シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(なんだか変…?)
金曜日の夜。ブルーが喉に覚えた違和感。
お風呂に入って、パジャマに着替えて部屋で寛いでいた時間に、ふと。
喉の奥が少し痒い気がする。それにザラリとした感覚も。
風邪の引き始めに少し似ていて、こうした時には喉が痛くなるのではなかったか。
(ハーレイの金柑…)
特効薬だ、と前に貰った。風邪に効くのだと金柑の甘煮が詰まった瓶を。
ハーレイの母が作った甘煮。隣町にあるハーレイの両親の家で実った金柑の実で。
風邪の予防にもなると聞いたし、喉にもいいと聞かされたから。
食べてみようか、と思ったけれど。
キッチンの棚に仕舞ってあるのを食べに行こうかと考えたけれど。
(このくらいなら…)
ほんの僅かな、喉に意識を集中しなければ分からない程度の痒みとザラつき。
気が付かなければ何もしないでベッドに入っていそうなほどの。
ごくごく軽くて、見逃していても不思議ではない、錯覚で済ませられそうに感じる喉の訴え。
普通のキャンディーを舐めればいいや、と自分で決めた。
あの金柑はもったいないと、ここぞという時にこそ食べるべきだと。
階段を下りてリビングを覗くと、まだ両親が其処に居たから。
どうしたのかと尋ねられたから、「ちょっとキャンディーが食べたくなった」と誤魔化した。
歯は磨くからと、キャンディーを一つ貰っていくねと、ダイニングにあった缶から一つ。様々な色と味のキャンディー、そこから適当に一つ取り出して口へと入れた。
それが失敗だとは思いもせずに。
柑橘系の味がするなと、金柑の甘煮とは違った味だと、舐めたら収まってくれた喉。
唾液が痒みを抑えただけだと、ザラつきも潤いで消えただけだと、ブルーに分かるわけがない。
(もう大丈夫!)
金柑を奮発しないで良かった、とベッドに入って眠りに就いた。
歯も磨いたから口はスッキリ、明日はハーレイが来てくれる日だと心弾ませ、上掛けを被って。
ところが翌朝、目を覚ましたら。
(喉…?)
消えてくれた筈の違和感どころか、もう明らかに風邪の症状。喉の奥が腫れている感じ。
けれども、声は出せたから。普段と変わらない声が出たから、さほど酷くはないのだろう。熱を測っても平熱だったし、クシャミや鼻水も全く無いし…。
(ただの喉風邪…)
これならバレない。自分が我慢をしていさえすれば、両親も風邪と気付きはしない。
(平気だよね?)
絶対に見破られない筈、と顔を洗って服も着替えた。ウガイは念入りにしておいたけれど。喉が少しでも良くなるようにと、ガラガラと水とウガイ薬ですすいだけれど。
(これで良し、っと…!)
準備万端、食事をしようとダイニングに颯爽と入って行った。
喉風邪なんかを引いてはいないと、元気そのものだと自分に言い聞かせるように。
トーストの焼ける匂いや、オムレツやソーセージの匂い。扉を開けたら包まれてしまう、暖かな朝の食卓の匂い。それを一杯に吸い込みながら「おはよう」と明るく挨拶したら。
父と母の手がピタリと止まって、二人ともが。
「どうしたの、ブルー?」
「声、変じゃないか?」
掠れている、と指摘された。いつもの声とはまるで違うと。
「そんなことないよ、普通だよ!」
起きたばかりだから変なだけ、と主張したけれど、その声が既に変だったから。
妙にあちこち引っ掛かるような、そういう発声だったから。
「見せてみなさい」と母に手招きされた。此処へ来て口を開けなさい、と。
仕方なく開けさせられた口。大きく開けと命じた母が覗き込み、父も椅子から立って来て。
「喉が真っ赤よ、痛いんでしょう?」
「こいつは酷いな、声が変な筈だ」
どう見ても風邪だ、嘘をついても無駄だぞ、ブルー。この喉な上に、その声ではな。
朝食が済んだら車を出そう、と言い出した父。
病院へ行かねばと、早く手当てをして貰わねばと。
「そんな…!」
ブルーは泣きそうな表情になった。
病院だなんて、とんでもない。今日はハーレイが来てくれる日なのに。
そんな所へ出掛けてゆくより、ハーレイと二人で過ごしたいのに。
声に出しては言わなかったけれど、母には気持ちが通じたらしくて。
「大丈夫よ。ハーレイ先生には連絡しておいてあげるから」
「でも…!」
それではハーレイは来てはくれない。朝から病院に行くと知ったら、ハーレイは…。
でも、言えない。それが嫌だと言えはしない、と唇を引き結んで項垂れていたら。
「病院から帰ってくる頃に来て下さい、と連絡をすればいいんでしょ?」
熱は無いようだし、喉だけだものね。
ハーレイ先生に会いたいんでしょう、今日は来て下さる日だったから。
「うん…!」
ありがとう、ママ!
