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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

無かったタバコ

「ハーレイ先生、一本どうです?」
 放課後、少し長引いた会議の後で勧められたタバコ。
 同僚が箱を差し出して来た。一本どうかと、気分転換にとライターも手にしているけれど。他の教師たちも「ひと仕事終わった」と咥えて一服している者が多いのだけれど。
「いえ、私は…」
 こちらの方で、とコーヒーのカップを持ち上げた。
 会議の時にはよく出るコーヒー、終わった後には女性教師が主におかわりする飲み物。男性陣はタバコの方が割合が高い。会議の続きのようなカップに注ぐコーヒーよりかは、会議中には駄目なタバコがいいのだろうか、と思うくらいに。
 けれどもハーレイはタバコは吸わない、その趣味が無い。だからコーヒー。
 そうでしたねえ、と笑ってタバコを咥えた同僚。タバコはお好きじゃなかったですね、と。
 プカリと上がった、いわゆる紫煙。あちこちでタバコをくゆらせている男性教師たち。もちろん中にはハーレイと同じコーヒー党もいるのだけれど。緑茶を淹れている者もいるのだけれど。



 会議が長引くくらいだったから、ブルーの家には寄れなかった日。
 買い物を済ませて家に帰って、夕食の後は書斎でコーヒー。愛用の大きなマグカップにたっぷり注いだ熱いコーヒー、それを傾けていたら思い出した。会議の後での同僚との会話。
(どうもなあ…)
 タバコは性に合わないな、とコーヒーを味わいながら考える。タバコよりかはコーヒーだと。
 一息入れるなら断然コーヒー、若い頃から。そういう好み。
 休憩することを「一服する」と言うほどなのだし、本来はタバコで一休みかもしれないけれど。気分転換にはタバコを一服、そういうものかもしれないけれど。
(コーヒーは一服と言わんよなあ…)
 一服つけるとは言わないコーヒー。一服つけるなら言葉の上ではタバコしかない。古典の教師をやっているからそうは思うが、自分が休憩するならコーヒー。タバコではなくて。



 遠い昔には害が多かったと伝わるタバコ。健康被害や依存性やら、それは色々と問題だらけで、あの紫煙までが悪かったらしい。タバコを吸わない人が煙を吸い込むだけでも身体を害した。
 そういったことが判明したから、一時は駆逐されかかったほどのタバコだけれど。
 害があるものだと分かる前には紳士の嗜み、貴族たちが集った晩餐会では食事の後に男性のみが別室に移ってタバコをくゆらせる習わしまでがあったほど。葉巻は高価な贈答品。
 いわば社会に浸透していた一つの文化で、有害だからと排除するには反対の声も高かった。害があるなら無くせばいいと、改良すればいいと唱える声も。
 タバコをこよなく愛する者には、資産家たちも多かったから。彼らは私財を惜しみなく投じて、タバコの改良に励んだという。害の無いタバコ、健康被害の無いタバコ。
 そうした努力が実を結んだ結果、今ではタバコは無害な単なる嗜好品。ガムを噛むのと変わりはしない。気軽に一服、気分転換。
 ゆえに吸っても問題は無いし、男性に人気のタバコなのだが。



(健康云々以前に、だ…)
 何故だか吸う気になれなかったタバコ。吸ってみようと思いもしないで来たタバコ。
 この年になるまで吸ったことが無い、ただの一度も。吸いたいと思ったことすらも無い。
(タバコ自体は別に嫌いじゃないんだが…)
 吸う習慣が無いというだけで、吸っている人を嫌悪しているわけではない。
 タバコなるものにロクな思い出が無いというわけでも全くない。
 父の釣り仲間にはパイプで吸っている人も少なくなくて、どちらかと言えばプラスのイメージ。父はタバコを吸わないけれども、ああいう姿も絵になるな、と。
 釣り糸を垂れて獲物を待ちながらパイプをくゆらせ、のんびりと座る姿はいい。如何にも紳士といった感じで、釣り用のラフな服装であっても大人の余裕を感じるもの。
 箱から出すだけのタバコなどより格好良く見えたパイプのタバコ。あれはいいな、と。



