シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(…え?)
それは地球を見ている時に起こった。フィシスの地球。
天体の間を訪ねる至福のひと時、銀河の海に浮かぶ母なる地球。青い真珠。
フィシスと手を絡め、思念の波長を合わせるだけで遠い地球まで飛んでゆける。旅が出来る。
このシャングリラを遠く離れて、ソル太陽系の第三惑星へと。
ただの映像に過ぎないけれども、フィシスを生み出した機械が植え付けた記憶だけども。それを知りつつ、なお焦がれずにはいられない。誰かが撮った地球の姿だから。地球は本物なのだから。
水槽の中に居た幼い少女。青い地球の映像を抱いていた少女。
無から生み出された生命体でも、どうしても彼女が欲しかった。彼女の地球が。
サイオンを分け与え、生まれながらのミュウだと偽り、白いシャングリラに連れて来た。地球を抱く女神なのだ、と船の仲間たちに紹介した。彼女は特別な存在だ、と。
船に来た時には幼かったフィシスも、すっかり育ってそれは美しい女性となった。床にまで届く金色の髪に、誰をも魅了する美貌。その上、タロットカードを使って未来を読み取る占い師。
今では文字通りミュウの女神で、思惑以上の存在となった。
誰もフィシスを疑わない。ミュウとは違うと気付きもしない。彼女の抱く地球を見たいと、折があれば是非、と誰もが願う。
それほどに鮮やかな地球の映像、青い地球へと渡ってゆく旅。
飽きること無く何時間でも見ていられるほど、焦がれてやまないフィシスの地球。
その地球の映像が不意に揺らいだ、絡み合う思念の波が揺れて打ち消し合ったかのように。
映像の海に誰かが石でも投げたかのように、乱れてしまった青い地球の姿。
「ソルジャー!?」
同時に上がったフィシスの悲鳴。
気付けば床に倒れ伏していた、さっきまで自分が立っていた床に。
フィシスは酷く驚き慌てて、アルフレートを呼ぼうと奥へと行きかけたけれど。
「…大丈夫。なんでもないよ」
もう平気だから、と身体を起こした。現に何ともなかった身体。眩暈もしないし、起きられる。
けれどもフィシスが心配するから、「これでいいかい?」と椅子に腰掛けた。「こうしていれば倒れないから」と、「倒れるとも思えないけれど」と。
「でも、ソルジャー…。さっきは一瞬、気を失っておられたのでは…」
「そうらしいけれど…。でも心配は要らないよ、フィシス」
貧血だろう、と微笑んでみせた。
昨日は船の外へ出ていたから、と。アルテメシアに降りていたから、きっと疲れが出たのだと。
フィシスはホッと安堵の息を漏らして、アルフレートにお茶の支度を頼んだ。
「今日はソルジャーがお疲れですから、お菓子は甘いものをご用意して」と。
甘いものは疲れが取れると言うから、フィシスと二人でお茶を飲みながら食べた菓子。その間もフィシスは気遣ってくれた、「本当にもう大丈夫ですか?」と。
「大丈夫だよ」と「何ともないから」と、何度応えてやったろう。事実、何ともないのだから。
けれど…。
(そんなに力は使っていない筈なのに…)
何があったというわけでもない、昨日の外出。アルテメシアの様子を探りに降りただけ。
思った以上に疲れただろうか、あのくらいのことで?
知らぬ間に疲れが溜まっただろうか、寝不足にでもなっているのだろうか…?
