シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「ハーレイ、どうかした?」
「いや?」
土曜日の昼下がり、庭で一番大きな木の下のテーブルと椅子に来てるんだけれど。
ぼくのお気に入りの白いテーブルと椅子は、初めてのデートの思い出の場所。ハーレイが持って来てくれたキャンプ用の椅子とテーブルでお茶にしたんだ、初夏の光が眩しかった日に。
それから夏が来て、今は秋。此処でのお茶は午後が定番になったけれども。穏やかで暖かな秋の日射しを感じながらのティータイムだけど。
(…どうしたんだろ?)
ハーレイが急にニヤニヤし始めたから。
どうかしたの、って訊いているのに答えないから、キョロキョロ周りを見回した。ぼくの近くに何かあるの、って。
だけど見当たらない、ハーレイをニヤニヤさせるようなもの。
それなのにハーレイの笑みは消えないままで、唇の辺りに残っているから。
(えーっと…)
前のぼくの失敗談でも思い出したんだろうか、と急に心配になってきた。
だって、悪戯心が見える微笑み。とても楽しそうにぼくを見ている気がする鳶色の瞳。こういう顔をしたくなるような何かが起こって、それでニヤニヤしてるんだから…。
(どんな失敗?)
この状況でハーレイが思い出すような失敗だったら、ティータイム絡み。
ハーレイの好きなコーヒーを強請って、苦くて飲めないとミルクやお砂糖を足していたこと?
あれはホイップクリームまでがこんもり、今のぼくもやって笑われた。
すぐに思い付くのはコーヒーに纏わる失敗だけれど、なにしろ長く生きたから。シャングリラが立派な白い鯨になってからでも、二百年は軽く生きていたから。
ハーレイと二人でお茶を飲んだことは星の数ほど、それだけあれば他にも失敗だってする。
(あれかな、それとも、あれのことかな…?)
遠い記憶を軽く探るだけでポロリポロリと零れて出て来る失敗談。
ハーレイにお茶のおかわりを淹れてあげようとしたら、シュガーポットを落っことしてしまって真っ白なお砂糖をぶちまけたとか。
(シュガーポットはサイオンで守れたんだけど…)
ミュウの紋章入りの食器はソルジャー専用、シュガーポットでもそれはおんなじ。ぼく専用でも割ったらマズイ、と慌てて守った。だけどお砂糖は守り損ねて、床一杯に散らばった。
(手が滑ってタルトが飛んでったことも…)
ちょっと切りにくい、と力を入れたらパッキリと割れて飛んでったタルト。飛んだだけならまだいいんだけど、ハーレイの膝に落っこちた。キャプテンの制服のズボンにつけちゃった、タルトに乗ってたカスタード。
(うーん…)
前のぼくがお茶の時間にやった失敗、思い出せば山ほどあるみたいだから、焦っていたら。
どれをハーレイが考えてるのかが分からないから、文句も言えずに困っていたら。
(えっ?)
ぼくの右足、何かが触った。
すりすり、って触って撫でる感触。テーブルの下で。
すりすり、すりすり。気のせいじゃなくて、ホントにすりすり。
(…ハーレイなの?)
庭だとパパとママの目があるからな、って言っているくせに、触ってる?
ぼくの右足。ズボンに覆われてしまっているけど、ふくらはぎとか。
すりすり、すりすり、触ってくるのは止まらない。
(…ハーレイったら…!)
ぼくの頭をよく撫でてくれる、大きな両手はテーブルの上。お茶は一休みで、組み合わされてる褐色の両手。
すると、足。
テーブルの下ですりすりとやってる悪戯者は誰かと言ったら、ハーレイの足。
(…すりすりだなんて…!)
こんなアプローチは全く考えていなかった。ぼくの右足にすりすりだなんて、触るだなんて。
さっきのニヤニヤ、これだったんだ。
「今から触るぞ」って、「お前、こういうのが好きだろう?」って。
確かに嫌いじゃないんだけれど…。触って貰うの、嬉しいんだけれど。
(…どうすべき?)