 釣りのお供をしていた頃から見ていたタバコ。パイプのタバコも、普通のタバコも。
 上の学校に進んだ後には吸っていた友人も何人かいた。大人の男の嗜好品だと、タバコで一服。彼らに何度か勧められたが、吸う気になれずに終わってしまった。
 教師になってもタバコは吸わずにこの年まで来た、一本も試さないままで。
(…何故なんだかなあ?)
 未だに御縁が無いままのタバコ。「如何ですか」と縁が生じても「いえ」と返して途切れる縁。
 もしも自分が吸うのだったらパイプだろうか、様になるのは。
 ごくごく普通の紙巻きタバコや、作るのに手間がかかると噂の葉巻などよりパイプのタバコ。
 刻んだタバコの葉を自分でパイプに詰めて一服、吸う前にひと手間かかるのがパイプ。ただ火を点けるだけの紙巻きタバコや葉巻とは違う。
 吸い終えた後もパイプの手入れが必要、灰皿で消して終わりではない。吸い口が目詰まりしたりしないよう、専用の掃除道具もあるのがパイプ。
 レトロな趣味だと思えるパイプは、自分の心を惹き付けそうなものなのに。
 パイプのタバコを嗜む人物が描かれた名画も多いのに。
 SD体制が始まるよりも遥かな昔の絵の中、パイプのタバコ。紙巻きタバコや葉巻ではなくて。



(パイプを買わんと吸えないしな?)
 デザインが豊富で、好みで色々選べるパイプ。自分の手にしっくりと馴染むパイプを探す所から始まるのだから、それだけで楽しそうではある。店に出向いて、どれがいいかと品定め。
 パイプの中には吸えば吸うほど味わいが出るものもあるのだと聞いた、何と言ったか、白い石で出来ているパイプ。水に浮くほど軽い石。それで作られた白いパイプは色が変わってゆくらしい。何度もタバコを吸っている内に、白から黄色へ、光沢と深みのある茶色へと。
 耳にしただけで、如何にも惹かれそうなのに。そういうパイプを持ってみたいと、吸う度に色が深まるパイプを愛用したいと考えそうなのが自分なのに。    
(…なんでタバコは駄目なんだ?)
 紙巻きタバコや葉巻はともかく、パイプのタバコ。
 こだわって選んだ一本のパイプや、使うほどに味わいが増すパイプやら。
 本当に好きそうな感じがするのに、一つ欲しいと店へ探しに行きそうなのに。



(前の俺だって…)
 今と同じにレトロ趣味だった、前の生の自分。
 誰も欲しいと言い出さなかった木で出来た机を愛用していた、磨けば磨くほど味わいが増すと。羽根ペンも気に入りで、ペン先を何度もインクに浸けては航宙日誌を綴っていた。
 あの頃の自分も実に好きそうなアイテムなんだが、とパイプを思い浮かべたけれど。
 どうだったのかと遠い記憶を探ったけれども、結論としては。
(吸っていなかったな…)
 パイプのタバコも紙巻きタバコも、むろん葉巻も。
 前の自分も今と同様、タバコを吸ってはいなかった。吸った記憶も全く無かった。
(前の俺もタバコは吸わなかったか…)
 あの時代にもタバコは確かに存在していた筈なのに。パイプも売られていたのだろうに。
 SD体制が敷かれていた時代、既に健康的だったタバコ。無害に改良されていたタバコ。
 そうでなければマザー・システムが許さない。タバコは抹殺されただろう。多様な文化も消してしまったマザー・システム、タバコの存在を消し去るくらいは何でもない。
 しかしタバコは消されはしなくて、アルテメシアを落とした後には何度も見かけた。人類側との交渉や会議、そういった場に出掛けて行ったら目にしたタバコ。
 なのに自分は吸っていなくて、ゼルやヒルマンも吸っていたという覚えが無いから。



