シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(あ…!)
学校がいつもより早く終わった日の帰り道。バス停から家まで歩く道。
まだ早い午後、昼下がりといった時間帯。秋の日射しは柔らかなもので、暖かな午後の帰り道。
歩く途中でブルーが見付けた女の子。
顔馴染みの夫婦が住む家の庭で昼寝をしていた。背もたれが倒せる籐の椅子で。子供の身体には大きすぎるほどの、それは寝心地が良さそうな椅子で。
小さな身体の下にはクッション、膝の上には薄い上掛け。気持ち良さそうな昼寝の時間。
(お孫さんだっけ…)
遠い地域に住んでいる子供。小さい頃から何度か見かけた。この家に遊びに来ている時に。
会わない間に大きくなったよね、と生垣越しに覗き込んでみる。足を止めて。
出会った頃のフィシスくらいの年なのだろうか、幼い金髪の女の子。
前に会った時はもっと小さくて、自分の中にはフィシスの記憶も全く無かった。前の生の記憶は戻っていなくて、フィシスは歴史の中にいた人。
それが今では事情が違う。昼寝している女の子の髪型がフィシスそっくりだと思ってしまう。
白いシャングリラに連れて来た頃、フィシスの髪はこうだった。まだ床にまでは届いておらず、長い髪だったというだけのこと。
だから見た目には特別ではなく、盲目だったということ以外は、ごくごく普通の女の子だった。占いをしたり、その身に地球を抱いていたりと、中身は特別だったけれども。
(んーと…)
この女の子はフィシスではないという気がするけれど。
フィシスだと感じはしないけれども、同じ髪型、同じ金髪。出会った頃のフィシスと同じ。
(ちょっぴり似てる…?)
年恰好と髪型以外に共通点は何も無いのに、何故だか似ている気がするフィシス。遥かな記憶の彼方のフィシスを思い出させる、目の前の少女。
(なんで…?)
どうしてだろう、と眺めていたら、金色の睫毛が微かに震えて、パチリと開いたその瞳。現れた綺麗な緑色の瞳。
途端にフィシスはいなくなった。跡形もなく消えて、少女が残った。
「…ブルーお兄ちゃん?」
「あ、うん…。こんにちは」
ぼくのこと、覚えていてくれた? と訊いたら、笑顔で頷いた少女。覚えてるわ、と。
椅子から下りて生垣の側までやって来た少女と暫く話をしたけれど。
少女の祖父母も出て来て見守ってくれていたけれど。
(やっぱり違う…)
話せば話すほどに、フィシスとは違う。前の自分の記憶に残ったフィシスとは違う。
似て見えたのは髪型だけ。少女が「それでね…」と無邪気にはしゃぐ度に揺れる、金の色をした長い髪だけ。切り揃えられた前髪と顔を縁取る金色の糸。それだけがフィシス。
他は何もかも違っていた。顔立ちも違えば、中身も違った。
幼かったフィシスとは話し方も違う、もちろん話の内容だって。占いの話は欠片さえも無くて、少女の心は今の満ち足りた日々で一杯で。
友達の話や両親の話、祖父母の話と、くるくると変わる少女の話。相槌を打てば、フィシスとは違う笑顔が返って来る。まるで似ていない笑顔と顔立ち、髪型だけしか似ていない少女。
何故似ていると思ったのか。
フィシスに似ていると眺めていたのか、今となってはもう分からない。
話せば話すほどに、フィシスとは違う。その姿さえもが、フィシスとはまるで違うのに…。
