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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

地球儀

(えーっと…?)
 ブルーは首を傾げて目の前にある物体を見た。学校から帰って、おやつの後で。
 母に頼まれて荷物を置きに来た部屋、父が普段に使う部屋。そこに地球儀。今の自分が住む星を模して作った地球儀、それが棚の上に飾ってあるから。
(なんで?)
 先日までは無かったと思う。この部屋の棚に地球儀などは。
 そもそもブルーが暮らす家には地球儀が無かった、父も母も持っていなかったから。遠い昔には学校の授業で使われたこともあったと地理の授業で習ったけれども、今の時代はインテリア。
 大きなものから小さなものまで、百貨店などで売られているのが今の地球儀。
 けれども両親にその趣味は無くて、家ではお目にかからなかった。なのに地球儀、棚の上にある小さな地球儀。
 父が欲しくなって買ったのだろうか、と観察してみれば、それの正体はトロフィーだった。優勝記念と文字が刻まれた台座、地球儀を据えてある台座。地球を支える棒にはリボン。



(そういえば…)
 何かの大会で優勝したと言っていた父。会社の仲間が大勢集まる遊びの会。
 土曜日だったか日曜だったか、ハーレイが来ていた日だったから。優勝の話は夕食の席の話題の一つ。父はトロフィーを披露しなかったし、貰ったことさえ聞きはしなかった。
 どうやらその日の記念品らしい、このトロフィー。地球儀の形で台座付き。
(地球儀…)
 小さいけれども本物の地球儀、インテリアとして人気の地球儀。
 作り物の地球を覗き込んでみたら、今とは全く違う大陸。地理の授業で馴染みの地球とはまるで違った形の大陸。
 けれど根拠の無いものではない、歴史の授業で習う大陸たち。それは遥かな昔の地球。
 SD体制が敷かれるよりも前、人がまだ地球に住んでいた頃はこういう形の大陸だった。地球が滅びて人が住めなくなった後にも、辛うじて地形は残っていた。
 ところがSD体制の根幹だったグランド・マザーの崩壊と共に、燃え上がってしまった遠い日の地球。火山の噴火や大規模な地殻変動が起こり、地球はすっかり変わってしまった。
 もっとも、そうした荒療治のお蔭で今の青い地球があるのだけれど。
 汚染されていた海も大地も息を吹き返して、青い水の星が宇宙に蘇って来たのだけれど。
 父が貰ったトロフィーにあるのは、そうなる前の昔の地球。失われてしまった大陸たち。



(フィシスの地球…)
 前の自分が見ていた地球だ、と父のトロフィーの地球を見詰めた。
 今でも地球儀として人気があるのが昔の地球。一度滅びるよりも前の時代の地球を模したもの。
 今の状態を描き出した地球儀もあるのだけれども、好まれるものは断然、こちら。
 なんと言っても、人間を生み出した時代の地球はこうだったから。遠い遠い昔のアフリカ大陸、人間はそこで生まれて地球に広がり、あちこちで多様な文化を築いていった。
 地面の上を歩いて行ったり、海を渡って更に遠くへと進んで行ったり。
 そうした時代に、母なる地球に思いを馳せるなら、地球儀はこうでなければいけない。変わってしまった地形を描いた地球儀を見ても、人間の先祖が旅をした道はその上に見えてこないから。
 アフリカ大陸から始まった歴史、それを辿るなら昔の地球。
 前の自分もこれを見ていた、フィシスの記憶に刻み込まれた青い地球を。
 たとえ機械が刻んだものでも、地球は地球。こういう姿で宇宙の何処かにある筈の地球。銀河の海の中の何処かに、この青い星がぽっかりと浮かんでいるのだと。