(シャングリラは禁煙だったのか?)
 あれはそういう船だったろうか、と前の自分の記憶を手繰ってタバコを探した。考えてみれば、あの船の中でタバコに出会った記憶は無い。タバコを吸っていた者もそうだし、タバコ自体も。
 紙巻きタバコも葉巻も無ければ、パイプのタバコも見覚えが無い。
 タバコの原料になる葉を栽培していたという記憶でさえも。
(…あの船は禁煙…)
 どうやらそうだ、と気付いた途端に不思議に思い始めたこと。タバコが無かったシャングリラ。
 白い鯨には酒もコーヒーもあったのに。
 合成品やら代用品でも、タバコと同じに嗜好品だった酒やコーヒー、それは船にあった。
 なのにどうしてタバコは無かったのだろう?
 パイプでくゆらせるレトロなタバコは、前の自分も好きそうなのに。
 そういう代物があると知ったら、喜んで吸いそうだったのに。



(…ブルーが手に入れ損なったのか?)
 前のブルーが奪った物資にタバコは混ざっていなかったろうか。
 それならば分かる、タバコが無くても誰も気付きはしないだろうから。成人検査を受ける前には誰もタバコを吸ってはいないし、嗜好品の一つになってはいない。ミュウと判断され、檻の中へと送られた後にはなおのこと。研究者たちはミュウにタバコをくれはしないし、吸うわけがない。
 まるでタバコを知らなかったなら、その味を知らなかったなら。
 前のブルーが奪った物資にタバコが無くても、誰も不満は言わないだろう。存在自体を知らないタバコを欲しいと考えたりはしないし、吸いたくもならない筈だから。
 そんな具合でタバコが無いまま、自給自足で暮らす船へと移行したならタバコは要らない。船でタバコを葉から育てて、吸おうとは誰も考えない。
 きっと最初から無かったのだ、と思ったけれど。
 タバコという嗜好品に出会わないまま、白い鯨は飛んでいたのだと考えたけれど。



(しかし、酒…)
 味を知らなかった嗜好品とくれば、酒も似たようなものだった。
 合成してまで飲んでいた酒、前の自分も好んだ酒。ほんの僅かなワイン以外は全て合成、それが飲まれていたシャングリラ。楽しく飲むなら酒なのだと。
 けれど、子供でも飲みそうな紅茶やコーヒーなどはともかく、酒を知っていた筈がない。どんな味なのか、どう美味しいのか、成人検査を受けるよりも前の子供は知らない。
 どう考えても酒は後から、後にシャングリラと名付けた船で脱出してから覚えたもの。あの船で初めて口にしたもの。
 脱出直後は紅茶の淹れ方も危うかったような自分たち。船で見付けたコーヒーメーカー、それに紅茶の葉を入れたほどに記憶が曖昧だった状態。
 そこから懸命に這い上がる内に、いつしか覚えて飲んでいた酒。警戒したという記憶は何処にも無いから、失くした記憶の中に残っていたのだろう。養父母たちが飲んでいたものだ、と。
 ならば、タバコだって条件は同じ。
 僅かでも物資に紛れていたなら、誰かがタバコに気付いた筈。これは吸えると、火を点けて煙を味わう嗜好品だと。



(なのに全く無かったとなると…)
 やはりブルーが奪い損ねて出会わないままで終わったのか、と考えたものの。
 船にデータは山ほどあったし、暇に任せて調べる時間も充分にあった。人類の社会も、かつての人間たちの歴史も。
 それらを端から調べていたなら、タバコにも出会うことだろう。大人のための嗜好品だと、酒の他にもタバコがあると。そうなってくると…。
(ヒルマンあたりが…)
 頼んでみそうだ、何処かからタバコを手に入れられないものだろうか、と。
 前のブルーが物資を奪うのに慣れてしまって、何を奪うか選べるようになった頃にでも。
 あるいは白い鯨が出来上がった後に、奪う必要が無くなった後に、冗談交じりに。
 この世の中には酒の他にもタバコというものが存在すると、それを試してみたいものだと。
 それを聞いたら、ブルーは出掛けて行っただろう。
 話の種にとタバコを奪って、それがシャングリラの仲間たちの好みに合ったなら…。