そうしてくれるなら病院に行くよ、パパの車で。
早めに行ったら、早く診察、終わるんだよね?
「ブルーったら…」
もう喋らないで、朝御飯をちゃんと食べなさい。喋ると喉が酷くなるわよ、今よりもね。
それと栄養、しっかりと食べて身体に元気をあげないとね?
ブルーは本当にハーレイ先生のことが大好きなのね、と呆れられたけれど。
喉が痛くても病院に行かずに我慢しようとするなんて、と父も母も困り顔だけど。
(だって、本当に好きなんだもの…)
ハーレイのことが。
会えるチャンスを逃すことなど出来はしないし、したくもない。
喉の具合が最悪だろうが、声がとてつもなく変であろうが。
学校の日ならば諦めて休みもするだろうけれど、今日は貴重な週末の土曜日なのだから。
(ぼくが好きなの、キャプテン・ハーレイじゃなくてハーレイなんだけどね…)
勘違いをしているであろう両親。
前の生での右腕であったキャプテン・ハーレイとの友情なのだと、二人は親友だったのだろうと信じているであろう両親。だからブルーが会いたがるのだと、親友と過ごしたいのだと。
(友達じゃなくて恋人なんだけどね?)
元は友達だったけれど、と緩みそうになる頬を引き締めた。
親友から恋人へと変わったハーレイ、今の生でもキスさえ出来ない仲でも恋人。
そのハーレイに会いたかったら、まずは朝食、それから病院。
両親の言い付けをきちんと聞かねば、ハーレイに会えはしないのだから。
父が運転する車で母に付き添われて、病院に行って。
顔馴染みと言っていいほどの医師の診察を受けて、「風邪ですな」と喉に薬を塗られた。独特の味がする薬。効きそうだけれど、けして美味とは言えない薬を。
「今日は一日、安静に。ベッドで身体を休めて下さい」
そこまでは全く問題無かった。
ブルーが予想していた通りで、ホッと一息ついたのだけれど。
「喉のためには喋らない方がいいでしょう」
「えっ…!」
「声ですよ。思念波まで禁止とは言っていませんよ、大丈夫」
慌てなくても、と年配の医師は笑ったけれども、ブルーには笑い事ではなかった。
医師とは長い付き合いだけれど、物心ついた頃から何度もお世話になっているけれど。
診察の折にサイオンを使う機会は無いに等しいから、医師は全く知らないのだ。目の前の患者は思念波を上手く操れないことを。声の代わりに思念波で会話を交わすことなど、不可能なことを。
(喋れないなんて…!)
愕然としているブルーを他所に、医師は「お大事に」とにこやかな笑みを浮かべてくれた。
帰りの挨拶は要りませんよと、それよりも黙っていることですね、と。
思いもよらない診断が下った、病院からの帰り道。
父の車の中、隣に座った母の袖をクイと引っ張った。此処までは黙っていたけれど…。
「ママ、ぼくの喉…」
「シーッ!」
喋っちゃ駄目でしょ、と叱られた。話したいのなら思念波で、と。
「ぼく、思念波は…!」
ひりつく喉で声を上げたら、運転席の父までが。
「ブルー、先生の仰ったことは聞きなさい」
ママから聞いたぞ、今日は一日、思念波だ。
お前の思念波は使えるレベルになっちゃいないが、パパとママには通じるだろう?
