シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「あっ…!」
おやつの時間の後、手を滑らせてしまったコップ。
学校から帰ってケーキと一緒に冷たいミルクを飲んでいたコップ。今日は暖かかったから。外を歩けばポカポカ陽気で、制服の上着を着込んでいたら暑いくらいの日だったから。
熱い紅茶よりもミルクがいいと思った。シロエ風のホットミルクではなくて、冷たいミルク。
だから自分で冷蔵庫から出してコップに注いだ。大きな瓶からコップに一杯。
幸せの四つ葉のクローバーが描かれた瓶から、自分にちょうどいい量を。
これで背丈も伸びるといいな、とケーキを食べながら飲んでいたミルク。毎朝必ず飲むミルク。おやつにも飲めば一日に二杯、きっと背丈を伸ばしてくれるに違いない、と考えた。
なのに…。
床でガシャンとコップが割れた。
キッチンの母の所へ返しに行こうと持っていた手からツルリと滑って。
飛び散ったガラス、ミルクの残りも散らばったろう。残りと言っても雫だけれど。一滴か二滴、コップの底に貼りついて残った分だけれども。
(割っちゃった…)
呆然と立ち尽くしていたら、音が聞こえたのか駆けて来た母。「どうしたの?」と。
「ママ、ごめんなさい…」
割っちゃった、と謝った。割ってしまってごめんなさい、と。
「いいのよ、それより怪我はなかった?」
「平気…」
「だったら心配しなくていいわ。コップくらいは大したことないの」
お客様用のコップじゃないし、と手際よく掃除を始めた母。「動かないで」と指図をして。
砕けたガラスを踏んでしまったら怪我をするから、そこから動かないように、と。
そう言われたから、手伝うことも出来ないから。
ケーキ用だった空のお皿を手にして、見ていただけ。床を掃除する母を眺めていただけ。自分がやったことだというのに、迷惑を掛けてしまった母。自分では片付けられない状況。
母は割れたコップの欠片を拾い集めて、専用の厚いシートで包んだ。床も拭いて、仕上げに軽く手でサッと撫でてみて。
「はい、もう歩いても大丈夫よ」
すっかり綺麗になったから。ガラスの欠片が落ちてはいないわ。
「ごめんね、ママ…」
コップ、割っちゃって。お片付けだって、手伝えなくて…。
「いいのよ、ブルーには無理だものね」
落っことしたコップを割れてしまう前に止められないでしょ、ブルーの力じゃ。
お掃除だって、まだ無理よ。手を切っちゃったら、もっと大変。サイオンで手を守れないから。
「うん…」
ごめんなさい、とブルーはもう一度謝った。
サイオンで拾えないコップ。落下を止められないコップ。
落とせばおしまい、今日のように床で砕けてしまう。相手はガラスなのだから。
片付けてくれた母に御礼を言って、部屋に帰って。
勉強机の前に座って大きな溜息をついた。
(失敗しちゃった…)
コップを割ってしまうだなんて。
せっかく美味しくおやつを食べて、今日は二杯目になるミルクもきちんと飲み干したのに。
背丈が伸びてくれるといいな、と冷たいミルクで喉を潤していたというのに。
四つ葉のクローバーの幸せまでが粉々な気分。
幸せの四つ葉のマークが描かれた牛乳の瓶を割ったわけではないけれど。ミルクも無駄にしてはいないけれども、沈んだ気持ち。幸せが砕けてしまったような気がする、コップと一緒に。
前の自分なら、コップは割れなかったのに。
ガッカリした気分にだってならない、今の自分みたいな気持ちには、けして。
(だって、割ったりしないんだもの…)
コップを落としはしないから。
落とすことは何度もあったけれども、落としても拾ってしまうから。
床でガシャンと砕け散る前に、床と接触する前に。
(前のぼくは、こんな惨めな気持ち…)
きっと知らないに違いない、と思ったけれど。
それは一瞬、直ぐに気付いた。
前の自分が持っていた記憶。膨大な記憶の中に幾つも、無数に散らばる悲惨な記憶。惨めとしか形容出来ない記憶。
アルタミラで檻に入れられていた頃、毎日が惨めなものだった。餌と水しか与えられずに、檻の中だけで暮らしていた。檻の外へと出された時には、実験という名の生き地獄。
人間としては扱われなくて、ただの動物、実験動物。あの日々の記憶に比べれば…。
(コップくらい…)
きっと大したことではないのだ、と自分自身を慰めた途端。
フイと頭を掠めた記憶。通り過ぎて行った、遠い遠い記憶の中の一コマ。
(割った…?)