(奪ったろうなあ、完成品のタバコも、タバコの苗も)
 シャングリラで是非栽培しようと意気込むブルーが目に見えるようだ。完成品のタバコはこんな出来栄えだから、これを手本にシャングリラでもタバコを作ろうと。
 紙巻きタバコや葉巻を作って、更にはパイプも。
 初期のパイプは略奪品で、やがては自給自足のパイプ。吸えば吸うほど味わいが出るという噂のパイプも、材料になる石を探しただろう。何処かの星では採れるのだろうし、同じ吸うなら評判の高いパイプにしようと。



 発展の過程が容易に想像出来るというのに、シャングリラには無かったタバコ。
 ついぞ見かけることも無いまま、禁煙だった白いシャングリラ。
 白いからと言って、中でタバコを吸っている内に船体の色が変わるわけでもなかろうに。白から黄色に、そして茶色へと色合いが変わる白い石のパイプとは違うのだから。
 あのシャングリラが禁煙だった理由が思い当たらない。タバコが無かった理由が、まるで。
(風紀が乱れるわけではないしな…)
 煙を味わうという一風変わったものであっても、ガムのような感覚なのだから。
 コーヒーと同じで休憩に一服、ブリッジなどの仕事場でなければ吸っても問題無いだろう。休む時には休憩用の部屋や公園へと出掛けるものだし、そこで一服すればいい。
 仕事の合間にプカリと一服、ゼルもヒルマンも似合いそうだが、とパイプを思い浮かべた時。
 あの二人ならばきっとパイプだと、紙巻きタバコや葉巻よりもと考えた時。



(それだ…!)
 シャングリラが禁煙になった理由はそれだった、と鮮やかに蘇って来た記憶。
 ほんの一時期、紫煙がくゆっていたシャングリラ。
 まだ白い鯨にはなっていなくて、ゼルもヒルマンも若かった頃。前の自分も青年と言える外見をしていた時代のこと。そう、キャプテンでさえもなかった時代。
 ある時、前のブルーが奪った物資に大量のタバコが混じっていた。葉巻や刻みタバコではなくて普通のタバコ。紙巻きタバコの箱がドッサリ。
 吸った記憶こそ誰にも無かったけれども、タバコの箱に描かれた絵だけで直ぐに分かった。この箱の中身は火を点けて煙を味わうものだと、ふかして楽しむものなのだと。
 早速、誰かが咥えた一本。火を点けてプカリとふかした一本。
 「悪くないぞ」という感想を待つまでもなくて、我も我もと手を伸ばした。独特の香りが鼻腔をくすぐり、ゆったりと煙が立ち昇るそれに。
 ゼルもヒルマンもタバコが気に入り、嬉しそうに吸っていたものだ。これは落ち着くと、休憩の時にはタバコに限ると。コーヒーよりも先にまずは一本、プカリとタバコ。



 タバコはたちまち人気を博して、休憩といえばタバコになった。
 なにしろタバコは山ほどあったし、それの虜になった者たちがもれなく紫煙をくゆらせるから。
 休憩室はいつも煙だらけで、排煙設備も追い付かないほど。
 いくら健康に害が無くても、タバコに紫煙はつきものだから。休憩室が煙っているものだから。
(女性陣に不評だったんだ…)
 何故だか理由は分からないけれど、タバコを吸わなかった女性たち。一番最初に好奇心から手を出したブラウが激しく噎せた挙句に、「これとは相性最悪だよ」と吐き捨てるように言ったことが原因かもしれない。ブラウが駄目なら自分も駄目だと、女性向けではないらしいと。
 とにかく女性はタバコを吸おうとしなかった上に、休憩室の紫煙に文句を付け始めた。
 いつ出掛けても煙ばかりで見苦しすぎると、これでは全く落ち着かないと。
 アルタミラで煙は散々に見たと、あの燃える星に逆戻りしたようで不愉快だと。



