シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「ママ、それなあに?」
学校から帰ったら、ダイニングのテーブルの上に木の枝が三本。葉っぱつきの。
「月桂樹よ。庭にあるでしょ、あれを切って来たのよ」
ご近所さんに分けてあげるの、って言ったママ。
ホントだ、木の枝は月桂樹だった。けっこう大きな枝が三本、真っ直ぐに伸びた若い枝。今年に育った枝なんだろう、皮がまだ緑色だから。
月桂樹ならぼくも知っているけど、庭に植わっているけれど。こんな風に枝だけ置いてあったら直ぐにそうだとは分からない。
(でも…)
匂いで気付くべきだった。三本の枝に葉っぱが沢山、その葉っぱから漂う独特の香り。
煮込み料理に使うんだっけ、と月桂樹の枝を眺めていたら。
ママが用意してくれたおやつを食べながら観察してたら。
「はい、栞。一枚あげるわ」
葉っぱを一枚、ママが千切って渡してくれた。
「栞?」
「月桂樹の葉っぱは虫よけになるのよ、いい匂いがするわ。乾いた後もね」
本の栞にしてみたら、って一枚貰った月桂樹の葉っぱ。濃い緑色をした固めの葉っぱ。
ママは三本の枝を束ねて飾りのリボンを結んでる。届けに行くのかと思っていたけど、もうすぐ取りに来るんだって。買い物のついでに、ぼくの家に寄って。
(じゃあ、一回目はご近所さん…)
門扉の脇のチャイムが鳴っても、それはハーレイじゃないってこと。
だけどやっぱり窓に駆け寄って覗いちゃうんだろうな、ハーレイかな、って。
おやつを食べ終えて、月桂樹の葉っぱを手にして部屋に帰って。
勉強机の前に座ったら、ぼくの指から月桂樹の匂い。葉っぱをつまんでいた指から。
(匂い、けっこう強いんだ…)
ぼくは葉っぱを揉んだわけじゃないし、持って帰って来ただけなのに。ダイニングから部屋まで来るまでの間、つまんでいたってだけなのに。
(栞…)
これだけ香りが強いんだったら、素敵な栞になるだろう。本が好きだから栞は幾つか持っているけど、葉っぱなら本物の天然素材。ちょっといいよね、って気がしてくる。
(いい匂いの栞…)
香料をつけたわけじゃなくって、葉っぱがそのまま香るから。これはいいかも、って考えた。
だけど直ぐにパタンと本に挟んだら、葉っぱがちょっぴり可哀相だろうか?
本の重さは葉っぱにはきっと重すぎるよね、と思ったりもする。
でも、このまま葉っぱが乾いちゃったら、曲がってしまって栞に出来なくなっちゃうかも…。
そうなったならば本末転倒、栞用に貰った意味が無いから。
(ちょっとだけ…)
葉っぱの半分を本に挟もう。本に挟んだ部分は押し葉で、真っ直ぐ。
外に出ている部分の葉っぱが曲がっちゃっても、残り半分が真っ直ぐだったら栞になるから。
(この本でいいかな?)
本棚から一冊引っ張り出して、月桂樹の葉っぱを半分挟んだ。
(いい匂い…)
半分が外に覗いているから、ぼくの部屋に月桂樹の匂い。
不思議な木だよね、庭に植わってる時は近くに寄っても月桂樹の香りはしないのに。
ママに頼まれて煮込み料理用に葉っぱを千切りに行ったら、千切った葉っぱが香るんだ。ママがダイニングに置いていた枝がいい匂いをさせていたように。
あの枝はきっと、木から切られたから強い匂いがしたんだろう。葉っぱを一枚千切るどころか、枝ごとチョキンと切ったんだから。
月桂樹の栞を挟んで直ぐに聞こえたチャイムの音。
大急ぎで窓に駆け寄ってみたら、月桂樹を貰いに寄ったご近所さんが門扉の所に立っていた。
(…一回目のチャイムはご近所さん、って思ってたくせに…)
すっかり忘れてハーレイかと思った慌て者のぼく。
こんな日に限ってハーレイは来てはくれないのかも、って心配したけど、暫くしたらチャイムが鳴って今度はハーレイ。仕事帰りに寄ってくれたハーレイ。
そのハーレイは、ママがお茶とお菓子を置いてったテーブルを挟んで向かい合わせで座ってから部屋を見回して。
「おっ、月桂樹の匂いだな」
何処かにあるのか、月桂樹の枝。その辺には見当たらないんだが…。
「あそこの本だよ、ママが栞にってくれた葉っぱを挟んだんだよ。だけど…」
ハーレイ、匂いで分かっちゃうの?
