シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(クッキー…)
それは唐突にやって来た。
学校から帰って、おやつを食べていた最中に。おやつはケーキだったのに。
何故だか急に、食べたくなった。あのクッキーが食べてみたい、と。
(あそこのクッキー、美味しかったもの…)
一度だけ、ハーレイが持って来てくれた。
ハーレイの家の近所にあるという店のクッキー、それを土産に提げて来てくれた。ブルーの家に来られなかった詫びにと、客にはこれを出したのだと。
柔道部の顧問をしているハーレイ。クラブの子たちが遊びに来るから、と来客を優先された時のお詫びがクッキーだった。彼らに出した菓子はこれだと、お前も食べてみたいだろうと。
今の学校だと柔道部員で、それまでにハーレイが居た学校なら水泳部員のこともあったろう。
柔道部であれ、水泳部であれ、あのクッキーはハーレイの客たちの御用達。
(徳用袋って言ってたよね?)
ブルーは箱入りの綺麗な詰め合わせを貰ったけれども、来客用には徳用袋だと聞かされた。作る途中で割れたり欠けたりしたクッキーを詰めた、大きな袋があるのだと。
菓子も食事も山のように食べる生徒たちには上品な詰め合わせセットは向かない。ゆえに徳用、それでもアッと言う間に空にするのがハーレイの家の客たちらしい。
(ホントに本物のお客さんなら、ぼくが貰ったみたいなクッキーを出すんだろうけど…)
それを思えば、自分が貰ったクッキーの方が断然、上。
いわば特別扱いだけれど、それが突然、あまり嬉しくなくなった。
ハーレイの家には行けない自分。来てはいけないと言われた自分。なのに自由に出入りしている柔道部員の生徒たち。招かれたら家じゅうを走り回って、覗いて回るという生徒たち。
彼らの立場が羨ましい。彼らのために用意されるという徳用袋のクッキーだって。
(食べてみたいな…)
割れたり欠けたりしたクッキー。改まった客には出さないクッキー。
それを自分も味わってみたい。特別扱いの澄ましたクッキーなどより、普段着のクッキー。
ハーレイの家に遊びに出掛けた生徒たちに振る舞われるクッキー。
(味はおんなじなんだろうけど、気分が全然違うよね?)
箱に綺麗に並べられていて、欠陥など無いクッキーは所詮、よそゆきの顔。何処に行っても通用する顔、個性がまるで無いクッキー。
けれども徳用袋のは違う。真っ二つに割れてしまったものやら、大きく欠けているのやら。同じ型から生まれたものでも同じ形をしているクッキーは無くて、どれもが違った顔ばかり。
(どのクッキーもきっと、ユニークなんだよ)
賑やかに笑いさざめいているクッキーたちの声が聞こえるようだ。大きな菓子鉢か皿に盛られて出されたクッキー、それらが笑い合う声が。クッキーをつまむ生徒たちと同じに、それは賑やかに楽しそうに。
(…いいな…)
そんなクッキーたちを自分も食べたい。個性豊かなクッキーを食べて、気分だけでもハーレイの客になったつもりで楽しみたい。あの家に自分は行けないけれども、気分だけでも。
(だって、徳用袋のクッキー…)
ハーレイの家に招かれた教え子たちだけが出会えるクッキー、個性溢れるクッキーたち。
割れたり欠けたり、お行儀の悪いクッキーの群れ。
そこから一つつまむだけでも幸せな気分になれるだろう。ハーレイの家に行ったらこのクッキーだと、こんなクッキーたちが「いらっしゃい」と迎えてくれるのだと。
どうにも食べたくなってきたから、クッキーに会いたい気持ちを抱えて部屋に戻った。徳用袋に入ったクッキー、まだ会ったことが無いクッキー。
(食べたいな…)
ハーレイのお客さんになって食べてみたいな、と勉強机の前に座って考えていたら。クッキーな気分を断ち切れずにいたら、運良くハーレイがやって来た。仕事帰りに、チャイムを鳴らして。
(神様が連れて来てくれたんだよ…!)