自覚は全く無いのだけれど。きちんと眠れている筈だけれど…。
夜になって、青の間へハーレイが一日の報告をしにやって来て。
挨拶もそこそこに、報告の前に言われた言葉。
「ソルジャー、倒れられたとか」
「参ったな。君の耳にも入ったのかい?」
「ええ、フィシスから聞きました」
酷く心配していましたが…。お身体の具合が悪いのでは、と。
「大したことはないよ。今までにも無かったわけではないしね、フィシスの前で倒れたことは」
そんな時のと比べてみるなら、今日のなんかは数の内にも入らない。ただの貧血。
それより、早く報告を。…それが終わらないと、ぼくはブルーに戻れないんだ。
早くソルジャーからブルーになりたい、と促した。今日の報告を済ませてくれ、と。
ハーレイの報告が終わるのを待って、普段ははめたままの手袋を外した。
ソルジャーの衣装を構成するもの。マントと同じで、つけているのが当たり前のもの。
その手袋はハーレイの前でしか外さない。恋人同士の時間の始まりの合図。
心得たようにハーレイの顔が近付いて来たから、キスを交わして。
それから二人でお茶を楽しみ、シャワーを浴びてベッドに入ろうとしたら。ハーレイの腕に抱き締められて甘い時間を過ごそうとしたら。
「…いけません。今日はお休みにならないと」
昼間の貧血をお忘れですか?
今夜はごゆっくりお休み下さい、お身体をしっかり休めて頂かないといけませんから。
お側についておりますから、と添い寝だけで済まされてしまった夜。愛し合えずに終わった夜。
物足りない気もするのだけれども、それもたまには心地よい。
ハーレイの優しい温もりに包まれ、腕の中で眠るだけの夜。
そう思ったのに。
(また…?)
クラリ、と揺れた気がする視界。
あれから数日、公園で子供たちと一緒に遊んでいた時。
ほんの一瞬、感じた足元の頼りなさ。とはいえ、今度は倒れなかった。少し身体が傾いだ程度。
顔を上げれば、ブリッジの端からハーレイがこちらを見ていたから。
なんでもないよ、と手を振っておいた。
ハーレイは息抜きをしていたのだろう、ブリッジから公園を見下ろしながら。
休憩室へと出掛ける代わりに。好きなコーヒーを飲みにゆく代わりに。
恋人の自分が公園に居るから、きっと見ていてくれたのだ。休憩室に行くより、コーヒーを飲むより、恋人の姿を追っていたい、と。
そう思うと悪い気持ちはしない。愛されている、と頬が緩みそうになる。
子供たちのいる場では手を振ることしか出来ないけれども、あそこに自分の恋人がいる、と。
夜を迎えて、青の間に報告に来たハーレイ。
先日と同じで、挨拶が済むと報告を始める代わりに口にした言葉。
「ソルジャー、お加減が悪くていらっしゃるのでは?」
「何故だい?」
「昼間、公園で…」
ふらついておられたように思うのですが。子供たちと遊んでらっしゃった時に。
「ああ、あれかい? なんでもないよ」
少し眩暈がしただけだから。この前みたいに倒れてはいないし、ほんの一瞬だけだったからね。
大丈夫だよ、と手袋を外したのに。
報告を終わらせて恋人同士の二人に戻ろう、と合図したのに、ハーレイは厳しい顔をした。また添い寝だけで終わってしまった、二人一緒に眠っているのに愛を交わせずに。
二度も続くと嬉しくないから。
期待外れな気持ちの方が大きくて、添い寝を素直に喜べないから。
(気を付けよう…)
少し疲れているかもしれない、自分でも気付かない内に。
疲れるようなことをしていた自覚は全く無いけれど。
(…自覚があったら疲れないか…)
きっと何処かに原因が、と暫くは自重しようと思った。
船の外に出るなら、早めに戻る。のんびり景色を楽しんだりせずに、用が済めば直ぐに。
そうして気を付けていたというのに…。
頻繁に起こし始めた眩暈。
時も所も選ばなかった。青の間だったり、公園だったり、通路だったり。
フィシスの前でも何度も起こした、その度に口止めしておいたけれど。
「ぼくがハーレイに叱られるからね」と、知らせないよう言い含めたけれど。
何処でも起こしてしまうものだから、ハーレイにもついに気付かれた。今のブルーは体調不良の最たるもので、「大丈夫」は信用できないと。
自分が見ただけでも何度目なのか、と怖い顔をして叱られた。大丈夫ではないだろう、と。
「ノルディの診察を受けて下さい」
それで結果が問題無ければ、大丈夫だと私も安心出来ます。
問題があるなら、お嫌でも治療を受けて頂かないと。大切なお身体なのですから。
「うん…」
分かったよ、君がそこまで言うのなら。
…それに眩暈を起こした日の夜は、添い寝しかしてくれないんだし…。
明日、メディカル・ルームに行ってくるよ。それで安心なんだろ、君は?
