シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(冷たい…)
学校からの帰り道。バスから降りて、いつもの道を歩いていたブルーだったけれど。
まだ充分に日が射しているのに風が冷たくて、右手をキュッと固く握った。
冷たいというほどの寒風ではなく、強く吹き付けたわけでもない。それに秋の盛り。晩秋ならば冬の先触れを思わせる風も通り過ぎるが、ブルーの周りを吹いてゆく風はただの秋風。
(まだ秋なのに…)
単にひんやりするだけの風が肌に冷たい。右の手に冷たい。
(顔はちっとも冷たくないのに…)
むしろ気持ちよく感じる風。澄んだ空気を感じさせる風。
けれど右手にはそれが冷たくて、思わず息を吹きかけたほど。寒い冬の日にするように。温かな息で凍えそうな手を温めるように、冷たい右手に。
バス停から家までの短い間に、すっかり冷えた気がする右手。
門扉をくぐって庭を横切る間も冷たく、玄関を入ってようやく冷気から離れて一息ついた。
(メギド…)
右手が冷えると、冷たいと思うと蘇ってくる遠い日の記憶。
前の生の終わりに凍えた右の手。ハーレイの温もりを失くしてしまって泣きながら死んだ。その悲しさと辛さが残る右の手。
階段を上って自分の部屋に着き、制服を脱いで着替えてもまだ冷たくて。
(ちゃんと洗面所で温めたのに…)
冷えた右手が嫌だったから、熱めのお湯で手を洗ったのに。その温かさにホッとしたのに。
今の自分の家は此処だと、もうメギドではないのだと。青い地球の上に生まれ変わって、両親と暮らす暖かな家。蛇口を捻れば熱いお湯が出るし、こうして右手を温められると。
けれど、冷たい。温めてきたのに、今も冷たいブルーの右の手。
右手のせいで悲しい記憶を思い出すのは嫌だから、と階段を下りてダイニングへ。
おやつのケーキを用意してくれていた母に、熱い飲み物を注文した。
「ママ、ホットミルク!」
熱めのがいいな、帰りにちょっぴり冷えちゃったから。
「シロエ風ね?」
「うんっ!」
ハーレイに教えて貰ったシロエ風。手が冷たい日はこれで温めろ、とアイデアをくれた。歴史に名前を残した少年、セキ・レイ・シロエが好んだ飲み物。シナモンミルクにマヌカを多めに。
何度このミルクで温めたろうか、冷えた右手を。
早く、とテーブルで待ち焦がれていると、母が運んで来てくれたカップ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、ママ!」
これで温まる、と湯気を立てるカップに両手を添えたブルーだけれど。
「あつっ…!」
熱い、と思わず声が出た。あまりの熱さに離れた右手。それを耳へと持ってゆく。手が熱い時は冷えた耳たぶ、それをしっかりとつまみたいほど。
「あらあら、火傷しちゃったの? 気を付けてね」
母が心配そうに覗き込みながら首を傾げた。
「だけど、そんなに熱かったかしら? 大丈夫、ブルー?」
キッチンで水をかけた方がいいわよ、痛いんなら。
「ううん、平気。ちょっとビックリしちゃっただけ…」
ぼくが思ったより、熱かったみたい。
それに身体も冷えていたから普段より熱いと思ったんだよ、大丈夫。火傷してないよ。
母には笑顔を返したけれど。
もう平気だと答えたけれども、母がキッチンへと向かった後で気が付いた。
熱いと叫んで離した右手。慌てて耳へと運んだ右の手。
右手は熱いと悲鳴を上げたのに、左手の方は全く平気でカップに添えたままだった。シロエ風のミルクが入ったカップに、湯気を立てていた同じカップに。
(右手だけ…?)
まだホカホカと湯気が立つカップ。その温もりが頼もしいから、右手でそうっと包み込む。もう熱くなくて、温かいカップ。右の手に温もりを分けてくれるカップ。
(こんなに優しいカップなのに…)
どうして熱いと拒絶したのか、この右手は。左手は拒絶しなかったのに。
(なんで右手だけ?)