クッキーが欲しいと頼むように、と連れて来て下さったに違いない。心から欲しいと願っていたから、神様が願いを叶えてやろうと手伝って下さったに違いない。
だから早速、ハーレイに強請った。母がお茶とお菓子を置いて去った後、勢い込んで。徳用袋のクッキーが欲しいと、あれを一度食べてみたいのだと。
しかし…。
「徳用袋か…。お前には向いていないんだがな」
あれはお前に渡すようには出来ていないと思うんだが…。
「なんで?」
割れたり欠けたりしてるだけでしょ、味は普通のクッキーなんでしょ?
あそこのクッキー美味しかったし、ぼくの好みの味だったよ。向いてないことはないと思うな、よそゆきの顔をしてないクッキー、食べたいな…。
ちゃんと揃ったクッキーもいいけど、普段着の顔のクッキーがいいよ。
だって、ハーレイの家に大勢で遊びに行った生徒は、そのクッキーを食べるんだものね。
「味や形は問題じゃないんだ、要は徳用袋のサイズだ」
お前ではとても食い切れない。個別包装だってしてないからなあ、一気に食わんと湿っちまう。一日で全部食えとは言わんが、せいぜい二日か三日ってトコだ。それを過ぎたらもう駄目だな。
「平気だってば、食べ切れないならママたちと分けるよ」
ママもパパもクッキー、大好きだしね。
前にハーレイがくれたクッキー、少しだけ分けてあげたんだけど…。とても美味しいって言っていたから、また貰えたなら大喜びだよ。それも沢山食べられるんなら。
「そんな失礼なことが出来るか!」
お前が一人で食うならともかく、お父さんやお母さんにも分けるだと?
そいつは失礼すぎるってモンだ、俺の人格を疑われそうだ。なんてモノを持ってくるんだとな。
相手は徳用袋なんだぞ、とハーレイは顔を顰めて言った。
来客に出したり、お遣い物に持ってゆくには不向きだからこそ徳用袋に入れられるクッキー。
そんなクッキーばかりを詰めたものなど、土産に持っては来られないと。
アッサリ断られてしまったけれども、諦められない徳用袋。
ハーレイの家に出掛けた生徒たちだけが味わえる個性豊かなクッキー。
駄目だと言われれば余計に欲しい。食べたくて欲しくて、なんとしてでも手に入れたい。
次にハーレイがやって来た時も、また強請ったから。
徳用袋のクッキーが欲しいと、食べてみたいと強請ったから。
「お前、忘れていなかったのか…」
たかがクッキーだぞ、お母さんだって焼いてくれるじゃないか。うんと美味いのを。
それに毎日、手作りの菓子を色々食わせて貰ってるくせに、お前の頭から徳用袋は消えんのか?
「食べ物の恨みって言うじゃない」
しつこいものでしょ、食べ物の恨み。それだから忘れないんだよ。
ハーレイが食べさせてくれなかった、って恨んでいるから、徳用袋のことを覚えているんだよ。ぼくに御馳走してくれるまでは忘れないままでいると思うな、徳用袋のクッキーのこと。
「そう来たか…」
食い物の恨みか、そいつは確かにしつこそうだ。俺は来る度に言われるんだな、あれを食わせてくれなかったと。
仕方ないな、とハーレイは大きな溜息をついた。
なんとか工夫してみよう、と。
ブルーの両親に失礼なことにならない形で徳用袋のクッキーを持ち込む工夫をしよう、と。
そして訪れた週末の土曜日。
ハーレイは自分の荷物とは別に丈夫そうな袋を提げて来た。袋の中身はハーレイの母の手作りのマーマレードが詰まったガラス瓶。夏ミカンの金色が鮮やかなマーマレードは、切れないようにと早めに新しい瓶を持ってくるのが常だった。ブルーの家の朝食に欠かせないマーマレード。
それをブルーの母に手渡した後で、二階のブルーの部屋に案内されて来たハーレイだけれど。
「苦労したぞ」と袋の中から瓶をもう一つ取り出した。
「お母さんにはマーマレードだけを持って来たふりをしておいた」と。
テーブルの上に置かれた大きなガラス瓶。中にギッシリ詰まったクッキー。
覗き込んでみれば、クッキーはどれも割れたり欠けたりしていたから。
「これが徳用?」
徳用袋のクッキーは瓶に詰まっているものだったの、ぼくは袋だと思っていたけど…。
「いや、徳用だけに袋入りだが? 瓶なんかついてくるもんか」
そいつの一部を詰め替えて来たんだ、この瓶にな。
お前にはとても食い切れない量だと言っていただろ、徳用袋。だから一部だ。
こんなサイズの袋だからな、と示された大きさはとてつもないもの、まさに徳用。
「凄いね、そんなに大きな袋だったんだ。クッキーの徳用袋って…」
この瓶だって充分、大きいのに…。ぼく、一日では食べ切れないよ。
「クッキーを入れるなら、このくらいのデカさの瓶でないとな」
せっかくの徳用袋だからなあ、お前が欲しくて何度も強請ったヤツだしな?
