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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

思い出の風船

(ほほう…)
 今日は風船だったのか、とハーレイは鳶色の目を細めて眺めた。
 週末の土曜日、歩いてブルーの家へと向かう途中の道筋にある食料品店、行きつけの店。家から近くて便利だから、と何かと世話になっている店。
 その店の前でやっている催し物。子供連れの客に風船のサービス。赤や黄色や、色とりどりに。フワフワと浮かぶ風船の中から好きに選んで、渡して貰えるようなのだけれど。
「あっ…!」
 目の前で上がった小さな悲鳴。貰ったばかりの風船を手から飛ばしてしまった幼い子供。幼稚園くらいの男の子はたちまち泣き顔になった。飛んでしまった黄色い風船。
 みるみる昇ってゆくけれど。食料品店の軒の高さへ、更に上へと飛んでゆくけれど。
「ほら、泣かないの」
「わあ…!」
 子供の母親が風船をスイと指差し、その指をクイと手前に引いた。風船はピタリと上昇を止めて戻って来る。逃げようとしていた青い空から。
「はい、風船さん、捕まえたわよ」
「ママ、すごーい!」
 サイオンで風船を戻した母親。「しっかり持って」と子供に風船の糸を握らせ、細い手首に一周クルリと回してやった。そうすれば風船は簡単に飛んで行かなくなるから。
「ありがとう、ママ!」
「どういたしまして」
 さあ帰りましょ、と子供の手を引いて歩き出す母親。風船を手にして嬉しそうな子供。



(あのくらいの年の子供だったら…)
 飛んでしまった風船を自分の力で戻せないのが普通だろう。
 それを取り戻してくれた母への尊敬の眼差し。「すごーい!」と輝いていた瞳。
 子供たちはそうやってサイオンを覚えてゆくのだけれど。
 自分の中に眠る力をどう操るのか、どういう場面で使えばいいのか、自然に学んでゆくけれど。
(あいつの場合は…)
 未だに無理かもしれないな、と思い浮かべた小さな恋人。
 風船が飛んだらそれっきりのような、小さなブルー。
(とことん不器用になっちまったしな、あいつ)
 前の生と同じタイプ・ブルーに生まれて来たのに、サイオンの扱いが上手くゆかない。とことん不器用、思念波でさえもロクに紡げない、十四歳の小さなブルー。
 ソルジャー・ブルーの生まれ変わりだとは思えないほどの不器用さだけども、それが可愛いし、嬉しくもあった。今度は自分がブルーを守れると、守ってやることが出来るのだと。
(前の俺だと、守ると言っても口約束に過ぎなかったしなあ…)
 ブルーの方が力が上だったから。比較にならない強さのサイオンを誇っていたから。
 それが今ではすっかり逆様、小さなブルーはタイプ・グリーンの自分にも劣る。けれども不自由してはいないし、ブルーは少しも困っていない。たまに膨れているだけで。
(あいつの力が要らない世界になったんだ…)
 平和になって、ソルジャーなどは要らなくなって。
 前のブルーの強すぎたサイオンも必要ない世界。今の時代はタイプ・ブルーが増えたけれども、彼らはサイオンを自分のためにだけ使っている。守り、戦うためではなくて。



(ふむ…)
 不器用なブルーも、さっき見かけた子供のように風船を飛ばしてしまったろうか?
 前のブルーなら考えられないことだけれども、「飛んでしまった」と泣いただろうか?
(…前のあいつなら、風船くらい…)
 サイオンで引っ張って戻すどころか、追い掛けて飛んでゆくことも出来た。いとも簡単に、息をするのと変わらないように。
 シャングリラの公園でそれをしていたブルーを見た。ブリッジからも何度も見かけた。
 子供たちが飛ばしてしまった風船を追って飛び、「捕まえたよ」と戻るブルーを。
 時にはわざと高くまで飛ばして、それから追い掛けて飛び立った。遥か上にある窓の高さにまで飛んで昇って、「ほら」と風船を抱いて戻った。
(しかしだ、今のあいつだと…)
 空は飛べないし、サイオンも上手く扱えないから、風船はきっと、飛んで行ったまま。
 追って飛ぶなど夢のまた夢、泣きべそをかいて見上げていたのに違いない。
 今よりもずっと幼いブルーが、風船を欲しがった頃のブルーが。