月桂樹が部屋にあるってことが?
「そりゃあ分かるさ、俺の家にもあるからな」
馴染みの匂いだ、嗅げばアレだと分かるってわけだ。月桂樹の香りは分かりやすいし。
(ハーレイの家にも月桂樹の木…)
おんなじ木だ、と嬉しくなった。
ぼくの家にあるのと同じ木がハーレイの家の庭にあるって、お揃いみたいで胸が高鳴る。ぼくの家にも、ハーレイの家にも月桂樹。ママのお手伝いでたまに葉っぱを千切りに行く木。
「月桂樹の葉っぱ、ハーレイも煮込み料理に使うの?」
それとも虫よけ?
ママが教えてくれたんだよ。月桂樹の葉っぱは虫よけになるって、栞に一枚貰ったんだ。
「月桂樹の葉の使い方か? 俺は料理だが、おふくろの場合は両方だな」
しっかり乾燥させたのを布の袋に詰めてだ、クローゼットとかに入れているんだ、防虫用に。
月桂樹の他にもハーブを混ぜているがな、おふくろの好みで色々とな。
「お母さんの家にも月桂樹、あるの?」
「あるさ、俺が生まれるよりも前から植わってる木がな」
ガキの頃には、おふくろに頼まれて葉っぱを千切りに行ってたもんだ。
煮込み料理に入れるから、って走らされたな、庭までな。
(お母さんの家にも月桂樹…)
ますます嬉しくなった、ぼく。
ハーレイの家にも、隣町にあるハーレイのお父さんとお母さんが住んでる家にも月桂樹。ぼくの家の庭にも月桂樹が植わっているんだし…。
おんなじ木があるって、とっても嬉しい。
ハーレイから聞いてる木の話といえば、お父さんたちの家にある大きな夏ミカンの木だけれど。
いつもハーレイが持って来てくれる、お母さんの手作りのマーマレードの材料がドッサリと実る木だけど、ぼくの家には夏ミカンの木は植わってないから。
大きな夏ミカンの木は「どんなのかな?」って想像するしか出来なかったし、本物に会える日はまだ遠そうだし、ぼくにとっては幻みたいな存在で。
なのに、月桂樹の木がいきなり出て来た。ハーレイの家にも、お父さんたちの家にも月桂樹。
ぼくの家の庭の月桂樹とお揃い、枝ぶりとかはきっと違うだろうけど。
「どうした、お前、嬉しそうだな」
やたらニコニコしているようだが、何がそんなに嬉しいんだ?
「木がお揃いだよ、月桂樹の木」
ぼくの家と、ハーレイの家と、ハーレイのお父さんたちが住んでいる家と。
庭の月桂樹の木はお揃いだよね、って考えたら嬉しい気持ちがしない?
「なるほどなあ…。月桂樹がお揃いというわけか」
そいつは全く気付かなかったな、お前の家の庭に月桂樹があるのは知ってたが…。
お揃いと来たか、お前ならではの発想だな。
俺とお揃いの何かが欲しい、と何度聞かされたことやらなあ…?
あそこのシャングリラの写真集にしたって、お前にしてみりゃ俺とお揃いらしいしな?
俺が先に買って教えてやってだ、お父さんに強請っただけなのになあ…。
一緒に買いに行ったってわけじゃないんだし、お揃いも何もあったものではない筈だがな?
