シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(えっ?)
それは突然、何の前触れもなく鳴り出した。
学校から帰ったブルーがおやつを食べ終わったばかりのダイニングで。
(ママは?)
慌ててキョロキョロと辺りを見回す。母はキッチンに居たと思うのだけれど、其処から何処かへ行っただろうか?
(他の部屋? それとも庭?)
キッチンからだと、どちらへも行ける。このダイニングを通ることなく。
(えーっと…)
ダイニングに流れているメロディ。耳に馴染んだそれは、通信機から流れる着信音。
何処かからの通信が入って来たのだ、この家に向けて。
通信機自体はリビングにも、二階の両親の部屋にもあるのだけれど。そちらでボタンを押しても通信に出られるのだけれど、メロディは一向に鳴り止まない。
通話ボタンを押しさえすれば止まるメロディ。通信を始めれば終わる筈のメロディ。
(ママ、庭かな?)
庭ならば多分、通信機のメロディは母の耳には届かない。聞こえていない。
(どうしよう…?)
着信記録は残るのだから、放っておいても平気だけれど。戻って来た母に知らせれば着信記録を調べた上で、必要だったら直ぐにこちらから通信を入れ直すだろうけれど。
まだ鳴り止んでくれないメロディに、大事な通信なのかもしれないという気がしてくる。
(…学校からとか?)
明日の持ち物の追加連絡とか、そういうものなら自分が出ても大丈夫だろう。まだ通信を取った経験は無いに等しい子供ではあるが、全くの未経験でも無いし…。
よし、と鳴り続けている通信機に近付いて覗き込んだ。
小さな画面に表示される相手の通信番号。よくかかってくる相手は名前が登録されているから、其処に「学校」と出ているようなら、と表示を見れば。
(お祖母ちゃんだ!)
これなら出られる、と勇んで通話ボタンを押した。
メロディは止まって、通信機の向こう、遠い地域に住んでいる母方の祖母の声。
「お祖母ちゃん…!」
「あら、ブルーなの?」
祖母は年齢をとうに止めているから、母の声とそうは変わらないけれど。ブルーにとっては実の祖母の声で、聞き間違えることもない。
久しぶりに話して、あれこれ喋って。学校のことやら、普段の暮らしぶりやら。
どのくらい祖母と話しただろうか、母が来たから通話を代わった。
やはり庭に出ていて気付かなかったらしい。夕食に使うハーブを採りに行っていたのだ、と母が話している。ついでに花たちの手入れを少し、と始めたら意外に時間がかかったとも。
さっきまでの自分がそうだったように、祖母と楽しげに話している母。
母にしてみれば祖母とは違って、母なのだけれど。母を産んで育てた実の母だけれど。
おやつに使った皿やカップをキッチンに運んで、まだ話している母に「じゃあね」と手を振り、二階の自分の部屋に戻って。
勉強机の前に座って、さっきの通信を思い返した。
(お祖母ちゃん…)
元気にしていると話したけれど。
聖痕のことを心配してくれたから、平気だと話しておいたけれども。
(ハーレイのこと…)
守り役の先生が訪ねて来てくれるから大丈夫としか言えなかった。週末以外も家に来てくれて、今では家族のようなものだと、その先生がついていてくれるから聖痕は再発していないと。
(それは間違いないんだけれど…)
あれ以来、起こらない聖痕現象。
学校や周囲の人たちはハーレイが側に居るから起こらないのだと信じ込んでいるし、祖母たちもそうだと信じている。通信でも祖母は何度も言っていた。
「いい先生に出会えて良かったわね」と、「お祖母ちゃんもいつか御礼を言いたいわ」と。
孫がお世話になっているのだし、機会があったらハーレイに御礼を言いたいと。
その時はハーレイにお土産を持って行こうと思うから、祖母が住む地域の名物などでハーレイの好きそうなものがあったら覚えておいて教えて欲しいと。
(お祖母ちゃんがハーレイに御礼だなんて…)
ハーレイは本当はただの守り役ではないというのに。いつか結婚する恋人なのに。
祖母はそれよりも前にハーレイに会う機会があるのだろうか?
孫をよろしくと土産物を渡して、ハーレイに挨拶するのだろうか?