(何か思い出が聞けるかもな?)
 小さなブルーの子供時代の思い出話。
 同じ町に住んでいたというのに、ブルーとは何故か出会えなかった。ブルーが生まれたと聞いた病院の側を何度もジョギングしたというのに、生まれた瞬間にすら立ち会えなかった。
(あいつを見たかも、っていう気はしてるんだがなあ…)
 生まれて間もないブルーが退院してゆく日に。春の雪が降る日に、病院の前で。
 ストールにくるまれた赤ん坊を抱いた母親に確かに出会った。その時のものだというストールをブルーの家で見かけたけれど。雪の日の記憶が蘇ったけれど。
(…ストールの色を覚えてないんだ…)
 だから決め手に欠けている記憶。
 あの赤ん坊はブルーだったと思うけれども、そうだと言い切れない記憶。
 それから後の日々にしたって、何処かでブルーと会っていたかもしれないけれど。ジョギングの途中で幼いブルーが手を振ってくれて、自分の方でも振り返したかもしれないけれど。
(…そういう記憶も無いんだよなあ…)
 十四年も同じ町で暮らして、十四歳になったブルーと出会うまで。
 五月の三日にブルーの教室に足を踏み入れるまで、一度も出会えはしなかった。ブルーがどんな日々を生きたか、どう幸せに生きていたのか、目で確かめるチャンスが無かった。
 ブルーに出会えていなかったから。記憶が戻っていなかったから…。



 そんなわけだから、ブルーの子供時代を知りたい。自分の知らないブルーを知りたい。
 風船を飛ばしてしまって泣いたかどうかを尋ねてみたい、と思ってしまう。たったそれだけの、ほんの些細なことだけれども、ブルーの思い出。ブルーが過ごした子供時代。
 それを聞きたい、と風船の方へと近付いて行った。子供連れでなくても貰えないかと、あるいは売っては貰えないかと。
(おっ…!)
 側に寄ってみれば、風船は売り物でもあった。子供を連れては来られないけども、欲しいという人も多いのだろう。近くに住む孫にプレゼントなどもあるかもしれない。
(こいつは運がいいってな!)
 一つ選んで買うことが出来る。自分も風船を手に入れられる。ブルーへの土産に風船を一つ、と色とりどりの風船を束ねた糸を見上げた。



(どれにするかな…)
 ふわふわと揺れている風船。様々な色の風船の束。
 シャングリラの白か、ブルーの瞳を映した赤か。前のブルーのマントの色だった紫もいいし…。
 決めかねている間に、また別の子供が風船を貰って弾む足取りで帰って行った。可愛いピンクの風船を持って。男の子なのに、その子はピンクが好きらしい。
(あいつだったら、どういう風船が好きだったんだか…)
 幼かった頃の色の好みを聞いてはいない。今の好みもそういえば聞いてはいなかった。
(さてなあ…。いったい、何色だったんだ?)
 記憶が戻るよりも前のブルーが好きだった色。好きそうな感じの風船の色。
(そういや、ウサギ…)
 ウサギになりたかった、と聞いたことがあった。真っ白で赤い瞳のウサギに。将来の夢はウサギだったと、ウサギになろうと思っていたと。
(…ウサギ色でいいか)
 それにするか、と白を選んだ。青空の色に映える白。シャングリラの白。
 この色でいいと、これにしようと。



 ふうわりと揺れる白い風船。渡して貰った白い風船。
 それを手にして、いつもの道を歩いて向かった。ブルーが待っている家へと。
 大きな身体にいかつい顔をした自分。風船を持って道を歩くとまるで似合っていないけれども。
(きっと子供への土産物だと思われるんだ)
 子供がいたって可笑しくはない年だから。
 風船を土産に家へ帰れば、「パパ!」と駆け寄って来そうな子供が待っていたとしても。
(…子供への土産には違いないがな?)
 少し大きい子供だけれど。
 風船を飛ばしてしまったから、と泣き顔になるには大きすぎる年の子供だけれど。