庭の木がお揃いだと言うのなら、とハーレイは唇に笑みを浮かべた。
月桂樹の話をしてやろうか、って。
「神話だったら知ってるよ?」
女の人が月桂樹になってしまうんでしょ?
神様に追い掛けられちゃって、逃げ切れなくて。それで月桂樹に変身しちゃうんだよね?
「あれじゃなくてだ、あの神話の国の話だな」
ギリシャ神話っていうくらいだから、遠い昔のギリシャの話だ。
その大昔のギリシャで本当にあった話で、神話なんかじゃない話だが…。
「どんなお話?」
「それはな、月桂冠と言うヤツで、だ…」
月桂樹の枝を編んで作った冠なんだ。
最高に名誉な冠だったらしいぞ、月桂冠は。そいつを作っていた頃にはな。
月桂樹の枝を編んで作った月桂冠。
オリンピックっていう競技大会で勝った人が貰える冠だったんだって。
ボクシングだとか、円盤投げとか、色々な種目で競い合っていた体育の祭典、期間中には戦争もお休みになったくらいの大きなお祭り。四年に一度の大きなお祭り。
そのオリンピックは大昔のギリシャが衰退したら無くなった。ずっと後になって、それを真似て地球にあった国の殆どが参加したほどのオリンピックという大会が出来たらしいけど。SD体制に入るよりも前に消えてしまって、オリンピックは今は無い。
だから知らなかった、オリンピック。
名前くらいは知っているけど、月桂樹の枝を編んで作った月桂冠は初耳だった。
後から出来たオリンピックだと、競技ごとにメダルが貰えたみたい。一位の人には金のメダルで二位の人は銀、三位は銅。
だけど、昔のオリンピックにメダルは無かったんだって。
勝った人には月桂冠。月桂樹の枝を編んだ冠を被せて貰って、勝者の証。
「…メダルは無しって…。月桂冠だけ?」
勝ってもそれしか貰えなかったの、ずうっと昔のオリンピックは?
「うむ、それだけだ」
偉いスポンサーがついていればだ、自分の姿を彫った像を作って貰えたらしいが…。
その像をオリンピックが開催されてた場所の近くの神殿に奉納出来たそうだが、そこまで出来たヤツは多くはないって話だな。大抵のヤツは月桂冠を貰ってそれで終わりだ。
「月桂冠だけって…。酷くない?」
それじゃ記念に取っておいても枯れてしまうよ、元の形で残せないよ?
メダルだったら何十年だって残しておくことが出来るのに…。
「そういう時代だったってことだな、古代ギリシャがあった頃はな」
オリンピックが一番有名なんだが、似たような大会が他に三つあった。その三つの方も、貰えるものは冠だけだったと言うからな。
しかもだ、冠は大会が開催される場所によって何で作るのかが決まっていた。オリンピックなら月桂冠だが、他の所だとセロリにパセリにオリーブだぞ。
「セロリにパセリにオリーブって…。全部、食べられるものじゃない!」
月桂樹だって料理に使うものだし、もしかして食べるものしか貰えない時代だったわけ?
「そのようだ。それぞれ由来ってヤツはあったんだろうが…」
開催地の神様にゆかりの植物だとか、そういった理由はあった筈だが…。
食えるもので作った冠ってことは案外、丈夫な身体を作れっていう意味もあったのかもな。
いつもお前に言っているだろ、「しっかり食べて大きくなれよ」って。
そんな風に食べられる冠を贈って、もっと強くて頑丈な身体を作るように、ってな。
ハーレイが教えてくれた、古代ギリシャの勝者の冠。
月桂冠にセロリにパセリにオリーブ、なんだか美味しそうな冠ばっかり。
貰った人はやっぱり冠を食べちゃったのかな、残しておいてもセロリやパセリは傷んじゃう。
オリーブだって実が駄目になるし、月桂冠もドライハーブになっちゃうだけ。
新鮮な間に料理しちゃって食べてたのかな、と思うけど…。
「ハーレイ、凄く詳しいね」
オリンピックには月桂冠だとか、他にも大会があっただとか。
古典の先生だから詳しく知っているわけ、そういう昔の大会のことも?
