シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(今夜は少し冷えそうだな)
ハーレイは瞬き始めた星を見上げた。澄んだ夜空に幾つもの星。
家のガレージに車を入れて庭に出た途端に、一瞬、吹き抜けていった風。
(まだ秋なんだが…)
紅葉にもまだ早いというのに、冬の先触れを思わせる風。
昼間の暖かさと日射しを覚えているから、実際よりも冷たく感じる。本当の所はただの秋の風、冬の使者ではないのだろうけれど。
それでも星の瞬き具合からして、今夜は気温が下がりそうだ。いわゆる放射冷却なるもの。星が美しい夜は雲が無いから、地面の温もりが空へと逃げる。
庭を横切り、玄関のドアを開け、一人暮らしの家に入って。
(今日は寄ってはやれなかったな…)
あんな風が吹く日は、ブルーの右手が冷えるだろうに。
前の生の最後にメギドで凍えた、右の手が冷たくなるのだろうに。
(サポーターを着けて眠るんだろうが、それまでがなあ…)
寄って握ってやりたかった。ほんの僅かな時間であっても、小さな右手を。
握って温め、帰り際にも「また来るからな」と強く握って。
それだけでブルーは幸せな眠りに就けるであろうに、寄り損なった。思いの外、時間を取られた仕事。だからブルーに心で謝る。「寄ってやれなくてすまなかったな」と。
夕食を終える頃、また風の音が耳に届いた。庭の木々の梢を鳴らしてゆく音が窓越しに。
秋風なのだとは思うけれども、強い音だから。葉が、枝が擦れ合う音がするから、心配になる。
(ブルー…)
どうしているだろう、小さなブルーは。
寂しがってはいないだろうか。
(この時間だったら、まだ飯なのかもしれないが…)
両親と食卓を囲んでいればいいのだが、と窓の向こうの庭を眺めた。暗い庭から、また風の音。
これで収まって欲しいと願う。あまり気温を下げないでくれと、寂しい音をさせないでくれと。小さなブルーが寂しがるから、右手が冷たいと悲しがるから。
(ちゃんと甘えてくれているなら心配ないが…)
部屋に戻らずに、両親の側で。
教えてやったセキ・レイ・シロエ風のホットミルクでも作って貰って、ダイニングかリビングのブルーの指定席で。
そうしてくれていたら嬉しいと思う。自分は側にいられないけれど、代わりに両親。一人息子のブルーを愛して、可愛がってくれる優しい両親。
けれども、ブルーは自分の部屋を持っているから。其処にベッドも置いているから、いつまでも両親の側にはいられず、部屋に戻ってゆかねばならない。もう幼子ではないのだから。
恐らくは風呂に入った後には、部屋で一人になってしまうわけで。
(風は止んだが…)
冷えてきたな、と後片付けを終えたダイニングで溜息をついた。
ブルーの家でもすっかり夕食の片付けが済んで、食後の語らいも終わった頃か。小さなブルーは自分の部屋に戻ったろうか。風呂に入って、パジャマに着替えて。
一声、掛けてやりたいと思う。
「今夜は冷えそうだから早くベッドに入るんだぞ」と、「右手、きちんと暖かくしろよ」と。
そういう言葉を掛けてやれたら、ブルーはどれほど喜ぶことか。
会えずとも声を聞かせてやれたら、こんな夜にはどんなに喜び、心強いと思ってくれるか。
その一言を掛けてやりたいのに、ブルーの家は遠すぎた。窓越しに届く距離ではない。ブルーに声を聞かせてやるなら、通信手段に頼るしかないが。
(用も無いのに連絡出来んし…)
通信を繋いでも、恐らくブルーの母か父が出て来ることだろう。次の訪問予定日でも告げるしかなく、ブルーに代わっては貰えない。用も無いのに、ブルーを呼んでは貰えない。
これが幼い子供だったら「ハーレイ先生から」と代わって貰えるだろうに。