そういえば最近、多い気がする。
右手の火傷。
火傷とは多分言わないのだろうが、右手だけが熱さを訴えること。
それはカップなどの熱い食器であったり、蛇口から出て来た温水だったり。
右手だけがそれを熱いと言う。左手にはとても心地良いのに、右手は熱いと驚いたりする。
(こんなこと、あった…?)
熱い飲み物や料理が入った食器に触れたくらいで、耳たぶで冷やしたいと思ってしまうこと。
考えたけれど、覚えが無い。ほんの十四年間の人生とはいえ、熱い食器には何度も触れた。
(肌は薄くないと思うんだけど…)
生まれつき弱い身体だけれども、皮膚まで弱すぎるわけではない。熱いカップで火傷するような薄すぎる肌を持ってはいない。
(んーと…)
今日のミルクは熱かったろうか、と慎重に口をつけてみた。舌まで火傷してはたまらないから、恐る恐る一口飲んだのだけれど。
(熱くないよ?)
母が作ってくれたホットミルクはいつもの温度。
熱すぎも温すぎもしない温度で、身体が芯から温まってくる優しい味わい。
なのにカップは熱かった。触れた時にはそう感じた。カップで右手を温めるつもりが、あまりの熱さに耐えられなかった。
(今はもう平気なんだけど…)
大丈夫、とカップで右手を温めながら思い起こせば、似たようなことは何度もあった。
叫んだのは今日が初めてだけれど、カップや食器が熱すぎたこと。蛇口から出るお湯が熱かったこと。しかも何故だか、右の手だけ。右手だけが熱いと感じたこと。
(熱いの、苦手じゃない筈だけど…)
猫舌でもなければ、大好きな風呂も熱い湯が好み。
なのに右手には熱すぎたカップ。
手を離したほど、声を上げたほどに、熱くて触れていられなかったカップ。
同じ熱さでも左手は平気だったのに。
自分の身体はどうなったのか、と部屋に戻って勉強机の前に座って考えた。
いつからああいうことになったか、いつから右手が熱さに弱くなったのかと。
(最近だよね…?)
今までにそうしたことは無かった。
十四歳の今まで生きてきた中で、一度も無かった。
どうやら今年から、この秋からの不思議な現象。右手だけが熱さが苦手になった。左手には丁度いい温かさを、右手は熱いと感じてしまう。
(ぼくって、猫手になっちゃった…?)
猫舌という言葉があるほどなのだし、この現象に名前をつけるなら猫手だと思う。猫に手などは無いのだけれども、足だけれども、名付けるなら猫手。熱さが苦手な手を指す言葉。
(猫手だなんて…)
それも右手だけが。
メギドで凍えた右の手だけが猫手になった。
左手は全く大丈夫なのに、猫手になってしまった右手。
(凍えちゃったから、とっても敏感?)
思い当たる節はそれしか無かった。
右の手が冷たいと泣きながら死んでいったソルジャー・ブルー。前の自分の悲しすぎる記憶。
本当に右手が凍えたわけではなかった筈だ。メギドはそこまで寒くはなかった。
けれど、最後まで持っていたいと願ったハーレイの温もりを失くしてしまって、縋りたいものを失くしてしまって、右の手が冷たいと泣きじゃくって。
独りぼっちになってしまったと、ハーレイには二度と会えないのだと泣いた自分の右手はまるで氷で、温もりなどは欠片も無かった。冷たく凍えて冷え切ったままで逝くしかなかった。
(その分、熱いと駄目なのかな…)
冷え切っていれば、同じ温度でもより熱いように感じるもの。
メギドで凍えてしまった右手は、凍えずに済んだ左手よりも熱に敏感になったのだろうか?
(……猫手……)
猫手になったらしい、自分の右手。
その右の手に温もりが欲しい、とハーレイに何度も強請ったけれど。
失くした温もりを移して欲しいと、冷たかった右手を温めて欲しいと。
そう強請る度に右手を包み込んでくれた褐色の手。大きくて温かなハーレイの手。
暑い夏ですらも強請ったけれども、ただでも温もりの欲しい季節に右手が猫手になるなんて。
これから寒さの冬へ向かうのに、右手が猫手になっただなんて…。
(下手に温めたら火傷しちゃうの?)