 白い風船を連れて、ブルーの家に着いて。
 門扉の脇のチャイムを鳴らすと、ブルーの母が迎えに出て来た。風船は直ぐに目に付くから。
「あら、風船ですか?」
 何処かで配っていましたの、それ?
「途中の食料品店の前ですよ。ブルー君にも思い出があるかと思いましてね」
 こういった風船に纏わる思い出。今はもう風船を欲しがる年でもなさそうですが…。
「ああ、あの子…!」
 いつも失くしてばかりでしたわ、と予想通りの返事が返った。
 サイオンの練習にもなるだろうから、と持たせてやっても飛んで行ったと。
 風船を失くしたと泣きじゃくるから、また買うことになったのだと。
 自分たちが側に居る時だったら飛んで行っても戻せるけれども、そうでない時は…、と。



 二階のいつもの部屋に入ると、窓からハーレイに手を振って待っていたブルーの笑顔。
 母がお茶とお菓子を置いて去るなり、ブルーは真っ白な風船をじっと見詰めた。ハーレイの手に糸を握られ、ふわりと浮いている風船を。
「風船、くれるの?」
「ああ。此処へ来る途中で売ってたからな」
 ほら、と差し出せば、ブルーは嬉々として受け取った。少し考えてから、勉強机から持って来た自分の腕時計。それに風船の糸の端を巻き付け、重石代わりにしてテーブルに置いた。
「これでよし、っと…!」
 テーブルから飛んで行かないよ、と眺めているから。満足そうに見上げているから。
 本当は子供用のオマケだったんだが、と話してやった。
 子供連れの客には無料でサービスだったと、貰っていた子供を何人か見た、と。
 お前の風船の思い出はどうだと、いい思い出を持っているかと。



「風船…。とても好きだったし、大事に持っていたんだけれど…」
 買って貰ったら、いつもしっかり持ったんだけど…。
「ん? それでも失くしちまっていたのか、風船?」
 飛んで行っちまったのか、お前が持ってた風船は?
「そう。…転んだ時とか、飛んでっちゃうんだ」
 転んだはずみに手が離れちゃって、ほんの一瞬。アッと言う間に飛んでっちゃって…。
「それで?」
「ママたちが側にいればいいけど…」
 サイオンで戻して貰えるんだけど…。そうじゃない時は、ぼくだけか、他にも居たって子供か。
 風船を戻せる人はいなくて、ぐんぐん昇って行っちゃったんだよ…。



 大抵は飛んで行ったままだった、と項垂れるから。
 風船を失くしそうだと思ったブルーの子供時代は、ハーレイが想像した通りだったから。
 持って来た甲斐があったと心が温かくなる。ブルーの思い出を一つ拾ったと、拾い上げたと。
 自分が出会っていなかった頃の小さなブルー。幼かったブルー。
 風船が飛んで行ってしまったと泣いている所に、もしも自分が通り掛かったなら。ジョギングの途中で出会っていたなら、「何処だ?」と尋ねてやっただろうに。
 まだサイオンが届く所を飛んでいたなら、「ほら」と呼び戻してやれただろうに。
 けれどもブルーとは出会っていなくて、風船は飛んで行ったままだったから。
 幼いブルーの手から離れた風船は何処かへ消えたというから。



「その風船…。手紙、つけときゃよかったな」
「手紙?」
 キョトンとしている小さなブルー。手紙とは何のことなのか、と。
「風船に手紙をつけるのさ」
「なに、それ?」
 風船に手紙って、普通の手紙?
 ポストに届くみたいな手紙を風船につけておくっていう意味?
「似たようなもんだな、あんまりデカイ手紙は駄目だが。それに今ではそういう文化は無いが…」
 ずうっと昔はあったそうだ、と教えてやった。
 SD体制が始まるよりも遠い遥かな昔の地球。まだ地球の大気が澄んでいた頃。
 人はサイオンなど持ってはいなくて、風船を意のままに操れはしなかった時代の遊び。
 風船に手紙をつけて飛ばしたと、「拾った人は手紙を下さい」と名前や住所を書いたのだ、と。
 そうして風船を空に放って、人の住んでいる場所に落ちたなら。
 見知らぬ人から手紙が来るのだと、時には風船が辿り着いた所の名物のお菓子なども添えて。
 其処から始まる新たな交流、それが何年も何十年も続いて、深い縁になることもあったのだと。



