シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(あれっ…?)
ブルーは勉強机の前で首を傾げた。
学校から帰って、いつものように外した腕時計。その瞬間に、感じた違和感。
(なんで?)
部屋に入ったら、まずは一番に鞄を置いて。
次に腕時計を外して机から近い棚の上に置く。制服を脱ぐのは腕の時計を外してから。
そういうコースになっているのだし、自然と身体が動いてゆく。誰に決められた順番でもなく、自分の中で生まれたルール。鞄で、時計で、それから制服。
逆に学校へ出掛ける時には制服を着てから腕時計を付け、鞄を手にして部屋を出る順。
すっかり馴染んだ順番通りに今日も鞄を置いたのに。左腕の時計を外したというのに、どうして何かが違うという気がしたのだろう?
(腕時計のせいかな?)
制服を脱いで着替えながら少し考えてみた。
今でこそ見慣れた腕時計だけれども、前の学校では付けていなかった。
幼稚園の後に入った学校。今の学校に入る年になるまで過ごした学校。幼い子供も多いから、と腕時計は規則で着用禁止。バス通学をするほど遠い距離を通う子供もいないし、時計は要らない。
ブルー自身も前の学校へは歩いて通った。バスには乗っていなかった。
だから腕時計は要りもしなくて、学校の時計があれば充分。登下校の時も、友人たちとの遊びに夢中で時を忘れてはしゃいでいれば、通学路沿いに住む誰かが声を掛けてくれた。
「遅刻しそうだから急ぎなさい」とか、「早く帰らないとお家の人が心配するよ」だとか。
彼らの忠告に従っていれば、時計が無くても大丈夫。遅刻しないし、帰宅が遅すぎて心配されることも無かった。腕時計が欲しいとも思わなかったし、必要だと思いもしなかった。
けれども、春に入った上の学校。十四歳になった子供が通う学校。
其処では腕時計が欠かせないから、今の学校から付け始めた。
バス通学をする子は少なかったが、部活などの時間も長くなる上、給食が無くてランチの時間。各自が時間を管理しなくては上手くゆかない学校生活。
そんな事情で、入学の前に買って貰った腕時計。ごくごく平凡な普通の時計。
(前は付けてはいなかったんだし…)
その頃の自分に一瞬戻っていたのだろうか?
(でも、制服も…)
前の学校には無かったもの。それを脱ぐ時、違和感を覚えはしなかった。
(腕時計で先に引っ掛かったから?)
そう考えれば納得出来るが、どうも違うという気もするから。
鍵は時計だ、という気がするから、一度は棚に置いた腕時計を勉強机の上に移した。
こうしておいたら、目に付いて思い出すだろう。
腕時計だと、腕時計を手首から外した時に妙な感じがしたのだと。
ダイニングで母が用意してくれたおやつを食べて、階段を上がって戻って来て。
部屋に入ると勉強机に腕時計。そうだった、と直ぐに思い出した。
(腕時計だけど…)
あの違和感は何だったのか、と首を捻りながら今一度、左の手首に付けて、外して。
もう一度、と付けた途端に気が付いた。
(無かったんだ…!)
