シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(んーと…)
授業中にクラッとしちゃった、ぼく。軽い眩暈がしたみたい。
このまま授業を受け続けてたら、マズイと思う。きっと途中で倒れてしまう。今はまだ最悪ってほどの気分じゃないけど、その内にだんだん悪くなってきて…。
(…そうなってからだと…)
手遅れなんだ、って分かってる。教室はもちろん大騒ぎになるし、倒れちゃったぼくを運ぶには一人じゃ無理。意識不明じゃ、車椅子に乗せても押す人とぼくを支える人とが必要。
だから早めに行かなきゃならない保健室。今なら歩いて行けるから。
お昼休みが済んで、午後の一時間目の授業中。ランチの間はなんともなかったんだけど…。
(…保健室…)
思い切って手を挙げることにした。
これがハーレイの授業だったら未練たっぷり、倒れるまで聞いていそうだけれど。そんな前科もあったりするけど、ハーレイの授業じゃなかったから。次の時間も違うから…。
いいや、って挙げた手、先生が「どうしたんだ?」って気付いてくれた。
「えっと…。急に気分が悪くなって…」
「それは駄目だな、保健室だな」
行って来い、って言ってくれた先生。教科書もノートもそのまま置いて行けばいいから、って。
一人で行けます、って立ち上がったけれど、付き添ってくれた保健委員の男子。先生も一人じゃ駄目だと心配そうだし、ここは甘えておくことにした。
実際、平気なつもりだったのに、立った途端に眩暈がしたから。
保健室まで歩く途中で倒れてしまっちゃ、もっと大勢に迷惑がかかる。ぼくが他のクラスの前で倒れていたなら、そこのクラスの授業は中断。縁もゆかりも無いぼくのせいで。
(…ありそうな話なんだよね…)
春に起こした聖痕現象のせいで、ぼくはすっかり有名人。顔も名前も何処のクラスかも、誰でも一目で分かると思う。身体が弱いってことも知られているけど…。
(倒れちゃってたら、また聖痕が出たのかも、って大騒ぎなんだよ)
ぼくのクラスの友達だったら慣れているけど、そうじゃない他所のクラスだったら、きっと。
聖痕現象を見たい生徒が騒ぎ出しちゃって、我先に廊下に出て来ちゃうんだ。先生が止めても、大勢、野次馬。下手をしたら隣のクラスからだって。
(…聖痕、二度と出ないんだけどな…)
でも、それを知ってるのは四人だけ。パパとママとハーレイ、それと診てくれたお医者さん。
他の人たちは何も知らなくて、ハーレイはぼくが聖痕現象を起こさないための守り役なんだし、野次馬が来るのも仕方ない。ぼくが廊下で倒れていたら。
(野次馬防止…)
倒れちゃ駄目だ、って支えて貰って歩いてた、ぼく。
たまにクラッとしそうになるから、肩を借りるのが一番いい。保健委員の子には悪いけれども、やっぱり一人じゃ無理みたいだから。
そうして廊下を歩いて行ったら、向こうからやって来たハーレイ。廊下の角を曲がって現れた。今の時間は授業が無いみたい。
ハーレイはすぐにぼくに気付いて。
「おっ、保健室か?」
具合が悪くなったのか、そいつ?
「そうなんです」
保健委員の子が答えてくれた。ぼくの代わりに説明してくれた、保健室に行く途中だと。
そうしたら…。
「よし、俺が代わろう。保健室まで連れて行っておく」
お前は教室に帰っていいぞ。何の授業かは知らないがな。
「ハーレイ先生、いいんですか?」
「授業中だろ、保健委員の仕事とはいえ、聞き逃しちまうぞ」
俺が代わるから、急いで戻れ。先生に訊かれたら、俺と交代したと伝えておくんだな。
任せておけ、って交代しちゃったぼくの付き添い。保健委員の子はペコリとお辞儀して、走って教室に戻って行った。ホントは廊下を走っちゃ駄目だけど、こういう時には例外だよね。
でも…。
「さて、どうするかな…」
俺では肩は貸せんしなあ…。これだけ身長に違いがあるとだ、どうにも無理だ。
運んで行くって方法もあるが、抱っこもおんぶもマズイよな?