 父が貰って来たトロフィー。脳裏に蘇るフィシスの地球。
(触っていいよね?)
 悪戯するんじゃないんだから、と小さな地球儀に手を伸ばした。
 単なる飾りでクルリと回りはしないのだろうか、と触れてみたらスイと動いた地球儀。回そうとした方へと地球が回った、作り物の地球が。昔の地球を模している玉が。
 もうそれだけで弾んだ心。嬉しくなって緩んだ頬。
 小さくても地球、それが自分の手で動く。指先でスイと回してやれる。自転さながらにクルリと回って、見える大陸が変わってゆく。小さな地球儀の表から裏へ、裏から表へ。
 昔の地球でも今の地球でも、肉眼で見てはいないから。
 地球儀のような丸い地球には一度も出会ったことがないから、もう嬉しくてたまらない。これが地球だと、宇宙から見ればこう見えるのだと。
 この地球儀の上に描かれた大陸、それは失われてしまったけれど。
 前の自分が生きた時代の終わりに滅びて、新しい大陸とそれを囲む海とが生まれたけれど。
 今とは違う姿の地球でも、地球は地球。クルリクルリと何度も回した、作り物の地球を。
 父のトロフィーにくっついた地球を、小さいながらも精巧に出来た地球儀を。



 トロフィーの地球を飽きずに眺めて、それから自分の部屋に戻って。
 あのインテリアが人気なわけだと、地球儀を飾っておきたい人が多いわけだと思ったけれど。
 自分の部屋にも欲しいほどだと、また父の部屋へ行ったら回してみようと勉強机に頬杖をついて考えていたブルーだけれど。
(…あれ?)
 さっき回していた、小さな地球。昔の地球を模した地球儀。
 クルリと回せば日本も出て来た、遠い昔の小さな島国。今は無いけれど、今の自分が住んでいる地域は日本が在った場所だから。文化も日本に倣っているから、日本の形は馴染みの形。
 そんな日本が何度も出て来た、地球儀をクルリと回してやれば。独特の形の島たちが。
(前のぼくが見ていたフィシスの地球は…)
 フィシスの記憶に刻まれていた地球、そこに日本は無かったけれど。細長く伸びた島たちの列を目にした記憶は無いけれど。
 SD体制の時代だったから、日本が無いのも頷ける。SD体制が基準に選んだ文化圏の中には、日本は入っていなかったから。日本からは遠く離れた地域が文化の基準で、フィシスの記憶に刻み込むなら、そういう地域にしなければ。日本が一緒に見えたりはしない遠い地域に。
 でも…。



 フィシスが見せてくれていた地球。前の自分が焦がれた地球。
 青い地球を抱く少女だからこそ、フィシスを攫った。機械が無から作ったものでも、どうしても欲しくてミュウにしてまで。
 そうして地球を心ゆくまで眺めたけれども、地球へと向かう旅の記憶が好きだったけれど。
(フィシスの地球は見てたけれども、地球儀って…)
 さっき自分が回した地球儀、それを回した記憶が無い。クルリと回せば自転のように回る地球の模型、地球が好きなら何度も回していそうなのに。
 これがアフリカで、人は此処から長い旅をして…、と人の歴史を辿りそうなのに。
 今もインテリアとして人気の地球儀、百貨店に行けば誰でも買える。昔の地球から今の地球まで揃って並んだ地球儀の中から、好みの一つを選び出して。
 そんな地球儀に前の自分が魅せられない筈が無いのだけれど。
 クルリクルリと何度も回して、いつかは行こうと、この目で見ようと眺めそうだけれど。



(前のぼくは…)
 あんなにも地球に焦がれていたのに、フィシスの地球に酔っていたのに。
 フィシスを攫って来るよりも前は、きっと地球儀だっただろうに。
 クルリと回せば地球の姿を見られる地球儀、それを好んで身近に置いたか、見に出掛けたか。
 小さなものなら青の間に置いておけた筈だし、もっと大きくて立派なものならヒルマンが持っていただろう。子供たちに勉強を教えたヒルマン、彼が教材を保管していた資料室に。
 その他にも地球儀はシャングリラの中にありそうで。
 いつかはと夢見た青い地球の姿、それを表す地球儀は幾つもあった筈。休憩室やら、憩いの場になる公園といった所にきっと幾つも。
(…だけど、地球儀…)
 まるで記憶に残っていない。
 いくら考えても思い出せない、地球儀の記憶が全く無い。
 クルリと回した思い出はおろか、それを目にした記憶でさえも。



