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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

口紅

(んーと…)
 学校から帰って、おやつを食べながら広げた新聞。カラーで大きくメイクの特集。
 可愛く見せるならこんな感じで、意志の強さを出したいのなら、こうだとか。
 モデルさんの写真も載っているけど、イラストが付いた解説も沢山。メイクのやり方、入門編といったものから凝ったものまで、それは詳しく。
(ふうん…?)
 ぼくにはなんだかよく分からない。下地がどうとか、メイクの前にひと工夫だとか。
(口紅を塗って終わりじゃないんだ…)
 小さい頃からたまに見ていた、ママのお化粧。パタパタはたいたり、鏡と真剣に睨めっこして。
 確かに口紅だけじゃなかった、他のことだってやっていた筈。
(今日だって…)
 口紅だけじゃないんだ、きっと。見慣れたママの顔だけど。こんな顔だと思っているけど。
 お出掛けの時は、もっと綺麗にお化粧するママ。うんと素敵に見えるママ。
 だけど、普段もお化粧してる。夜にお風呂に入った後には、もう口紅をつけてないから。
 つまり昼間はしっかりお化粧、口紅の他にも何かお化粧。



(お嫁さんって…)
 毎日お化粧をしなくちゃ駄目なんだろうか、ママが毎日してるってことは。
 ママはぼくのパパの奥さんなんだし、パパのお嫁さん。
(ご近所さんは…)
 お嫁さん、って立場の人たちの顔を思い浮かべてみたけれど。誰でも口紅、お化粧した顔。
 新聞にメイクの特集なんかが載るくらいなんだし、常識なのかな、お化粧すること。
 ぼくもハーレイのお嫁さんになったら、お化粧しなくちゃいけないのかな?
 お嫁さんらしくしたければ。お嫁さんなんです、って言いたいのなら。
 毎日、鏡に向かってお化粧。この新聞に載ってるみたいに、口紅の他にもいろんなことを。



(お嫁さんでも、ぼくは男だから…)
 お化粧なんかは要らないような気もするけれど。
 口紅も何も、塗らなくていいって気もするんだけれど。
 でも…、とモデルさんの写真を見ながら考えた。モデルさんが着ている服は色々、服の雰囲気に合わせたメイクが何種類も。
(服でメイクが変わるんだったら…)
 ウェディングドレスや白無垢だったら、やっぱりお化粧、要るのかな?
 だって、普通の服とは違う。花嫁さんのための特別な服や着物なんだし、もしかしたら。
(…それ専用のお化粧があるとか…?)
 この特集には載っていないけど。
 普段の服とか、お呼ばれの時とか、普段の暮らしに使えるメイクしか載ってないけど。
(お呼ばれ用のメイクがあるなら…)
 パーティードレスに合わせたメイクがあるなら、ウェディングドレスにもありそうな感じ。このドレスだったら、華やかにとか。清楚にだとか、可愛らしくとか。
(白無垢だって…)
 あるのかもしれない、白無垢専用のメイクってヤツが。何か特別なお化粧の仕方。
 この特集では分からないけれど、花嫁さんのメイクについては書いてないけど。



(うーん…)
 おやつをすっかり食べ終わった後も気になる特集。いろんなメイク。
 下地ってトコから、もう分からない。ベースを塗ったらおしまいじゃなくて、有り得ないような色の下地を上に塗るとか、専用の粉をはたくだとか。お化粧用の粉とは別に。
 頭の中がこんがらがりそう、下地だけなら分かるけど。下地なんだって分かるけど…。
(色付きのを塗ってどうするわけ?)
 肌の色とはまるで違った、薄いグリーンのクリームまである。この部分に、って図解がついてるからには、何か効果があるんだろうけど。お化粧用の粉をはたいたら、よく映えるとか。
 ぼくには全く分からない世界、下地からして謎だらけのメイク。
(難しそう…)
 こんなお化粧、しろと言われても出来そうにない。どうすればいいのか分からない。
 下地だけでも分かってないのに、その後はもっと難しいんだ。眉を描いたり、睫毛を塗ったり。口紅だけで終わりじゃなかったお化粧の世界、頬っぺたにつける頬紅まである。
 おまけに仕上げにつける粉まで、専用のブラシで顔全体に軽くつける粉まで。