もしもそういうことになったら、守り役としてのハーレイに出会ってしまったならば。
何年か経って、自分とハーレイとが結婚することになったなら…。
(お祖母ちゃんもきっとビックリだよ)
孫の結婚もさることながら、今の時代でも珍しい男性同士のカップル。
おまけに守り役だった先生の所へ嫁に行こうというわけなのだし、さぞかし驚くことだろう。
祖母はもちろん、祖父だって。父方の祖父母も、親戚たちも、きっと。
けれども、その日はまだ先のことで、今はハーレイはただの守り役。
祖母が御礼にと土産物を渡して挨拶しそうな、学校の教師。
その祖母は今頃、母と話しているのだろう。用があったか、それとも声が聞きたくなったか。
(お祖母ちゃんと喋っちゃった…!)
祖母からの通信はよくあるけれども、ブルーは通信を取らないから。
幼い頃には通信が入る度に「お祖母ちゃんよ」と母が代わってくれたけれども、今ではそういう年でもないから、本当に久しく話してはいない。聖痕現象の直後が長く話した最後だったか…。
(御礼とかだと代わるんだけどね)
祖母から届いた荷物にブルー宛の贈り物が入っていた時や、荷物の中身が食べ物だった時や。
そうした時には御礼を言って、少し話して、母と通信を代わる。次から次へと話し続けることはもう無くなって、幼かった頃のようにはいかなくなった。礼儀正しく、母に交代。
だから今日の通信は本当に嬉しかったし、楽しかった。
祖母に遊んで貰ったようで。今の自分を祖母に丸ごと届けられたようで。
(お祖母ちゃんの声…)
祖母の姿は見えなかったけれど、すぐ側で祖母の声が聞こえた。
遠い地域に住んでいる祖母が、まるでダイニングに居るかのように。
離れていても声が聞こえる通信機。通話ボタンを押すだけで相手と声が繋がる通信機。
遥かな昔には、相手の姿も見られる仕組みの機械だったと聞くのだけれど。
(今は無いんだよね…)
相手の姿を映し出す通信機は今の時代には無い。
SD体制が始まるよりも前の時代に存在していた、持ち歩けるタイプの通信機も。
(…持ち歩けたっていう通信機…)
ポケットに入れて出掛けられたという通信機。一人に一台、自分専用の通信機。
それがあったらいつでもハーレイと話せるのに。
メギドの悪夢で目覚めた夜にも、夜が更けていても、ハーレイに通信を入れられるのに。起きて貰って朝まででも二人で話せるのに…、と考えていて。
(そういえば…)
まだハーレイの声を一度も聞いたことがない。
通信機越しに聞こえるハーレイの声。通信機で繋がり、耳へ届けられてくるハーレイの声。
(たまにかかってくるんだけどな…)
ハーレイからブルーの家への通信。
それは嬉しいサプライズ。かかって来たと分かれば胸がドキンと跳ねる。
通信が入る理由は最初から決まっているから。用事があって来られないと聞いていた日の予定が変わって、来られることになった時。そういう時には通信が入る。
もっとも、相手は母だけれども。ハーレイの食事を用意する母への通信だけども。
(でも、ハーレイの通信だって…)
通信番号は登録してある筈。今日は祖母の名前を表示していた画面にハーレイの名前が出る筈。
ならば自分が取ることだって出来るだろう。
ハーレイの名だ、と確認してから通話ボタンを押せば通信が繋がるのだから。ついさっき祖母と話していた時のように、ハーレイの声が通信機から聞こえてくるのだから。
(どんな感じの声なのかな?)
ハーレイの声を通信機越しに聞いたなら。
聞いた瞬間にハーレイの声だと分かる自信はたっぷりとある。母か父かが相手のつもりで口調が改まっていたって分かる。
大好きなハーレイの声を通信機を通して聞けたなら、と思うけれども。
ハーレイの家のリビングか、あるいはダイニングか。通信機のある部屋と自分の家とが声だけで繋がる幸せな時を、味わってみたいと思うのだけれど。
(かかってくる予定…)
ハーレイからの通信が入る機会は、どうやら当分、無さそうだった。
今度の週末にはハーレイは来る予定になっているから。次の週末も、その次だって都合が悪いと聞いてはいない。予定変更の通信は入りそうにない。
通信機はハーレイの名前を表示してはくれず、自分は通話ボタンを押せない。ハーレイがかけて来た通信に出られはしない。
(一度くらい聞いてみたいんだけどな…)
通信機を通したハーレイの声、と溜息をついていたら、来客を知らせるチャイムが鳴って。
そのハーレイがやって来たから、仕事帰りに寄ってくれたから。
母に案内されて来たハーレイと自分の部屋で向かい合うなり、ブルーは早速、こう切り出した。
「ハーレイ、うちに通信、入れてよ」
「はあ?」
何の前置きもなく飛び出した言葉に、ハーレイの鳶色の瞳が丸くなる。何のことかと、通信とは何を指しているのかと。ブルーは「通信だってば!」と繰り返した。
「通信機、何処の家でもあるでしょ。さっき、お祖母ちゃんからかかって来たんだよ」
ママがいなかったから、ぼくが出たんだ。お祖母ちゃんといっぱい話して、色々話して…。
お祖母ちゃん、ハーレイに御礼を言いたいって言ってたよ。お土産だって渡したい、って。
「ほほう…。そいつは光栄だな。お前のお祖母ちゃんから、俺に土産か」
「そう。ハーレイの好きなものがあるなら聞いといて、って言われたけれど…。って、ぼくはそうい話をしたいんじゃなくて…!」
ハーレイの声を聞きたいんだよ。聞いてみたくなってきたんだよ…!