休みの日だからそれでいいんだ、きちんと黙って早く治しなさい。
両親揃って諭されてしまえば、もう肉声は使えない。
父と母には拙い思念波が通じるけれども、なんとか会話が出来るけれども。
(ハーレイが来てくれるのに…!)
昨日から待ち焦がれていたハーレイ。今日は二人きりで話が出来ると心躍らせて待ったのに。
声が出せなくては何も話せず、おまけに自分はベッドで安静。
どうしたらいいと言うのだろう?
ハーレイは沈黙に飽きてしまって、さっさと帰ってゆくかもしれない。
「ブルー君を疲れさせてはいけませんから」と口では言いつつ、ジムか道場に行こうと回れ右をしてしまうかも…。
それだけは困る。それは避けたい。
せっかく来てくれたハーレイが帰ってしまったのでは、悲しいどころの騒ぎではない。
(そうだ、嘘…)
喋れないことを言わなければいいのだ、ハーレイに。
喉を傷めて声が変だと、喉風邪なのだと、その事実だけを告げて他は秘密に。
医師に「喋らないように」と注意されたことは黙っておこう、と決意したのに。
ハーレイが来てもそれは言うまいと、知らぬふりをしようと決めたのに。
運の悪いことに、父の車が家に着いたら、先にハーレイが待っていた。門扉の側に立ち、笑顔で車に手を振ってくれた。「待っていたぞ」と、「大丈夫か?」と声を掛けるように。
「ハーレイ先生、お待たせしましてすみません…!」
母が急いで車から降りて詫びる間に、父も車をガレージに入れてやって来た。母と一緒に車から降りたブルーの所へ。
両親の前では黙っていよう、と沈黙を守るブルーを尻目に、父と母はハーレイに医師の診立てと例の言葉を話してしまった。
ブルーは今日は喋れないから、思念波で喋るようにさせて下さい、と。
「分かりました。ブルー君と話すなら思念波ですね」
(嘘…!)
ハーレイは百も承知の筈なのに。
ブルーの思念波が喋れるレベルではないことを。
それなのにハーレイに知られてしまった、肉声を禁止されていることを。
ハーレイは帰ってしまうのだろうか、退屈だからと欠伸をして。
ブルーの蔵書では時間潰しにもなりはしないと、今日はジムにでも行くとするか、と。
話したくても、話せない。喉から言葉を紡ぎ出せない。
母に部屋へと連行された。早くパジャマに着替えるようにと、そしてベッドに入るようにと。
その間、ハーレイは階下で父と談笑していたらしくて、ブルーの部屋までやって来た時には手にカップ。普段はブルーの部屋で飲まない、コーヒーのカップ。
ハーレイがそれをテーブルに置いて間もなく、母がお菓子を運んで来た。本当だったらブルーも一緒に食べる筈だったケーキのお皿を一人分だけ。
「ごゆっくりどうぞ」と微笑む代わりに「すみません」と頭を下げながら。
我儘な一人息子だけれども、どうぞよろしくお願いします、と。
母の足音が階段を下りて消えていった後、ブルーはそうっと口を開いた。
声が掠れないよう注意しながら、喉の辺りを意識しながら。
「ねえ、ハーレイ…」
「思念波で喋れと言われた筈だが?」
いつもの椅子に腰掛けたハーレイにピシャリと叱り付けられた。
椅子はベッドの脇に運ばれ、ハーレイは直ぐ側に居るのだけれど。手を伸ばしたら触れる所に、ハーレイの膝があるのだけれど。
喋れないのでは、これだけ近くても見詰めることしか出来ないから。
許されないから、叱られてもいいと声を絞り出した。
「でも…!」
「でもも何もない。今日は喋るなと言われたんだろ、ちゃんと聞いたぞ」
明日には喋りたいんだろうが。
日曜だしなあ、俺は明日だって来るつもりだしな?
