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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

魔法の箒

「ママ、どこ?」
 学校から帰ったものの、見当たらない母。
 玄関を入って「ただいま!」と叫んで、部屋へ着替えに行ったのだけれど。
 思い返せば「おかえりなさい」の声を聞かなかった。洗面所で手を洗ってウガイをする間にも。
(…二階にはいなかったと思うんだけど…)
 部屋に居た時、そういう気配はしなかったから。第一、階段を上って行ったら足音がするから、母の方から出て来るだろう。「おかえりなさい」と。
 その母がいない。ダイニングにも、リビングにも、キッチンにも。
 何処だろうか、とブルーは探し回ったけれど。客間まで覗いてみたのだけれども、いない母。
 何処にも姿が見えない母。
(でも、玄関の鍵は開いてたし…)
 いつも通りに開いた扉。持たされている鍵の出番は無かった。鍵がかかっていなかったのだし、母は出掛けてはいない筈。この家にいる筈なのだけれど…。



 何処、と懸命に探していたら。
 念のためにと二階も探して、やっぱりいない、と戻って来たら。
「あら、帰ってたの?」
 気付かなかったわ、と声がした。「ママはお庭よ」と。
「ママ!?」
 庭は盲点だったから。まるで探していなかったから。
 失敗だった、とダイニングの掃き出し窓から外の母へと手を振った。「ただいま」と、「ぼくは帰っているよ」と。
「ごめんなさいね。すぐにおやつの用意をするわ」
 今行くわね、と母が手にして横切った箒。庭を掃くための大きな箒。
(お掃除…)
 後で続きをするのだろうか、と思ったけれども、母は箒を仕舞ったらしい。芝刈り機や箒、庭の手入れのための道具が入れてある方へ行ったから。続きをするなら、箒は置いておくだろうから。



 お待たせ、とダイニングに入って来た母。
 飲み物は何にするの、と訊いてケーキも切って来てくれた。ブルーの分と、自分の分と。
 母も一緒のティータイム。熱い紅茶を淹れて貰って。
「ママ、箒って…。庭のお掃除?」
 掃除してたの、もしかして、ずっと?
「まさか。ほんの少しよ、一時間もやってはいないわよ」
 落ち葉の季節にはまだ早いもの。少しだけね。
 そういえばブルーは好きだったわね、と言われたから。
「…庭掃除?」
 ぼく、庭掃除が好きだったの?
 ママのお手伝い、たまにしかやっていなかったように思うけど…。
「違うわ、箒よ。ブルーは箒が好きだったでしょ」
「箒?」
 何故、とブルーは目を丸くした。
 まるで記憶に無い箒。好きだったと聞いても思い出せない、箒なるもの。
 幼かった頃には、自分専用のスコップやバケツを貰って遊んでいたけれど。子供サイズのものを手にして庭を掘ったりしていたけれど。
(箒って…)
 それは全く覚えが無かった。
 子供用の遊び道具の類に、箒なんかもあったのだろうか?
 小さな身体に見合ったサイズの箒を手にして遊んだろうか?
 庭掃除をする母の隣で自分も箒で掃いたのだろうか、子供用のでは役に立ちそうもないけれど。いくら落ち葉を集めたくても、沢山掃けそうにないのだけれど…。



 どうにも思い出せないから。
 箒の記憶が抜け落ちてしまって、好きだったことさえ欠片も残っていないから。
 幼い自分は箒で何をしていたのかと気になって母に尋ねてみた。
「…なんで箒?」
 ぼくって、どうして箒なんかが好きだったの?
 庭掃除、してた? 子供用の小さな箒を持ってたの、ぼくは?
「あらまあ…。ブルーは忘れちゃったの、あんなに箒が好きだったのに?」
 引っ張り出しては遊んでいたでしょ、子供用じゃなくて普通の箒。ママがさっき持っていたのと同じ箒よ、ああいう箒。
「大きい箒? 子供用じゃなくて?」
 あんなの、ぼくには大きすぎだよ、あれでどうやって遊んでたわけ?
「本当に忘れちゃったのねえ…。ブルーのお気に入りだったのに」
 飛ぶんだって言っていたでしょう、とクスクス可笑しそうな母。
 タイプ・ブルーだからきっと飛べると、これで飛べると頑張っていたと。
 幼稚園から家に戻ったら、早速、箒を引っ張り出して。休日も庭に出たなら、箒。
「飛ぶって…。箒で?」
「そうよ、箒で」
 飛んでやるんだって張り切ってたわよ、忘れちゃった?
 あの頃のブルーは箒を持っては、空を飛ぶんだと頑張ってたのに。