「今、聞いてるだろうが、俺の声なら」
これ以上どう聞くというんだ、耳元で怒鳴って欲しいのか?
「通信機越しに聞きたいんだってば!」
あの機械を通してハーレイの声を聞いてみたいな、って思うんだよ。
だから通信、入れてくれない?
ハーレイからの通信だ、って分かれば直ぐに、ぼくが出るしね。きちんと通話ボタンを押して。
通信番号は登録してある筈だから、とブルーは瞳を煌めかせた。
自分が出るから、通信を入れてみて欲しいと。
「ハーレイの声だってことは、絶対、直ぐに分かるだろうけど…。感じが変わると思うんだよ」
通信機を通して聞いたら、きっと。
それにハーレイからの通信だなんて、出るだけでドキドキすると思うし…。
通信機の向こうにハーレイが居るって、リビングからかな、ダイニングかな、って…!
「そいつは些か…。不純な動機というヤツだな」
俺の声を聞きたいってだけで、お前が通信に出ようってか。
お前、普段から家に入った通信ってヤツを、ちゃんと自分で取ってるか…?
「そ、それは…。ぼくじゃ分からないことも多いし、通信なんかは…」
出ないよ、それにぼくみたいな子供が出たって、相手の人も困るじゃない!
お祖母ちゃんのは、お祖母ちゃんからって分かったからボタンを押したんだよ!
「通信にも出られないチビのくせにだ、俺の通信には出ようというのか?」
「だって、ハーレイなら出たって平気だもの!」
お願い、ぼくの家に通信を入れてよ。ぼくが出るから、通信、入れて…!
「駄目だな、通信を入れる予定が無いしな」
お前だって知っているだろう?
俺がどういう時に入れるか、そのくらいは。俺は当分、暇な週末しか待ってないってな。
つまりは予定が変わりました、と通信を入れる必要なんぞは無いわけだ、うん。
「えーっ!」
そういう用事がある時だけしか通信を入れてくれないの?
週末に入ってた予定が無くなって、ぼくの家に来られるようになった時だけ…?
あっさりと頼みを断られてしまって、ブルーは暫し考え込んだ。
何とかしてハーレイから通信を入れて貰えないものか。
そうすれば声が聞けるのに。通信機の向こうで話しているだろう、ハーレイの声が聞けるのに。
(コーヒーを飲みながら、ってことは無いんだろうけれど…)
長話をしようというわけではないから、お供の飲み物などは要らない。椅子やソファに座っての通信でもなくて、きっと立ったまま通信番号を押しての通信。
それをしているハーレイの姿が目に浮かぶようだ。ブルーの父か母が出ることだろうと、背筋を伸ばして通信番号を押すハーレイが。
(パパとかママの声が聞こえたら、ペコリと頭を下げるんだよ、きっと)
そんなハーレイからの通信に出たい。一度でいいから出てみたい。
通信機越しに耳に届くだろうハーレイの声を、聞いてみたくてたまらない。
けれどハーレイには通信を入れる予定などは無くて、入れるつもりも無いという。用も無いのに通信を入れる理由などありはしないから。
(…ハーレイからの通信…)
ハーレイの予定が変わる時しか、入れては貰えないらしい通信なるもの。予定は当分、変わりはしないと言われたのだし、絶望的とも思えるけれど。
(そうだ…!)
不意に名案が閃いた。まさに天啓、神様がくれた素敵なアイデア。
その通りにすれば、きっと通信を入れて貰えるだろう。ハーレイの家から自分の家へ。
ブルーは「よし!」と心の中で大きく頷き、ハーレイにこう宣言した。
「ハーレイ、ぼく、ママに嘘をつくから」
「なんだと?」
嘘って、お前…。お母さんに嘘をつくって、俺に宣言するようなことか?
「そうだよ、ハーレイに言っておかなきゃ意味が無いんだよ、ぼくがつく嘘は」
ハーレイが帰ったらつくことにするよ、ママを捕まえて。
今度の土曜日、ハーレイはぼくの家に来られるかどうか分からない、って。
「俺はその日は空いてるんだが…」
土曜日も日曜日も、来週の土曜日も日曜日も。当分、来られないような用事は無いと言ったが?
「だから嘘だって言ってるじゃない!」
ハーレイの予定は空いているけど、どうなるか分からないってことにするんだよ。
そうしておいたら、ママは今週の土曜日、ハーレイの食事を用意すればいいのかどうかを決める方法が無くなっちゃうしね…。
だからハーレイ、ママのために通信を入れてくれればいいんだよ。
土曜日の予定は無くなりましたと、ぼくの家に行くことになりました、ってね。
母には嘘をついておくから通信を入れて欲しいのだ、とブルーは強請った。
その日は空いたと、来られそうだと、それだけでいいと。
もしも通信を入れてくれたら、表示名を見て自分が通話ボタンを押して出るから、と。
「うーむ…。そいつは、お母さんに申し訳ないような気がするんだが…」
いいか、今度の土曜日なんだぞ、もう今週のことなんだぞ?
それを今頃になって分からないとか言い出した挙句に、やっぱりお邪魔させて頂きます、とは。
「平気だってば、ママはそんなの気にしないから!」
客間とかを使うお客様だったら、ママも大変かもしれないけれど…。
ハーレイだったら用意する食事の量だけなんだし、今日みたいな日とあまり変わらないよ。
張り切ってお菓子を作るかどうかの違いだけだよ、ホントだよ。
お願い、一回だけでいいから、ぼくが出られる通信、入れてよ…!
「………。これっきりだぞ」
お前の悪だくみなんぞに協力するのは、これが最初で最後だからな。
「ありがとう!」
通信、入れてくれるんだよね、ぼく、頑張って通話ボタンを押すからね!
その後できちんとママに代わるから、ハーレイ、ちゃんと通信、入れてね…!
こうしてハーレイからの通信の約束を取り付けたブルー。
その後、ハーレイはブルーの両親も一緒の夕食を終えて「またな」と手を振って帰って行って。
ハーレイの車のライトを見送った後で、ブルーは母に嘘をついた。
先刻、練り上げたばかりの嘘を。
ハーレイは言うのを忘れて帰ったけれども、今度の土曜日は予定が入るかもしれないらしいと。
「あらまあ…。それじゃ、ハーレイ先生は?」
いらっしゃらないの、今週の土曜日は?
この間、お友達から新しいお菓子のレシピを頂いたから、お出ししようと思っていたのに…。
今日のおやつ、新作だったでしょ?
あれを出そうと思っていたのよ、もう少し工夫してみてね。
「えーっとね…。まだ分からないよ、来られる可能性だって残っているしね」
ギリギリでもいいか、って訊いていたから、金曜日の夜には分かる筈だよ、来られる時は。
もしもハーレイが来られるんだったら、あのお菓子、出してあげてよね。美味しかったから…!
母を騙すことになってしまったけれども、ブルーの心は少しも痛んでいなかった。
お風呂に入ってパジャマに着替えて、ベッドに入る時にも上機嫌で。
(ハーレイから通信が入るんだよ)
あの通信機の小さな画面に表示されるだろうハーレイの名前。
それを見付けたら自分が通話ボタンを押すのだ、「はい」と元気に返事をして。
繋がった通信の向こうにハーレイ、何ブロックも離れた場所に住んでいるハーレイの家と自分の家とが音声だけで暫く繋がる。通信機を通して空間が結び付けられる。
もうそれだけで心が躍った。ハーレイの家のリビングか何処かと、自分の家とが繋がる瞬間。
通信機の画面にハーレイの名前が出たならば…。
(急いで通信、取らなくっちゃね!)
その時が楽しみでたまらない。
通信機の向こうで話すハーレイの第一声は何だろう?
「もしもし」なのか、「こんばんは」なのか、それも分からないからドキドキしてくる。
まずは名乗るのか、あるいは「ブルーか?」と訊いてくれるのか。
それより何より、ハーレイの声。
通信機越しに聞こえるハーレイの声は、どんな風に耳に届くのだろう?
優しくて甘いか、じかに聞くよりも落ち着いているか。
声だけを聞けば、実際よりも年配の男性が話しているように思えるとか…?
そして次の日。
学校から戻って着替えをするなり、もう通信機が気になってたまらない。
ダイニングでおやつを食べる間もチラチラとそちらを見てしまう。
(でも、まだハーレイ、学校だしね?)
こんな時間に通信は来ない。仕事時間の間に通信を入れても、それは学校の通信機だから。
(それじゃハーレイって出てくれないよ、表示)
学校と画面に表示された通信に出る度胸は無い。昨日のように母の姿が見当たらないまま、学校からの通信が何度も何度も入れば通話ボタンを押すだろうけれど。
(そういう通信って、どうせ持ち物連絡だとか…)
自分が出たって全く意味の無い通信。自分の学校のことだけれども、今の自分には意味が無い。
待っているものはハーレイからの通信だけで、学校からは入れてこない筈。
(自分の家の通信機を使ってくれないと、ハーレイって表示にならないものね?)
仕事帰りに寄ってくれた時も、通信は入れて貰えない。ブルーの家に来ているのならば、用件は通信機などを介さず、直接伝えるものだから。
(…ハーレイが来ちゃったら、通信はお預け…)
今日ばかりはハーレイの来訪を知らせるチャイムが鳴らないように、と身勝手な願い事もした。
普段だったらまだ鳴らないかと待ち焦がれるチャイムが鳴らないようにと。
その甲斐あってか、チャイムは鳴らずに夕食の時間が始まって。
ダイニングで両親と食事をしながら、ブルーは何度も通信機の方を眺めていた。
(ふふっ、通信…)
きっとその内にハーレイが入れてくれるだろう。今日は来なかったのだから。
早く鳴らないかな、と首を長くしていたら、あのメロディ。着信を知らせるメロディが流れた。
(やった…!)
出なくっちゃ、と立ち上がろうとするよりも早く、ヒョイと椅子から立った父。
「誰かな?」と通信機の所まで行って覗き込むなり、母の方へと振り返って。
「ハーレイ先生だな」
「じゃあ、私が出た方がいいわよね」
(えっ…!)
そんな、という声は音にはならなかった。通話ボタンを押し、当たり前のようにハーレイからの通信を取ってしまった母。
「こんばんは、ハーレイ先生。いつもブルーがお世話になっております」
ええ、ええ…。はい、分かりました。
それでは土曜日、よろしくお願いいたします。いえ、そんな…。
お気になさらずにお越し下さい、ブルーもきっと喜びますわ。
母は通信機の向こうのハーレイに何度も頭を下げてから通信を切った。自分の椅子へと戻る前にブルーに笑顔を向ける。
「ブルー、ハーレイ先生、土曜日は来て下さるって」
良かったわね、とテーブルに着いた母はブルーの表情が変だと気付いたようで。
「…どうしたの?」
何処か痛いの、具合でも悪い?
それとも晩御飯、ブルーの嫌いなものでもあった?
いえ、違うわね…。好き嫌いは昔からまるで無いんだし、苦手な味がしたかしら?
