シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(ふふっ、大好き…)
ハーレイのことが一番好き、とブルーは心で呟いた。
明日はハーレイが来てくれる土曜日、待ち遠しくてたまらなかった日。今日も学校で会って挨拶出来たけれども、立ち話も少ししたけれど。学校では「ハーレイ先生」だから。
(いくら好きでも、ハーレイ先生…)
恋人同士の会話は出来ない、「好きです」と口にしてみた所で周りから見れば「好みの先生」。他の先生や友達が聞いていたって、恋人とは思わないだろう。お気に入りの先生なのだな、と思う程度で、「守り役なのだから、仲良くなるのも当然」くらい。
同じ「好き」でも意味が全く変わる学校、恋人だとはとても言えない学校。ブルーもそうだし、ハーレイの方も同じこと。あくまで先生、教師と生徒。
そんなわけだから楽しみな週末、両親には内緒でも恋人同士で会える週末。「ハーレイ先生」と呼ばずに一日を過ごせる、学校のある日と全く違って。
平日でも仕事が早く終わればハーレイは訪ねて来てくれるけれど、恋人同士で語らえるけれど。その時間よりも前の時間は学校、「ハーレイ先生」と呼ばねばならない学校。
その学校が無いのが週末、もう楽しみでたまらない。何を話そうかと、どんな話が聞けるかと。
(大好きだよ…)
ハーレイのことが、と心の中で繰り返す。
早く土曜日にならないものかと、明日の朝が来てくれないかと。
お風呂上がりにパジャマ姿でベッドに腰掛け、何度も繰り返す「大好き」の言葉。眠るには少し早い時間だから、恋人を思い浮かべながら。
(ハーレイが好き…)
誰よりも好きで、一番好き。ハーレイが好きで、誰よりも好きで…。
今日も何度も呪文のように唱えるけれども、数え切れないほど繰り返した言葉。心だけでなく、声にも出した。眠る前のひと時、ベッドにもぐって囁くように声にしてみたり、ハーレイに向けてぶつけてみたり。
「好きだよ」と「一番好きだよ」と。「ハーレイのことが一番好き」と。
言わずにはとてもいられないから、「好き」が溢れて止まらないから。この地球の上で再会した日から想い続けて、心で唱えて、ハーレイにも「好き」と想いを伝えて…。
そう、ハーレイが一番好き。誰よりも好きで、ハーレイが一番。
前の生でも。
ソルジャー・ブルーだった頃にもそうだった。ハーレイが好きで一番だった。
誰よりも愛した大切な恋人、ハーレイだけを想い続けて…。
(あれ…?)
ふと引っ掛かった、ハーレイへの想い。遥かな昔に前の自分が持っていた想い。
今と同じに「好きだよ」と言っていたけれど。
十四歳の自分よりも年上だった分だけ、大人だった分だけ、「好き」の他にも言い方はあって、「愛している」とも繰り返したけれど。
ハーレイが好きだと、愛していると何度も唱えた前の自分は…。
(…ハーレイだけ…?)