それにだ、お前、痛いんだろ、喉。その声を聞けば痛いと分かるさ、普通の声ではないからな。
喉から熱が出ることもあるぞ、と脅された。それも高い熱が。
だから黙れ、と。
高熱が出たら大変だからと、声が出ないだけでは済まないからと。
「馬鹿者めが…。おふくろの金柑、食わなかったな?」
早めに食えと言っておいたのに。いくらでもやると、お前専用だと言っといたのに…。
どうなんだ、と問い詰められれば頷くしかない。
食べなかったことは本当だから。
宝物の金柑を食べるよりは、とキャンディーを舐めてしまったから。
上掛けの下で首を竦めて縮こまっていると、ハーレイがついた大きな溜息。
「まったく…。あれほど言っておいたのに…」
馬鹿が、と屈み込んだハーレイの荷物の中から何か出て来た。小さめのジャムの瓶を思わせる、ガラス瓶。それに詰まった深い金色。
夏ミカンの実のマーマレードよりも、金柑の甘煮よりも深みを帯びた金の色合い。
それなあに、と尋ねかけて慌てて口を噤んだ。
知りたいけれども、声を出してはいけないから。喉を治さないといけないから。
「それで良し。いいか、喋っちゃ駄目だってな」
こいつは金柑が透明になるまで煮詰めたものさ。もう柔らかめの飴ってトコだな、飴とは違った舌触りだがな。これもおふくろが作っているんだ、甘煮を作るついでにな。
こんな具合だ、と爪楊枝に刺した金柑を一つ見せられた。
種を抜くためにこうするのだ、と周りに幾つもの切り込みを入れられ、平たく押し潰された丸い実。金柑と言われれば金柑だけれど、花の形のようにも見える実。
元の姿が分からないほど透明になってしまった金柑。まるで飴細工のような金柑。
よく効くぞ、と口に落とし込まれた。
甘煮よりも喉に優しい味だと、痛む喉にはこれが効くと。
ハーレイが含ませてくれた金柑。甘煮よりも手間がかかった金柑。
それは甘くて、柔らかいけれども噛めばほろ苦い金柑の味。ハーレイの母が作った甘煮と同じ。
もっと味わいが深いけれども。
手間と時間をかけてある分だけ、その味は深くて、温かみさえも覚えそうなのだけれど。
(…ハーレイのお母さんの味…)
まだ会ったことがない、ハーレイの母。
いつかハーレイが伴侶に迎えるブルーのためにと、夏ミカンで作ったマーマレードをくれる母。金柑の甘煮も贈ってくれた。風邪の予防にと、引いた時にもこれが効くと。
そのハーレイの母が金柑を煮詰めて作り上げたらしい、甘煮よりも手間がかかるもの。
感想を伝えたいのだけれども、御礼も言いたいと思うけれども。
(喋れない…)
それに思念波も紡げやしない、と金柑を口の中で転がしながら涙が零れそうになる。
どうしてこんな時に限って特別なことが起こるのか、と。
この気持ちは今、伝えたいのに。
喋れるようになってからでは、きっと値打ちも無いのだろうに…。
泣いてしまってはハーレイに悪い、と目を閉じた。
嬉しさゆえの涙なのだと伝わらなかったら、申し訳ないでは済まないから。
この金柑の実が不味かったのかと勘違いをさせてしまったのでは、ハーレイの心遣いを無にするばかりか、ハーレイの母にも詫びようがなくて、どうすればいいのか分からないから。
そう思ったから、目から涙が溢れないよう、瞼を閉ざしてしまったのに。
(えっ?)
上掛けの下で手を握られた。
いつの間に滑り込ませていたのか、大きくて逞しい手で、右の手をキュッと。
温もりを移してくれる時のように、あの温かな褐色の手で。
そうして声が降って来た。
パチリと目を開けたブルーを見下ろし、鳶色の瞳が柔らかな光を湛えていた。
「そのまま頭で考えてみろ」
声にはしないで、頭の中でな。
(えーっと…?)