そうそう買ってはやれないからなあ、こいつでじっくり味わってくれ。
これだけあったら暫くはクッキー、食えるだろ?
一日にどれほど食うかは知らんが、二日や三日じゃ、多分、食い切れないだろうしな。
マーマレードの瓶に負けないサイズのガラス瓶。瓶の高さは十五センチは軽くあるだろう。
その中にびっしり、色々な色や形のクッキーたち。割れたり欠けたりしているけれども、様々なクッキーが詰め込まれていて。
「こうやって瓶に詰めておけばな、袋と違って湿らないしな」
食べる分だけ出したら蓋を閉めるんだ。そうしておいたら一ヶ月だって大丈夫だぞ。
「ありがとう! 大事に食べるよ、少しずつ。おやつは毎日、ママが用意してくれるしね」
お腹が空いてるわけじゃないから、一日に二つか三つもあれば…。
どのクッキーが美味しいの?
「うん? どれも美味いが、シナモンはちょっと変わった風味だぞ」
黒砂糖ってヤツを使っているんだ、甘さにクセがあるってな。
「シナモンって…。どれ?」
「こいつだ、ここの四角いヤツだ。割れちまって四角じゃないけどな」
それにアーモンドもホロリと崩れる感じがいいんだ、こいつがアーモンドクッキーだ。
でもって、こっちの黒っぽいのがだな…。
ココア風味や、チョコレートチップが入ったものやら。
どのクッキーもハーレイのお勧めらしいけれども、原型を保ったものは無かった。それでも形の想像はつく。きっとこうだと、綺麗に仕上がればこうなのだと。
前に貰った詰め合わせセットの時には無かったクッキー談義がとても嬉しい。
ブルーが熱心に瓶を見ていたら、ハーレイが蓋に手を置いた。
「ちょっと食ってみるか?」
どんな味だか、二つか三つ。上の方に入っているヤツをな。
「うんっ!」
ハーレイも一緒に食べようよ。ぼくが一人で食べるのもいいけど、ハーレイと一緒。
徳用袋を食べる生徒の時もそうでしょ、ハーレイ、一緒に食べてるんでしょ?
