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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

ハンスの木

(先っぽがお辞儀しているんだよ)
 うん、とブルーが眺めた糸杉。学校からの帰り、バス停から家まで歩く道の途中。
 道沿いに並ぶ家の一軒、其処の庭にすっくと聳える糸杉。いつも目にする木なのだけれど。毎日前を通るけれども、ふと目に付いた木の天辺。
 糸杉らしくヒョロリと伸びた天辺、それが少しだけ曲がっていた。まるでお辞儀をしているかのように。天辺もそうだし、注意して見れば他にも先だけ曲がった枝が何本か。
 曲がると言ってもほんの少しだけ、注意しないと分からない程度。ごくごく控えめなお辞儀。
 それでも糸杉はお辞儀する木で、この木だって、ちゃんと。



(うん、いつもお辞儀をしている木…)
 面白いよね、と足を止めて糸杉を観察している内に。お辞儀した枝を探す間に、浮かんだ疑問。
(…誰に教わったんだっけ?)
 糸杉のお辞儀。木の天辺が曲がっていること。
 いつの間にやら知っていた知識、糸杉を見たらぽっかりと浮かび上がった知識。なんとも思わず木の天辺を眺めたけれども、お辞儀を確認したけれど。
 前には全く知らなかった気がする、糸杉のお辞儀。そう思って見上げたことが無い。
(パパとかママに教わったんなら…)
 きっと何度もお辞儀を見た筈、幼い頃なら自分もペコリとお辞儀を返したことだろう。なにしろ幼い子供なのだし、相手が木だってお辞儀する。お辞儀していると教えられたなら。
(うん、きっと…)
 気付けば、自分も「こんにちは」と。礼儀正しく、ピョコンと、ペコリと。
 ところがそういう覚えなどは無くて、糸杉はただの糸杉だった。そういう名前で呼ばれる庭木。天辺なんかは気にしていなくて、お辞儀に気付く筈も無い。
 そうなってくると…。



(前のぼく?)
 自分の記憶ではなかったのだろうか、糸杉のお辞儀。天辺が曲がっているということ。
 前の自分の記憶だったら頷けるけれど、今日まで全く気付かないのも納得だけれど。
(でも、糸杉…)
 美味しい実をつける果樹とは違うし、糸杉はただの庭木に過ぎない。この家のように高く聳える木に仕立てるか、もっと低めに刈り込んで並べて生垣にするか、そういった庭木。
 シャングリラでは役に立ちそうもなくて、綺麗な花だって咲きはしないし…。
(…公園向けってわけじゃないよね)
 どう考えても、白い鯨には似合わない。使えそうにない糸杉の木。
 それとも自分が覚えていないだけで、糸杉は木材向けだったろうか。固くて丈夫で何かと便利な木だからと植えられていたか、成長が早くて使いやすかったか。
(…どうだったかなあ?)
 シャングリラで木材にするための木を切る時はお祭り騒ぎで、自分も手伝っていたけれど。変な方へ倒れて怪我人が出てはいけないから、と万一に備えて見ていたけれど。
 糸杉を切った記憶は無かった、ただの一度も。切られていたのは、もっと他の木。
(なんで糸杉?)
 分からないや、と糸杉のお辞儀を見上げて首を捻って、それから家へと帰って行った。



 自分の家まで辿り着いても、思い出せない糸杉の記憶。糸杉のお辞儀。
 着替えを済ませて、ダイニングでおやつを食べる間も糸杉が頭から離れない。
(先っぽがお辞儀…)
 何のためだったろうか、糸杉のお辞儀。
 道ゆく人に挨拶するのか、仲間同士で挨拶するのか。さっき見た木は庭に一本きりの糸杉、他に仲間はいなかったけれど、何処かの仲間に「こんにちは」と頭を下げているとか…?
(天辺がほんの少しだけ…)
 知らなかったら気付かないままでいそうなお辞儀。ほんの僅かだけ曲がった天辺。
(なんだか猫の尻尾みたいだ…)
 猫が真っ直ぐ立てた尻尾の先っぽが曲がっていることがある。猫の気分で、ほんのちょっぴり。猫の尻尾は自由に曲がるし、気取って先だけ曲げていることも。
 糸杉のお辞儀は猫の尻尾を連想するけれど、尻尾と違ってその日の気分で曲がりはしない。木に神経は通っていないし、曲げるための骨組みも入っていない。
 それでもお辞儀している木。糸杉はお辞儀をしているもの。いつも、いつでも、どんな時でも。
 何のために…、と考え込みながら紅茶のカップを傾けた途端、ハッと気付いた。
 シャングリラだ、と。
 あの白い船にも糸杉があったと、いつもお辞儀をしていたのだと。