どのくらい立ち話をしていたろうか。
明日には自分の家に帰ると言った少女に「また会おうね」と手を振って別れて、家に帰って。
着替えを済ませてダイニングでおやつを食べる間も、頭に残っていた少女。少しフィシスに似ていると感じてしまった少女。髪型だけしかフィシスと似てはいなかったのに。
(…でも、フィシス…)
最初は確かに似ていると思った、何故か似ていると。それが不思議で眺めていた。
おやつを食べ終えても気になる少女。フィシスとは全く違った少女。
部屋に戻ってから、勉強机の前に座ってまた考えた。
どうしてフィシスを連想したのかと、全くの別人だったのに、と。
年恰好と髪型以外は似てはいなくて、それも分かっていた筈なのに、と。
帰り道で少女を見付けた所から、順に記憶を並べてみて。
どの辺りまでフィシスだと思っていたのか、それを掴もうと整理していて。
(そうだ、瞳…)
緑色をしていた少女の瞳。澄んだ若葉の鮮やかな緑。
あの瞳が開いた瞬間までは、フィシスに似ていると眺めていた。幼い少女の頃のフィシスに。
閉じていた瞳がそう思わせた。眠っていた少女の閉じた瞳が。
フィシスの瞳は開かなかったから。
シャングリラに連れて来るよりも前も、シャングリラに連れて来た後も。
ただの一度もフィシスの瞼は開きはしなくて、その下の瞳は現れなかった。そう、一度も。
だから、あの少女が重なった。
幼かったフィシスと同じ髪型、それに閉じていた瞳。
開いた途端にフィシスの面影は消えてしまった、緑色の瞳を見た瞬間に。
少女の顔を彩る二粒の宝石、フィシスの顔には無かった宝石。その欠片さえも無かった宝石。
けれど…。
(青い瞳…)
キースのそれに似た、青い瞳。薄い色の青、アイスブルー。
一面に凍った湖の青だと、それがフィシスの瞳の色だと知ってはいた。気付いてはいた。
フィシスの瞼は開かなかったけれど、瞼の下に眼球は確かに在ったから。
あの水槽の中でフィシスが眠っていた頃から知っていた。
どんな瞳かと覗いてみたから、サイオンで探って覗いたから。
フィシスの瞳が開かないことに気付いて間もない頃に覗いた、その瞳を。
視力は全く無かったけれど。
何の役にも立たない瞳で、瞼が開いてくれないからには、飾りにすらもならなかったけども。
閉じたままだったフィシスの瞳。
瞼の下には青い色があると、アイスブルーの瞳なのだと見ることも叶わなかった宝石。
フィシスの顔を彩りさえもしないで、瞼の下に眠っていた瞳。
開く所を想像しさえもしなかった。開いたならばどうであろうかと思うことさえも。
(もしも、フィシスの瞳が開いていたら…)
視力が無くても、瞳が開いていたのなら。
さっき出会った少女さながらに、アイスブルーの宝石が二つ覗いていたなら。
(そういう人だっていたんだよね…)
今の時代は医学が進んで治せるけれども、前の自分が生きた頃には盲目の者も少なくなかった。開いてはいても視力の無い目を持っていたケースも珍しくはなくて。
ただの飾りに過ぎない瞳。用を成さない二つの宝石。
フィシスの瞳がそれだったならば、シャングリラに連れて行っただろうか?
サイオンを与え、ミュウにしてまで前の自分は攫ったろうか?
手に入れたろうか、あの少女を。水槽の中に居た、あのフィシスを…?