いったいどういう意味なのだろうか、とブルーは瞳を瞬かせたけれど。
「それでいい。お前の心は伝わってるさ」
「ホント?」
「こら、声に出すな!」
ちゃんと聞こえているからな、と微笑むハーレイ。
この手を通して伝わっていると、お前が言葉にしたいことは、と。
(凄い、ハーレイ…)
ママとパパしか出来ないのに…!
ぼくは思念波が上手く使えないから、喋れない時はママとパパがこうしてくれるのに…!
「俺を誰だと思ってるんだ?」
今のお前との付き合いは短いかもしれん。お父さんとお母さんよりずっと短い。
だがな、その前はどうだったんだ?
何年、お前と一緒に暮らした?
同じ家に住んではいなかったが、だ。前のお前と前の俺とは…。
(そうだったね…)
ずうっとハーレイと一緒だったね、ハーレイと二人で暮らしていたね。
あのシャングリラで、どんな時でも。
ぼくがメギドに飛んでしまうまで、ずうっと恋人同士だったね…。
そのハーレイに自分の心が伝わらない筈がないのだった、と褐色の手を握り返せば。
ハーレイの声が問うて来た。
「それで金柑、どうだった?」
俺のおふくろが煮詰めた金柑、美味かったか?
(美味しかった!)
ありがとう、と想いを送るまでもなく、「いや」と返って来た答え。
思念波ではなくて、ちゃんと言葉で。唇と舌を使った言葉で。
「このくらいのことは何でもないさ。早く治してやりたいしな」
金柑の甘煮を贈ってやっても、食わずに風邪を引くようなお前だからなあ…。
こいつはお前にプレゼントせずに、毎回、持参すべきだな。
そうそう喉風邪を引かれたのではたまらないがだ、引いちまったら持ってくるとするか。
この金柑を食って早く治せと、俺のおふくろの手作りだしな、と。
(うん…。その方がいいと、ぼくも思うよ)
瓶ごと欲しいと思っちゃうけど、貰ってもきっと食べ損なうから。
金柑の甘煮と同じで大事にし過ぎて、風邪を引いちゃっても食べずにいそう…。
「そうだろうなあ、お前だけにな」
これで何度目だ、金柑の甘煮を食わないで風邪を引いたのは?
そういうのを世間じゃこう言うんだなあ、「宝の持ち腐れ」という風にな。
お前の場合は「猫に小判」かもしれないな?
使い道ってヤツが分かってないなら、猫に小判の方だよなあ…?
酷すぎる例えを出されたけれども、膨れっ面になったブルーだけども。
ハーレイは喉をクックッと鳴らして、それは可笑しそうに。
「うんうん、言葉で喋れない分だけ、文句がワンワン響いてくるな」
酷いだの、馬鹿だの、意地悪だのと。
全部一度にぶつけられる分、言葉よりいいかもしれないぞ?
口は一つしか無いんだからなあ、馬鹿と意地悪とを同時に言ったり出来んだろうが。
今のお前は俺への悪口大合唱だぞ、チビのお前が何十人もで悪口をコーラスしてるってな。
そりゃあ賑やかで景気がいいさ、とハーレイがブルーの額をつつく。
空いた方の手で、右手を握った手はそのままにして。
「それだけ元気があるようだったら、どうやら喉だけの風邪みたいだな」
とはいえ、喉風邪を甘く見たらだ、駄目だとさっきも言ったよな?
高い熱が出ると、喉は大事にしなくちゃいかんと。
俺は喋るが、お前は喋るな。
何も心配しなくったってだ、ちゃんと聞こえているからな。
俺への悪口の大合唱だって、おふくろの金柑を美味いと喜んでくれたことだって。
(うん…)
ハーレイが言葉にしてくれてるから、伝わってること、ぼくにも分かるよ。
思念波でだって返せるだろうに、わざわざ言葉にしてくれるんだね。
ありがとう、言葉を使ってくれて。
ハーレイの声が耳に届くと、それだけで幸せな気持ちになるよ。
ぼくはハーレイと話してるんだって、喋れないけどハーレイと話をしてるんだ、って…。
それはブルーの心からの想いだったから。
ハーレイの声を聞くことが出来て、本当に嬉しかったから。
その心もまた大合唱となって、手から伝わったのだろう。
「こんな声でも役に立つのか?」とハーレイが笑い、ブルーの右手をキュッと握って。
「俺の声を聞いていたいと言うなら、退屈しのぎに何か話をしてやるさ」
何が聞きたい?