 おやつを食べ終えて、自分の部屋に戻って取り出したシャングリラの写真集。
 ハーレイとお揃い、父に強請って買って貰った豪華版。それのページを順にめくっていって。
(あった…!)
 開いたページに墓碑公園。白いシャングリラの居住区の中、鏤められた幾つもの公園の一つ。
 亡くなった仲間の名前を刻んだ真っ白な墓碑があった公園、其処に糸杉が写っていた。今日まで何度も眺めていたのに、素通りしていた糸杉の木。
 あまりにも自然に溶け込んでいたし、墓碑とセットだと思っていたから。糸杉と真っ白な墓碑がセットで、二つで一つと言っていいほどに馴染んだ光景だったから。
 糸杉の他にも公園に相応しい木が植えられていたし、草花だって。
 そうした全てをひっくるめた形で墓碑公園だと見ていただけで、糸杉の木には気付かなかった。
 とても大切な木だったのに。墓碑と糸杉とが、墓碑公園の主役だったのに。
 どうして自分は忘れていたのか、一本だけあった糸杉の木を。お辞儀する木を…。



(ハンスの木…)
 最初はそういう名前の木だった。墓碑公園に植えられた一本だけの糸杉。
 ハンスではなくて、「ハンスの木」。そう呼ばれていた、白いシャングリラの仲間たちに。白い鯨が出来上がる前から船で一緒だった、アルタミラからの脱出組に。
 船にハンスはいなかったけれど。名前の持ち主はアルタミラを離陸した時に船から投げ出されてしまって、燃え盛る地獄へ真っ直ぐに落ちて行ったのだけれど。
 宇宙船の操船などは誰もが初めての経験、閉め忘れてしまった乗降口。
 ハンスは其処から落ちてしまった、船の外へと。ゼルが懸命に掴んでいた手も離れてしまった。
 救い出せずに喪ったハンス、ゼルの弟。
 せっかく船まで走って来たのに、ゼルと一緒に乗り込んだのに。



 その事故から長い歳月が流れて、船の改造が決まった時。白い鯨を造る時。
 様々な設備や施設の案が出される中、いつかは必要になるであろうと言われた墓碑。亡くなった仲間を悼む施設もいずれは要ると、いつか作らねばならないと。
 まだまだ先の話だけれども、そういうスペースを設けておこう、と議題が出された時。
「いつかじゃと?」
 今要るんじゃ、と声を荒げたゼル。ヒルマンやブラウ、後に長老と呼ばれる者たちが集った席。どういった案を採用するか、と検討していた会議の席で、ゼルがテーブルを拳で叩いた。
 いつかどころか、とうに一人死んでしまったと。
 弟だったと、この船に乗れずに燃える地獄に落ちて行ったと。
「ああ…。そうだったっけね、ハンスがいたんだ」
 ごめんよ、ゼル。あんたの弟だったんだっけね…。
 忘れていたわけじゃないんだけどね、とブラウが詫びて、ブルーも含めて皆が謝った。
 いつかではなくて、今すぐに作ってもかまわないくらいの墓碑なるもの。ハンスのために。遠い昔に亡くしたハンスを悼む施設が必要だった。
 この船に乗っていないばかりに、その影が薄れがちだったハンス。墓碑と言われても浮かばないほどに、ピンと来る者がゼルの他にはいなかったほどに。
 あれほどに悲しく、痛ましい最期だったのに。
 自由に向かって飛び立つ船から、他の仲間たちを乗せた船から、独りきりで落ちて行ったのに。



 そんなわけで決まった墓碑公園。
 亡くなった者たちが寂しくないよう、居住区の中の公園の一つを使おうと決めた。気が向いたらフラリと立ち寄れるように、憩いの場としても使えるように。
 作るとなったら墓碑ももちろん必要だけれど、それを据えただけでは片手落ち。墓碑に手向ける花がいつでも咲いているよう、様々な季節の花を沢山植えておかねば。
 けれども、花なら他の公園にも咲くのだから。
 もっと特別な何かが欲しい。墓碑のある公園に相応しい何か。
 とはいえ、公園らしい雰囲気も壊したくないし、出来れば樹木の類で何か、と。