心から好きだと思っていたのはハーレイだけ。前のハーレイただ一人だけ。
ゼルやヒルマン、ブラウにエラ。他の仲間も好きだったけれど、大切に思っていたけれど。
白いシャングリラの中でハーレイは特別、たった一人きりの恋人で心から愛した存在。
躊躇うことなく言うことが出来た、「君だけだよ」と。
自分にはハーレイ一人だけだと、ハーレイだけを愛していると。
他の仲間も大切だけれど、誰か一人を選ぶのだったら迷うことなくハーレイだった。心の底から愛していたのはハーレイだったし、他には考えられなかった。
ゼルもヒルマンも、他の仲間も嫌いではなくて、好きだったけれど。
誰が一番大切なのかと、愛しているかと尋ねられたら、「ハーレイだよ」と答えただろう。
誰も尋ねはしなかったけれど、前の自分に恋人がいたことも誰も気付きはしなかったけれど。
それでも選ぶならハーレイだったし、ハーレイだけを愛して恋した。
ところが、今の小さな自分。
ハーレイに「好き」を伝える言葉に、「愛している」が似合わない自分。
もしも「愛してるよ」と口にしたなら、ハーレイは「俺もだ」と応えて笑顔を返して、口付けの代わりに頭をクシャリと撫でてくれるか、パチンとウインクしてくれるか。
とにもかくにも子供扱い、それは間違いない自分。
前の自分よりも幼くてチビで、それでもハーレイを好きな気持ちは前のままだと思ったけれど。
好きな気持ちは負けていなくて、前と全く同じつもりでいたけれど。
(…ぼく、パパもママも…)
大好きで特別な存在だった。父も母も好きで、友人たちとは比べようもない。
例えて言うなら友人たちは前のゼルやヒルマンたちのようなもので、大切だけれど一番とまでは思わない。どちらか選ぶなら両親が先で、友人たちはその次でいい。
(パパもママも好きだし…)
遠い所に住んでいるから滅多に会えない祖父母たちも。
両親に祖父母、友人たちよりも好きで特別、片手では足りない「大好き」な人たち。「好き」と心から言える人たち、大勢の「好き」で特別な人。
そうした中でも、ハーレイのことが一番好きだと本当に言っていいのかどうか。
前の自分がそう言ったように、「ハーレイだけだよ」と何の躊躇いもなく言えるのか。
(ハーレイのこと、パパよりもママよりも…)
好きとは言えるかもしれないけれど。
いつかは両親の許を離れて、この家を出てハーレイの家へとお嫁に行くのだけれど。
好きだからこそハーレイの家に行こうと思うし、そうしようと決めているけども。その日が早く来ないものかと待って待ち焦がれる日々だけれども。
(ハーレイだけだよ、って…)
前の自分のようには言えない、「ぼくにはハーレイだけだよ」とは。
父も母も要らないなどとは言えない、ハーレイだけだと言い切れはしない。
ハーレイの家にお嫁に行っても、ハーレイと暮らすようになっても、きっと両親への「好き」は消えはしなくて、会いたくなるに違いない。
離れて暮らしている祖父母に会いたくなるように。通信機越しに声を聞いただけで嬉しくなってしまうみたいに、両親の家を離れても、きっと。
声を聞こうと通信を入れたり、休日には会いに行こうとしたり。
そんな自分が頭に浮かぶし、ハーレイだけだとはとても言えない。ハーレイだけでは「好き」が足りない、好きな人たちが足りてはくれない。
父も母も好きで、祖父母たちも好きで、ハーレイだけを選べはしない。
前の自分なら「ハーレイだけだよ」と心の底から言えたのに。本当にそうで、前の自分が心から愛して「好き」と言えたのは前のハーレイだけだったのに。
ハーレイだけだと言えはしなくて、選ぶことさえ出来ない自分。
父も母も好きで、祖父母たちも好きで、ハーレイだけだと宣言出来ないのが自分。
ハーレイのことは好きだけれども、前の自分と同じつもりでいたけれど。
(…ぼく、薄情になっちゃった?)
両親や祖父母が好きな人の中に入ってしまって、ハーレイだけを選べない。迷うことなく一人を選んで、他は要らないとはとても言えない。
両親に祖父母、それにハーレイ。大好きな人が多すぎる。その人数分で「好き」を分けるなら、ハーレイの分の「好き」はどのくらいになるのだろう。ハーレイへの愛はどれほどだろう。
「好き」の量はきっと前の自分と同じだろうから、心の大きさは同じだから。