ぼくからも足で触り返すか、それとも足を絡めるか。
悪戯者の足に足を絡めて捕まえたいけど、しっかりと絡め取りたいけれど。
(でも…)
ぼくたちがいる場所はリビングとかからよく見える庭。芝生だから遮るものも無い。
こうしている間も、ママたちが眺めているかもしれない。ぼくたちのお茶を。
ハーレイが足で触っているだけだったら「悪戯だな」って済ませそうだけど、ぼくまでが真似をしていたら…。
二人で足を絡め合ったり、触り合ったりしていたら…。
(マズイよね?)
ふざけ合いには見えそうもない。どう見ても恋人同士の戯れ。
だけど、すりすり。
今も止まらない、ハーレイの足。
テーブルの下ですりすり、すりすり、ぼくの右足に擦り付けられる足。
(んーと…)
頬っぺたが赤くなるのが分かる。だって、すりすり。テーブルの下で足をすりすり。
こんな風に足に触れられた記憶は今のぼくには全く無い。一度も無い。
いつも「チビにはチビの扱い方があるってな」って言われてるから、足なんか触って貰えない。足と足とが触れるチャンスなんかは無いに等しいし、現に今日のが初めてだから。
すりすり、すりすり、ぼくの右足を撫でている足。
ぼくが真っ赤になっているのに、意地悪なハーレイはニヤニヤしてる。
(どうすればいいの?)
ハーレイの馬鹿、って言ってみようか、一方的に悪戯されてるんだから。
でも、そうしたら触ってくれなくなっちゃう。
すりすりしていた足は止まって、二度と触って貰えなくなるし…。
(もうちょっとだけ…)
恥ずかしいけれど、とっても嬉しい。ハーレイのすりすりが嬉しくてたまらない。
もうちょっと味わっていたいから、と苦情を言うのはやめにした。
(すりすり、って…)
こんな感じで触って来たかな、ハーレイの足。前のハーレイの長い足。
あんまり覚えていないけれども。
服を着たまま、足を絡めたり触れ合わせたりなんて、滅多にしてはいなかったから。
朝御飯の時にテーブルの下でやってたくらい?
シャングリラの仲間たちが朝の報告だと信じ込んでいた、ソルジャーとキャプテンの朝の会食。実は大嘘、前の夜から一緒に過ごして、何食わぬ顔で朝御飯のテーブルに着いていただけ。
そんなわけだから、名残惜しくて足を絡めてみたり、触れ合わせたり。
朝御飯を食べ終えてしまった後には、ハーレイはブリッジに行くんだから。そうしたら、夜まで二人きりの時間はもう取れない。休憩時間に寄ってくれても、恋人同士の触れ合いは無理。
(朝御飯が済んだら、ハーレイ、いなくなっちゃうもんね…)
それが寂しく思えた朝には、テーブルの下で足を絡めた。触れ合わせたりも何度もした。
後は、ハーレイが戻って来た夜にサンドイッチとかを二人で食べながら。
テーブルの下で足を絡めて、触れ合わせて、互いに微笑み合って。
幸せだった、小さな触れ合い。
恋人同士で過ごす時間の延長だったり、そうした時間を過ごす先触れの触れ合いだったり。
(ふふっ)
何年ぶりだろう、こんな感覚。ハーレイの足が触れてる感覚。
今のぼくは全く経験が無いし、前のぼくだって十五年もの長い眠りに就いていたから、こうした触れ合いは長く無かった。
(おまけに、その後、死んじゃったしね?)
この地球の上に生まれ変わるまでの長い長い時間もカウントするなら、百年なんかじゃ済まない時間。ホントのホントに久しぶりの感覚、ハーレイの足がやってる悪戯。
すりすり、すりすり、ぼくの右足に擦り付けられているハーレイの足。
(そう、こんな感じ…)
前のぼくたちのテーブルの下での戯れだって、こうだった。
ハーレイ、キスも駄目だって言っているくせに、とっても大胆。テーブルの下で足をすりすり。
ぼくの部屋じゃなくて庭に置かれたテーブルと椅子で、隠してくれる茂みも無いのに。
庭の芝生を隔てた向こうに、リビングかダイニングにはパパとママもきっといる筈なのに。
だけど、すりすり。
ハーレイの悪戯は止まらなくって、ぼくの右足をすりすり、すりすり。
(…ハーレイの足…)
ぼくからは絡められないけれど。
前のぼくがよくやっていたように、触り返すことも出来ないけれど。
それでも充分幸せだよね、って懐かしい感触に浸っていたら。酔っ払っていたら…。
「ニャー」
(えっ?)
テーブルの下でニャーって言った?
ハッキリ聞こえた、へんてこな声。信じられないニャーという声。
何が、って覗き込んだ、ぼく。
身体を傾けてテーブルの下を覗き込んだら、真ん丸な青と目が合った。
「ニャー!」
(猫だったの!?)
ぼくの右足、すりすりしている真っ白な猫。身体を擦り付けてる猫。
ハーレイに見せて貰った写真のミーシャにそっくり、ハーレイのお母さんが飼っていたと聞いた甘えん坊のミーシャにそっくりな猫。
ぼくの右足に触っていたのは猫だった。ハーレイじゃなくて。
ハーレイの足だと思っていたのに、猫がすりすり。
ぼくはすっかり騙されていた。ハーレイなんだと、ハーレイが足で悪戯しているんだと。
「酷いよ、ハーレイ!」
今度は別の意味で真っ赤になってしまった、ぼく。
勘違いしていた恥ずかしさのせいで、猫のすりすりで幸せに酔ってた間抜けな自分の失敗で。
ハーレイに当たっても仕方ないのに、声を張り上げずにはいられない。
案の定、ハーレイは素知らぬ顔で。
「何のことだ?」
俺がお前に何をしたと言うんだ、酷いと言われる覚えは無いがな?
「ハーレイの足だと思ったのに!」
そうだと思ってじっとしてたのに、ニャーって言った!
猫だったなんて、あんまりだってば!
「そのようだな。お前、すっかり勘違いをして幸せそうにしていたからなあ…」
だから黙って見てたというのに、猫だと分かったら怒るのか、お前?
「…知ってたの?」
ぼくがハーレイの足だと勘違いしたの、ハーレイ、知ってて見ていたわけ?
「そういうことだが? 今のお前は分かりやすいんだ、何度も言うがな」
顔にも出ていりゃ、心も見事に零れていたさ。俺の足だと、俺が触っているんだと。
それでバレない筈がないだろ、お前が何を考えてたのか。
馬鹿め、って鼻で笑われた。
ぼくの心は筒抜けなんだと、そうでなくても顔を見てれば直ぐに分かると。
じゃあ、ハーレイのニヤニヤは…。
ぼくに悪戯しようとしたんでなければ、あの時、ニヤニヤしてたのは…。
「ん? あれか?」
あれはな、とハーレイがテーブルの下を指差した。真っ白な猫がいる場所を。
猫はすりすりをやめてしまって、チョコンと座っているんだけれど。ぼくの右足の側に行儀よく座って、ぼくとハーレイとを交互に見上げているんだけれど。
「お前の後ろをこいつが通って行ったのさ。向こうの方から歩いて来てな」
そしてこの下に入った、と。
「えーっ!」
それじゃ、ハーレイがニヤニヤしてたの、猫が入るのを見ていたから?
ぼくの足にすりすりするかどうかは、別にどうでも良かったの?
「そうなるなあ…。まさかお前が勘違いするとも思わないしな?」
俺の足だと思い込むとか、それで真っ赤になっちまうとか。
うん、黙っていたのは正解だったな、面白いお前が見られたからな。
しかし、お前も触り返そうとしなくて正解だったぞ、猫をビックリさせちまう。
人間の足でいきなり触られてみろ。大人しい猫なら怖がるだけだが、気の強い猫は噛み付くぞ。でなきゃ思い切り引っ掻くとかな。
触り返さなくて良かったな、と言ってからハーレイはテーブルの下に向かって呼んだ。
「おい、ミーシャ!」
「ニャア!」
そう返事をして、ハーレイの膝の上にピョンと乗っかった猫。
膝の上だから、もうテーブルの下を覗かなくっても、真っ白な姿が見えるんだけれど。
「ハーレイ、その猫…。ミーシャなの?」
返事してたよ、それにハーレイの膝に乗っかってるよ?
「さてな? 俺は適当に呼んだだけだが」
猫の名前はあまり知らんし、ミーシャでいいかと声を掛けただけだ。
俺には一番馴染みの名前だ、親しみをこめて呼んでやるならミーシャだろ?
なかなかに人懐っこい猫だな、こいつは。
もっとも、俺も動物ってヤツには好かれる方ではあるんだが…。猫も犬もな。
公園なんかでのんびりしてたら、他の人が連れて来た犬や猫に懐かれてしまうらしいハーレイ。
猫なら、ぼくがさっきからされてたみたいに足にすりすり。膝に乗っかることもしばしば。
犬の方だと「遊んでくれ」って言わんばかりに尻尾をパタパタ、期待に満ちた顔なんだって。
もちろん、ハーレイは犬に頼まれたら遊んであげる。飼い主さんから借りたボールで犬と仲良くキャッチボールとか、フリスビーを投げてあげるとか。
(前のハーレイは猫とも犬とも、全く遊んでいなかったけれど…)
シャングリラにはどちらもいなかったから。ペットの類はナキネズミしかいなかったから。
だけど、如何にもハーレイらしいと思ってしまうのは何故だろう?
猫にも犬にも好かれるハーレイ、何もしなくても好かれるハーレイ。食べ物なんか全く持たずに公園のベンチに座っていたって、猫が寄って来て膝に座って、犬は遊んで貰いたがって。
そうしてハーレイは一緒に遊ぶ。猫とは流石に無理だろうけど、犬とはボールやフリスビーで。
なんだか、そういう姿が似合う。前のハーレイがやっているのを一度も見てはいないのに。
(ハーレイ、大きくて優しいからかな?)
シャングリラの子供たちが懐いたように、動物だって懐くんだろうか。
前のぼくが安心して側にいたのと同じで、ハーレイの側だと動物も安心出来るんだろうか。
さっき来たばかりの白い猫だって、ハーレイの膝に乗っかってるし…。
(この辺りの猫じゃないんだけどな…)
ぼくは見かけたことがないから。
人懐っこいことは分かるけれども、それでも膝に乗っかるだなんて、ハーレイを信用してなきゃ出来ない。捕まえられてしまうってこともあるから、悪戯されることもあるから。
(今のハーレイ、ホントに動物に好かれるんだ…)
食うか、ってケーキのスポンジを手のひらに乗っけてあげてるハーレイ。
美味しそうに食べてる真っ白な猫。
「ハーレイ、猫にケーキ…。食べさせていいの?」
「少しくらいならな」
人間の食い物も欲しがるからなあ、こういったペットは人間と同じつもりだからな。
たまにはこうしたおやつもいいのさ、これが普通になったら駄目だが。
「そういうものなの?」
「ああ。食ったら身体に悪いってものさえ食べさせなきゃな」
おふくろがミーシャを飼ってたからなあ、猫の食い物なら俺にも分かる。人間様用のケーキでもたまにはいいんだ、おふくろも食わせてやっていたしな。
しかし、この猫…。本当にミーシャにそっくりだぞ。甘えん坊な所もそっくりだ。
「いいな、ハーレイの膝の上…」
「こいつをどけてお前が座るか?」
そうするんなら、ミーシャには下りて貰うことにするが。
「ううん、いい…」
「お父さんたちの目があるってか?」
俺の膝の上にお前が座っていたなら、そいつは確かに何処か変だと思われそうだが…。
その割に、お前、盛大に無視してしまっていたがな。
お前の足に触っているのは俺だと思って、そりゃあウットリと幸せそうに赤い顔して…。
「言わないでよ…!」
ホントに間違えたんだから!
ハーレイが最初にニヤニヤしちゃってたせいで、余計にハーレイかと思ったんだよ…!
恥ずかしすぎる、ぼくの勘違い。
当分の間はハーレイにネタにされそうだよね、って思うけれども仕方ない。
真っ白な猫が足をすりすり、それだけのことで舞い上がってしまった馬鹿なぼくだから。自分で勝手に勘違いをして、一人で真っ赤になってたんだから。
でも…。
(ハーレイ、猫には優しいんだから…!)
初対面の筈の、真っ白な猫。ハーレイと初めて会った筈の猫。すっかり懐いて膝の上。
いい子だな、ってハーレイが頭を大きな手で撫でて。
両腕でヒョイと抱っこしてやったら、猫はハーレイの顔をペロリと舐めた。
「こら、くすぐったいぞ…!」
ペロペロ、ペロペロ、猫が小さな舌で何度も舐めているから。
「ハーレイ、顔に生クリームでもくっついてる?」
美味しそうにしてるよ、ハーレイの顔は食べ物じゃないのに。
「さてなあ、匂いがするかもな?」
俺はケーキを食ってたんだし…。
おいおい、ミーシャ!
(あっ…!)
ハーレイの唇をペロリと舐めちゃった、猫。
それは美味しそうに、嬉しそうにペロリと、抱っこされたままで唇をペロリと。
(ぼくでもキスが出来ないのに…!)
あろうことか、猫に先を越された。それも普段は見かけない猫に。
ハーレイの唇を猫がペロリと、ぼくは触れるだけのキスさえ許して貰えないのにペロリと…。
酷い、と思わず睨んじゃったら、ハーレイがぼくの方を見て。
「ん? お前、猫にも嫉妬するのか?」
うんと可愛い猫だからなあ、ついつい嫉妬をしちまうってか?
「だって…!」
ハーレイの唇を舐めたよ、その猫!
ぼくはキスさえして貰えないのに、猫がハーレイの唇を舐めてるだなんて…!
「美味そうな匂いがするってだけだと思うがな?」
ケーキを食ってた唇なんだし、ケーキの匂いも味もするだろう。
さっきスポンジを食わせて貰って、もっと食いたくなったってことさ。
猫にまで嫉妬していないで、だ。
お前も心を広く持たんといけないぞ。でないとこの先、お前は嫉妬で大変だ。
俺と一緒に公園に行けば、犬だの猫だの、いくらでも寄って来るんだからなあ、遊ぼうとな。
(うー…)
ハーレイとキャッチボールをしたがる犬だの、フリスビーで遊んでほしがる犬なら嫉妬しないで済むけれど。足にすりすりとか、膝に乗っかる猫にも嫉妬はしないけれども。
今の状況はぼくにはキツくて、唇を尖らせて唸るしかない。
(いくらケーキの匂いがしていて、味が残っているって言っても…!)
ペロペロ、ペロペロ。
ぼくには遠い記憶しかない、ハーレイの唇を猫がペロペロ。
温かくて優しい唇だったとしか思い出せない、あの唇を猫が独占しているだなんて…!
でも、ハーレイは構っちゃいない。
猫を両腕で抱いて御機嫌、ぼくにチラリと視線を寄越して。
「んー、いい子だな」
チュッとキスまでしてくれた。ぼくにではなくて、真っ白な猫に。
それも唇に、猫に唇というものがあるなら、その辺りに。
(酷い…!)
ぼくには絶対にくれる気も無い、唇へのキス。猫は貰えるらしいキス。
初対面のくせに、今日、ハーレイと出会ったばかりの通りすがりの猫のくせに。
(抱っこして貰って、おまけにキス…!)
ハーレイに唇にキスして貰った猫も大概、腹立たしいけれど。
もっと酷いのはキスを贈ったハーレイの方で、ぼくにはキスをくれないハーレイ。
キスさえ貰えない恋人の前で猫とキスして御満悦なんて、いくらなんでもあんまりだ。
(嫉妬するなって言われたって、絶対、無理だから!)
これで嫉妬しない人がいたなら、それこそお目にかかりたい。恋人を猫に盗られちゃっても嫉妬しないで、広い心で見守れる人がいるのなら。
だけどハーレイはニヤニヤしてる。猫が現れたらしい時と同じニヤニヤ、おんなじ表情。
こいつを追っ払ってお前が来るか、って。
キスは無理でも抱っこくらいはしてやれるが、って。
(そういう抱っこじゃないんだよ!)
二階のぼくの部屋ならともかく、此処は庭。外に置かれたテーブルと椅子。
家の中にいるパパやママの視線を遮ってくれる茂みも植え込みも無くて、丸見えの芝生。こんな所で抱っこは出来ない。恋人ならではの抱っこは出来ない。
パパとママに見られても平気な抱っこって、高い高いとか、そういうの。
力自慢のハーレイがぼくの身体を持ち上げるだけの、小さい子供にするような抱っこ。
ぼくはそういうのは求めていない。抱き締めてくれる抱っこでなくっちゃ意味なんか無い。
なのに…。
「よしよし、お前は温かいなあ…」
毛皮も実にいい手触りだ、とハーレイがギュウッと抱き締めた猫。
ぼくの部屋だったら、ぼくが甘えている筈の胸に。ぼくが抱き締めて貰って甘える指定席に。
(猫のくせに…!)
ハーレイとキスが出来るどころか、広い胸まで持って行かれた。ぼくの居場所まで奪われた。
庭にフラリと現れた猫に、通りすがりの見かけない猫に。
(パパとママも見ている所でキスして、抱っこ…)
今のぼくには出来っこない。逆立ちしたって無理な相談、どうにもならない。
(猫だってキスして貰えるのに…!)
それも唇に。チビのままのぼくが大きく育たない限り、唇へのキスは貰えないのに。
後から来た猫に先を越されて、ハーレイのキスを盗られてしまった。唇へのキスをアッサリと。
負けちゃった、ってドン底の、ぼく。
もう嫉妬するだけのエネルギーも失くして、ただガックリと項垂れてるだけ。
それでもハーレイと猫から目を離せなくて、上目遣いで恨めし気に睨んでいたんだけれど。
「ミーシャー!」
「ミーシャ、どこー!?」
庭の向こうから聞こえて来た声。
通りに面した生垣の向こう、ぼくも知ってるご近所さんの声と、いつもは聞かない子供の声。
「ミーシャー!」
猫の耳がピクンと小さく動いて、聞き耳を立ててるみたいだから。
ハーレイは「こいつのことかな」と猫を優しく両腕で抱えて、生垣の方へ歩いて行った。
そうして丁度通り掛かった、子供連れのおじさんを呼び止めて。
「探しておられるミーシャというのは、この猫ですか?」
「ああ、そうです。飛び出して行ってしまいましてね」
その内に帰ってくるだろう、と言っていたんですが、戻って来なくて…。
ご迷惑をお掛けしませんでしたか、孫の猫が。
「いいえ、お行儀のいい子でしたよ。…ミーシャ、お迎えが来て良かったな」
帰ったら御飯を貰うんだぞ、とハーレイが生垣越しに猫を渡して、ご近所さんが抱き取った。
それから暫く、立ち話。
餌はケーキのスポンジを少しだけしか食べていないから、お腹が空いてる筈だとか。
生クリームの匂いが気に入っていたから、そういう風味の餌を喜ぶ筈だとか。
ぼくは見事に放っておかれて、またハーレイを持って行かれた。猫のミーシャとご近所さんに。
話に混ざろうと思えば出来たけれども、エネルギーが切れていたんだもの。
下手に混ざったら、ミーシャに嫉妬して怒ってしまって何を言い出すか分からないんだもの…。
ハーレイがご近所さんに返したミーシャは、お孫さんと一緒に遊びに来ていた猫だった。
真っ白だった猫の名前はホントにミーシャ。正真正銘、本物のミーシャ。
抱っこして連れて帰られたけれど。
ぼくが散々な目に遭ってしまった、庭でのお茶も終わったけれど。
「うー…」
二階のぼくの部屋に戻って、夕食までの間は二人きり。
テーブルにお茶と軽いお菓子は置いてあるけど、夕食前のこの時間にはママはお茶のおかわりを持っては来ない。だからホントにハーレイと二人、扉の向こうを気にしなくてもいいけれど。
いつもだったら甘え放題の時間だけれども、今日はなんだか…。
「膨れるな、こら」
相手はホントに猫だったろうが。
お前、いつまで膨れているんだ、ミーシャはとっくに帰っちまったぞ。
「…でも、猫に負けた…」
ハーレイのキスをミーシャが持って行っちゃったんだよ、ぼくよりも先に。
唇へのキス、ぼくは絶対、貰えないのに…!
ミーシャに負けた、と肩を落とすぼくにハーレイが笑う。
最初は嬉しかったんだろ、って。
ミーシャが家の庭に現れた時は、とっても嬉しそうにしてたじゃないか、って。
(それは間違いないんだけれど…!)
ぼくが幸せだった理由はミーシャのすりすり、足にすりすり。
こんな感触は何年ぶりに味わったろう、って、ハーレイの足だと思って頬を染めただけ。
テーブルの下で大胆に触れてくる足がとても嬉しくて、幸せに酔っていただけで…。
「あれは間違えただけだから!」
猫だと知ってたら喜んでいないし、ハーレイがニヤニヤしてたからだよ!
だからハーレイが足で悪戯してると思って、嬉しくなってただけなんだよ…!
ハーレイと間違えただけなんだから、って殴り掛かった。
猫のミーシャを抱っこしてた胸に、広い胸に拳でポカポカと。
「こらこら、まだ猫に嫉妬してるのか?」
「嫉妬だってするよ、ハーレイの意地悪!」
ぼくの勘違いだって知っていたくせに、笑って見てたし!
それにミーシャに優しくしちゃって、ぼくなんか放って遊んでたくせに…!
バカバカバカ、って胸を拳で何度も叩いた。
ぼくの拳で殴ったくらいじゃダメージなんかは食らわない胸を、逞しい胸を何度も、何度も。
意地悪だけれど大好きな恋人、猫にはうんと優しい恋人。
ぼくにはキスしてくれなくっても、猫とはキスする酷い恋人。
この次は顔を舐めてやろうか、それはキスとは言わないから。猫のミーシャもやっていたから。
「ハーレイ、クリームくっついてるよ」って。
頬っぺたをペロリと、舌でペロリと。
だけど唇だけは、きっとガードをされちゃうんだろう。
ホントにクリームがくっついていても、「キスは駄目だ」と許してくれないハーレイだから…。
意地悪な恋人・了
※てっきりハーレイの悪戯なんだ、と一人でドキドキしていたブルー。嬉しくもなって。
けれど正体は猫だったわけで、それをニヤニヤ見ていたハーレイ。意地悪すぎ…?
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