 墓碑公園に合いそうな木は…、とヒルマンとエラがデータベースを調べに出掛けて。
 見付けて来た木が糸杉だった。その木がピッタリに違いないと。
「…糸杉だって?」
 何故、とブルーが尋ねてみれば、「そうです」とエラが示した写真。空に向かって伸びた糸杉。
「この写真の此処をご覧下さい。木の天辺が少し曲がっておりますでしょう?」
 糸杉はお辞儀するのだそうです、こういった風に木の天辺が。
 常に頭を垂れるそうです、と言ったエラの言葉をヒルマンが引き継いで話し始めた。
「糸杉は哀悼の木なのだよ」
 死者を悼んで永遠に頭を下げ続けるそうだ、ギリシャ神話から来た話だがね。
 キュパリッソスという名の少年がいてね、その少年は鹿と友達だった。ところがある時、誤ってその鹿を槍で殺してしまったのだよ。
 少年は酷く嘆き悲しんで、「永遠に悲しみ続けることをお許し下さい」と神に願った。
 そうして少年は糸杉に姿を変えて貰って、今も頭を垂れ続けている。…そんな話があるそうだ。
 だから、糸杉はサイプリスとも言うね。ギリシャ語でキパリス、キュパリッソスの意味だ。



 永遠に頭を下げ続ける木。死者を悼んで頭を垂れる木。
 SD体制が始まるよりも昔、人間が地球しか知らなかった時代の墓地には多かったらしい糸杉。哀悼の糸杉に囲まれた島を描いた名画もあったという。「死の島」という名の。ヒルマンとエラはその絵のデータも持って来ていた、ベックリンなる画家が描いた絵。
 それだけのデータが揃ったからには、反対する理由は何処にも無くて。
「じゃあ、それにしよう」
 糸杉を植えることにしよう、とブルーが同意し、ゼルもブラウもハーレイも賛成。
 墓碑公園には糸杉を一本、亡くなった仲間を永遠に悼み続けてくれる木を。
 ただ、シャングリラは船だから。白い大きな鯨に改造をしても、宇宙船には違いないから。
 「地面に植えた糸杉のように、伸ばし放題というわけにはいかないがね」とヒルマンが言った。白い鯨で一番大きな公園になる場所なら可能だけれども、居住区では、と。
 それでも糸杉は上手い具合に、手入れさえすれば樹高を低く保てる木。生垣に出来るくらいだと言うから、居住区の中の墓碑公園でも充分育ててゆくことが出来る。
 天辺を常にお辞儀させたいなら、そのように刈り込んでやりさえすれば。



 こうして決まった墓碑公園の木。哀悼の意を表す糸杉。永遠にお辞儀をし続ける糸杉。
 白い鯨が完成した後、ブルーが人類の施設から苗木を奪って植えた。
 墓碑公園に据えられた白い墓碑の側に。
 人類も来ないような星から採掘して来た本物の大理石の墓碑。真っ白な墓碑の、その隣に。
 苗木とはいえ、ハーレイの背よりも少し高いくらいの木だったから。その天辺は少し曲がって、さながらお辞儀をしているようで。
「本当にお辞儀するんだねえ…」
 一人前に、とブラウが感心したら。
「ハンスのためにお辞儀してくれているんじゃ」
 ハンスの木じゃ、と言ったゼル。今の所は、と。
 白い墓碑にはハンスの名前しか無かったから。刻まれた名前はハンスのものだけ。
 後は銘文、アルタミラで亡くなった名前も分からないミュウたちを悼み、捧げる文章。
 アルタミラではミュウは一人ずつ檻に入れられ、互いに会うことも無かったから。実験のために引き出される時ですら、決して顔を合わせぬようにと別の通路を歩まされたから。
 何人のミュウがアルタミラで死んだか、彼らの名はなんと言ったのか。分からないから、名前を呼べるのはハンスだけ。顔を見知った者がいたのもハンスだけ。
 ゆえに糸杉はゼルが言うままにハンスの木。その名でいいと、誰も反対しなかった。