子供はそういうことが好きだし、頼めば気軽にブルーの声が聞けるのだろうに…。
(今の時代は不便なもんだな)
前の自分たちなら、いつでも思念波で会話を交わせた。ブリッジに居ても、青の間からブルーの思念が届いた。もちろんハーレイからも送れた。
しかし今ではそうもいかない。
とことん不器用になってしまったブルーのサイオンも問題だったが、今の時代は誰もがミュウ。どの家にも思念波の侵入を防ぐ仕掛けが施されていて、簡単に思念を届けられはしない。
(今のあいつに届く思念を紡ぐとしたら…)
同じ家に住むブルーの両親も受け止めてしまう可能性が高く、何事なのかと思われそうで。
そのくらいなら普通に通信、そしてブルーに代わってくれと頼んだ方がマシ。
(どっちも難しそうだしなあ…)
恋人同士だと知れていたなら、何の問題も無いのだけれど。
教師と生徒で、前世がキャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーというだけの理由ではかなり苦しい。幼子でもないブルーに向かって「寝る前の挨拶」は奇妙に過ぎる。
(せいぜい想ってやるくらいしか…)
想った所でブルーに届きはしないのだが。
それでも何もしないでいるより、小さなブルーを想ってやりたい。こんな風に冷える夜だから。ブルーの右手が冷たくなりそうな夜だから。
ともすれば、前のブルーに語り掛けてしまいがちな夜だけれども。
今夜は小さなブルーの方を優先しようか、出来得る限り。
(そうするんなら、コーヒーは駄目だな)
前のブルーもコーヒーは苦手だったものだが、今のブルーも駄目だった。
小さなブルーが冷え込む夜に口にしそうな飲み物は…。
(シロエ風のホットミルクだな、多分)
きっと今夜も飲んだだろう。母に頼んで作って貰って。
同じミルクならホット・ブランデー・ミルクと行きたい所なのだが、今日はやめておこう。
小さなブルーは酒など飲めはしないのだから。
酒が飲める年は二十歳から。もっとも、ブルーが二十歳になっても飲めるかどうか。
(前のあいつも…)
酒に弱くて、すぐに酔っていたソルジャー・ブルー。
新年を祝う乾杯用の赤ワインでさえ、一口だけ飲んで「はい」と渡して来たブルー。
(いかん、いかん)
やはり前のブルーに思考を持って行かれてしまうのだな、と苦笑しながらミルクを出した。
幸せの四つ葉のクローバーが描かれた大きな瓶。クローバーのマークが目印のミルク。
以前は様々なメーカーのミルクを買っていたけれど、ブルーに出会って、これに絞った。いつもブルーが飲んでいるのだと聞いたから。背が伸びるようにと祈りをこめて。
それに…。
(今の俺たちは四つ葉のクローバーを見付けることが出来るんだ)
前の生では、いくら探しても四つ葉のクローバーは見付からなかった。自分も、ブルーも。
クローバーは予言していたのだろうか、前の自分たちの悲しい別れを。
そのクローバーが今では見付かる。ブルーの家の庭にも、この家の庭にも、生えていた四つ葉のクローバー。幸せのシンボルのクローバー。
(今度は幸せになれるんだからな、俺たちは)
こんな夜には、普段は忘れがちな四つ葉のマークが頼もしい。
いつかはブルーと共に暮らすのだと、今度は結婚するのだからと。
ミルクを温め、愛用の大きなマグカップに注いで、そこへマヌカをトロリと垂らした。
マヌカの木の蜜だけを集めて出来た蜂蜜。
セキ・レイ・シロエ風のホットミルクにはマヌカの蜂蜜が欠かせない。シナモンミルクをマヌカ多めで、それがシロエが好んだミルク。
ブルーにシロエ風のホットミルクを勧めてやる前はマヌカは常備品ではなかったけれども、今は常備品。料理にも使うし、トーストに塗って食べていることもある。