「馬鹿、俺とは範囲が違うだろうが」
俺が教えるのは同じ古典でもギリシャじゃなくって日本の方だ。
月桂冠を貰えるオリンピックをやってた時代は、日本なんかは世界史にも出ては来ないってな。
「そっか…」
そういえばそうだね、日本よりも古代ギリシャの方が歴史がうんと長いんだよね。
日本とギリシャじゃ距離も遠すぎるし、接点だって無さそうだよね…。
古典の範囲じゃなかったのか、って納得したけど、今度は疑問。
ハーレイは何処でオリンピックや月桂冠のことを知ったんだろう?
情報自体はデータベースにあるだろうけど、知りたがる理由が分からない。授業中にする雑談の種を探してたのかな、それにしたってオリンピックというのが謎だし…。
「ねえ、ハーレイ。なんでそんなに詳しいの?」
月桂冠もオリンピックも、古典の授業と全く関係なさそうだよ?
雑談の種を探してたにしたって、そこまで詳しく調べなくても良さそうだけど…。
「ああ、それはな…」
貰ったからさ。貰ったからには調べたくなっても全く不思議じゃないだろうが。
「何を貰ったの?」
「月桂冠だ」
「ええっ!?」
月桂冠って、月桂樹で編んだ冠のこと?
ハーレイ、それを貰ったの!?
いつ、ってビックリしちゃった、ぼく。
オリンピックは今は無いのに。
月桂冠だけが貰えたオリンピックどころか、それを真似てたメダルが貰えるオリンピックだって何処にも無いのに。
全宇宙規模での競技会の類は幾つもあるけど、オリンピックっていう名前じゃない。勝った人が貰えるものは何だったっけ、と考えていたら。
「俺が貰ったのは、お前とおんなじ学校の頃さ。上の学校へ行く前のことだな」
水泳部の顧問をしていた先生が俺にくれたんだ。
本当に本物の月桂冠。月桂樹の枝を編んで作った冠をな。
ハーレイが所属していた水泳部。
顧問の先生の奥さんが古代ギリシャの文化や神話が好きだったらしくて、月桂冠を考え出した。
水泳部の生徒のために自分が編もうと、それをプレゼントしてあげようと。
ただし、大会で優勝したら。
あちこちの学校から選りすぐりの選手が出場してくる大会で見事に優勝できたら。
「先生からそう聞かされてみろ。これは頑張るしかないだろう?」
「うん」
優勝しないと貰えないんだものね、月桂冠。欲しければうんと頑張らないとね。
「そういうことだ。月桂冠の話が出て来た時にだ、オリンピックや他の冠の話も聞かされたんだ」
月桂冠が如何に凄いか、特別なものかを先生が俺たちに語るわけだな、こういうものだ、と。
その由緒ある月桂冠を手に入れたければ頑張ることだ、と。
「それって、励みになりそうだね…」
目の前のニンジンみたいなものだね、その月桂冠。
「うむ。俺の家にも月桂樹はあったし、おふくろに頼めば月桂冠は充分に作れたんだが…」
それとこれとは話が別っていうヤツだ。
見た目は同じ月桂冠でも、優勝した御褒美と俺のおふくろの手作り品とじゃ別物だろうが?
もう絶対に貰ってやる、と他のヤツらの何倍も練習したもんだ。
毎日毎日、もっと泳げると、まだ泳げると。
そして優勝したってわけだな、他の学校の選手に大差をつけてな。
先生は約束通りにくれたさ、奥さんが作った月桂冠を。
大会の次の日、ハーレイは月桂冠を貰った。
水泳部員が集まってる前で、先生の手で頭に被せて貰った。月桂樹を編んだ冠を。
「月桂冠、貰えて嬉しかった?」
「そりゃもう……なあ?」
あれを目指して泳いだんだしな、来る日も来る日も誰よりも長く練習をして。
ついに貰えたと、優勝したんだと、あの瞬間に実感したなあ…。
大会の会場で貰って帰ったトロフィーよりもだ、俺にとっては月桂冠の方が価値があったんだ。
ただの月桂樹を編んだ冠なんだが、どういう由来がある冠かを知っているしな。
古代ギリシャのオリンピックで勝ったみたいな気分になったな、あれを被った瞬間にな。
念願の月桂冠を貰って、大喜びで持って帰ったハーレイ。
先生は保存用の加工をしようかと言ったらしいけど。
そのままだといずれ枯れてしまうし、緑の葉のままで飾っておけるように花屋さんに頼むのなら費用を出そうと思ってくれていたらしいんだけれど。
「自然の枝から出来ているんだ、やっぱり自然が一番だろう?」
月桂冠を貰えた時代にそういう保存技術は無いしな、そのままがいいと思わんか?
加工していつまでも記念に残すのもいいが、自然に枯れて朽ちてしまうのも悪くないってな。
「ハーレイの気持ち、ぼくにも分かるよ。自然のものは自然に任せるのが一番だから」
でも、どうなったの、その月桂冠。
加工しなかったってことは、その内に枯れちゃったんだよね…?
「少しずつ葉っぱが乾いて落ちていってだ、落ちる度におふくろが煮込み料理にな」
月桂樹の葉を煮込み料理に使う方法は二通りあるんだ、生の葉にするか、乾かした葉か。
俺が貰った月桂冠から落ちた葉っぱは乾いてるしな、そのまま煮込み料理に入れりゃいいんだ。生の葉を入れるなら軽く揉んだりするんだがな。
おふくろが煮込み料理に使っちまっても、俺は惜しいと思わなかった。むしろその逆だ。
今日の料理は勝利の煮込みだと、あの月桂冠の葉を入れて作った煮込み料理だと。これを食えば力が出てくる筈だと、強くなれるに違いない、とな。
「力、出た?」
勝利の煮込み料理は効いたの?
「多分な」
そいつを食ったら、次の日はうんと力がついてる気がしたな。
水泳にしても柔道にしても、負け知らずってくらいに強かったなあ…。
最後の方には取っておいたさ、って笑うハーレイ。
月桂冠から落ちた葉っぱを大切に残しておいて、ここぞっていう大会や試合の前の日になったらお母さんに頼んで煮込み料理を作って貰う。取っておいた月桂樹の葉っぱを入れて貰って。
シチューにポトフに、それからカレー。他にも色々、勝利の煮込み。
「ハーレイ、勝てた?」
勝利の煮込みを食べて勝てたの、大会や試合。
「当然だろうが。でなきゃプロの選手にならないか、なんて話は来ない」
上の学校に入る時には、それまでの成績も検討した上でコースを決めてくるからな。
プロの選手を目指せるヤツかどうか、その辺も考えて所属するクラスを決められるもんだ。
例外だって当然あるがだ、俺の場合は最初からプロ向けのコースだったってな。
そのコースに乗っかることが出来たのは勝ち続けたからだ、勝利の煮込みは大いに効いたさ。
あのままプロの選手になっていたなら…、と話すハーレイ。
月桂冠にも出会えたかもと、メダルやトロフィーに刻んであることも多いからと。
「なにしろ古代ギリシャからの伝統の冠だからなあ、月桂冠は」
そういう習慣を大切にしたい人が始めた大会とかなら、そのモチーフが使われるんだ。
月桂冠を知っているなら一目で分かる模様だな。知らなきゃ、ただの木の枝だが。
「それじゃ、月桂冠…」
今でもあるんだ、冠の形はしていなくても。
ハーレイがプロの選手だったら、また月桂冠を貰えていたかもしれないんだ…?