 それから平穏な時が流れて、ハンスの木は大きく育っていった。日毎に伸びて丈を伸ばした。
 すくすくと伸びるハンスの木。ゼルが手入れをしてやっていた。
 公園などの木々の管理は管轄外なのに、係の者たちが手入れする時には手伝って。枝の剪定や、年に何度かの肥料を与える作業など。暇でさえあれば、ゼルは出掛けて行った。
「此処にハンスが乗っておるような気がしてのう…」
 世話をせずにはいられんのじゃ、と照れたような笑いを浮かべたゼル。
 ただの木だとは思えないのだと、弟の名前がついた木ならば兄が面倒を見てやらねば、と。



 白い鯨が出来上がってから歳月が経って、墓碑の名前は幾つか増えた。
 寿命の長いミュウだけれども、全体的に虚弱な種族。病には勝てず、神の許へと旅立って行った仲間たち。彼らの名前が新たに刻まれ、ハンスだけではなくなってしまった墓碑の持ち主。
 ハンスの木は他の仲間のためのものにもなったのだけれど、ゼルは手入れを欠かさなかった。
 糸杉に名前を付けた頃のままに、「元はハンスの木だから」と。
「この木はのう…。わしの弟の代わりなんじゃ」
 ハンスを船に乗せてはやれなかったが、ハンスは今でも此処におるんじゃ。この木になって。
 きっとこの船に乗っておるわい、わしが生きておる間はのう…。
 なあ、と糸杉の幹を叩いていたゼル。まるでハンスが糸杉に変身したかのように。
 皆を見守るのがハンスの役目じゃ、とも言っていた。
 アルタミラから飛び立った後の船の仲間を、皆を天から見守っていると。
 自分の代わりに長生きしてくれと、いつかはきっと青い地球まで行ってくれと。



(ハンスの木…)
 シャングリラの写真集に収められた墓碑。糸杉の木と白い墓碑がある墓碑公園。
 前の自分の、ソルジャー・ブルーの名前も其処にあるのだろう。ジョミーたちの名も。
 白いシャングリラはトォニィの代に継がれたのだし、きっと墓碑には前の自分やハーレイたちの名前も刻まれた筈。
 この写真集では分からないけれど。
 プライベートな空間以外は拡大して見ることが出来る仕様の本だけれども、墓碑公園は対象外。個人の名前が刻まれたからか、あるいは死者への敬意なのか。ルーペで拡大出来はしなくて、何も読み取ることは出来ない。真っ白な墓碑があるというだけ。
(前のぼくの名前…)
 どんな風に刻んであるのだろう?
 御大層な墓碑が立つ記念墓地とは違うような気がする、ひっそりと刻まれているのでは、と。
 他の仲間たちの名前と何ら変わらず、文字の大きさもまるで同じで。
 データベースで調べてみたなら、きっと答えはあるだろうけれど。
 求める写真がある筈だけれど、同じ確認するならば…。



(ハーレイに訊きたい…)
 前の自分の名が刻まれた墓碑を、ハーレイは見ている筈だから。見なかったとは思えないから。
 そう思っていたら、チャイムが鳴った。窓に駆け寄り、見下ろしてみれば手を振るハーレイ。
 丁度いい所へ来てくれた、と早速訊いてみることにした。母がお茶とお菓子を置いて行った後、テーブルを挟んで向かい合わせで。
「ねえ、ハーレイ。…ハンスの木のこと、覚えてる?」
 墓碑公園にあった糸杉、ゼルがせっせと世話をしていたハンスの木だよ。
「ああ、あれな。もちろん俺も覚えているが…」
 どうかしたのか、ハンスの木が?
「えっとね…。ハンスの木を思い出したんだけど…。糸杉を見たら思い出したんだけれど…」
 ハンスの木じゃなくて、あれとセットの墓碑の方。
 あの墓碑に前のぼくの名前も刻んであったと思うんだけど…。どんな風かな、と思っちゃって。
 ソルジャーらしく立派だったか、他の仲間と全く同じに刻んであったか。
 ぼくはみんなと同じ扱いだった方が嬉しいけれども、本当の所はどうなのかなあ、って。
 ハーレイは見たでしょ、前のぼくの名前が刻んであるのを。



 どう刻んだの、と尋ねたら。
 立派だったか控えめだったか、どちらなのかと尋ねてみたら。
「…それがな…」
 答える代わりに口ごもったハーレイ。言いにくいことでもあるかのように。
「どうしたの?」
 前のぼくの名前、立派すぎたの?
 みんなと同じ方が良かった、って言ったけれども、立派でもいいよ?
 ハーレイたちがそう決めたんなら、ちゃんと気持ちがこもっているもの。それで充分。
「いや、それが…」
 皆と同じになってしまった、とハーレイの顔が悲しそうに歪んだ。
 文字の大きさが皆と同じなのは仕方ないとして、俺が刻んでやれなかった、と。
「え?」
 ぼくの名前が特別扱いじゃなかったことは分かったけれど…。
 刻んでやれなかったっていうのは、なあに?



