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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

会いたい背中

「パパ!」
「わっ!」
 ビックリしたぞ、と振り返った父。夕食前に廊下で見付けた背中に飛び付いてみた。
 ブルーよりも先を歩いていたから、気付いていなかったようだから。
 突然やりたくなった悪戯。脅かしてやろうと、大きな背中に飛び付いてやろうと。
「まったく、もう…。腰が抜けそうになるじゃないか」
 父は苦笑いを浮かべたけれども、「久しぶりだな」と頭をクシャリと撫でてくれた。
 こういう悪戯も可愛らしいと、「やっぱりパパのブルーだな」と。
「悪戯なんかをするってことはだ、ソルジャー・ブルーってわけでもないな」
「パパの子だもの」
 前のぼくのことは関係ないもの、パパの子だよ?
 ソルジャー・ブルーにはパパの記憶が無かったんだよ、ぼくのパパはパパしかいないんだよ。
「そうだっけなあ…。それでお前はパパの子だ、と」
「前のぼくにパパの記憶があっても、パパはパパだよ」
 ぼくのパパだよ、ぼくだけのパパ。だから大好き!
「そう言われると嬉しくなるな、うん。お前はパパのブルーだ、ってな」
 いい子だな、と頬にキスをくれた父は、それは御機嫌で夕食のおかずも譲ってくれた。「これも好きだろう?」と、「もっと食べていいぞ」と。
 食が細いブルーには有難迷惑だったけれども。お腹一杯になってしまったけれど。



 その夜、お風呂に入ってパジャマに着替えて、部屋に戻ってから。
 ようやっとお腹が落ち着いて来たと、食べ過ぎちゃったとベッドの端に腰掛けながら。
(パパの御褒美…)
 おかずを譲ってくれた父は本当に嬉しかったのだろう。前世の記憶を取り戻した後も、ブルーはブルーのままだから。それを再認識出来たから。
(パパはホントにパパなんだけどな…)
 生まれた時から側に居てくれた父。抱っこに、おんぶに、肩車。
 前の自分が知らない幸せを沢山与えてくれた父。今も暖かな家を、優しい毎日をくれている父。
(パパの背中…)
 飛び付いた背中は大きかった。脅かしたらビクンとなったけれども、揺らがなかった。大きくて逞しい背中。両手を広げて飛び付いた背中。
 広くて大きな背中だよね、と思ったけれど。
 もっと大きい背中を自分は知っている。父よりも大きくて広い背中を。



(ハーレイの背中…)
 そういえば、ハーレイにも何度もやった。夕食前に父にやったようなことを。
 白いシャングリラの中、周りに人がいない通路を歩くキャプテン。そういう姿を青の間から目にして、何度も飛んだ。瞬間移動でハーレイの後ろへ。
 何の前触れもなく現れ、飛び付き、抱き付いていた。あの背中に。
 濃い緑色のマントに隠れた、広くて逞しいハーレイの背中に。
 けれど。
(…もしかして…)
 せっかくハーレイと再会したのに、青い地球の上で巡り会えたのに。
 再会してから長く経つのに、今の生ではまだ一回もやってはいない。飛び付いていない。
 今の自分はハーレイを背中から脅かしていない。
 あんなに何度も会っているのに、前の生ではあんなに何度もやっていたのに。



(やってみないと…!)
 今度もやってみなくっちゃ、と思ったけれど。
 あの広い背中に飛び付いて脅かしてやらなければ、と思ったけども。
 でも、どうやればいいのだろう?
(チャンスさえあれば…)
 学校では絶対に出来ないけれども、家でならば、と考えたものの。
(足音がしちゃう…)
 前の自分が得意としていた瞬間移動が出来ないから。歩いて近付いてゆくしかないから。
 父が相手なら上手くいったけれど、ハーレイならば、きっと。
(足音でバレる…)
 そんな気がした。今度のハーレイはきっと気付くに違いない、と。
 気配だってバレてしまうだろう。いくら足音を隠せたとしても、気配でバレる。
 はしゃいでいる時の自分の心はハーレイに筒抜けらしいから。
 心の中身が零れてしまって、何をしようとしているのかが手に取るように分かるらしいから。