そういうのがあるなら残していいのよ、その分、他のお料理をしっかり食べるんならね。
「…なんでもない…」
ちょっと口の中、噛んじゃったから…。
それでヘンテコな顔になっただけだよ、具合なんかは悪くないから。
晩御飯だって全部美味しいし、苦手な味はしてないよ。
だけど頬っぺたにウッカリ噛み付いちゃった分、痛いから変な顔のままかも…。
なんでもないよ、と嘘をつくしかなかったブルー。
ハーレイからの通信を取り損なったと言える筈など無いブルー。
ブルーの野望は見事に砕けて、頬の内側を噛んだという嘘までつく羽目になった。
(…嘘の上塗り…)
そういう言葉があるのかどうかは疑わしかったが、恥の上塗りならぬ嘘の上塗り、何も知らない母に嘘をついたばかりに苦しい嘘がもう一つ。
(…頬っぺたなんか噛んでないのに…)
けれども、効果的だった嘘。
ハーレイの通信を母に取られたショックを隠すには「口の中を噛んだ」はピッタリだった。父も母もブルーの落胆に全く気付かなかったし、無言でも二人とも怪しみはしない。
「大丈夫、ブルー? 後で蜂蜜を舐めておきなさいね」
「そうだな、口の中の怪我には蜂蜜がいいな」
腫れてしまう前に、よくウガイをして蜂蜜を舐めるのがいいだろう。
そういった場所から口内炎になると痛いぞ、あれは沁みるからな。
「…うん…」
マヌカでいいかな、殺菌作用があるって言うし…。ハーレイお勧めの蜂蜜だしね。
後でキッチンに行くから、出してね、ママ。
嘘の上塗りの始末にマヌカまで舐める羽目になってしまったブルー。
ハーレイお勧めのセキ・レイ・シロエ風のホットミルクのための蜂蜜、マヌカの花から採れる蜜だけで出来た蜂蜜。
(…ハーレイの通信、取りたかったな…)
どうして取り損なったんだろう、と母がマヌカを掬ってくれたスプーンを口に咥えて泣きそうな気持ちに囚われる。その顔を見ていた母は「もう一杯ね」と新しいスプーンでマヌカを掬った。
「蜂蜜でも沁みるほどなら、口内炎になってしまう前に」と、もう一杯。
マヌカは沁みたりしなかったけれど、そういうことにしておいた。口の中を噛んだ傷が痛むから辛そうな顔になるのだと、それほど強く噛んだのだと。
(嘘の上塗りの、そのまた上塗り…)
とてもハーレイに言えはしないし、この事件のことは黙っておくのがいいだろう。
自分は不幸にして通信を取り損ねただけで、次の機会は逃さない。だからもう一度、と強請ってみよう。また通信を入れて欲しいと。
翌日、仕事帰りに寄ってくれたハーレイに、ブルーは「もう一度」と通信を強請ったけれど。
また日を改めて母に嘘をつくから、通信を入れて欲しいと頼んだのだけれど。
「一度だけだと言っただろうが、お前の悪だくみに付き合うのは」
それに俺は約束を守ってやったしな?
ちゃんと通信、入れてやっただろうが、どうしたわけだか、お前のお母さんが出ちまったがな。
「うー…」
パパが先に見て、ハーレイからだって言ったんだよ!
そしたらママが「じゃあ、私ね」って。ぼくは出る暇、無かったんだよ…!
失敗した、とブルーは肩を落として項垂れた。
父と母とに先を越されたと、通信機越しの恋人の声を聞き損ねた、と。
「ハーレイの通信…。ホントに取りたかったのに…」
取ろうと思って待っていたのに、パパの方が先に立っちゃったんだよ…!
ぼく、普段から通信なんかに出ないから…。仕方ないけど、せっかくのチャンス…。
ハーレイからだって分かっていたのに、目の前で取り損なっちゃうなんて…!
「そうしょげるな。いつかはうるさいほどに入るさ、俺からの通信」
またかとお父さんたちに舌打ちされるほど、面倒くさそうに取り次がれるほど。
お前に代わって下さいと頼む度に俺がペコペコ通信機の前で頭を下げなきゃいけないほどにな。
「それって、いつ?」
いつになったらハーレイからぼくに通信が入るの、パパとかママとかじゃなくって、ぼくに。
代わって下さいってハーレイが頭を下げるほどだし、ぼく宛にかけてくるんだよね?
「まあ、お前とデートが出来る頃になればな」
そうすりゃ通信もうんと増えるさ、デートの誘いにデートの御礼と山のようにな。
「そんなに先なの!?」
嫌だよ、そんなに先だなんて!
ぼくはハーレイの声を聞きたいんだってば、通信機の向こうから聞こえる声が…!
もう一度ぼくに通信を入れて、と泣けど叫べど、ハーレイは折れてくれないから。
「お前の悪だくみの片棒は二度と担がん」と協力する気も無いようだから。
(でも、ハーレイの声…)
いつか必ず聞いてやろう、とブルーは次のチャンスを夢見る。
ハーレイの予定が変わりそうな時、そういう時に通信機のメロディが鳴ったらチャンス到来。
駆け寄って画面の表示を確かめ、ハーレイの名前が出ていたならば。
母よりも先に通話ボタンを押してやろうと、そしてハーレイの声を聞こうと…。
聞きたい声・了
※通信機越しにハーレイの声を聞いてみたい、と思ったブルー。一度でいいから、と。
せっかく根回ししたというのに、駄目になったチャンス。次を待つしかありませんね。
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