ハーレイが瓶の蓋を軽く捻って開けて、それは素晴らしいティータイム。
ケーキのお皿に割れたクッキーを何枚か出して、ハーレイと二人でつまんで食べた。クッキーの説明をして貰いながら、元はこうだと形を教えて貰いながら。
もちろん瓶にはきちんと蓋がされていたから、瓶の中身は湿りはしない。ハーレイはクッキーを隙間なく詰めて来ていたのだろう、瓶にはまだまだギッシリとあって。
「な、割れたクッキーでも美味いだろう?」
残りは楽しんで食うんだな。飯を食うのに差支えない程度にしておけよ。
「うん! 一人でコッソリ食べることにするよ」
ママに見付かったら食べられちゃうしね、このクッキー。
美味しいわね、って言われちゃったらおしまいなんだよ、アッと言う間に無くなっちゃうよ。
この店のクッキーが美味しかったことは両親も覚えている筈だから危険だった。
発見されれば「このクッキーでお茶にしましょう」と階下に運ばれ、それっきりになる。
だから隠す、とブルーはクッキー入りの瓶をチョンとつついた。
クローゼットに仕舞っておくよ、と。
あそこならママも滅多に覗かないから、絶対に発見されないよ、と。
その言葉通り、母が昼食を運んで来る前にクローゼットに突っ込んだ。
ハーレイは「そんな所に隠すのか?」と笑ったけれども、かまわない。ベッドの下よりも安全な筈の隠し場所。クローゼットの扉を大きく開け放たない限り、隅っこまで見えはしないから。
(ふふっ、クッキー…)
ついに手に入れた徳用袋の中身のクッキー。割れたり欠けたりしたクッキー。
その夜、ハーレイが帰って行った後、歯を磨く前に一枚食べよう、とクローゼットから引っ張り出した瓶。どれにしようか、と思案しながら開けようとして。
(開かない…)
固く閉まった瓶の蓋。こういう時には蓋を温めれば開くのだったか、と思ったけれど。
生憎と蓋だけを温められそうなものは部屋には無い。布で擦って温めてみても開かない蓋。
(んーと…)
力一杯、何度も捻って、手が痛くなるまで挑んだけれど。
どう頑張っても開かなかったから諦めた。
なにしろ瓶の中身はクッキー、洗面所に運んで蓋を湯で温める方法は使えないから。
両親に知られずに出来そうな方法は、湯の他に思い付かないから…。
悪戦苦闘して諦めた翌日、日曜日。
訪ねて来てくれたハーレイと部屋で向かい合うなり、母の足音が階下に去るなり、ブルーは瓶をクローゼットから取り出した。
「ハーレイ、この蓋、開かないよ?」
昨日、寝る前に一枚食べようとしたんだけれど…。
蓋が固くて開かなかったよ、一枚も食べられなかったんだよ。
「そうか?」
そいつは残念なことをしたなあ、家にあるのに食い損なったか。
しかしだ、この蓋、そんなに固くはない筈だがな?
ほら、とハーレイが蓋を捻ればポンと簡単に開いた瓶。
ブルーは嬉々として中身を何枚かケーキの皿の上へ移すと、ハーレイに勧めた。
これを食べようと、クッキーも二人で食べようと。
ハーレイの家でしか食べられない筈の徳用袋のクッキーだから。
割れたり欠けたり、お遣い物に持ってゆくにはお行儀の悪すぎるクッキーたちだから。
そうして二人でまたクッキーを食べて、瓶の蓋はハーレイが閉めてくれた。
「湿ると不味くなっちまうしな」と、ブルーがクッキーを皿に移すなり、手早くキュッと。
そのハーレイと二人でクッキーをつまんで、残りが入った瓶はクローゼットの奥に片付けて。
ハーレイの家に行った気分で味わったクッキー、徳用袋のクッキーたち。
(美味しかったな…)
あのクッキー、とハーレイが帰って行った後でクローゼットから瓶を引っ張り出した。
ハーレイと一緒に二度も食べたから、ますます特別になったクッキー。両親には内緒の宝物。
どれを食べようかとガラス越しに眺めて、今夜こそ、と蓋に手を掛けた。
宝物のクッキーを今夜こそ、一つ。
ハーレイお勧めのシナモンもいいし、アーモンドのも美味しかった。チョコレートチップのも、ココア風味も、アーモンドとココアが混じったものも。
心躍らせつつ蓋を捻ったのに、開いてくれない。どう頑張っても開かない蓋。
あんなに楽々と開けていたのに、と大きくて逞しい褐色の手を思い浮かべた途端に気が付いた。
(ハーレイのせいだ…!)