遠い遠い昔、白い鯨で暮らしていた頃。ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃。
前の自分は腕時計など付けていなかった。
手首そのものが手袋の下で、左の手首に時計は無かった。
腕時計を付けていなかった時代があまりにも長く、それが普通であったから。
その頃の記憶が告げて来たのだ、あの違和感を。
腕時計を手首から外したことなど一度も無いと。一度もありはしなかったと。
(腕時計…)
何処にでもあるアナログの時計。
デジタル式の腕時計を付けている友人もいたが、ブルーはこれが好きだった。
両親に連れられて出掛けた売り場で「これがいいよ」と選んだけれども、前の自分の好みも同じアナログの時計。それと知らずに惹かれたのか、と時計のガラスをそうっと撫でる。
長針と短針、秒針が時を刻む時計が前の自分のお気に入り。
ハーレイの好みもアナログだったから、どちらが先に持っていたかと問われれば多分、ハーレイだろう。遠い記憶は定かではないが、前のハーレイはレトロなものを好んでいたから。
せっせと磨いていた木の机もだし、羽根ペンもまたレトロ趣味の極み。
正確な時計が必須の宇宙船の中ではアナログの時計は用を成さないが、ハーレイは部屋に置いていた。これが落ち着くと、好きなのだと。
前の自分も青の間にアナログの置時計を置き、時を刻むのを眺めていた。ゆっくりと時が流れてゆくようで、心癒される優しい時計。
けれど…。
(腕時計なんかは持ってなかった…)
手首に付ければ、いつでも何処でも見られた筈のアナログ式の腕時計。今の自分が学校へ付けてゆく時計。
前の自分は付けていなくて、アナログの時計は置時計だけ。
そもそも前の自分ばかりではなく、シャングリラでは誰も腕時計を付けていなかった。
何かとレトロなものを好んだハーレイでさえも。
アナログはおろか、より正確そうに思えるデジタル式の腕時計すらも見当たらなかった。
シャングリラでは時間は重要なもの。
宇宙船の中で生きてゆくには僅かな狂いが命取りになる。正確無比を要求される。
ゆえに時刻を決めて何かをする時は、ブリッジクルーとコンタクトを取った。
何時なのかと、正確な時刻を知らせてくれと。
ブリッジには常に銀河標準時間を刻んでいた時計があったから。
アルテメシアに辿り着いた後は、アルテメシアの時刻を刻む時計も出来た。
前の自分もそれらが知らせる時間を参考に動いたのだし、腕時計の出番は全く無かった。
そんな中でも、レトロな時計を持っている者はいたけれど。
ハーレイや前の自分が好んだように、アナログの時計を持っていた者はいたのだけれど。
制服の時に、手首に時計は付けられない。
部屋でゆったりと寛ぎたい時まで、腕時計を付けて時間に縛られたくはない。
恐らくはそうした理由からだろう、シャングリラの中で腕時計を見たことは一度も無かった。
誰も付けてはいなかった時計。
手首に付けて眺めていられる、小さな小さなアナログの時計。
それが今では…。
(地球の時計だよ)
今の自分の腕時計。いつも学校に付けてゆく時計。
一分かけてクルリと一周してくる秒針、一時間で一周回る長針、半日かかって回る短針。
それらが刻むのは地球の時間で、銀河標準時間ではない。
前の生で焦がれ続けた青い地球の上に住んでいるという確かな証。
銀河標準時間を腕の時計に刻ませたいなら、遥かな昔にイギリスと呼ばれた地域の時間に時計を合わせてやらなければ。其処との時差が生じてくるのが地球での生活。地球での時間。
ブルーの時計は、地球の、かつて日本という名の島国が在った地域の時間を刻む。
半日かかってようやく一周くるりと回る短針や、もっとせっかちな長針や短気な秒針たちが。
(ちょっとくらいは狂っていたって平気なんだよ)
此処はシャングリラの中ではないから。
僅かな狂いが大惨事を引き起こしてしまいかねない、宇宙船の中とは違うから。
腕の時計が二分や三分進んでいたって、遅れていたって、問題はない。
学校生活に支障がなければそれで充分、大いに役立つ腕時計。
(毎日、時間を合わせなくてもいいんだから)
遅れていようが進んでいようが、付ける自分が把握出来ていればそれでいい。