 どういう意味なの、と問い掛けてみれば。
 何のことかと確認してみれば、文字通りに名前を刻むという意味。
 前のブルーが長い眠りに就いていた間に辿り着いたナスカ。
 其処で生まれた初めての自然出産児、トォニィの父はユウイと言った。若い世代のミュウだったけれど、事故で命を落としたユウイ。格納庫での誘導中に、ギブリの暴走に巻き込まれて。
 そのユウイの名を墓碑に刻んだのが、妻のカリナとユウイの友人たちだった。それ以来、墓碑の名前は親しかった者が刻むことになっていたらしい。
 亡くなった者への思いをこめて、その魂が安らかであるようにと。



「…ぼくが眠っちゃう前には、そんな決まりは…」
 聞いたことが無いよ、ただの一度も。墓碑公園の責任者が刻んでいただけで…。
「無かったさ、お前の言う通り」
 ユウイの時からだと言っただろうが。カリナが刻みたいと言ったんだ。ユウイの名前を。
 そのユウイはナスカに墓が作られたんだが、墓碑にも刻むと説明をしたら、自分がやると…。
 どうしても、と頼み込まれちゃ断れないしな?
 大理石を彫るには専門の道具も必要になるが、と言っても聞きやしなかった。無理そうだったら少しだけでも、ほんの少しでも彫りたいんだ、と。
 実際の所、カリナだけでは彫れなくってな、ユウイの友達だった男たちの出番になったんだが。



 ナスカで生まれた新しい習慣。
 墓碑公園に死者の名前を刻む時には、親しかった者たちが彫るというもの。
 赤いナスカがメギドの炎で滅ぼされた後、ナスカで亡くなった多くの仲間たちの名も、ゆかりの者たちがそれぞれ刻んだ。友人や、仕事仲間などが思いをこめて。
 けれどもブルーの名前だけは…。
 ナスカで亡くなった者たちの名前の一番最初に刻まれたブルーの名だけは違った。以前の通りに墓碑公園の責任者が刻み、縁ある者たちは墓碑に触れさえしなかった。
「…みんな忙しすぎたんだ。俺も、ジョミーも、ゼルたちもな」
 とにかく合同で葬儀はしたがだ、それさえも俺たちは仕事の合間に駆け付けたって具合でな…。
 墓碑にまで頭が回らなくって、任せると言ったか言わなかったかさえも覚えていない。
 一段落して、そうだった、と墓碑公園まで出掛けて行って…。
 刻まれたお前の名前を見付けて、やっと気付いたという有様だ。大切な仕事を忘れていた、と。



 ハーレイが墓碑を前にした時には、とうに刻まれていたという名前。ブルーの名前。
 文字の大きさこそ他の仲間たちと同じだったけれど、ソルジャーだからと、最優先で。
 亡くなった順番からすれば最後であろうに、ナスカで亡くなった誰よりも先に。
「…すまん。俺がウッカリしていたばかりに…」
 苦しそうに顔を歪めるハーレイ。「すまん」と、本当にすまないと。
「なんで?」
 どうしてハーレイが謝るわけ?
 謝ることなんか何も無いでしょ、ハーレイが指図して立派すぎるのを彫らせたんならともかく。
 そういうのはぼくの好みじゃないから、謝ってくれてもいいんだけれど…。
「…俺が刻んでやれなかったからだ、お前の名前を」
 お前の恋人だったのに…。誰よりも親しい仲だったのに。カリナがユウイの名を刻んだのと全く同じに恋人同士で、俺が刻むのが正しいやり方だったのに…。
 もちろん、恋人だったからとは言えん。しかし、お前の友人としてなら刻むことが出来た。他の誰よりも親しかったと、一番古い友達なんだと。
 そう言いさえすれば、俺が刻めたんだ。仕事の合間に刻みに行っては、心でお前と話しながら。
 それなのに俺は、考え付きさえしなかった。俺がお前にしてやれる最後のことだったのに…。
「…ほんのちょっぴり残念だけど…」
 ハーレイに名前を刻んで貰えるチャンスは逃したけれども、ぼくはちっとも気にしないよ。
 そういう決まりが出来ていたことも知らないし…。
 ハーレイがとっても忙しかっただろうってことも、ぼくにはちゃんと分かっているから。



 それにハンスの木があるしね、と微笑んだ。
 墓碑の側にはハンスの木があって常にお辞儀をしていたのだから、ハンスが一緒、と。
「そうなのか…?」
 お前、ハンスと一緒にいたのか、死んじまった後は?
「分からない…」
 一緒にいたのか、いなかったのか。死んだ後の記憶は何も無いしね、分からないよ。
 メギドでハーレイの温もりを失くして、泣きじゃくりながら死んだけど…。それっきりだけど。
 まるでなんにも覚えてないけど、生まれ変わる前はハーレイと一緒だったに決まっているよ。
 ハーレイが死ぬ前は、もしかしたらハンスと一緒だったかもしれないね。
 でも、そんなことはもう、どうでもいいんだ。ハーレイと地球に来られたから、いい。
「…そうか?」
 本当にそれだけでいいのか、俺はお前の名前を刻み損なっちまったのに…。
 恋人だったくせに、言い訳の一つも思い付くどころか、刻むことさえ忘れてたのに。
「いいんだよ。だって、ぼくは今、幸せだから」
 もしもハーレイがぼくの名前を刻んでくれても、こうして会えなかったなら。
 そんな墓碑には何の意味も無いよ、ただの記念碑みたいなもので。



 そうは言ったけれど、少しだけ気になる白い墓碑。白い鯨の墓碑公園。
 シャングリラはトォニィが解体を決めて、宇宙から消えてしまったから。遥かに遠い時の彼方に去ってしまったから、墓碑公園は、墓碑は、どうなったろう?
「ねえ、ハーレイ…。あの墓碑、今も何処かにあるの?」
 それとも、消えて無くなっちゃった?
 歴史資料で何処かにあるのか、残ってないのか、ハーレイ、知ってる?
「あれなあ…。ずいぶん前に調べたんだが、今でも残っているそうだぞ」
 俺やジョミーの名前まで増えて、アルテメシアの記念館にな。
 ミュウの歴史の始まりの星だっていう位置付けだしなあ、アルテメシアは。シャングリラの森もあると言ったろ、シャングリラにあった木を沢山移植した森が。木は代替わりしちまったが…。
 そういう星だし、あの墓碑もアルテメシアにあるんだ。見に行きたいか?
 いつかお前と結婚したなら、懐かしの星まで旅をしてみるか…?
「ううん、アルテメシアには行かなくていいよ」
 他にも用事があるなら行くけど、あの墓碑とかを見るだけだったら。
 そんな所までわざわざ出掛けて行く価値が無いよ、ぼくの名前があるってだけでしょ?



 ハーレイが刻んでくれた名前だったら見たいけれど、とクスッと笑った。
 どんな風になったか眺めてみたいし、刻んだ時の裏話なども聞けそうだから、と。
 けれども、そうではなかった墓碑。ハーレイどころかゼルたちすらも刻んではおらず、ゆかりの者は誰も関わってはいなかった名前。
 それではただの墓碑というだけ、見に出掛けても感慨も何も無さそうだ、と。
「アルテメシアとかノアにある記念墓地と同じでどうでもいいよ」
 ぼくのお墓だけど、ぼくのだっていう感じがしないし…。
 いつかホントについでがあったら、あれに名前が刻んである仲間たちに挨拶しに行く程度かな。
「俺もだな」
 お前以上に遠慮したいな、お前の名前を刻めなかったっていう罪悪感が押し寄せてくるからな。
 ハンスや早くに逝っちまった仲間に挨拶出来たら充分だ。
 ただし、そのためだけに、はるばるアルテメシアまで旅をしようとも思わないがな。
 ハンスたちには心で挨拶すればいいんだ、思い出した時に心をこめて。
 その方がヤツらもきっと喜ぶ、青い地球からメッセージが届くって勘定だからな。