そういえば前に確かに聞いた。
いつもハーレイが持って来てくれる、夏ミカンの金色のマーマレード。あの瓶の蓋も固かった。両親が苦労して開けているそれを、ハーレイは手だけでポンと開けてみせた。蓋を開けるのにコツなどは無いと、自分は捻っているだけだと。
(力持ち…)
固くて開かないと評判らしい、夏ミカンのマーマレードが詰まった瓶。
捻るだけで開けられる人間はハーレイ一人で、マーマレードを瓶詰めにしたハーレイの母でさえ父と二人で開けるという。二人がかりで、サイオンまでも乗せて。
そのマーマレードの瓶を軽々と開けるハーレイが閉めてしまった蓋。「湿ると駄目だ」と固めに閉めておいた蓋。
ブルーの力で開くわけがない。どう頑張っても開く筈がない。
(クッキー…)
食べたいのに、と瓶を見詰めて肩を落とした。
開けたいけれども、開かない瓶。自分の力では開けられない瓶。
父に頼めば、開けてくれるかもしれないけれど。
(開けてくれても、食べられちゃうよ…)
「開けた御礼に一つ貰うぞ?」で済むわけがない。「ママにも一枚」と言いそうな父。
母と二人で一枚ずつ食べれば、もう間違いなく気付かれる。これは美味しいクッキーだと。形は不揃いでみっともなくても、味は素晴らしいクッキーなのだと。
そうなったら二人は確実に思い出すだろう。ハーレイが前に持って来たのと同じものだと。
(気付かれちゃったら、みんなで食べようって言い出すんだよ)
母がお茶を淹れ、父が器にクッキーを入れてティータイム。
クッキーの瓶はそのまま階下に留め置かれて、二度と部屋には持ち帰れない。一人占めにはしておけない。
(それに、一人で食べられるチャンスがあったとしても…)
ダイニングのテーブルで食べていたのでは、ハーレイの家に出掛けた気分になれない。あの家に招かれた気がするからこそ、このクッキーが欲しかったのに。
(仕方ないや…)
クッキーはとても食べたいけれども、次にハーレイが来るまでお預け。
瓶の蓋を開けて貰える時まで、暫くお預け。
ガラス瓶越しにクッキーたちを毎日眺め続けて、水曜日にハーレイが来てくれたから。また瓶を出して来て「開けて」と頼んだ。
クッキーを何枚かケーキが載った皿に移して、今度は自分で蓋を閉めたけれど。
「おいおい、駄目だぞ、そんな閉め方」
もっと力を入れないとな。ギュッと閉めんと湿っちまうぞ。
貸してみろ、と褐色の手が伸びて来て瓶を取り上げた。
止める暇も無く、ハーレイの力で閉められてしまった瓶の蓋。
悲劇は再び繰り返された。
ブルーがどんなに頑張ってみても、瓶の蓋はビクともしなかった。
開かない蓋と空しく戦い続けて、週末が来て。
土曜日、訪ねて来てくれたハーレイにブルーはまた頼まざるを得なかった。蓋を開けてと、この瓶の蓋が開かないからと。
瓶の蓋はいとも容易くポンと開いて、其処からクッキーを何枚か出して。
「ぼくが閉めるよ」と、「湿ってもいいから」と自分の力で閉めたのだけれど。
「俺はそういうのは許せんな」
寄越せ、きちんと閉めてやるから。
湿ってもいいとは、何を言うんだ。それは食べ物を粗末にするってことだぞ、分かってるのか?
いいか、クッキーはな、湿っちまったら美味くないんだ。しっかり閉めておいたら湿らん。
美味いままで置いておけるというのに、湿ってもいいとは感心せんな。
食い物が如何に大事なものかは、お前も承知している筈なんだがな?
前の俺たちがアルタミラから逃げ出した後、その食い物のせいでどうなった?
危うく飢え死にするトコだったぞ、前のお前がいなかったらな。
船に載ってた食料だけでは、いつか終わりが来るんだからな。
あの危機を覚えているだろうが、と言われたらもう反論出来ない。
ハーレイの手が瓶の蓋を固く閉め直すのを見ているしかない。
クッキーたちはブルーの手が届かない世界へ行ってしまって、ガラス瓶の向こう。美味しそうな姿は見えているのに、食べたくても瓶から取り出せない。
「これで良し、っと…」
もう大丈夫だ、こうしてきちんと閉めておけばな。いつでも美味いのを食べられるぞ。
「でも、開かないし…」
ぼくの力じゃ開けられないから、美味しいも何もないんだよ!