「まあな。だが、俺は教師になっちまったし…」
今の俺には無縁だってな、月桂冠は。
柔道だって今じゃ趣味の範囲だ、あの手の大会を目指そうとまでは思わんなあ…。
頭に被るための冠なんかは別に要らんし。
そいつをモチーフにしたメダルもトロフィーも特に欲しくは無いなあ、うん。
「…寂しくない?」
月桂冠は今もあるのに、手に入れることが出来ないなんて。
先生を辞めて選手になろう、って思ったりはしないの、ハーレイの腕なら出来そうなのに。
「いや。一度は本物、貰ったからな」
正真正銘の月桂冠だぞ、トロフィーとかに刻んだヤツと違って。
本当に本物の月桂樹の枝で編んだ冠だ、俺はそいつを頭に被せて貰ったんだ。
ついでにそいつで勝利の煮込みを何度も作って貰って、食って。
勝った思い出が山ほどあるから、それでいいのさ。
充分だ、って満足そうな顔のハーレイ。
前の俺には月桂冠なんかは無かったんだし、って。
(でも…)
ハーレイは本当にそれでいいんだろうか?
今のぼくと同じ学校の生徒だった頃に貰った、月桂樹の枝を編んで作った月桂冠。
それがハーレイが手に入れた、たった一つの月桂冠。
水泳にしても柔道にしても、プロの選手になっていたなら、もっと幾つも貰えただろうに。
メダルやトロフィーに刻んだものでも、月桂冠を知っているならそうだと分かる冠を。月桂冠の模様が入った勝利の記念を幾つも、幾つも手にしただろうに…。
(なのに、プロにはならずに先生…)
どうして先生の道を選んだのかは聞いてるけれど。
自分の意志で決めたことだと言っていたけど、ホントに後悔しなかったろうか?
先生を辞めてプロの選手の道に入ろうか、って一度も思わなかったんだろうか…?
ハーレイが先生になってくれたから、ぼくと出会えた。
忘れもしない五月の三日に教室で会えた。
プロの選手になっていたって、多分、出会えただろうけど…。
(きっと、会えるのはずっと先…)
ぼくはスポーツをやってないから、プロの選手との接点がまるで無いんだから。スポーツ観戦の趣味も無いから、スタジアムとかで観客として出会うチャンスも全く無い。
そんなぼくがプロの選手のハーレイに会うなら、街で偶然、すれ違うくらい?
でなければパパやママと一緒に食事に出掛けたお店にハーレイも食べに来ていたとか。
(…そうやってハーレイに会えたとしても…)
ハーレイはプロの選手なんだから、スポーツもやらないチビのぼくなんかと頻繁に会っては話すほど暇じゃないだろう。休みの日だって上手く重ならないかもしれない。
(学校の先生だったから、学校でも会えて、ぼくの家にも来てくれて…)
毎日と言ってもいいほどに会えて、二人きりで過ごせる時間だって取れる。守り役だって喜んで引き受けてくれたけれども、プロの選手ならそうはいかない。守り役なんかしてはいられない。
(地球のあちこちに試合に出掛けて、他の星にだって…)
練習時間も多いんだろうし、チビのぼくのために時間は割けない。
ハーレイがプロの選手だったら、出会えたとしても会えない日の方が多いと思う。
それに、将来、お嫁さんにして貰えるかどうかも分からない。
プロの選手のお嫁さんになるには身体が弱すぎるぼく。
試合や練習で忙しいハーレイを支えられるほどに丈夫じゃないから、足を引っ張るだけだから。
そんなぼくをお嫁さんに選んでくれるとは、とても思えないから…。
「ハーレイ、月桂冠、ホントのホントに要らないの…?」
プロの選手になって手に入れたかったと思わない?
学校の先生なんかをするより、ぼくと結婚するよりも。
いろんなメダルやトロフィーを貰って、プロの世界で活躍したいと思わない…?
そう訊いたら、「同じ貰うなら月桂冠よりも嫁さんの方がいい」っていう答えが返ったけれど。
月桂冠よりもお嫁さんだと、ぼくをお嫁さんに貰いたいんだ、って言われたけれど。
(ホントに未練は無いのかな…)
ハーレイが進んでいたかもしれないプロの選手になるという道。
月桂冠を刻んだメダルやトロフィーを幾つも幾つも勝ち取れる道。
そっちの道を選べば良かった、ってハーレイは思いはしないんだろうか?
