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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

夢の中の家

(えーっと…)
 ブルーは途方に暮れていた。土曜日の朝に。
 目覚めたまではいいのだけれども、顔を洗って着替えるまでは普段通りの日だったけども。
 朝食を食べようとダイニングに行ったら、其処には誰もいなかった。
 先に食卓に着いている筈の、父も母も。
 それにガランとしたテーブル。湯気を立てるカップも卵料理の皿も無ければ、トーストだって。母が焼くソーセージなどの匂いもしないし、サラダボウルも見当たらない。
(…なんで?)
 どうして何一つ無いのだろう?
 自分の分はこれから出て来るとしても、父と母。二人が食べた筈の料理は何処へ消えたろう?
 とっくに食べ終えてしまったにせよ、名残はありそうなものなのに。
 両親も気に入りの、ハーレイの母が作った夏ミカンの実のマーマレード。その瓶くらいは後から食べるブルーのためにと、テーブルに置いてありそうなのに。



(…物凄く早い時間に食べちゃった?)
 それとも自分が寝坊をしただろうか、と壁の時計を見れば、いつもの時間。
 母はダイニングか、キッチンにいる筈なのに。父は食べているか、新聞を読んでいる筈なのに。
(…他の部屋かな?)
 朝食前にひと仕事、と庭に出掛けたということもあるかもしれない。父が芝生を刈り込んでいる間に、母が花壇の手入れだとか。
(えーっと…)
 暫く待ってみて、それから庭に出てみたけれど。ぐるりと家を一周してみたけれども、父も母も庭には居なかった。てっきり庭だと思ったのに。
 ダイニングに戻っても、両親はやはり其処には居なくて。
 食事の匂いもまるでしなくて、皿なども置かれていないままで。
(…なんだか変…)
 両親は何処に行ったのだろう?
 そろそろ自分が起きて来る頃だと、二人とも知っている筈なのに。
 父は用事で出掛けたとしても、母は朝食の用意をしようと来てくれそうなものなのに…。
 トーストは自分で焼けるけれども、卵料理だって目玉焼きくらいなら作れるけども。
 それでも母が毎朝のように訊いてくれる。トーストの焼き加減や、卵料理は何にするかを。
 その母が来ないだなんて、おかしい。どうも変だ、とようやく気付いた。



「パパ、ママ、どこーっ!?」
 何処にいるの、と叫んでも返らない返事。庭には出ていなかった両親。
 ならば家の中で、父はいなくとも母は何処かにいる筈で。
(何処…?)
 扉を端から開けて回った。一階も二階も、両親の部屋も。
 あちこち探して探し回って、やっと見付けた。ダイニングのテーブルに置かれたメモを。
(こんなの、さっきあったっけ…?)
 気付かなかったのかもしれない。皿や料理を探していたから、そっと置かれていたメモには。
 手に取ってみれば「出掛けて来るから」と書かれていた。母の文字で。
 父も母もいなくて、生まれて初めての本物の留守番。
 近所まで買い物や外出というなら、ほんの短い時間だったら、何度か経験していたけれど。
 家に一日、たった一人で。父も母も出掛けてしまった家に一人きり。
 しかも「今夜は帰らない」とも。



(嘘…)
 留守番どころか、夜まで一人。何の予定も聞いていないのに。
 自分は弱く生まれて来たから、どんな時でも父か母かが家にいるのが常だったのに。
 けれど目覚めたら、メモが一枚。二人で出掛けて来るから、と。
(そんなこと…)
 ある筈がない、と考えていてハタと思い当たった。
 この世界は夢に違いない。やたら現実味のある世界だけれども、きっと自分が見ている夢。
 有り得ないことが起こっているのがその証拠だ、と確信した。
 だとしたら…。



(今日は帰って来ないんだよね?)
 父も母も明日まで帰って来ない。
 夢の中の家に自分は一人で、この家に他には誰一人いない。
 そうなってくると…。
(いい子で留守番、って書いてあるけど…)
 友達を呼ぼうか、一人でいるのは寂しいから。
 誰か泊まってくれそうな…、と友人たちの顔を順に思い浮かべていて。