渋々受けた医療チェック。
成人検査の機械を連想させる医療機器の数々は好きではないけれど。
検査のためにと血を採られるのも、アルタミラの研究所を思い出させるから嫌なのだけれど。
それでも一度だけなのだから、と我慢してチェックを済ませたのに。
「…え?」
ノルディの言葉の意味が掴めず、訊き返したら。
「定期的に、と申し上げました。一度だけでは分かりかねます」
ソルジャーは日頃、こういった検査を酷く嫌ってらっしゃいますから…。
お嫌いなことは充分承知しておりますが、継続的なデータが必要です。暫く通って頂きます。
次は一週間後においで下さい、と検査の告知。
そうして何度も検査を続けた、一週間ごとに。けれども検査と診察ばかりで貰えない薬。
眩暈の原因は貧血だろうと思ったけれども、そちらもあまり良くならないし…。
(検査と診察で余計に疲れるんだ…)
心身に負担がかかっているのだ、と溜息をついた。精神的な疲労が溜まっているに違いないと。
だから治らない、突発的に起こす貧血。ミュウは精神の不調が身体に現れやすいから。
(…ストレスは悪いに決まっているのに…)
なのに検査と診察の日々が続くのだろうか、と不満で一杯になって来たある日。
いつもの検査と診察の後でノルディに呼ばれた。
こちらへ、と。
メディカル・ルームの一角に設けられている小さな一室。
中の様子を窺えないようにした、カウンセリング用の小部屋。
部屋の存在は知っていたけれど、患者として入ったことは無かった。
ノルディが扉に施錠する間に周りを見回し、向かい合って椅子に腰掛けるなり尋ねてみた。
「ぼくは心の問題なのかい?」
この部屋に案内するなんて。…此処はカウンセリング用の部屋だろう?
「…そうとも言えます。心のケアが必要ですので」
「どういう意味だい?」
心因性のものだと言うなら、この定期的な検査を止めてくれるだけでも変わってくるよ。
正直な所、ぼくは相当参っているんだ。…そろそろ解放してくれないかな?
「いえ。…大変申し上げにくいのですが、実はソルジャーのお身体は…」
衰えつつあります、と宣告された。
確実に死へと向かいつつあると、あと二十年も持たないだろう、と。
「二十年…。あと二十年でぼくは死ぬと?」
「はい。あるいは十年かもしれません。こればかりは今の時点では…」
分かりかねます、データが充分ではありませんから。けれども、延びることはありません。
ソルジャーに残されたお時間は、長く持っても二十年です。
「…そんなに悪いデータなのかい?」
「ええ。…必要ならば詳しく御説明させて頂きますが」
ご覧下さい、とノルディが取り出したデータ。今日までの検査で得られたデータ。
細胞レベルで進行しつつある老化。滅びに向かって。
外見の年齢を止めているから、外からは全く分からないだけ。
死にゆこうとしているブルーの肉体。持って二十年、十年かもしれない寿命の残り。
ノルディは他言しないと言ったけれども。
見た目で気付かれるほどには死は近くないし、知れれば船はパニックだから、と。
それからノルディと何を話したか、心のケアとやらをして貰ったかの記憶は無い。
眩暈を起こしているわけでもないのに、ふらついた足。真っ直ぐに歩けなかった足。
他の仲間に出会わないよう、人通りが少ない通路を通って戻った青の間。
まだふらつく足でスロープを上り、ベッドにドサリと倒れ込んだ。
(ぼくが死ぬ…)
あと二十年で尽きると言われた命。
たったの二十年、それだけしか残っていないらしい命。下手をすれば十年で消えてしまう命。
それよりも短いことも有り得る、なにしろデータが無いのだから。
人類よりも遥かに寿命の長いミュウの老化を詳しく調べたデータなどは無い。この船で暮らして先に逝った者たちのデータだけが頼り、けれども老衰で死んだ仲間はただの一人もいない。
つまりは参考データが無いということ、死の国へ旅立った仲間が遺したデータだけしか。
滅びへと向かう肉体のデータが残ってはいても、ブルーの命の残りを正確に読み取れはしない。