さっきホットミルクのカップで「熱い」と悲鳴を上げていたように。
もしも温めたら火傷するとしたら、それは悲しくて辛すぎる。
右手が冷えるとメギドの悪夢を見やすいから、とハーレイが医療用のサポーターを作ってくれたのに。ハーレイの手がブルーの右手を握る強さと同じにして貰った、と言っていたのに。
(あのサポーター、とても暖かいのに…)
ハーレイに右手を握って貰っているかのようで、安心して眠れるサポーター。着ければメギドの悪夢が減ったし、メギドの夢にハーレイが現れたほどで。
それは心強いサポーターなのに、あれを着けても熱くて火傷をするのだろうか?
今の時点では火傷をしてはいないけれども、猫手が酷くなったなら。
より敏感になってしまったなら、サポーターでも火傷は有り得る。熱いと感じないもので火傷をすると聞く、低温火傷というものもあるし…。
(…さっきの、火傷はしていないよね?)
熱すぎたホットミルクのカップ。
右手を見ても赤みは無いし、痛みも残っていないけれども。
(どうしよう、猫手が酷くなったら…)
これからの季節、どうすればいいというのだろう。
秋が終われば雪の舞う冬がやって来るのに。今よりももっと寒くなるのに。
(右手、絶対、冷たくなるのに…)
秋風でさえも冷たさを覚えた右手だから。
冷たいからとホットミルクで温めようとしたほどの右手だから。
その手がもっと冷たくなる。本当に凍えて冷えてしまう季節。
猫手のままでは火傷するしかないというのに。酷くなったら低温火傷も起こしそうなのに…。
とんでもない体質になってしまった、とブルーがしょげている所へチャイムが鳴った。
来客を知らせるチャイムの音。仕事を終えたハーレイが訪ねて来てくれて、母が紅茶とお菓子を部屋に運んで来た。テーブルに置かれたティーポットやカップ。
母が熱い紅茶を注いでいったカップに、ブルーは怖々、触れてみた。もちろん右手で。
(うん、大丈夫…)
熱いと分かっていたからだろうか、薄いカップは熱かったけれど、手を離したいほどに熱すぎはしない。これなら充分、触れていられる。
(猫手、ちょっぴり治ったかな?)
気を良くして今度はポットに触った。おかわり用の紅茶を満たしたポットに、今度も右手で。
大丈夫だろうと思っていたのに、さっきのカップで油断したのか、ポットの方が熱かったのか。
(あつっ!)
右手が悲鳴を上げ、慌てて離した。
火傷したかと思った右手を耳に持っていけば、ハーレイが鳶色の瞳で見詰めていて。
「どうした?」
お前、ポットで何やってるんだ?
火傷するほど熱かったのか、ポット?
「ぼくの手、猫手になっちゃった…」
「はあ?」
なんだ、猫手って?
そいつはどういう代物なんだ…?
怪訝そうな顔をしているハーレイ。
それはそうだろう、猫手はブルーが作った言葉で、誰も知らない言葉だから。
「猫手だってば…!」
ハーレイのお母さんが飼ってた猫のミーシャとおんなじ猫だよ、猫のミーシャだよ。ミーシャが猫舌だったかどうかは聞いてないけど、猫は猫舌なんでしょ、ハーレイ?
猫舌みたいな感じで猫手、とブルーは懸命に説明した。
熱さに弱い手だから猫手。
実はこうだと、これからの季節に困りそうだと。
「なるほどなあ…。前だったら平気だった温度のものでも駄目になってきた、と」
ホットミルクで叫んじまったのならそういうことだな、いつもの温度だったのならな。
「うん…。だんだん酷くなってるみたい…」
ママもビックリしちゃってたけど、ぼくもビックリしたんだよ。
ホットミルクが入ったカップで火傷しそうになるなんて…。左手は平気だったのに…。
「右手だけが猫手とやらになったってことは、やっぱりメギドか?」
俺はそれしか思い付かんが、原因はアレか?