(そうだ、ハーレイ!)
 ハーレイを家に呼べばいいのだ、と閃いた名案。
 土曜日なのだから、放っておいてもハーレイは来てくれる筈なのだけれど。そうなのだけれど、夢の世界ではその約束だって危ういもので。
(ハーレイだって、ちゃんと呼ばないと来てくれないかも…)
 現に両親も、何も言わずに出掛けてしまって留守なのだから。二人とも家にいないのだから。
 それに、これはチャンス。
 普通だったら出来はしないこと、ハーレイを呼んで家に泊まって貰うこと。
 それが出来る世界。夢だからこそ、ハーレイを家に呼ぼうと思った。泊まって欲しい、と。
 でも…。



(ハーレイが泊まっていったベッド…)
 あっさりとバレてしまうかもしれない。
 外出先から家に戻った両親に。
 このベッドを使ったのは子供ではないと、どう見ても大人が眠ったベッドだ、と。
 それに、呼ばれたハーレイだって。
(…断るよね?)
 両親の留守に家に泊まりに来るなんて。
 ゲストルームに泊まるだけでも、本物の恋人同士の時間は抜きでの泊まりでも。一緒のベッドで眠るのではなくて、「おやすみなさい」と別れるにしても。
 なにしろ相手はハーレイだから。
 キスさえも許してくれはしないで、「チビには早い」と叱ってばかりのハーレイだから。



(でも、ハーレイ…)
 せっかくチャンスが訪れたのに。
 二人きりで夜まで楽しく過ごして、次の日の朝も「おはよう」と挨拶が出来るチャンスなのに。
 同じ家の中で。同じ屋根の下でハーレイと眠って、朝も二人で目を覚まして…。
 別の部屋で、別のベッドでも。それでもいいから、ハーレイと過ごしてみたいのに。
 けれども、両親にはバレる。
 身体の大きなハーレイを泊めたら、きっとベッドの具合でバレる。
 ハーレイだって、何かと理由や理屈をつけて「駄目だ」と断って来そうだけれど。
 いくら頼んでも、「友達を呼べ」と撥ね付けられてしまいそうだけど。
(ぼくが行けば…)
 もしも自分がハーレイの家に行ったなら。
 ハーレイは泊めてくれるだろう。両親が留守だと告げたなら。一人きりだと頼み込んだら。
 まさか「帰れ」と放り出されはしないだろう。
 ハーレイの家にもゲストルームはあるのだから。其処に泊めればいいのだから。



(うん、そうすればいいんだよ!)
 遊びに来るなと言われてしまった家だけれども、こんな時なら話は別。
 一人で留守番をさせておくより、ハーレイならきっと「泊まれ」と許してくれるだろう。
 「今日だけだぞ」と苦い顔になっても、「この部屋を使え」と。
(そうしようっと!)
 決めた、と頷いて読み直した母が残して行ったメモ。
 都合のいいことに、両親の行き先もいつの間にか其処に書かれてあった。
(お祖母ちゃんの家…)
 それなら分かる、と遠い地域に住む祖母の家へと通信を入れた。番号は機械に入っているから。登録されている番号を選んで、ボタンを押すだけで繋がるから。
 呼び出し音が何回か鳴って、「はい?」と聞こえた祖母の声。「ぼくだよ」と名乗って、少しの間、話をして。
「えっとね、今日はハーレイ先生の家に泊めて貰うよ」
 一人でいるよりその方がいいでしょ、ちゃんと大人のいる家の方が?
「そうねえ…。ハーレイ先生の家なら安心ね」
 それはいいわね、と賛成してくれた祖母。そうしなさいと、泊めて貰いなさいと。
「ありがとう! パパたちが着いたら、言っておいてね」
 ぼくはハーレイ先生の家に行くから、って。
「はいはい、きちんと鍵を掛けてから出掛けるのよ?」
「うんっ!」
 分かってるよ、と通信を切った。忘れないように鍵を掛けてゆくから、と。



(ふふっ、お出掛け…)
 ハーレイの家へ泊まりに行ける、とワクワクと鍵を取り出した。
 一度も使ったことがない鍵。学校から戻れば母がいるから、持っているだけで使っていない。
(でも、使い方は知ってるしね?)
 どうすれば鍵が掛かるか、開くか。それくらいのことは知っているから問題無かった。
 泊まるための荷物は持っていないけれども、夢の世界だから大丈夫、と何の根拠もなく考える。荷物など無くても困りはしないと、これでいいのだと。
 そして、行き先のハーレイの家がある場所は…。