二十年なのか、十年なのか。もしかしたら、僅か数年しか残っていないのか。
(ぼくが死んだら…)
船はなんとかなるだろうけれど。
新しい仲間の救出は専門の潜入班がこなしているから、今後も続けられる筈。
人類側との戦闘にしても、本格的なものは一度も無かった。アルテメシアに来る前も、後も。
外へ出した小型艇が身元不明の船として追われて逃げた程度で、威嚇射撃をされただけ。人類はミュウの船だと気付いてはおらず、社会の秩序から外れて生きる海賊の類と思っただろう。
それゆえに深追いされることもなく、シャングリラは未だに存在自体を知られてはいない。
今まで通りの生活を続けてゆこうというなら、自分が死んでも船は守れる。
威嚇射撃をされた船の救助に、生身で飛び出せる者がいなくなるというだけのこと。安全確実に救い出すことは難しくなってしまうけれども、応援の船を出せば解決出来る筈。
そういった訓練も積んで来たのだし、速やかに移行できるだろう。
このシャングリラの未来は守れる、自分が死んでしまった後も。
ただ…。
(地球へは…)
シャングリラは行けなくなるかもしれない。
未だ座標も掴めない地球。其処へ旅立つ準備は始まっておらず、何の用意も出来てはいない。
白い鯨はアルテメシアの雲海から外へと出られないままで、地球へは向かえないかもしれない。
シャングリラでさえも、そうなのだから。
この船でさえも、今のままでは地球へ行けそうもないのだから。
(…ぼくは行けない…)
青い地球には辿り着けない、あれほどに焦がれ続けた星に。
地球が見たくてフィシスを船まで連れて来たほどに、本物の地球に着く日を夢見て来たのに。
その地球に行けない、とても着けない。
辿り着くどころか、旅立つよりも前に尽きてしまう命。消えてしまう自分の命の灯火。
それに…。
(ハーレイ…)
アルタミラを脱出したその日から一緒だったハーレイ、今は恋人同士のハーレイ。
いつまでも一緒だと思っていた。二人で地球まで行けるものだと信じていた。
けれども、それは叶わなくなった。
自分の命が尽きると言うなら、その時がハーレイとの永遠の別れ。
死の国に向かう自分はハーレイと引き裂かれてしまい、離れてしまう。会えなくなってしまう。
どんなにハーレイを求めようとも、会いたいと泣いて泣き叫ぼうとも、もう会えない。
自分が死んでしまったなら。死者の世界へ引き込まれたなら。
(…ハーレイと会えなくなるなんて…)
想像したことさえも無かった、ハーレイとの仲が終わる日など。
何処までも二人で共にゆくのだと、いつも二人だと思っていたのに。
まさか自分が先に逝くなど、死神の大鎌が振り下ろされてハーレイとの絆を切ってしまうなど、本当にただの一度も考えさえもしなくて、ハーレイとの恋に、幸せに、酔っていたのに…。
(……ハーレイ……)
会えなくなる。いつか会えなくなってしまう。
二十年先か、十年先か。もっと早くに訪れるかもしれない別れ。
涙で世界がぼやけ始めた、まるでその日が来たかのように。
こうして薄れて消えてゆくのだと、この世界からいなくなるのだと、全てを溶かしてしまうかのように…。
一人きりで泣いて、涙で枕を濡らし続けて。
それでも部屋付きの係が来た時は、平静な風を装った。食事も普段と変わりなく食べた。
ソルジャーとしての精神は鍛え抜かれていたから。弱さを見せてはならないから。
そうして長すぎる一日が終わり、ハーレイが報告をしに青の間に来て。
挨拶の後に、こう付け加えた。この所、一週間おきにハーレイが挨拶の続きに口にする言葉。
「今日は診察の日でらっしゃいましたね、如何でしたか?」
お身体にお変わりはありませんか、と問われた途端に崩れそうになってしまった心。保ち続けたソルジャーの貌が歪んでしまった、その瞬間。
ハッと気付いて気分を引き締め、顔だけは元に戻したけれど。
心の中はとうに涙に染まって、ハーレイも何かを感じ取ったらしく。
「ソルジャー…?」
どうなさいましたか、ご気分でも…?