 魔法使いは箒で空を飛ぶものね、と言われた途端に思い出した。
 忘れ去っていた箒の記憶。大きな箒と幼かった自分。
 毎日のようにやっていたことを。
 幼稚園の頃、よく晴れた日には箒を手にして空を目指していたことを。
「…ホントだ、箒…」
 忘れちゃってた、箒のこと。いつも箒を持っていたっけ…。
「飛んでいたでしょ?」
 大きな箒で飛んでいたでしょ、庭の芝生で一所懸命。
「あれは引き摺っていたんだよ!」
 とても飛んだとは言えない自分。幼かった自分。
 芝生から離陸できなかったから。空へと飛び立てなかったから。
 箒に跨って跳ねていただけ。小さな足でも飛べる高さでピョンピョン飛ぶのが精一杯で。
 空を飛ぶどころか箒を引き摺り、芝生をあちこち跳ね回っていた。いつか飛べると、この箒さえあれば空を飛べると、何度も何度も、飽きることなく。
「とうとう飛べないままだったわねえ…」
 ほんの少しも浮き上がれないで、最後まで箒を引き摺ってたわね。可愛かったけれど。
「言わないでよ!」
 情けなくなるから、と思い出に蓋をしようとしたら。
「そうねえ、箒を使っても空を飛べないソルジャー・ブルーだったわねえ?」
 ソルジャー・ブルーなら飛べる筈なのに、箒があっても駄目だったわねえ…。
「ママ…!」
 前のぼくのことは言いっこなしだよ、今のぼくはサイオン、上手に使えないんだから!
 中身はソルジャー・ブルーだけれども、箒があっても飛べないんだよ…!



 笑い続けている母に「御馳走様」と御礼を言って、部屋に戻って。
 勉強机の前に座って、フウと大きな溜息をついた。
(ぼくって、ソルジャー・ブルーごっこは…)
 やっていないと思っていた。信じていた。
 下の学校の頃に流行った空を飛ぶ遊び。大英雄のソルジャー・ブルーを気取って飛ぶ遊び。
 タイプ・ブルーではない子供たちも飛ぼうとして怪我をしたものだ。二階の窓から飛ぼうとした子や、高い木の上から飛んだ子供や。
 何処の学校でも「やめておきましょう」と注意するというソルジャー・ブルーごっこ。それでも人気で必ず流行って、どの学年にも怪我をした子の一人や二人はいて当たり前。
 ブルーの友人にも何人もいた。ソルジャー・ブルーを真似て飛んだ子も、怪我を負った子も。
(やろうと思わなかったんだけど…)
 どうせ怪我をするに決まっているから、誘われたって断っていた。「ぼくには無理!」と。
 タイプ・ブルーだから出来る筈だと羨望の眼差しで見られた時にも「やらないよ!」と。
 確かにやってはいなかったけれど。
 いわゆるソルジャー・ブルーごっこは、一度もしないで終わったけれど。



(もっと前に…)
 ソルジャー・ブルーごっこを始める年頃よりも早く、自分は空を目指していた。
 まだ幼い頃、ソルジャー・ブルーがどういう人かもまるで知らなかった幼稚園の頃。
 それも箒で。
 飛べると信じて、庭掃除に使う大きな箒に夢を託して。
(タイプ・ブルーは空を飛べるって…)
 父が話してくれたのだったか、それとも母か。自分の秘められた能力を知った。空を飛べると。
 けれども、肝心の飛び方については聞かなかったから。
(箒で飛ぶんだ、って思ったんだっけ…)
 幼稚園で絵本を読んだか、それとも子供向けの映画でも見せて貰ったのか。
 魔法使いは箒に跨って空を飛ぶのだと知っていたから、箒が必要なのだと信じた。空を飛ぶには箒が欠かせず、それが運んでくれるのだと。
 だから跨っていた箒。これで飛ぼうと庭の芝生で引き摺って跳ねて回った箒。
(あれでいいんだと思ってたんだよ)
 いつか箒で空を飛べると、空に向かって舞い上がれると。
 幼い子供の勘違い。小さかった自分の可愛い間違い。
 両親は訂正してくれなかった。箒を使っても飛べはしないと誤りを正しはしなかった。
 危なくないからいいと思っていたのだろう。
 箒で空を飛べはしないし、飛び跳ねた挙句に庭で転んでも、芝生が受け止めてくれるから。



(箒で離陸…)
 それは無理だと今なら分かる。
 箒は魔法使いの道具で、サイオンを補助する力などは無い。空を飛ぶ手伝いをしてはくれない。
 魔法の力を持たない箒は、空を飛ぶなら単なる飾り。演出のための小道具の一種。これを使って飛んでいます、と魔法使いを気取るための道具。
 つまりは持った箒の重さの分だけ、余計な力が必要になる。箒を空に浮かべる力が。
 そういったことも、今の自分なら分かるのだけれど。
 ソルジャー・ブルーだった頃の記憶が戻って来たから、頭では理解出来るのだけども。
(でも、飛べないし…!)
 箒を手にして舞い上がろうにも、そもそも飛べない。今の自分は全く飛べない。少しだけ身体を浮かせることなら出来るけれども、その力さえも頼りないもの。意のままに扱えないサイオン。
 それとも箒に跨ったならば、感覚が戻るというのだろうか?
 魔法使いが飛ぶという箒、それに跨ってみたならば。
 かつてはこうして空を飛んだと、自由自在に飛んでいた頃の感覚が戻ってくるだとか…。



 箒に頼って飛べるものなら、と一瞬、考えたのだけど。
(有り得ないし!)
 魔法で浮き上がる箒ならともかく、ただの箒では何も起こらない。起こりそうにない。幼かった自分がやっていたように、ピョンピョンと足で跳ねるだけ。自分の足を使って飛び上がるだけ。
(空を飛んでた頃の感覚…)
 今の学校でのプールの授業。一番最初にそれがあった時、少し思い出した。水の浮力で。飛んでいた頃の感覚を頼りに、水面に身体を浮かべて遊べた。去年までは出来なかったのに。
 それにハーレイも、プールで感覚を取り戻すといいと言っていた。
 ソルジャー・ブルーはどうやって飛んだか、空を飛ぶにはどうするのかを。
 けれど、感覚が戻っても。
 こうだったのだ、と空を飛んでいた時の力加減などが戻って来ても。
(きっと飛べない…)
 サイオンの扱いが不器用だから。
 戻った感覚とサイオンの使い方とが噛み合ってくれず、空へ飛び立てはしないだろう。青い空に向かって舞い上がることなど出来ないだろう。
(だけど…)
 もしも飛べるようになったなら。
 前の自分がそうだったように、軽々と空を飛んでゆけるようになったなら。
 箒でも空を飛んでみようか?
 魔法使いよろしく箒に跨り、ふわりと空へ。箒に乗っかって、スイスイと空を。
 そんな姿を披露したなら、ハーレイは喜んでくれるだろうか?
 魔法使いを見ているようだと、箒に跨って飛ぶのもいいな、と。



