シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(さて、と…)
ブルーの家へ出掛ける日の朝。週末といえども、習慣で早い時間に目覚めるのが常。
まずは新聞、届いたばかりのを取って来てから朝食の支度。
(目玉焼きにするか、スクランブルエッグか…)
何にするかな、と暫し思案してからオムレツに決めた。ハーブの風味が際立つソーセージを昨日買って来たから、それも何本か焼いて添えよう。
後はサラダに、オニオンスープ。薄切りのタマネギをバターで炒めて、コンソメを入れて。
(よし、そんなトコだな)
サラダ用にと野菜を刻んで、それからタマネギ。小鍋で軽く炒めた後は様子を見るだけ。茶色くなるまで時々混ぜながら他の作業を。
ソーセージはオムレツの後に同じフライパンを使って焼くのが手間いらずだ。
オムレツにかかるか、と卵をボウルに二個、割り入れて…。
(三個でやっても良かったかもな?)
もう一個増やすか、ソーセージを多めに焼くことにするか。
今の段階なら卵を一個増やすくらいは何でもない。味に変化が出るわけでもない。なにしろ卵は割ったばかりで、箸で溶いている真っ最中。塩コショウすらもしてはいないし…。
足すんだったら今の内だな、などと考えていて。
(ん?)
何の気なしに混ぜていた箸。
卵を溶く時はいつも使っている、料理用の箸。食卓で使う箸とは違った、木の箸だけれど。
(おいおい、こいつは…)
有り得んぞ、と箸を置いてフォークを取って来た。金属製の大きなフォーク。パスタを食べたりする時に使う、ごくごく普通の大きなフォーク。
箸の代わりにフォークを握って、ボウルの卵に挑戦した。
それで溶こうと、黄身と白身を万遍なく上手に混ぜてみようと。
カシャカシャとキッチンに響く音。箸の音とは異なった音。
ボウルにフォークが何度も当たって、黄身と白身が混ざってゆく。オムレツを作るならしっかりかき混ぜ、偏らないようにしなければ。
黄身と白身では火の通りが変わるし、上手く混ざっていなかった時は出来栄えが悪い。切ったら一目で素人にも分かる下手なオムレツ、此処が白身だと分かるオムレツ。
(出来んことはないが…)
うーむ、とハーレイは低く呻いた。
フォークで卵を溶きほぐすことは可能なのだが、どうにも効率が良さそうにない。箸を一本しか持たずにやったらこうなるか、といった感じで頼りない。
前の自分は確かにフォークで卵を溶いたが、今となっては信じ難い、それ。
厨房に居た頃、幾つもの卵を溶きほぐしたのに。
前のブルーが殻に入った卵を奪って来た時は、こうしてフォークで溶いていたのに。
(箸の方がうんと優れものだぞ?)
信じられん、と箸に持ち替えたら、アッと言う間に卵は混ざった。実に頼もしい調理器具。
卵をフライパンに流して、手際よくオムレツに仕上げていって。
皿に移したら、お次はハーブ風味のソーセージを炒め、その間にオニオンスープも出来た。味を確かめ、カップに移して、やおら朝食。
「いただきます」と合掌してから食べ始めるのも習慣だった。
誰も居なくても、必須の挨拶。食べ物への感謝の気持ちをこめて。
生まれ育った家で、柔道や水泳の先輩たちからも叩き込まれた「いただきます」。今でも決して忘れはしないし、外食する時も合掌はする。
しかし…。
(忘れちまっていたぞ、卵をフォークで溶いてただなんて…)
箸で溶くのに慣れた今では、なんとも不便な調理器具。箸でやったら直ぐ出来ることに、無駄な時間を取るフォーク。一本の箸で混ぜているようだ、とまで思ったフォーク。
けれども、無かった。
前の自分が生きていた時代に、二本の棒を並べた箸は。
(箸というものからして無かったのか…!)