お前、右手が冷たかったと何度も何度も言ってるからな。
「多分、そのせい…」
凍えちゃった分だけ敏感なんだよ、熱さってヤツに。
左手は凍えたわけじゃないから全く平気で、右手だけが熱さが苦手な猫手になっちゃった…。
どうしよう、とブルーは窮状を訴えた。
その内にもっと酷くなりそうだと、右手では熱いものは何も持てなくなるのでは、と。
顔を洗うにもお湯は駄目になり、お風呂も右手は熱いからと浸けられなくなって。
更にはハーレイに貰ったサポーターでさえも、熱すぎて使えなくなってしまいそうだ、と。
「うーむ…。俺が渡したサポーターまで駄目になりそうだってか?」
そいつは困るな、あれでメギドの夢が減ったと言ってるのにな…。
しかし、猫手か…。
どうしたものか、とハーレイは暫し腕組みをして考え込んでいたけれども。
ふと何事かを思い付いたように、ブルーに向かって問い掛けた。
「同じ温度で出て来たものでも、熱くて駄目になってきているんだな?」
「そう。今日のホットミルクなんかはそうだよ」
手を洗うお湯も。洗面所のお湯、温度はいつでも同じ筈だから。
「なら、これはどうだ?」
熱すぎるか、とハーレイの手で右手をキュッと握られた。
大きくて逞しい、褐色の手。力強い手。
その温もりにブルーの心が柔らかく溶けて満たされてゆく。ほどけてゆく。
(あったかい…)
ハーレイの手だ、とブルーは頬を擦り寄せた。
この温もりが好きでたまらないのだと、この温もりが欲しかったのだと。
うっとりと目を閉じ、ハーレイの温もりに酔っていたら。
右手を包み込む温かさに安心し切って瞼を閉じたままでいたら、ハーレイの声が降って来た。
「大丈夫じゃないか」
「えっ?」
何が、と顔を上げたブルーにハーレイが「右手だ」と握る手に少し力を加えた。
「俺の温もり、平気だろうが」
猫手になっちまった右手とやら。熱いとも言わないようだがな?
「熱いって…。ハーレイの温もり、体温だよ?」
紅茶のポットやホットミルクのカップと違って、温度が低いと思うんだけど…。
お湯よりも絶対、低い筈だし、猫手のぼくでも平気だろうと思うけど?
「だが、熱いって感じはしないんだろう? 気持ちよさそうにしている所をみると」
前に俺がこうして温めてやっていた時よりも?
俺の手がうんと熱いんだったら、お前、「もういいよ」って言わないか?
もう温もりは充分だから、と右手を離していそうなんだが…?
「うん…。ハーレイの手は少しも熱くないかも…」
前と同じで温かいかも、熱すぎるっていう気はしないよ、ぼく。
ハーレイは熱があるのかな、って感じもしないし、前とおんなじ。
猫手だったらもっと熱いと思いそうなのに、前とちっとも変わっていないよ。
「ふうむ…。そういうことなら、お前の猫手」
原因は気のせいというヤツだ。
お前の記憶が戻った時には春だったからな、暖かい方へと向かう季節だ。春の後には夏だった。夏は暑いし、お前の右手は気温のせいで冷えたりはしない。
しかしだ、今はもう秋だしな?
冷える夜もあれば、風がちょっぴり冷たく感じる日だってあるさ。
メギドの記憶を取り戻したお前が初めて迎える冷える季節だ、お前は途惑ってるわけだ。右手が冷えても何の不思議もない季節なのに、初めての秋だけに分かっていない。
そのせいで此処はメギドなんだと、右手が凍えるとお前の心の何処かが叫んでいるんだな。
本当は秋が来ただけなんだが、お前の心は勘違いってヤツをしてるのさ。右手が凍えるメギドに居るんだと、右手が凍えて冷たいんだと。
凍えてるから、ちょっとしたものでも熱く感じる。紅茶のポットもホットミルクのカップもな。
だが、俺の手だとそうはならない。
前のお前が失くしちまった温もりそのものがあるわけだろう?