 読めば読むほど謎だらけの世界、ぼくにはとっても無理そうなメイク。
 花嫁さんなら、メイクはプロがしてくれるんだろうか?
 それとも自分でやらなくちゃ駄目で、鏡の前に沢山の道具がズラリと並んでいるんだろうか?
 ドレスに合わせてお使い下さい、って、どれでも自由に使って下さい、って。
(…そんなの、とっても困るんだけど…!)
 お化粧無しでは駄目なんだろうか、ウェディングドレスとか白無垢とか。
 自分じゃ出来ませんでした、って、お化粧無しで着てたら笑われちゃうんだろうか?
 あれこれと頭を悩ませていたら、ママが空いたお皿やカップを取りに来てくれて。



「あら、お化粧?」
 何を熱心に読んでいるのかと思ったら…。お化粧の舞台裏を読んでいたわけね、メイク特集。
「うん。こんなに色々あるって思わなかったから…」
 ママ、お化粧って難しいの?
 手間がかかりそうで、こんがらがっちゃいそうなんだけれど…。誰でも出来るの、こんなのが?
「ブルーもお化粧、やってみたいの?」
「そうじゃないけど…。お嫁さんって必ずお化粧しなくちゃいけないの?」
 お嫁さんになったら、毎日毎日、お化粧しないと駄目なものなの?
「人によるわよ、その辺はね」
 ブルーの知ってるご近所さんは、みんなお化粧しているけれど…。
 お買い物とかに行けば、していない人も沢山いるわ。しない主義です、って人も多いし、個人の好みね。しなくちゃ駄目、って決まりは無いのよ。



 そう聞いたから、良かった、って思ったんだけど。
 いつかハーレイと結婚したって、お化粧はしなくてもかまわないんだ、ってホッとしたけど。
 ママは「だけど…」ってメイク特集の記事をチラッと見ながら。
「花嫁さんっていう意味だったら、お化粧は必ずすることになるわね」
「ホント!?」
 どうして花嫁さんだとお化粧をするの、普段はしてない人だってするの?
「そうよ。でないとドレスに負けてしまうでしょ、普通の服とは違うんだもの」
 お姫様みたいな格好をするのよ、お化粧しないとドレスが主役になっちゃうのよ。
「でも…。お化粧するのが下手な人だと、どうなるの?」
 お化粧をしない人もいるなら、どうすればいいのか分からなくなっちゃいそうだけど…。
「花嫁さんのお化粧はプロがするのよ。そういうものよ」
 ドレスも一人じゃ着られないでしょ、お手伝いの人がついてくれるの。お化粧もね。
「ふうん…」
 お化粧のプロまでついてくるんだ、花嫁さんには。
 そういう仕事のプロがいるほど、お化粧って難しいものだったんだね。



 ホントのホントに難しそう、って新聞の記事を指差したら。
 プロがいるのも納得だよ、って、「モデルさんのメイクもプロだよね」ってママに言ったら。
「そうねえ、他の人にお化粧をしてあげるのは難しいかもね」
 お仕事だから慣れているとは思うけど…。自分の顔とは違うわけだし。
「自分でするのは簡単なの? こんなに色々しなきゃ駄目なのに?」
「慣れればね。それにね、全部をしなくちゃいけないわけでもないのよ」
 ママだって全部をしてはいないわ、これとこれとはしていないわねえ…。それに、これも。
 お出掛けの時だけするものもあるし、こういうのも人それぞれね。
「そうなんだ…。ママも全部はやってないんだ」
 だけど口紅だけでもないよね、ぼくには分からないけれど。ママのお化粧。
 慣れたら簡単? って、好奇心満々でママに幾つも質問してたら。
「…ブルー、お化粧、してみたい?」
「えっ?」
 とんでもないことを言い出したママ。
「ちょっと可愛くなりそうだものね、お化粧したら」
「ぼく!?」
 お化粧なんか出来やしないよ、難しそうだな、って見てたんだから!
 出来るわけがないよ、お化粧なんて…!