「それはそうかも…。出掛けて行くより、地球からだね」
 ハンスだってきっと、地球へ行きたいと思った時代があったんだろうし…。
 成人検査で記憶が消えても、地球への憧れは消えないんだし。
 青い地球までちゃんと来たよ、ってお祈りするのが一番だよね。
「うむ。産地直送の土産を貰った気分なんじゃないのか、地球からの祈り」
 本当に本物の地球だからなあ、昔のまんまに青い水の星に戻った地球。
「…今度のぼくたち、地球にお墓が出来るんだね」
 それにハーレイと一緒のお墓。ぼくはハーレイのお嫁さんだし、そうなるんでしょ?
「間違いなくな」
 お前が嫌だと言い出さない限りは、俺とお前で二人で一つ。
 そういう墓に入るってことになるんだろうなあ、まだ用意してはいないがな。
「用意してたらビックリだよ…!」
 今からそんなの用意している人なんか無いよ、平均寿命まで三百年以上もあるんだよ?
 何が何でも此処がいいんだ、って決めてる場所があって、予約する人はあるかもだけど…。
 それでも多分、予約止まりで、お墓までは用意してないよ…!



 青い地球の上、今度はハーレイと二人で一つのお墓に入る。
 ハンスの木は植わっていないけれども、今度は離れずにハーレイと一緒。二人で一つ。
 もしかしたら、糸杉を側に植えるかもしれないけれど。白い大理石の墓碑を作って、前と同じに演出するかもしれないけれど…。
「だけどぼくたち、其処にはいないね」
 お墓があっても中身はきっと空っぽなんだよ、ハーレイと二人で行ってしまって。
 天国か何処か知らないけれども、ハーレイと二人、手を繋いで。
「だろうな、また何処かへ行ってしまうんだろうなあ、お前と二人で」
 この地球に来る前に二人で居た場所、其処へ還って行くんだろう。俺にも記憶が全く無いが…。
 其処での暮らしに飽きちまったら、また二人して地球に来るとするか。
「うんっ!」
 ハーレイと二人で地球に来ようよ、やっぱり地球が一番だもの。
 ぼくたちがいつか還って行く場所、とても素敵かもしれないけれど…。
 だけど、飽きたら、二人で地球。この次も地球に生まれるんだよ。



 青い地球に二人で帰って来よう、と約束してから。
 指切りしてから、ブルーはプッと小さく吹き出した。
「もう次の約束をしてるだなんて…。気が早すぎ…!」
 これから三百年以上もあるのに、今からそんな先のことまで約束しちゃってどうするんだろ?
「まったくだ」
 お互い、気が早いにもほどがあるってな。
 俺たちの時間はまだまだこれから、結婚してさえいないってのに…。
 そういや、例のハンスの木。…面白いことを思い出したぞ。
「なに?」
 ハンスの木のことなの、それとも糸杉?
「糸杉の方だ。あれの小さいのはクリスマスツリーにもなるんだよな」
 本物のクリスマスツリーはモミの木なんだが、糸杉もそれっぽい形だろうが。
 クリスマス前には飾り付けてだ、花屋なんかに並んでいるぞ。ミニサイズの糸杉。
「そうなの? じゃあ、お墓に糸杉を植えて貰うよりも前にそっちだね!」
 クリスマスツリーの糸杉もいいね、小さかったらテーブルとかにも飾れるし…。
 結婚したなら、それも欲しいな。
 大きなクリスマスツリーはもちろんだけれど、ちょっと飾っておけるミニサイズのも。



 ハーレイと二人でクリスマス、と小さな糸杉のクリスマスツリーを思い浮かべる。
 小さくても天辺は少し曲がっているのだろうか?
 クリスマスツリーの天辺には星を取り付けるのだし、曲がっていても分からないだろう。
 だからこそ糸杉でもクリスマスツリーで、哀悼の木ではなくて飾りが沢山。
(…ふふっ、ハーレイと二人でクリスマス…)
 二人きりの家で迎えるクリスマスはどんなに素敵だろうか、と頬が緩んだ。
 天辺が曲がっている糸杉。お辞儀していたハンスの木。
 お辞儀する木はまだ要らない。
 青い地球の上、幸せを沢山積み重ねながら、ハーレイと生きてゆくのだから…。




           ハンスの木・了

※ブルーが思い出した、「ハンスの木」。それにシャングリラの墓碑公園のこと。
 前のブルーが眠っていた間に、生まれた習慣。辛い思いをしたハーレイですけど、今は幸せ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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