「凄いね、風船で友達とかが出来たんだ…」
 全然知らない町に住んでいる人と、友達になったり出来ただなんて…。
「失くす風船も捨てたモンじゃあないだろう?」
 今じゃ戻せるのが珍しくないから、そういう遊びも無いんだが…。
 そもそもSD体制の時代に入るよりも前に無くなっちまってそれっきりだが、風船には手紙って文化があった。お前もつけときゃよかったな、手紙。
「うん。名前と住所は書けばよかった…」
 風船を失くしてた頃のぼくだと、住所はそんなに詳しく書けなかったかもしれないけれど…。
 名前と住所を書いておいてよ、ってママかパパに頼めばよかったかな?



 手紙…、とブルーは幼かった自分が失くした風船に思いを馳せているようで。
 あの風船に手紙をつけておいたなら、と暫し考えてから。
「ハーレイのトコまで飛んでったかな?」
 ぼくの風船。ハーレイの所にも飛んで行けたのかな?
「俺?」
「うん。ハーレイの家の庭に落っこちるんだよ、ぼくの風船」
 そしたらハーレイからぼくに手紙が来るんでしょ?
 庭で風船、見付けて、拾って。
「おいおい、そいつは近すぎないか?」
 歩くには少し距離があるがだ、風船が萎んで落ちるほどには遠くはないぞ。
 俺の家の庭は無理じゃないかと思うんだが…。
「上手くパチンと弾けちゃったら、落っこちるよ?」
 ハーレイの家の庭の真上でパチンと。割れたら手紙もストンと落ちるよ?
「鳥とかがつついて割るってか?」
「そう!」
 風船をつつくのが好きな鳥だって、きっと何処かにいるんじゃないかな。
 ぼくの風船をつついてくれたら、ハーレイの家でも届いたんじゃないかと思うんだけれど…。
「お前、どれほど凄い偶然ってヤツに賭けているんだ?」
 まずはそういう風船好きで悪戯好きの鳥が飛んでいて…、だ。
 その鳥とお前が飛ばした風船、俺の家の真上で出会わないことには話にならんぞ、割れてもな。まるで全く知らない人の家の庭に落っこちてくのが普通だろうが、お前の風船。



 そうそう上手くいくものか、とハーレイは笑い飛ばしたけれど。
 風船の手紙で出会おうだなんて難しすぎる、と大いに笑ったのだけど。
「…待てよ、親父の家ならアリか」
 俺は無理でも、俺の親父やおふくろだったら、可能性がゼロっていうこともないな。
「そうなの?」
 ハーレイのお父さんやお母さんから手紙が来るってこともあったの、ぼくが風船に手紙をつけておいたら。住所と名前を書いておいたら。
「隣町だしな、俺の家よりは着きやすいだろう」
 飛ばして直ぐってわけじゃない分、届く確率はグンと上がるな。
「そこまでは飛ぶの、風船の手紙?」
 隣町って言ってもかなり遠いよ、車じゃないと行けない場所だよ?
「もっと遠くても風船の手紙は飛んで行けるさ」
 うんと高い所まで昇って、そこで風があれば。
 運んでくれる風さえあったら、信じられないほどの距離でも飛んでくそうだぞ、風船はな。



 飛んだ高さと風向き次第の旅なんだ、とブルーに話して聞かせていて。
 ふっと脳裏を過った記憶。遠い日の記憶。
「…待てよ?」
 親父の家で風船、見たな。誰かが飛ばしちまった風船。
「それ、いつの話?」
 ハーレイが子供の頃のことなの、お父さんの家に風船が飛んで来ていたのって?
「いや。俺は教師になっていたから…」
 ガキの頃じゃないな、とっくに大人だ。あれは教師になってから…。
 何年目だ、と記憶を遡りながら指を折って数えた。
 隣町の父の家で目にした風船。長い旅をして疲れました、といった風に見えた萎んだ風船。まだ少しだけ膨らんではいたのだけれども、もう飛ぶ力は無かった風船。
 教師という職についてこの町に引越して、四年目か、五年目あたりの春。



「うん、教師生活の四年目か五年目、そんなトコだな」
 だからお前はもう生まれてるな、三歳か四歳か、そのくらいのチビか。
 春休みに親父の家に行ったら、庭の木に風船が絡まってたんだ。最初は親父が何かつけたのかと思ったんだが、風船だった。萎んで元気は無くなってたがな。
「庭の木って…。何処に?」
 ぼくでも分かる木にくっついていたの、その風船?
「うむ。お前も馴染みの夏ミカンの木さ、おふくろがマーマレードを作ってる木だな」
 あの木は夏ミカンにしてはデカイが、木としてはそれほど大木っていうわけじゃない。
 もっと高い木もあるのにな、と親父たちと笑って見たモンだった。
 夏ミカンの実を仲間だと思ったか、それとも友達になりたかったか。そんな具合に見えたんだ。黄色い実の中に風船が一つ、混じって揺れているんだからな。
 まるで狙って来たようだったぞ、あの風船。
 あんまり仲良く見えたもんだから、親父もおふくろもこう言ったもんだ。
 「すっかり萎むまで外さずにつけておいてやろう」と、「せっかく旅して来たんだから」と。
 流石に次に行った時には、外されちまって無かったけどな。
 手紙はついちゃいなかったんだろうなあ、そういう話は聞いてないしな。



「その風船…。どんな色だった?」
 何色だったか覚えてる?
 夏ミカンと友達になってた風船なんだし、やっぱり黄色?
「いや、白かったな、こいつみたいに」
 だから親父が何かつけたのかと思ったわけだ。
 果物の木だと、実に紙袋をかけたりすることがあるだろうが。袋をかけたら美味くなるかと一個だけ袋に入れてみたか、と見上げてみたら風船だったというオチさ。
 そのせいで今でも覚えてるってな、あの木に風船がくっついてたことも、風船の色も。
「ハーレイ、それ…。ぼくの風船だったかも…」
「なんだって?」
「白かったんなら、ぼくの風船かもしれないよ。ぼくが三歳か四歳の頃の話だったら…」
 よく風船を買って貰って持ってた頃だし、よく失くしてた。
 転んでしまって、パパもママも大人の人もいなくて、そのまま飛んでっちゃったんだよ。
 ハーレイがさっき言ってたみたいに、風に乗って隣町まで飛んで行った風船もあったかも…。
 白い風船、大好きだったから、何度も買って貰っていたし…。
 他の色のも好きだったけれど、白い風船を一番沢山持ってたと思うよ、小さかったぼく。
 失くした数もきっと一番。持ってた数が多いんだもの。



 きっとシャングリラの白だったのだ、とブルーは言った。
 記憶は戻っていなかったけれど、白い鯨を、あのシャングリラを自分は覚えていたのだと。心の何処かで、戻らない記憶が閉じ込められていた心の奥で。
 空を飛ぶものには白が似合うと考えていたと、風船にも白が似合うのだと。
 そう感じるから、選ぶ風船は白が多くて、白が大好きで。
 手から離れて飛んで行ってしまっても、白い風船なら何故か嬉しい気もしたと。
 どんどん高く昇ってしまって手が届かない白い風船。呼び戻して貰えない白い風船。
 白い点になって消えてゆくのを見送っていたと。
 何処までも飛んでと、行きたい所まで飛んで行って、と。



「ぼくは気付いていなかったけど…。白がシャングリラの色だったなら…」
 きっと地球へって思ってたんだね、小さかったぼくは。
 そのまま真っ直ぐに地球まで飛んで、って。遠い地球まで飛んで行って、って…。
「なるほどなあ…。お前がシャングリラを見送ってたなら、そうなるか…」
 お前、一人でメギドに行っちまったから、シャングリラ、見送っていないよなあ…。
 前のお前の記憶の続きで見送ってたんだな、シャングリラを。
 無事に地球まで飛んでくれよと、行ってくれよ、と。
 お前が見送ってたのはシャングリラじゃなくて、白い風船だったわけだが。
「うん、きっと。前のぼくのつもりで見てたんだと思う」
 ちゃんと飛べたと、地球へ行くんだと。ぼくは行けない青い地球まで。
 あんなに遠くへ飛んでゆくから、きっと着けると思ってたんだよ。
「その地球は此処で、小さかったお前の足の下に地面があったんだがなあ…」
 シャングリラが着いた頃と違って、青い星に戻った地球の地面が。
 そうとも知らずに白い風船を見上げていたのか、地球へ行ってくれ、と。
 お前らしいと言えばそうだが、生まれ変わってまで見送ってたのか、シャングリラを…。



 白い風船のシャングリラか…、とハーレイはテーブルの上で揺れている風船を仰いだ。
 自分が持って来た白い風船。これを買おうと選んだ風船。
 シャングリラの白を選んで良かったと思う。小さなブルーの思い出話が聞けたから。
 幼かったブルーが白いシャングリラをそれと知らずに見送っていたと、思わぬ話が聞けたから。
 その上、好きだった風船の色。何度も失くした白い風船。
 何処までも遠く…、と幼いブルーが願った白い風船が高く昇って、風に運ばれて…。
「それで、そいつが俺の親父の家の庭まで来たってか?」
 お前が失くした白い風船、親父の家に着いたのか?
 夏ミカンの木に絡まってたのは、お前の風船だったと言うのか、確かに白い風船だったが。
「絶対に違うとは言えないよ?」
 ぼくは風船に名前も住所も書かなかったし、誰かが拾ってもぼくの風船かどうかは謎。
 それにハーレイのお父さんの家に届いた風船、誰のか分からなかったんでしょ?
 ぼくのじゃなかったってどうして言えるの、ぼくは生まれていたんだから。
 その頃だったら、白い風船、しょっちゅう失くしていたんだから…。
「うーむ…」
 違うと言い切ることは出来んな、あの風船。
 お前が飛ばしちまった風船が旅して来たかもしれんな、隣町の親父の家までな。



 そうかもしれない、と思うけれども、証拠が無いから。
 遠い日に夏ミカンの木に絡まっていた白い風船、それがブルーの風船だという証拠が無いから。
「お前、やっぱり、手紙をつけときゃよかったな」
 風船を失くしてばかりいたなら、風船を買ったら手紙をつけて。
 そうすりゃ、あちこちに知り合いが出来ていたかもしれん。うんと遠い町に友達だってな。
「ぼくの住所と名前を書くとか?」
 この風船はぼくのです、って分かるようにしておけば手紙が貰えた?
「それじゃ駄目だな、短くっても手紙だな」
 拾った人は手紙を下さい、って、それだけでいいんだ、それと名前と住所とな。
 そんな風船なら、失くした風船じゃないんだと分かる。誰かに手紙を出したんだ、とな。拾った人が風船の手紙を知らなくっても、返事を出したくなるだろう?
 お前はそいつを書くべきだったな、「ぼくに手紙を下さい」と。
 こういう所に住んでいますと、ぼくの名前はブルーといいます、と。



 もしも幼かった日のブルーが手紙を書いていたなら。
 風船を買って貰う度に短い手紙を書いては、糸の端っこに結んでいたならば。
 そうすればもっと早くにブルーと出会えた、という気がした。
 隣町の父の家の庭で見付けた風船。夏ミカンの木に絡み付いていた、小さくなった白い風船。
 あの風船に幼かったブルーが書いた手紙が、名前が、住所がついていたなら、と。
「いいか、お前が手紙を書いてたとして、その風船が親父の家に届いたら…」
 親父は返事を書いただろうなあ、もちろん、おふくろも書いたと思うぞ。
 そしてこの町には俺が住んでるし、手紙をポストに入れるよりかは届けた方がいいだろう?
 親父ならきっとそうしろと言ったな、この手紙を届けに行って来い、と。
 そういうわけでだ、俺が親父の返事をお前に届けに来て、だ…。
「ぼくとハーレイ、友達になるの?」
 手紙をくれたのはハーレイのお父さんたちでも、ぼく、ハーレイと友達になれた?
「そりゃあ、間違いなく友達になれたさ」
 多分、土産も持って来てたな、マーマレードかどうかは分からないがな。
 もっと子供の好きそうな菓子を持って来たかもしれないが…。
 俺が子供に好かれやすいこと、お前なら充分、分かるだろ?
 きっとお前も懐いただろうし、手紙と土産を届けただけでは終わらないってな。



 風船を見付けたと、隣町まで旅をしていたと、幼いブルーの家まで報告に来て。
 父たちからの手紙と土産を渡して、後は肩車でもしてやったろうか?
 それとも四つん這いになって背中に座らせて、馬になって遊んでやっただろうか?
 自分に兄弟はいなかったけれど、幼い子供との遊び方なら幾らでも知っていたのだから。
 ブルーに懐かれるだけの自信はあった。「また来てね」とせがまれるであろうという自信も。
 そうしていたなら、ブルーとはもっと早くに出会えて、何度も一緒に遊んだりも出来て…。
「…惜しいことをしたな、風船の手紙…」
 あれがお前の風船だったら、十年は早く出会えてたのにな?
「だけど聖痕、まだ無いよ?」
 ぼくの記憶は戻らないままで、ハーレイだっておんなじだよ?
 ただの友達で、子供のぼくには「いつも遊んでくれるおじさん」だよ、きっと。
「おじさんって…。そこはお兄さんじゃないのか、おじさんなのか?」
「おじさんだと思うよ、パパとあんまり変わらないんだもの」
 ハーレイおじちゃん、って呼んでいたんじゃないかな、ハーレイのこと。
 お兄ちゃんっていうのは、もっと年下の人のことだよ、ぼくだってうんと小さいんだから。
「おじちゃんなあ…。ついでに記憶も戻ってないなら、そういうことだな」
 俺にとってもお前はチビだし、間違っても恋人なんかじゃないなあ…。
 出会えていたって、そこが問題になるってわけか。お互い、相手が分かってないしな。



 そういう出会いも困ったものだ、とハーレイは苦笑したけれど。
 本当に早く出会えていたなら。
 自分の父と母も含めて家族ぐるみの付き合いだったら、もっと変わっていたろうか?
 ブルーが聖痕現象を起こし、記憶が戻って来た後も。
 今よりももっと距離が近くて、親しく出入り出来ただろうか?
 隣町にある両親の家へもブルーと一緒に何度も出掛けて、まるで昔からの親戚のように。
(…そうなっていたら、ブルーもとっくに夏ミカンの木に会えてただろうに…)
 今はまだ会わせてはいない、両親ともとうに顔馴染みで。
 記憶が戻っても、それまでと変わらず、あの家に自由に出入りをして。
 いつか大きく育った時には、本物の新しい家族になる。両親の新しい子供となって。



(…風船の手紙、ホントについてりゃよかったなあ…)
 こういう白い風船だった、とテーブルの上の風船を見ながら遠い日の風船を思い出す。
 空の旅に疲れて舞い降りた風船、夏ミカンの木に降りた風船。
 父が夏ミカンの実にかけた袋かと見間違えたほどに、萎んでしまった白い風船。
 その頃、ブルーは幾つも風船を失くしてしまっていたというから。
 白い風船が大好きだったと、よく失くしたとも聞かされたから。
(あの風船は…)
 幼いブルーが飛ばした風船。
 遠くまで飛べと、何処までも飛べと見送っていたという白い風船。
 あれがそうだったのだ、とハーレイは思う。
 きっとそうだと、あの風船はブルーよりも先に隣町の家に着いたのだ、と。
 いつか、あの家にブルーを連れて行ったなら。
 指差してやろう、あそこだったと。
 あそこにお前の風船があったと、お前よりも先に着いていたぞ、と…。




             思い出の風船・了

※幼かった頃のブルーが好きだった、白い風船。記憶は無くても、きっとシャングリラの姿。
 ブルーが失くしてしまった風船、隣町まで行ったようです。ブルーよりも先に。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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