透き通ったガラスのコップか、グラスか。
それが粉々に砕けた記憶。割れて飛び散ったという記憶。
前の自分が、どうやら割った。コップか、グラスか、そういったものを。
そして…。
(楽しかったわけ?)
やたらとはしゃいでいた記憶。弾んだ心が、楽しげな気分が蘇ってくる。
割れたと、割れてしまったと。
粉々に割れて木端微塵だと、見事に割れてしまったと。
(なんで…?)
何故、楽しいのか分からない。楽しかったのかが思い出せない。
今の自分はコップを割ったと気分がすっかり沈んでいたのに、同じことをしても逆の気分らしい前の自分が理解出来ない。謎でしかない。
(何か変だよ?)
何処か変だと、奇妙すぎると不思議でたまらなくなる記憶。前の自分が持っていた記憶。
どういう仕掛けがあるのだろうか、と懸命に遠い記憶を手繰れば、片付けをしているハーレイの姿。割れてしまったコップかグラスか、砕けた欠片を拾い集めているハーレイ。
それを見てケラケラ笑っていた。前の自分が笑い転げていた。
割れたと、跡形もなく割れて砕けてしまったと。
(…どうしてあれが楽しいわけ?)
不名誉な記憶の筈なのに。
今の自分と全く違って、コップなど割りはしなかった自分。最強のサイオンを持っていた自分。
落としてしまった皿やコップは端からサイオンで拾っていた。割れてしまう前に。床に当たって砕ける前に。
そんな自分が失敗したなら、コップかグラスを割ったのならば。
今の自分が味わった以上に惨めな気分になるのだろうに。
「ぼくとしたことが…」と頭を抱えて悩んだとしても、少しもおかしくないというのに。
上手く拾えずに割ってしまったなら、それはサイオンを意のままに操れなかったから。
今なら不器用でも許されるけれど、何の不自由もありはしないけれど、前の自分は違っていた。病に倒れた時であっても、サイオンは研ぎ澄ませておかねばならなかった。
白いシャングリラを守るソルジャーだったから。ソルジャー・ブルーだったから。
僅かなミスさえ許されない筈で、何より自分が許さない筈。失敗するなど。
コップを割ったら楽しいどころか、きっと慌てて猛特訓を始めたことだろう。鈍ったサイオンを元に戻すべく、懸命に。
それなのに自分は笑っているから。記憶の中の前の自分は楽しげだから。
(記憶違い…?)
それとも、あれは夢だったろうか?
前の自分が夢の中で出会ったものだったろうか、あの光景は?
あまりに愉快な夢だったから、と忘れずに覚えていたのだろうか…?