「…ブルーでいい…」
ブルーと呼んでくれればいい。ソルジャーじゃなくて。…今日はそういう気分だから。
ぼくはブルーだ、と手袋を外した。恋人同士の時間が始まる合図。
ハーレイの、いや、キャプテンの報告をまだ聞き終えてはいないのに。ソルジャーとして聞いておくべき報告、それをハーレイは始めてすらもいないのに。
「…ソルジャー…?」
不審そうに顰められる眉。何事なのかと訝るハーレイ。
本当は叫び出したい気分だったけれど、それを押し止めてソルジャーとしての言葉を紡いだ。
「このままで聞くよ、君の報告。…今日のシャングリラはどうだったんだい…?」
「…はい。ブリッジには異常ありません。機関部も特に問題は無く…」
お決まりの異常なしの報告、それに仲間たちの間で起こったことなど。会議の予定や審議すべき議題、いつもと変わりない中身だったけれど。
その報告を聞き終えるまでが長かった。上の空ではなかったけれど。ソルジャーとして全て頭に入れはしたけれど、それはソルジャーだったから。長くソルジャーとして立っていたから。
「以上です」とハーレイが一礼した途端に零れた涙。
ただのブルーに戻った瞬間。
「ソルジャー…!」
驚き慌てるハーレイに「ブルーだよ…」と返すのが精一杯で。
とめどなく零れ始めた涙。もう止められなくなってしまった、心に溢れていた涙。心から瞳へと堰を切って流れ、何を言えばいいのかも分からなくて。
「どうなさったのです?」
何か悲しい出来事でも…、と訊かれたから。ハーレイが糸口を作ったから。
「ごめん、ハーレイ…。泣いちゃって、ごめん。でも…。ぼくの命は…」
もう持たないんだよ、地球に着くまで。持って二十年、それだけしか残っていないんだよ。
十年ほどかもしれない、って…。
「そんな…!」
ハーレイは絶句し、ブルーを胸へと抱き込んだ。強い両腕で、広い胸へと。
その胸に縋り付き、泣くしかなくて。
泣きじゃくるだけのブルーの姿に、ハーレイがその背を撫でながら訊いた。
「…何か聞き間違えてはおられませんか? ノルディから報告は来ておりませんが…」
キャプテンの私が知らないからには、ノルディなりの警告だったとか…。
無茶をなさるとそうなりますよ、と脅されたのではありませんか?