 本当を言えば、アルタミラの地獄で見て来た煙とタバコの煙はまるで別物、同じに見えると言う方が無理があったのだけれど。
 空を焦がした炎と黒煙、それと紫煙が似ているわけもないのだけれど。
 休憩室に溢れる紫煙に嫌気が差した女性陣としては、アルタミラは格好の脅し文句で。とにかく煙はアルタミラだと、もう沢山だと苦情を述べてはタバコの排除に乗り出した。
 タバコを嗜む男性の方も、負けてはならじと懸命に論陣を張ったけれども、タバコの美味しさと良さをせっせと説いたけれども。
(吸わない人間に美味いと主張したってなあ…)
 如何に美味しさを説明されても、それを吸わない女性たちには分からない。
 分かる筈もなくて、タバコを吸う者たちは日に日に肩身が狭くなっていったという有様。時間が出来たと一服しようにも、休憩室に行けば女性にギロリと睨まれる。
 かといって他の場所で吸うには、船の構造上、無理があり過ぎた。各自に割り当てられた部屋や通路や、そういった所で紫煙を上げれば火災を知らせる警報が響いたシャングリラ。
 警報装置を切ることは出来ない、船の安全に関わるから。
 タバコを吸うなら休憩室のみ、けれど其処では女性陣との攻防戦といった日々。



(俺は吸う前に…)
 どんな味かと吸ってみる前に、皆の様子見をしていた間に。
 ほんの数日、吸わずに様子を見ていた間に、まだ少年の面影が残るブルーに訊かれたのだった。十四歳の小さなブルーとそれほど変わらなかった姿のブルーに。
「あのタバコ…。ぼくは吸えないけど、美味しいの?」
 吸っちゃ駄目だと言われてるけど、あれって美味しいものなのかなあ…?
「さてなあ…?」
 俺も一本も吸ってないしな、美味いかどうかは知らないんだが…。
 美味いのかもなあ、あれだけプカプカ吸ってるヤツらがいるんだからな。



 きっと美味しいものなのだろう、とは答えたけれど。
 ブルーの言葉を聞いたばかりに吸えなくなった。吸ってみる機会を逸してしまった。
 皆が紫煙をくゆらせるタバコ、美味しいと吸っているタバコ。
 それをシャングリラに持ち込んだブルーは、奪って来たブルーはタバコを吸えはしないから。
 まだ少年の身体なのだし吸っては駄目だと、皆が挙って止めていたから。
 せっかく自分が奪って来たのに、吸えずに眺めているだけのブルー。美味しいのだろうかと首を傾げるしかないブルー。
 それを知ったら駄目だと思った、自分までが吸ってしまっては。
 ブルーは吸えないタバコを試しに咥えてみるのは、この際、やめにしておこうと。



(仮にブルーが吸ってたとしても、健康被害は無かったんだがな?)
 恐らく実害は無かったと思う、ブラウのように噎せることはあっても。
 美味しくはないと顔を顰めても、身体に害は無かっただろう。煙臭いというだけのことで。
 タバコの害はSD体制が始まるよりも前の時代に除去されていたし、後は好みの問題だけ。
(とはいえ、箱にも書いてあったし…)
 二十歳未満の喫煙は禁止、と書かれていた箱。前のブルーが大量に奪ったタバコの箱。
 あれから遥かな時が流れた今の時代も、タバコを吸うなら二十歳から。
 何の根拠も無いのだけれども、SD体制の時代よりも前から継がれた伝統、大人のアイテム。
 子供はタバコを吸いはしないし、大人になったら吸えるもの。