 ビックリしちゃったぼくだけれども、ママは本気だった。
 お化粧してあげるからいらっしゃい、って二階のママの部屋まで連れて行かれた。
 やってみたい気持ちで一杯になっているらしいママ。ぼくにお化粧してみたいママ。
 ぼくもママには内緒だけれども、興味はあるから。花嫁さんはお化粧するというから。
(利害の一致…)
 ママはぼくにお化粧してみたくって、ぼくはお化粧に興味津々。
 ちょうどいいから、して貰うことに決めたお化粧。
「…下地から塗るの?」
 どれなんだろう、って化粧品の山を眺めていたら。
 ママのドレッサーの前に座ってキョロキョロしてたら、「口紅だけよ」って。
「それだけで充分、可愛くなるのよ」
 他のお化粧品はブルーにはまだ早いわねえ…。子供だものね。
 それに肌だって柔らかくて真っ白、口紅だけでも素敵になるわよ、うんと素敵に。



 ママが手に取った一本の口紅。「これがいいわ」って。
 唇に直接塗るのかと思ったら、もうそこからして違ってた。筆が出て来た。
 紅筆っていう口紅用の筆なんだって。細くて小さな専用の筆。
 お化粧の世界はやっぱり深い、って紅筆を持つママの手元を見詰めた。口紅を紅筆にたっぷりとつけて、塗り重ねてから。
「はい、じっとしててね」
 唇はそのまま、キュッとしないの。それじゃ上手に塗れないわ。
「うん…」
 ママに言われるまま、鏡の中のぼく。唇に塗られていくピンクの口紅。
 なんて表現したらいいんだろう、ふんわりピンクの優しい色。濃すぎない色。
 だけど一目で塗ってると分かる口紅の色で、ぼくの唇の色とは違う。
(えーっと…)
 お化粧なんて、前のぼくでもしたことがない。
 初めての体験、初めての口紅。
 ママは紅筆で上唇から塗って、塗り終わったら下唇で…。



(こうなるわけ?)
 塗り上がったら、鏡の中にお化粧をしたぼくが居た。ピンクの口紅を塗られたぼくが。
 いつものぼくとはまるで違って、ちょっと女の子っぽく見える感じで。
「あら、可愛い!」
 こっちを向いてみて、ってママはニコニコ。可愛く出来た、って。
 「せっかくだからパパにも見て貰いましょうね」って言い出したママ。
 別に反対はしないけれども…。
 お化粧なんて初めてだから、パパに見せたっていいんだけれど。
 鏡の中、ぼくじゃないみたい。ぼくだけど、ホントに女の子みたい…。



 夕食の支度に行くママと別れて、部屋に帰って鏡を覗いた。ぼくの部屋の鏡。
 お化粧したぼくが映ってる。ピンクの口紅でお化粧した、ぼく。
(お嫁さん…)
 いつかハーレイと結婚する時、花嫁のぼくはプロにお化粧して貰うから。
 その頃にはもっと大人びた顔だろうけど、仕上がりはきっとこんな感じになるんだろう。
 下地から塗って粉をはたいて手間のかかったお化粧をしても、口紅はきっとこうだから。ぼくの唇の形が大きく変わるわけじゃないし、口紅の色が違うくらいのことだから。
(もっと濃い色とか、そういうの…)
 だけどイメージは掴めた口紅、口紅をつけたぼくの顔。お化粧した顔。
 前のぼくには出来なかったお化粧。花嫁さんになれなかったから。
 あの頃には思いもよらなかった口紅、それをつけてる今のぼく。
(パパに見せたら、なんて言うかな?)
 可愛いな、って言ってくれるのか、プッと吹き出してしまうのか。
 パパの反応がとっても楽しみ、お化粧の感想を早く聞きたい。
 プロじゃないけど、ママがとっても上手に塗ってくれたから。色を選んで塗ってくれたから…。