まるで小さな子供みたいだし、他の生徒が通り掛かったら恥ずかしいだろ?
(恥ずかしくなんかないってば…!)
むしろ歓迎、ぼくは全然かまわないのに、ハーレイは勝手に決めちゃった。
抱っこもおんぶも、どっちも駄目、って。
保健委員の子から預かったぼくの身体を腕で支えながら、そういう風に決めてしまった。
(…車椅子…?)
そうなるんだろうか、ハーレイが押して行くんだろうか。ぼくを待たせて、保健室から車椅子を借りて持って来て。
きっとそうだ、と思ったんだけど…。
「車椅子の出番ってほどじゃないしなあ…。お前、どうにか歩けるんだろ?」
「…うん…」
眩暈がするだけ、って頷いた。「はい」って言うのを忘れちゃってた、ハーレイ、学校では先生なのに。ハーレイじゃなくて「ハーレイ先生」なのに。
でもハーレイは「うん」じゃないだろ、って、ぼくの右手を取って。
「俺の服、しっかり握ってろ。此処だ、此処」
大丈夫だ、スーツの上着ってヤツは生地が頑丈に出来てるからな。そう簡単に破れやしないさ、お前の体重が少しかかったくらいじゃな。
掴んでおけ、って握らされたハーレイの上着の端っこ。肩の代わりに上着の端。
そして左手で支えてくれた、ぼくの背中を。大きな手を添えて。
これなら歩ける。右手でハーレイの上着を握って、ぼくの背中にハーレイの手。倒れないように支えてくれる手。
「…ありがとう…」
「歩けそうか? よし、ゆっくりと歩いて行くからな」
忘れるなよ、ハーレイ先生だぞ?
学校ではハーレイ先生だ。間違えないよう、気を付けてくれよ。
ハーレイと並んでゆっくり歩いて、連れてって貰った保健室。慣れっこの部屋。
ぼくを保健室の先生に預けて、ハーレイは帰って行ったけど。ぼくがベッドに横になる前に姿を消してしまったけれど。
カーテンが引かれたベッドの上に転がっていたら、背中がじんわり温かい。ぼくの背中を支えてくれてたハーレイの左手が残した温もり。それがポカポカ、温かな背中。
(ふふっ、あったかい…)
まだ少しクラクラするけれど。眩暈は残っているんだけれども、背中に温もり。ハーレイの手が背中にくれた温もり。それが心地良くて、幸せな気分。
あったかいよ、って思ってる内にすうっと眠ってしまって、どのくらい眠っていたんだろう?
パチリと目を開けたら、眩暈は消えてしまっていた。起き上がってもなんともなかった。自分の身体だからハッキリと分かる、もう大丈夫、って。
(ハーレイの温もりを貰ったからかな?)
もう消えちゃったけど、眠る時まで、眠ってる間もポカポカだった背中。温かかった背中。
おまじないみたいに効いた温もり、ハーレイの左手がくれた温もり。
ベッドから下りて、最後の授業の途中で戻れた、教室にちゃんと。一人で歩いて。
ママの迎えも要らなかった。いつも通りにバスで帰れた。
バスから降りて家まで歩く途中も、家に着いてからも何度も思い出してたハーレイ。大きな手が背中にくれた温もり。温かかったよ、って。
保健室に行ったことはママにもきちんと報告したけど、眩暈は治ってしまったから。
ママが用意してくれたおやつを食べて、部屋に戻って勉強机の前に座った。ベッドに入ろうって気にはならなかったし、具合が悪いわけでもないから。
こんなに気分が良くなるだなんて、やっぱり温もりのお蔭だろうか。保健室のベッドで寝ていた間中、ポカポカしていた背中の温もり。ハーレイがくれたおまじない。
(背中のおまじない…)
温かかったよね、ってまた思い出して。
ハーレイの左手のお蔭で治ったんだよ、って幸せな気持ちに浸っていて…。
(…あれ?)