(ぼく、忘れちゃった…?)
 焦がれ続けた地球だったけれど、それを模したのが地球儀だけれど。
 フィシスを手に入れ、模型の地球とは比較にならない鮮やかな地球をいつでも眺められるようになったから。望みさえすれば青い地球を見られて、地球儀よりも遥かに美しかったから。
 もう地球儀には興味を失くして、触れさえもしなくなったのだろうか。
 たとえ何処かで地球儀を見ても、ただ其処にあるだけの置物に過ぎず、存在さえも意識しないで記憶の彼方に消えたのだろうか。
 なんとも薄情な話だけれども、それが一番ありそうだから。
(ハーレイに…)
 訊いてみようか、前の自分は地球儀を忘れてしまったのか、と。
 フィシスの地球に魅せられる内に、青い地球へと飛んでゆく旅に酔いしれる内に、以前は好んだ地球儀を忘れ、顧みなくなっていたのだろうか、と。
 ハーレイはきっと酷く呆れることだろうけれど、覚えていないものは仕方ない。
 もしも自分が地球儀を持っていた時期があるなら聞いておきたい、どんな地球儀だったかと。
 青の間に置いて眺めていたかと、その地球儀はいつの間に姿を消してしまったろうか、と。
 誰かに譲ったか、シャングリラの何処かに新たな置き場所を見付けたか。
 それとも自分では持っていなくて、ヒルマンの所へ足繁く通って回していたか…。



(来てくれないかな…)
 今日は寄ってはくれないのかな、と何度も窓の方へと目をやっていたら、チャイムが鳴って。
 その待ち人がやって来たから、部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、今日ね…」
 パパの部屋で地球儀を見付けたんだよ、前には無かったんだけど。
 何かで優勝した記念のトロフィーが地球儀の形で、小さいけれども本物の地球儀。優勝記念って書いた台座に乗っかってるけど、ちゃんとクルンと回せるし…。
 それにね、昔の地球だったよ。今みたいな地形に変わっちゃう前の、昔の地球。
「ほほう…。地球儀ってヤツは人気だからなあ、それも昔の地球の方がな」
 やっぱり夢があるんだろうなあ、昔の地球は。とっくの昔に無くなっちまった大陸とかでも。
「パパの地球儀、綺麗だったよ。小さくてもホントの地球儀だったし。…それでね…」
 ちょっとハーレイに訊きたいんだけど、前のぼくも持っていたのかな?
「何をだ?」
「えっと、地球儀…。全然覚えていないんだけれど…」
 前のぼくが持ってたかどうかも覚えていないし、見かけた覚えも無いんだよ。
 フィシスを攫って、本物みたいな地球をいつでも見られるようになっちゃったから…。そっちに夢中になってしまって、地球儀、どうでもよくなったみたい。
 酷い話だけど、あんなに行きたかった地球。
 その地球とそっくり同じに出来てた地球儀のことを、ぼくはすっかり…。



 忘れちゃったみたい、と話したら。
 ハーレイはきっと呆れるだろうと俯きかけたら。
「いいや、お前は忘れたんじゃない。知らないだけだ」
 酷いも何も、と返った答え。
「えっ?」
 知らないって、何を?
 なんのことなの、忘れたんじゃなくて知らないだなんて。
「地球儀だ。俺も地球儀、知らないからな。…今の俺じゃなくて前の俺だが」
 天球儀だったら知っていたがな、と笑ったハーレイ。キャプテンには必須だったから、と。
 それならばブルーも覚えている。シャングリラにあった天球儀。
 白いシャングリラの位置と他の天体とを関連付けて表示させたり、座標を打ち込んで遠く離れた宇宙の彼方の星雲などを映し出させたり。
 地球があるのは何処だろうかと何度も覗いた、地球を擁するソル太陽系はどの辺りかと。
 ぼんやりと光るホログラムの天球、それを天球儀と呼んでいた。
 いつかは地球の座標を打ち込み、其処に向かって旅立とうと。これに航路を映し出そうと。