(…できっこない…)
 ハーレイの背中に飛び付くなんて、とシュンとしてから気が付いた。
 飛び付くどころか、抱き付くどころか、あの背中自体がご無沙汰なのだ、と。後ろからいきなり脅かすどころか、ハーレイの背中に抱き付いたことが無いのだ、と。
(胸は何度も…)
 抱き締めて貰ったし、自分から抱き付いて甘えもした。
 椅子に座ったハーレイの膝にチョコンと乗っかり、そのままギュウッとくっついたりした。
 「甘えん坊だな」と呆れられたほどに、何度も、何度も。
 最近でこそ、向かい合わせで座っていることが多いけれども。ベッタリ甘えはしないけれども。
(でも、背中…)
 背中の方には甘えるチャンスがまるで無かった。一度も無かった。
 前の生なら飛び付いてそのまま、顔を埋めたりもしていたのに。ハーレイが振り返ったらキスをくれると分かっていたのに、背中の広さを味わいたくて。その温かさを感じていたくて。
 二人でベッドで過ごした後にも、起き上がったハーレイの背にもたれていた。
 大きな背中に自分の身体を預けてしまって、その温もりに酔っていた…。



(ハーレイの背中…)
 どうして忘れていたのだろう、と何度となく二人で座ったテーブルと椅子に目を遣って。
 其処に原因を見付け出した。ハーレイがいつも座っている椅子。しっかりした木枠に籐を編んで張ってある、椅子の背もたれ。ハーレイがもたれてもビクともしない堅固な背もたれ。
 それが背中を隠していた。ハーレイの背中にくっついて自分の邪魔をしていた。
 これでは思い付かないだろう。背中に後ろから飛び付くなんて。抱き付くだなんて。
(でも、背中…)
 気になり始めたら止まらない。思い始めたら止まらない。
 あの背中がいい、と。ハーレイの背中に甘えてみたいと、抱き付いてみたいと。
(明日は土曜日…)
 ハーレイが訪ねて来てくれる日だから。
 頼んでみようか、背中がいいと。背中に甘えたいのだけれど、と。



 一晩眠っても、消えてくれなかった背中への思い。ハーレイの背中に甘えたい気持ち。
 朝食を食べても、部屋を掃除しても、それは一向に消えてはくれずに、大きくなるだけ。背中がいいと、あの背中だと。
 やがてハーレイが来てくれたけれど。いつものように向かい合わせで座ったけれど。
(背中…)
 お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで、向かいに座ったハーレイの背中。
 やはり背もたれが邪魔をしていた。触らせてなるか、と背中を丸ごとガードしていた。其処から肩は出ているけれども、大きな身体も両脇にはみ出してはいるのだけれど。
 飛び付きたい背中は背もたれの向こう、抱き付きたい背中は背もたれの向こう。
 どうすればいいというのだろう?
 頑丈な背もたれが邪魔をしている向こうの背中に甘えたければ…?
(…相談してみる?)
 当のハーレイに。
 不意打ちで脅かすことは出来なくなってしまうけれども、どうせ脅かすだけ無駄だから。
 足音で、それに気配で何もかもが直ぐにバレてしまって、前のようにはいかないから。



 相談しよう、と心を決めて切り出してみた。他愛ない会話を交わす間に、「ハーレイ」と。
「えっと、背中…」
「背中?」
 ハーレイは反射的に後ろを振り返ってから、ブルーの方へと向き直って。
「俺の背中に何かついてるのか? …って、お前に分かるわけがないか」
 サイオンの方はサッパリだっけな、前のお前と違ってな?
「うん、ハーレイの背中なんかは見えないよ」
 椅子から立ってハーレイの後ろに回らない限り、ぼくには全然見えないんだけど…。
「じゃあ、なんだ?」
 俺の背中が何だと言うんだ、急に背中と言われてもなあ…。
「背中にご無沙汰してるんだよ。ハーレイの背中に」
「はあ?」
 ご無沙汰ってなんだ、どういう意味だ?
 お前、俺の背中と知り合いだったか、挨拶を交わすような仲だったのか?
 そもそも背中は喋らんと思うが、挨拶なんてヤツも全くしないと思うんだがな…?



 挨拶する時に出て来るのは背中じゃないだろうが、と訝るハーレイ。
 お辞儀するなら前に身体が傾くものだと、背中の方へは傾かないと。どうして背中にご無沙汰ということになるのか、とハーレイにはまるで通じていなかったから。
 ブルーは懸命に説明した。
 実はこうだと、こうなのだと。
 前の生では馴染み深かった背中に、今度は一度も飛び付きも抱き付きも出来ていない、と。
「そうなんだってば、ハーレイだって考えてみれば分かるでしょ?」
 ぼくが背中にくっついてたこと、一度も無いっていうことが。
 ハーレイの背中がとても好きだったのに、まだ一回も飛び付いて挨拶していないんだよ。
 ご無沙汰なんだよ、本当に。
 ハーレイの背中は其処にあるのに、今だって背もたれの向こうなんだよ…。



「俺の背中なあ…」
 そういえば何度もやられたっけな、とハーレイの目が細くなった。
 シャングリラの通路を歩いていた時に急襲されたと、後ろからいきなり飛び付かれたと。
「そう。…でも、今のぼくだとハーレイの後ろに飛べないし…」
 瞬間移動で飛んで行けないから、前のぼくみたいにはいかないよ。
「飛んでも無駄だぞ、今の俺はな」
 驚きやしないな、お前が後ろに出たってな。
「なんで?」
 瞬間移動だよ、一瞬だよ?
 今のぼくには出来ないけれども、さっきまで誰もいなかった場所に出るんだよ?
「それでもだ。今の俺はだ、前の俺より勘がいい」
 出たな、と直ぐに分かっちまうさ、お前が来たなと、現れたなと。
 つまり驚かなくて済むんだ、何がいるかが最初から分かっているんだからな。



 柔道で鍛えてあるもんでな、と余裕たっぷりに微笑まれた。
 気配に敏いと、脅かそうとして後ろに飛んでも前のようにはいかないと。
「お前が飛び付いてくる前に、だ。俺がクルリと後ろを向くかもしれないな?」
 お前は背中に飛び付く代わりに、俺に受け止められるってわけだ。悪戯者めが、と俺の腕の中に閉じ込められちまって、それっきりだな。
「じゃあ、脅かすのは…」
 前みたいにハーレイを後ろからビックリさせるのは…?
「まず無理だってな、相手が今の俺ではな」
 瞬間移動を覚えた所で、多分、役には立たないだろうさ、そういう風に使いたくてもな。
 俺に捕まって背中とは縁が無いままだってな、振り向かれて逃しちまってな。



 自信に溢れているハーレイ。今度の自分は脅かされないと、後ろを取られはしないのだと。
 それでは背もたれが無かったとしても、ハーレイの背中に飛び付けはしない。抱き付くことも。
 けれども諦められない背中。ハーレイの大きくて逞しい背中。
 ご無沙汰したままでは悲しいから。甘えてみたくてたまらないから。
 ブルーはなんとかならないものかと問い掛けた。
「…だったら、背中にくっつくのは?」
 飛び付くんじゃなくて、脅かすのでもなくて、くっつくだけ。
 ハーレイの背中にくっつきたいな、と思うんだけど…。
「どうやってだ?」
 俺はこうして座ってるわけで、背中は後ろになるわけなんだが…。
 背中の方を向けるんだったら、お前は俺の背中に向かって喋るしかないわけだがな?
 椅子ごと後ろを向いちまうんだし、背もたれ越しの背中にな。
「…やっぱり、背中、無理だよね…」
 ハーレイごと後ろを向いてしまって、ぼくはそっぽを向かれるんだね?
「うむ。背中と腹とは入れ替わらんしな」
 背中を向けては喋ってやれんな、そいつは絶対、出来やしないと分かるだろうが?
「…そっか…」
 ハーレイの背中、無理なんだ…。
 くっつきたくても、背もたれつきの背中しか向けて貰えないんだ…。