ふと掠めていった、遠い遠い記憶。前のぼくの記憶。
それと今とが重なった。前のぼくにも温もりの記憶、背中に感じた温もりの記憶。
ぴたりと重なる温もりの大きさ、ハーレイの手としか思えない。ハーレイの左手なんだ、って。
だけど、そんなこと、あるわけがない。前のぼくとハーレイは並んで歩きはしなかった。ただの一度も並んで歩けやしなかった。
前のぼくはソルジャーだったから。前のハーレイはキャプテンだったから。
ソルジャーの後ろに従うキャプテン、白いシャングリラでは常にそうだった。何処へ行くにも。
ハーレイはぼくの後ろを歩いて、並んでなんかはいなかった。
前のぼくの背中に温もりをくれるわけがなかった、貰える筈もなかった温もり。前のハーレイの左手がくれる温もり。
なのに確かに背中に温もり、温かかった手の記憶。前のぼくの背中に添えられてた手。
ぼくが間違える筈がないんだ、ハーレイの手の温もりを。
貰えるわけがなかったものでも。貰えない筈の温もりでも。あれは確かにハーレイの手で…。
(…なんで?)
どうしてそんな記憶があるのか、夢で見たとも思えない。
きっとホントに起こってたことで、ハーレイがぼくを支えてた。今日みたいに。
(…ハーレイ、ぼくを連れてっていたの…?)
シャングリラに保健室なんかは無かったけれど、と遠い記憶を手繰ってみた。ハーレイが支えてくれていたなら、行き先はメディカル・ルームだろうか、と。
(えーっと…)
何かとうるさかったドクター・ノルディ。注射も検査も大嫌いだったぼくは、ノルディの診察も好きじゃなかった。注射と検査がつきものだから。
行きたくない、と嫌がるぼくをハーレイが宥めて連れて行った時の記憶なんだろうか、温もりの記憶。背中に残った温もりの記憶。
でも、もっと…。
温かな思い出とセットなんだ、っていう気がした。
注射や検査や薬が待ってるメディカル・ルームに行く時じゃなくて、もっと幸せを感じた時間。それがいつだったのかを思い出したくて、背中のポカポカを追い掛けていたら。
今日のポカポカと、前のぼくが覚えてるポカポカを重ね合わせてみていたら…。
(そうだ、ハーレイ…!)
鮮やかに蘇って来た前のぼくの記憶。キャプテンだった頃のハーレイとの思い出。
だけどキャプテンではなかったハーレイ、キャプテンの顔をするのをやめてたハーレイ。ぼくと二人きり、シャングリラの中を並んで歩いてくれてたハーレイ。ぼくの背中に左手を添えて。
(うん、左手…)
あの時もハーレイの左手だった。今日と同じに。
身体が弱かった前のぼく。それでもソルジャーだったぼく。
シャングリラの中では一番偉くて、ハーレイを従えて歩いてた。何処へ行く時も。二人で一緒に出掛ける時にはハーレイが後ろ。そういう決まりで、そういう順番。
そのソルジャーとキャプテンとの決まり、それが崩れた時の思い出。背中のポカポカ。
具合が悪いのを隠して視察とかに出掛けようとしたら、ハーレイが…。
(通路で支えてくれていたっけ…)
ぼくの隣にスッと並んで、ぼくの背中に左手を当てて。肩を貸す代わりに左手だった。フラリと倒れそうになった時には腕を回して抱き留めてくれた。
そう出来るように隣に並んで、背中に当ててくれてた左手。ぼくを支えてくれてた左手。
誰も見ていない所でくらいは弱さを見せてもいいのですよ、って。
行き先に辿り着くまで、ずっと。
行った先でもさりげなく側についていてくれた、いざとなったら支えられるように。
ぼくの後ろを歩く代わりに、何気ない風で隣に並んで。
ソルジャーのぼくに用があるなら、後ろからでは話せないから。打ち合わせでもしているように見せかけて隣についててくれたハーレイ。
其処から戻る時には、またぼくの隣。誰もいない通路で背中に左手、ポカポカと温かい左の手を添えて。ぼくを支えて。
(背中のポカポカ…)
前のぼくの記憶と重なったポカポカ、ハーレイがくれた背中のポカポカ。
保健室に行く途中で出会わなかったら、きっと思い出しさえしなかった記憶。ハーレイはぼくの後ろなんだと思い込んでいたし、そういう記憶しか無かったから。
あんなに何度も支えて貰って歩いていたのに、まるで忘れてしまってたなんて…。
(ハーレイ、覚えているのかな?)