同じ量の「好き」を何人分にも分けるからには、前の自分よりも薄いかもしれないハーレイへの愛。考えるほどに薄くなりそうで、ハーレイへの愛が足りなさそうで。
(どうしよう…)
大変なことになってしまった、とショックだけれども、それが真実。
どんなに好きでも「ハーレイだけだよ」と言えなくなってしまった自分。薄情な自分。
ハーレイが知ったら呆れるだろうか、それとも失望するのだろうか。
「俺のブルーは変わってしまった」と嘆くのだろうか、それは悲しそうに顔を歪めて。見た目は前と同じだけれども、中身が変わってしまったと。
(ハーレイもきっとビックリするよね…)
そうは思っても、これは本当のことだから。自分に嘘はつけないから。
ハーレイには真実を打ち明けなくてはいけないだろう。包み隠さず、本当のことを。
好きでたまらないハーレイだからこそ嘘はつけない、騙し続けるわけにはいかない。ハーレイのことが一番好きだと、ハーレイだけだと心にもないことを告げられはしない。
(…嫌われちゃうかもしれないけれど…)
それでもハーレイには言わねばならない、「ぼくは薄情になっちゃった」と。
こんなぼくでもかまわないのかと、ハーレイだけを選べないぼくでもいいだろうか、と。
薄情になってしまった自分。ハーレイだけだと言えない自分。
そんな自分の姿を知ったらハーレイはどう思うだろうか、と心配しながら眠りに就いて。
土曜日の朝、目を覚ましても忘れないままで覚えていた。薄情になった自分のことを。
(…ハーレイのことは好きなんだけど…)
好きでたまらなくて、今日が来るのが楽しみで待っていたのだけれど。
その「好き」の気持ちが、ハーレイへの愛が前の自分よりも足りなさそうで。どう考えてみても足りそうになくて、それがなんとも情けない。薄情になってしまったなんて。
(ホントにハーレイが好きなのに…)
ハーレイの姿を、声を想うだけで胸がドキドキするというのに、足りないらしい自分の愛。
顔を洗って着替えを済ませて、朝食を食べにダイニングに行けば、「おはよう」と笑顔を向けた両親。母はトーストを焼いてくれたし、父は「美味いぞ」とソーセージを一本分けてくれた。普段だったら有難迷惑な父のお裾分け、けれども今日は父の愛だと分かるから。
自分を愛してくれる両親、いつでも丸ごと受け止めてくれる優しい両親。
やっぱり言えない、「ハーレイだけ」とは。
前の自分には言えた言葉が、「ハーレイだけだよ」と躊躇いもなく紡げた言葉が。
(ぼくって、薄情…)
こんなことになってしまうだなんて、と部屋に戻っても溜息ばかり。
掃除をしても心は晴れずに、ハーレイはなんと言うだろうかと心配する内にチャイムが鳴って。
そのハーレイが部屋にやって来て、テーブルを挟んで向かい合わせで座って間もなく、正面から瞳を覗き込まれた。鳶色の瞳で。
「どうした、今日は元気がないな」
具合が悪いようにも見えないんだが…、と訊かれたから。
「分かる…?」
ハーレイにも分かるの、元気が無いこと。
身体はちっとも悪くなくって、何処もなんともないんだけれど…。
悪い所があるなら、気分。ぼくの心がうんと重たくて、軽くなってはくれないんだよ…。
あのね、と一息に打ち明けた。昨晩からの心配事を。
黙っていては駄目だと決めたし、同じ言うならハーレイの反応を見ながらではなくて一気にと。
大好きなハーレイが溜息をつくのを聞きたくはないし、顔が曇るのも見たくない。そんな反応があれば心が鈍って途中で口を噤んでしまうか、ポロリと涙が零れるか。
そうならないよう一息に話した、ハーレイが何も言えないように。口を挟む暇も無いように。
一気に言い終え、それからようやくハーレイの顔を見上げてフウと大きな吐息をついた。
「ぼく、薄情になっちゃったみたい…」
言った通りだよ、パパとかママとか、お祖父ちゃんとかお祖母ちゃん…。
ぼくが大好きで大切な人たちが何人も出来て、「好き」をみんなで分けてしまうから…。好きな気持ちを分けちゃってるから、ハーレイへの愛が足りないんだよ。前のぼくより。
今のぼくの愛は前のぼくよりずっと少なくて、薄情みたい。ハーレイのことは好きだけど…。
こんなのでもいいの、こんなぼくでも?
前より薄情になったぼくでも、ハーレイはぼくを好きでいてくれる…?