 満足するまで鏡を眺めて、それから本を読み始めた。勉強机の前に座って、お気に入りの本を。
 夢中でページをめくり続けてたら、チャイムが鳴って。時計を見るなり、すぐに分かった。
(ハーレイだ!)
 今日は仕事が早く終わって、ぼくの家まで来てくれたんだ。窓に駆け寄って、ハーレイに大きく手を振った。庭と生垣を隔てた門扉の向こうへ、其処に立つハーレイに「早く来てね」って。
 暫くして、ハーレイはママの案内でぼくの部屋に来てくれたんだけど。
 扉が開くなり固まっちゃって、ママもその場で「あらあら…」って。
「ハーレイ先生、すみません。いらっしゃるとは思わなくて…」
(え?)
 申し訳なさそうにしているママ。挨拶もしないで立ってるハーレイ。鳶色の瞳を真ん丸にして。
(…なんで?)
 どうなってるの、と首を捻った途端に思い出した、ぼく。
 口紅、塗ったままだった。
 ぼくの唇にピンクの口紅、お化粧しちゃった顔のまま。
 パパに見せようと思っていたから。ハーレイが来るなんて思ってないから。



(いけない、お化粧したままだった…!)
 落とさなくちゃ、と慌てて唇を手の甲で擦ろうとしたら、ママが「駄目!」って。
「擦ったら広がっちゃうわよ、顔に。口紅の色が」
「え…?」
「早く落としに行かないと。いらっしゃい、ブルー」
 すみません、ってハーレイに謝って、ママはぼくを部屋から連れ出した。
 待ってる間にハーレイがゆっくり出来るようにと、お茶とお菓子を運んでから。
 ハーレイの分と、ぼくの分。テーブルの上に二人分のカップやケーキのお皿や、ティーポット。
 それが揃うまで、ハーレイはぼくの顔をじっと見詰めていたけれど。
 口紅をつけたぼくの姿に、最初は笑っていたんだけれど…。
 ぼくが部屋から出て行く頃には、可笑しそうに笑ってはいなかった。
 笑ってはいたけど、もっと、なんだか違う顔。お腹を抱えて笑ってるのとは違う顔だった。
 鳶色の瞳がぼくを見ていた、ママと部屋から出てゆくまで。



 ママの部屋まで連れて行かれて、また座らされた鏡の前の椅子。
 鏡に映ったぼくは困り顔、ハーレイに見られちゃったから。散々、笑われちゃったから。
 ママがお化粧用のフワッとした白い綿みたいなヤツに数滴、垂らした何か。その綿を「はい」と渡された。湿った綿を。
「これで拭くのよ、しっかり綺麗に」
「うん…」
 口紅を塗っていない所まで広がっちゃったら、大変だから。
 鏡を見ながら少しずつ拭いた。ピンク色に変わっていく綿で。
「…ママ、お化粧って厄介なんだね…」
 塗るのも難しそうだけれども、それを取るのも大変だなんて…。ぼくが思った以上に大変。
「口紅は特にね」
 食べたり飲んだりするでしょう?
 その度に全部落ちてしまったら、お化粧が駄目になっちゃうから…。落ちにくいように作られているのよ、口紅は。工夫してある分だけ、落とすのも手間がかかるわね。
 でもね、お化粧を全部落とすんだったら、顔を洗えば落ちるのよ?
 口紅も何もかも、すっかり全部。そういうものがちゃんとあるのよ、楽に落とせる便利なもの。



 塗ったのは口紅だけだったから。唇だけのお化粧だったから。
 顔まで全部は洗わずに済んで、代わりにリップクリームをママに塗り付けられた。唇が荒れたら痛くなるから、って色のついてないヤツをキュッキュッと。
 それは鏡じゃ分からない。覗き込んでたら「大丈夫よ」ってママが保証してくれた。お化粧とは違って薬みたいなもの、見た目には普通の唇だ、って。
 これで安心、とママの部屋からぼくの部屋へと戻ったら。
 ハーレイのいる部屋へ一人で戻って行ったら…。