(何処だったっけ?)
 ハーレイの家が思い出せない。いくら考えても出てこない。
 確かに一回、訪ねて行った筈なのに。一人で路線バスに乗って出掛けて、帰りもバスで。
 メギドの悪夢を見てしまった夜に瞬間移動で飛び込んだ時には、ハーレイの車で送って貰った。バスが走るのと同じ通りを、ハーレイの車の助手席に乗って眺めていた。
 それなのに全く思い出せない、ハーレイの家が建っている場所。その近くまで運んでくれる路線バスがどれかも、どの方向へ向かうのかさえも。
(そういえば、名刺…)
 名刺があった、と気が付いた。
 前に貰ったハーレイの名刺、大切な二枚の宝物。教師としてのハーレイの名刺と、仕事を離れて個人的に交換している名刺と。
(そう、これ!)
 勉強机の引き出しの中から取り出した名刺。ハーレイの家の住所と通信番号が書かれた名刺。
 これさえあれば、とそれを手にした。
 何故だか道順が書かれていたから。
 この道を通って行けば着くのだと、地図までが一緒に書かれていたから。



「行ってきまーす!」
 父も母も家にはいないけれども、玄関先で奥に向かって叫んだ。いつもするように。
 それから扉を閉めて鍵を掛け、颯爽と庭へ。庭から門扉へ、門扉をくぐって外の通りへ。生垣に沿って歩き始めて、心はハーレイの家へと飛んだ。これから行くのだと、直ぐに着けると。
 胸を弾ませてバス停を目指したけれど。
 バス停に着いて探したのだけれど、その方向へ行くバスは無かった。ただの一つも。
 どのバスもそちらへ行ってはくれない。行きたいのならば歩くしかない、自分の足で。
 何ブロックも離れたハーレイの家に行くのだったら、その場所に辿り着きたいのならば。
 ブルーの足には遠すぎる距離。
 天気が良ければハーレイは歩いて来るのだけれども、ブルーが歩くには遠すぎた。学校でさえもバス通学をしているほどの弱い身体で歩いてゆくには長すぎる距離。
 けれど他には道が無いから、バスは運んではくれないから。



(大丈夫!)
 ハーレイの家に行くんだから、とブルーは迷わず歩き始めた。
 名刺に書かれた道順通りに、こうだと書かれた道を確かめながら。
(ここを真っ直ぐ…)
 二つ目の交差点を左に曲がって、一つ目の信号を渡って右へ。そこから先は住宅街の中。
(この家の角を左へ行って…)
 暫くは真っ直ぐ、次を右へと。
 そんな風に歩いて行くけれど。名刺に書かれた通りの道を、前へと進んでゆくのだけれど。
(…お腹、空いたな…)
 朝食を食べずに家を出て来てしまったから。
 夏ミカンのマーマレードを塗ったトーストも、卵一個分の卵料理も、毎朝飲んでいるミルクも。卵料理はともかくとして、トーストとミルク。それくらいは用意出来ただろうに。母が留守でも、トーストを焼くくらいなら。ミルクを瓶からカップに注ぐくらいなら。
(…失敗しちゃった…)
 喉も乾いてきたのだけれども、持っていないお金。持たずに家を出て来た財布。
 歩いてゆく道に食事が出来る店はあるのに、パンや飲み物が買える店だってあるというのに。
(…財布も、失敗…)
 荷物は無くてもかまわないけれど、財布は持って来るべきだった。
 お腹も空いたし喉も乾いた、と悔やんでも財布は降っては来ない。空からストンと落っこちてはこない。財布も、お金も、トーストもミルクも。



(でも、ハーレイの家に着けさえすれば…)
 ハーレイは「馬鹿が」と、「ウッカリ者が」と額を小突いて、朝食を作ってくれるだろう。もう朝食と呼ぶには遅い時間になっているけれど、トーストを焼いて、ミルクも出して。
 「オムレツの卵は何個なんだ?」と尋ねてくれることだろう。ソーセージも焼くかと、サラダにかけるドレッシングは何がいいかと。
(うん、きっとそう…)
 ハーレイならば、と自分自身を励ましながら歩いて行った。辿り着ければ朝食なのだと、お腹が一杯になってしまうほど食べさせて貰えるに違いないと。
 「しっかり食べろよ」と、「沢山食べて大きくなれよ」と、大好きな声で促されて。
 もう入らないと降参したって、「もっと食べろ」と盛り付けられて。
 考えただけで幸せな気持ちになってくる。だから頑張って歩いてゆこうと、音を上げないで前へ進んでゆこうと。
 何ブロックも離れていたって、いつもハーレイが歩いてくる道。
 自分の足でも辿り着けない筈がない。少し遠くても、喉が乾いても、空腹感を抱いていても。