どういう記憶なのだろう、と何度も首を捻っている内に、チャイムの音がして。
仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで座ったから。
「ハーレイ、今日ね…」
コップを割った、と報告をした。手を滑らせて割ってしまったのだ、と。
案の定、笑い出したハーレイ。お前らしいと、前のお前なら有り得ないな、と。
「前のお前なら一瞬で拾うぞ、そういうのはな。床に落ちる前に」
俺が厨房に立ってた頃にもそうだったろうが、皿洗いを手伝ってくれた時とか。お前ときたら、手伝いはするが落とすんだ。サイオンでヒョイと拾っちまって、一枚も割りはしなかったがな。
「そうだよね…」
前のぼくなら割らなかったよね、コップもお皿も。もちろん、今日のコップだって。
「うむ、割らん。そいつは俺が保証する」
間違いない、とハーレイが太鼓判を押したから。
「それじゃ、やっぱり、記憶違い…」
「はあ?」
なんだ、と怪訝そうな顔のハーレイ。それはそうだろう、今の話では通じはしない。
前の自分の記憶の話も、それが何だか分からないことも。
だから説明することにした。謎の記憶を、夢かどうかも掴めないままのコップの記憶を。
「あのね、ハーレイ…。前のぼくの記憶なんだけど…」
コップを割っちゃった後で落ち込んでいたら、ひょっこり思い出したんだけど。
割って直ぐには出なかったけれど、コップが割れた、って楽しい記憶があるんだよ。
コップじゃなくって、グラスかな?
とにかく割ってしまった記憶で、それなのにちっとも困ってなくて…。
「ほう…?」
そいつは実に興味深いな、前のお前が割ったってか?
有り得ないっていう気がするなあ、前のお前は割らないだろうが。コップもグラスも。
「だよねえ? だからぼくにも不思議なんだよ、その記憶」
おまけに、それが割れちゃった後。ハーレイが床で片付けをしてて、ぼくは笑って見てるんだ。
「ごめんなさい」って謝りもせずに、何もかもがとても楽しくて…。
あれはやっぱり夢なのかな?
前のぼくが見た夢の一つなのかな、特別だから覚えていたのかな…?
実際には起こりもしない夢を見たから、前のハーレイにも話して聞かせていたのかも…。
こんな夢を見たよ、って、ハーレイが割れたコップを片付けてたよ、って。
そういう話を覚えていない?
前のぼくが話した、変な夢の話。
「いや、そいつは…。俺も覚えちゃいるんだが…。たった今、思い出したんだが…」
お前には夢で俺には違うな、と妙な答えが返って来た。笑みを浮かべたハーレイから。
「えっ?」
それってどういう意味なの、ハーレイ? ぼくの寝言で聞いたとか…?
「いや、そうじゃなくて…。一応、そいつは現実なんだ」
「一応って…。ぼくにとっては夢なんでしょ?」
それがどうして現実になるの、ハーレイ、ぼくが見ている夢を覗いた?
おかしな寝言を言ってるから、って覗き込んだの、ぼくの夢の中を?
「…やって出来ないこともないがだ、俺はそこまで悪趣味じゃないぞ。お前の夢を覗くなんてな」
「でも、夢だって…」
「お前、その場所、思い出せるか?」
コップだかグラスを割ったって場所だ、いわゆる現場だ。それもお前は思い出せたか?
「ううん、全然」
何処で割ったか分からないんだよ、割れたってだけで。楽しくて仕方ないだけで。
だから夢だと思うんだけど…。
「違うな、その夢の場所は俺の部屋なんだ。キャプテン・ハーレイの部屋の中だな」
「ハーレイの部屋…?」
だけど夢でしょ、夢の場所って言ってるものね?
ハーレイの部屋で夢を見ちゃって、寝言ですっかり喋っちゃってた…?
キョトンと目を見開いたブルーだけれど。
寝言で長々と喋る人もいると知っているから、前の自分もそうだったのかと思ったけれど。
ハーレイは「夢じゃないな」と否定した。前の自分の部屋で起こったことだと、現実なのだと。
「お前、記憶が飛んじまってるんだ、前後のな」
割っちまう前と、割った後と。どっちもお前は忘れちまって、記憶に残っちゃいないのさ。
忘れるも何も、最初から覚えるつもりなんかは無かったろうが。
「…何があったの?」
前のハーレイの部屋で何が起こって、そういうことになっちゃってるの?
まるで覚えていないだなんて…。ぼくの記憶が飛んじゃうなんて。
「一言で言うなら、俺の酒を飲んで酔っ払った」
「ぼくが?」
「ああ。山ほどあるだろ、二日酔いの記憶」
飲めもしないくせに、俺が美味そうに飲んでるから、って手を出して。
挙句の果てに頭が痛いだの、胸やけがするだのと、派手に二日酔い。
「うん…」
だってハーレイ、美味しそうに飲んでいたんだもの。
飲んでみたい気持ちになるじゃない。ぼくにも少し分けて欲しい、って。
「そう言っては、お前、二日酔いになって後悔するんだ」
なのに全く学習しないで、何度も同じことを繰り返してた、と。
俺の酒を横から奪って飲んでは、二日酔い。何度やったか、俺も数えちゃいなかったが…。
その一つだな、とハーレイは笑った。
合成のラム酒を一息に飲んで酔っ払ったと、それは楽しそうな酔い方だったと。
酔っ払ったから記憶が無いのも当然、一部を覚えていたというだけでも奇跡のようだと。
「もう、あの時のお前ときたら…。普段とはまるで違っていたぞ」
俺の肩をバンバン叩いてくれてな、ゼルと飲んでるみたいだったぞ。愉快だったが。
「ゼルって……。ぼくが?」
じゃあ、喋り方もああだったわけ? 「ぼく」じゃなくって「わし」って言って。
「いや、そこまでは酷くなかった。お前はゼルの真似をしていたわけじゃないしな」
単に御機嫌で酔っ払ってだ、その酔い方がゼルに似ていた。
「もっと飲まなきゃ」と俺にどんどん酒を注いで、自分のグラスにも勝手に入れて。
それを飲んでは、一緒に歌を歌わないかと持ち掛けて来たり、一人で先に歌い出したり。
踊ってもいたな、何処で覚えた踊りなんだか、即興なんだか。
「…踊ってたの?」
「踊ってるつもりというヤツだな。歌に合わせてステップだしな?」
もっとも、すっかり酔っているから、ステップにもなっちゃいないわけだが。
あっちへヨロヨロ、こっちへヨロヨロ、千鳥足というヤツで踊り回ってた。
ゼルもそういうタイプだったし、今日のお前はゼルのようだな、と見てたってな。
「…ぼくがゼル…」
一人で歌って、踊ってたわけ?
ハーレイの部屋で酔っ払って踊って、ハーレイにそれを見られていたわけ…?
ブルーは愕然とするしかなかった。
ハーレイの方にはある記憶。自分の中では失われた記憶。酔って覚えていなかった記憶。
その中の自分があまりにとんでもなかったから。歌って踊っていたというから。
(…ハーレイ、そんなの覚えてなくても良かったのに…!)
覚えているなんて不公平だ、と膨れっ面になった所へ。
「…それでな、挙句の果てにグラスを落としてガシャンと割ってくれたんだ」
「酔っ払って…?」
ぼくが割ったの、本当に? 夢じゃなくって?
「夢だった方が良かったなあ…。俺の気に入りのグラスだったからな」
お前が落としてしまったグラス。大事にしていたヤツだったんだが…。
「そうだったわけ?」
ぼくはグラスかコップなのかも覚えてないほど曖昧なのに…。
割ってしまったヤツ、ハーレイのお気に入りだったんだ…。
なんということをしたのだろう、と小さなブルーは申し訳ない気持ちで一杯になった。
前のハーレイのお気に入りのグラス。
木で出来た机を愛用していたハーレイのグラス。
誰も見向きもしなかった机を暇を見付けては磨いていたようなハーレイだから。磨けば磨くほど味が出るから、と手入れしていたハーレイだから。
どんな物でも大切にしたし、きちんと手入れを欠かさなかった。
キャプテンになる前、倉庫の備品を管理していた頃も、毎日のように点検していた。食品ならば期限はどうかと、それ以外の物も手入れが必要な時期かどうかと見回っていた。
まして自分の私物ともなれば、木の机はもちろん、羽根ペンだって。
使った後にはインクを綺麗に洗い落として、翌日に備えた。ペン先にインクが残ったままだと、こびりついてしまって取れなくなるから。ペン先の寿命が縮むから。
替えのペン先は山ほどあったし、律儀にインクを落とさなくても全く問題無かったのに。駄目になったペン先を再生できるだけの技術も、白いシャングリラにはあったのに。
そんなハーレイのお気に入りだったグラスともなれば、さぞ大切に扱われていたことだろう。
使う度に丁寧に洗って、拭いて。
曇りの一つも出来ないようにと、埃もついたりしないようにと、棚の奥。
仕舞い込んでおいて、一人で、あるいはグラスを使うのに相応しい客人が訪れた時に、其処から取り出して酒を注いで…。
宴が済んだら、また棚の奥へ。自分が納得するまで洗って、拭いて、仕舞って。
そういうグラスを自分が割った。前の自分が酔っ払った末に。
(やっちゃった…)
今の自分が割ったわけではないけれど。前の自分が割ったのだけれど、いたたまれない気持ちに変わりはない。
よりにもよって、前のハーレイのお気に入りのグラス。
今日、割ったコップとは比較にならない、特別なグラス。それを自分が割っただなんて。
しかも普段なら決して割りはしないのに、酔っていたばかりに割ったというのが申し訳なくて、穴があったら入りたいような気分だけれども、時すでに遅し。
割った自分は前の自分で、とうの昔に済んでしまった出来事だから。
グラスを割った前の自分も遠い昔に死んでしまって、白いシャングリラももう無いのだから。
(前のハーレイのお気に入り…)
どんなグラスだったかも覚えてはいない。コップだったかグラスだったか、それすらも定かではない記憶。どうしようもなく情けない記憶。
ハーレイは覚えているのだろうに。
グラスの形も、其処に刻まれていた模様なども。
前の自分が割ったのと同時に消えてしまった、グラスの模様やカットなど。
ただのガラスになってしまった。割れて砕けて、ガラスの破片に。
シャングリラの中で他のガラスの製品になって、生まれ変わりはしただろうけれど。廃棄処分で宇宙のゴミにはならなかったと思うけれども、元のグラスに戻ってもいまい。
作り直せるようなものなら、前のハーレイのお気に入りではなかったろうから。
シャングリラでは作れないグラス。きっと人類の船から前の自分が奪ったグラス。
他の物資を奪ったついでに紛れ込んでいたグラスのセットで、希望者が無くてハーレイが貰った品物の一つ。ハーレイ好みのレトロなグラス。
きっとそうだ、という気がした。
施された細工が繊細すぎて「実用的ではない」と皆が嫌ったか、手入れが面倒だと思われたか。
いずれにせよ、ハーレイだけが価値を見出し、大切にしていたのだろうグラス。
覚えてもいない自分が割った。前の自分が割ってしまった…。
シュンと項垂れてしまったブルー。小さなブルー。
謝ろうにも、前後の記憶を失くすくらいに酔っ払った前の自分のことでは、どう謝ればいいのか分からない。「ごめん」でいいのか、謝っても白々しく聞こえるだけなのか。
どうすれば…、とグルグル考えるけれど、出て来てくれない解決策。
(なんて言ったらいいんだろう…)
困り果てていたら、ハーレイに顔を覗き込まれた。「しょげるヤツがあるか」と鳶色の瞳で。
「あのグラスだが…。前のお前だが、いつもなら絶対、割らないからな」
割れる前に拾っちまうだろう? サイオンでヒョイと。
「うん…」
そうとしか答えられなくて。
それが出来なかったことを詫びる言葉が見付からないまま、頷いたのだけれど。
「お前、普段がそうだったからな。割るなんてことが無かったヤツだったから…」
割っちまったのがやたら楽しかったらしくて、それはそれは機嫌が良かったぞ。
ただでも酔ってて上機嫌だしな、お前にとっては楽しい見世物だったんだ、あれは。木端微塵に割れるグラスなんて、前のお前が目にするチャンスはそうそう無かっただろうしな?
他のヤツらが落としたコップや皿の類も、お前、気付けば割れる前に拾ってやってたし…。
「…前のぼくは楽しかったかもしれないけれど…。ハーレイは…?」
…ハーレイはどうなの、どうだったの?
お気に入りのグラスをぼくに割られちゃって、ショックだったんじゃないの、ハーレイ…?
「そりゃまあ、なあ…? 気に入りのヤツが割れちまったし、正直、参った気分だったが…」
割ったお前が、あんまり楽しそうだったから…。
俺が床にしゃがんで片付けていても、それが面白いと声を上げて笑っていたもんだから…。
ガックリ来ている俺が馬鹿みたいに思えるじゃないか。
どうせグラスは割れちまったんだし、元に戻りはしないんだしな?
溜息をついても仕方ないだろ、結果が変わってくれない以上は俺の気分を変えなくちゃな。
と、いうわけで、だ…。
許すことにした、と言うハーレイ。
グラスが割れたと笑い転げていたブルーを。前のブルーを。
お気に入りのグラスを割られたというのに、それを許したらしいから。小さなブルーは大慌てでペコリと頭を下げた。謝るなら今だと、謝らねばと。
「ご、ごめんなさい…」
ぼくが謝るのも変だけれども、前のぼくだって、ぼくだから…。
ごめんね、ハーレイの大事なグラスを割っちゃって。きっと大切にしてたグラスだったのに…。
割っちゃった上に、謝りもしないで笑って見ていてごめんね、ハーレイ…。
「いや、詫びならたっぷり貰ったからな」
お前が謝らなくてもいいさ。グラスの件なら、とうの昔に解決済みだ。前のお前が、もう充分に返してくれた。思い出したからって謝る必要は何処にも無いってな。
「ぼく、同じグラスを奪って来てハーレイに返してた?」
どんなグラスか覚えてないけど、ちゃんと奪って返したのかな?
人類の船なら大抵積んでるグラスの一つで、探さなくても直ぐに見付かったから忘れたかな?
うんと苦労して探したんなら、今でも覚えているんだろうけど…。
「そうじゃない。もう人類の船からは奪わなくなった後だったしな」
シャングリラはすっかり出来上がっていたし、人類の船の物資は奪っちゃいない。
前のお前が割ったグラスは、人類から奪ったヤツだったがな。
洗うのに手間がかかりそうだ、と誰も貰って行かなかったから俺が貰っておいたってだけで。
「じゃあ、どうやって…」
前のぼくはどうやって割ったグラスのお詫びをしたわけ?
シャングリラの中で作り直せるようなグラスだったの、割れちゃったのは?
「…まるで作れないってこともなかったろうが…」
手先の器用なヤツもいたしな、割れていないグラスを見本に渡せば出来たかもしれん。こういうグラスを作ってくれ、とな。
しかしだ、キャプテンの俺の私物が一つ足りなくなったからって、そいつはなあ…。
キャプテンたるもの、グッと堪えて我慢してこそだろ、皆の手本になる立場だしな?
「奪ってもいなくて、作らせてもいないって…」
それじゃグラスのお詫びってヤツは?
ハーレイのお気に入りのグラスに似たのを、ぼくが倉庫で探したのかな…?
「それも違うな、教えてやろうか?」
お前は覚えちゃいないんだろうが…。
グラスを割った前後の記憶は無いと言うから、床を掃除していた俺しか知らないだろうが…。
割れたグラスの代償ってヤツは、お前に払って貰ったのさ。
そいつが一番、早い方法だったしな?
お前自身に、と片目を瞑られた。
御機嫌のお前と楽しくやったと、新鮮だったと。
「…やったって…。何を?」
何をやったの、ハーレイも一緒に歌って踊ったりしたの?
「ははっ、そう来たか! 今のお前だとそうなっちまうか、うん、そうだろうな」
歌と踊りな、そいつも確かに悪くはないかもしれないが…。
俺の気に入りのグラスの分をだ、弁償して貰おうって時に歌って踊るよりかはなあ…?