(…ううん…)
きっと連れては行かなかった。白いシャングリラには迎えなかった。
いくらフィシスの地球に惹かれても、それを常に見たいと願っていても。
攫うことなく、サイオンを与えることもなく、時が来たらフィシスと別れただろう。水槽の中のフィシスに別れを告げただろう。
「君の地球を見るのは今日で終わりだよ」と、「今日まで見せてくれてありがとう」と。
そうしてフィシスは水槽から出され、別の人生を歩んだだろう。
貴重な実験のサンプルとして研究者たちに囲まれて暮らすか、あるいは他の人類と一緒の生活をさせられてデータを取られるか。
いずれにしても、ミュウとは無関係な生。シャングリラなど知らず、サイオンも持たず、ただの人類として生きてゆく道。その人生にミュウの長などは要らないから。
(…最後に記憶を消してお別れ…)
自分と会っていたフィシスの記憶を消してしまって別れただろう。「さようなら」と。
あの瞳が開いていたならば。
視力は無くとも、アイスブルーの瞳が輝いていたならば。
(何もかも見られているような気がするものね…)
視力が無い分、その瞳は何処も見ていないから。焦点を結びはしないから。
その分、瞳に映った全て。それを見通すような気がする、奥の奥まで。
目に見える形に囚われない分、それが持つ本質といったものまで。
(…それにサイオン…)
フィシスに与えたサイオンの力。ミュウだけが持っている特殊な能力。
思念波での会話と基礎的な力、それらを分けて与えるだけではフィシスは自由に動けはしない。盲目だから。視力が無いから。
目を閉じていても見ることが出来る能力、それを与えねばならないけれど。それが無ければ船の中でフィシスは困るだろうから、分け与えなければならないけれど。
人類は本来、持たない能力。ある筈もない高度なサイオン能力。
「見る」という力がフィシスの身体にどう作用するかは謎だった。単に見えるようになるというだけか、健康な身体を持っている分、もっと強い力を持つというのか。
しかも健康なだけではなくて、無から生み出された生命体。マザー・システムが誇る最高傑作。目が見えないという点を除けば、非の打ち所がないフィシスの肉体。
それほどの器がサイオンを持てば、どう変化するか分からない。思った以上の力を得そうな気がした。「見る」という力に関しては。
前の自分が、ソルジャー・ブルーが予想した通り、危惧した通り。
フィシスは未来を「見る」力を得た。ブルーにさえ無かった、予知の能力。神秘の能力。
もしも瞳が開いていたなら、未来だけでなくて隠されたものまで見たかもしれない。瞳に映ったものの全てを、それらのものの奥底までをも。
心を読むのとは違った形で奥の奥まで、人の器に宿る思いの底の底まで。
そうなっていたら、前の自分とハーレイとの恋も見抜かれただろう。一目見ただけで、見えない瞳に自分たちの姿を映しただけで。
(うん、きっと…)
フィシスがそういう力を持っていたなら、一瞬で知れた。誰にも明かしていなかった恋が。長い年月、隠し通した恋を見抜かれ、知られていた。
そうなってしまうことを恐れて、フィシスを攫いはしなかったろう。
見えない瞳が何を見るのか、それが恐ろしかっただろうから。
サイオンを与えることさえしないで、地球を抱く少女と別れただろう。フィシスが抱く青い地球ごと、フィシスそのものを諦めただろう。
手に入れることは出来ないと。
彼女の瞳が何を見るかが分からないから、シャングリラには連れてゆけないと。
あるいは、力が無かったとしても。
フィシスに「見る」ための力を与えることなく、盲目のままで連れて帰ったとしても。
思念波での会話などの基礎の力だけで、船内の移動や日々の暮らしは他の者の手を借りるという形にしておいたとしても。
(目が開いていたら…)
フィシスの瞳が開いていたなら、見られる度に心が痛む。
何も見ていないアイスブルーの瞳に自分が映るのを見る度、心の奥がツキンと痛む。
フィシスの世話はアルフレートがしただろうけれど、彼がフィシスを連れてシャングリラの中を移動しただろうけれど。その時に自分と出会っていたなら、アルフレートはこう言っただろう。