(ハーレイはいつも、こんな景色を見ながら来るんだ…)
 路線バスが走る通りでなければこうなのか、と公園や道筋の家の花壇、生垣などで気を紛らわせながら歩き続けて。もう少し歩けばと、もう少しだと名刺を眺めて。
(次の角を曲がって…)
 ここ、と辿り着いた場所に家はあったけれど。
 見覚えのある家が建っていたけども、チャイムを鳴らしても出ないハーレイ。生垣と庭の芝生を隔てた向こうの、家の扉も開きはしない。
(お休みの日なのに…)
 土曜日なのだし、ハーレイは家にいる筈なのに。
 それともハーレイはブルーの家を目指して出掛けて、途中ですれ違ってしまったろうか?
 名刺に書かれた道順通りに来たのだけれども、ハーレイにとっては通い慣れた道。他にも通れる道はあるのだし、その日の気分で変えてみたりもするかもしれない。
(…ぼく、行き違いになっちゃった…?)
 此処まで歩いて来る途中の何処かで、ハーレイと。それと知らずに、気付かないままで。
 ハーレイは今頃、ブルーの家に着いて「留守か…」と呟いているかもしれない。
 せっかく来たのにと、ブルーは出掛けてしまったのかと。



(…通信、入れておけば良かった…)
 これから行くよと、だから待ってて、と。
 そうすればハーレイとすれ違ったりはしなかったろう、と思ったけれど。
(でも、そう言ったら断られちゃう…)
 泊まりに来るより友達を呼べと、友達を呼んで泊まって貰えと間違いなく断られていただろう。通信も切られて、それからではもう、押し掛けて来たって手遅れで。
(…きっと門前払いなんだよ)
 駄目だと言ったら絶対に駄目だ、と車に乗せられて送り返されてしまうかもしれない。
 それを思えば、こうして直接やって来た方がマシに違いない。泊めて貰える可能性も高い。
 行き違いになってしまったけれど。
 どうやら何処かですれ違ってしまい、ハーレイは家に居なかったけれど。
(…ぼくが留守だと、何処かへ行っちゃう…?)
 柔道の道場だとか、ひと泳ぎしにジムだとか。
 けれども、いつかは帰って来るに決まっているのだし…。



 真っ直ぐに戻ってくれるといいな、と家の前で帰りを待つことにした。
 門扉の脇のスペースに膝を抱えてチョコンと座って、早く帰って来てくれないかと。
 そうして待ち始めて暫く経ったら、犬の散歩をしていた人が通り掛かって。
「ハーレイ先生の生徒さんかな?」
 年配の男性にそう訊かれたから、「はい」と礼儀正しく返事をした。歩き疲れた後だったから、腰を下ろしたままだったけれど。膝を抱えてチョコンと座ったままだったけれど。
 すると男性が「待ってるのかい?」と訊くものだから。
「そうです。先生、お留守みたいで…」
 帰って来るのを待ってるんです、と答えた途端。
「ハーレイ先生だったら、引越したよ」
「えっ!?」
 そんな、とブルーは目を見開いた。引越したなどと聞いてはいない。ただの一度も。
 だから男性を見上げて尋ねた。
「…いつ?」
 丁寧に「いつですか?」と問い掛ける余裕はもう無かった。男性の方は首を捻って。
「確か先月だったかなあ…」
「嘘!」
「いや、本当だよ」
 私はその先に住んでいるんだ。引越しますから、と挨拶に来て下さったんだよ。
 美人の奥さんと一緒にね。