もっと素敵にいきたいじゃないか、美味いものを食って。
チビのお前だとそうはいかんが、前のお前なら話は全く別ってモンだ。
俺が美味しく食っちまっても問題は無いし、お前が俺の部屋に来ている時点で食ってもいいって意味なんだしな?
有難く食わせて貰っておいたさ、グラスの分だけ。俺のベッドに運び込んでな。
「……それって……」
「そうさ、お前が憧れてるヤツ。本物の恋人同士というヤツだ」
面白かったぞ、お前、ベッドでも笑いっぱなしで。
割れた、割れた、と笑っていたのが別の言葉に変わっただけだ。
俺に脱がされたと言って笑って、俺が脱ぐのを見て笑って。
それから後もな、ありとあらゆる場面でケラケラと笑い転げていたぞ。どう可笑しいのか、普通だったら悩んじまうような所でな。
あんなお前はそうそう食えんし、実に珍しい御馳走だった。まさに珍味といったトコだな。
次の日のお前は二日酔いですっかり潰れちまって、食える状態ではなかったがな。
だが、あの美味さは忘れられん、とハーレイはニヤリと笑みを作ってみせた。
酔っ払ったブルーは美味しかったと、割れたグラスの分は返して貰ったと。
小さなブルーは顔を真っ赤に染めたけれども、生憎と戻らない記憶。グラスを割った前後の分が綺麗に飛んでしまって、グラスの代償を支払った記憶も残ってはいない。
その手の話題を避けるハーレイが自分から口にするだけはあって、ほんの小さな欠片でさえも。
「…ぼくは覚えていないのに…」
そう言われたって、ぼくはグラスを割ったことしか思い出せないのに…!
「かまわんだろうが、前のお前のことなんだからな。今のお前とは関係無いんだ」
グラスを割ったのも前のお前で、弁償したのも前のお前だしな?
おまけに、お前は割ったことしか覚えていない。チビのお前には似合いの記憶だ。
ついでに今度のお前ってヤツは、普通のコップを割っちまっただけで惨めな気分になるんだろ?
前のお前みたいに笑い転げる方じゃなくてな。
「当たり前だよ!」
今のぼくだと落としたら最後、割れちゃうんだから!
普通のコップも大事なグラスも、落っことしたら終わりなんだよ…!
「ふうむ…。だったら慰めてやらんといかんな」
今日のお前が割ったコップは俺の知らない間に割れたし、俺のコップでもないだんが…。
俺がお前と結婚した後、お前がコップを割ったなら。
落ち込んでたなら、キスをプレゼントして、その先も…だ。お前の気分が直るようにな。
気分を直すには何処へ行くのか、何をするのか、もう分かるだろう?
どっちにしたって役得だ、と微笑まれた。
慰める方も、割れてしまったグラスを弁償して貰う方も。
今度も戸棚に入っているらしい、ハーレイお気に入りのグラスなるもの。
それをブルーが割った時には、また支払って貰うから、と。代償は無論、ブルー自身で。
(ハーレイのグラス…)
今のハーレイのお気に入りのグラス。まだ出会っていない、見ていないグラス。
割ってもいいのか、割らない方がいいものなのか。
前の自分は割っても許して貰えたというから、今度も許して貰えるものか。
小さなブルーにはまだ分からない。
大人の心になっていないから、身体もチビのままだから。
ハーレイが口にした役得とやらも、どういうものだか今一つ分かっていないから。
(…気を付けなくちゃ…)
今日みたいに割ってしまわないように、と自分に言い聞かせるブルー。
前の自分と同じ失敗はやらかすまい。
ハーレイお気に入りのグラスを自分が使う時には、丁寧に。
間違っても割ってしまわないように、割った挙句に笑うなんかは論外だよ、と…。
落としたコップ・了
※ブルーが割ってしまったコップ。前のブルーなら、割らない筈だと考えたのに…。
酔っ払った末に、前のハーレイのグラスを割っていたようです。今では笑い話ですけど。
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