(ハーレイ、箒でも喜ぶかな?)
 飛ぶ姿を見たいと言ったハーレイ。さぞかし美しいのだろう、と。
 今の自分は飛べないのだ、と打ち明けたけれど、約束もした。ハーレイと見上げた天使の梯子。雲間から射す光で出来ている天使の梯子。いつの日か、それを昇ってみせると。
(天使の梯子を昇るのもいいけど、箒だって…)
 魔法使いのようで素敵だとハーレイは思ってくれるだろうか?
 つらつらと箒で空を飛ぶことを考えていたら、チャイムの音が鳴ったから。チャイムを鳴らして仕事帰りのハーレイが寄ってくれたから…。



 お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合いながら、訊いてみた。
「ねえ、ハーレイ。箒は好き?」
「はあ?」
 俺の好みが何だって?
「箒だよ! ハーレイ、箒は好きなのかなあ、って…」
「俺に今すぐ帰れってか?」
 来たばかりなんだが、さっさと帰った方がいいのか? 晩飯の支度が出来ちまう前に。
「なんでそうなるの?」
 箒は好きかって訊いただけだよ、どうしたら帰る話になるの?
「知らないのか、お前。…箒ってヤツのおまじない」
 お前のクラスではしてないかもなあ、この雑談。SD体制が始まるよりも前の時代の話だが…。
 いいか、この辺りに日本って島国が在った頃。其処じゃ箒を使ったおまじないがあったんだ。
 来た客がなかなか帰らない時や、早く帰って欲しい時。
 そういう時には箒を逆さに立てておくのさ、「早く帰れ」と逆様にな。
 俺は客ではないかもしれんが、箒を逆さに立てておきたい気分なのかと訊いたわけで…。
「そうじゃないから!」
 箒を逆さに立てようだなんて、ハーレイが来た時に考えたりはしないから!
 帰りがゆっくりになるおまじないなら、やってみたいけど…。
 箒を普通に立てておいたら、お客さんが長居をしてくれるのなら直ぐに箒を持って来るけど…!



 箒を逆さに立てるつもりは全く無い、と帰るふりをするハーレイを懸命に止めて。
 実は箒で飛ぼうとしていたのだ、と白状した。
 幼かった自分がそれをやったと、箒に跨って飛ぼうとしたと。
「…ぼくは忘れていたんだけれど…」
 ママが覚えていたんだよ。箒で飛ぼうとしていたでしょ、って。
 幼稚園の頃に頑張ってたんだ、タイプ・ブルーは飛べるって聞いて、箒で飛ぶんだと思っていたから…。魔法使いは箒で飛ぶしね?
 だから箒を引っ張り出しては、跨って庭で飛んでたんだよ、ピョンピョンって。
「そりゃ可愛いな」
 飛んでるお前を見てみたかったな、箒に跨ったチビのお前を。
「やっぱり?」
 空はちっとも飛べてなくても、ハーレイ、ぼくを見てみたかった?
「もちろんだ。そんなに小さな頃のお前が努力して空を目指してるんだろ?」
 その頃のお前に会いたかったな、箒で飛んでるお前にな。
 ジョギングの途中で通り掛かったなら、「頑張れよ」と手を振って声を掛けたさ、間違いなく。
 「飛べるといいな」と、小さな魔法使いにな。



 惜しいことをしたな、とハーレイが言うから。
 この辺りもジョギングするべきだった、と残念そうにしているから。
「今のぼくが飛ぶなら、どっちがいい?」
 ハーレイは箒の方が好きなの?
 箒の話がズレちゃったけども、箒は好きか、って訊いたでしょ?
「どういう意味だ?」
 俺が箒を好きかどうかが、何処に関係してくるんだ?
 箒で庭を掃くのも好きだが、箒が好きかと言われると…。どうなんだかなあ、箒で掃いてる時の気分が好きなのかもな。綺麗になったと、もっと掃くかと、ついつい頑張っちまうんだ。
「えーっと、箒そのものの話じゃなくて…。空を飛ぶなら、って意味なんだよ」
 ぼくは全く飛べないけれども、もし、飛べるようになったなら。
 何も持たずに飛ぶ方がいいか、箒に跨って飛ぶのがいいか。
 ハーレイはどっちのぼくが見たいの、箒つきのぼくか、箒無しのぼくか。
 飛べるようになったら出来る筈なんだよ、箒に跨って飛ぶ方だって。
 ハーレイ、どっちを見てみたい…?