「ソルジャーがおいでですよ、フィシス様」と。
そうしてフィシスを自分の方へと向かせただろう。見えぬ瞳でも、あらぬ方を眺めてしまわないように。ソルジャーに礼を取れるように、と。
フィシスが自分の方を向いたなら、見えない瞳が向けられたなら。
アイスブルーの瞳に自分の姿が映って、フィシスと向き合うことになる。見えていなくても。
その度に心がツキンと痛む。
自分の心はフィシスの上には無いのに、と。
青い地球が見たくて攫って来ただけで、地球を抱く女神が欲しかっただけ。
フィシスが自分に向けているようなひたむきな愛などは無くて、地球を欲しただけなのに、と。
本当に地球だけを愛したわけではないけれど。
それを見せてくれたフィシスごと愛して慈しんだけども、人形を愛でるのと変わらない愛。
自分の心を捧げる愛とは違った愛。異なった愛。
真に心から愛した人なら、他にいるから。フィシスと取り替えるつもりは無いから。
だから攫えない、攫えはしない。
フィシスの瞳が開いていたなら、アイスブルーの瞳が自分に向けられるのなら。
たとえサイオンで「見る」という力を得なかったとしても、盲目のままであったとしても。
あの目で見られたら辛くなるから。
フィシスが前の自分にくれたのと同じだけの愛を、想いを、自分は決して返せないから。
(閉じてて良かった…)
フィシスの瞳。一度も開きはしなかった瞳。
顔の飾りにすらなりはしなくて、瞼の下に隠されたままで終わったアイスブルー。氷に覆われた湖の青の、誰も知らなかったフィシスの瞳。
フィシスの瞳が開いていたなら、攫わなかったと思うけれども。
それは今だからこそ、そう思うだけで、水槽の中のフィシスに出会った頃だったなら。
フィシスが抱く地球に魅せられ、通い詰めていた頃の自分だったなら。
我慢出来ずに攫ったかもしれない、瞳が開いているフィシスを。アイスブルーの瞳の少女を。
「見る」力だけは与えずにおいて、盲目のままで。
どうしてもフィシスが、地球が欲しいと、アイスブルーの瞳を持った少女を。
(そうなっていたら…)
自分も心が痛んだろうけれど、ハーレイもきっと困ったと思う。
フィシスが側に来る度に、きっと。アイスブルーの瞳がハーレイを映す度に、きっと。
その瞳を持つ少女が慕って愛するブルーを、自分が奪ってしまっているから。
ブルーの心は決してフィシスに向きはしなくて、ハーレイだけを見ているのだから…。
そんなことをつらつらと考えていたら、チャイムの音が聞こえて来た。
仕事帰りのハーレイが鳴らしたチャイムの音。窓から見下ろせば、手を振る人影。門扉の前で。
そのハーレイと自分の部屋で向かい合わせに座ってから。お茶とお菓子を前にしながら。
「あのね、今日、学校の帰りにね…」
フィシスに会ったよ、と切り出したら。
ハーレイが驚いて息を飲むから、「そう思っただけ」と笑ってみせた。別人だった、と。
「赤ちゃんの頃から知ってる子なんだ、ご近所さんのお孫さん」
ぼくが出会った頃のフィシスくらいになってて、フィシスとおんなじ髪型をしてて…。
庭の椅子で昼寝をしていたんだよ、今日はお天気が良かったから。すやすやと寝てたよ、気持ち良さそうに。大きくなったよね、って覗き込んだんだけど…。
瞳が開くまでフィシスに見えた、とあの話をした。
一連の話。似てもいない少女がフィシスに似ているように思えたのだ、という話。
澄んだ若葉の緑の瞳をしていた少女。
ただ目を閉じていたというだけのことで、フィシスを思わせた少女の顔。
それらを話して、言葉を切って。
ハーレイを見詰めて、こう問い掛けた。
「もしもだよ。…もしもフィシスの瞳が開いていたら…」
視力は無くても開いていたなら、ハーレイはどうだったと思う?
「どういう意味だ?」
「冷静でいられたのか、っていう意味だよ。フィシスの前で」
フィシスの瞳にじっと見られたら、どうだった?
キャプテンじゃなくて、ぼくの恋人の方のハーレイ。
ぼくたちのことは何も知らない筈のフィシスが、ハーレイの顔をじっと見上げていたら…?