熱いと悲鳴を上げる代わりに、これだと思ってお前は安心するわけだ。
俺の温もりが戻って来たと。もう凍えないと考えるだけで、熱いと思いはしないんだな。
その内に落ち着いて熱くなくなるさ、とハーレイは言った。
右手が冷えるのは気温のせいで、メギドは全く関係ないのだと心もいつか気付くだろうと。
そうすれば猫手も自然に治って、火傷したりもしないだろうと。
「でも…。ハーレイの温もり、ぼくにとっては特別だから…」
うんと熱くても、熱いと思わないかもしれない。ハーレイの手だ、って思うだけで。
「だったら、これはどうだ?」
ちょっと待ってろ、とハーレイの手がポットへと伸びた。熱いポットに大きな両手を添えれば、ポットの熱がその手に伝わる。手が充分に熱くなった頃合いでポットを離すと。
「ほら、ブルー。こいつは熱いか?」
さっきよりもずっと熱い筈だが、と温められた手がブルーの右手を包んだ。
ティーポットの熱が移ったハーレイの両手。
上下からそれで包み込まれると熱いけれども、悲鳴を上げたくなる熱さではなくて。
優しい熱さ。ハーレイの手だ、と心が安らぐ熱さ。
「…熱くないけど、やっぱり元は体温だから…」
ハーレイの体温が元になってるから、これはポットの熱さじゃないよ。
熱い気がしてもハーレイの手だと分かっているから、ぼくにとっては特別なんだよ。
「それなら、俺と一緒に触ってみろ」
「え?」
「ポットに触れ、と言っているんだ。俺と一緒に」
俺がさっきまで触っていただろ、充分、触れる。
お前は熱いと手を離してたが、その時よりかはいくらか冷えてる筈だしな。
大丈夫だ、と促されて右手に手を添えられた。
ブルーは少し怯えたけれども、ハーレイは右手を自由にしてはくれなくて。
(熱いに決まっているんだけれど…!)
猫手になった、と訴える前に触ってみたポットの熱さをブルーは覚えている。火傷するのだ、と首を竦めても許してくれそうにはないハーレイ。
「ほら、触ってみろ」
「火傷するってば…!」
「火傷したら俺が冷やしてやる。俺の耳でな。ハーレイのせいだ、と引っ張ってもいいぞ」
お前にギュウギュウ耳を引っ張られても文句は言わん。
だからお前も文句を言うな。
いくぞ、と右手を強引に引かれ、怖々、触ってみたポット。
ハーレイの手と同時に触れてみたポット。
それは確かに熱かったけれど、飛び上がるような熱さは感じなかった。
反射的に手を引き、耳に運びたくなるほどの痛さを覚える熱も。
ハーレイがポットからブルーの手を離し、「どうだった?」と尋ねるから。
ブルーは「熱いよ、これ」と答えた。
「うんと熱かったよ、このポット、冷めにくいんだもの」
ママの自慢のポットなんだよ、そう簡単には冷めないよ。熱いってば!
「そりゃあ熱いさ、そうでなければお茶の時間にゃ不向きだってな」
おかわりをするまでに冷めてしまっちゃ意味が無い。ポットはそういう風に出来てる。
だが、火傷したか?
俺の耳を掴んでこないようだが、お前、熱くてたまらなかったか?
「…ううん。ポットは熱かったんだけど…」
熱いな、っていう気はしたんだけれども、叫びたいほど熱くなかった。
「お前一人ならどうなっていた?」
一人でポットに触っていたなら、我慢出来たか?
「無理だったかも…。やっぱり熱いと叫んでたかも…」
だって、ぼくの手、猫手だもの。あんな熱さだと熱すぎるんだもの、猫手だと。
でも…。
ハーレイの手が一緒だったから平気だったよ。
一緒に触ってくれていたから熱いポットでも平気だったよ、ぼくの右の手。
「ほらな、俺の手があるだけで猫手でもポットに触れたんだろ?」
俺に「熱い」と怒らなくても、俺の耳で冷やそうと引っ張らなくても平気だったろ?
気のせいなのさ、お前の右手が熱いと悲鳴を上げるのは。
「…ホントにそうなの?」
ポットを触っても平気だったの、ハーレイの手のお蔭っていうわけじゃないの?
ぼくの猫手は気のせいなの?