小さなブルーの家にあるものと同じ銘柄のマヌカかどうかは、一度も確かめていないのだが。
(どうせあいつも覚えちゃいないさ、そんなことまで)
マヌカの瓶を目にすることはあっても、きっとしげしげ眺めてはいない。
ホットミルクは母任せだろう。自分でマヌカを入れたりしてはいないだろう。
あの蜂蜜は薬っぽい味だとマヌカの苦情を聞かされた時も、それを聞かなくなった今でも。
マヌカがホットミルクに溶けたら、仕上げにシナモン。
独特の香りのパウダーを振って、カップを片手に書斎へ向かった。
冷えるとはいえ暖房が欲しいほどでもないから、明かりを点けて机の上にカップを置くと湯気がふわりと立ち昇る。椅子に腰掛け、ホットミルクを一口飲んで。
仕事は学校で全て済ませて来たから、今日の日記を。
引き出しを開けて日記を取り出せば、下から現れたソルジャー・ブルーの写真集。自分の日記を上掛け代わりに被せることにしている『追憶』という名の写真集。
表紙に刷られた前のブルーが憂いを秘めた瞳で見上げてくるけれど。
(すまんな、今日はチビのお前が優先だ)
あっちの方だ、とフォトフレームに顎をしゃくった。
飴色の木製のフォトフレーム。その中で自分と小さなブルーが幸せそうに笑っている。夏休みの最後の日にブルーと写した記念写真。自分の左腕に両腕で抱き付いた、小さなブルー。
そっちのブルーが優先なのだ、と心の中で告げたけれども、写真集の方を見てしまう。ブルーの視線に囚われてしまう。
正面を向いた、ソルジャー・ブルーの一番有名な写真。
強い意志を湛えた瞳の奥に秘められた深い憂いと悲しみの色。前のブルーの本当の瞳。
常に前を向き、弱さを見せることなど無かったソルジャー・ブルーの本当の瞳はこうだった…。
(今のあいつにこの目は出来んな)
きっと出来ない、とフォトフレームの中のブルーに視線を向けた。十四歳の小さなブルー。
一度だけ家に遊びに来た時は、ふと覗かせる大人びた表情に驚かされたものだけれども。子供のものとはとても思えぬ、前のブルーにそっくりな貌をしたものだけれど。
あれから夏が来て、夏が終わって、秋が来る内にブルーはすっかり年相応の子供になった。背を伸ばそうとミルクを飲んでは、少しも背丈が伸びてくれないと嘆く子供に。
一人前の恋人気取りで背伸びしてみても、十四歳にしか見えない小さな子供に。
「キスしていいよ」と言っても可愛い。ただ愛らしく、愛おしいだけ。
愛おしいと思う気持ちが込み上げ、力の限りに抱き締めてみたり、髪を撫でたり。あるいは頬にキスを落としたりと、それは穏やかなブルーへの想い。
出会って間もない頃と違って、熱が上がってしまうことはない。
情欲の獣が身体の奥で頭を擡げてきたりはしない。
(この目、あいつにはもう無理なんだ)
小さな身体に心が馴染んでしまったから。
次にこういう目をする頃には…、と『追憶』の表紙のブルーを見てしまってから肩を竦めた。
小さなブルーを優先せねば、と思っていたのに、またしてもブルーに囚われかけた。
悲しい瞳をしているブルーに、今はもういないソルジャー・ブルーに。
(チビが優先…)
前の自分が相手であっても、ブルーだったらきっと膨れる。
「ぼくの方を見てくれないの?」と頬を膨らませて不満たらたら、唇も尖らせることだろう。
(そういえばあいつ、写真集も買わなかったんだっけな)
ハーレイの写真が欲しいから、と買いに出掛けたと話していた。
キャプテン・ハーレイの写真でかまわないから、素敵な表情のハーレイの写真が欲しかったと。
それを探しに書店に出掛けたブルーだったけども、好みの写真にはもれなく前の自分がセットでくっついていて腹が立ったとかで、写真集は買わずに帰ったと聞く。
(鏡に映った自分に喧嘩を売る子猫だな)
そんな感じだ、とクックッと喉を鳴らして笑った。