特別授業か、それとも俺の失敗談か。武勇伝だって、まだまだ沢山あるんだぞ?
お前、喋れない病人だからな、うんとサービスしてやろう。
リクエストがあったら遠慮なく言えよ、どういう話を聞きたいんだ?
(…ハーレイの昔話がいいよ)
前のハーレイの話じゃなくって、今のハーレイの昔話。
ぼくに会うまでに何をしてたか、どんな所でどんな人たちに会ったのか…。
そういう話が聞きたいな。ぼくの知らないハーレイのことを。
「よしきた、それじゃ最初はだな…」
親父の話といこうじゃないか。俺が初めて釣りに出掛けた時の話だ、親父とな。
あの釣り好きの親父ときたら、だ…。
色々な話を聞かせて貰って、ワクワクしながら声に出せない相槌を打って。
それをハーレイは端から拾って、上手に話をするものだから。
まるで言葉を交わしているかの如くに、次から次へと昔語りの翼を広げるものだから。
ブルーもその場に居たかのように心が躍った。ハーレイに手を引かれ、あちらこちらへ旅して、飛んで。様々な人に出会って、笑って、もう楽しくてたまらなかった。
そうこうする内に、なんだか眠くなって来た、と思ったら。
「疲れちまったか? お前、ずいぶん、はしゃいでたしな」
少し眠れ。せっかくベッドに入ってるんだし、眠れば風邪の治りも早いぞ。
(でも、ハーレイ…。帰っちゃわない?)
ぼくが寝ちゃったら退屈だろうし、家に帰るとか、ジムに泳ぎに行くだとか…。
「帰らんさ。今日は夜まで居てやるから」
土曜日はそういう約束だったろ、俺に用事が出来ない限りは夜まで此処に居るってな。
退屈だからと誰が帰るか、お前の寝顔を見てるだけでも俺は幸せなんだしな。
ゆっくり寝てろ、と額を撫でられた。
右の手は変わらず握られたままで、ハーレイの空いた方の手で。
いつしかブルーは眠ってしまって、夢も見ないで深く眠って。
ふわりと意識が浮上した時、目が覚めて瞼を開けた時。
(ハーレイ…?)
何処、と探すまでもなく返った返事。
此処にいるさ、と。
お前の側に、と握られた右手。
ブルーの手よりもずっと大きな手が、今も右手を握っていたから。
(ずっと握っていてくれたの?)
ぼくが寝ている間中、ずっと…?
「たまにサボッてたんだがな」
飯も食ったし、とハーレイが空いた手でテーブルの方を指差した。
いつの間にやら入れ替わっていた、テーブルの上に置かれたカップやケーキのお皿。ハーレイが自分で持って来ていたコーヒーのカップは別のカップに、ケーキのお皿も違ったものに。
(…御飯のお皿に見えないんだけど…)
それともハーレイ、御飯の代わりにお茶とケーキで我慢してたの?
「おいおい、お前のお母さんがそんな真似をするわけないだろうが」
昼飯の時間はとっくに済んださ、美味いのを食わせて貰ったぞ?
その後でお茶も飲んだってわけだ、あの通り、菓子までつけて貰ってな。
俺だけ先に食っちまったが、とハーレイの瞳がブルーを見詰める。
「目が覚めたんなら飯にするか?」
寝てたからなあ、腹はそんなに減ってないかもしれないが。
(御飯って…。ハーレイのスープ?)
いつものスープを作ってくれるの、野菜スープのシャングリラ風を?
「俺の手が離れていいんならな」
スープを作りに行くんだったら、お前の右手は離さないとな?
(やだ…!)