 天球儀はあったとハーレイは言ったが、そのハーレイも知らないらしい地球儀。
 前の俺は、と繰り返したハーレイ。
「天球儀は確かにあったんだが…。そう呼んでいたものはあったが、地球儀の方は…」
 生憎と俺も全く知らない、前のお前と同じにな。
「ハーレイも地球儀を知らないだなんて…。もしかして地球儀、無かったの?」
 シャングリラには地球儀が無かったってわけ、ぼくが忘れたわけじゃなくって?
「うむ。地球儀そのものが無かったんだ」
 無かったものなら、覚えているわけがないだろう?
 前のお前は見たことも無くて、シャングリラの中にも一つも無かった。
 もちろん俺だって知らず仕舞いだ、地球儀という代物をな。
「そうだったんだ…」
 無かったんだ、とブルーはポカンと口を開けたけれど、同時に少しホッとした。自分は地球儀を忘れたわけではなかった、前の自分に地球を見せてくれていた地球儀を。
 フィシスが来るまでは何度も眺めただろう地球儀、それを忘れたかと思っていたから。
 無かったものなら記憶に残っていなくて当然、何の不思議も無いのだけれど。
 それ自体は納得出来るのだけれど、無かったと即答したハーレイ。
 尋ねた途端に答えを返したハーレイはいつ知ったのだろう?
 白いシャングリラに地球儀が存在しなかったことを、いつの間に…?



「ねえ、ハーレイ。…なんで気付いたの?」
 地球儀は無かった、って直ぐに答えたでしょ、前から気付いてたんだよね?
 どんな切っ掛けで思い出したの、シャングリラに地球儀が無かったってことを。
「それなんだがな。…お前より少し前のことだが…」
 お前と同じだ、俺も切っ掛けはトロフィーなんだ。
 前に来たから覚えているだろ、俺が幾つも飾っているのを。柔道のだとか水泳のだとか…。
 あれを見ていて気が付いた。前の俺には地球儀ってヤツの記憶が無いぞ、と。
「トロフィーって…。ハーレイのヤツにあったっけ?」
 パパのみたいな地球儀型。ぼくは見覚え、無いんだけれど…。
「地球儀そのままって形のじゃないが、地球つきのトロフィーを持っているんだ」
 トロフィーの飾りの一部が地球の形をしているわけだな、地球を嵌め込んだ塔みたいに。
 金色の塔の天辺が地球になっているな、としみじみ眺めて、昔の地球の方だと思って…。
 トロフィーでも昔の地球が人気なのかと考えてみたが、そいつは柔道のトロフィーだった。
 柔道はSD体制の頃には消されちまってた武術だからなあ、昔の地球なのも当然だよな。



 そのトロフィーを見ていた間に、地球儀型のトロフィーもあると気付いたらしいハーレイ。
 何の競技かは忘れたらしいが、他のクラブが優勝した記念の品が学校に飾ってあったのだ、と。ブルーの父が持っているような地球儀型のトロフィーが。
「あれを思い出したら、地球儀型のが欲しかったと思っちまってなあ…」
 俺が出ていた大会の類に地球儀型のは無かったわけだし、貰い損なってはいないんだが…。
 この中に地球儀型のが一つあったらなあ、と棚を眺めていたってな。
「地球儀型のトロフィーが欲しかったって…。懐かしいから?」
 前のハーレイが辿り着いた地球は青くなかったけど、大陸とかの形は同じだったから?
「いや、そうじゃなくて…。今の俺の趣味だ」
 何かとレトロなものが好きだろ、その辺りは前の俺とどうやら似ているらしい。
 地球儀とくればレトロの極みだ、一つあったらいい感じなのに、と思ったわけだ。
「そっか、地球儀…」
 今は宇宙がぐんと身近で、地球儀なんかを眺めなくても宇宙から本物を見られるんだし…。
 学校の授業でも地球儀の出番は全く無いよね、今の時代は地球儀、レトロなインテリアだよね。
「そういうことだ。如何にも俺の好みのアイテムなわけだ、地球儀ってヤツは」
 今の俺でも、前の俺でも。
 特に前の俺は地球に行こうと思ってたんだし、レトロな地球儀は是非欲しいよな?



 それで気付いたらしいハーレイ。白いシャングリラには地球儀が無かったと気付いたハーレイ。
 レトロ趣味だった前の自分は地球儀を持っていなかったと。
 木で出来た机や羽根ペンを愛用していたほどなのに、地球儀を持ってはいなかったと。
「そういえば…。ハーレイの部屋に地球儀、無かったね」
 あってもおかしくなさそうどころか、うんとレトロなのを飾っててもビックリしないのに。
 同じ地球儀でもセピア色とか、渋いのを。
「前の俺は地球儀、好きそうだろう?」
 机の上に置いて回してそうだろ、今の時間なら地球はこんな具合に太陽が当たっているな、と。この半分が昼の時間で、残りの部分は夜なんだ、とか。
「うん、ぼくよりもずっと好きそうだよ」
 ぼくは地球儀を見ても地球の模型だと考えるだけで、行きたいって眺めるだけなんだけど…。
 早く本物の地球を見たいな、って憧れるだけで終わりだけれど…。
 ハーレイだったら銀河標準時間に合わせて地球儀を回して光を当てたり、色々やりそう。
 此処から此処まで旅をするなら、海から行くのか陸伝いだとか、ルートをあれこれ考えたりも。