ブルーから写真集の話を聞いた時にも、そう言ったものだ。鏡の自分に喧嘩を売っている銀色の猫だと、チビの子猫が毛を逆立てて鏡に唸っているのだと。
(前の自分でも恋敵っていう所がなあ…)
あながち外れてもいないのだが、と可笑しくなる。
現に自分も前のブルーの写真を目にすれば惹かれるのだし、同じ机に小さなブルーの姿を収めたフォトフレームがあるというのに、写真集の表紙のブルーばかりを気にするのだから。
『追憶』の表紙のブルーに語り掛けはしても、フォトフレームの小さなブルーには笑顔を向けるくらいだろうか。「元気にしてるか?」と、「いい夢を見ろよ」と。
これでは小さなブルーが毛を逆立てた子猫よろしく嫉妬するのも無理はない。
前の自分よりも自分を見てくれと、自分は此処に居るのだからと。
(チビが優先、チビが優先…)
写真集の表紙のブルーを振り切り、引き出しを閉めた。
それから机の羽根ペンを取って、ペンの先をインクの壺に浸して。
慣れた手つきで今日の日記を書き付け、吸い取り紙で余分なインクを取って乾かし、引き出しに戻す。『追憶』の表紙のブルーの上掛け代わりに、ブルーが寂しくないように。
(これもあいつは怒りそうだぞ…)
「前のぼくだけ大事にしてる!」と、「フォトフレームのぼくは出しっぱなし!」と。
きっと盛大に怒るであろう、と思うけれども、フォトフレームは飾っておくもの。仕舞い込んでおいては意味が無いのだし、飾って何度も眺めてこそだ。
(しかし、あいつは怒るんだろうな)
出しっぱなしだと、自分の扱いが前の自分よりもぞんざいだと。
フォトフレームにカバーは掛けられないのに。掛けてしまっては肝心の写真が見えないのに。
(それでも膨れて文句を言うのがあいつなんだ)
前の自分に嫉妬したブルー。前の自分と一緒に写っているのが嫌だ、とキャプテン・ハーレイを捉えた写真を悉く却下したブルー。
前の自分に向かって毛を逆立てる銀色の子猫は、出しっぱなしのフォトフレームにも「酷い」と文句をつけるのだろう。「前のぼくの写真集にはちゃんと上掛けがついているのに!」と。
しかも上掛けはハーレイの日記。
銀色の子猫はフーフー怒って、尻尾の毛までがきっと見事に膨らむだろう。
(フォトフレームにカバーは掛けないものなんだがなあ…)
それじゃ見えんぞ、と銀色の子猫に声を掛けても、引っ掻かれてしまうか、無視されるか。
前の自分を大事にしているくせに何を言うかと、今の自分をちっとも大事にしないくせに、と。
(…待てよ?)
俺は大事にしてるじゃないか、と思い出して別の引き出しを開けた。
日記や写真集を入れているのとは別の引き出し、其処に封筒。ブルーの文字。
(こいつを仕舞っているんだっけな)
封筒を手に取り、裏返してみれば自分が書いた字。羽根ペンで初めて書き付けた文字。夏休みも終わりに近付いたあの日、八月の二十八日のこと。
封筒の裏に「ブルーに貰った羽根ペン代」と丁寧に書いて、こうして仕舞った。
(羽根ペン代か…)
三十八歳の誕生日プレゼント。机の上の白い羽根ペン。
替えのペン先やインク壺などがセットだったそれは、ブルーが買うには高すぎた。
けれどブルーは羽根ペンを贈りたくてたまらず、どうしても諦め切れなくて。日毎に深くなってゆく悩みに気付いて、どうかしたのかと尋ねてみたらブルーの悩みは羽根ペンだった。
自分でも羽根ペンが欲しい気がしていたから、自分で買おうと心に決めて。
ブルーには「出せる分だけ出してくれ」と言って買ったのが今の自分の羽根ペンのセット。
それを誕生日にブルーに渡して、ブルーの手から自分に贈って貰った。その日にブルーが封筒に入れた羽根ペン代をくれたけれども、使ってはいない。使おうなどとは思いもしない。
(ちゃんと使ってよ、と言われはしたがな…)
小さな恋人が出せる精一杯の羽根ペン代。ブルーの小遣いの一ヶ月分だと言っていた。
恋人の気持ちと想いが詰まった封筒の中身を出して使おうとは思わない。
これは一つの宝物。ブルーに貰った、羽根ペンよりもずっと大切な温かな想い。
時々、こんな風に思い出しては取り出して眺めて、また戻しておく。引き出しの奥に、そっと。
いつかブルーと結婚したなら、この封筒を見せてやろう。
「この封筒を覚えているか?」と、「お前に貰った羽根ペン代だ」と。
そして二人で記念の何かを買うのもいい。封筒の中身の羽根ペン代で、結婚出来た記念の品を。
(ブルーの小遣いの一ヶ月分…)
何を買うことが出来るのだろうか、これの中身で。
二人お揃いの何かを買うか、二人で使える品物にするか。二人で考えて、あれこれ選んで。羽根ペン代は素敵な品物に変わる。二人で暮らす家に置くためのものに。
(取っておくのもいいんだがな)
使う代わりに、タイム・カプセルのように引き出しの奥に。
この封筒が今日までそうして過ごして来たように、結婚する時までそのまま眠っているように。
ブルーと結婚した後になっても仕舞い込んだままで、取り出しては二人で眺めて、笑って。
(使えと言っておいたのに、と一番最初は怒りそうだな)
どうして使ってくれなかったのかと、仕舞ったままになっているのかと。
ブルーは膨れてしまいそうだけれど、その頃にはブルーにもきっと分かる筈。使わずに仕舞っておいた理由も、その封筒を見せられた理由の方も。
だからこそ二人で記念に使う。記念の品を何か買いにゆく。
もったいない、とブルーが言うのであれば。
封筒は記念に残すとしても中身は使おう、と言うのであれば。
結婚した記念になる何か。お揃いの何かか、二人で使うことが出来る品物か。
それを選びに出掛けるのもいい。十四歳だったブルーが奮発して払った羽根ペン代で。
今のブルーは羽根ペンを贈ってくれたけれども、前のブルーは。
悲しい瞳で今も自分を見詰めるブルーは…。
(前のあいつは…)
シャングリラでは誰も小遣いなど持ってはいなかったから。
買いに行こうにも店が無かったから、お互い、プレゼントを贈り合うことも無かった。ブルーは何もくれなかったし、自分も贈りはしなかった。
それに、無かった誕生日。
成人検査とその後の地獄は誕生日の記憶も奪ってしまった。生まれたその日を祝いたくても何も思い出せず、アルテメシアを落とした後でようやくデータを手に入れた時は、ブルー亡き後。
(誕生日ってヤツすら一度も祝えなかったんだ…)
知っていたなら、ブルーがこの世に生まれて来た日を祝ったろうに。
プレゼントを贈ろうと、下手な木彫りでも評判が良かったスプーンくらいは彫ったのに。
(…いかん、いかん)
またチビの方から逸れちまった、と頭を振った。
前の自分たちはプレゼントなるものを贈り損ねたが、今ならいつでも、と思ったけれど。
誕生日でなくとも思い付いた時に贈り合える、と考えたけれど。
(駄目だな、教師と生徒だったな)
たまに提げてゆく土産がせいぜい、それも食べ物くらいなもの。いくらブルーに食べて欲しいと願ったところで、自分の手料理は持ってゆけない。
何も知らないブルーの母を恐縮させてしまうから。料理が趣味だと説明をしても、申し訳ないと思われてしまうから。
(手料理にしたって、何かを買って贈るにしたって、今の状態じゃなあ…)
なかなかに難しそうではある。花束だって贈れはしない。
ブルーの方でも教師のハーレイに贈り物となったら両親の出番、ブルーは黙って見ているだけ。これにしたいと選びも出来ずに、自分の手からは渡せもせずに。
どうやら今の自分たちでも、自由にプレゼントを贈り合える日が訪れるまでは遠そうで…。
(結婚前には贈るんだろうが…)
プロポーズの言葉と、記念の品物。
婚約指輪をブルーが欲しがるか、嵌めたがるかは分からないから、それはその時。
とにかく記念の品を贈って、ブルーを花嫁として迎えるための準備を始めなければならない。
婚約となれば、ブルーからも何か貰えそうだが。
記念の品をプレゼントされるのだろうが、その記念品を買うための費用の方は…。
(あいつが稼いだ金ってわけではないんだろうなあ…)
アルバイトをしよう、と思うような年まで、多分ブルーは学校にいない。
今の学校を卒業すれば結婚出来る年の十八歳だし、恐らくブルーは進学しないで真っ直ぐに嫁に来るのだろう。寄り道なんかはしていられないと、やっと十八歳になったのだから、と。
今の学校は義務教育。アルバイトは義務教育の間は禁止。
ゆえに一銭も稼がないまま、ブルーは婚約記念の何かを買って贈ってくれるのだが。
そういう結末になる筈なのだが…。
(だが、あいつは得意満面なんだ)
決まっている、と笑みが零れる。
その日に備えて貯めておいた小遣いか、あるいは貯金を下ろして来たか。
両親からも充分にプラスして貰って、生まれて初めての高価な買い物。羽根ペンとは全く比較にならない高価な品物を手にしたブルーが、「これ」と笑顔で差し出すのだろう。
自分で選んだ品物なのだと、両親と一緒に買いに行ったと。
十八歳を迎えた直後か、その直前の頃のブルーがたった一人で高価な買い物は難しそうだ。
自分で選ぶと言い張ったとしても、スポンサーの両親が目を光らせるのに違いなくて。
(うん、親付きだな、間違いなく)
一人息子が大金をドブに捨ててしまわぬよう、お目付け役が居ることだろう。
ついでに出資者、ブルーの一世一代の贈り物のためのスポンサー。
そして結婚した後は…。
(俺の金だな)
あいつが使う金は俺の金なんだ、と肩を揺すって暫く笑った。
たとえブルーが両親に貰った小遣いを持って嫁いで来たとしても、使わせまい。
今度は守ると決めているから。
ブルーの面倒は全て自分が見るのだと、世話をするのだと決めているから。
(食費からして俺持ちだしな?)
普段の食事も、自分が仕事に行っている間にブルーが口にする菓子なども、買うのはハーレイ。料理をするのもハーレイだけれど、材料を買うのも当然、ハーレイ。
シロエ風のホットミルクのためのミルクも、マヌカも。それにシナモンも。
何もかもを自分が買うことになる。
ブルーは何も買わなくてもいい。ただ微笑んでいてくれればいい。
幸せなのだと、毎日がとても幸せなのだと。
(気付いてるか、ブルー?)
今度の生では何もかもを任せて生きてもいいということに。
何ひとつ責任を背負うことなく、全てをハーレイに任せてしまって、ただ幸せに。
そういう生き方をしてもいいのだという選択肢に、それを望まれているという事実に。
今度こそブルーを守りたいから、そうしたいと望んでいるけれど。
ブルー自身も、夢は「ハーレイのお嫁さん」だけらしいけれど。
(きっと分かってはいないんだろうな…)
全てを任せて生きていいのだ、という所までは。
前の自分が生きた道とはまるで違うと気付いてはいても、その生き方の本質にまでは。
(何度も言ってはいるんだがなあ、何もしなくていいんだぞ、とな)
料理すらもしなくてかまわないから、と言ってやってはいるのだけれども、分かっているのか。
自分がどれほど守りたいのか、守ろうとしているか、気付いているのか。
まるで分かっていないのだろう、と思うけれども、それも可愛い。
花嫁になる日を夢に見るだけの小さなブルーが愛おしい。
その日が来たなら幸せになれると、お嫁さんになるのだと夢見るブルーが。
(この封筒をいつ見るんだろうな?)
