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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

忘れたコーヒー

 仕事で遅くなって、ブルーの家に寄れなかったから。
 こういう日にはジムやドライブなどに出掛けたりもするのだけれども、今日は買い出し。家から近い食料品店の駐車場に愛車を停めて、店の中へと。
 商品を入れるための籠を左手に提げ、あれやこれやと入れてゆきながら。
(コーヒーも買っておかないと…)
 そろそろ買わねばならない頃だ、と思い出した。
 ブルーの家では紅茶ばかりを飲んでいるけれど、それはブルーに合わせてのこと。自分の好みで選んでいいなら断然コーヒー、それがハーレイのお気に入り。
 豆を挽く時間もドリップする時間も、心安らぐ寛ぎの時間。何が無くとも、コーヒーだけは家に無くてはならないもの。そのコーヒー豆がもうすぐ切れる頃だから。
(早めに買っておかんとな)
 仕事が早く終わった日にはブルーの家でお茶と夕食。帰る頃にも食料品店は開いているのだが、最低限の買い物だけをする習慣。じっくり選びたいコーヒー豆を買うなら、今日のような日に。



 何にするかな、とコーヒー豆の売り場に出掛けて驚いた。
 コーヒーフェアを開催中。地球は元より、コーヒーで知られた他の星で産する豆も色々とある。そういえばチラシを見たかもしれない。期間中に寄れるか分からないし、と読まなかったが。
(ちょうどいい日に来合わせたな)
 これだけあれば選び放題、専門店まで行かねば買えない豆もあるのが実に嬉しい。まさに愛好家向きのイベント、コーヒー党には見ているだけで楽しいもので。
(どれにしようか迷うトコだな)
 高級品の豆も捨て難いけれど、珍しい豆を買うのもいい。行ったこともない他の星の豆。
 そういった豆も悪くはないな、と普段は見かけないような品を端から順に目で追っていたら。
(こいつは…!)
 この店ではついぞお目にかからない豆のパッケージに惹き付けられた。
 アルテメシア産と謳ったコーヒー豆。
 有名どころの豆などと違って、味の特徴や魅力を記した説明は全く添えられていない。つまりは評判の高いコーヒーではなく、フェアのためだけに取り寄せられた品。
 恐らく売りはアルテメシア産というだけのことで、ミュウの歴史の始まりの星から届いた豆。
 早い話が話題性だけ、コーヒーとしては特筆すべき何も持ってはいないのだろうが…。



(ふうむ…)
 懐かしいな、とアルテメシアの名前が刷られた豆の袋を手に取った。印刷されたカラー写真には忘れようもない雲海の星。アルテメシアと言えば、今の時代でもこの雲海。
 青い地球に生まれ変わった自分は肉眼で見てはいないけれども、前の自分は何度か眺めた。あの星に初めて辿り着いた時も、ナスカの惨劇の後でアルテメシアに戻った時も。
(こうして見ると変わらんなあ…)
 遠い記憶の中にある星と。
 前の自分がシャングリラのブリッジから見ていた星と。
 手にしたらもう、元の棚へと戻せはしない。星に呼ばれたと言うべきか。
(アルテメシアのコーヒーか…)
 どんな味だとも書かれていないし、食料品店のスタッフのお勧めとも書かれていないコーヒー。価格も特に高めではなくて、アルテメシアからの輸送費などを思えばコーヒーとしては安い方。
(あんまり期待は出来そうにないが…)
 しかし、また会えるとは限らないから。家から歩いて来られるほどの店で、また出会えるのかは謎だから。
(…買ってみるかな)
 よし、とコーヒー豆の袋を籠の中に入れた。
 雲海の星が呼んだのだろうと、買うのならばこのコーヒーだと。