頻繁に眩暈を起こしていらっしゃるのに、あなたは普段通りに動こうとなさいますから。
きっとそうです、とハーレイはブルーを宥めたけれど。
ノルディの脅しだったのだろうと言ったけれども、ブルーは真実を知っているから。
カウンセリング用の小部屋で告げられたことも、見せられたデータも全て嘘ではなかったから。
「…本当だよ。ノルディは誰にも話さないと…」
そう言っていたよ、ぼくに。皆がパニックに陥るから。
…ソルジャーのぼくがいなくなるなど、皆には受け入れ難いだろうから…。
「ですが、ブルー…。そうした事情でも、キャプテンの私には報告があると思いますが」
なのに私は知らないのですし、やはり脅しだと考えた方が…。
「…君にはいずれ知れると思う。折を見てノルディが話すだろう」
ゼルやブラウやヒルマンたちにも。…エラもだね。
君たちは知っておくべきだから。
シャングリラの今後のことがあるから、近い内にか、数ヶ月先か、報告はきっと届くだろう。
もしもノルディが言わないようなら、ぼくから話せと促さなければ。
この船を守り続けるためには、ぼくがいなくなった後のことまで早い間に決めておかないと。
でも…。
ソルジャーとしての責任感だけで語れた言葉はそこまでだった。
ハーレイの腕の中、言うべきことを言ってしまえば、もう本当にただのブルーに戻るだけ。
ソルジャーではないただのブルーに、ハーレイに恋をしているブルーに。
「…ハーレイ、ぼくは死んでしまう…。あと二十年か、十年くらいで」
もっと早くに死ぬかもしれない、ノルディにも正確な時期は予測できない。
だけど死ぬんだ、それだけは確か。ぼくの寿命は尽きてしまって、もうすぐ死んでいくんだよ。二度と元気になれはしなくて、その内に、いつか…。
ぼくがいなくなる、とブルーは泣いた。
このシャングリラから消えていなくなると、君と離れてしまうのだと。
辛くて悲しくてたまらない別れ。
今は抱き締めていてくれるこの強い腕も、広い胸も自分は失くしてしまう。
死の国へと連れ去られ、たった一人で消えてゆかねばならないから。
ハーレイが舵を握っている白い船から、何処とも知れない遠い世界へ一人で旅に出るのだから。
もう戻っては来られない道を独り歩いて、この世ではない場所へゆくのだから…。
「もう会えない…。ハーレイには二度と会えないんだよ…」
ぼくの命が尽きてしまったら、死んでしまったら……二度と。
ずっとハーレイと一緒なんだと思っていたのに、もうすぐ終わりが来るんだよ…。
「…いえ、ご一緒に」
「えっ?」
何を言われたのか、とブルーは赤い瞳を見開いた。ハーレイは何を言ったのかと。
泣き濡れた瞳で見上げてみれば、ハーレイの唇には笑みさえもあって。
「ご一緒に、と申し上げました。あなたを離しはいたしません」
終わりだなどと仰らないで下さい、私が決して終わらせません。
あなたの命が尽きるのだとしても、それが本当のことであったとしても。
何処までも共に、とハーレイはブルーに微笑み掛けた。
もう決めました、と。私の覚悟は決まりました、と。
「…ハーレイ、それは…」
ぼくと一緒に来てくれるのかい?
ぼくの命が尽きる時には、君も一緒に来てくれると…?
「ええ。あなたと一緒に参ります」
お一人で逝かせることはしません、必ず私も参りますとも。あなたと一緒に、何処へまでも。
あなたを決して離しはしないと誓います。何があっても離れないと。
「…でも、船は…?」
このシャングリラはどうなるんだい?
ぼくがいなくなった上に、君までも消えてしまったら…?
「この船くらいは、どうとでもなります」
今日までこうしてやって来たのです、皆で力を合わせれば乗り越えられるでしょう。
それも出来ないような船では、元から未来などありはしません。
…その基礎はあなたが作ったものです、あなたの力が無ければ何処にも無かった船です。
あなたが私を連れて行っても、誰も文句は言いますまい。
シャングリラはこのままで残るのですから、それを守るのが皆の務めというものでしょう。
違いますか、ブルー…?