今からでもそっちに軌道修正をしようと思いはしないんだろうか…?
「…月桂冠を貰えそうな道…」
プロの道にホントに未練は無いの?
そっちに行こうと、行けば良かったと思ったりすること、一度も無いの…?
「無いな、俺は自分の人生ってヤツに充分満足しているからな」
別の生き方をしてみたいなんて思わんなあ…。ただの一度も無いな、そいつは。
本当に一度も無いんだからな、ってハーレイはぼくに言い切った。
とびきりの笑顔で、ぼくが大好きでたまらない笑顔で。
それから、ぼくを見詰めてこう尋ねたんだ。
「お前、月桂冠にこだわりたいのか?」
やたらと気にしているようなんだが、月桂冠がそんなに気になるのか…?
「聞いちゃったからね、月桂冠の話」
どんなものかも、ハーレイが本物を貰ったってことも。
「だったら、お前が作ってくれ」
月桂樹の枝をお前が編んでだ、本物の月桂冠ってヤツを。
「…ハーレイに?」
月桂冠を編んでハーレイにプレゼントすればいいわけ、本物のを?
「渡す相手は俺でいいんだが…。俺で間違いないんだが…」
俺が言うのは、ガキだった俺が月桂冠を貰ったみたいに、って意味のことだな。
顧問の先生が俺の頭に被せてくれたが、あの月桂冠を作った人は…。
「ああ、先生の奥さん…!」
ぼくが作って、ハーレイに渡して。
その月桂冠をハーレイが生徒にプレゼントするんだね、優勝した子に…?
「うむ。どうしてもお前が月桂冠にこだわりたいなら、そういうのが俺の望みだな」
お前の手作りの月桂冠、って鳶色の瞳が細められた。
作ってやってくれないか、って。
俺の教え子のために月桂冠を編んでくれないか、って。
「いいよ、ハーレイがそうしたいなら」
ハーレイが貰った月桂冠みたいに、クラブの子に贈ってあげたいのなら。
頑張って月桂冠を作るからね、って勢いよく返事を返した、ぼく。
子供だった頃のハーレイが貰って嬉しかったという月桂冠を、今度はぼくが作るんだ。
ハーレイが指導する子供たちのために、月桂樹の枝を編んで本物の月桂冠を。
優勝した子に、頑張った子の頭にハーレイが被せる月桂冠。
そのハーレイがずっと昔にして貰ったように、被せてあげるんだろう月桂冠。
ハーレイのお嫁さんだからこそ、作ることが出来る月桂冠。
いつかハーレイの教え子のために月桂冠を編むんだ、ハーレイの家の庭で育った月桂樹の枝で。
ぼくが編んで、ハーレイが教え子の頭に被せる。
「俺の嫁さんが作ったんだぞ」って、「嫁さんからの贈り物だ」って。
そうして、月桂冠の話をハーレイは教え子たちに語るんだろう。
この冠はこういうものだと、勝利の証の月桂冠だと。
(勝利の煮込みの話までセットでつきそうだよね?)
きっと保存用の加工を頼んでくる子は一人も出て来やしないんだ。
月桂冠の葉っぱが落ちてしまったなら、それを使って勝利の煮込みが出来るから。
ハーレイの家にも、ぼくの家にも、ハーレイのお父さんたちの家にも生えてる月桂樹。
だけど月桂冠を編むなら、ハーレイの家の月桂樹。
お嫁さんのぼくだからチョキンとハサミで切っちゃってもいい、月桂樹。
ハーレイが学校に出掛けてる間に枝を切って、編んで。
「はい」ってハーレイに出来上がったのを渡すんだ。
頑張った子の頭に被せてあげてね、って、うんと頑張って月桂冠を編んだからね、って…。
月桂樹の冠・了
※ハーレイが子供時代に貰った、本物の月桂樹で出来た冠。勝者の証の月桂冠です。
今も大切な思い出の一つ。いつかブルーが、ハーレイの教え子たちに編むのでしょうね。
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