きっと直ぐには返らないと思った答えだけれど。
ハーレイが何と答えるにせよ、腕組みをして考え込むのだとブルーは思っていたのだけれど。
「当たり前だろうが、俺の気持ちは変わらんさ。それにお前は薄情になってしまったと言うが…」
それが普通だ、と伸びて来た手で頭をポンと叩かれた。ポンポンと軽く。
「…普通って?」
ホッと安心したブルーだけれども、ハーレイの気持ちは変わらないと聞いて安心したけれど。
普通というのは何のことだろうか、意味が全く掴めない。
キョトンと優しい恋人を見たら、「分からないか?」と穏やかな笑顔。
「今の時代はそれが普通だと言ったんだ。前のお前が生きた頃とは事情が全く違うってことだ」
前の俺たちには親の記憶が無かっただろうが。自分を育ててくれた親たちの記憶。
成人検査で失くしちまって、何度も人体実験を受けた間にもう完全に忘れちまった。どんな顔をした人たちだったか、どんな思い出があったのかも。
ついでに本物の親でもなかった、機械が選んだ養父母ってヤツだ。
忘れてしまったことは辛くても、思い出せないことがいくら悲しくても、記憶に無いものは仕方ない。どんなに探しても出ては来ないし、血の繋がった親戚ってヤツもいやしない。
機械が組み合わせていた家族だからなあ、従兄弟もいなけりゃ祖父母だっていない。あの時代はそういう時代だったし、失くした記憶を取り戻したとしても、親の方ではどうだったか…。
育てた子供を覚えていた親も多かっただろうが、義務は果たしたと忘れた親もいた筈だ。
そんな時代に生きていたのが前のお前だ、親の記憶がまるで無かったから、親への愛ってヤツが無かった。覚えていない人間を愛せやしないし、そっちに向ける愛も要らない。
だからこそお前は言えたんだ。愛しているのは俺だけだ、とな。
前のブルーには特別な愛を向ける相手がいなかった、とハーレイは言った。
誰もいなかったから前のハーレイにだけ愛を向けられたと、それだけのことだと。
「お前、ゼルのことを覚えているか?」
「えっ?」
急にゼルの名を持ち出されてブルーは驚いたけれど。
「若い頃のゼルだ、俺たちと出会って直ぐの頃のゼルと弟のハンス」
思い出せるだろう、ハンスを助け損なった事故は。
あの後、ゼルはずいぶん落ち込んでいただろうが。助けられなかったと、どうしてハンスの手を離さずに掴んでいられなかったのかと。
「うん…。あの時、ぼくのサイオンが残っていれば…」
ほんの少しでも残っていたなら、他のみんなの手が届く所までハンスを引き上げられたのに…。
そしたらハーレイやヒルマンたちの力で、ハンスを引っ張り上げられたのに。
「…その話は今は置いておいて、だ」
ゼルが俺たちよりも酷く落ち込んだ理由は何故だと思う?
仲間を目の前で亡くしたっていうのは、俺もお前も他のヤツらも全く同じだったんだがな?
俺たちが気持ちを切り替えた後も、ゼルは長いこと沈んでいた。
どうしてゼルだけが沈んでいたのか、その理由、ちゃんと分かっているか?
「えーっと…」
ハンスはゼルの弟だったし、そのせいだよね?
「そうだ。ゼルとハンスは兄弟だったからだ」
俺たちはハンスと何のゆかりも無かったわけだが、ゼルだけは違った。
一緒に育った弟を亡くしちまったから、心に残った傷の深さが桁違いだったということだな。
SD体制の時代に血の繋がった家族は無かったけれども、ゼルとハンスが育った頃には養父母が望めば複数の子供を同時に持つことが出来た。二人育てていた者もいたし、三人なども。
もちろん成人検査の年齢になれば、年かさの子から親元を離れて行くのだけれど。
それでも微かな記憶は残るし、大人の社会に出てから再会することもあった。血の繋がりが無い兄弟とはいえ、再会したなら家族は家族。そういった偶然がまだあった時代。
ゼルとハンスもその中の一組、しかも二人ともミュウだったがゆえに劇的に出会えた。炎の中で再会出来た。先に成人検査を迎えて大人の社会へ旅立った筈のゼルと、その弟が。
