの。それに自転車に乗る練習すらしていない。
アルテメシアへの潜入班で自転車に乗っていた者たちは、元から乗れた者だけだから。子供時代から自在に乗りこなしていて、自転車さえあれば直ぐに走れた者だけだから。
ゆえにシャングリラに自転車は無くて、ブルーもハーレイも忘れていた。
自転車がシャングリラに在った時代を、ハーレイが、ゼルが自転車に乗って走った時代を。
一度思い出すと、記憶は溢れて来るもので。
切っ掛けをしっかり掴んでしまえば、鮮やかに蘇って来るもので。
ハーレイは小さなブルーが学校で見付けた記憶の欠片に感謝しながら、昔を語った。
「あれでなかなか難しいんだぞ、シャングリラの中を走るのは」
学校の中を走るのとはわけが違うさ、自転車なんぞは全く想定していないからな。
「スリップするしね?」
シャングリラの通路。人が歩くのと、運搬用の車両くらいしか…。運搬用の車はシャングリラに合わせて開発された車だったし、自転車のタイヤとは違うものね。
「うむ。自転車で走るとあの通路が、だ。雪道と言うか、アイスバーンと言うか…」
「ハーレイ、雪道、走ったの?」
「今の俺がな」
お前が行ってる学校の生徒くらいだった頃には走っていたさ。
車の免許が取れてから後は、そういう無茶はしなかったがな。雪道を走るなら車の方がマシだ。安定もいいし、それ専門のタイヤってヤツもあるからな。
「その雪道。…シャングリラの中と比べて、どうだった?」
「当時の俺にはキャプテンの頃の記憶なんてものは無かったが…」
雪道の方が危険だな、うん。シャングリラのツルツルの通路よりもな。
「転んじゃった?」
「ああ。派手に転んだらスニーカーとズボンに見事に穴がな」
転んで、滑って。道路にはザラザラしている部分もあるから、其処で擦り切れちまったんだ。
あるだろ、滑り止めを作ってある部分。あそこのザラザラに持って行かれちまった。
俺のお気に入りのスニーカーとズボンを連れ去られちまって、二つともゴミになっちまったさ。
「そ、そっか…。シャングリラでは…」
大丈夫だった?
キャプテンの制服の靴とズボンは無事だった…?
「穴が開くなんてことにはなってない。キャプテンがそれだと大間抜けだぞ」
まあ、スピードも出さないからな。そうそう派手には転ばないさ。
「スピードって…。ハーレイ、雪道でスピード出してたの?」
「度胸試しというヤツでな。何処までスピードを上げて走れるかと、せっせとペダルを」
「うわあ…」
自分でやってて転んじゃったんだ?
避けようのない事故じゃなくって、スピードの出し過ぎで滑っちゃったの?
「そうなるな。アッと思ったら、もうハンドルを取られてたってな」
「誰も見ていなくて良かったね、それ」
それとも誰かに見付かっちゃった?
学校の友達とか、友達のお母さんだとか。でなきゃハーレイのご近所さん。
「いや。有難いことに誰も居なかったな」
穴の開いた靴とズボンで家に帰る道でも、誰にも会わずに済んだのさ。
雪がドッサリ降った休日の朝だし、みんな暖かい家の中でゆっくりしてました、ってことだ。
凍った雪道で派手に転んだという今のハーレイ。ブルーと似たような年頃のハーレイ。
転んだ時にはどういう顔をしていたろうか、と想像しかけたブルーの頭に浮かんだ光景。少年の頃のハーレイではなく、今のハーレイの姿でもなく。
「そういえば、キャプテンだった時のハーレイ…」
シャングリラの通路で転んでなかった?
コミューターが止まって自転車で通路を走っていた時、滑ってベシャッと転んでなかった…?
「お前、俺が転んだのを見ていたのか?」
「転んだ後をね。転んじゃった、って気配だけをね、青の間で感じ取ったんだけど…」
「本当か?」
それにしては描写がやたらと具体的だぞ、ベシャッとだなんてどうして分かる?
転んだ後なら俺が通路に倒れているだけだと思うがな…?
「…転ぶトコからホントは見てた…」
おっと、っていう思念を拾っちゃったから、何かと思って。
そしたらハーレイが転ぶ所で、自転車ごとベシャッと通路に突っ込んでったよ。
「なんで止めない!」
前のお前だったらサイオンで充分、止められたろうが!
それこそ自転車ごとでも止められた筈だぞ、俺がすっかり転んじまう前に。
「つい、見ちゃってた…」
珍しいな、って。自転車にはもう慣れた筈なのに転んじゃったよ、って。
「見世物じゃないぞ!」
「ごめん…!」
だけど誰にも喋っていないよ、前のぼく。キャプテンが転ぶのを見たなんてことは。
「当たり前だろうが…!」
ソルジャーがベラベラ喋ってどうする、キャプテンの恥を。
お前は笑って終わりかもしれんが、俺は当分、ブラウたちに笑いものにされるんだ…!
キャプテンの威厳も何もあったものではない、とハーレイは渋面を作る。
広いシャングリラの中を全力疾走すると制服が汗まみれになってしまうから、と選んだ自転車。威厳を保つために乗って走っていた自転車。
それで転んだと、練習以外の時に転んだと知れてしまえば、誰もが笑いを堪えるだろう。
自転車で走るキャプテンを見たなら、キャプテンが自転車でやって来たなら。
いくら急ぎの用があるのだと分かっていたって、つい笑わずにはいられない。このキャプテンが転んだのかと、転んだ時の様子はどうだったのかと。
それに噂には尾鰭がつく。
転んだというだけでは噂は終わらず、雪だるまのように膨らんでゆく。
下手をしたなら、シャングリラに自転車が在ったことを綺麗に忘れる代わりに、生まれ変わった後までも忘れない情けない記憶。赤っ恥の記憶になったかもしれず、それを思うと恐ろしい。
よくぞ人前では転ばなかったと、前のブルーが黙っていてくれて助かった、とハーレイは小さな恋人を見ながら胸を撫で下ろした。
今のブルーだったら些か危ない。珍しいものを目にした喜びでポロッと喋ってしまいかねない。
子供ゆえの純真無垢さと無邪気さでもって、「今日、ハーレイが転ぶのを見たよ」と。
「自転車で転ぶハーレイを見たよ」と、帰宅するなり母に報告してしまうとか…。
それは勘弁願いたい、と小さなブルーを見詰めていたら。
そうならないよう、気を付けて走ることにしようと考えていたら、ブルーの方でもこう言った。
「前のハーレイが転んじゃうトコ、止めなかったことは謝るけれど…」
止めずに見物しちゃってたことは謝るけれど。ごめんなさい、って謝るけれど…。
だけど、今度はホントに止められないから。
ぼくのサイオン、とことん不器用になっちゃってるから、今度はホントに止められないよ?
学校でハーレイが転びそうになっても、ぼく、見ているしかないんだからね…?
「分かっているさ。今のお前に期待はしてない」
止めてくれるとも思っちゃいないぞ、だから自分で気を付けるまでだ。
お前に家でウキウキしながら報告されてはたまらんからな。俺が自転車で転んでいた、と。
お父さんやお母さんに報告されたら赤っ恥だし、転ばないよう気を付けて走る。
ところで、だ…。
お前、自転車には乗れるのか?
自転車通学とか、そんなのじゃなくて。自転車には一応、乗れるのか、お前…?
「えーっと…?」
何を問われたのか分からなくて。ハーレイの問いの意図が分からなくて、ブルーは途惑う。
自分が自転車に乗れるかどうかが、何故、問題になるのだろう?