 そんなこんなで、前の自分もタバコを吸わなかったから。
 休憩室に満ち満ちた紫煙に不快感を覚える女性陣の気持ちが少しは分かった。アルタミラの煙を思い出すとまでは言わなかったが、憩いの場所がこれでは如何なものかと。
 一息入れようとやって来たのに、澄んだ空気が無い休憩室。
 コーヒーの香りにも紫煙の匂いが混ざり込んでくるし、鼻の中にも遠慮なく。
 これはマズイと、タバコを吸わない者たちにとっては有難くない状況だろうと考えたから。
(それで禁煙…)
 シャングリラにタバコは相応しくない、と判断した。ブルーにもそう伝えておいた。
 お蔭でブルーは二度とタバコを奪わなかったし、雑多な物資に紛れていた時は密かに廃棄処分にしておいた。備品倉庫の管理人をも兼ねていたから、その役目ゆえの特権で。
 そうしてタバコはシャングリラの中から消えてしまって、二度と戻っては来なかった。
 白い鯨への改造が済んで、部屋や通路の設備がすっかり新しいものに変わった後も。何が原因の煙なのかを感知出来る火災報知器を備え、紫煙くらいでは警報が鳴らなくなった後にも。



(禁煙でタバコが無かった船…)
 思い出した、と手を打った。
 白いシャングリラを禁煙にしたのは前の自分で、皆からタバコを奪ったのだった。文句の一つも出ずに済んだから、綺麗に忘れていたけれど。
 タバコを愛飲していたゼルやヒルマンたちだって、無いものは無いと諦めて禁煙、そのまま味を忘れたのだろう。タバコをふかしていたことも。
(なにしろ若かった時代だしなあ…)
 ヒルマンは髭を生やしてはおらず、髪だって少しも白くはなかった。ゼルの髪の毛も豊かに頭を彩っていた。遠い遠い日のほんの一時期、短期間だけ吸っていたタバコ。長い年月が流れる内には記憶も薄れていっただろう。どんな味だったか、どんな気持ちで吸っていたのか。
(たまにはタバコを思い出したかもしれないが…)
 栽培しようとは言い出さなかった、ヒルマンもゼルも。
 白い鯨でタバコを作ろうと、タバコを吸いたいとは言わなかった。
(その程度の味っていうことなんだか、それとも言うのが面倒だったか…)
 新しい作物を導入するなら、必ず会議が必要だから。タバコに手を出して噎せたブラウや、煙に閉口していたエラにはいい思い出が無さそうだから。
(反対されたら、タバコ作りは無理なんだしな?)
 ゼルとヒルマンとが忘れたにせよ、言い出せずに終わってしまったにしても。
 白いシャングリラにタバコは無かった、ほんの一時期だけを除いて。全面禁煙で宇宙を旅して、地球にまで行った。
 明日はブルーに話してやろうか、土曜日だから。
 シャングリラは実は禁煙だったと、その必要が無くなってしまった後も、と。



 翌日、ブルーの家に出掛けて。小さなブルーとテーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「お前、タバコを覚えているか?」
「えっ?」
 タバコってなあに、吸うタバコだよね?
 知っているけど、覚えているかって訊かれても…。学校で何かあったっけ?
「違うな、学校よりもずっと昔の話さ。前の俺たちが生きてた頃のな」
 シャングリラのタバコだ、と怪訝そうなブルーに教えてやった。
 自分でもすっかり忘れていたことを思い出したと、シャングリラはタバコの無い船だったと。
「そういえば、タバコ…」
 前のぼくが一度だけ奪って、それっきりだっけ…。とても人気が高かったのに。
 ゼルもヒルマンも吸っていたのに、エラたちが文句を言ったんだっけ…。
 それでハーレイが二度と奪うなって言って来たから、ぼくもタバコはあの一回きり…。
「な? シャングリラにはタバコ、無かっただろうが」
 あれよりも後に前のお前が奪った物資に、たまに紛れてはいたんだが…。
 何かと騒ぎの元になるから、倉庫に入れずに廃棄処分にしておいた。タバコさえ無ければ平和な休憩室なんだしなあ、わざわざタバコを持ち込むことも無いからな。
 改造が済んだ後ならタバコも栽培出来たんだろうが、吸える場所も沢山あったんだが…。
 ヒルマンもゼルも「タバコを作ろう」と言わなかったし、そのまま全面禁煙ってな。
 シャングリラを禁煙にしちまった犯人、誰かと訊かれたら俺なんだよなあ…。