視力が無いから何も見えない筈なんだけどね、と説明をしたら。
ハーレイは「うーむ…」と低く唸った。
「それは確かに落ち着かないな。キャプテンとしての俺はともかく、中身の俺がな」
何を思って見詰めてるんだ、と心配になってくるだろうな。
何処かでヘマでもやらかしたのかと、お前とのことがバレちまったかと。
フィシスはお前を慕ってたしなあ、恋する女性の勘ってヤツでだ、恋敵は俺だと見抜いたとか。
「やっぱりね…」
ハーレイだってそうなっちゃうんだ、フィシスが側に来て見詰めていたら。
見えてないだけに、フィシスがいったい何を見てるのか、余計な心配しちゃうよね…。
ぼくも駄目だ、とブルーは小さな溜息をついた。
フィシスの瞳が開いていたなら、きっと攫えなかったと思う、と。
攫うことを諦め、ミュウにもしないで研究所に残しておいただろうと。フィシスが抱いた地球に魅せられ、どんなに焦がれて通い詰めようとも、自分は攫わなかっただろうと。
「もしかしたら、それでも攫っていたかもしれないけれど…。攫っていたら後が大変だよ」
ぼくもハーレイも落ち着かなくって、フィシスが来る度にハラハラしちゃって。
瞳が閉じてるのと開いてるのとで、まるで全く違うだなんて…。
見えないって所は同じなのにね、前のぼくが「見る」力さえ与えてなければ。
目がパッチリと開いてるだけで、何の役にも立たないんだけれど…。
それでも怖いよ、フィシスの瞳が開いていたら。
見えない筈の瞳がじっと見てたら、フィシスには何か見えるんだろうか、って気になるものね。
ホントに怖い、と肩を震わせたブルーだけれど。
ハーレイの方は、フィシスの瞳を知らないから。ブルーと違って、瞼の下の瞳を知らないから。
具体的なイメージが掴めないのか、顎に手を当てて首を捻った。
「フィシスの瞳か…。開いていたなら不安ではあるが、どうも今一つ実感がな…」
どういう感じの顔になるのか、俺には全く想像がつかん。
お前が見たっていう女の子じゃないが、瞳を閉じてる顔しか頭に浮かばないんだ。俺はそういう顔しか知らんし、瞳の色さえ分からないからな。
「キースと同じ色だったよ」
「それは…!」
あのキースと同じだったのか、フィシス。…そんな瞳の色だったのか…。
知らなくて良かった、という気がするぞ。知っていたなら、俺はフィシスをどう見ていたか…。
フィシスがキースを逃がしちまったのは事故だと自分を納得させていたが、同じ色の目じゃな。
どういう生まれか知っていただけに、睨んじまったかもしれないなあ…。
「キースと同じ色っていうのは今だから言えることだよ、ハーレイ。フィシスの方が先」
ぼくがフィシスと出会った頃には、キースは何処にもいなかったんだし…。
キースの方が真似してたんだよ、フィシスの瞳の色の真似をね。
でも、ハーレイの気持ちも分かる。ハーレイはキース、今でもとっても嫌いだものね。
「…お前、それもあってキースを嫌っていないのか?」
フィシスと同じ瞳の色。そのせいもあるのか、お前がキースを嫌わない理由。
「ううん、瞳の色は少しも関係無いよ」
キースを作った遺伝子データの元がフィシスだってことも、瞳の色も無関係だよ。
フィシスとキースは違う人間だし、ぼくがキースを嫌わない理由になりはしないよ、瞳の色は。
まるで別物なんだもの、とブルーは肩を竦めてみせた。
同じ色でも違う瞳、と。
キースの瞳は色そのままに氷の瞳で凍てついていたと、感情すらも凍っていたと。
フィシスの瞳に感情の色は無かったけれども、その代わり、凍ってもいなかったと。
何も映していなかった瞳。映すことなく瞼に覆われていた瞳。
フィシスの意志では瞼は動かず、けして開かなかったから。
瞼が開いてアイスブルーの瞳が光に晒されることは、ついに一度も無かったから。
感情を一度も宿すことなく、凍ることもなく、顔の飾りにさえならなかった瞳。
前のブルーの他には見た者すらも無かった、凍った湖の色を湛えた瞳…。
「だけど、フィシスの瞳が開かなくて良かった…」