SD体制の時代に消された文化。今は復活を遂げて身の回りにある、小さな島国、日本の文化。遥かな昔にこの地域に在ったと言われる様々な文化。
それと前の自分が生きた時代の文化との間の多くの違いに、何度も驚いて来たけれど。
食べ物に関しても、幾度も気付いて来たのだけれど。
その食べ物を口に運ぶ道具。食べるための道具。
(まさか、箸自体が無かったとはなあ…)
すっかり慣れてしまっていたから、箸が無かったとは全く思いもしなかった。
青い地球の上に生まれた時から箸は馴染んで来た道具だから。
物心つくかつかない内から、いつも周りに在ったから。
幼かった日に、母が「ほら」と小皿の上に乗せてくれた味見用の欠片も、箸でつまんで。
父が「食うか?」と口に入れてくれた酒のつまみも、箸で運ばれた。
幼稚園などに持って出掛けた弁当箱にも、箸入れがセット。
スプーンやフォークも日常に使うものだけれども、無ければたちまち困る箸。
味噌汁を作ってもスプーンで飲んだら味気ない気分がするだろう。刺身をフォークで食べるのも嫌だ。煮魚をナイフでカットするのも。
(衝撃の事実というヤツだな…)
オムレツもソーセージもフォークで口へと運ぶけれども。
オニオンスープはスプーンで掬っているのだけれども、サラダには箸。それが今の普通。
(だが、シャングリラだと、こうはいかんぞ)
サラダもフォークで食べるものだった。それが普通だと考えていたし、箸などは無いし…。
(今日の話題は箸で決まりだな)
ブルーと二人でこれを話そう、と割り箸を荷物に忍ばせた。
箸は幾つも家にあるのだが、あえてオマケに貰った箸。無料で貰った、ただの割り箸。
仕事の帰りにたまに買って帰る、美味しいと評判の近所の寿司屋。店でも食べられて、持ち帰りサービスも充実している。そこの店名が刷られた紙の袋に入った割り箸を、一つ。
箸は一膳、二膳と数えるけれども、この際、一つでかまわない。ブルーと話したいことは呼び名ではなくて、箸という存在そのものだから。
いい天気だから歩いて出掛けて、ブルーの家に着いて。
二階の部屋に案内されて、テーブルを挟んで向かい合わせに座ると、早速笑顔で切り出した。
「土産話を持って来たぞ」
「お土産じゃなくて?」
小さなブルーがそう返したから。
「そうそう土産があると思うか?」
お前は期待をし過ぎていないか、土産なんぞは滅多に持っては来ないだろうが。
「お土産、毎回、あったっていいと思うんだけど…。ぼく、ハーレイの恋人だよ?」
いつもプレゼントを貰えたっていいと思うけどなあ、恋人なんだし。
「自分が置かれた状況ってヤツを考えろよ?」
此処は青の間じゃなくて、お前の家で、だ。
お前と俺とが恋人同士だなんてことは全く知らないお父さんとお母さんが一緒だろうが。
何度も土産を提げて来たなら恐縮される。今のペースが限界ってトコだ。
今日の所は土産話で我慢しておけ、本物の土産はまた今度だな。
今度と言ってもこの次じゃないぞ、そのくらいのことは分かるな、お前?
「うー…」
ブルーは唇を尖らせたけれど、ハーレイは譲ってやらないから。
諦めたらしく、まだ不満さが溢れる瞳で尋ねてきた。
「土産話って、ハーレイ、何処かに行ったっけ?」
ぼくは気付かなかったけれども、日帰りで研修か何かに行って来たの?
「いや?」
「だよねえ…。それなのに土産話って、何?」
「ん? それはな…」
これだ、と割り箸を取り出して見せた。例の割り箸をテーブルに置く。
「えーっと…。これって、お寿司屋さんの?」
聞いたことがあるよ、この名前。ハーレイの家から近かったの?
「そうだが」
けっこう近いぞ、仕事帰りにたまに買って帰る。店で食ってることもあるなあ、美味いんだぞ。
「連れてってくれるの?」
「誰が!」
なんでお前を連れて行かなきゃならんのだ。
第一、お前がチビの間は外で一緒に食事はしないと言っただろうが。
その代わりに、って持って来てやったのが庭のテーブルと椅子の始まりなんだぞ、忘れたのか?