ですから二人で旅に出ましょう、独りきりだなどと仰らないで。
どうか泣き止んで下さいませんか、と抱き込まれた胸。広くて逞しいハーレイの胸。
其処が何処よりも温かくて。
背を撫でてくれる手が優しくて、とても心地良くて。
(…君と二人で行けるのなら…)
命尽きた後も、ハーレイと二人、何処までも共にゆけるというなら。
頑張ってみよう、と涙が止まらないままに決意した。
自分の命は尽きるけれども、独りぼっちで旅立つわけではないのだから。ハーレイも一緒に旅に出るのだから、その旅のために準備をしよう。
ソルジャーの自分がいなくなった後も、キャプテンのハーレイを失った後も、白い鯨が迷わないように。白いシャングリラが、仲間たちが道を見失わぬように。
出来る所まで、この船のために。ミュウの仲間たちの未来のために。
それがソルジャーの務めなのだと、最後まですべき大切な役目なのだから、と。
この日から後も、何度も何度も、泣いて、ハーレイに慰められて。
フィシスが身に抱く青い地球を見ては、また涙して。
尽きてしまう命、焦がれ続けた地球をその目に映すことなく消えてしまう自分の命の灯火。
どう足掻いても死へと歩む身体を止められはせずに、日毎に衰えてゆく肉体の力。
床に臥せる日が少しずつ増え、ハーレイたちにもノルディが話した。
ソルジャーの命はもうすぐ尽きると、その日はそれほど遠くはないと。
ゼルやブラウたちは酷く驚き、信じたくない現実に涙したけれど。それでも自分たちがこの船を守らねばならぬと決意も新たに、ブルーの負担を減らす会議を早速始めた。
ブルーの命を少しでも長くと、ソルジャーの代わりに出来る仕事は何があるかと。
実際の所、ブルーが担わねばならぬ役目は無いも同然だったから。
白い鯨となったシャングリラでは、全てが上手く運んでいたから。結論としては、アルテメシアから離れなければ安全だろう、ということになった。
地球を目指すことは諦めざるを得ないが、皆の安全が第一だから、と。
そうしてシャングリラは守りの姿勢に入ったけれど。
ソルジャー不在の時代に備えて、地球へ向かう夢を封印する道が選ばれたけれど。
そんな中で床に臥せりながらも、ブルーは未来を見付け出した。
ミュウの未来を照らす光を、自分の代わりに仲間たちを導く希望の星を。
アルテメシアで養父母としての登録を済ませた夫妻に託された子供。
太陽のように輝く金髪の赤子、緑の瞳の健康なジョミー・マーキス・シン。
(…彼に託そう、ミュウの未来を)
今はまだ、人工子宮から取り出されたばかりの赤ん坊だけれど。
彼ならばきっと、自分の跡を継いでくれるだろう。ソルジャーの務めを果たせるだろう。
(…彼を迎えるまで、ぼくの命が消えずに済んだらいいのだけれど…)
そうすれば地球への道も開ける、自分の意志を、思いを伝えられたなら。
シャングリラを青い地球へと導いてくれと、ジョミーに直接、語れたならば。
(…それが出来れば、本当に…)
心残りは無いのだけれど、と思うけれども、そればかりは意のままになりはしないから。
運に任せておくよりはなくて、神に祈るしか出来ないけれど…。
(…ぼくは行けるんだよ、ハーレイと二人で)
命の灯が消えてしまっても。このシャングリラからいなくなっても。
ハーレイはシドに船を託した。次のキャプテンを密かに決めた。
だから、何処へまでも二人、共にゆける。
命尽きる時にも、ハーレイと共に。
焦がれ続けた青い地球には辿り着けなくても、ハーレイと二人で旅立とう。
白いシャングリラを離れて、遠くへ。
未だ見ぬ世界へ、目では見られぬ遠い世界へ。
もしも、その世界で飛べるのならば。
ハーレイと二人、魂となって翼を広げて飛んでゆきたい。
シャングリラよりも先に青い地球まで、夢に見続けた青い母なる星まで…。
悲しみの予兆・了
※前のブルーが「命の終わり」を悟った時。青い地球を肉眼で見られる時は来ない、と。
それよりも辛かったのが、ハーレイとの別れ。そして「共に」と言ってくれたハーレイ。
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