どんなにクッキーが美味しくっても、ハーレイが家に来てくれた時しか食べられないし!
「馬鹿だな、お前。サイオン、あるだろ」
そういう時にこそサイオンだってな、サイオンを使えば解決じゃないか。
「サイオン?」
ハーレイ、ぼくがサイオンを上手く使えないこと、知ってるくせに!
タイプ・ブルーだなんて名前だけだよ、とことん扱いが下手なんだよ…!
蓋なんかとても開けられない、と言い返したら。
出来るわけがない、と噛み付いたら。
「開けなくてもいいだろ、お前だったら」
蓋にこだわるから困るってだけだ、要はクッキーが食えりゃいいんだろうが。
瞬間移動で出せばいいのさ、とハーレイの指先がガラス瓶の表をピンと弾いた。
蓋を開けなくてもクッキーは出ると、前のお前なら一瞬だったと。
瓶の蓋はキッチリ閉められてしまい、クッキーたちは瓶の中。
割れたり欠けたり、一つとして同じ形をしてはいない表情豊かなクッキー。
ガラス瓶の中で笑いさざめくクッキーたち。
開けてごらんと、此処から取り出して食べてごらんと。
またハーレイに蓋をされてしまったガラス瓶。
もちろんその夜は開けられないまま、日曜日が来てハーレイに「開けて」と泣きついた。瓶から出て来たクッキーたちを二人でつまんで、また蓋をされた。
「しっかり閉めんと湿るからな」と、「食べ物は大事にしないとな?」と。
そのハーレイが「またな」と帰って行った後の夜、挑んだけれども開かない蓋。ブルーの力では開けられない蓋。
(ハーレイ、蓋にこだわるからだって言ったけど…!)
瞬間移動で出せるものなら苦労はしない。
それが出来るのなら、思念波だって自由自在に操れる筈で、他にも色々とサイオンで出来る。
前の自分がやっていたように、指さえ動かさずにこの部屋の模様替えだって…。
(うー…)
食べたいのに、とガラス瓶の向こうを睨み付けても、動いてくれさえしないクッキー。
瞬間移動で出て来るどころか、位置さえも変えてくれないクッキー。
(…シナモンも、隣のアーモンドも…)
チョコレートチップも、と思い浮かぶものは味ばかり。
美味しいクッキーの味は頭に蘇るけれど、それを口へと運ぶための技は出てこない。瞬間移動のコツもサイオンの力加減も、何一つ出ては来てくれなかった。
ガラス瓶を睨んで瞬間移動を試み、蓋を開けようとしては格闘して。
ブルーの努力は報われないまま、またハーレイが仕事帰りに訪ねて来た。週の半ばに。
悔しいけれども、瓶の中身を食べたかったらハーレイに頼むしかないものだから。
クローゼットの中から引っ張り出したら、ハーレイは瓶を見るなり大笑いした。
「減っていないな」と、「瞬間移動も無理だったか」と。
「お前、食い物の恨みとか言っていたから、その一念でやってのけるかと思ったが…」
出来なかったんだな、瞬間移動で出すというのも。一個も減ってはいないようだしな?
「そうだよ、だから開けてって言ってるじゃない!」
ハーレイが蓋を開けてくれないと、ぼくはクッキー、食べられないんだ。
これが食べたいな、って睨んでいたって、動いてさえもくれないんだもの…!
「分かった、分かった。開けてやるから」
どう固いんだか、この蓋の何処が…。このくらいに閉めておくのは基本だ、でないと湿るぞ。
徳用袋に入ったままで放っておいたクッキーみたいに、ほんの二日か三日ほどでな。
あれはいかん、とハーレイは瓶の蓋を軽く捻って開けた。
ブルーがどんなに頑張ってみても開かなかった蓋を、いとも簡単に片手でポンと。
手が届くようになったクッキーたち。それをハーレイと二人分、とお菓子の皿に移していたら。
「結局、今日もそのコースってか、お前にプレゼントしてやったクッキーなんだが…」
どうやら俺と二人で食うしか道が無いってな、これは。
お前が一人で楽しむようには出来ていないな、このクッキー。
「…そうみたい…」
ぼくの力じゃ開かないんだもの、ハーレイが蓋を閉めてくれたら。
瞬間移動もまるで駄目だし、ハーレイに頼んで開けて貰った時しか食べられないんだよ…。
「ふうむ…。そういうことなら、このクッキー」
諦めるんだな、徳用袋は。
お前がどんなに食べたくっても、向いていないということだ。
次にクッキーを土産に買うとしたらだ、お母さんたちにも充分渡せる綺麗なヤツだな、割れたりしてない箱入りのな。
あっちだったら個別包装になってるんだし、箱の蓋を開けて放っておいても湿らんしな。
徳用袋を買ってやるのはこれっきりだ、と言われたから。
ブルーは慌てて「待って!」と叫んだ。
「徳用袋のクッキーでなくちゃ駄目なんだよ! ぼくが欲しいの、これなんだから!」
ハーレイの家に行った気分で食べられるクッキーが欲しいんだってば、箱入りじゃなくて!
割れたり欠けたりしてるクッキー、そういうクッキーが欲しいんだよ!
瞬間移動で取り出せるように努力するからまた買って、と強請ったけれど。
出来るものか、とハーレイは笑うし、事実、出来ないのがブルーだから。
どう頑張っても出来そうにないのが現実だから。
「…徳用袋が欲しいのに…」
このクッキーがとても気に入ってるのに、これっきり買ってくれないの…?
これでおしまいなの、ねえ、ハーレイ…?
「うむ。諦めるんだな、こいつはお前向きじゃない」
だからだ、当分お預けだってな。安心しろ、いつかは食える筈だぞ、俺の家でな。
お前が客として訪ねて来る時のことを言ってるんじゃないぞ?
結婚して、俺の嫁さんになって。
家に来たガキどもに俺と一緒に「どうぞ」と御馳走出来る時が来たなら、たっぷり食えるさ。
「えーっ!」
そんなに先まで駄目なの、ハーレイ?
徳用袋のクッキーは結婚するまで食べられるチャンスは無さそうなの…?
「当たり前だろ、お前が俺の家に客としてやって来たなら、だ…」
徳用袋の割れたクッキーなんかを出したら、親父やおふくろに酷く叱られちまう。
それがお客さんに向かってすることなのかと、割れたクッキーとは何事だ、とな。
徳用袋のクッキーは結婚するまで駄目だ、と諦めさせられたけれど。
瓶に残ったクッキーたちを食べてしまえば、次のチャンスは何年も先になりそうだけれど。
それでもハーレイも実の所はブルーに甘くて優しいから。
(上手く頼めば、また買って来てくれるかもしれないし…)
諦めないでしっかり覚えておこう、とブルーはクッキーが入った瓶を見詰めた。
割れたり欠けたり、箱に並べて店に出すにはみっともなさすぎたクッキーたちの群れ。
けれども、それらに心惹かれる。
よそゆきの顔をしたクッキーたちより、普段着の顔のクッキーたち。
(ハーレイの家に遊びに行ったら、普通はこっちが出て来るんだしね…?)
だからこそ値打ちのあるクッキー。
ハーレイの家に行った気分に、ハーレイに招かれた気分にしてくれる素敵なクッキー。
(それにハーレイと二人で食べたし、これが無くなるまでは二人で食べるんだし…)
ハーレイに瓶を開けて貰って、二人で仲良く食べたクッキー。
瓶が空っぽになってしまうまで、二人で食べるのだろうクッキー。
こんなオマケまでついてしまったクッキーたちと一度限りでお別れだなんて、とんでもない。
何かのタイミングで思い出したら、徳用袋を強請ってみよう。
あれが欲しいと、あのクッキーが食べたいのだと。
ハーレイの家でしか味わえないという、割れたり欠けたりしたクッキー。
お行儀の悪いクッキーだけれど、あれをもう一度食べてみたいから買って来て、と…。
クッキー・了
※ブルーが欲しくてたまらなくなった、徳用袋に入ったクッキー。手に入ったのに…。
自分の力では開けられない瓶。ハーレイが来ないと食べられないなんて、失敗でしたね。
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