 扉を開けたら、ハーレイの視線。ティーカップを持っていたけれど。
「なんだ、本当に落としちまったのか」
「え…?」
 何を言われたのか分からなかった。キョトンとしてたら、ハーレイはカップをコトリと置いて。
「口紅だ、口紅」
 もう跡形もなくなっちまったな、って見詰められた。ハーレイの向かいの椅子に座ったら。
「ママの部屋できちんと落として来たもの。リップクリームは塗ってるけどね」
 口紅を落としたら、塗っておいた方がいいんだって。唇が荒れたら痛くなるから。
 でもね、色付きのヤツじゃないから、さっきみたいに可笑しくないでしょ?
 ハーレイ、大笑いしていたけれども、今は可笑しくない筈だよ。
「大笑いなあ…。最初は確かに笑っちまったが、凄いものを見たと思ったが…」
 俺はあのままでも良かったんだがな?
 お前が口紅、塗ったままでも。
「なんで?」
 面白いからなの、見てたら愉快な気分になるから?
 あんなに可笑しそうに笑うハーレイ、ぼくもそんなに知らないし…。
「それは違うな。笑っちまった俺だったんだが…」
 よく考えたら、そいつは間違いだった。笑うにしたって、可笑しがる方ではなかったんだ。
 少しだけ未来のお前が見られた、あの口紅のお蔭でな。



 いつか嫁に来てくれるんだろうが、って鳶色の瞳が穏やかに笑ってる。
 口紅を塗って俺の所へ、って。
 そういえばお嫁さんはお化粧しているもので、ママは「人によるわよ」って言っていたけど…。個人の好みだと言っていたけど、ハーレイの趣味はどうなんだろう?
 前のぼくだとお化粧どころか、ハーレイのお嫁さんではなかったから。
 恋人同士なことさえ誰にも言えない、秘密の恋人同士だったから。
 お化粧なんかはするわけがなくて、ハーレイだって「して欲しい」と言える状況じゃなくて。
 だけど今度は何もかも違う。
 ぼくはハーレイのお嫁さんになるし、ハーレイの家で暮らすんだから。
 ハーレイが「お化粧をしたお嫁さん」がいいと言うなら、お化粧した方がいいんだろう。ぼくが男でも、ハーレイがお化粧して欲しいなら。
 もしもそうなら、練習しなくちゃいけないから。
 今日みたいなメイク特集を読んで、勉強しなくちゃいけないから…。



「ねえ、ハーレイ。ぼくって、お化粧しなくちゃ駄目?」
「はあ?」
 お前、チビだろうが。これから毎日、ああいう口紅を塗ろうっていうのか?
 チビに化粧は早すぎるように思うがなあ…。
「そうじゃなくって、結婚した後。ハーレイのお嫁さんになった後だよ」
 普段もお化粧、ちゃんとしていた方がいい?
 ハーレイがそっちの方が好きなら、頑張ってお化粧するけれど…。
 さっき未来のぼくって言ったし、お化粧している方が好き?
「馬鹿。そもそも、お前、男だろうが」
 どんなに美人でも、男は男だ。
 お前がしたくてするなら止めんが、俺から化粧をしろとは言わない。
 前のお前は化粧なんかしなくても美人だったさ、何もしなくていいってな。化粧しなくても充分美人だ、誰もが振り返って見そうなほどの。



 だがな…、ってハーレイは微笑んだ。
 花嫁衣装を着るとなったら化粧が要るだろ、って。そういう未来のぼくが見えた、って。
「そっか、お嫁さん…。花嫁さんの方だったんだ、ハーレイが言ってた未来のぼくって」
「うむ。ウェディングドレスを着るにしたって、白無垢を選ぶにしたって、だ…」
 結婚式くらいは化粧すべきだな、いくらお前が美人でも。
 ドレスに負けると思いはしないが、一生に一度の結婚式だし、とびきりの美人を見てみたい。
 こんなに綺麗な嫁さんなんだと、最高の美人を嫁に出来ると、俺だって自惚れたいからな。
「じゃあ、お化粧…。結婚式の時だけでいいんだ、プロ任せので」
 よかったあ…、とホッとしちゃった、ぼく。
 お化粧は結婚式の日だけでいいから、と言われて安心しちゃった、ぼく。
 ママの部屋にあった化粧品とかの数を思うと、あのメイク特集の記事を思うと、お化粧なんかは出来ればしたくなかったから。
 ハーレイの注文だったらするけど、それでもやっぱり困っちゃうから。
 毎日、毎日、下地から塗って、口紅も塗って、仕上げの粉まで。そんなの面倒、とっても面倒。
 落とす時は顔を洗うだけだとママは言ったけど、お化粧自体は簡単なんかじゃないんだから。