(…奥さん…)
 思いもよらないことを聞かされて、ブルーは声も出なかった。
 せっかくハーレイの家まで来たというのに、頑張って歩いて来たというのに。
(ハーレイ、結婚してただなんて…)
 美人の奥さんがいたというなら、そういうこと。
 いつかハーレイと結婚しようと思っていたのに、お嫁さんになろうと決めていたのに、他の人と結婚されてしまった。自分が育つのを待ってくれずに、他の誰かとハーレイは結婚してしまった。
 おまけに引越し。結婚した誰かと一緒に引越し。
 ブルーには内緒で、一言も言ってくれないままで。
(…ハーレイ、ぼくはもう要らないの…?)
 週末ごとに家を訪ねて来てくれるけれど、仕事帰りにも寄ってくれるけれど。
 それはあくまで守り役としてで、もう恋人だとは思ってくれてはいなかったのか。
 結婚をしたというのなら。その人と引越してしまったのなら…。



 流石に泣きはしなかったけれど、知らない人の前で泣き出したりはしなかったけども。
 打ちのめされてしまったブルーは、あまりにしょげて見えたのだろう。
 ちょっと待ってて、と犬を連れて数軒先の家に入って行った男性が紙を手にして戻って来た。
 ハーレイの引越し先が書かれた紙を渡してくれた。
 ここだよ、と。ハーレイ先生に用があるのなら、此処に行けばいいよ、と。
(…ぼくの家の近所…)
 見覚えのある住所と地図。家からさほど遠くはない場所。
 その地図がとても気になるけれど。
 確かめてみたい気がするけれども、その家を目指して出掛けて行って。
 本当に其処にハーレイが住んでいて、奥さんもいたら。
 美人の奥さんがその家にいたら…。



(そんな…)
 自分は間違いなく、ハーレイにとって要らない存在。
 もう前の生の恋人などには縛られない、とハーレイは他の誰かと結婚したのだから。今の自分に似合いの女性を見付けて結婚したのだから。
(ぼく、邪魔者になっちゃったの…?)
 結婚したことを教えたならば、嫉妬しそうなチビだから。それどころか怒り出しそうだから。
 それで黙って結婚した上、黙って引越ししたのだろうか?
 今は内緒にしておけばいいと、知られはしないと、黙ったままで。
(…嘘だよね?)
 引越しの話も奥さんの話も嘘だよね、と思いたいけれど、現にハーレイは家に居ないから。
 チャイムを鳴らしても出て来なかったし、近所の男性は「引越したよ」と言ったのだし…。
(…でも、嘘だってことも…)
 間違っているということも無いとは言えない。
 この目で確かめるまでは、本当かどうか分かりはしない。
 本当だったら辛いけれども、悲しいけれども、確かめずにはいられないことだから…。



 帰りの道は来る時よりも遠かった。
 距離は変わらない筈だけれども、来た道を逆に辿るのだけれど、それでも遠くて長かった。足も重いし、酷く疲れてどうにもならない。
(お腹、減ったよ…)
 喉も乾いた、と余計に惨めな気持ちになった。財布さえあれば、何か食べられるのに。空っぽの胃袋に何か入れたなら、温かな食べ物と飲み物を入れてやれたなら。
 気持ちも少しは落ち着くだろうに、少し和らいでくれるだろうに。
(ほんのちょっぴり、パンとミルクと…)
 一番安いものでいいから。こんなのがいい、と贅沢を言いはしないから。
 けれども財布は現れてくれず、パンもミルクも出て来なかった。
 重たい足を引き摺りながらも歩くことしか出来なかった。元来た道を逆に、家の方へと。
 来る時は弾む心で歩いていた道を、どうしようもなく重い心を抱えて俯きながら。



 どのくらいそうして歩いたろうか。
 やっとの思いで、いつも学校への行き帰りに使うバス停の所まで戻って来た。辿り着いた。其処から住宅街に入って、家へ向かう道。
(これをこっちに…)
 右へ曲がれば、ハーレイが奥さんと住んでいると教えられた家。
 真っ直ぐに行けば、自分の家。
(…どうしよう…)
 本当かどうかを確かめに行くか、行かずに家へと帰るべきか。
 真っ直ぐ帰れば傷つかずに済む。トーストを焼いて、ミルクを飲んで、疲れた身体を癒すことが出来る。歩き疲れてしまった身体を、打ちのめされてしまった心も。
(…家に帰って…)
 お腹を満たして、ベッドに倒れ込みたい誘惑。このまま眠ってしまいたい、と。
 けれども、それでは悩みを先へと送るだけ。先送りにしてしまうだけ。
 もしもハーレイが、本当に結婚していたならば…。