「ブルーに貰った羽根ペン代」と自分が書き付けておいた封筒。
日記や前のブルーの写真集とは別の引き出しに大切に仕舞ってある封筒。
いつかは嫁に来たブルーと二人で、この封筒を出して眺める。中身が入ったままの封筒を。
「ちゃんと使って、と言ったのに!」とブルーは真っ赤になるのだろうか。
まさかあるとは思わなかったと、とうに使ったと思っていたと。
(そんなあいつだから取っておくんだ)
もしも中身を使うとしたら、それがブルーが結婚した後、一度だけ自分で支払う機会。遠い日の自分が出した費用でも、羽根ペン代でも、ブルーの財布から出て来たもの。
結婚してもブルーは財布を持つのだけれども、中身は自分が入れてやるから。ブルーの私財など使わせないから、使える機会はたった一度で、この羽根ペン代と書かれた封筒に入った分だけ。
(そうだな、こいつの中身だけだな、あいつの金で何かを買うのなら…)
ブルーは其処まで気付くだろうか?
タイム・カプセルのように引き出しに仕舞われた封筒の中身が持っている意味に。
(もしも気付いたら、使っちまおうって言いそうだよなあ…)
恥ずかしいから早く使おうと、早く何かを買いに行こうと。
そうなった時は…。
(意地でも使わせてやらない方だな、取っておいてな)
同じ分だけ自分が出すから、それで食事でもしようじゃないか、と宥めておいて。
この封筒はまた引き出しの奥に仕舞い込む。
ブルーに貰った羽根ペン代。使わずにタイム・カプセルのように、引き出しの奥に大切に。
(早く使おう、って言い出す度に食事かお茶かで誤魔化さないとな)
そうしてブルーにキスを贈って、強く抱き締めて。
今度こそ自分がブルーを守る。何も背負わず、ただ幸せに微笑んで生きてくれればいい。幸せな日々を幸せの中で、幸せだけに包まれて生きてくれればいい。
(今度は俺が守るんだからな)
この封筒の中身も使わせないほど、自分の愛だけで包み込んで。
そうやって生きると決めたのだから、と封筒を引き出しの奥へと仕舞った。
フォトフレームの中のブルーに見付からないよう、そうっと、そうっと。
小さなブルーに「何でもないぞ」とウインクしてから、カップの中で冷めてしまっていたホットミルクを飲み干して…。
(もう一杯やるか)
小さなブルーはとうにベッドに入った時刻。
温もりは届けてやれないけれども、体温を分けてやりたい冷える夜だし、温かいものを。
(あいつの夢に温もりだけでも届けてやれるといいんだがなあ…)
幸せな夢を見られるように。メギドの悪夢に捕まらぬように。
今度はホット・ブランデー・ミルク。
いつかブルーが欲しがるだろうし、その日を思い浮かべるのもいい。
ぼくも欲しい、と言い出すブルーを。
前のブルーと同じで酒には酷く弱いのだろうに、飲みたいと強請るブルーの姿を。
(あいつが喜びそうなレシピにするのもいいな)
ホット・ブランデー・ミルクをそのままもいいが、研究するのもいいかもしれない。
冷える夜には右手が冷たいと訴えるのが常のブルーのために。
結婚する頃、ブルーの右手は冷たかったことも忘れているかもしれないけれど。
それでもたまには思い出すだろうし、そんな時に備えて飲み物を。
酔っ払わない程度に身体がほんのり温まるだろう、優しい甘さのホットミルク。
温めたミルクにブランデーを少し落として、砂糖か蜂蜜。
そういうレシピを工夫してみよう。
二人で暮らしてゆく暖かな家にシロエの影は必要ないから、同じ蜂蜜でもマヌカは抜きで…。
冷える夜・了
※今のブルーと、前のブルーと。一人きりの夜には、揺れ動きがちなハーレイの気持ち。
けれど、大切なのは「今」。今度こそ、ハーレイはブルーを守り抜くのです。
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