開いていたなら、きっと諦めるしか無かったから…。フィシスをシャングリラに迎えること。
どんなにフィシスの地球が見たくても、あの目で見られたら困ることの方が多いから。
地球は欲しくても、困ることが多いと分かっているなら諦めるしか…。
「お前、あの地球、好きだったからな」
フィシスの地球。身体がすっかり弱っちまっても、お前、あの地球、見ていたものなあ…。
「うん…。あれが好きだったよ、フィシスよりもね」
フィシスよりも地球が好きだった。フィシスが持ってた青い地球が。
「それを知ってるのは俺だけだがな」
俺しか知らなかったんだよなあ、お前はフィシスよりもフィシスの地球の方が好きだったこと。
シャングリラ中がすっかり勘違いしてて、誰も気付かなかったんだよなあ…。
遠い遠い昔、白いシャングリラがあった頃。
その船でブルーがフィシスの抱く地球を、飽きずに眺め続けていた頃。
誰もがブルーはフィシスのことが好きなのだと思い込んでいた。
恋人とは少し違うけれども。恋とは違った感情だけれど、フィシスを愛しているのだと。
けれども実の所は違って、ブルーが愛していたのは地球。フィシスの中に在った青い地球。
それを見せていたフィシス自身も、きっと気付いてはいなかったろう。
ブルーの想いは地球の上にあると、それを持つがゆえに自分も愛されているのだとは。
ブルーが自分を女神と呼ぶのは地球を抱くゆえで、それゆえに女神なのだとは…。
「フィシスの瞳が開いていたなら、あの地球だって…」
後ろめたくて見ていられないよ、ぼくの表情、バレているんじゃないか、って。
フィシスを見る目とはまるで違うと、地球の方に恋をしているんだ、ってバレてしまいそうで。
「そうだろうなあ…」
目が見えないんじゃ、じっと目を開けて地球をお前に見せたかもしれんし…。
そうなってくると、お前も心が落ち着かないよな、本心ってヤツを見抜かれそうでな。
「うん…。だけどフィシスの目は閉じたままで、ぼくはフィシスを攫えたわけで…」
もしかしたら、フィシスは神様がぼくにくれたんだろうか?
前のぼくが希望を失わないために。失くさないために…。
「希望って…。俺じゃ足りなかったか?」
俺がいるだけでは足りなかったって言うのか、前のお前の人生には。
もっと何度も愛しているって言うべきだったか、前の俺は…?
「ううん、ハーレイの愛は充分貰っていたよ。こんなに貰っていいんだろうか、って思うほどに」
ハーレイとの愛なら失くさなかったし、希望だって持っていたけれど…。
それとは違って地球への夢だよ。いつかは地球へ行こう、っていう夢。
「なるほどなあ…。そいつは俺ではどうにもならんな」
お前を地球まで連れて行ってやる、と約束はしたが、お前に地球を見せてはやれんし…。
フィシスに頼るしかないってわけだな、地球へ行く夢を持ち続けるなら。
いつかハーレイと地球へ、と願ったブルーだけれど。
白いシャングリラで青い地球まで、共に行きたいと願ったけれど。
命が尽きると気付いた時には、地球をも諦めそうだった。
どうせ駄目だと、青い地球には辿り着けないと。その前に寿命が尽きてしまうと。
けれど、もうフィシスが来ていたから。フィシスがとうに船に居たから。
フィシスが抱いた幻の地球で、挫けそうな心を慰めていた。
あの青い地球までシャングリラの皆を、と。
それが自分の務めなのだと、ソルジャーの最後の務めなのだと。
自分の命は尽きるのだとしても、何処かに道はある筈だから。
皆を地球へと連れてゆける道が、きっと何処かにある筈だから。
命尽きる前にそれを見付けて皆を導こうと、地球への道筋をつけておこうと…。
「もしもフィシスがいなかったなら…。ぼくはあの時、地球を捨てていたよ」
地球へ行こう、っていう夢を。地球への希望を。
持っていたって、着く前に死んでしまうんだから。ぼくは地球には行けないんだから…。
「俺と一緒に行けないからなのか、いつか行こうと約束したのに」
シャングリラでお前を連れて行ってやると俺は誓ったが、お前の命が持たないからか?