 悩んだけれども、歩き出した。
 まだ今ならば歩けるから。歩く力は残っているから、ハーレイの家の方角へ。
 貰った紙を見ながら歩いて、角を曲がって…。
(あの家だよね?)
 三軒向こう、と近付いて行って、生垣越しに覗き込んだら。
 庭の手入れをしている女性。ブルーが知らない、まだ若い女性。
(まさか、奥さん…?)
 震えそうになる足をグイと踏みしめ、懸命に声を絞り出した。
「あの…。ここ、ハーレイ先生の家ですか?」
「ええ。あら、生徒さん?」
 女性が笑顔で振り向いた。「いらっしゃい」と、「すぐに呼ぶわね」と。



(…そんな…!)
 とても待ってはいられなかった。後をも見ずに逃げ出した。
 そのままだと泣き出してしまいそうだったから。
 ハーレイが家から出て来るよりも前に、泣き崩れてしまいそうだったから。
(嘘だよ…!)
 あんまりだよ、と家に向かって走った。足が重たいことも忘れて、空腹だったことも忘れて。
(ハーレイの家に泊まろうと思って行ったのに…!)
 泊まるつもりで出掛けて行ったのに、頑張って歩いて行ったのに。
 ハーレイの家に泊まるどころか、引越されていて、おまけに奥さん。自分が全く知らない間に、何も知らされないままに。



(酷すぎるよ…!)
 やっとの思いで駆け込んだ自分の家の庭。
 家の鍵を開けることさえ忘れて、庭に置かれた白いテーブルで泣いた。庭で一番大きな木の下、ハーレイと何度も過ごした場所で。初めてのデートをした場所で。
(ハーレイが結婚しちゃったなんて…!)
 自分は捨てられてしまったのだ、とハーレイのいないテーブルで泣いて、泣きじゃくった。
 独りぼっちだと、独りぼっちになってしまったと。
 もうハーレイのお嫁さんになれはしなくて、独りなのだと。ただ一人きりで、独りぼっちで…。
(手が冷たいよ…)
 右の手が冷たい。凍えて冷たい。
 痛いほどに冷たく冷えて凍えて、どうしようもなくて。
 温めて欲しくても、どうにもならない。もうハーレイはいないから。
 独りぼっちになってしまったから。温めてくれていた手は、二度と戻っては来ないから…。



(ハーレイ…っ!)
 自分の泣き声で目が覚めた。
 土曜日の朝、カーテンの隙間から柔らかな朝日が射し込むベッドで。
(…夢…)
 夢だったのか、と身体を起こしたけれども、夢の中でも似たようなことをしていたから。
 これは夢だと、夢の世界だと、色々なことをしていたから。
(…これも夢なの…?)
 恐る恐るベッドから下りて、勉強机の所に行って。
 引き出しを開けて取り出したハーレイの名刺に、あの地図は無かった。夢の中の自分が見ていた地図。それを頼りに歩いた地図。
(やっぱり、あっちが本物の夢…?)
 そして現実はこちらなのだろうか、名刺に地図が無いのだから。ハーレイの住所と通信番号だけしか書かれていないし、柔道の先生の証のマークも入っているし…。
(全部、夢だったの…?)
 ハーレイが引越してしまっていたことも、美人の奥さんがいたことも。
 それとも本当は、ハーレイは…?



 起きてゆけば、ちゃんと両親がいた。ダイニングで「おはよう」と迎えてくれた。
 いつも通りの土曜日の朝で、トーストも卵料理も、ミルクもあった。母は「もっと食べる?」と訊いてくれたし、父は「食べるか?」とソーセージを一本くれた。そんなに入らないと言っているのに、「もっと食べろ」と。「でないと大きくなれないぞ」と。
(いつもとおんなじ…)
 やっぱりあれは夢だったんだ、とキツネ色にカリッと焼けたトーストに齧り付いた。ハーレイの母が作ったマーマレードをたっぷりと塗って、夏ミカンの金色をスプーンで塗って。
 それは幸せな休日の食卓、マーマレードの味に思わず顔が綻ぶ。いつもの味だと、この味がある食卓なのだ、と。