 愛車を運転して家に帰って、買った食品を整理して。冷蔵のものは冷蔵庫へ。常温で保存出来るものは棚などへ、と仕分けを済ませて、アルテメシアのコーヒー豆だけはテーブルの上に。
 それから手早く夕食を作り、ダイニングのテーブルで食べながらコーヒー豆の袋を眺める。袋に刷られた雲海の星。今も雲海に覆われた星。
(アルテメシアか…)
 あの星で暮らした時間は長かったけれど、大部分は雲海の中で過ごした。シャングリラの船体を覆い尽くして匿ってくれる白い雲の中で。
(こういう姿はあんまり記憶に無いんだよなあ…)
 アルテメシアの全景は。
 暗い宇宙にぽっかりと浮かぶ、雲海の星の姿そのものは。
 けれど、懐かしさが込み上げてくるアルテメシア。長く暮らした思い出の星。
 この星で何度、コーヒーを口にしただろう。シャングリラの中で熱いコーヒーを飲んだだろう。自室で、休憩室で飲んだコーヒーはそれこそ星の数ほど、とても全部を思い出せはしない。
 ブリッジでも仕事の合間に飲んだ。「お疲れ様です」と若いブリッジクルーが運んで来たのを、キャプテンだけが座るシートで。ある時は舵を片手で握りながらのコーヒーブレイク。
(美味かったんだ、あの一杯が)
 疲れが癒えてゆくコーヒー。神経をすり減らす操舵の間も、あのコーヒーで乗り切れた。絶妙な苦さと独特の味わい、まさに命のための一杯。
 ただし、キャロブのコーヒーだったが。
 イナゴ豆という名の木の実から生まれた、代用品のコーヒーだったが…。



 そんなコーヒーを飲んで過ごした雲海の星。
 生まれ変わって、青い地球の上でアルテメシア産が謳い文句のコーヒー豆を買ってみたものの。
(…美味いのか、これは?)
 店では深く考えないまま籠へと入れたけれども、思い起こせば味を知らない。
 アルテメシアの雲海の中ではキャロブのコーヒー、それだけが全て。地上で暮らしていた人類が飲むような本物のコーヒーには出会えなかった。
(潜入班のヤツらは飲んだんだろうが…)
 ミュウと判断されそうな仲間を事前に救い出すために派遣されていた潜入班。人類側のデータを操作し、人類に紛れて暮らす間にコーヒーも口にしただろう。
 けれども、彼らは土産を買っては帰らないから。物資の補給に派遣されていたわけではないから土産などは無く、アルテメシア産のコーヒーは船に届かなかった。飲める機会は一度も無かった。



(アルテメシアを落とした後も…)
 最初に陥落させた星。ミュウの歴史の始まりの星。
 暫く滞在していた筈だが、その間にはコーヒーも飲んだ筈なのだが。
(ジョミーの補佐で降りていたしな)
 若きソルジャーの右腕として、何度も地上に降りていた。人類側との会談や会食もあった。
 そういった席でカップを手にした記憶はある。熱いコーヒーを満たしたカップ。
 シャングリラの中では相変わらずキャロブのコーヒーだったし、地球に着くまでキャロブ以外のコーヒーは無いままだった。人類との戦いに勝利したいなら、生活を変えてはならないから。
(何処で補給が断たれちまうか分からないしな、戦時中では)
 一度贅沢を覚えてしまえば、人はそれに慣れるものだから。
 遠い昔に奪う生活から自給自足へと切り替えた時に、噴出した不満を覚えていたから。
 人類側との戦いに勝って星を幾つも手に入れた後も、シャングリラは常に自給自足を守る路線を貫いた。地上に降りて飲食するのは自由だったが、地上の物資を補給用に積みはしなかった。
 だからキャロブのコーヒーしか無く、そのまま地球まで行ったけれども。
(アルテメシアで飲んだってことは…)
 シャングリラを離れて地上で飲んだものならば、恐らくはアルテメシアのコーヒー。あの雲海の星で育ったコーヒー豆から淹れたコーヒー。
 けれど…。



(味の記憶が全く無いぞ…!)
 飲んだ筈のコーヒーの記憶が無い。
 あれほどに好んだ筈のコーヒー。キャロブで作った代用品でも好んだコーヒー。
 紅茶だったらシャングリラで作った本物の紅茶があったというのに、前の自分はコーヒーの方を好んで飲んだ。前のブルーとのお茶の席では飲まなかったけれど、一人の時は。
 自他ともに認めるコーヒー好きのコーヒー党。
 それが本物のコーヒーに出会えば、大喜びで飲みそうなのに。その味も香りも記憶にしっかりと刻み込まれて、忘れる筈もなさそうなのに…。
(忘れちまったのか…?)
 何故、と考えるまでもなく直ぐに分かった。忘れたのではなかったのだ、と。
(…そうだ、分かっていなかったんだ…)
 自分が何を飲んでいるのか、それがどういう味わいなのか。
 本当に本物のコーヒーだろうが、キャロブで作ったコーヒーだろうが、認識してはいなかった。機械的に喉へと流し込んだだけで、舌は味さえ感じなかった。
(どうでもいいことだったしな…)
 あの時、ブルーはもういなかった。
 アルテメシアへと戻った切っ掛け、それをメギドを沈めて作って、ブルーの命は宇宙に消えた。
(あいつが何処にもいない世界なんて…)
 ジョミーを頼む、とブルーが自分に言い残したから生きたけれども。
 約束を守ろうと生きたけれども、自分の世界に食べ物の味など、もう無かったのだ。
 生きる意味さえも。
 だから覚えているわけがない。アルテメシアで飲んだコーヒーの味も、それが与えた感覚も。



(そうなってくると…)
 前の自分が口にしながら素通りしていたコーヒーの味。雲海の星で産するコーヒー。
 飲んだら思い出すのだろうか、とパッケージを開けて豆を挽いてみたけれど。
 愛用のコーヒーメーカーで丁寧に淹れて、ダイニングで飲んでみたけれど。
(…こんな味だったか?)
 可もなく不可もないコーヒー。
 どうということもないコーヒー。
 食料品店で何の説明も無かった理由が頷けるほどに、それは特徴の無い味で。
(せめて、こう…)
 前の自分の記憶の欠片でも引き寄せるだとか、舌の上に味が蘇るだとか。
 そういったことを期待したのに、何一つ教えてくれないコーヒー。
 あの日、あの星でこれを飲んだと、あの味なのだと思い出しさえしないコーヒー。



(うーむ…)
 どうしたものか、と少し考え込んで。
 ブルーと飲んだら変わるだろうか、とコーヒーを淹れたマグカップを持って書斎に向かった。
 明かりを点けて、机の前に座って。
 熱い間に飲まなければ、と急いで日記を書いてしまって、机の上に載せた写真集。前のブルーが表紙に刷られた『追憶』という名のソルジャー・ブルーの写真集。
 正面を向いた一番有名なブルーの写真は、青い地球を背景に憂いと悲しみとを秘めた瞳で。その瞳を見詰め、心の中で語り掛けてみた。「アルテメシアのコーヒーだぞ?」と。
 写真集の表紙のブルーと向き合い、そうっとカップを傾けるけれど。
 まだ熱いコーヒーを喉へと落とし込むけれど、口の中で転がしてもみたのだけれど。
 一向に戻らない記憶。
 舌が覚えていないコーヒー。
 「これだ」という気はしなかった。
 アルテメシアでこれを飲んだと、あの星に降りて飲んだコーヒーの味はこれだった、とは。



(全く話にならんな、これは…)
 サッパリ覚えていないのではな、と苦笑した。
 まさかここまで記憶に無いとは、まるで覚えていないとは。
(本当に俺は、ただ生きていたというだけのことだったんだな…)
 ブルーがそれを言い残したから、「ジョミーを頼む」と最後の言葉を置いて逝ったから。
 そのためにだけ生きて、地球まで行った。コーヒーの味さえ分からないままで。
(コーヒーは好きだったんだがなあ…)
 ブルーの好みが紅茶でなければ、きっと毎日、コーヒーばかりを飲んでいたろう。目覚めて朝の一杯を飲んで、昼食までの間にも。ブルーと過ごしたお茶の時間も、きっとコーヒー。
 それほどに好んだコーヒーの味を、本当に本物のコーヒーの味を感じないままで生きたとは…。
(まさしく生ける屍ってヤツだな)
 ブルーを失くしてしまった後は。
 前のブルーを喪った後は、コーヒーの味さえ分からないまま、ひたすらに地球を目指していた。辿り着ければ役目は終わると、ブルーの許へと旅立てるのだと。
 そうやって生きたことを後悔はしない。
 ブルーに望まれて生きた生だし、何も後悔はしないけれども。



 お前はコーヒーは駄目だったよな、と写真集の表紙のブルーに微笑む。
 俺はアルテメシアで本物のコーヒーを飲んだが、お前が居たってコーヒーを飲みたいと言ったりしなかったろうな、と。
 コーヒーが苦手だったソルジャー・ブルー。
 前の自分が美味しそうに飲むから、と何度も強請って飲んでは「苦い」と顔を顰めた。自分には向いていない味だと、飲むなら紅茶の方がいいと。
 もしもアルテメシアを落とした後にブルーが生きていたならば。
 人類側との会談や会食に臨んでいたなら、其処で出されたコーヒーで苦労していただろう。あの頃、基本の飲み物はコーヒー。何も注文しなかった時は、もれなくコーヒー。
 湯気を立てる濃い色の液体を前に、困るブルーが目に浮かぶようだ。きっと窺うような赤い瞳を向けて来たのに違いない。この飲み物は飲まねば駄目かと、紅茶に替えては貰えないのかと。



(そういうあいつも見たかったような気がするなあ…)
 叶わずに終わった夢だけれども、前のブルーはメギドで散ってしまったけれど。
 出来るものならアルテメシアへも、地球へまでも共に旅したかった。
 二人で暮らしたあのシャングリラで、白い鯨で星々の散らばる宇宙を渡って。
 コーヒーが苦手で飲めないブルーの補佐をしながら、控えめ過ぎて出されたコーヒーをそのまま飲んでしまいそうなブルーの代わりに「紅茶を頼む」と何度も頼んでやりながら。
 けれどもブルーはいなくなってしまい、自分は独りぼっちになった。
 コーヒーの味さえ分からないまま地球まで旅して、地球の地の底で瓦礫に押し潰されて。
 どうしたわけだか、気付けば青い地球に来ていた。
 小さなブルーが居る地球の上に、生まれ変わった十四歳のブルーが生きている地球に。
(今のあいつも…)
 やはりコーヒーを飲めはしなくて、一度酷い目に遭っていた。苦いと、とても飲めないと。
 今のブルーとのコーヒーの思い出はその程度。
 たまに夕食の後にコーヒーが出ると、恨めしそうに見ているブルー。
 あれは自分には飲めはしないと、いくら食事に合う飲み物でもコーヒーを用意するなんて、と。
 そうした席ではブルーの前にだけ紅茶のカップ。
 コーヒーが飲めないブルーのためにと紅茶だけれども、ブルーは嬉しそうではない。仲間外れにされてしまったと、自分もコーヒーが飲みたいのに、と。
 飲めもしないくせに。強請ってコーヒーを淹れて貰っても、困るだけのくせに。



(それにしたって、このコーヒーなあ…)
 どうなんだか、とマグカップの中身を口に運んで味わってみる。
 アルテメシア産だというだけのコーヒー、ミュウの歴史の始まりの星から来たコーヒー。
 味も香りも可も不可もなくて、前の自分の記憶さえ戻って来ないコーヒー。
 失敗だったか、という気がしないでもない。
 アルテメシアの名とパッケージに釣られて買いはしたものの、有難味すらも無いコーヒー。
 これを買うよりも普段の豆を買うべきだったかと、美味しいわけでもないのだから、と。
 いつも飲んでいる定番を買えば味に間違いは無かったわけだし、アルテメシア産よりも味わいは数段上になる。それを選ぶか、もっと他の豆。
(実に色々あったからなあ…)
 違う豆を買うなら、有名なものか、説明文を参考に何か選んで買えば良かった。
 産地だけが売りのアルテメシア産よりも美味しいコーヒーが飲めた筈だと思うけれども。
(こいつも話の種にはなるか…)
 アルテメシアのコーヒーだしな、と考え直した。
 長く暮らした星のものだと、前のブルーと見ていた星のコーヒーなのだと。



 使えるとしたら話の種。
 その程度の価値しか無さそうだな、と判断を下したアルテメシアから来たコーヒー豆。それきり淹れずに数日が過ぎて、週末が来て。
 よし、と適当な紙の袋に突っ込み、ブルーの家へと持って出掛けた。
 門扉の脇のチャイムを鳴らしてブルーの母と父とに挨拶してから、二階の窓から手を振っていたブルーが待っている部屋へ。テーブルを挟んで向かい合って座り、袋の中から豆を取り出す。
「おい、懐かしいだろう? このパッケージの写真を見てみろ」
 アルテメシアのコーヒー豆だぞ。近所の店のコーヒーフェアで買ったんだ。
「お土産なの?」
 くれるの、とブルーが赤い瞳を輝かせるから。
「お前、コーヒー、飲めないだろうが。土産に持って来てどうするんだ」
 それにもう開けてしまったからな。
 買ったその日に飲んでみたんだ、前の俺たちが長く暮らしたアルテメシアのコーヒーなんだし。
「それ、懐かしい味がした?」
「いや、それが…」
 サッパリ分からん、とハーレイは正直に白状した。
 コーヒーの味を覚えていないと、懐かしいかどうかも分からないのだと。



「分からないって…。ハーレイ、覚えていないの?」
 アルテメシアのコーヒーの味。
 もしかして一度も飲んでいないとか、そういうこと?
 シャングリラじゃキャロブのコーヒーだったし、アルテメシアのコーヒーなんかは飲んでない?
「そうじゃない。何回も飲んだ筈なんだがな…」
 本当に何度も飲みはしたんだが、俺は覚えていないんだ。俺の舌もな。
「なんで?」
 ハーレイの好きなコーヒーだよ?
 それなのに覚えていないだなんて…。キャロブじゃなくって本物のコーヒーだったのに…。
「お前を失くしちまったからさ」
 前の俺がアルテメシアのコーヒーを初めて飲んだ時には、お前はとっくにいなかった。
 アルテメシアを落とした後に地上で飲んだコーヒーだしなあ、味なんか分かるわけがない。俺は死んだも同然だったし、何を食っても何を飲んでも、そいつはただの栄養補給だ。
 美味いと思うような感情、あの頃の俺にはもう残ってはいなかったんだ。
「ごめん…」
 ぼくのせいだね、ぼくがメギドに行っちゃったから…。
 ハーレイにジョミーを頼んじゃったから、ハーレイ、辛くても生きるしかなくて…。
 シャングリラの中に独りぼっちで、コーヒーどころじゃなかったよね…。



 ごめん、とブルーが謝るから。泣きそうな顔になってゆくから、「いいさ」と銀色の頭をポンと叩いて微笑んでやった。
 「あの時は仕方なかったろう」と、「お前だって辛かったんだから」と。
「俺はいいんだ、前のお前の望み通りに生きたんだしな。それに…」
 味は全く覚えてなくても、本物のコーヒーを何度も飲んでから死んだわけだし、本望だ。
 アルテメシアのだけじゃなくって、ノアとかのコーヒーも飲んだんだからな。
「それならいいけど…。覚えてなくても飲めただけでいいなら、嬉しいけれど…」
 じゃあ、今、生きてるハーレイに質問。
 アルテメシアのコーヒー、美味しかった?
 コーヒーフェアに出てくるほどだし、うんと美味しいコーヒーだったの?
「そうでもないな。俺に言わせりゃ、可もなく不可もなく、って味だな、こいつは」
 ミュウの歴史の始まりの星のコーヒーなんです、って話題作りになるだけだろう。
 大して美味いってモンでもないし。
「不味いわけ?」
「そこまでは言わんが、いつもの豆にすべきだったな」
 でなけりゃ、店のお勧めの豆。こういう味だと説明文がついてる豆がけっこうあった。
 そんな豆もいいし、名前しか知らない有名どころの豆でも良かった。
 要するに俺はアルテメシアって名前に釣られただけだな、あの雲海の星の名前に。



「そうなんだ…。だったら、その豆で淹れたコーヒー…」
 ぼくも飲んでみるよ、もうパッケージが開いているなら。
「はあ?」
 どうしてお前が飲むことになるんだ、コーヒーは苦手だっただろうが。
 俺が美味いと絶賛したなら飲みたくなるって気持ちも分かるが、こいつはだな…。
「ぼくのせいでハズレのコーヒー豆を買っちゃったんでしょ?」
 アルテメシアのコーヒーの味を覚えてないから、買っちゃったわけで…。
 ハーレイが味を覚えていないの、前のぼくがいなくなっちゃったからなんだものね。
「そうではなくてだ、俺が勝手に、懐かしいな、と買ったんだぞ」
 アルテメシアの名前と写真に釣られちまって、どんな味かも考えないで。
「でも…。味を覚えていたら失敗しないよ?」
 大したことないコーヒーなんだ、って知っていたなら別のを買うでしょ?
「それはそうかもしれないが…。分かっていたなら別のにするが…」
 しかしだ、前の俺が飲んでたアルテメシアのコーヒーだがな。
 ずうっとキャロブのコーヒーばかりを飲んでたんだし、二百年ぶりくらいの本物だぞ?
 どんな味でも美味いと思って感激しないか、俺に味覚があったとしたら。
「最初はともかく、何回も飲んでたら分かってくるよ。本当に美味しいコーヒーかどうか」
 前のぼくが物資を奪ってた頃には本物のコーヒー、あったんだから。
 その内に舌が思い出してきて、当たりかハズレか気付くと思うな。
 おまけに今は地球のコーヒーを飲んでるんだし、古い記憶でも比べられるよ。ハーレイが味さえ覚えていればね。
「うーむ…」
 言われてみればそうかもなあ…。
 漠然とした味の記憶しか無くても、うんと美味かったか、そうでないかは分かったかもな。前の俺が味わって飲んでいたなら、これが本物のコーヒーなんだと味わっていたら。



「ほらね、やっぱり責任はぼくにあるんだよ。今のぼくじゃなくて前のぼくだけど」
 ハーレイがアルテメシアのコーヒー豆を買っちゃった原因、ぼくだから…。
 責任を取ってハズレのコーヒー、飲んでみるよ、ぼくも。
「おい、やめとけ! お前、ホントに苦手だろうが!」
 この前みたいに眠れなくなるぞ、それで酷い目に遭ったのをもう忘れたのか!?
「お昼前だから大丈夫。夜にはコーヒー、抜けちゃうもの。…ママー!」
 ママ、とブルーは部屋の扉を開けて声を張り上げた。母が居るだろう階下に向かって。
 間もなく「なあに?」と階段を上がって二階に来た母。
 小さなブルーがニッコリと笑う。
「コーヒー、淹れてよ。この豆、ハーレイが持って来たんだ」
 これで淹れて、とテーブルの豆の袋を指差し、ブルーの母が覗き込んで。
「あらまあ、アルテメシアのコーヒー豆ね?」
 シャングリラが長いこと居た星なのね、と母は理解したようだから。ハーレイは「そうです」と苦笑いをして、豆の袋を差し出した。
「美味いコーヒーではないんですが…。よろしかったら、ご主人とどうぞ」
 アルテメシア産というだけですので、と念を押せば、母は「お相伴させて頂きますわ」と笑顔で応えてブルーの方へと視線を向けた。
「ブルーはミルクとお砂糖とホイップクリームたっぷりなのよね?」
「うん…。でも、それ、別にして持って来てよ!」
 自分でちゃんと調整するから!
 お砂糖もミルクも、クリームも自分で味見しながら入れていくから、別にしておいて。
 いいでしょ、ママ?



 そうして届いた、コーヒーが二つ。
 テーブルの上にアルテメシア産のコーヒーを満たしたカップが二つ。
 濃い色のコーヒーは片方だけで、もう片方には…。
「うー…」
 カフェオレと呼ぶにも薄い色の液体が入ったコーヒーのカップ。顔を顰めているブルー。
 その手が砂糖をスプーンで掬ってサラサラとカップに加えているから。
「まだ入れるのか?」
 何杯目だ、とハーレイは半ば呆れ顔だが、ブルーときたら。
「美味しくないしね、甘くないとね」
 もっと、とミルクを、砂糖を、ホイップクリームを足してゆくブルー。
 前に自分がやっていたように、前のブルーがそうしたように。
 別物になってゆくコーヒー。そのやり方は前のブルーも何度もしていたことだったから。
 キャロブのコーヒーを相手に何度も、何度も、前のブルーがやっていたから。
 小さなブルーに重なって見える。
 幼い仕草に前のブルーのしなやかな指が、ミルクや砂糖を入れていた手が。
 それは懐かしくて温かな遠い記憶で、ハーレイの心がほどけてゆく。
 アルテメシアのコーヒーの味は全く覚えていないけれども、自分たちは地球に居るのだと。
 遠い昔に失くしたブルーは戻って来たと、そしてコーヒーを味わっていると。
 前のブルーは辿り着けなかった、陥落した後のアルテメシア。
 飲めずに終わったアルテメシアのコーヒーをブルーが飲んでいるのだと、苦手なコーヒーを自分好みにアレンジしながら飲んでいると。
 ミルクに砂糖に、ホイップクリーム。
 本来の形とはまるで違った飲み方だけれど、ブルーはそれが好きだったと。



 ハーレイはホウと溜息をつくと、小さなブルーをじっと見詰めた。
「そうか、お前がアルテメシアのコーヒーをなあ…」
 あれから長すぎる時が流れて、お前はチビになっちまったが…。
「どうかした?」
 なあに、とブルーが首を傾げるから、ハーレイは笑みを返してやった。
「いや、責任。取ってくれたな、と思ってな」
「どういう意味?」
 ちゃんと飲んでるよ、責任を取って。ハズレのコーヒー、飲んでるけれど…。
 ハーレイ、とっても嬉しそうだよ、ぼくにもハズレを飲ませたから?
「そうじゃないんだ。お前がコーヒーを飲んでいるな、と思うと嬉しくてたまらなくてな」
 俺が味さえ覚えてなかった、あのコーヒー。アルテメシアで飲んだコーヒー。
 そいつをお前が飲んでるんだな、と見ているわけだ。
 前のお前はアルテメシアでコーヒーなんかは飲めなかったが、飲めたんだな、と。
 青い地球の上に生まれ変わって、アルテメシアのコーヒーをな…。



 ブルーが生きてコーヒーを飲んでくれている。
 前の生で暮らした雲海の星から来たコーヒーを、アルテメシアのコーヒーを。
 ミルクに砂糖にホイップクリーム、自分好みにアレンジしながら。
 まだまだ苦いと、もっと甘くと別物に変えてゆきながら。
(…そうだ、俺はブルーとあの星のコーヒーを飲んでいるんだ)
 小さな姿で帰って来たブルーと、青い地球の上で。
 もうそれだけで充分なのだ、と顔が綻ぶ。
 ミュウの歴史の始まりの星から届いたコーヒー、それだけが売りのコーヒー豆。
 今一つな味のコーヒーだけれど、ブルーと飲めた。
 前の自分が失くしたブルーと、また巡り会ってコーヒーが飲めた。
 パッケージに惹かれて失敗をした、と思ったコーヒーが幸せな時を紡いでくれる。
 ミルクに砂糖にホイップクリーム、ブルーの好みの甘いコーヒー。
 そのコーヒーのように甘い時間を心ゆくまで味わおう。
 青い地球の上で、ブルーと二人。雲海の星の、アルテメシアのコーヒーを…。




           忘れたコーヒー・了

※今のハーレイは覚えていない、前の生でアルテメシアで飲んだ筈のコーヒーの味。
 そして青い地球で出会った、アルテメシア産のコーヒー豆。今度はブルーと飲めるのです。
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