 魔法使いのような姿が見たいか、ただ飛ぶだけで満足なのか。
 どちらがハーレイの好みだろうか、とブルーは答えを待ったのだけれど。
「…飛ばなくていい」
 ハーレイの言葉は意外すぎるもので、ブルーはキョトンと赤い瞳を見開いた。
「なんで?」
 飛ばなくていいって、どうして、ハーレイ?
 箒で飛ぶのは好きじゃない、って言うんだったら分かるけど…。普通に飛ぶのも要らないの?
 まだ飛べないけど、いつか飛ぼうと思っているのに…。
「お前、一生分、飛んじまったろうが。だからお前は飛ばなくていい」
 メギドだ、とハーレイの眉間に刻まれた皺。普段よりも深くなった皺。
 あの時に一生分を飛ばれてしまった、と辛そうに歪んだハーレイの顔。まるであの日に魂だけが戻ったように。あの日のブリッジに居るかのように。
 前のブルーは命が尽きるまで飛んで行ったと、飛んで行って帰って来なかったと。
 だから飛ぶなと、箒だろうが、その身一つであろうが、もう飛ぶなと。



「でも、ハーレイ…」
 前に言ったじゃない、ぼくが飛ぶのを見たい、って…。
 飛んでいた時の感覚を思い出すまで、飛べるようになるまで、プールで教えてくれるって…。
 プールだったら教えてやれるって、水の中で飛んでみればいい、って…!
「そうは言ったが、だ」
 お前がカンを取り戻したいなら、プールがいいとは言ってやったが…。
 付き合ってやるとも言いはしたがだ、出来れば飛んで欲しくない。
 俺はメギドで懲りたんだ。お前が飛べたらどうなっちまうか、あの時に思い知らされたんだ…。
 もしもお前が飛べなかったら、メギドまで行きはしなかったろうが?
「…そうだけど…。でも、前のぼくは…」
 飛べたからこそソルジャーだったし、メギドを沈めることだって出来た。
 前のぼくに飛ぶだけの力が無かったとしたら、シャングリラは出来ていなかったんだよ?
 アルタミラから脱出したって、船に載ってた食料が尽きたらそれでおしまい。
 みんな揃って飢え死にするしか道は無くって、そうなっていたらメギドどころか…。
 ハーレイと恋人同士になる暇も無くて、ただの友達のままでおしまい。
 ぼくもハーレイも二人揃って飢え死にしちゃって、今の地球にも来られていないよ。
 一生分を飛んでしまった、ってハーレイは言うけど、前のぼくの命。
 メギドで使うために延びてたんだと思うよ、あのナスカまで。
 神様がそこまで延ばしてたんだよ、この命は本当に必要な所で使いなさい、って。
「それはそうかもしれないが…」
 否定はしないし、お前が言うのが多分、正しいことなんだろう。
 それでも俺は今でも辛い。前のお前を失くしちまった、あの日のことを思い出すとな…。



 だから飛ぶな、とハーレイはまた繰り返した。
 今のブルーが元々自由に飛べていたなら、空を飛ぶ姿を見たいけれども。
 努力してまで飛んで欲しくないと、出来ないことは出来ないままでいいのだと。
「…お前が箒に乗って飛ぶのも、見たくないとは言わないんだがな…」
 前のお前はそんな技を見せちゃくれなかったし、遊びで飛んではいなかった。
 子供たちの前で飛んでは見せたが、あれを遊びと呼んでいいかどうか…。
 お前は遊んでいるつもりでもな、養育部門の連中からすりゃ、それも仕事の内なんだ。子守りの仕事を代わりにやってくれている、と思って眺めていたんだろうさ。
 お前自身が心の底から楽しむためだけに飛んでいたこと、実は一度も無いんじゃないか?
「…そう言われちゃうと、ぼくも自信が無くなっちゃうかも…」
 飛びたいな、って思い付いて勝手に飛んでったことは無いかもしれない…。
 フィシスを攫ってくるよりも前は、フィシスに会いに空を何度も飛んでったけれど…。行き先も言わずに飛び出したけれど、あれは楽しみとは違うよね…。
「うむ。お前はフィシスに会おうと思って飛んで行ったわけで、遊びではないな」
 目的があって飛んでいたなら、そいつは遊びに入らんだろう。
 飛んで出掛ける方が楽しいから、と送り迎えを断ったわけじゃないんだからな。