「あのね、ぼく…。新聞でメイクの特集を見てて…」
 お嫁さんならお化粧しないと駄目なのかな、って思ってたんだよ、今度はハーレイのお嫁さんになるって決めてるから。
 ハーレイのお嫁さんになるなら要るのかな、って考えていたら、ママが来たから…。
 お嫁さんはお化粧するものなの、ってママに訊いたのが始まりなんだよ。
 ママとお化粧の話をしてたら、「してみたい?」って訊かれちゃって…。
「なるほど、それでお母さんに塗られちまったってわけか、あの口紅」
 お前が自分で塗ったのかと思って仰天したがな、見た瞬間はな。
 お母さんがやたらと慌てていたから、違うらしいと気付いたが…。
「ママが言ったんだよ、せっかくだからパパにも見て貰おう、って」
 可愛くなったし、パパが帰ったら見て貰いましょ、って…。
「なら、本当にあのままで良かったんだがな…」
 落とさなくても、塗ったままで。
 俺は全く気にしないから、お父さんが帰るまで塗ったままでいれば良かったなあ、あの口紅。
 チビのお前に口紅だけに笑っちまったが、よく考えたら、俺の未来の嫁さんなんだ。
 その嫁さんが化粧して迎えてくれたっていうのに、笑っちまった俺はつくづく馬鹿だな。



 惜しいことをしたな、って残念そうにしているハーレイ。
 ちゃんと事情を聞けば良かったと、口紅をそのまま残しておければ良かったと。
 未来の嫁さんが見られたのに、ってハーレイはホントに悔しそうで。
「あのお前とお茶を飲みたかったな」
 口紅を塗ったお前と、二人でお茶を。…このお茶を口紅を塗ったままのお前と。
「ホント?」
 ハーレイ、あんなに笑っていたのに、あのぼくとお茶を飲みたいんだ…?
「当然だろうが、化粧しているお前だぞ? 少しばかりチビで小さすぎるが…」
 そのせいでウッカリ笑っちまったが、あのお前だって今から思えば悪くなかった。
 背伸びして化粧をしたがる女の子なんかだと、ああいう感じになるんだろう。
 チビはチビなりに似合っていたんだ、あの口紅が。
 そう思って見てたら、未来のお前がヒョッコリ顔を出したってな。チビのお前の向こう側から、いつか口紅を塗って嫁に来てくれるお前がな…。



 今はまだホントにチビのぼく。口紅を笑われてしまった、ぼく。
 だけどハーレイは似合っていたって言ってくれたし、嬉しくなった。それに未来のぼくの姿も、ぼくの向こうに見えたと言うから。顔を出したと言ってくれたから。
「…チビのぼくでも、口紅のぼくが良かったの?」
 落とさなくても、あのままのぼくとハーレイはお茶を飲みたかったの?
「ああ。口紅を塗って化粧したお前と、二人でのんびりお茶を飲んで…」
 一緒に菓子も食いたかったなあ、この菓子をな。
 今となっては手遅れなんだが…。お前、口紅、すっかり落としてしまったからな。
 あんなお前に出会えるチャンスは、二度と無いかもしれないのになあ…。
「ハーレイ、それって…。ぼくがいつかはお嫁さんになるって決まっているから?」
 結婚式には口紅なんだ、って思っているから、ぼくの口紅、見たかったわけ…?
「そうだ、俺の未来の嫁さんだからな」
 ウェディングドレスか白無垢かは知らんが、どっちにしたって口紅なんだ。花嫁だしな。
 そういうお前を夢に見るには、お前の口紅、まさにピッタリだったってわけだ。
 まだまだチビでだ、美人と言うより可愛らしいが…。
 口紅を塗っても可愛いだけだが、それでもやっぱり、お前はお前に違いないしな…?



 いつかはな…、って優しいけれども、熱い光を湛えた瞳。鳶色の瞳。
 大きく育った美人のお前が嫁に来るんだ、って、口紅を塗って化粧をして…、って。
 ハーレイの目には、チラリと見えた未来のぼくがきっと残っているんだろう。全体じゃなくて、口紅を塗った唇だけが。未来のぼくの唇だけが。
「…どんなだろうなあ、大きくなったお前が化粧をしたら」
 前のお前とそっくり同じに大きく育って、口紅を塗って化粧をしたら。
 結婚式なら、口紅の他にもプロが色々するんだろうし…。想像もつかん世界だな。まるで銀色の細工物みたいになっちまうかもな、人間どころか天使みたいな。
「…ぼくにも全然分からないよ」
 前のぼくはお化粧、一度もしないで終わっちゃったし…。
 口紅だって塗ってないから、どんな風になるのか自分じゃ想像出来ないよ。
 今日、ママに口紅を塗られただけでも、ちょっと普段と違う顔だと思ったもの。育ったぼくでも同じだと思うよ、元の顔とは違った感じになるんだよ、きっと。
「どうだかなあ? …お前はお前だ、化粧をしようが、そのままだろうが」
 俺にとっては誰よりも美人に見えるお前だ、今は美人とは言いにくいんだが…。チビには美人と言っても似合わん、チビはチビらしく可愛いとか、愛らしいだとか。
 しかし未来のお前は違うぞ、もう間違いなく美人なんだ。化粧しなくても凄い美人だ。
 それが化粧をしたなら、だ…。この世に二人といやしない美人だ、俺は一生、忘れんだろうさ。
 花嫁衣装が似合う美人を、絶世の佳人というヤツをな。
 佳人と言ったら女性限定だが、花嫁なんだし、それでいいだろ?
 毎日化粧をしろとは言わんし、お前の口紅、結婚式の日だけでいいんだからなあ…。



 そういうお前に出会える日が今から楽しみだな、ってハーレイが言うから。
 ぼくが落としてしまった口紅、見ていたかったみたいだから。
 チビのぼくの向こうに未来のぼくをチラリと見ながら、お茶を飲みたかったらしいから。
(あんなに笑っていたくせに…)
 笑い転げんばかりだったくせに、途中から表情が違ったハーレイ。笑いながらも、違う瞳の色をしていたハーレイ。
 あの時、ハーレイは未来のぼくを見ていたんだろう。
 口紅を塗ったぼくの向こうに、チビのぼくの向こうに、未来のぼくを。
 そうして眺めて見送ったぼくが戻って来た時、きっとガッカリしたんだと思う。
 もう口紅は無くなってたから、綺麗に落としてしまっていたから。
 ぼくと違って大人のハーレイは顔に出したりしなかったけれど、ホントに残念だったんだろう。
 惜しいことをしたと、あのぼくとお茶を飲みたかったと言ったハーレイ。
 一緒にお菓子も食べたかったと、口紅を塗ったチビのぼくと一緒に。



(…ハーレイに未来のぼくが見えるなら…)
 未来のぼくを見ている気分でお茶が飲めると言うのなら。
 またいつか塗ってみようか、口紅。ママの口紅。
 チビのぼくでも口紅を塗れば、唇だけは未来のぼくと重なって見えるらしいから。
 お化粧はしたいと思わないけれど、口紅くらいなら塗ってもいい。
 今度はパパにも見て貰うために。
 パパは笑い出すかもしれないけれども、パパに見せると言えばママだって納得するから。
 だってママだって遊びでぼくに塗っちゃったんだし、二度目があっても驚かない。
(うん、口紅…)
 いつかチャンスがあったなら。
 ハーレイが訪ねて来てくれそうな日にママに頼んで、塗って貰って、ハーレイとお茶。
 口紅を塗って、ハーレイと二人でお茶を飲んでお菓子を食べるんだ。
 そうすればきっと未来を先取り、口紅の分だけ、二人で未来へ。
 ぼくは幸せな花嫁さんになった気分で、ハーレイもきっと笑顔なんだと思うから。
 間違いないから、いつか口紅。
 今日は笑われちゃったけれども、慌てて落としてしまったけれど。
 次があったら、笑われない。チビのぼくでも、口紅を塗った唇でも。
 ハーレイと二人、幸せなデート。未来のぼくを口紅の分だけ、ぼくの所へ連れて来ちゃって…。




              口紅・了

※ブルーが塗って貰った口紅。初めてのお化粧。ハーレイにはビックリされましたけど…。
 そのままでいた方が良かったのかもしれませんね。未来の姿を、少しだけ先取り。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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