きちんと時報に合わせておいても、気付けば狂いが出ている時計。
高価な時計なら狂いも滅多に出ないのだろうが、十四歳の子供が付ける時計は狂うもの。
いつの間にやら、ずれが生じてしまうもの。
(自分勝手な時計なんだよ)
遅れがちだから、と少し進めておいたら進みすぎたり、その逆だったり。
シャングリラの中では使えそうもない腕時計。
それが自分の左の手首に、今では一緒にくっついてくる。学校へ行く時はいつも一緒に。
前の自分の手首には無かった腕時計。シャングリラには無かった腕時計。
それを付けられる、今の生活。
自分勝手で気まぐれな時計を持てる幸せ。
どれほど平和な世界に生まれたのだろう、今の自分は。
どれほどに優しい世界に生まれて、其処で暮らしているのだろうか。
(こんな日に、ハーレイが来てくれたなら…)
腕時計の話をしてみるのに。
腕時計を外したはずみに気付いた、今の幸せを話したいのに…。
来てくれないものか、と何度も窓の方へと視線をやる内、チャイムの音が聞こえて来た。門扉の脇にあるチャイム。来客を知らせるチャイムの音。
窓から見下ろせば、庭の向こうでハーレイが大きく手を振っていた。
やがて母がハーレイを部屋まで案内して来て、お茶とお菓子をテーブルに置いて行ったから。
ブルーはハーレイと向かい合わせに座ると、早速、自分の発見を語った。
「腕時計なんだよ、大発見だよ!」
「腕時計?」
「うん。前のぼく、付けていなかったんだよ」
今は当たり前に付けているけど、シャングリラに居た頃は付けてなかった。
正確な時間にしか意味が無かったから、腕時計なんて必要だとさえ思わなかったよ。
だけど今では腕時計でしょ?
ハーレイも、ぼくも。
ちょっとくらい時間が狂っていたって、今じゃ問題ないものね。
「確かになあ…」
平和な世界に来ちまったんだな、お前も俺も。
一秒どころか一分、二分と狂っていたって気にもしないでいられる世界か、今の世界は。
正確だとは決して言えない時間を腕時計で見ながら、のんびり暮らしていられるんだな。
「ね、そうでしょ?」
シャングリラには腕時計なんか無かったけれど…。誰も付けてはいなかったけれど。
ハーレイ、腕時計、付けたかった?
前のハーレイ、腕時計を付けてみたかった?
「何故だ?」
思い付きさえしなかったんだが、どうして付けてみたいか訊くんだ?
「レトロなものが好きだったから」
木の机だとか、羽根ペンだとか。時計もアナログのが好きだったでしょ?
だから、そういう腕時計。アナログの腕時計があったら付けそう。
「ふうむ…。アナログの腕時計なあ…」
そいつもいいが、とハーレイはパチンと片目を瞑ってみせた。
「持ち歩ける時計でアナログとくれば、アレだ、懐中時計なんかはどうだ?」
「似合いそう…!」
それってハーレイにとても似合うよ、腕時計よりも。
前のハーレイなら断然、それ。懐中時計がいいと思うな、うんとレトロで。
キャプテンの制服に懐中時計。
似合いそうだ、とブルーは思った。
当のハーレイも同じ考えを抱いたようで、顔を綻ばせて。
「ちょっと格好がついたかもしれんな、キャプテンの俺が持っていたなら」
威厳ってヤツがあったかもなあ、時計が正確かどうかは別にしておいて、演出だな。
「凄く似合うよ、ハーレイの制服に懐中時計」
ポケットから引っ張り出して見てたら、かっこいいと思う。
通路で立ち止まって出すとか、公園とかで時間を確かめるとか。
「ブリッジでも様になってたかもなあ…」
銀河標準時間とは別に、俺用の時計。
今日の勤務時間は何時までだったか、と出して見ていりゃ、公私のけじめに良かったかもな。
俺の仕事はもう終わりだから、と時計を取り出して宣言するんだ、そして帰る、と。
もっとも、ブリッジでの勤務時間が終わっても。
前のお前への報告っていう仕事が残っていたわけだが…。
「まあね」
でも…、とブルーはクスクスと笑う。
一日の報告はいつの間にやら名目になっていなかったか、と。
勤務が終わった後に堂々と青の間へ出掛けるための言い訳になっていなかったか、と。
「それを言うならお前もだろうが!」
俺の報告は機密事項のこともあるから、と部屋付きの係を追い払って待っていたろうが。
そんな報告、滅多に無いというのにな?
係がいると何故、困るんだか…。俺の報告のせいではないと俺は思っているんだがな?
「お互い様だよ、報告の後の時間が大切。だけど…」
作れば良かったね、懐中時計。
個人の時間を管理するには、ちょっとお洒落で良かったかも…。
「俺しか持てないことにならんか?」
制服のポケット、他のヤツらは無かったからな。
いや、ゼルたちも持てるのか…。長老の制服はポケット付きか。
俺だけが持つってわけでないなら、懐中時計を作ってみるのも良かったかもな。
キャプテンと長老たちが持つ懐中時計。
威厳もあって良さそうだ、とハーレイも頷いたのだけれども。
懐中時計を作ったとしても、前のブルーはそれを使えはしなかったから。
「ぼくは無理だね、ソルジャーの服にはポケットが無いし」
ハーレイやゼルたちの特権なのかな、懐中時計。
「うーむ…。前のお前が持てないとなると…」
そういうことなら、要らないような気もしてきたなあ、懐中時計は。
「なんで?」
「ゼルだのヒルマンだのと揃いで持っても、つまらんだろうが」
いや、間違いだと言うべきか…。
時計はペアで持つものだからな。二つでセットだ。
「えっ?」
なあに、それ?
ペアとか、二つセットって、なに…?
「知らないか?」
ペアウォッチと言ってな、同じモデルで男性用と女性用とがセットなんだが…。
懐中時計ってわけじゃなくって、腕時計だがな。
「そうだったの?」
二つセットの腕時計があるなんて話、初耳だよ。
「お前の年では知らないかもなあ、そもそも縁が無いものだしな」
ついでにお前くらいの年なら、腕時計自体が男子用と女子用でまるで違うか。
デザインも色も、何もかもがな。
「たまに似たようなデザインも見かけるけれども、基本は違うよ?」
みんなが腕時計を外して並べておいたら、どれが男子のでどれが女子のか、分かると思う。
それくらい違うよ、セットに出来そうもないんだけれど…。
「大人になったら同じモデルが出来てくるのさ」
見た目は同じで大きさが違うとか、女性用が少し華奢だとか。
色は違うが並べて見たならデザインがそっくり同じだったとか、そんな風にな。
「へえ…!」
知らなかったよ、ペアの腕時計があるなんて。
ぼくは腕時計、まだ付け始めてから一年も経っていないもの。
ちょっぴり大人に近付いたよね、って得意だったけど、大人用の腕時計とは違うんだね。
ペアウォッチだなんて…、とブルーは少し想像してみたけれど。
腕時計との付き合い自体がまだ短いから、どんなものだか分からなくて。
「ぼくのパパとママも持ってるのかな?」
二つセットのペアウォッチっていうのを持っているかな、ぼくは見たことが無いんだけれど…。
パパが仕事に付けてく時計と、ママがお出掛けに付けて行く時計。
何処も全く似てはいないし、ぼくの家にはペアウォッチなんかは無いのかな?
「さてな? そいつは俺には分からんが…」
俺の親父とおふくろの場合は、大事に仕舞い込んでて滅多に出してこないな、ペアウォッチ。
「出してこないって…」
せっかくのペアウォッチなのに付けないの?
それって、なんだかもったいなくない?
「結婚祝いに貰った上等の時計らしくて、親父とおふくろの普段の暮らしに似合わないのさ」
親父は何かと言えば釣りだし、おふくろの趣味は庭仕事だしな?
どっちも腕時計を付けていたなら傷みそうだろ、その方がよほどもったいない。
釣りも庭仕事も、腕時計を付けるなら使いやすい普通のヤツがいいんだ、上等なのより。
「ぼくのパパとママもそうなのかも…!」
ブルーの脳裏に蘇った記憶。
幼い頃に両親と一緒に何処かへ出掛けた、お呼ばれの席。
お洒落をした両親の腕の時計がいつもと違っていたような…。
こんな時計があったかな、と不思議に思って眺めていた。ぼくの知らない時計だけれど、と。
「お前のトコでも仕舞い込んでるのか、ペアウォッチ」
俺の家だけってわけじゃないんだな、使ってる人も多いんだがなあ…。
「ぼくのママ、お料理とお菓子作りが大好きだしね…」
腕時計は滅多に付けてないから、あまり出番が無いんじゃないかな。
買い物で街まで行く時の腕時計をお出掛け用にもしてるし、多分、ホントに出番が無いんだ。
パパと一緒にお洒落しなくちゃ、って時だけ出してくるんだよ、きっと。
せっかくあるのに、ちょっぴりもったいない感じ…。
上等の時計ってそんなものかな、仕舞い込まれちゃうものなのかな?
「その辺は人それぞれだろうな」
使ってる人も多い、と俺は言っただろうが。
二人セットで付けるのがいい、と愛用している人も大勢いるんだ、考え方は色々だってな。
「ぼくたちにも結婚祝いにくれるかな、誰か?」
ペアウォッチ、プレゼントして貰えるかな?
ぼくが女性用のになるんだろうけど、誰かプレゼントしてくれるんならペアで欲しいよ。
「さてなあ、そいつは結婚するまで分かりそうもないな」
貰えるかもしれんし、貰えないかもしれないわけだが…。
上等の時計を貰ってしまって、俺の親父たちや、お前のお父さんたちみたいに仕舞い込むより。
大切な時計だと仕舞っておくより、付けられる時計を買わないか?
「えーっと…。普段に使える時計?」
貰った上等の時計を使うんじゃなくて、それとは別に普段用のを?
「ああ。ペアウォッチと言っても色々あるしな、高い腕時計ばかりじゃないからな」
贈り物にするなら高いのを、と選ぶんだろうが、普段使いにしたいんだったら話は別だ。
同じデザインのペアの時計で、気軽に使えそうなヤツ。
そいつを二人で探して、選んで。
普段から二人で使おうじゃないか、俺もお前も腕に付けてな。
「普段からって…。ハーレイが仕事に出掛けてる日も、ぼく、腕時計を付けるわけ?」
「そうさ。俺が出掛ける前にキッチリ、毎朝、二人で時刻を合わせて」
どっちかの時計が進みすぎだとか、遅れてるとかが無いように。
同じ時間を刻んでくれるよう、きちんと時間を合わせておいたら、有意義な一日を過ごせるぞ。この時間だと何をしてるか、と考えるだけで幸せだろうが。
「ハーレイ、今頃、授業かな、って?」
時間割を見ながら考えるんだね、授業中なのか、休み時間か。
「うむ。お前は今頃はおやつかもな、とな」
「おやつなの?」
其処でおやつなの、ぼくの予定だかスケジュールだか。
ハーレイと結婚して家で留守番してるぼくでも、おやつの時間が予定に入るの?
「お前、おやつを食わないのか?」
結婚したなら食わなくなるのか、おやつは子供っぽいってか?
それでお前は我慢出来るのか、嫁さんだからって、おやつ無しで?
「…食べたいかも……」
おやつの時間、って思ったら食べたくなってくるかも、ケーキやクッキー。
ぼくが自分で焼けばいいのかな、自分のおやつ。
ハーレイの大好きなパウンドケーキは上手に焼けるようになりたいんだけど…。
他のお菓子も作れるかな、ぼく。
自分のおやつを作らなくっちゃ、って頑張ったら色々作れるのかな…?
「そんなに心配しなくっても、だ」
ちゃんと用意してやるさ、お前のおやつ。
時間があったら俺が作るし、暇が無ければ仕事の帰りに次の日の分を買って来てやる。ケーキの美味い店もクッキーの店も、帰り道に幾つもあるってな。
それから、昼飯。
こいつは朝に用意をせんとな、朝飯を作るついでにな。
「お昼御飯って…。ハーレイ、ぼくのお昼まで用意してから出掛けるの?」
それくらいは自分で何とか出来ると思うんだけど…。
いくらぼくでもトーストくらいは自分で焼けるし、何か食べると思うんだけど…。
「本当か? しっかり食えよ、と俺が用意をして行くのがいいと思うがな?」
でないと食わずにいそうだぞ、お前。
俺が出掛けて、おやつを食うのが十時頃か?
それですっかり満足しちまって、腹が膨れた気分になって。
飯の時間に気付きもしないで、本を読んでて食うのを忘れて、その内に俺が帰ってくるとか。
「…やっちゃいそう…」
なんだかやりそう、そういう間抜け。
ハーレイが帰って来ちゃってビックリするんだ、もう夕方になっちゃってる、って。
「ほら見ろ、昼飯を忘れずに食える自信さえも無いと来たもんだ」
だから毎日、俺がおやつと昼飯を用意しておいて。
テーブルにメモを置いて行くのさ、お前の今日のおやつがコレで昼飯がコレ、とな。
時間になったらちゃんと食えよ、って。
「そのために時計?」
ぼくが家でも腕時計を付けるの、そのためなの?
ハーレイが何をしてる時間か考える他に、おやつの時間と昼御飯を忘れないように?
「そうなるな。本に夢中でも腕時計なら、たまには目の端に入るだろうしな」
見りゃあ気付くだろう、飯時だって。三時のおやつも思い出すさ。
壁の時計なら綺麗サッパリ忘れちまうかもしれないが…。
存在自体が目に入らなくて、俺が帰るまで全く見ないってこともありそうなんだが…。
「腕時計なら見るよね、きっと」
ぼくの手首に付いてるんだし、お昼御飯の時間の頃にも一回くらいは。
少し早いとか、お昼の時間を過ぎた後でも、とにかく食べればいいんだよね?
「当然だ。お前が昼飯を忘れないよう、俺が作って行くんだからな」
本の世界から現実に戻って食わんと怒るぞ?
俺が帰った時に昼飯がそのまま置いてあるとか、三時のおやつがそのままだとかな。
昼食とおやつを忘れ果てて読書に耽るというのは、如何にもブルーがやりそうなこと。
今は両親と一緒に暮らしているから、きちんとおやつも食べるけれども。
ハーレイと暮らすようになったら、ブルーは忘れていそうだから。
食事もおやつも忘れそうだから、そのために腕時計を買っておこうか、とハーレイが笑う。
結婚祝いに上等のペアウォッチをプレゼントされたとしても、普段使いのペアウォッチ。
それをブルーの手首に付けようと、時間を忘れてしまわないよう、付けておこうと。
(ペアウォッチかあ…)
食事もおやつも忘れそうだ、と言われた件は少し不名誉だけれど。
ウッカリ者だと指摘されたようで恥ずかしいけども、そのためのものだと思わなければ。
食べる時間を忘れないよう、付ける時計だと考えないでおいたなら。
いつかはハーレイとお揃いの腕時計を付けて過ごすのもいいかもしれない。
デザインなどが同じ、二つセットのペアウォッチ。
ハーレイの時計は男性用で大きめ、ブルーの時計は女性用だから少し小さめ。
毎朝、二人で時刻を合わせて、同じ時間を刻むようにして。
ハーレイが仕事に出掛けた後には、互いに相手が過ごす時間を想い合う。
離れている間も気になる恋人、何をしているかと思いを馳せては愛おしさが増す大切な伴侶。
今は授業の最中だろうか、今はおやつの時間だろうか、と…。
腕時計・了
※腕時計をつけることは無かった、シャングリラの時代。今は腕時計をつけているのに。
そして、いつかはペアウォッチをつけることも出来ます。同じ時間を刻んでくれる時計を。
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