 残念、と深い溜息をついたブルーだけれど。
 今の生では背中は無理かと、ハーレイの背中には甘えられないのかと肩を落として萎れるよりも他に無かったけれど。
「ふうむ…。そんなに俺の背中がいいのか…」
 こんなのの何処がいいんだか、とハーレイが肩越しに自分の背中を軽く叩いた。
 固いだけだと、やたら筋肉がついてるだけなんだが、と。
「でも、好きなんだよ、ハーレイの背中…!」
 好きだったんだよ、前のぼくは。
 後ろからいきなり飛び付いてた時、よくそのままでくっついてたよ?
 ハーレイが振り向こうとしたってギュッと押さえて、背中にそのまま。手を一杯に広げて背中にくっつくのが好きで、顔を埋めてるのも好きだったよ。
 ハーレイの背中は温かいな、って。ぼくの背中よりもずっと大きいよね、って…。



 あの背中がとても好きだったのに、と訴えた。
 それなのに今度はくっつけないのかと、背もたれが間に挟まるのか、と。
「…ハーレイの背中、ホントのホントにご無沙汰なのに…」
 くっつきたいのに、どうすることも出来ないの?
 脅かす方は無理だとしたって、くっつくくらいは出来たらいいな、と思ってたのに…。
「そこまで俺の背中にこだわりたいのか、今日のお前は?」
 今までに背中と言われたことは無いんだがなあ、どうして背中になっちまったんだ?
「…パパを脅かしたんだよ、昨日の夜に…」
 廊下で前を歩いていたから、後ろから「パパ!」って飛び付いただけ。
 その時には思い出さなかったけど、後からどんどん思い出しちゃって…。ハーレイにも後ろから飛び付いたよね、って、抱き付いて甘えていたんだよね、って。
 そしたら背中に甘えたくなって、ご無沙汰してたってことに気が付いたんだよ。
 今度は一度もやっていないし、一度も背中に甘えていない、って。



「なるほどなあ…。そういうことか」
 それで背中と言い出したのか、とハーレイが腕組みをして暫く考え込んだから。
 もしかしたら、とブルーは淡い期待を抱いた。
 背中を向けて貰えるのかもと、背中に飛び付かせて貰えるのかも、と。そうしたら…。
「俺の背中だが。…お茶もお菓子も無しでいいなら何とか出来んこともない」
 より正確に言えば、俺の方はお茶も飲めるし、お菓子だって食える。
 しかしだ、お前はそういうの抜きで、それでもいいなら背中を貸せないこともないな。
「…お菓子抜き? お茶も?」
 なあに、とブルーが目を丸くすると。
「ん? 百聞は一見に如かず、ってな」
 こうするのさ、とハーレイは椅子から立ち上がった。丈夫な木枠に籐を張った背もたれのついた椅子から。前のハーレイのマントの色を淡くしたような座面の椅子から。
 小さなブルーの腕には重たいその椅子を軽々と抱え、前後を逆に置き替えた。背もたれがついた方がテーブルを向くように。座面がテーブルにそっぽを向けてしまうように。
 その椅子にハーレイはドカリと座った、テーブルの方を向いて。背もたれの上に腕を乗っけて。
 逞しく強い両足の間に、背もたれを挟むようにして。



 テーブルの向こう、ブルーと向かい合わせに座るハーレイ。
 けれどもテーブルとハーレイとの間に背もたれ、籐が張ってある丈夫な背もたれ。編まれた籐の隙間からハーレイの身体が透けて見えていて、それは背中ではない側で。
「どうだ? こういう俺のだ、背中にだったら後ろに回ればくっつけるぞ?」
 お前が座れるスペースなんぞは残ってないしな、後ろに立つしかないわけだが…。
 くっつきたければ貼り付くしかなくて、お前の口にはお茶もお菓子も入らないんだが…。
 それで良ければくっついてみるんだな、俺の背中に。
「くっつく…!」
 ブルーは椅子からガタンと立った。
 ハーレイの後ろに回ってしまえば、テーブルはグンと遠ざかるけれど。お茶にもお菓子にも手が届かなくて、どうにもならなくなるけれど。
 そんなことなど、どうでも良かった。
 ハーレイの背中にくっつけるのなら、ご無沙汰していた大きな背中にくっつけるのなら。



(くっつける…!)
 背中、とハーレイが座った椅子を回り込んで、後ろに行った。
 ハーレイの後姿は何度となく目にして来たのだけれども、どうして忘れていたのだろう。大きな背中を、広い背中を、大好きだった背中のことを。
「ん? どうした…?」
 くっつかないのか、と聞こえたハーレイの声。こちらを向いてはいないままで。テーブルの方に顔を向けたハーレイの短い金髪、それしか見えない。
(この声だって…)
 久しぶりだ、と胸が熱くなった。いつもと同じ声だけれども、いつもと違う。向かい合って聞く時の声とは違う。
(学校だったら、何度も聞いてる筈なんだけど…)
 授業の時には背を向けて話していることも多いから。教室の前の大きなボードに書いている時、ハーレイは背中を向けているから。
(…でも、違うんだよ)
 こうして頭の向こう側から聞こえて来る声。
 自分に向けられた声だけれども、自分の方を向いて発せられてはいない声。
 前の生で何度聞いただろう。何度こういうハーレイの声を、前の自分は聞いたのだろう…。



(ハーレイ…!)
 たまらなくなって、ギュウッと両腕を回してくっついた。
 ハーレイが向けてくれた背中に、背もたれが邪魔をしていない背中に。
 座りたくてもスペースは本当にほんの僅かしか空いていないから、座ることは諦めてしがみつくだけ。被さるようにしてしがみつくだけ、大きな背中に。
「…どんな具合だ、俺の背中は?」
 お気に召したか、こだわりの背中。ご無沙汰らしいが、挨拶はしたか?
「今、してる所…」
 身体中で、とブルーは答えた。ハーレイの背中に挨拶してると、ぼくの身体が挨拶してると。
 懐かしくて温かい背中。前のハーレイの背中と同じに広くて逞しい背中。
 違う所はマントが無いこと。いつも顔を埋めた、濃い緑色のマントが何処にも無いこと。
(でも、この方が…)
 こっちがいい、と抱き付いた。
 ハーレイの背中をより近く感じられるから。厚いマントに隔てられてはいないから。



 それにハーレイの声、とブルーは背中に耳をピタリとくっつけた。
 さっき聞いたよりも懐かしい声。ハーレイの大きな身体の中から響いてくる声。
 「俺の背中は期待通りか」と、「もう挨拶は済んだのか?」と。
 ハーレイの腕の中で聞く声とは違う。胸に抱かれて聞く声とは違う。
 前の生では何度も耳にしたけれど、生まれ変わってからは初めてこの声を聞いた。大きな身体の中を通って耳に届く声を、ハーレイの背中の中から聞こえる声を。
「挨拶はもう済んだけど…。ハーレイの声…」
 いつもと違うね、もっと、ずうっと深い所から聞こえてくるね。
 こんな風に聞こえる声だってことを忘れていたよ。背中にくっついてたら、こう聞こえること。
「そりゃまあ、なあ…。背中の中で喋っているしな?」
 胸にくっついてりゃ、俺の声はお前の頭の上からお前の耳に届くんだろうが…。
 この状態だと、間に背中が入るんだしな?
 俺が身体の中から出している声、口から出てても背中の中から出てるようなもんだ。身体の中で響くわけだな、お前の耳まで届く前にな。
「…うん、きっと…」
 とても温かく聞こえるんだよ、耳の側で喋っているみたいに。
 ううん、もっと近く、まるでハーレイがぼくの中で喋っているみたい…。
 この声のことも忘れていたなんて、ホントにご無沙汰しちゃっていたんだ、ハーレイの背中。
 前のぼくはあんなに好きだったのに…。
 ハーレイの背中を何度も追い掛けて、飛び付いて、抱き付いていたのにね…。



 あまりにも懐かしい背中だったから。温かい響きの声だったから。
 ハーレイが「お茶はいいのか?」と訊こうが、「俺は飲むぞ?」と念を押されようが、ブルーは背中にくっついていた。
 大きな背中の向こう、ハーレイがお茶を飲んでいる音も、お菓子を口にする音も。
 全て聞こえているように思えた、耳に響いて来ているように。
 お茶をゴクリと、ケーキをフォークで切り取って口に運んで、モグモグ、ゴクンと。
 ハーレイの気配が伝わる背中。何をしているのか、ちゃんと伝わってくる背中。
(ホントのホントに久しぶりだよ…)
 声も気配も、と身体中でハーレイの背中を感じ取ろうとくっついた。
 お茶もお菓子も抜きのまんまで、食べに戻ろうと思いもせずに。



 そうやって、どのくらいの間、背中の温もりを、大きさを満喫していただろう。
「もう少し経ったら戻れよ、お前」
 お母さんが様子を見に来るぞ、とハーレイの声が促した。背中の中から。
 昼食の前にお茶のおかわりは如何と訊きに来るから、お菓子をきちんと食べておけよ、と。
「分かってる…。でも、もうちょっと…」
 あと少しだけ、いいでしょ、ハーレイ?
 背中、ホントにうんとご無沙汰だったんだから。次はいつ会えるのかも分からないんだから…。
「ふむ…。こいつはそうそう出来んが、だ」
 椅子は置き方を変えにゃならんし、お前はお茶もお菓子も手が出せないし…。
 とても褒められたモンじゃないしな、俺の背中はそう簡単にはお前に提供してやれん。
 それは分かるな?
「…うん、分かる…」
 膝なら降りたらおしまいだけれど、こっちは椅子の置き方が逆になっちゃってるしね。
 ママの足音が聞こえてからでは、元に戻せそうもないものね…。
「そういうことだ。おまけにお前はお茶もお菓子も手付かずなんだし、お母さんに変に思われる」
 何があったのかと、どうなったのかと。だから、そうそう出来ないが…。
 お前がそんなに気に入ったのなら、たまにはしてやる。
 たまに、だがな。



「ホント!?」
 くっついていいの、とブルーは両腕で強く背中にしがみついた。
 今日限りでお別れになるのではなくて、またくっついてもいいのかと。こう出来るのかと。
「…たまにだぞ?」
 会う度にっていうわけにはいかんな、たまにだな。お前がご無沙汰だと言い始めたらな。
「言ってもいいの? 背中にご無沙汰してるって」
「たまにならいいさ。いいか、本当に、ごくたまに、だぞ?」
 それから、お前のお母さんにバレないような時だな、そいつも大事だ。なにしろ椅子がな…。
 椅子の置き方がまるで逆では、俺はお行儀の悪い先生になっちまう。
 この座り方はお世辞にも行儀がいいとは言えんし、俺だってどうも落ち着かないんだ。
 とはいえ、今はこれくらいしかしてやれないからなあ、背中にご無沙汰だと言われたってな。
 そのくらいはお前にも分かるだろうが?



 恋人としてベッドの上でもたれさせてはやれないし…、とハーレイが笑う。
 後ろから飛び付いて抱き付こうにも、そういうチャンスも全く無いと。
「だからだな…。結婚するまではこいつで我慢しておけ、俺の背中は」
 お前がご無沙汰してると言い出して、俺が「そうだな」と納得したら。
 今日みたいにこうして座ってやるから、後ろから背中にくっつくんだな。
「…うん。またご無沙汰になったら言うから、これ、やってよね」
 この背中でも充分幸せだから。
 …ハーレイの背中と、身体の中から聞こえる声と。それだけでぼくは幸せになれるよ、とっても大きな背中だから…。
「そりゃ良かった。…そろそろ戻れよ、お茶もお菓子も放ったままだぞ」
 早く戻って減らしてくれ。俺も元通りに座りたいしな、椅子本来の座り方でな。



 次の機会が欲しいんだったら早く戻れ、と言われたから。
 促されたから、ブルーは背中に別れを告げた。最後にギュッと強く抱き付いて、「さよなら」と「またね」と身体で背中に挨拶をして。
 いつもの自分の椅子に戻る間に、ハーレイは椅子を元の通りに置き直してしまった。背もたれを正しい方向に向けて、座面がテーブルの方を向くように。
(んーと…)
 ブルーは椅子に腰掛けたけれど、もうハーレイの背中は見えない。ついさっきまで独占していた広い背中はもう見えない。次に会える日はいつになるかも分からないけれど…。
「ハーレイ、今はご無沙汰しないと背中に会わせて貰えないけど…」
 結婚したら、もっとくっつけるんだよね?
 前のぼくが色々やってたみたいに、背中にくっつき放題だよね…?
「当たり前だろうが。運が良ければ脅かせるかもしれないぞ」
 俺は後ろを取られはしないが、お前が相手だと油断するかもしれないな。
 後ろからパッと飛び付かれた途端に、「うわっ!」と叫んでしまうかもなあ?
「頑張ってみる…!」
 ハーレイと一緒に暮らしてるんだし、きっとチャンスは転がってるよ。
 瞬間移動が出来なくったって、ハーレイを後ろから脅かすチャンス。



 今はこれしか出来ないけれど。
 椅子の向きを逆に据えて貰って、お茶も飲まずにくっつくことしか出来ないけれど。
 いつかは身近になる背中。
 同じ家で暮らして、側にあるのが当たり前になるハーレイの背中。
 父にやったように廊下で後ろを歩いて、脅かすことだって出来るだろう。前をゆく背中にパッと飛び付いて、前触れもなく抱き付いて、ハーレイを。
 「前の俺のようにはいかないぞ」と自信満々の、気配に敏いハーレイを。
 だからブルーは訊いてみる。赤い瞳を煌めかせて。
「ねえ、ハーレイ。…驚かせられたら、御褒美、くれる?」
 ぼくが後ろから、ハーレイを「わっ!」と言わせられたら。
「もちろんだ」
 今の俺の後ろ、取れたヤツは一人もいないんだからな、今のレベルになってからはな。
 その俺よりもだ、お前が優れた技を見せたら、そいつは称賛に値する。
 当然、御褒美をやらんといかんな、参りましたと、一本取られてしまいました、と。



 柔道で一本取るというのは「勝った」の意味だとハーレイに教えて貰ったから。
 一本取れたら何でもやるぞ、と言われたから。
(ふふっ、御褒美…)
 もしも首尾よく、ハーレイを後ろから驚かすことが出来たなら。
 その時は思い切り甘えてみよう。御褒美が欲しいと強請ってみよう。
 どんな我儘でもハーレイは叶えてくれるだろうけれど、とびきりの我儘な注文を。
 一緒に仕事場に連れて行ってだとか、今日は一日側に居て、だとか。
 ハーレイの背中と離れないために。
 大きくて広くて、逞しい背中。
 前の自分が追い掛け続けた広い背中を、今度は誰にも隠すことなく堂々と追ってゆくために…。




          会いたい背中・了

※今のブルーは飛び付くことが出来ない、ハーレイの背中。前の生では、よくやったのに。
 なんとかくっつけましたけれども、次の機会はいつになるやら。懐かしい背中に会える日は。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








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