「そう。辿り付けもしない夢の国なんかは要らないよ」
夢物語と変わらないんだよ、青い地球なんて。
だけど、ハーレイは来てくれると言ってくれたんだから。ぼくが死んでも、ぼくと一緒に。
その約束の方が、よっぽど大事。
…行けもしない地球に行く夢よりもね。
「約束、破っちまったがな。…俺はお前と一緒に行ってはやれなかった」
「それはぼくの方だよ、ハーレイに約束を破らせちゃった」
ジョミーを頼む、ってシャングリラに縛り付けちゃって。
前のぼくがフィシスの地球のお蔭で諦めずに済んだ、地球への希望。
諦めなかったからジョミーを見付けて、みんなが地球まで行けるように道を付けられたけど…。
フィシスを攫って来ていなかったら、きっとジョミーを見付けていないよ。
探そうともせずに泣いてばかりで、何もしないままで前のぼくの命は終わっていたよ…。
フィシスの瞳。閉じた瞼の下に隠された、アイスブルーの色だった瞳。
それが開いていなかったからこそ、ブルーはフィシスを攫うことが出来た。サイオンを与えて、白いシャングリラに迎え入れて女神と呼び続けた。
フィシスが抱いた地球が欲しくて攫ったお蔭で、地球への希望を失くさずに済んだ。ジョミーを見出し、次の世代を託すことが出来た。
フィシスの瞳が開かなかったのは、神からの贈り物なのだろうか?
地球を抱くフィシスは機械が生み出した命だけれど。
無から生まれた、神の領域を侵す生命だったのだけれど…。
「ねえ、ハーレイ。…フィシスは機械が生み出したけれど…」
きっと本当は神様なんだよ、神様が作ってくれたんだよ。
そして前のぼくにくれたんだと思う、フィシスの地球ごと、前のぼくに。
フィシスの目が閉じたままだったのもきっと、神様がそうしてくれたんだよ…。
「そうかもしれんな。フィシスの瞳が開いていたなら、お前は攫わなかったと言うし…」
何よりも、今のお前の聖痕。
そいつは神様がお前に下さったもので、お蔭でお前に出会えたんだしな。
「うん…。何もかも神様のお蔭だよね、きっと」
前のぼくがフィシスを手に入れられたのも、ハーレイと地球でまた出会えたのも。
フィシスの瞳が閉じていたのも、神様のお蔭なんだよね、きっと…。
地球を抱く女神、フィシスに嘘をついていたけれど。
ハーレイとの恋を隠したけれど。
大切なのはフィシスなのだと、女神と呼んで慈しみ、愛しているふりをしていたけれど。
もしもフィシスの瞳が開いていたなら、つけなかった嘘。
攫えずに終わっていただろうフィシス。
フィシスも神がくれたのだろう。前の自分が地球への希望を捨てぬように、と。
その神が今度は聖痕をくれた。
ハーレイと地球で巡り会えるよう、今度こそ共に生きられるよう。
だから今度は幸せになれる。ハーレイと二人、前の自分が夢に見ていた青い地球の上で…。
フィシスの瞳・了
※開くことは無かった、フィシスの瞳。もしも盲目でも開いていたなら、違っていた未来。
閉じたままの瞳で良かったのです、前のブルーが地球への夢を抱き続けるためには…。
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