シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
学校から帰っておやつを食べながら、ふと見たダイニングのテーブルの上。端っこの方に普段は無いもの。おやつの時間には消えているもの。
お塩と胡椒と。
二つお揃いのガラスの器で、胡椒はペッパーミルになってる。
おやつにお塩と胡椒は要らない。食事だって要るとは限らないから、使う時だけ棚から出て来る筈なんだけれど。
(ママ、仕舞い忘れた?)
きっとそうなんだ。
ぼくが学校に行っている間にお昼御飯を一人で食べて、そのまんま。
お買い物に出掛けて忘れちゃったか、お客さんがチャイムを鳴らしたか。お皿とかをキッチンに持ってった後でテーブルを拭いていたなら、忘れちゃうこともあるだろう。
後で、って思って、それっきり。
テーブルの端っこに乗っかってたって、特に邪魔にはならないんだから。
(ママのお昼御飯、何だったのかな?)
ぼくは学校でランチ定食、今日は大好きなハンバーグを食べて来たんだけれど。
お塩と胡椒は使わなかったし、ママが一人でハンバーグってことも無いんだろうし…。
(スパゲティとか?)
茹でて、好みの具材やソースをかけて。仕上げにお塩と胡椒っていうのは如何にもありそう。
ママが置き忘れたペッパーミル。
ガラスの器の中に詰まった色とりどりの胡椒の粒たち、ママのお気に入り。
黒いの、白いの、それから赤いの。緑色のも混じってる。熟した時期とかで違うんだっけ?
とにかく色々、いろんな色をした胡椒のミックス。
ぼくの家では食卓にはこれ。もう一味、って時にはガリッと挽いて。
シチューに振ったり、使い方は一杯あるんだけれど。
ママのお昼御飯はスパゲティだったかも、って考えちゃったら。
(トォニィ好みのスパゲティ…)
そういう謳い文句の料理があったっけ、って可笑しくなった。
前にハーレイに食べに出掛けて貰ったシャングリラの歴代ソルジャーの食事。それの再現という楽しいイベント。
レストラン部門を併設しているパン屋さんの企画で、この町では人気のチェーン店。ハーレイの家の近所にもあって、偶然チラシを貰ったとかで、ぼくの家まで持って来たんだ。
前のぼくの分は、よりにもよってアルタミラの餌だったオーツ麦のシリアルがメイン。目玉焼きなんかもついていたけど、メインは餌。
どんな感じか知りたかったから、ハーレイに頼んで行って貰った。アルタミラの餌はヘルシーが売りなだけで味は最悪、流石のハーレイも嫌だったみたい。「あれだけは無理だ」って呻いてた。
(でも、トォニィのはリンゴのタルトまでついてたんだよ)
ハーレイは食べていないけれども、チラシで見たから知っている。トォニィが好きだったというスパゲティ。根拠はトォニィへの当時のインタビュー。
お塩と胡椒だけで味付けしたスパゲティ、ってことになっていた。リンゴのタルトも好物って。
とてもシンプルな、お塩と胡椒だけのスパゲティ。
もっと色々なスパゲティの食べ方、沢山ありそうなんだけれども。
(お塩と胡椒があれば、大抵…)
スパゲティに限らず、パラッと一振り、魔法みたいに美味しさが増す。
ある意味、調味料の王様みたいなお塩と胡椒。
それだけで味付けしたスパゲティが本当にトォニィの好みだったら、案外、グルメだったかも。あれこれ工夫を凝らしたものより、スパゲティ本来の味を生かした食べ方が好みだったなら。
(忙しくって食べてる時間がありません、ってわけじゃないものね?)
それはジョミーの方だった。
食事を再現するイベントの時も、「昼食を摂る時間が無い日に食べた」と謳ったサンドイッチがメインになったほどに。
トォニィは最後のソルジャーなんだし、多忙と言ってもたかが知れてる。スパゲティをゆっくり味わう時間くらいは充分にあった。食材だって豊富に手に入ったろうし…。
(グルメなソルジャー?)
スパゲティは色々食べて来たけど、お塩と胡椒が一番いい、って言ったとしたなら通だと思う。いわゆるグルメ。他のスパゲティは食べ飽きました、っていう感じ。
(かっこいいかも…)
スパゲティにお塩と胡椒だけ。それが大好きだったソルジャーだなんて。
(お塩と胡椒…)
ペッパーミルの中、赤や緑や白の胡椒の粒。食卓に欠かせない胡椒。
和風の食事とかだと要らないけれども、お料理によっては無くてはならない調味料。
キッチンにだって常備してあるし、ママがお料理に合わせてブラックペッパーだとか、ホワイトペッパーって使い分けてる調味料。
お料理用ならハーブソルトも置いてあるけど、必ず胡椒が入ってる。ローズマリーとかタイム、セージなんかといったハーブと一緒に、胡椒も入る。
(お塩だけだと…)
ちょっぴり足りない、料理の味付け。
もう一味、って時にお塩じゃ話にならない。それだと塩辛さが増すっていうだけ。アクセントが欲しいなら、お塩だけでは駄目なんだ。胡椒をパラリと、それが大切。
だけど…。
(…シャングリラには胡椒、無かったんだよ)
胡椒が無かったんだっけ、って考えながらおやつを頬張った。
当たり前のような顔してテーブルに乗ってる、ママが仕舞い忘れたペッパーミル。
これが無かった船だった、って。
色とりどりの胡椒どころか、一粒の胡椒も無かったっけ、って。
おやつを食べ終えて、お皿やカップをキッチンのママに返しに行って。
二階のぼくの部屋に戻って、勉強机の前に座って考えの続き。
(今じゃ胡椒は普通なんだけど…)
この家の子供に生まれて来てから、胡椒が無くって困った覚えは一度も無いんだけれど。小さい時には胡椒なんかは食べていなかったけれど、それでも家には在った筈。パパやママが使っていた筈の胡椒。お料理に、食べる時にパラッとアクセントに、って。
そういう便利な胡椒が無かったシャングリラ。
ほんのちょっとの間だけだったけれど、胡椒は無かった。
船の中の何処を探し回っても、胡椒は存在しなかったんだ。
シャングリラを本物の楽園にしよう、って自給自足を目指した船。
人類から奪って生きていたのでは自立出来ないと、船もそのために大きく改造するのだと。
もう奪わない、って決めた時には大量の岩塩を備蓄していた。小惑星から採った岩塩。
人間には塩分が必要なのだと、お塩があったら生きて行ける、と。
それで充分、食事にはこれで足りる筈だと思ったのに…。
「やっぱり一味足りないねえ…」
ブラウがぼやいた。
何か足りないと、何処か物足りないような気がしてならないと。
「贅沢は言わんが、やはり足りんのう…」
どうも何かが、ってゼルも言ったし、ぼくにもそういう気持ちは分かった。
自給自足の食生活を始めて、暫く経ったらブチ当たった壁。
深刻な問題じゃないんだけれども、食事する度に引っ掛かってくる違和感とでも言うのかな?
もう少し、って感じる味。
決して不味いとは思わないけど、足りない何か。
それが何なのか、よく分からない。何故なのか理由が掴めない。
トマトを煮込んでベースにしたって、なんだか足りない。お塩はきちんと入っているのに。
これは困った、とぼくも思ったから、ゼルやヒルマンたちに招集をかけた。
いずれは家畜も飼う予定なのに、一味足りない味のままでは大変だから。
きちんと原因を究明せねばと、何が足りないのかと長老会議。
当時は長老って呼ばれるほどには年寄りじゃなかった彼らだけれど。
ゼルにヒルマン、ブラウにエラ。それにキャプテンのハーレイと、ソルジャーのぼく。
シャングリラの改造は順調だったし、それに関する議題についても話し合った後で。
ぼくは「ところで…」と話題を変えた。
食事に一味足りなくはないかと、どうもそういう気がするけれど、と。
直ぐに反応したのはゼルで。
「うむ。塩さえあったら充分じゃろうと思ったんじゃが…」
何か足りない気がするのう…。トマトをたっぷり使ってあっても、どうも何処かが違うんじゃ。
「あたしも全く同感だね」
塩味が足りていないんじゃあ、って足してみたけど辛くなっただけさ。
まったく何が足りないんだか…。最低限の砂糖は確保出来てる筈なんだけどね?
「ふうむ…。私は心配していたのだがね」
気がかりだった、とヒルマンが言ったら、「私もです」とエラが頷いたから。
「どういうことだい?」
ヒルマン、君には予想がついていたのかい?
こうなるだろうと、塩だけがあっても駄目なのだと。
分かっているのなら、その原因を話して貰って解決策を急いで考えないとね。
「これだ、と思うものならあるねえ…。ハーレイ、君なら分からないかね?」
どうして一味足りないのか、とハーレイに視線を向けたヒルマン。
何故ハーレイに訊くんだろう、と不思議だったけれど、ハーレイは意外にも口を開いて。
「もしかしたら…、とは思いますが」
推測の域を出ないのですが、これではないか、と思うものなら確かにあります。
「何なんじゃ、それは?」
わしにはサッパリ分からんというのに、ハーレイ、お前は分かるとでも?
「…当たっているかどうかは謎ですが…。胡椒ではないかと」
「胡椒だって?」
ぼくは思わず声を上げてた。
胡椒と言ったら、人類から奪って生きていた頃は食卓にあった調味料。パラリと振ってただけの代物で、細かい粉だとクシャミが出たり。
そんなものが重要なんだろうか、と思ったけれど。
ハーレイは真面目な顔で続けた。足りないものとは胡椒なのではないだろうか、と。
「厨房に居た頃、料理と言ったら塩と胡椒でした」
下拵えの段階で使う時もあれば、料理の途中で入れる時も。もちろん仕上げも塩と胡椒です。
味見してから塩を足したり、胡椒を振って味を整えたりと。
塩だけでは足りないということになれば、胡椒だろうと思うのですが…。
「なるほどのう…。塩と胡椒はセットじゃった、と」
「言われりゃそうかもしれないねえ…」
あたしも胡椒を振ってたもんだよ、胡椒がテーブルにあった頃はね。
だけど好みで振ってたんだし、無くてもいいかと思ったけどねえ…。料理する時点で塩と胡椒を使っていたなら、足りないのはやっぱり胡椒かねえ?
「それで正解だよ、ハーレイの言う通り胡椒なのだよ」
入れるだけで料理の風味が変わる。魔法のように料理を美味しくするから、遠い昔には貴重品とされていたらしい。遠く離れた別の国からの輸入品でね。そうだったね、エラ?
「ええ。胡椒は金と同じくらいに貴重だったということです」
同じ重さの金と取り引きされたと言います、それだけの価値があったのです。
「金と同じって…。そこまで貴重なものだったのかい?」
唖然とした、ぼく。
たかが胡椒と思ったけれども、金と同じじゃ凄すぎる。
でも、ヒルマンとエラは「そうだ」と答えた。遥かな昔は本当に金と同等の価値があった、と。
王侯貴族のための食卓から始まった胡椒の歴史。
肉に、魚に欠かせないスパイス、料理を美味しくする調味料。防腐作用もあったという。
塩も高価なものだったらしくて、胡椒と合わせて専用の凝った容器が作られたほど。
食卓に豪奢な塩と胡椒入れ、塩と胡椒は料理を美味しく食べるために欠かせない品だったから。
「それじゃ、塩だけじゃ物足りない料理を美味しくしたかったら…」
胡椒が必要だということかい?
塩や砂糖だけではまるで駄目だと、胡椒を入れない限りは駄目だと…?
ぼくがそう訊いたら、ヒルマンは「うむ」と答えを返した。
「解決するには胡椒しか無いということになるね」
シャングリラで胡椒を栽培する。それ以外に道は無いのだろうね。
「胡椒は育てられるのかい?」
この船の中で、胡椒の栽培は可能なのかい?
「暖かい地方の植物だからね、温室があれば育つだろう」
ゼル、温室は作れそうかね?
胡椒専用の温室などは改造計画には入っていなかったが…。
「そのくらいのことは可能じゃろう。農業用のスペースは充分に取っておるからな」
要るんじゃったら早速、設計に取り掛からんとな。
どのくらいの大きさがあればいいんじゃ、その温室は?
ヒルマンは胡椒の性質などを話し始めた。
蔓だけれども、育てば蔓は木の幹のように堅くなるらしい。支柱を作って巻き付けて育て、人の背丈の倍以上の高さになった辺りで成長は止まる。
それから後はかなりの年数、同じ蔓から胡椒を収穫できるけれども。
「ただし、問題が一つあってね…」
「なんだい?」
「種から育てても、上手くいかないらしいのだよ」
「そいつはおかしいんじゃないのかい?」
種じゃないか、とブラウが割って入った。
胡椒があった頃には種のようなものを挽いて料理に振りかけていたし、胡椒は種だと。
なのに種から育たないだなんて、記憶違いをしていないかい、と。
「それが、どうやら挿し木で増やす植物らしくて…。種からは発芽しにくいようだ」
種が手に入ればやってはみるが、と難しい顔をしたヒルマン。
入手するなら種の方が恐らく簡単だろうが、発芽するという保証は無いと。
「すると、確実に育てたかったら、挿し木した苗が要るのかい?」
「そうなるね」
手っ取り早いのはその方法だ。
発芽するかどうかを試しているより、期間も短縮出来るのだし。
ぼくは急いで奪いに出掛けた。
料理に足りないものが何なのか分かったからには、胡椒を奪いに。
シャングリラに無い植物の種や苗、飼う予定の家畜や魚なんかは奪わないと手に入らない。
これは奪って生きるのとは違う。奪ったもので生きてゆくのとは違う。
いわば初期投資で、最初の一つを奪いさえすれば、後はシャングリラで増やすのだから。
(種から育てられるんだったら、輸送船を狙えばいいんだけれど…)
物資を奪って生きていた頃に、色とりどりの胡椒を手に入れたことが何回かあった。赤い胡椒は完熟した実だと言うから、発芽するならそうした胡椒を奪えばいい。
けれど、胡椒は種からではなくて挿し木で育てる。種では駄目で、苗が必要。
(何処の星でも…)
人類が住んでいるなら、何処の星でも胡椒を育てるための農園が存在するという。大規模に栽培している星からの輸入が主だけれども、万一の時に備えて農園。
人類がそうするくらいなのだし、胡椒は本当に欠かせない調味料なのだろう。
そんなことを考えながら、シャングリラから一番近い星まで宇宙を駆けて行った。胡椒の農園はどんなものかをデータベースの資料で調べて、奪うべき苗のデータも調べて。
そうして奪った、胡椒の苗。
たった一本では心許ないから、五本まとめて失敬して来た。
シャングリラの方では、ゼルが「これで二十本は育てられるわい」と温室を完成させていた。
だけど…。
「ちょいと、三年もかかるんだって?」
本当なのかい、とオッドアイの目を見開いたブラウ。「そのようだ」と唸ったヒルマン。
ぼくが奪った五本の胡椒はホントに苗木で、実を付けるまでに三年かかるという勘定。それでは今年は採れはしないし、来年になっても胡椒は採れない。
「奪い直して来ようか、大きいのを?」
苗木はこういう大きさのヤツしか無かったけれども、育った木ならば沢山あったし…。
あれなら今でも実を付けていたし、奪って来れば直ぐに充分な量の胡椒が採れるよ。
「根付かなかったらどうするんじゃ!」
デカイんじゃろうが、育った胡椒は。
そうなってくると環境が変われば枯れる恐れが出て来るわい。苗木じゃったら大丈夫じゃがな。頑固になるほど育っておらんし、適応力だけはあるじゃろうて。
「私もゼルに賛成だよ」
大きい木よりは苗だろうねえ、シャングリラで育ってくれそうなのはね。
苗で行こう、とヒルマンも地道な努力の道を選んだから。
「じゃあ、三年も待つってことになるんだね。それまでの間は…」
「胡椒無しかい、しょうがないねえ…」
諦めるしかないか、ってブラウが大きな溜息をついたら。
「どうせ今まで無かったんじゃ。気付かなかったら、この先もずっと無いんじゃぞ?」
無いよりはずっとマシじゃろうが。三年待ったら手に入るんじゃ。
「それはそうかもしれないねえ…」
待つとしようか、気長にね。あと三年の辛抱なんだねえ…。
三年待ったら、手に入る胡椒。それまで三年、我慢するだけ。
足りないものが何だったのかが分からなかった間は、分からないから気にしなかった。
でも、それが何だか気付いてしまうと胡椒が欲しい。
あの味だ、って思い出したら欲しくなる。料理に一振りしたくなる。
(少し振るだけで変わるんだものね、お料理の味が…)
美味しくなる魔法の調味料。それが胡椒だ、と気付けば食べたくなるのが人情。
その胡椒の苗が船にやって来た、ということは誰もが知っているから。三年待ったらあの胡椒が採れると分かっているから、船中の期待がそれに集まる。
温室の中の胡椒の苗。
まだ柔らかい蔓を支柱に巻き付け、支えてせっせと世話をした。
その係じゃない仲間までが。「手伝おうか」と声を掛けては、宝物を育てるように胡椒を。
順調に進んでゆく、自給自足の楽園に向けての改造や整備。
家畜も来たけど、鶏がやって来て卵も産むようになったんだけれど。
「オムレツは出来ても、胡椒がねえ…」
パラリと一振りしたいもんだね、目玉焼きにもね。それだけでグンと変わるのにさ。
惜しい、とブラウが残念がって。
「まだまだじゃな」
卵は充分、行き渡るようになったんじゃがのう…。胡椒は暫く待たされそうじゃのう。
そもそも三年経った時にも、どれほどの量が採れるものやら…。
気軽にパラリと振れる日までは、三年どころじゃなさそうじゃぞ。
やれやれ、と頭を振っていたゼル。
ゼルの予言のせいじゃないけど、三年も待ってやっと採れても、たっぷり使える量ではなくて。
船の仲間が好きなだけ使える量には届かなくって。
収穫された胡椒は色とりどりとはいかなかった。
料理との相性なんかも考えた末に、完熟前の実を乾燥させたブラックペッパー、黒胡椒。胡椒の実は全部ブラックペッパーになって、厨房で管理をすると決まった。
使い道は当然、料理のためで。個人が持ち出してオムレツや目玉焼きには振れない。この料理に胡椒をもう少し、と思っても厨房からブラックペッパーの瓶が届きはしない。
「ここで一振りしたいんじゃがのう…」
ヒルマンやエラが言った通りに貴重品じゃな、厨房から一歩も出て来ないわい。
いや、胡椒じゃから一粒かのう? それとも一つまみと言うべきかのう…。
「その通りだねえ…」
あたしも一振りしたいんだけどさ、交換しようにも同じ重さの金なんか何処にも無いってね。
何年待ったらいいんだろうねえ、気軽にパラリと胡椒を振れる日までさ。
まだか、まだか、と誰もが心待ちにしていた胡椒。
もっと大きく育たないかと、沢山の実を付けてくれないものかと世話に通った温室の胡椒。
ようやっと一人前の丈に成長して、ブドウみたいに実が連なった房が幾つも付いて。
それを収穫して、収穫時期や加工方法によって黒の他にも赤、白、緑。
色とりどりの胡椒が入ったペッパーミルが食堂に置かれる日が来たんだけれど。
カラフルな胡椒を贅沢に使えるようになるまで、相当な時間と手間とがかかったと思う。けれど胡椒の効果は抜群、料理はぐんと美味しくなった。たった一振り、それで変わった。
シャングリラで育てていた胡椒。
一粒の胡椒がうんと貴重だった、そんな時期があったシャングリラ…。
胡椒が貴重品だったっけね、って考えていたら、ハーレイが仕事帰りに寄ってくれたから。
ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせに座って、訊いてみた。
「シャングリラの胡椒、覚えてる?」って。
「胡椒?」
「うん。…シャングリラに胡椒が無かった頃。お塩だけしか無かった頃だよ」
お砂糖は少し作っていたけど…。
なんだか味が物足りないね、ってヒルマンたちと会議をしていた時。
前のハーレイ、気が付いたよね。足りないものは胡椒だ、って。
「まあな」
「やっぱりレシピを見てたから? 大抵のお料理はお塩と胡椒、って書いてあったの?」
「その辺もあるが…。料理人としての勘でもあるな」
胡椒ってヤツは塩よりもずっと僅かな量でだ、料理の味をまるで変えちまう。
塩は充分に確保してたし、それで何かが足りないとくれば胡椒だろう。
ドカンと入れる類のものじゃないから、料理をやらない奴にしてみれば好みで振るだけのものに過ぎんが、料理していた方からすればな…。
塩コショウの胡椒を忘れただけでだ、味が全く決まらなくって「入れ忘れたぞ」ってことになるわけだ。試作していて、何度やったか分からないなあ、その手のうっかりミスってヤツな。
最終的には辻褄が合うが、胡椒を忘れた料理っていうのは味見してみたら間抜けなもんだぞ。
「そっかあ…。胡椒ってとっても大事なんだね、そこまで変わってくるんだったら」
お塩と胡椒だけで味付けしました、っていうお料理なんかは、あの頃はとても作れないし…。
トォニィ好みのスパゲティの話が本当だったら贅沢だよね。
前にハーレイの家の近くのパン屋さんでやっていたでしょ、ソルジャーの食事の再現イベント。トォニィが好きだったっていうスパゲティの味付け、お塩と胡椒だけだったもの。
「そうだな、昔のシャングリラでそいつを食っていたらな」
周りのヤツらが腰を抜かすぞ、なんて豪華なスパゲティなんだ、と。
「やっぱり平和な時代のソルジャーっていうのは凄いよね」
スパゲティなんかに胡椒で味付けするんだよ?
それだけの量の胡椒があったら、もっと有効な使い道がいくらでもありそうなのに…。
「おいおい、ジョミーだってまるで知らなかったぞ?」
胡椒が無かった時代なんぞは。どんな料理にも気軽に胡椒を振ってた筈だが?
「そうだったっけ…」
胡椒はすっかり定着してたね、食堂にあるのが当たり前だっけね。
ぼくの青の間にだって置いてたんだし、ジョミーはそういう苦労話は知らなかったかもね…。
今のぼくが胡椒が無い生活なんてしたこと無いのと同じで、ジョミーも胡椒は当然のように白い鯨で使ってた。目玉焼きにも、シチューにもパラリ。もう一味、って胡椒をパラリ。
今のぼくだって、もうちょっと…、って胡椒を振ってる日も多いから…。
「ねえ、ハーレイ。もしも今、胡椒が無くなっちゃったら…」
ハーレイ、どうする?
「俺は早速、明日から困るぞ。…いや、困らんか」
「えっ?」
「別の文化があるってこった」
胡椒が無ければ山椒を使えばいいじゃない、とな。
「なに、それ?」
女の人みたいな喋り方だよ、それって特別な意味でもあるの?
「知らないか? SD体制よりもずうっと昔の有名な話さ。フランスって国の王妃様のな」
国民が飢えててパンも食えやしない、って聞かされてこう言ったそうだ。
「パンが無いならお菓子を食べればいいのに」と。
「へえ…!」
王妃様らしい話だね。国民の生活がどうなってるかなんてこと、知らずに暮らしていたんだね。
「作り話だっていうことだがな。それと、お菓子の意味が違うんだって説もあるそうだぞ」
王妃様が言ったお菓子な、そいつはクグロフだった、って話。王妃様の故郷の国のお菓子だ。
クグロフだったらブリオッシュ風の生地だし、パンに似てないこともない。
パンが無いならそっちにすれば、と思ったとしても不思議じゃないよな。
「ハーレイ、フランスなんかにも詳しいの?」
「いや? 俺はクグロフの方を調べていただけだ。そしたらついでに出て来たのさ」
菓子も作ると言っただろうが。
こいつも作れんことはないな、とデータベースを漁ってる間に出くわしたってな、王妃様に。
王妃様の話はともかく…、ってパチンと片目を瞑ったハーレイ。
「まあ、胡椒が無ければ山椒だ。でなきゃ七味だ、どっちも使える」
意外な料理に合うんだぞ。ステーキだって七味で食えるし、山椒ソースもあるからな。
「そうかもね。ピリッと辛いのを上手く生かせば使えそうだね」
ハーレイだったら色々と工夫出来るかも…。
だけど、前のぼくたちはどっちも知らないよ? 山椒も七味も。
「だから胡椒で困ったんだろうが」
とにかく苗を奪って育てて、って実に気の長い話だよな。
山椒も育てるのに時間はかかるが、葉っぱだけなら一年目でも味見くらいは出来るんだ。
「うん。…胡椒、貴重だったから野菜スープにも入ってないしね」
ハーレイの野菜スープのシャングリラ風。お塩だけだよ、胡椒は無いよ。
「あれはお前が入れるなと!」
レシピを変えるな、とうるさく言うから、胡椒を入れずに終わっただけだぞ、間違えるなよ?
「分かってるよ。あれも胡椒をパラッと振ったら…」
「劇的に美味くなると思うぞ、試してみるか?」
「ううん、要らない」
前のぼくが食べないままで終わった味付けのスープは要らないよ。
美味しくなっても別物になったら、それはぼくが好きだったスープじゃないんだもの。
あれはあれでいいよ、って笑ったけれど。あのままでいいよ、って言ったけれども。
もしもあのまま胡椒無しなら、シャングリラは楽園じゃなかったと思う。
物足りない味が続いていたなら、胡椒を育てて解決しよう、っていう方向に行かなかったら。
食事はやっぱり大切なんだし、美味しくなくっちゃ楽園気分になれないから。
「胡椒の名前…。天国の種子って言ってたっけ?」
「ヒルマンとエラがな。そういう名前で呼ばれていた、って言っていたなあ…」
同じ重さの金と取り引きされていた頃に。
前の俺たちは胡椒で取り引きをしてはいないが、まさに天国の種子だった、ってな。
食事が劇的に美味くなったし、美味い食事を食えるからこそ楽園だろうが、名前通りの。
「そうだよね。食事が不味くちゃ、毎日が楽しくないものね」
アルタミラの餌よりは遥かに美味しかったけど。
それでも胡椒が無かった食事は、ちょっぴり寂しい味だったものね…。
胡椒を育てて、ぐんと美味しく変身を遂げたシャングリラの食事。
最初の収穫を迎えるまでに三年もかかってしまった胡椒。
みんなが好きなだけ使えるようになったのはもっと後だった、貴重品の胡椒。
それが今では色とりどりの胡椒がペッパーミルに入って家に置かれてて、ハーブソルトなんかも揃ってる。ハーブとお塩と胡椒のミックス。
おまけに地球産、青い地球の上で育った胡椒。
「ハーレイ、今の胡椒は全部、地球産だよ?」
ぼくの家のも、ハーレイが普段に使ってるのも、全部、地球産。
「地球の胡椒か…。そいつはとてつもない貴重品だな」
「同じ重さの金どころじゃない値打ちだね」
ペッパーミルに一杯分のを前のぼくたちが買おうとしたら。
どれだけのお金が必要なのかな、ちょっと想像もつかないよね…?
「うむ。ミュウと取り引きしてくれる所があったとしても…」
無理なんじゃないか、前の俺たちがそいつを買うのは。…胡椒の値段が高すぎてな。
あのシャングリラを売り飛ばしたって買えないね、ってハーレイと二人で笑い合った。
トォニィの時代に売り払ったって、地球の胡椒は絶対に買えやしないんだ。
青い地球なんか何処にも無いから。
それこそホントに天国の種子で、買おうとしたって見付かりやしない。
その地球の上に生まれ変わったぼくたちの特権、胡椒がたっぷり。
どんなお料理にもパラッと一振り、地球の胡椒を好きな時にパラッと、欲しいだけの量を…。
胡椒・了
※白い鯨を作り上げたものの、一味足りなかったもの。その正体は胡椒だったらしいです。
「ミュウの楽園」が出来上がるまでの道は手探り。今では、地球の胡椒を使い放題。
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