前のぼくを支えて歩いていたこと。前のぼくの背中に添えてた左手。
覚えていて欲しい、もしも忘れてしまっていたって、今日ので思い出していて欲しい。
前のぼくよりチビだけれども、ぼくを支えてくれたんだから。前と同じに左の手で。
ぼくがチビだから、上着の端まで握らせてくれて。
(…ハーレイに会いたい…)
会って話をしてみたい。ぼくが思い出した背中のポカポカ、前のぼくの背中にあったポカポカ。
その話をハーレイとしたいんだけど、って何度も何度も窓の方を見た。
ハーレイが来てくれるかな、って。仕事が早く終わってくれたらいいんだけれど、って。
(来て欲しいな…)
ぼくが保健室のお世話になっちゃったことを、ハーレイは知っているんだから。
元気に帰って行ったことまで、多分、聞いてはいるんだろうけど…。
(ママの迎えで帰らなかったし、来てくれないとか?)
あの様子なら大丈夫、って思っていたらどうしよう。ぼくの家に寄らずに帰っちゃうとか…。
それだけは無いと思いたい。
だけど知らないハーレイの予定。会議があるなら遅くなったら寄れないだろうし、柔道部の方の練習が長い日だってあるし…。
(…来て欲しいのに…)
こんな日だから会いたいんだよ、って祈るような気持ち、何度も見た窓。
神様がお祈りを聞いてくれたのか、ハーレイがチャイムを鳴らしてくれた。門扉の横の。窓から大きく手を振ってみたら、振り返してくれて。
普段と変わらないお茶の時間の始まり、ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで。
「元気そうだな、思った以上に。バスで一人で帰って行った、とは聞かされたんだが…」
最後の授業も途中から出ていたらしいな、お前。
「うん。家に帰ってからおやつも食べたよ」
すっかり元気で、もう大丈夫。ぼくの身体だもの、自分で分かるよ。
「…保健室へお前を運んだ時には、野菜スープの出番なのかと思ったがなあ…」
帰りに作りに行かないとな、と段取りをしていたんだが…。
お前は一人で帰ったと聞いて、なんだか拍子抜けしたぞ。元気なのはいいことなんだがな。
「えっとね…。ハーレイのおまじないのお蔭なんだよ」
それで元気になったんだと思う、おまじないのお蔭。
「…おまじない?」
「そう。背中にくれたよ、ハーレイの温もり」
ぼくを支えていてくれたでしょ?
あの手の温もり、背中に残っていたんだよ。それがポカポカ温かくって…。
気持ち良くって、ぐっすり眠っちゃってた。寝ていた間もポカポカだったよ、ぼくの背中。
それで目が覚めたら、眩暈が治って元気になってた。きっと幸せに眠れたからだよ、ハーレイの温もりを背中に貰って。
だから、おまじない。背中のポカポカ、ハーレイがくれたおまじないだと思うんだ。
「おまじないって…。俺の温もりって、お前が温めて欲しい場所…」
右手だけじゃなかったというわけなのか?
メギドで凍えちまった右の手、そいつは俺もよく知ってるが…。背中も温めて欲しかったのか?
「そうみたい…」
ぼくも忘れてしまっていたけど、背中のポカポカで思い出したよ。
この温もりも大好きだった、って。ぼくの背中にハーレイの左手がくれるポカポカ。
前のぼくが貰っていたんだよ、って話してみた。背中にハーレイの左手の温もり。
ハーレイはそのことを覚えてる? って。
「あのね…。ハーレイはいつも、ぼくの後ろを歩いていたけど…」
背中に温もりをくれていた時は違ったよ。ハーレイはぼくの隣にいたよ。
並んで歩いて、背中にポカポカ。ぼくの背中を左手で支えていてくれたんだよ…。
「そういや、お前の杖代わりだったな」
思い出したぞ、学校じゃ仕事が頭にあったし、思い出しさえしなかったが…。
前の俺はお前の杖だったっけな、お前がヨロヨロしていた時には。
「杖!?」
杖だって言うの、もっと素敵な言い方はないの?
その言い方だと、杖が無くっちゃ歩けないような年寄りみたいに聞こえるじゃない…!
酷いや、って怒ったぼくだけれども、その通りだから。
ハーレイの左手の支えが無ければ、倒れちゃいそうな時も多かったから。
(でも、年寄り…)
杖なんて、今の時代はお年寄りだってついてはいない。年を重ねた外見が好きな人だって少なくないけど、流石に杖を頼りに歩かなければ駄目なほどには年を取ったりしないから。
もちろん、杖はあるけれど。
どちらかと言えば年を重ねた人用のお洒落なアイテム、若い外見だと似合わないお洒落。好みの杖を握ってお出掛け、ちょっぴり気取った紳士なんかの御用達。
そうでなければ、足を怪我した時につく杖、それはホントの意味での杖。
(今だと杖をつくのは怪我しちゃった人…)
分かっているけど、ぼくの中には前のぼくの記憶がたっぷり入ってる。前のぼくが生きた時代に杖と言ったら、お年寄りの杖。怪我人よりも、お年寄り。お洒落なアイテムなんかじゃなくって、実用品として使われてた杖。
そういう時代に生きていたぼくの杖代わりだなんて言われちゃったら…。
(どう考えても年寄りだよ…!)
前のぼくを捕まえて年寄り扱い、酷すぎるよ、って膨れたぼく。膨れっ面になったぼく。
なのに、ハーレイは鼻で笑って、ぼくの額をピンと弾いた。指先で軽く。
「年寄りみたい、と言うがな、お前…」
前のお前は俺より遥かに年上だったろうが、それでも年寄りじゃないと言うのか?
お前の方が俺より若かったなんてこと、有り得なかったと思うがな…?
「そうだけど…。ホントに年寄りだったんだけど…!」
もう間違いなく、ハーレイよりも年寄りだったけど…!
ハーレイが前のぼくの杖代わりだっただなんて、酷すぎない!?
まさかハーレイ、ぼくを支えながら杖のつもりで歩いていたとか…?
あんまりだよ、って文句をぶつけた。前のぼくが年寄りだっただなんて。
キースに向かってそう言ったけれど、「年寄り」と自分で名乗ったけれど。
自分で言うのと、人に言われるのは別だから。それもハーレイに言われるだなんて、ダメージが大きくて怒りたくなる。年寄りじゃない、って。
ぷりぷり怒ったぼくだけれども、プンプン膨れていたけれど。
ハーレイが「だがな…」って悲しそうな顔。
いけない、怒り過ぎちゃったろうか、悲しい気持ちにさせちゃったろうか?
ハーレイにしてみれば軽い冗談、それなのに怒っちゃったから。
プンスカ膨れてしまっていたから、やり過ぎちゃったのかもしれない、ぼく。
慌ててやめた膨れっ面。
ハーレイを困らせるつもりは無くって、悲しませたいとも思わないから。
「…どうしたの?」
ぼくが怒ったから、悲しくなった?
ごめんね、ハーレイ。そんなつもりは無かったんだよ、ちょっぴり怒り過ぎちゃった…。
「いや、そうじゃなくて…。前のお前の頃の話だ」
本当にお前に杖が要る時、俺は支えてやれなかった。お前は杖が欲しかったろうに…。
すまん、杖と言ったら怒るんだったな、年寄り扱いされた、って。
「…それ、いつの話?」
別に杖でもかまわないんだよ、もう怒ったりはしないから。
それよりいつなの、前のぼくをハーレイが支えられなかった時っていうのは…?