それなら野菜スープはいいよ。ママが作ってくれるだろうから、そっちでいいよ。
きっとその内に、ママが様子を見に来るだろうし…。
「冗談だ。野菜スープなら、とっくに用意は出来てるってな」
キッチンの鍋に入っているさ、とハーレイがパチンと片目を瞑った。
ブルーがぐっすり眠っている間に作っておいたと、温め直して持って来ると。
(流石、ハーレイ…!)
じゃあ、ちょっとだけ右手、離してもいいよ。
スープを取りに行ってる間は、大人しく一人で待っているから。
そうして、野菜スープが入った器を載せたトレイが届いて。
いつもならハーレイに一匙ずつ食べさせて貰うのだけれど、そうなると手が離れるから。
右手を握ってくれていた手が離れたままになってしまって、ハーレイに心が伝わらないから。
ブルーはベッドサイドに置かれたトレイに手を伸ばした。
スープに添えられたスプーンを右手で握ったら。
「おっ、今日は自分で食うんだな?」
いいことだ、とハーレイが言うから、黙って左手を差し出した。
さっきまで握って貰っていた右手の代わりに、左手。利き手ではない方の左手。
握っていて、と。
こちらの手は食べるのに使わないから、この手を握って話をして、と。
一言も喋りはしなかったけれど、ハーレイは「うむ」と大きく頷いてくれた。
今度は左手を握るのだなと、左手と喋ればいいのだな、と。
「スープを零さないように気を付けろよ」と声を掛けられて、握られた左手。
またハーレイと繋がった、と飛び跳ねた心はそのままハーレイの手へと流れて。
「やっと自分で食う気になったかと思ったら…。こうなるとはなあ」
甘えん坊だな、どう転んでも。
お前というヤツは、何処かで必ず俺に甘えてくるんだなあ…。
(甘えていいでしょ?)
病気の時くらいは甘えていいでしょ、病気じゃない時も、ちょっとくらいは?
「ああ。今度は守ると約束したしな」
今度こそお前を守ってやるんだ、と言ったからには甘えていいぞ。
前のお前は、甘えてばかりじゃいられなかった。
だがな、お前は違うんだ。いくら甘えても誰も困らん。もうソルジャーじゃないんだからな。
困るヤツがいるなら俺くらいだなあ、こうして片手が塞がりっ放しになっちまって。
もっとも、そいつも役得ってヤツだ。
お前の手だって俺に握られっ放しってわけで、俺から逃げられやしないんだしな。
しっかり食べて早く治せよ、と見守られながら、ブルーは野菜スープを味わって食べる。
繋がった手と手で話をしながら、野菜スープを作ってくれた手を握り返しながら。
とても美味しいと、この味が何よりも好きだったと。
何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだスープだけれど。
前の自分はこれが好きだったと、病気の時にはこれだったと。
(ねえ、ハーレイ…。明日には喋れるようになるかな?)
ぼくの喉、明日には治るかな?
「夜まで大人しくしていればな。喋ったりせずに」
スープを食ったら、金柑も食えよ?
俺のおふくろが煮詰めた金柑、喉風邪には良く効くんだからな。
(うん…。うん、ハーレイ…)
ちゃんと食べるよ、その金柑も。
ハーレイのお母さんが作るんだものね、絶対に効くに決まっているもの…。
喋れないけれど、握り合った手と手で話が出来る。
思念波が上手く使えないブルーだけれども、こうして心を分かって貰える。
両親にしか出来ないと思っていた技を使ったハーレイ。
手を握るだけで想いが伝わるハーレイ。
前の生からの大切な恋人、この地球の上に生まれ変わって再び出会えた想い人。
明日には喉も治る気がする。
野菜スープと、ハーレイが「猫に小判だ」と笑った透明な甘い金柑があれば。
今も左手を握っていてくれる、ハーレイの温もりがありさえすれば…。
喉風邪・了
※喉風邪を引いてしまったブルー。喋ることは厳禁、ガッカリしたんですけれど…。
手を握って心を読んでくれたハーレイ。不器用で思念波が使えなくても、幸せな休日に。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv