シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(新聞か…)
シャングリラには無かったな、とハーレイはまだ暗い庭を眺めた。
生垣の向こうをライトが横切り、新聞配達のバイクが次の配達先へと走り去る音。
こんな休日の朝であっても。
夏ならば明るい時間だけれども、夜の続きの星が瞬く早朝の闇の中でも新聞を配るバイクの音。
今の自分には当たり前のことで、隣町の両親の家に居た頃にも新聞は毎日届いていた。雨の日も雪の日も届く新聞。そういうものだと思い込んでいたが…。
(新聞が届かない人生だったぞ、前の俺はな)
玄関を開けて庭を横切り、ポストから新聞を引っ張り出した。
持って入るとコーヒーを淹れて、新聞を手に取ってみる。朝食にするには早すぎる時間。こんな時には先に新聞、それから朝食の支度というのが習慣だった。
(新聞なあ…)
今でこそ馴染みのものだけれども、前の生では縁が無かった。
アルタミラでミュウと判断される前なら養父母の家で見ていただろう。父が新聞を広げる姿や、母が気になる記事を切り抜く所などを。きっと自分も印を付けたり、色々と。
(子供向けのイベントの情報なんかも多めに載っていたんだろうしな)
アルタミラは惨劇の舞台として歴史に残るけれども、本来はガニメデの育英都市。多くの子供が養父母と暮らし、巣立ってゆくための星だった。
育英都市の主役はあくまで子供。
子育てを終えて引退した夫婦や、子供たちを育てる社会に欠かせない役割を負う者の他は、皆が子育て中の星。ゆえに子供が社会の中心、イベントは大抵、子供がメイン。
(アルテメシアもそうだったからな)
シャングリラに新聞は来なかったけれど、情報は傍受していたから。
人類の新聞がどのようなものかは把握していたから、子供向けの記事も多いと分かる。
(前の俺も子供時代にはきっと…)
そういった記事を養父母に見せては、行きたい場所などを伝えただろう。連れて行って貰って、感動したり、喜んだりもしたのだろうが…。
(消えちまったなあ、記憶ごとな)
成人検査に脱落した後、養父母の記憶は失くしてしまった。子供時代の記憶も消えた。
閉じ込められた檻に新聞は届かず、何の情報も得られなくなった。
外の世界がどうなっているか、自分はどうなってしまうのかすらも。
(研究者どもは新聞も読んでいたんだろうなあ…)
アルタミラがメギドに破壊されるまでは、あの星でも人類が暮らしていた。育英都市を閉鎖する決断が下されるまでは、養父母と暮らす子供たちも居た。
彼らの家には新聞が届いていただろう。
グランド・マザーがアルタミラの殲滅を決定した時も、幾重にも真実を覆い隠した記事が新聞の紙面に大きく刷られて、彼らは納得したのだろう。この星を出ねば、と。
(俺たちにとっては不意打ちだったが、人類は準備してただろうしな?)
子育て中の養父母たちに偽りの情報を告げて、充分な引越し期間を与えて別の星へと。
何の疑いも抱かずに彼らが旅立った後は、グランド・マザーからの命令が出るまで待機状態。
(新聞はいつまであったんだかなあ…)
アルタミラが滅びたその日の朝まで、実は配られていたのだろうか?
寄港中の船もあっただろうから、一般人たちが真実に気付かないように。
あくまで急な決定なのだと、本日付でこの星は滅ぶと、それだけが書かれた新聞が。
(シャングリラの中には、そういう新聞は無かったんだが…)
脱出するのに使った船。まだシャングリラではなかった船。
乗員たちは慌ただしく他の船に移ったらしい、という痕跡はあちこちにあったけれども、それを引き起こした原因は全く見付からなかった。通信も残っていなかった。
(やはり新聞だったのか?)
宙港で急を告げる新聞が配られ、それを握ったまま慌てて船を捨てて行ったか。
足の速い他の船に移れと、直ちにアルタミラから離れるようにと書かれただけの新聞記事。
(そうだったのかもしれないなあ…)
船の中に乗員たちへの脱出命令は何も無かったのだし、そうかもしれない。
もっとも、受けた通信を消去してから脱出したという可能性もゼロではないのだが…。
(前の俺たちには新聞なんかは無かったんだ)
新聞が毎日届いていた筈の、子供時代の記憶は失くした。
研究所の檻に新聞は届きはしなかった。
アルタミラから脱出した後も、定期的に届く刊行物など、何処からも送られては来ない。新聞が届く筈もない。人類の世界から弾き出されたミュウが住む船に新聞は来ない。
もちろん毎日のニュースでさえも。
(ニュースは盗むものだったしな…)
人類の通信を傍受して得た、様々なニュース。
最新版とは限らなかった。通信を交わしている船に左右され、その内容も偏りがちで。
知りたい情報が常にあるとは言えなかった時代。作物の出来や輸送状況、それがニュースになる船などもあった。あるいは客船の予約状況だったり。
アルテメシアに辿り着くまでは、雲海の中に居を定めるまでは、そういう状態。
雲海の星に腰を据えても…。
(ニュースは最新になったんだがなあ…)
いくらでも傍受出来た、アルテメシアの空を飛び交う人類のニュース。
家庭に配られる新聞のための情報も飛び込んで来たのだけれど。
(新聞は刷らなかったんだ…)
人類の世界の出来事などは知りたくもない、という者も多かったから。
アルタミラからの仲間だけでなく、アルテメシアで新しく救出された仲間でさえも。
人類といえば忌まわしいもので、思い出したくもないと思う者たち。
(ニュース映像を傍受したって…)
見ていた者はごく一部だけ。
そう簡単には動揺しない、精神の強い者たちだけ。
(俺やブルーは仕事だったが…)
ソルジャーとして、キャプテンとして、知っておかねばならない情報。
人類の世界が今はどうなのか、どんな方向へ向かってゆくのか。
それを知らねば自分たちの進路も決められないから、ニュースにも目を通していた。
アルテメシアに辿り着く前から。
暗い宇宙を、居場所を求めてあちこち旅をしていた頃から。
(もっとも、情報統制されていたがな)
ニュースといえども、巧みに操作がされていた時代。
支配する機械に、マザー・システムにとって都合がいいように。
裏にある真実を見抜けないように。
そのシステムから弾き出されたミュウだからこそ、見抜けた真実も沢山あった。
(俺たちのことはMだったか…)
アルタミラを脱出した頃から変わらない隠語。
Mの代わりにミュウと呼ばれたなら、明らかな敵意を向けられた証拠。
ミュウという言葉を一般人は知らなかったから。
それを使っているということは、人類が本気でミュウに対する対策を練っている証。
そんなニュースしか見ていなかった時代に比べたら…。
(平和なもんだな)
今、手にしている新聞の中身も。
当たり前のように毎日届くという現実も。
今日だって朝も暗い内から、配達のバイクが走って行った。空にまだ星が瞬く時間に。
(ご苦労様です、と言いたくなるよな)
昔ながらの配達システム。
バイクを走らせて家のポストに配ってゆく。一軒、一軒、配って回る。
朝一番に間に合うようにと。
仕事に、学校に出掛けてゆく前に読めるようにと、その家の人々が目覚める前に。
(朝だけじゃなくて、夕刊もあるし…)
夕刊の方は、帰って来たら届いているのだけれど。
ポストから取り出し、持って入るのが常なのだけれど。
(配達の人に礼を言いたくなってくるなあ…)
早起きして顔を合わせた時には、挨拶を交わして礼を言いながら受け取る新聞。
手渡しで貰ってくる新聞。
その新聞が家に届くことがどれほど平和で嬉しいことなのか、其処に気付いてしまったら。
(どうぞ、と毎朝、菓子をポストに置きたいくらいだ)
お持ち下さいと、配達の途中か終わった後にでも食べて下さいと。
今度、早く起きた日に新聞の嬉しさを思い出したら。
毎朝届くその素晴らしさに、思いを馳せる日があったなら。
熱いコーヒーでも御馳走しようか、配達の人に。
来る時間はほぼ決まっているから、それに合わせてコーヒーを淹れて。
(新聞配達っていうシステムがシャングリラの中にもあったらなあ…)
仲間たちがニュースに向ける視線も変わっただろうか。
毎日、新聞を刷って、配って。
仲間たちの手元に選び抜いたニュースを届けていたら。
アルテメシアで配られる新聞を真似て、ニュースの他にもあれこれと載せて。
(選んだニュースしか載せないとなると、情報統制のようではあるが…)
それでも全く触れないよりかはマシだったろう。
今の人類の世の中はこうだと、こういうニュースがあるようだと。
人類が大多数を占めていた以上、目を逸らしていても弱くなるだけ。彼らを知らねば、と情報を得てこそ強くなれるし、現実に立ち向かう勇気も生まれる。
ニュースだけでは気が滅入る、という者が多いに決まっているから、様々な記事。
シャングリラで起こった愉快な事件や、厨房のメニューのお知らせなど。
書き手を募って連載小説も出来ただろう。
そうした新聞を作っていたなら、娯楽にもなっていたかもしれない。
配達はまだか、と心待ちにする者が少しずつ増えて、外の世界にも関心を持ち始めて。
人類のニュースを多く載せても読めるようになっていたかもしれない。
今はこうだと、今の世の中はこうなのだ、と。
(はてさて、ブルーはどう思うんだか…)
シャングリラで新聞を印刷するなら、まずは会議をする所から。
ゼルやヒルマンたちを集めて、議題を出して。
案が纏まればソルジャーだったブルーが承認を下すわけだが、新聞に賛成してくれたろうか?
小さなブルーに訊いてみよう、と新聞の二文字を頭に叩き込んだ。
新聞を作ってみれば良かったと、作っていれば良かったのに、と。
アイデアの元になった新聞を読んで、朝食を作って美味しく食べて。
時計を見てからブルーの家へと出発した。天気がいいから、もちろん歩いて。
目指す家に着けば、門扉の脇に郵便ポスト。
普段は気に留めていなかったけれど、其処に新聞が届くのだ。
取りに来るのはブルーの母か、それとも父か。
早起きをした日はブルーが取りに出るかもしれない。
「取ってくるよ」と庭を横切り、ポストから新聞を持ってゆく。目を引く記事が載っていたなら読みながら歩いて、両親が待っているダイニングまで。
平和な朝の一コマを思い浮かべながら、ブルーの部屋に案内されて。
お茶とお菓子が載ったテーブルを挟んで向かい合って座り、小さな恋人に微笑み掛けた。
「なあ、ブルー。…新聞が届く生活っていうのはいいもんだな」
「新聞?」
怪訝そうなブルーが外に目を遣る。
新聞というのはポストに届くあの新聞かと、毎日配達される新聞のことなのかと。
「そうだ、幸せだと思わないか?」
毎日、色々なニュースが届く。配達の人が届けてくれる。
そいつを毎日、ゆっくり読むことが出来るんだぞ?
飲み物を片手に読んだっていいし、読むスタイルも好き好きだ。実に贅沢だと思わんか?
最新のニュースが毎日ポストに届くんだからな。好きなだけお読み下さい、と。
「言われてみれば…」
前のぼくたち、新聞は取っていなかったね。
ニュースは人類のを傍受するもので、興味のある人だけが見てたんだよね…。
「その新聞。シャングリラで作れば良かったかもな、と思ってな」
俺たちで載せるニュースを選んで、色々な記事と組み合わせて。
それをみんなに配っていたなら、船の外にも関心を持って貰えたかもな、と思うんだ。
人類のことなど知りたくもない、と逃げていないで、相手のことも知る方向で。
「あの時代も新聞、あったんだよね…」
シャングリラで傍受していた通信の中に、新聞に載せる中身もあったんだっけ。
それを丸ごと印刷したなら、人類が読むのと同じ新聞が出来上がるヤツ。
情報はちゃんと入ってたんだし、新聞、作れば良かったかもね。
ハーレイが言うように、どういう記事を載せればいいかは、きちんと選んで。
真似をしてみれば良かったね、とブルーは微笑んだ。
人類を真似て新聞を作れば良かったと。
ニュースや様々な記事を織り込んで、シャングリラで配れば良かったと。
「毎日、みんなの部屋に届けて、食堂や休憩室にも置いて…。そうだ、人類にも!」
「人類だと?」
なんだ、それは? 人類に新聞を届けるのか?
「うん。ミュウからの定期刊行物だよ、毎朝ぼくが届けに行くんだ」
新聞です、って放り込むんだよ、大勢の人が読んでくれそうな所を狙って。
ユニバーサルが回収する前に読まれてしまいそうな場所に、ミュウが作った新聞を。
「読んで貰うって…。何を書く気だ、その新聞に?」
「ミュウの日常。こういう暮らしをしています、って」
新しい仲間を迎えましたとか、そんな記事もいいね。こういう子です、って紹介記事とか。
「おい、シャングリラの存在がバレるぞ、どんな船なのか」
「肝心の部分はぼかすんだよ。それで大丈夫だったと思うけど?」
ぼくの存在はバレてたんだし、アルテメシアの何処かに隠れ場所があることは確実だしね。
それでもシャングリラは発見されずにいたんだよ?
新聞を作って配っていたって、何処から配りにやって来るかも掴めないってば。
「ユニバーサルとテラズ・ナンバーを刺激するだけだと思うがな?」
また来やがったと迎撃するとか、お前が狙われるだけで何の効果も無いと思うが。
「分からないよ?」
機械にも限度があるんだから、とブルーは笑った。
いくら記憶を処理したとしても、不特定多数が毎日のように目にしてしまうミュウの新聞。
しつこく毎日やっていたなら、人類の方でも覚えてしまうと。
今日もそういう時間ではないかと、自分たちのとは違う新聞が放り込まれる頃ではないかと。
「ミュウからの新聞が届くってか?」
ユニバーサルが血相を変えて回収に来るような新聞が。
存在自体が極秘にされてるミュウが刷ってる新聞なんぞを、人類が毎日読むわけか?
「そう。ミュウっていうのは何だろう、って不思議に思うよ、そして記憶に残るんだ」
記憶をせっせと消しても消しても、新聞は毎日届くんだから。
ミュウって呼ばれる別の種族がいるらしい、って微かに記憶に残るよ、きっと。
そのミュウからの新聞なんだよ、お勧めのレシピなんかも載せて。
「おい、レシピって…。平和すぎないか、その新聞は?」
前のお前の主義主張だとか、そんなのを載せるんじゃなくってレシピか?
「そういう所から始めるんだよ、ミュウに関心を持ってもらうために」
ミュウという存在が意識の上に定着したなら、一歩前進。
レシピなんかを載せた新聞を配ってるんだし、敵じゃない、って思って貰えそうだよ。
ユニバーサルがいくら敵だと言っても、ホントは違うんじゃないかって。
平和な新聞を刷ってるんだし、人類の敵ではなさそうだ、って。
「なるほどなあ…。確かに王道というヤツではある」
流石だな、お前。
ただのチビかと思っちゃいたがだ、やっぱりソルジャー・ブルーだな。
お前が配ると言ってる新聞、やり方としては王道なんだ。
「そうなの?」
「うむ。SD体制の頃にやっていたかどうかは分からんが…」
敵対している相手が勢力を持ってる地域に宣伝用のビラや新聞を撒くって方法があった。
今の支配者は間違ってるとか、自分たちが来たらこういう世の中に変わりますよ、という宣伝。自分たちの地域じゃ生活はこうだと、見本に新聞を撒いたりな。
信じて貰えれば万々歳だし、一般市民を攻撃するより平和な戦法というヤツだ。
「そんな方法、何処で聞いたの?」
まさか古典の範囲じゃないよね、戦争の話みたいだもんね?
「古典ではないな。前の俺だな、ライブラリーで読んでた本の中にあった」
「ハーレイ、言わなかったじゃない!」
そういう方法があるんだってこと!
もしも前のぼくが知っていたなら、絶対、検討してみてたのに!
「あの状況で誰が思い付くか!」
使えそうだなとも思わなかったな、変わった戦法があるものだ、と読んでいただけだ。
いいか、前の俺たちはシャングリラごと雲海の中なんだ。
ミュウの存在すらも知られていない星に居たんだってことを忘れるなよ?