 朝食を終えて、部屋の掃除を済ませて。
 窓辺で待っていると、門扉の横のチャイムを鳴らしてハーレイが来てくれたから。
 母が運んでくれたお茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで、向かい合わせに座ったから。
 ふと心配になって、訊くことにした。現実はどうかと、本当はどうなっているのかと。
「ハーレイ、もしかして、引越した?」
「はあ?」
 どうして俺が引越しするんだ、俺の家はあそこから変わっちゃいないが。
「…じゃあ、奥さんは?」
「なんだそりゃ?」
 奥さんって、誰の奥さんだ?
 俺の家の近所に奥さんって人は沢山いるがな、どの奥さんのことを言っているんだ…?
「ハーレイに奥さん、いるの、って訊いているんだよ…!」
「俺に奥さん!?」
 どう間違えたらそういう質問になるんだ、お前?
 俺が独身人生だってこと、お前は誰よりもよくよく知ってる筈なんだがな?



 ブルーは夢の話をしたのだけれど。
 辛くて悲しくて、泣きじゃくって終わった夢の話を聞かせたけれど。
 聞き終えたハーレイに散々に笑われた。
 その夢は全てお前が悪いと、俺の家に泊まりに来ようだなどと企むからだ、と。
「ロクでもないことを計画するから、そういうオチになっちまうんだ」
 夢の中だからやってやろうと思ってたんだろ、夢の中のお前。そいつのせいだな。
「そうなの?」
「うむ。良心ってヤツが咎めたってわけだ、それでとんでもない夢になる」
 俺に叱られるオチの代わりに、俺がいないというオチにな。
「…そうなのかな?」
 ホントにそうなの、ぼくが悪いの?
「そういうことだな」
 俺が悪いわけがないだろう。お前の夢には干渉出来んし、第一、引越してもいない。
 ついでに結婚もしてはいないし、何もかもお前が悪いってな。
 勝手に悪事を企んだ挙句、自分で自分を落とし穴に追い込んじまったんだ。俺が黙って引越しをしてて、結婚している世界へとな。



 だが、と右手を褐色の大きな手で掴まれた。
 この手は温めておいてやろうと、怖かったろうと。
「…独りぼっちで泣いていたなんて、お前、メギドじゃあるまいし…」
 庭のテーブル、お気に入りだろうが。そんな所で泣くヤツがあるか、夢でもな。
「うん…。でも、ハーレイ…。勝手に結婚……しないでよ?」
 怖かったんだよ、と訴えれば。
「結婚もしないし、引越しもしないさ」
 お前が嫁に来る家だろう、と微笑まれた。あの家はいつかお前と住む家だ、と。
 奥さんと呼ぶのはお前だけだと、他の奥さんなど要りはしないと。
「うん…。うん、ハーレイ…」
 ぼくがハーレイと住む家なんだね、ハーレイの家。
 ハーレイの奥さん、ぼくがなったらいいんだね。いつか結婚して、お嫁さんで奥さん…。



(ぼく、奥さんになれるんだ…)
 あの夢に出て来た女性みたいに、庭でハーレイの教え子を迎えて。
 「生徒さん?」と、「すぐに呼ぶね」と、家に入ってハーレイを呼んで…。
(うん、あんな風に…)
 学校の生徒が訪ねて来たと、こういう子だと伝えに行く。そしてハーレイと並んで出てゆく。
 訪ねて来た子を招き入れるために、「いらっしゃい」と門扉を開けてやるために。
(女の人になっちゃってたけど、あれがぼく…)
 あれが未来の自分の姿。ハーレイと結婚した後の自分の姿。
 とても恐ろしい夢だったけれど、ハーレイの言葉は信じられる。
(引越しもしないし、結婚するのもぼくだけだって…)
 そのハーレイの家に勝手に泊まりに出掛けようとは、もう思わない。
 夢が本当になってしまったら、怖いから。
 悲しい夢はもう見たくないから。
 大人しく待っていようと思う。ハーレイがちゃんと家に招いてくれるまで。
 もう来てもいいと、俺の恋人だと、手を繋いで一緒に門扉をくぐってくれる日まで…。




           夢の中の家・了

※夢の中とはいえ、ハーレイの家を訪ねて行こうとしたブルーを見舞った悲劇。
 可哀想すぎる夢でしたけど、いつかはブルーもハーレイの家で暮らせる日が来ます。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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