「…じゃあ、この次のお土産だとか?」
「寿司がか?」
「巻き寿司でも握り寿司でも好きだよ。ちらし寿司だって」
このお店の一番人気のお寿司は何なの、ハーレイのお勧めのお寿司もいいなあ…。
どっちがいいかな、一番人気とハーレイのお勧めのお寿司だったら。
「なんでそういう話になるんだ」
「お土産」
買って来てくれるつもりなんでしょ、ここのお寿司を。
だから割り箸を持って来て見せてくれたんでしょ?
どれがいいんだ、って。お土産に買うなら何のお寿司が欲しいんだ、って。
「土産話だ!」
誰も土産だとは言っていないぞ、一言も。
土産と土産話とは違う。俺が持って来たのは土産話で、土産とはまるで関係ないぞ。
欲張りめが…、と苦笑しながら、ハーレイは割り箸を指でつついた。
「お前、何とも思わないか?」
「何が?」
「割り箸だが」
こいつを眺めて何も思わないのか、土産に寿司だという他には?
割り箸ってヤツについてはどうなんだ。寿司じゃなくって、割り箸の方だ。
「んーと…。これって普通の割り箸だよね?」
変わった割り箸には見えないけれども、これがどうかした?
「なら、袋から出してよく見てみろ。手に取ってな」
「袋から…?」
ブルーは割り箸を持ってみたのだけれど。
言われた通りに袋から出して見てみたけれども、ごくごく見慣れた普通の割り箸。店名が刻んであるわけでもなく、袋が無ければ寿司屋のものとは誰にも分からないだろう。
だから…。
「普通だけど…?」
ぼくには普通の割り箸に見えるよ、この割り箸。
それとも何処かが特別なの?
お寿司によく合う木で出来てるとか、そういうこだわりの割り箸なの?
「その手のヤツなら店の名前を入れてるさ。そいつも売りになるからな」
残念ながら何処にでもあるような割り箸なんだが、その割り箸。
前のお前になったつもりで持ったらどうなる?
「えっ?」
「使い方、お前、分かるのか?」
箸はどうやって使うものなのか、そもそも何に使うのか。食事に使うって分かるのか?
「えーっと…」
変な棒だと思っちゃうかも、食べる道具だとは思わないかも…。
「こいつをパキンと割る所からして謎だろうが」
二本入っていりゃ、二本の棒を何かに使うと見当がつくが…。
こんな風にくっついた割り箸が出たら、間にメモでも挟んでおくのかと考えそうだぞ。わざわざ割ろうとは、まず思わん。こういう道具だと思うだけだな。
「そうかも…」
間に挟んでおくための道具。前のぼくでも、そう思いそう。
割り箸なんかは知りもしないし、お箸だって全く見たことがないし…。
土産話って、それなわけ?
今の今まで気付かなかったよ、前のぼくたちはお箸を知らずに暮らしてたなんて。
ハーレイ、凄いね。
お箸なんて今では当たり前なのに、どうやってそれを思い出したの?
前はお箸は無かった、って。前のぼくたちが生きてた頃にはお箸は存在しなかった、って…。
「今朝、オムレツを作ろうとしていて気が付いたんだ」
卵を箸で溶きほぐしてたら、前はこいつじゃなかったな、とな。
それでフォークを持ち出したんだが、フォークはなかなか難儀だったぞ。箸のようには扱えん。今の俺には腹立たしいだけの道具だったな、フォークはな。
「前のハーレイ、フォークだったよ?」
フォークで卵をかき混ぜていたよ、ボウルを抱えて。
ちゃんと上手に混ぜていたけど、フォークじゃ駄目なの、卵を混ぜるの。
「それしか無ければ慣れるもんだし、コツを掴めば楽なんだろうが…」
箸で混ぜるのに慣れちまった俺に「フォークで混ぜろ」と言われてもなあ…。
それにだ、卵を混ぜるだけじゃなくて。
揚げ物をするなら、断然、箸だな。
小さなものから大きなものまで自由自在にヒョイとつまめて、裏返すのにも便利な道具だ。
料理をするにも便利なものだし、食うにも便利だと思わんか?
色々なサイズのナイフやフォークを用意しなくても、箸だけあったらいいんだからな。
「ホントだね」
このお魚は大きいから、って大きなお箸に持ち替えなくても平気だし…。
御飯を食べるのとおかずを食べるのに別のお箸、ってこともないよね。
「そうだろう? 箸ってヤツはだ、和風の料理ってヤツに関しては万能らしいぞ」
和風の料理でなくても、だ。
こいつが無ければラーメンも食えん。ナイフやフォークでラーメンは無理だ。
「無理そうだね…」
お箸、元々はラーメンの国から来たのかな?
日本っていう国の文化は中国の方から来たのも多い、って教わるものね。
「うむ。箸が生まれたのはその辺りだな」
周りの国にも広がっていって、日本もその中の一つだったわけだ。
今の時代は和食と一緒にあちこちの地域に普及してるが、どうして消えてしまってたんだか…。
「SD体制が消してしまったんでしょ?」
マザー・システムが統治しやすいように。
いろんな文化を纏め上げるのは厄介だから、って一つに統一しちゃった時に。
「それは分かるんだが、箸ってヤツはだ…」
調理器具としても優れものだが。
箸があるだけで調理が楽になる料理も多いと思うんだがなあ…。
「お料理するのに便利だから、って道具としてだけ残しておくのは難しそうだよ」
何かのはずみに「ホントは食事に使った道具だ」って気付かれちゃったら困るんじゃない?
お箸で食べようと思い付かれたら記憶処理だよ、面倒だよ?
「まあ、そうだろうな」
SD体制の時代に箸で食べてたら、そいつは異端だ。
それを切っ掛けに何に気付くか分からないしな、そうなっちまう前に記憶消去が必要か…。
たかが調理器具のせいで手間が増えるより、最初から無いのが一番だな、箸。
機械が人間を統治していた、SD体制が敷かれていた頃。
多様な文化は認められなくて、たった一つしか文化は無かった。何処の星へ行っても同じ生活、同じ文化に食文化。
人類の世界から弾き出されたミュウであっても、元がそういう世界で育った人間だから。
あえて別の文化を築き上げようとは思わなかったし、技術が別になっただけ。
シャングリラに独自の改造を加え、サイオンを大いに生かしたけれども、それが限界。
人類とは違う生き方をしよう、と誰も思いはしなかった。
目指した生活は「人並みの生活」、すなわち人類と同レベルのもの。
そうやって完成させた楽園、シャングリラは言わば箱庭だった。人類が暮らす世界の縮小版。
ゆえに人類と同じ文化で、食文化も同じ。
箸などは無くて、それを作ろうと考えた者さえいなかったから…。
「前の俺は箸を扱えていたと思うか?」
「調理器具のお箸?」
卵を溶くとか、揚げ物だとか。そういうのに使う、道具のお箸?
「いや、食べる方だ」
今の俺だと、目玉焼きなんかも箸で食おうと思えば食えるが…。
スクランブルエッグなら楽々なんだが、前の俺にも出来たと思うか、そういう食べ方?
「無理じゃない?」
落っことしちゃうとか、つまめないとか。困りそうだよ、卵料理じゃなくっても。
一口サイズに切ったお肉でも、お箸で食べろって言われちゃったら突き刺しそうだよ。
「やはりそうか?」
グサリと刺すしかないと思うか、肉の場合は。
「うん。前のぼくだって無理そうだもの」
はい、ってお箸を渡されたとしても、持ち方からして変だと思うよ。
二本纏めてギュッと握って、それでグサッと刺していくだけ。刺せない食べ物はサイオンだよ。刺してます、って見せかけておいて、サイオンで支えて口に運ぶしかなさそうな感じ。
今のぼくだとそっちの方が無理なんだけど…。
サイオンで支えるなんて芸当、出来っこないから、絶対に無理。その分、お箸は使えるけどね。前のぼくには想像もつかない持ち方のお箸、いつも使っているんだもの。
ぼくも時代も変わっちゃった、とブルーはペロリと舌を出した。
前の自分は箸が使えず、今の自分は箸は使えてもサイオンの方がサッパリ駄目だと。
「でも…。前のぼくには使えなくっても、便利なのにね、お箸」
ぼくはお料理しないけれども、お料理にもとっても便利なんでしょ?
「うむ。それに、食う方にしても箸は偉大な道具だぞ?」
箸が無くても、そういうサイズの棒が二本あったら食えるしな。
それこそ木の枝を適当に切って、箸の代わりに使えるわけだ。箸なんか持ってなくてもな。
「ホントだ…!」
木の枝だなんて、ハーレイ、やったの?
お箸の代わりに木の枝を使って食べたの、ハーレイ?
「ガキの頃に親父と釣りに行ってな。弁当は忘れずに持ってたんだが、箸を忘れた」
おふくろが忘れたって言うんじゃなくって、俺が自分で包み忘れただけなんだがな。
これじゃ食えない、と青ざめていたら、親父がその辺の木の枝を切って箸を作ってくれた。
「そっか…!」
「木さえ選べば便利なもんだぞ、木の枝の箸」
「選ぶの?」
使いやすいような枝を選ぶとか、そういう意味?
「そうじゃなくって、毒の有無だな。下手に触ったらかぶれちまう木とかがあるからな」
毒のある木を箸に使ったら大変じゃないか。
SD体制の頃なら毒のある動植物を排除してたし、その手の心配は無かったらしいが。
「その代わり、お箸が無かったよ?」
お箸になる木は選び放題でも、お箸を知らなきゃ使えないよ。
木の枝のお箸、SD体制の時代には作り方さえ誰も知らないから使わないよ…。
もしもお箸があったなら…、とブルーが首を傾げて尋ねた。
「ゼルたち、上手く使えたかな?」
シャングリラでこれを使ってみよう、って誰かがお箸を思い付いたら。
ゼルやブラウは使えたのかな、握ってグサリと刺したりせずに。
「そいつは無理だろ。ゼルは手先は器用だったが、いきなり箸を渡されてもなあ…」
ナイフやフォークで慣れているんだ、どうしても握っちまうだろう。
ブラウの方だと迷うことなく握ってグサリだ、豪快な性格だっただけにな。
「やっぱり…? エラだったら少しはマシだったかな?」
「エラの場合は手本にならねばと完璧を目指していたと思うぞ、箸の使い方」
シャングリラに箸を持ち込むとしたら、ヒルマンかエラか、どちらかだ。
案外、ヒルマンたちは知ってたかもなあ、箸という道具。
「知らなかったんじゃないの?」
見たことがないよ、シャングリラでお箸。
ヒルマンやエラが知っていたなら、試してみそうな気がするんだけど…。
「分からんぞ。データベースの資料に「使いづらい」と書いてあったら、わざわざ作るか?」
作り上げても使うのに苦労するような代物、誰も喜びはしないだろうが。
調理器具としては便利なんだと気付くなんてことも無いだろうしな、箸が使えないと調理器具の本領は発揮されないままなわけだし。
「そうだね、食べるのに使うだけなら面倒かも…」
便利なナイフやフォークがあるのに、お箸だなんて。困っちゃうよね、使うことになったら。
「実際、難しいらしいしな? 慣れていないと」
俺たちみたいに生まれた時から周りにあった、って地域以外じゃ苦労するらしい。
寿司なんかを食べに店に入って、箸が出て来ても上手く使えなくて。
頑張った挙句に「ナイフとフォークを出して下さい」って頼むケースもあるそうだしな。
「それは分かるよ」
前のぼくでも、サイオン抜きなら似たようなことになったと思うよ。
お箸じゃとても食べられないから、ナイフとフォークを出して欲しい、って。
それで…、とブルーはテーブルの割り箸を指差した。
「ハーレイ、このお箸、ぼくにくれるの?」
お土産はお箸の話らしいけど、この割り箸は貰ってもいいの?
「寿司屋で貰った割り箸だぞ?」
持ち帰り用のただの割り箸で、寿司屋の名前の袋が無ければ何処の店のかも謎なんだが?
「でも、ハーレイが持って来てくれた割り箸だよ?」
ハーレイが貰った割り箸なんだし、ハーレイのものだと思うんだ。だから、ちょうだい。
「そんなものでも欲しいのか、お前?」
「欲しいよ、これはハーレイの割り箸なんだから」
くれるんだったら記念に欲しいな、ハーレイとお箸の話をしていた記念に。
ちゃんと引き出しに仕舞っておくから、要らないんだったら、ぼくにちょうだい。
お寿司を買ったら貰えるんでしょ、この割り箸。
これからも幾つも貰うんだろうし、今日の記念に欲しいんだけど…。
ちょうだい、と瞳を輝かせている小さな恋人。
割り箸が欲しいと、持ち帰り寿司に付いて来た割り箸が欲しいと強請る恋人。
貰えるものだと思っているらしいが、ハーレイはやおら腕組みをして。
「駄目だな、こいつは高級品の割り箸だからな」
お前にはやれん。持って帰るさ。
「なんで?」
ハーレイ、普通の割り箸なんだって言ったじゃない!
特別な木で出来てるわけでもないって言っていたくせに、なんで高級品?
「地球の木材で出来てるからな」
俺たちにとっては高級品でも何でもないが、だ。
他の星に住んでるヤツらからすれば、地球の木材で出来た家具とかは特別扱いの高級品だぞ。
「それは家具とかになる木材でしょ!」
割り箸になる木は違うじゃない!
なんて言ったっけ、間伐材?
家具とかに使う木を育てる間に間引いていく木で作ると聞いたよ、だから安い、って!
「間伐材には違いないが、だ。それでも地球で育った木だぞ?」
そいつで作った割り箸なんだ。前のお前には高級どころか貴重品だぞ、この割り箸。
何処かで見たならフィシスみたいに攫ったんじゃないのか、割り箸でも?
「…そうかも…」
地球の木で作った割り箸なんだ、って分かったら欲しくて盗んでいたかも…。
何に使う道具か分からなくっても、地球の木で出来ているんだったら。
「ほら見ろ、高級品だったろうが」
前のお前が無理をしてでも盗みそうなものなら高級品だな、間違いない。
だからやらん、と言われてブルーは膨れたけれど。
「ケチ!」と叫んで膨れたけれども、割り箸ごときを大切にしたい恋人だからこそ、渡せない。
持ち帰り寿司に付いてくるような割り箸を欲しいと強請った小さな恋人。
記念に欲しがる、小さなブルー。
前の生から愛し続けた恋人のために、ブルーのために贈るものなら、もっといいものを。
そう思ったから、こう約束した。
「膨れなくっても、いつか買ってやるさ。割り箸なんかより素敵な箸をな」
ちゃんとした箸を買おうじゃないか。専門店でな。
「ホント?」
「本当だとも。ただし、結婚したらな」
それまで待ってろ、あと数年の辛抱だろうが。
「酷い…!」
待たせるんなら、高級品の割り箸、ちょうだい。意地悪しないで、それをちょうだい。
「酷くないだろ、俺と揃いの箸にしようと言っているんだ」
夫婦箸っていう箸があるんだぞ。夫婦で持つよう、二つセットの箸なんだ。
「そんなのがあるの?」
「ああ。大きめの箸と、それより少し小さい箸とのセットだな」
色が違ったり、模様が少し変えてあったり、サイズが違うだけだったり。
そりゃあ色々な夫婦箸があるさ、そういう箸を二人で買おうと言ってるんだが…。
夫婦箸よりも割り箸がいいか?
それなら止めんし、この割り箸をプレゼントさせて貰ってもいいが。
「ううん、割り箸、返しておくよ」
もう欲しいって強請らないから、そっちのお箸。
二つセットのお箸を買ってよ、ハーレイとお揃いのお箸がいいよ。
結婚したら二人で買いに行こうよ、ハーレイにもぼくにも似合いそうなお箸。
約束だよ、とブルーは割り箸を素直に諦めてくれたから。
欲しいと強請るのをやめて返してくれたから。
(夫婦箸なあ…)
いつか二人で持つのだったら、どんな箸がいいか、とハーレイは笑みを浮かべて考える。
前の生では存在さえも知らずに終わった箸というもの。
今は馴染みの、当たり前になった食事の道具。
それを二人で使えるのだから、こだわりの箸を選びたい。
素材も、細工も、もちろん色も。
この愛らしい恋人と揃いにするなら、どういう箸を二人で選びに出掛けようかと…。
お箸・了
※シャングリラの時代には、無かった箸。今では当たり前に使っているものなのに。
そして「夫婦箸」が欲しくなってしまったブルー。いつかはハーレイと買いに行けますね。
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