前の俺たちは隠れてたんだぞ、とブルーを諭す。
そんな状況ではミュウの宣伝など出来はしないし、とても無理だと。
けれど、ブルーは残念そうで。
「思い付いていたら、新聞、配りに行ったのに…」
ミュウに気付いて貰うために。敵じゃないんだ、って知って貰うために。
ユニバーサルとかテラズ・ナンバーとの持久戦になるけど、それで人類に知って貰えるのなら。
気長に続けて、ミュウを覚えて貰えるのなら…。
「危険でもか?」
お前が毎日来るとなったら、奴らは間違いなく攻撃を仕掛けてくると思うが。
負けるようなお前じゃないとは思うが、それでも敵地に飛び込むことには違いないしな。
「平気だってば、ソルジャーだしね?」
やられちゃうほど弱くはないよ。逃げ足にだって自信はあるもの、今のぼくとは全く違って。
それに、とブルーは笑みを浮かべる。
いざとなったら瞬間移動で配達できたと、シャングリラから出ずに配れたと。
「ぼくは新聞が印刷できるのを待って、瞬間移動で船の外へと放り出すだけ。行き先を決めて」
人類が集まるターミナルとか、広場だとか。
何処へだって簡単に届けられるよ、前のぼくなら。
瞬間移動で届けてもいいし、空から撒いて逃げてもいいよね、シャングリラ新聞。
「シャングリラ新聞なあ…。そういう名前をつけるからには、俺たちが読むのと共通なのか?」
人類に配ったのと同じ新聞をシャングリラの中でも配るのか?
「それもいいかもね、わざわざ別のを作るよりも」
ホントにホントのミュウの日常、等身大のシャングリラ。
平和に暮らしているんです、って宣伝するなら、同じ新聞が効果的かもね?
「うむ。作ってみていたら良かったかもなあ…」
シャングリラの日々を綴った新聞、まずはシャングリラで評判を見て。
いいようだったら部数を増やして、人類の世界に配りに行って。
ミュウとは何かを知って貰えたなら、アルテメシアからは追われなかったかもしれないなあ…。
前の俺たちの地球への侵攻、アルテメシアから始めたわけだが。
ナスカから舞い戻って始めなくても、アルテメシアから出発できたのかもなあ、ミュウの存在があの星で知られていたならば。
敵じゃないんだと、ミュウもヒトだと、アルテメシアでは認めてくれたのかもなあ…。
もしもシャングリラで新聞を作って、配っていたなら。
それを自分たちだけで読むのではなくて、人類にも配達していたのなら。
ミュウと人類との間の距離は、少しは変わっていたのだろうか?
アルテメシアから追われる代わりに、其処から地球へと旅立てたろうか?
ミュウもヒトだと認めてくれた人類たちに見送られる中、白い鯨は飛び立てたろうか。
隠れ住んでいた雲海から出て、白い船体を煌めかせて。
遥かな地球へと、別の一歩を刻んで飛び立てていたのだろうか…。
「ねえ、ハーレイ。どうだったんだろうね、もしも新聞を配っていたなら」
アルテメシアで人類に新聞を届けていたなら、ぼくたちの道は変わったと思う?
ナスカまでの道を全部すっ飛ばして、地球に向かっていたんだと思う?
「さあな…。そいつはなんとも分からないが…」
それにナスカに寄っていなけりゃ、トォニィたちが生まれていたのかどうか。
トォニィたちがいない状態では、戦ったとしても勝てた自信が無いからな…。
ただ、出発からして別となるとだ、戦いも変わっていたかもしれん。
アルテメシアで何があったか、ミュウとは何かを人類は知ることになるわけなんだし…。
案外、あっさり話し合いのテーブルに着けたってことも有り得るな。
「そうでしょ? 地球がどうなったのかは分からないけれど…」
あんな風に派手に壊れなければ、今の青い地球に戻らないから、其処が問題なんだけど…。
無駄な血を流さずに済んだんだったら、新聞、作っておきたかったな。
せっせと配って、ミュウと人類とは違わないよ、って頑張って宣伝したんだけどな…。
ミュウの日常にお勧めレシピ、とブルーが夢の新聞記事を挙げるけれども。
新聞が実現していたのならば、全ては変わったかもしれないけれど。
ハーレイはフウと溜息をついて、小さなブルーの瞳を見詰めた。
「お前の新聞、悪くないとは思うんだがな…。使えただろうとも思うんだが…」
それを本当に実行していれば、アルテメシアから地球に旅立てて、ナスカなんぞには行かなくて済んで。そうやって旅がまるで変わって、前のお前が死なずに済んでいたのなら。
メギドなんかは出ても来ないで戦いが終わっていたのなら…。
俺は自分の馬鹿さ加減を呪うより他に無いってな。
どうして新聞を思い付かなかったと、知っていたくせに使わなかった、と。
それを後悔するしかないなあ、後悔先に立たずとは言うが。
「じゃあ、無し」
新聞を作って配る話は要らないよ。そんなアイデアだって要らない。
「なんだと?」
お前、配りたかったと言わなかったか?
そういう新聞を作りたかったと、人類に配っておきたかったと。
「言ったけど…。素敵な考えだと思ったけれども、もう過ぎちゃったことだしね?」
作らなかったことをハーレイが後悔するんだったら、新聞は無し。
シャングリラ新聞なんかは無しだよ、実際、作らなかったんだから。
新聞は一度も作らなかったし、誰も読んではいないんだものね、ただの一人も。
だから要らない。
シャングリラの新聞、作らなくてもいいんだよ。
ぼくたちが読むための新聞は今ので充分。
毎日、家のポストに配達されてくる新聞があればそれで幸せ。
新聞は今の平和な世界のがあればいいんだよ、と小さなブルーは歌うように言った。
シャングリラでの新聞は要らなかったと、作る必要も無かったと。
ハーレイが後悔するようなものなら無くていいのだと、夢見る必要も無いものなのだと。
「今は今だよ、無かったものは仕方ないもの」
シャングリラに新聞は無かったんだし、無いものは配れないものね。
夢のお話だよ、ただの夢だよ。
「だが…。あの時、俺が思い付いていたなら…」
「それも無し」
ホントに新聞は今ので充分、毎日届くって幸せだけで充分なんだよ。
今の新聞、ぼくも大好き。
毎日、色々なことが読めるのも楽しくて好きだし、毎日ポストに届くのも好き。
「そうなのか?」
お前が新聞配達を楽しみにしてるというのは初耳だが…?
「えっとね…。怖い夢を見て暗い間に目が覚めた時に、新聞配達、頼もしいんだよ」
メギドの夢で飛び起きた時に、怖くて震えてたらバイクの音が聞こえて来るんだ。
そしたら怖い気持ちが消えるよ、此処は地球だ、って直ぐに分かるから。
新聞配達の人がバイクで走ってる地球で、今日もポストに地球のニュースが届いたよ、って。
「なるほどなあ…」
そいつは確かに頼もしいかもな、前の俺たちには新聞は届きやしないしな。
新聞も無けりゃ、バイクで届くってこともない。
うん、新聞が届くってだけで充分なんだな、青い地球の上で、毎日、毎日。
「そうだよ、いつもニュースを運んでくれるし、それで充分」
前のぼくたちの時代みたいに機械がニュースをコントロールもしてないし…。
今の新聞、読み物としても楽しい記事とかで一杯だものね。
青い地球の上、新聞配達のバイクが配って回る新聞。
今の時代の新聞だからこそ、幸せな気持ちで届くのを待って読むことが出来る。
情報統制をするまでもなくて、平和なニュースしか無い新聞。
人間が全てミュウになった時代の優しい新聞。
たまに悲しい事故などのニュースも載るのだけれど。
そういった時に皆で祈りを捧げられることもまた、平和な時代の証だから…。
いつかはきっと、ブルーとハーレイが共に暮らす家に新聞が届く日が来るだろう。
夏ならば空が明けて来た頃に、夜明けが遅い季節は空に幾つも星がある内に。
表のポストに新聞が届いて、バイクが走り去ってゆく。
朝一番に届いた新聞を取りに出るのはハーレイか、それともブルーの役目か。
二人とも、新聞が届く頃にはまだ夢の中。
幸せな一日の始まりの前の、穏やかな眠りに捕まったままで…。
新聞・了
※今は当たり前のように届く、新聞というもの。それが届かなかった船がシャングリラ。
船で作って人類に配りに行っていたなら、歴史は変わっていたのかも。ミュウも人なのだと。
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