 前のブルーは地球を抱くフィシスを攫って来たほどに本物の地球に焦がれたけれども、本物しか見てはいなかったけれど。
 ハーレイの方は同じ地球でも、地球儀があれば楽しめるタイプ。此処へ行ったらどんな風かと、この場所はどんな気候だろうかと。赤道に近い場所なら暑くて、北極や南極の近くは寒くて。
 けれど一概にそうだとも言えず、海流などでも気候は変わる。地形も大きく影響する。高い空を吹く風によっても異なる、信じられないような場所でも雪がドッサリ積もったりもする。
 前のハーレイなら地球儀でそれを考えただろう、どの地域が温暖で過ごしやすくて、どの地域が人を寄せ付けない厳しい寒さや暑さに見舞われる場所なのかと。
 自分が住むなら此処だろうかと想像してみたり、この川を遡れば何処までゆけるかと指で辿って確かめてみたり。
 地球儀の捉え方がブルーとは違っていたろう、航海図を見るような感覚で眺めただろう。いつか行きたい星の姿を、同じ夢でもブルーよりももっと現実に近い感覚で。
 其処へ行ったら何があるのか、どうなるだろうかと、さながら冒険や探検のように。
 遠い昔に航海図だけを頼りに海へ漕ぎ出し、まだ見ぬ世界の果てに向かって旅をしていた船乗りたちのように。それは確かにある筈なのだと船を進めた者たちのように。



 ハーレイにとっての地球儀は航海図だったのだろう、と考えたブルーだけれど。
 前のハーレイが地球儀を持っていたなら、いつか行くべき星へと導く航海図よろしく夢の場所を探し、其処へと思いを馳せていただろうと思ったけれど。
「あれっ、ひょっとして、前のぼくたちが生きてた頃って…」
 航海図っていうのも無かったのかな、昔の船乗りが使っていた地図みたいなの。
 地球の海を船で旅する時に使っていたヤツ、あれもシャングリラには無かったかな?
 あれもハーレイが好きそうだけれど、ぼくは見た覚えが一度も無いから…。
 前のハーレイだったら地球儀を見ても、航海図みたいな感覚だったかと思うんだけど…。
「そうだろうなあ、前の俺が地球儀を持っていたなら、お前が言ってる通りだろう」
 シャングリラで飛ぶなら海の上にするか、陸の上を飛ぶか。それだけで充分楽しめていたな。
 同じ陸でも何処を飛ぶべきか、ルートを幾つも考えてみたり。
 航海図を見るような気分だっただろうが、その航海図。そいつも地球のは無かったんだ。何処を探しても無い時代だった、シャングリラに無かったというだけじゃなくて。
「…なんで?」
 何処にも無かったなんて、どうして?
 シャングリラだけならまだ分かるけれど、人類の世界にも無かったなんて…。
 地球儀も航海図も無かっただなんて、どうしてそういうことになったの?
「マザー・システムだ」
 あれが隠蔽していたわけだな、本物の地球に纏わる全てを。
 かつて地球にはこういう国が存在したとか、こんな文化があっただとか。断片になったデータは残してあったが、纏め上げられると些かマズイ。
 そいつが存在していた場所を探しに行かれちゃマズイんだ。あの通りに死の星だったしな。
 だから全体像をぼかした、想像をかき立てる地球儀や航海図の類を消した。
 手掛かりが無けりゃ、地球は漠然と青い水の星で、人類の聖地で夢のままだからな。あの時代の人間は物事を深く考えないよう、真実を追究しないようにと仕向けられたのさ。
 地球は何処かにあればいいんだ、どんな星かは知る必要も無いってな。



 ぼかされていたという地球の情報。
 マザー・システムがそのように仕向け、地球そのものを表す地球儀はおろか、地球の海を旅するための航海図すらも消してしまった。
 かつて地球にあった歴史や文化は断片と化して、マザー・システムが統制していた。必要以上のものを引き出されぬよう、人が興味を持たぬよう。
 地球という星に纏わる何もかもがぼかされ、真実は誰にも知らされなかった。
 本当の地球を知る一部のエリートや、地球の再生を託された技術者たちを除けば、誰一人として掴めなかった地球の全貌。それを知ろうとも思わないよう、巧みに構築されていた世界。
 地球儀を回して、地球のどの部分が今は昼間かと考える者はいなかった。
 航海図を眺めて海の渡り方を考える者もいなかった。
 それがおかしいとも気付きはしないで、地球儀や航海図の存在にさえも気付かないままで。



「なんだか酷いね…」
 何もそこまでしなくても、と溜息をついたブルーだけれど。
「そいつがマザー・システムってヤツだ。お前が見ていた地球もだろう?」
「えっ?」
「フィシスの地球だ。…前のお前が憧れ続けた、あの映像の地球だ」
 ソル太陽系の惑星の配列も本物とはまるで違っていたが…。その段階で既に怪しいんだが…。
 具体的には地球の何処へ降りる映像だったのか、と問われてみれば。
 「俺は降りる所まで見てはいないが、お前は降りたか?」と尋ねられれば、降りなかった地球。
 フィシスの記憶で辿る地球へと飛んでゆく旅は、青い海に浮かぶ大陸で終わり。
 あの大陸へと降りるのだな、と思う辺りで旅は終わって、一度も地上には降りられなかった。
 前の自分は全く不思議に思いはしなくて、そういうものだと自然に納得していたけれど。
 フィシスの生まれを知っていただけに、大陸には地球の中枢があって、それゆえに情報がガードされていると、これ以上先には進めないのだと素直に信じていたのだけれど。
 目の前のハーレイにそれを話したら、きっとあそこがユグドラシルだろうと話してみたら。



「その、大陸。…本物だったか?」
 俺は何度も見てはいないし、記憶も曖昧になってるんだが…。
 前のお前が見ていた大陸、本当に本物の地球のだったか?
「本物でしょ?」
 だってフィシスの記憶なんだよ、マザー・システムが植え付けたんだよ?
 本物と違って青い地球でも、あの大陸の場所にユグドラシルがあった筈だと思うんだけど…。
「間違いなく…か?」
 どの大陸だとハッキリ言えるか、今のお前には歴史で習った知識も入っている筈なんだが。
 ユグドラシルが何処にあったか、どういう名前の大陸だったか知っているよな?
「えーっと…?」
 考えてみれば怪しいようにも思える大陸。
 前の自分が地球の中枢だと考えた場所こそがユグドラシルで、何処にあったかは何度も習った、今の自分が。どの大陸かも、当時はどういう形で存在していたかも。
 その大陸と、フィシスの記憶の中で目指した大陸。
 似ていたようにも思うけれども、微妙に違っていた…かもしれない。
 青い海に浮かぶ大陸は鮮やかだったけれど。
 前の自分は魅せられたけれど、そんな形の大陸は無かったと言われれば否とも言えはしなくて。
 やはり偽物かと、騙されたのかと考え込んでいたら。



「今となっては本当か嘘か、確かめようもないわけだが…」
 フィシスとキースの地球の映像、データが残っていないからなあ…。
 そうだと断言出来はしないが、俺は偽物だと思っている。フィシスの記憶の中の大陸。
 あれもぼかされていたのだろう、とハーレイは言った。
 偽の情報だと、本物の地球とは違うものだと。
「…そこまで酷いの?」
 自分たちが作り出したフィシスに入れてあった地球まで嘘なの、まるで嘘なの?
 確かに地球は青かったけれど、それだけでも酷い嘘なんだけれど…。
「そういう時代だったんだ。地球の情報はとことん隠すか、ぼかしていたかだ」
 だから地球儀なんかも無かった、前のお前が知るわけがない。
 忘れたんじゃなくて知らずに終わった、地球儀というものがあったことさえも。
「そっか…」
 知らなかったんならどうしようもないね、人類の世界にも無かったものなら。
 マザー・システムが隠したものなら、地球儀、前のぼくは知りようがないんだものね…。