「そんなトコだな、じきに落ち着く。右手が冷えるのは気温のせいだ、と納得すればな」
お前の中に居る、前のお前と言うべきか…。
メギドで右手が凍えちまった前のお前が納得したなら、秋は右手が冷えるもんだと知ったなら。お前の猫手は治るってわけだ、メギドじゃないって気が付いたらな。
「前のぼく、秋だって分かってないの?」
「いや、分かってはいるんだろうが…。実感が全く無いってトコだろ」
シャングリラの中じゃ季節があるのは農場と公園くらいだったし…。
知識では秋を知っていてもだ、本物の季節がどう移るのかは分かっちゃいない。少し冷える日や暖かい日が混ざり合うとも知らないわけだな。だから途惑う。何か変だ、と。
「そうなのかな…?」
「そうだと思うぞ、幸せに暮らしている筈のお前が猫手になってしまったんならな」
心配しなくてもちゃんと治るさ、秋はこういうものだと分かれば。
秋はこうだと理解したなら、冬も自然に乗り切れるだろう。寒い季節はそんなものだと。
要は心の問題なんだな、お前の猫手。
体質が変わったというわけじゃなくて心が反応しちまってるんだ、今の季節に。
忙しい手だな、とハーレイが笑う。
冷たすぎると訴えてみたり、熱すぎると悲鳴を上げてみたり、と。
「温めてくれ、と言うかと思えば、今度は火傷の心配と来た。実に忙しいんだな、お前の右手」
「ちょっと忙しすぎるかも…」
冷たいから、ってハーレイにサポーターまで貰ってたくせに、今度は猫手。
同じメギドで猫手になったり、凍えちゃったり、忙しすぎだよ。でも、メギドは…。
「分かっているさ。お前はそれほど辛かったんだ。生まれ変わっても引き摺るほどに」
俺と出会った頃に比べりゃだいぶ落ち着いたが、まだ忘れられん。
季節が寒い方へと向かい始めたら、猫手になっちまうくらいだからな。心の傷が深いんだ。
だがな…。
メギドはとっくに時の彼方で、お前は幸せに生きてるんだろ?
そいつをしっかり心に留めておかんとな。前のお前が辛かった分まで幸せになってやるんだと。
猫手、治せよ?
俺がいつまででもついててやるから。今度は一生、二人で暮らしてゆくんだから。
お前の右手が熱すぎないよう、適温で温め続けてやるから。
「うん…。うん、ハーレイ…」
猫手、治りそうな気がしてきたよ。
ハーレイと一緒に触ったポットは平気だったし、きっと治すよ。
そして両親も交えた夕食の後の、ブルーの部屋でのお茶の時間のこと。
猫手は悲鳴を上げなかった。
ブルーがおっかなびっくり触ったポットに、右手は文句を言わなかったから。
「ほらな、今度は平気だったろ?」
大丈夫だったみたいだな、とハーレイがブルーの頭をクシャリと撫でた。
「そうみたい。熱かったけれど、普通の熱さ」
ポットはこういう熱さだよね、って思っただけだよ、大丈夫。
「ほらな、猫手は心の問題なんだ。もう治りかけだ、明日には治るさ」
「そうかもね」
治っちゃうかもね、明日の朝までに。
猫手、心配してたんだけど…。ぼくの右手はどうなっちゃうの、って。
悲鳴を上げずに終わった猫手。
その手に左手でそっと触れてみて、両手でポットに触ってみて。
どちらの手も同じ熱さを感じていることがブルーに与える安心感。治りそうな猫手。
(これって、ハーレイのお蔭だよね?)
猫手は治るに違いない、とブルーは微笑む。
ハーレイが心を解きほぐしてくれて、猫手を治せと言ってくれたから。
治りかけだと、明日には治ると頼もしい言葉をくれたから。
そのハーレイと幸せに暮らす未来に猫手は要らない。
メギドで凍えた右の手はもう、二度と凍えはしないのだから…。
猫手・了
※前の生の終わりにメギドで凍えた、ブルーの右手。その記憶のせいで右手が猫手に。
けれど、治ってくれそうな猫手。ハーレイがいれば、悲しい記憶はもう要りませんものね。
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