 もっとも俺は吸っていないが、と苦笑した。
 前のお前が吸えないというのに自分だけ吸うのは悪いと思って吸わなかった、と。
「俺の一番古い友達のお前がタバコを吸えないんだぞ? しかもお前が奪って来たのに」
 そんな状態で俺だけ吸えるか、申し訳なくて吸えなかったな。
 もっとも、お前が「あれは美味いのか」と訊いて来たのが、もう三日ほど後だったら。
 味見に一本、と吸ってしまって、そのままタバコに捕まってたかもしれないが。
 そうなっていたら、一度は全面禁煙にしても、白い鯨に改造した後。
 俺が率先してタバコ作りをしていないという保証は無いなあ、あれは美味いと、もう一度と。
 つくづく思うに、シャングリラを禁煙にするもしないも、俺次第だったかもしれないなあ…。
「えーっと、タバコ…。ハーレイ、似合いそうだけど…」
 似合いそうな気がするんだけれども、どうだろう?
 ゼルたちが吸ってた頃と違って、もっと後の時代。キャプテンになって、もっと年を取って。
 今のハーレイと変わらない姿になった後なら、タバコを吸うのも似合いそうだよ。
 普通の箱のタバコじゃなくって、パイプのタバコ。ああいうタバコが似合うと思うな。
「おっ、お前もそういう気がするか?」
 実は俺もだ、パイプのタバコが好きそうだったと思うんだよな。
 パイプってヤツは普通のタバコより手間がかかるし、掃除なんかも必要なわけで…。
 その辺の所が俺の好みにピッタリだという気がしてな。
 もしもシャングリラにタバコがあったら、断然、パイプだ。きっとパイプをふかしていたな。
 シャングリラの舵を握りながらは流石に無理だが、キャプテンの席なら吸えたかもなあ…。
 タバコなんかは一度も吸わずに終わっちまったがな、俺の人生。



 ついでに今の俺もタバコは全く吸わないんだが、と笑ったら。
 前の自分の記憶のせいかもしれないと肩を竦めておどけて見せたら。
「そうだったの? 一度も吸っていないの、ハーレイ?」
 前のハーレイは分かるけれども、今のハーレイもタバコを吸ったことがないの?
「うむ。吸おうと思ったことが無いなあ、前の俺がそうだったからなのか…」
 パイプなんかは格好いいな、とガキの頃から見ていたもんだが、縁が無くてな。
 普通のタバコも勧められたら断っちまうし、未だに一度も経験無しだ。
「それじゃ、今度は吸ってみる?」
 ハーレイ、ホントに似合いそうだもの、パイプのタバコ。
 ぼくはまだ吸える年にはなっていないし、大きくなっても似合いそうにはないけれど…。
 ハーレイだったらきっと似合うよ、今度はパイプのタバコにしない?
 もうシャングリラの中じゃないから、禁煙も何も関係ないもの。
「いや、いいさ」
 お前は今度も似合わないとか言ってるんだし、俺だけタバコを吸わなくてもな?
 今日まで吸わずに来ちまってるんだ、今更タバコってほどでもないさ。



 タバコを吸おうとは思わないな、と言ったのだけれど。
 小さなブルーが「似合いそうなのに…」と繰り返すから。
 パイプのタバコはハーレイに似合うと、好きそうだったら吸えばいいのにと見上げるから。
 機会があったら吸ってみようか、吸うのにひと手間かかるレトロなパイプのタバコ。
 今度はアルタミラの煙だという苦情も出ないし、何よりブルーのお勧めだから。
 パイプに刻んだタバコの葉を詰めて、ゆったりと紫煙をくゆらすのもいい。
 自分の手に馴染むパイプを探して、それを咥えてのんびりと。
 青い地球の上、ブルーと二人で過ごすひと時、ゆっくりと幸せを噛み締めながら…。





           無かったタバコ・了

※禁煙だったシャングリラ。けれどタバコは、一時期だけ存在していたのです。
 全面禁煙の船にしてしまったのは、前のハーレイ。愛煙家だったら違ったのでしょうね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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