ハーレイが乗っていた自転車の話を二人でしていた筈なのに…。
「乗れるのか、と訊いているんだ」
お前、身体が弱いから。自転車なんてものとは縁が無いかもしれんがな…。
「…ちょっとくらいなら…」
ほんの少しなら乗れると思うよ、下の学校の時に自転車教室があったから。
乗れない子供でも乗れるように、って教えに来てくれたよ、ボランティアのおじさんたちが。
支えて貰って走ったりしたし、一人で走るのも少しだけ…。
それを毎年やっていたから、乗るくらいだったら多分、出来るよ。
自転車教室、年に何度もやっていたしね。
学校を休みがちだったブルーだけれども、自転車教室の機会は沢山あったから。
自分専用の自転車を買って欲しいと思うほどには上達しなかったけれども、乗ることは出来た。自転車に乗ってなんとかバランスが取れる程度には。
ハーレイは「ふうむ…」と腕組みをすると。
「自転車の腕前、その程度か…。だが、嫌いではないんだな?」
「うん。乗れたらいいな、って思うけれども、沢山走ったら疲れちゃうしね…」
だから自転車は持っていないよ、ぼくの自転車。もちろん自転車通学も無理。
ハーレイみたいに颯爽と自転車で走って行けたら、きっと気分がいいんだろうけど…。
「なるほどなあ…。お前が乗りたいと思うんだったら、サイクリングにでも出掛けるか?」
「サイクリング…?」
そんなの無理だよ、ぼくは少ししか乗れないし…。ほんのちょっぴりしか走れないし。
ハーレイと一緒にサイクリングなんて、絶対、置き去りにされちゃうから!
それにすっかり疲れてしまって、自転車だって自分で乗っては帰れないよ…。
「そんなトコだろうな、お前じゃな。前のお前みたいに瞬間移動も出来ないし…」
しかしだ、そういうお前にピッタリの自転車ってヤツがあるんだぞ。
そいつで二人で走らないか?
「…どんな自転車?」
「二人乗り用の自転車っていうのがあるのさ、後ろに乗るってわけじゃなくって二人で一台」
「えっ…?」
二人で一台って、どういう意味?
後ろに乗るのを二人乗りって言うんじゃないの…?
「そのまんまの意味だ、一台の自転車に二人分のサドルとペダルがついているんだ」
タンデム自転車って呼ばれているなあ、二人どころかもっと人数が多いのもある。
二人で漕ぐから、そりゃあスピードが出るらしい。
ついでに、きちんとバランスを取って乗りさえ出来るなら。落っこちないようにサドルに座っていられるんなら、後ろに乗ったヤツはペダルを漕がなくっても自転車はちゃんと走るんだ。
だから、お前が俺の後ろに乗れるなら。
俺がペダルを漕いでやるから、サイクリングと洒落込まないか?
いつかタンデム自転車を買って。
「…ホント?」
そんな自転車、本当にあるの?
ぼく、漕がなくても
ハーレイと一緒にサイクリングに出掛けられるの…?
「ああ。ちゃんとバランスが取れるんだったら、もうそれだけで充分だってな」
それに俺が言ってるタンデム自転車。
実在してるし、たまに走ってるヤツらを見かけるぞ、郊外へ行けば。
夫婦とか、恋人同士とか。そんな組み合わせのヤツらが多いな、二人乗りだしな?
俺とお前なら丁度いいだろ、まさに俺たちのために存在するような自転車じゃないか。
「そうかも…。その自転車、乗ってみたいかも…」
「良さそうだろ? タンデム自転車でサイクリングだ」
お前は気が向いた時だけペダルを踏めばいいのさ、俺の後ろで。
乗ってるだけなら疲れないだろ、バランスさえきちんと取れるんならな。
「うん。…多分、ぼくなら大丈夫。自転車教室で何度も教えて貰ったから」
タンデム自転車っていうヤツだったら、ハーレイと一緒にサイクリングに行けるんだよね?
二人乗り用の自転車だったら…。
一台の自転車にサドルとペダルが二つずつ。二人で乗るためのタンデム自転車。
実物をまだ見たことは無いし、想像するしかないのだけれど。
その自転車なら、ハーレイの後ろに乗った自分は漕がなくても走ってゆけると言うから。
気が向いた時だけペダルを踏んで走ってゆけばいいと言うから。
いつかハーレイに漕いで貰って走るのもいいな、とブルーは思う。
二台で走れば置き去りにされてしまいそうだけれど、その自転車なら大丈夫だから。
疲れずに何処までも気持ちよく走ってゆけそうだから。
車でドライブも素敵だけれども、たまには自転車。
ハーレイが漕いでくれるタンデム自転車に乗って、郊外を巡るサイクリングロードを二人で…。
自転車・了
※自転車で走っていたキャプテン・ハーレイ。改造直後だったシャングリラの中で。
今は当たり前になった自転車、いつかブルーとタンデム自転車で走ってゆくのも素敵です。
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