 前のぼくが好きそうなものだったのに、と項垂れていたら。
 フィシスを攫うよりも前にそれがあったら、地球への夢も膨らんだろうに、と呟いたら。
「そりゃまあ…なあ? だが、無かったものは仕方ないってな」
 しかしだ、今はトロフィーにもなっているだろう?
 お前のお父さんが貰ってくるようなトロフィーが今は地球儀なんだぞ。いい時代じゃないか。
「そうだね、あれで気が付いたんだものね」
 前のぼくが地球儀を知らなかったこと、あのトロフィーのお蔭で分かったし…。
「平和な時代になったってことだ。地球の姿は見放題だし、情報も隠さないってな」
 今じゃ地球儀は自由に買えるし、昔の地球のも今の地球のも好きに選べる。航海図だって専門の店に出掛けて行ったら買える時代だ、昔のヤツから今のヤツまで。
「…地球儀、前のぼくに持たせてあげたかったな…」
 地球はこんな風に見えるんだよ、ってクルクル回して楽しめるように。
 フィシスに出会うよりも前の時代も、地球儀があれば毎日が充実してただろうに…。
「それはそうだが…。前のお前は地球儀さえも持てなかったが…」
 今のお前は地球に生まれて来られただろうが。
 昔の地球儀は役に立たなくなっちまったが、青い星に戻った地球の上に。



 地球儀よりも本物の地球がいいだろうが、と微笑まれたけれど。
 本物の地球が
足の下にあるぞ、と言われたけれども、でも、地球儀も気に入ったから。
 父の部屋で見た地球儀型のトロフィー、それとハーレイの話とで欲しくなって来たから。
「ねえ、ハーレイ。…結婚したら地球儀、買ってくれる?」
 大きいのでもいいし、小さいのでも…。昔の地球のがいいんだけれど…。
「いいな、航海図も買うか」
 そっちも昔の地球のヤツだな、帆船で航海していた頃のを。
「航海図、やっぱりハーレイの趣味なの?」
「レトロっぽいのが好きではあるな」
 うんと昔の古めかしいのが好きなんだ。俺の記憶が戻る前から、何故だか惹かれた。
 レトロ趣味なのか、キャプテン・ハーレイの血が騒いだのかは謎だがな。



 結婚したならそういう部屋を作ろうか、とウインクされた。
 大きな地球儀に航海図。それが似合うよう、書斎を模様替えでもするか、と。
「だったら、ハーレイの部屋風に!」
「はあ?」
 俺の部屋は元からハーレイの部屋だが、それをどうすると?
「違うよ、キャプテン・ハーレイ風の部屋だよ」
 シャングリラの頃のハーレイの部屋。あの部屋、ぼくは大好きだったし…。
 それに航海図も地球儀も似合いそうだから、と提案したら。
「ふむ…。そういうのも悪くはないな」
 もう羽根ペンはあるわけなんだし、他の部分を前の俺風に模様替えする、と。
「素敵でしょ?」
 いいと思うよ、前のハーレイの部屋みたいなの。
 航宙日誌は並んでないけど、代わりに古典の本をズラリと並べるんだよ、棚一杯に。
 そして壁には航海図を飾って、地球儀は何処に置こうかなあ…。
 小さいのだったら机の上だし、床に置くような大きい地球儀も似合いそうだよね。



 前の自分が生きた頃には無かった地球儀、無かったという航海図。
 もしも覚えていたならば。
 ハーレイと結婚する頃までそれを覚えていたなら、書斎の模様替えもいい。
 昔の地球を模した地球儀に、帆船時代の航海図。
 それを使ってハーレイと二人で地球の旅に出よう、昔の地球へ。
 SD体制が敷かれるよりも前、滅びてしまう前の古い地球。
 其処を二人で旅してみよう。
 この辺りはどんな国だったのかと、気まぐれに地球儀を回してみて。
 其処へゆくなら航路はこうだと、此処からゆこうと古い航海図を二人で眺めて…。




          地球儀・了

※前のブルーとハーレイが生きた頃には、何処にも無かった地球儀。それに地球の航海図も。
 フィシスの地球さえ、偽物だったみたいです。けれど今では、レトロな地球儀を飾れる時代。
 拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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