アルタミラではミュウは一人ずつ檻に入れられ、顔を合わせる機会は無かった。ゼルもハンスも自分たちが同じ境遇にいるとも知らずにあの日まで生きた、アルタミラが滅ぼされた日まで。
前のブルーとハーレイが二人で開けて回ったシェルター、その中のどれにゼルがいたのか、弟のハンスは何処にいたのか。
今となっては分からないけれど、彼らは逃げる途中で出会った。ゼルはハンスを、ハンスは兄の姿を見付けた、燃え上がる地獄の炎の中で。
そうして懸命に二人で走って、自由の世界へ飛び立つ船へと乗り込んだけれど。
後のシャングリラへと駆け込んだけれど、それが離陸する時に起こった悲劇。閉めねばならない乗降口を開け放ったままで上昇した船、ハンスは外へと放り出された。
ゼルが必死に握り続けて離すまいとした手から離れて、燃える地獄へと落ちて行ったハンス。
再会したばかりの兄弟の絆は引き裂かれてしまった、一瞬にして。
生まれ変わってもなお、忘れることの出来ないハンス。悲しすぎた事故。
その事故をゼルは悔やみ続けた、長い長い間。シャングリラが白い鯨に改造された後も、ゼルはハンスを忘れなかった。墓碑公園に植えた糸杉を「ハンスの木」と名付けていたほどに。せっせと自分で世話をしたほどに、ハンスの木に弟を見ていたゼル。
それは兄弟だったからだ、とハーレイはブルーに語って聞かせた。機械が選んで養父母に委ねた血縁の無い二人であっても、二人は兄と弟だったと。
「同じ養父母に一緒に育てられたというだけのことで、血の繋がりが無くてもあの有様だ」
機械が作り出した家族ってヤツでも、あれだけの愛情が生まれたんだぞ。
今みたいに血が繋がった本物の家族となったら、もっと愛情は深まるもんだ。兄弟はもちろん、親ともなったら一層深い愛情が其処に生まれるものさ。
今のお前はそういう家族の中で育った、本当に血の繋がったお父さんたちに育てて貰ったんだ。
お前を愛して今日まで育てて来たのがお前のお父さんたちで、そのお父さんたちを大きく育てた人たちがお祖父さんたちということになるか…。
そのお父さんたちを要らないと言われた方が俺は驚く。俺の他には誰も要らないなどと聞いたら耳を疑うし、そんなことを言うお前は要らない。
俺だけを選べなくなってしまったと言うお前だったら、俺は大いに歓迎だがな。
その問題に気付いて悩んでしまうようなお前が好きだ、と微笑むハーレイ。
それでこそだと、それでこそ俺も好きだと言えると。
「ホント…?」
ぼくはハーレイだけを選べないんだよ、そんなぼくでも本当にいいの?
前のぼくならハーレイだけだと言えたけれども、今のぼくは…。
「本当さ。そういうお前が好きだと俺は言っただろうが」
現に俺も、だ…。今度こそお前を大切にすると、お前だけだと誓ってはいるが…。
どうなんだかな、とハーレイは苦い笑みを浮かべた。
ブルーと両親とを秤にかけたら迷うだろうと、迷わずブルーを選べはしないと。
「…秤って…?」
何の秤なの、何を量るの?
「文字通り愛情を量る秤だ、愛しているのはどちらの方か」
本当に大切に思っているのは誰なのかを量る秤なんだな、そういう例え話があるんだ。
どちらの手を離すか、どちらの命を助けるか…、というのがな。
「え…?」
赤い瞳を丸くしたブルー。物騒に聞こえる愛情の秤。
ハーレイは「ハンスの事故とは少し違うんだが…」と断ってから。
「二人が同時に高い崖から落ちそうだとか、川に落ちて溺れそうだとか。そういう場合だ」
助けに行ける人間は自分しかいなくて、片方を助ける間にもう片方は死んじまう。
そんな状況で誰を救うか、どちらの命を助けるか。
お前だったら、そこで誰を選ぶ?
俺を助けるか、俺と一緒に溺れそうになっているお母さんか。…落ちそうな方かもしれないな。
ついでに、お母さんとは違ってお父さんだということもある。
お前はどっちを助けに行くんだ、俺か、それともお母さんの方か?