「キースの脱出騒ぎの時だ」
シャングリラ中が大混乱だった時に、お前、いきなり目覚めたろうが。
そしてキースを止めに出掛けたぞ、たった一人で。
「ああ…!」
そういえば、ハーレイ、いなかったっけ…。
ぼくが呼んでも反応が無くて、誰も気付いてくれなかったっけ…。
白い鯨で目覚めたあの日を、出来事を、一気に思い出した、ぼく。
十五年間も眠り続けた前のぼくの側には、医療スタッフさえいなかった。あまりにも長く眠っていたから、自動でデータが取られていただけ。
データはメディカル・ルームに絶えず送られていたんだけれども、ぼくの目覚めを示すデータは医療スタッフに届かなかった。みんな忙しくしていたから。カリナの暴走で増える怪我人、それに手を取られてデータを読んではいなかった。
目覚めて直ぐには、何が起こったのかが分からなくて。
だけどシャングリラの危機だというのは感じ取っていたし、そのせいで目覚めたんだから。
とにかく状況を把握しようとベッドから下りて外に出た。スロープを歩いて青の間の外へ。
途端に押し寄せて来た不安と混乱、それから調和を乱す存在。
船の中に渦巻く皆の思念で、地球の男が逃げたと分かった。それを追っている者が誰もいないということも。
地球の男が脱出するのを止められる者はぼくしかいない。ぼくしか気付いていないんだから。
なのに無かった支えてくれる手、ぼくが歩くのを助けてくれる手。
ハーレイは何処にも見付からなくって、思念さえ届けられなくて。仕方ないから一人で歩いた、格納庫までの長い通路をよろけながら。
地球の男が脱出するなら、格納庫。其処しかないから、先回りをして倒そうと。
「…お前、あんな時でも一人で歩いて…」
眠りから覚めて直ぐの身体じゃ、歩くだけでも辛かったろうに…。
俺を呼ぶだけの思念波も送れなかったほどの身体で、どんな思いをして歩いていたのか…。
すまない、お前を放っておいて。…キャプテンのくせに、気付きもしないで…。
「仕方ないよ、ああいう時だったから」
ハーレイだって大変だった筈だよ、船の中はメチャメチャ、キースは逃げるし…。
おまけにジョミーはナスカだったし、あの状況でぼくに気付けと言う方が無理。
「そうなんだが…。事実、そういう状態だったが、それでもな…」
俺が支えてやりたかった。格納庫に向かって歩くお前を、俺が支えてやれていたなら…。
それを散々後悔したんだ、お前がトォニィと一緒にメディカル・ルームに運ばれた後で。
「…そうだったの?」
「ああ。…しかし俺には、それを謝る暇さえ無かった」
ようやくお前に会えた時には、ゼルたちも一緒にいたからな。個人的な話は何も出来ず仕舞いで終わっちまって、それっきりだ。
お前のために野菜スープを作る暇さえ、俺には取れなかったんだ…。
「うん…。知ってるよ…」
ハーレイ、何度もぼくに謝ってくれたから。
あの時は何も出来なかった、って何度も何度も言っているよね…。
「それだけじゃないんだ、俺がお前の杖になり損なった時」
もう一つあるんだ、俺がお前を支えてやならきゃいけなかった時が。
「まだあるの?」
ぼくには思い付かないけれど…。いつの話?
「…お前がメギドに飛び立つ前だ」
ブリッジまで一人で来ただろうが。もう大丈夫だ、と平気なふりを装って。
「そうだけど…」
どうして、そこでハーレイがぼくを支える話が出て来るの?
ぼくはジョミーと一緒に行ったし、ハーレイが来たって支えられる場所は何処にも無いよ?
「そうじゃない。…お前がブリッジに来る前のことだ」
あの時は全く思いもしなかったんだが、今にしてみれば…。
お前が青の間からブリッジまで歩いて来る途中。
あそこも支えてやりたかった、と思うわけだな、きっとお前は歩き辛かった筈なんだ。
弱った身体でブリッジまでだぞ、短い距離ではないんだから。
お前がブリッジに来ようとしてる、って気付きさえすれば、支えてやれた。
あんな時でも、キャプテンだからこそ「ソルジャーがお呼びだ」と飛び出せたんだ。
「…ハーレイにそれをされていたなら、飛べていないよ」
ぼくはメギドに飛べなかったよ、ハーレイの左手から離れたくなくて。
右手に持ってたほんの少しの温もりだけだったから、飛べたんだ。
背中にハーレイの温もりをずうっと感じて歩いて行ったなら…。ブリッジに着く前に心が挫けて飛べなくなったよ、離れたくない、って。
「やはりな…」
背中の温もりと聞いてピンと来たんだ、もしかしたら、と。
俺が支えてブリッジまで一緒に行っていたなら、お前はシャングリラに残ったかも、と。
やっぱり支えに行くべきだった、って悔しそうな顔をしているハーレイ。
あの時の俺は色々と手一杯で頭が回らなかった、って。
「…青の間をモニターしておけば良かった、お前が動いたら分かるように」
そうしていたなら、俺はブリッジから飛び出して支えに走ったのに…。
お前の背中を左手で支えて、ブリッジまでの通路を一緒に歩いて。
それでお前がメギドに飛ばずに残ってくれたら、俺はどんなに幸せだったか…。ミュウの未来がどうなっていようが、地球が死の星のままだろうが。
「…もう済んだことだよ、何もかも」
前のぼくはとっくに死んでしまったし、そのお蔭で今があるんでしょ?
平和な世界も、青い地球も。
…だからハーレイは間違っていないよ、ぼくを支えなかったこと。
支えていたなら、ぼくはメギドに飛べていないし、平和な世界も青い地球もきっと無かったよ。神様がハーレイにそうさせたんだよ、ぼくの杖になってはいけない、って。
「だが…」
弱り切ったお前を支え損ねたことが二回だ、それも重大な場面ばかりだ。
前のお前を支え続けた俺にしてみれば、とんでもないミスというわけなんだが…。
悔やんでも悔やみ切れないと言うか、取り返しのつかない過ちと言うか…。
ハーレイがあんまり辛そうだから。
とうの昔に終わってしまったことだというのに、辛そうな顔をしているから。
「…じゃあ、今度また支えてよ」
今のぼくを支えて、背中のポカポカ、ぼくにちょうだい。前のぼくの分も。
「学校でか?」
上手い具合に出くわしたならば、それはもちろん支えてやるが…。
「結婚してからでもいいよ?」
学校でチャンスが無いままだったら、結婚した後で。
「お前なあ…」
結婚した後に支えて貰って何処へ行く気だ、何をするんだ?
俺の嫁さんになるんだろ、お前。その後で支えろと言われてもなあ…。
嫁さんにそんな無茶をさせる馬鹿が何処にいるか、って呆れられた。
病気にしたって怪我にしたって、支えが無ければ歩けないような状態のお嫁さん。
そんなお嫁さんに何かをさせるような人はいない、と言われてみれば、そうだから。
「…それじゃ、ぼくがハーレイに支えて貰えるのは学校に通ってる間だけ?」
結婚した後には背中のポカポカ、もう貰えないの?
あの温かさも好きなんだけど…。
「いや、結婚した後は、それよりももっと甘やかしてやる」
背中を支えるだけなんてケチな真似はしないさ、堂々とお前を運ぶことにする。
寝込んじまっても、どうしても何処かへ行きたいんだとか、無茶を言い出した時にはな。
絶対に無いとは言い切れないだろ、具合が悪くても庭に出たいとか。
そういう時には抱っこにおんぶだ、とハーレイが言ってくれたから。
任せておけ、って逞しい胸を叩いてくれたから、大いに期待しようと思う。
(背中のポカポカも嬉しいけれど…)
結婚した後は抱っこにおんぶ。
ハーレイの腕に抱っこされたり、背中に背負って貰ったり。
具合の悪い時には甘え放題、きっと治りも早いんだろう。
ハーレイがくれた、おまじない。背中のポカポカ、ホントにとってもよく効いたから…。
背中の温もり・了
※前のブルーが視察に行く時、傍らで支えていたハーレイ。万一に備えて、左手を添えて。
ブルーの背中にあった温もり。思い出したら、今度も欲しくなってしまいますよね。
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