 ハーレイに改めて指摘されると、楽しみのために飛んだことは一度も無いかもしれない。
 飛ぶこと自体が楽しくてたまらずに飛び出したならば、様々な飛び方をしたことだろう。障害物など何も無くても、高く昇ったり、急降下したり。
 急旋回などもしたかもしれない、宙返りしながら飛ぶことだって。さながら曲芸飛行のように。
(そんなぼくだったら、箒だって…)
 思い付いたら跨っただろう。
 子供たちに見せてやるためではなくて、自分のために。
 箒に跨って空を飛べると、まるで魔法使いになったようだと、雲海の上を飛んだのだろう。箒の魔法で何処へ行こうかと、何処まで空を駆けようかと。
(だけど一度も…)
 魔法使いが出て来る本は白いシャングリラで読んだけれども、箒で飛ぼうと思わなかった。思い付きさえしなかった。
 飛ぶことは遊びではなかったから。
 いつでも何らかの目的があって、そのために空を飛んでいたから…。



「そうか、箒…。前のぼくなら出来たんだ…」
 飛べたんだよ、魔法の箒で空を。それなのに思い付かなかったよ、そうすることを。
 きっと子供たちだって大喜びして、見てくれたんだろうと思うけど…。
「そこで出て来てしまうんだよなあ、子供たちに、っていう台詞がな」
 前のお前を引き摺ってるのさ、こうしてやったらどうなったろう、と。
 箒で飛ぼうって発想は今のお前のヤツだが、前のお前の力なら出来たと思えばそうなっちまう。
 今度のお前は誰のためでもなく、自分のためにだけ生きればいいっていうのにな?
 その調子だから、一生分を飛んじまったと言うんだ、俺は。
 生まれ変わってもまだ、前のお前を引き摺っちまって生きてるだろう?
 右手が冷えれば辛くなるんだし、メギドの悪夢だって見る。全く別の人生なのにな…。
 そういったことを全部忘れて、幸せだけを追い続けられるようになったなら。
 お前が飛びたいと言い出したとしても、俺はもう止めはしないがな。



 その時に飛びたくなったのであれば、それは純粋な楽しみだから、とハーレイは言った。
 タイプ・ブルーに生まれたからには飛んでみたいと思うのならば、と。
「身一つだろうが、箒だろうが、その時は好きに飛んでくれ」
 俺も楽しんで見物するから、好きなだけ技を披露しろ。
 空を飛んでもかまわん場所まで、俺が車で連れてってやるから自由にな。
「じゃあ、プールで飛ぶコツを教わる方は…?」
 それもメギドの夢とかを見ている間は駄目なの、ハーレイ、教えてくれないの?
 プールの中なら、空を飛ぶ感覚、取り戻せるだろうって言ってくれたのに…。
「ん? そいつは約束してあるんだから、連れてってやるがな」
 俺の得意な水の世界だ、プールくらいは連れてってやるし、あれこれ教えてやってもいいが…。
 あくまで遊びに行くだけだ、と微笑まれた。
 特訓をしに出掛けるわけではなくて、水と戯れに出掛けてゆく。長い時間はプールに浸かれないブルーに「そろそろ上がれよ」と注意しながらの水遊び。
 そうやってプールに通う間に、飛ぶコツを思い出したなら。
 飛んでみたいと思い始めて、自分のためだけに飛ぼうと言うなら、その時は好きにしていいと。
「…それだけなの?」
 特訓は無いの、ぼくがもう一度飛ぶための。ハーレイは飛ばせてくれないの…?
「ああ。言ったろう、自分のためだけに飛べと」
 それ以外では、もう飛ぶな。
 お前が心の底から飛びたくなったら、飛んで遊びたくなったなら。
 感覚だって戻るかもしれんし、箒でだって飛べるだろうさ。
 …だがな、お前は飛ばなくていい。飛べないお前で充分なんだ。



 飛ぼうとしたなら、前のお前の辛さや悲しみに囚われるから、と諭された。
 それらを忘れてしまえないなら、空は飛べない方がいいと。
「なにしろ一生分を飛んじまったお前だ、今度は飛べなくて当たり前だ」
 もう一生分、飛んでしまった後だしな?
 前のお前が今のお前の一生分を、メギドまで飛んで使っちまった。
 だからだ、お前が飛べるようになる日は当分来ないさ、いくらプールで練習してもな。
 飛べる日が来るなら、前のお前の悲しみや辛さがすっかり癒えた頃だろう。右手が冷たくなってしまっても、「今日は寒いね」と息を吹きかけて自分で温められるくらいに。
 俺の手で温めてやらなくっても、温もりを自分で作れるくらいに。
 そういう風に幸せに過ごせる時が来たなら、お前だって飛べるかもしれない。箒だろうが、何も持たずに身一つだろうが、それは楽しそうに飛べるってな。
「…そうなのかな?」
 ぼくが飛べる日、ちゃんと来るかな?
 来てくれたら箒で飛んでみたいな、小さかった頃の夢だから。箒で飛べると思ってたから…。
「さてなあ、それは俺にも分からんが…」
 一生、飛べないままかもしれんし、なんとも分からん。
 お前のサイオンが不器用な限り、空は飛べないままかもしれんが…。
 飛べないお前が俺は好きだな。俺が守ってやるしかないんだ、不器用で飛べないお前はな。
「…じゃあ、ぼくは一生、飛べないまま?」
「その方が俺はいいんだがなあ…」
 守り甲斐があるだろ、前と違って。俺の方が文字通り、力がずっと上なんだしな…?



 飛びたいのならば庭で箒に跨っておけ、とハーレイが片目を瞑るから。
 結婚した後に「飛んでみたい」と口にしたなら、箒を渡されてしまうのだろうか。
 飛ぶための感覚を取り戻すためのプール通いの代わりに、箒。
 「お前はこれで飛べると思っていたんだろう?」と幼い頃の話を持ち出されて。
 それでもきっと嬉しいと思う。
 プールに連れて行って貰う代わりに、「ほら」と箒を渡されても。
(だって、ハーレイの家にいるんだものね?)
 幼い日の自分が跳ねていたのとは別の庭。ハーレイの家をぐるりと囲んだ庭。
 箒だって、ハーレイの家にある箒。庭を掃くのに使う箒で、ハーレイの家のためにある箒。
 それに跨り、「見てよ」と「箒で飛んでみせるよ」と庭で跳ねて見せて。
(きっとハーレイ、とびきりの笑顔になるんだよ)
 そうして「うむ、上手いもんだ」と褒めてくれるのだろう。箒に跨ってはしゃぐ姿を。
 箒で飛べたと、飛んでいるのだと跳ねて回れば。
 たとえ一生飛べないままでも、箒に跨って浮き上がることさえ出来なくても。
 ハーレイと二人で暮らす家の庭なら、其処で箒で遊べるのならば…。
(うん、最高に幸せだって!)
 飛び立てなくても、箒で離陸は出来なくても。
 きっと幸せに違いない。
 鳶色の瞳に見守られながら、芝生の上。箒に跨って跳ねるだけでも、心は空高く飛ぶのだろう。
 それは軽やかに、何処までも高く。
 ハーレイと一緒に地球に居るよと、青い地球の上で箒に跨って飛んでるんだよ、と…。




            魔法の箒・了

※幼かった日に、箒で飛ぼうとしていたブルー。飛べる力は持っていないのに。
 前の生では、自分のためには一度も飛んではいなかった模様。今度は箒で充分なのかも。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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