どう頑張っても、どちらか一人しか助けられない。選ぶしかない。
愛情の秤の例え話とは、そういう話。
ハーレイを選べば母の命を失くしてしまうし、母を助ければハーレイが死ぬ。二人とも誰よりも大切な人で、どちらも死んで欲しくはないのに。どちらか一人など、選べないのに。
「…ぼく…」
選べそうにないよ、一人だけなんて。ハーレイかママか、どちらか片方だけなんて。
早く選ばないと助からないって分かっていたって、選ぶ代わりに泣き出しそうだよ…。
「ほらな、どっちも選べないだろ?」
愛情の秤ってヤツはそういうものだ。選べないからこその話だ。
話によっては、助けられる方が決めてしまうのもあったりするなあ…。あちらを助けろ、と川に沈んでしまう話や、崖から手を離す人の話や。
それも愛情ゆえの話だ、選ばなければならなくなったヤツを思いやっての決断なんだな。
そういった具合に愛情の深さはどのくらいかと突き付けられるのが愛情の秤だ。
どちらか一人、と追い詰められた時に、俺だけを迷わず選べるようなお前は要らない。
そんなお前に助けられても嬉しくはないし、どうして俺を助けたんだと怒るだろう。
本当に大切なものが何かも分からないようなヤツは嫌だと、嫌いだとな。
そして俺もだ…、とハーレイの困ったような笑み。
俺も全く自信が無いのだと、そういう場面でお前を選べる自信が無いと。
「おふくろとお前、どちらか一人だと言われたら…。俺はいったい、どうするやらなあ…」
お前には悪いが、直ぐに助けてやる自信が無い。
落ちそうだと悲鳴を上げていようが、今にも沈みそうになって溺れていようが。
「そっか…」
ハーレイでも選べないんだったら、ぼくが選べなくても仕方ないよね。
お互い様だし、助けられても、死んじゃったとしても、恨みっこなしにするしかないね。
「そういうことだな」
だからだ、今のお前が薄情だと言うなら、俺も薄情だということになるな。
おふくろかお前かを選べないんだ、前の俺ならお前だけだと自信を持って言えたのに。
大切な人間が増えてしまって、お前一人に絞れなくなってしまったからなあ…。
だが…、とハーレイに真摯な瞳で見詰められた。
一人だけに愛情を注げなくなってしまった理由は、薄情になったからではないと。
それは愛情が深くなったからだと、前の自分よりも多くの愛を知っているからこそなのだと。
「お前もそうだし、俺だってそうだ。本物の家族がいる時代に生まれて育ったからだな」
生まれた時からうんと沢山の愛情を注いで貰って、そいつに似合いの愛情の深い人間が育つ。
前の俺たちみたいに自分一人しかいないわけじゃなくて、愛情を注げる家族がいるんだ。そんな中で育って、俺の他にも大切な人が何人も出来て…。
そういうお前に愛された俺は幸せ者さ。前の俺とは比べ物にならない幸せ者だ。
「…ぼくがハーレイだけを選べなくても?」
ハーレイだけだよ、って言えるどころか、ハーレイの命がかかっているような時に、選べなくてオロオロしそうなぼくでも?
ハーレイかママか、どっちを助けたらいいか分からなくて泣き出しそうなぼくでもいいの?
「ああ。お前がお母さんを選んだとしても俺は恨まん」
ごめんね、とお母さんの方へ行っても、俺は笑顔で許してやるさ。お前が決めたことならな。
俺はお前を好きなんだからな、お前がやりたいようにするのが俺が喜ぶ道なんだ。
たとえ命を失くすとしてもだ、それでお前がお母さんと幸せに生きてゆけるなら本望だってな。
「そんなことしないよ!」
ママだけ助けて、ハーレイは死んでしまうだなんて!
逆も嫌だよ、ハーレイだけ助けてママが死んじゃったら、幸せになんかなれやしないよ…!
両方助ける、と叫んでいた。
どんなに無理をしてでもきっと、と。
無茶だと言われてもきっと助けると、命懸けでやれば出来る筈だと。
「やってみせるよ、前のぼくなら絶対に出来たことなんだから…!」
今のぼくでも出来る筈だよ、死に物狂いで頑張れば、きっと…!
ハーレイもママも助けてみせるよ、メギドを沈めた時に比べれば、絶対にマシな筈だから…!
「そう来たか…。うん、間違いなく俺のブルーだ」
無茶をやらかしても、周りのみんなが止めにかかっても、こうと決めたら動かないんだ。頑固な所は前と同じだ、前のお前とそっくりだってな、見た目は子供でチビなんだがな。
昔と何も変わっちゃいない、と笑顔のハーレイ。
より愛情が深くなっただけだと、薄情どころかその反対だと。
「そうなの?」
ぼくは心配してたのに…。前のぼくより薄情なぼくになっちゃった、って。
これじゃハーレイに嫌われちゃうかも、って思ったくらいに好きな人が沢山で選べなくって…。
「心配は要らん。そいつは幸せな悩みってヤツだ」
今のお前には好きが一杯ありすぎるんだな、だから悩んでしまうんだ。
俺だけだと決めてかからなくても、お父さんやらお母さんやら、お祖父さんやら。
誰が一番大切だろう、と考える方が間違ってるのさ、それは決めようが無いんだからな。
決めようが無いから愛情の秤の話があったりするんだ、決められるんなら要らん話だ。
余計な心配をしなくてもいい、と額をピンと弾かれた。
そんな悩みを抱えてしまうほど幸せな今のお前が好きだ、と。
「いいか、俺が一番でなくてもいい。俺だけでなくてもかまわない」
うんと沢山、愛して、愛されて、幸せに育て。
お父さんも、お母さんも、お祖父さんやお祖母さんたちも。好きが沢山でいいじゃないか。
前のお前には好きと言おうにも、前の俺しかいなかったんだしな。
「でも…」
ハーレイだけって言えないだなんて、ハーレイは寂しくなったりしない?
前のぼくなら「ハーレイだけだよ」って、何度言ったか分からないのに…。
「それなんだがな…。お前、いつかは嫁に来るんだろ?」
俺の所へ。今の所は俺が一人で住んでる家へ。
「うん」
早く結婚したいけれども、当分は無理…。十八歳にならないと結婚出来ないし…。
「その、結婚。いつになるかはまだ分からないが、その時、お前は選ぶんだ」
お父さんたちよりも、俺の方をな。
この家を離れて俺の家に嫁に来るってことはだ、俺を選んだってことになるだろ?
「あっ、そうか…!」
そうだね、ハーレイの方を選んだからこそ、ハーレイの家にお嫁に行くんだものね。
パパとママの方を選ぶんだったら、ぼくはお嫁に行ったりしないで上の学校に行くだとか…。
ハーレイと結婚しない道だって、きっと幾つもあるんだろうしね…。
「ほらな? だから心配なんかは要らないってな」
俺を選べないと悩まなくても、いずれは選ぶ日がやって来るんだ。
愛情の秤なんかじゃなくって、ごくごく自然な形でな。
俺はのんびり待つことにするさ、前のお前よりも愛情が深い、今のお前に選ばれる日をな。
しかし…、とハーレイに付け加えられたこと。
俺を選ぶ日が来たとしたって、お母さんたちを忘れるなよ、と。
「いいな、俺の家でどんなに幸せになっても、お母さんたちを忘れちゃいかん」
たまにはきちんと顔を見せてだ、一緒に飯を食ったりせんとな?
「うん…。言われなくても、きっとそうすると思うけど…」
パパやママの顔だって見たくなるだろうし、声だって聞きたくなるだろうし。
今だってハーレイだけを選べないから悩んでたんだよ、パパとママにも会いたくなるよ。
「よし。…俺もお前に付き合ってやるから、二人で顔を出そうじゃないか」
この家に来たなら、俺と二人でキッチンに立って、お母さんたちに御馳走を作るとか。
そういうのも悪くはないと思うぞ、俺が得意の料理を作って、お前は手伝い。
親孝行って言葉があるだろ、今はそいつが出来る時代だ。
庭の手入れを手伝うのもいいな、芝生を刈ったり、掃除してみたり。
今の時代は前の俺たちが生きた時代とは違うんだから…、と言われたから。
あの頃は無かった親孝行が出来る時代で、本物の家族と暮らせる時代。
そういったことを考えてみれば、どうやら自分は薄情になってしまったわけではないらしい。
愛情を注いでくれる人が沢山、好きが沢山。
だから選べない、ハーレイだけだと言えない自分。幸せに囲まれて育った自分。
そうして両親の家で育って、いつかハーレイを選ぶ日が来る。
ハーレイを選んで家を出てゆく、結婚式を挙げてハーレイの花嫁になって。
それでも決してハーレイだけにはならないけれど。
両親も祖父母も、大切で大好きな人たちは絶対に忘れられないけれど。
いつか選ぼう、ハーレイと生きてゆく道を。
ハーレイだけとは言えないままでも、手を繋いで二人で歩いてゆく道を…。
大好きの順番・了
※前のブルーなら、一番大切な人は、もちろんハーレイ。けれど今では、本物の両親が。
一人だけを選ぶのは無理で、それはハーレイも同じ。薄情ではなく、幸せだからこその悩み。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv